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Act.44-2 白鳥の歌

少女たちの諍いを視たあとは、男たちのドラマを視ていこう。

OP明けはダークキングダム城内の衛の部屋である。苦しみ悶える衛を
肩に負いながらゾイサイトが問う。

マスター、なぜかたちだけでもベリルに従わなかったんです。このまま
では、命が……

それは視聴者も感じる疑問である。ベリルとの約束を破ったことで衛が
得られたのは、ほんの僅かな間うさぎといられる時間が増えたことだけ
である。その僅かな時間に、命を棒に振るほどの価値があるのかという
のは、当然問われてよい疑問だろう。

そしてこの疑問は、それを不自然に感じるという意味のものではなく、
衛の真意を具体的なセリフによって聞いてみたい、という欲求を前提と
した修辞的な疑問である。

普通、この場合のように命がかかっているのなら、問題になるのは何が
したいかではなく、何をするべきかという観点である。どうしてもオレ
たちはあのときの衛にベリルとの約束を破る「必要があったかどうか」
を問題にしてしまいがちである。

その観点で視れば、そんな「必要などない」のは明らかであって、それ
Act.48から遡って命を絞り出すことでクインメタリアを吸収するため
の作戦と視るのは違うだろう。前回ラストの衛の破約が計算尽くのもの
であったとしたら、うさぎはそのダシに使われたことになる。それでは
前回ラストの情動の組立が成立しない。

この情動を出発点にする以上、衛の破約は現実的な打算に基づくもので
はなく、熱い感情に基づくものであり、その感情の発露を是とする明確
な信念に基づくもの
であるべきだ。

ゆえに、オレたち視聴者は漠然と衛の破約を是認しながらも、衛がいか
なる信念の下にそのように行動したのかを、本人の口から聞きたがって
いるのである。

結果的にゾイサイトの翻意を促す衛の信念の表明は、このような欲求に
応えるものである。だが、一旦はゾイサイトが「マスター以外の何もの
か」を犠牲に主の助命を乞うためプリンセスを襲撃するという「過ち」
を犯さなければ、マスター大事という通常のゾイサイトの立ち位置から
の回心と自己犠牲が効いてこない。

それゆえこの冒頭のシーンでは、未だ衛の真意は明かされない。直後の
場面はジェダイトとゾイサイトの立ち位置の対照、そしてクインベリル
の心情を余すところなく剔抉して見事な筆致で描いているので、ここに
再録して詳しく視てみよう。

物思いに耽るベリルにオーバーラップして前回ラストの回想が描かれ、
ベリルが独語ちる。

どうやっても、エンディミオンの心は手に入らぬ。あの頃のように……
やはり命を…

このセリフには、たとえば前回のうさぎの「クインベリルってさ、衛の
こと好きなんだよね。だったら、何であんなことするんだろう。ひどい
」というセリフが響き合っているし、「プリンセスが心をとるなら、
妾は命を……
」というセリフも木霊しているだろう。そして遠くAct.37
の「あの頃おまえは、すべての象徴だった。権力、富、幸せ、美しさ。
欲望を満たすすべてがそこにあった
」というセリフもまた。

そしてこのセリフには、プリンスとプリンセスが口づける様を目にして
狂おしく面を逸らす若き日のベリルの姿が被っている。クインベリルが
衛を語る際、常に「手に入れる」「自分のものになる」という言い回し
を用いることには注意が必要である。「愛されたい」とは一度も口にし
ていないのだ。

このことから、ベリルのエンディミオンに対する執着は、この二人の間
の二者関係に基づく感情ではなく、ベリル個人の内的な欠落を埋めると
いう動機に基づく、自己完結的な欲望ではないか
ということが予想され
るだろう。

クインベリルの頭髪が赤いのは、原作やアニメ版からの決め事であって
デザイン上のアクセントという以上のどんな意味があるのかはハッキリ
描かれていない。だが、この作品において彼女の若き日を描いた場面で
は、明確に「赤毛」として意味附けられているように思えてしまう。

欧米的な文脈では、赤毛とは「不器量な少女」のインデックスである。
過去世のベリルを演じているのはどうも有紗らしいので、「不器量」と
いうのは語弊があるだろうが、顔がぼかされているのは役者を隠すため
ではなく、おそらく、過去世のベリルは褒められた容姿ではないという
ほのめかしではないかと思う。

クインベリルにとってエンディミオンは手に入れるべき欲望の対象なの
である。「権力、富、幸せ、美しさ」という、ベリルが手に入れたいと
切望するものの象徴なのである。裏を返せば、それらは過去のベリルが
自分の手中にないと考えていたもの
だ。

彼女が欲望の対象として挙げたものは、すべて彼女がわが手にないこと
を嘆いていたものである。だとすれば、少なくともベリル本人の認識上
では、ベリルは権力も富も幸せももっていない不器量な少女だったので
ある。その欲望からしてすでに自身の欠落を埋めるために肥大した空疎
な妄執であり、徹頭徹尾ネガティブなものなのである。

ベリルが前世に囚われた者の極北に位置附けられるのは、今現在の衛を
わが手に収めたとしても「権力、富、幸せ、美しさ」など手に入らない

からである。今の衛は、前世のプリンスエンディミオンであると同時に
一介の青年地場衛でしかない。衛がそう切り返したように、それは単に
ベリルの妄想であるにすぎない。衛の心を手にしたところで、彼が地球
国のプリンスだった頃と同じような意味はない。

あの頃とは違う」といいながら、欲望の対象であるエンディミオンも
また「あの頃とは違う」ことに気附かない。衛の心を手に入れることは
それが叶わなかった過去の欠落を埋めるための代償行為にすぎないので
あり、だからまず衛を所有することが第一義となるのである。

それが愛ではないことは、あらためていうまでもない。

ダークキングダムにクインベリルとして蘇った何ものかは、だれを愛し
ているわけでもないし、愛されたいと望んでいるわけでもない。過去の
妄執にひたすら衝き動かされている哀れな欲望の亡霊である。

この場面のベリルの独語は、型どおりの悪玉の苛立ちとしてではなく、
哀れなる者の愁嘆として描かれているのであり、ラスボスのはずの彼女
からして前世に悩まされているからには、彼女を倒しただけではもはや
物語を円満に終えることができないだろう。

このような愁嘆に暮れるベリルの背後に、ジェダイトは己の存在を主張
することなく、優しく静かに傅くのである。

ジェダイト、別に用はないぞ。

ベリルさまをお慰めしたく。ただ、わたくしにはお側にいることぐらい
しかできません。お目触りなら消えます。

かまわぬ。

前回触れたジェダイトの回心とはどのようなものだったのか。その一端
は、この短い会話に端的に表れている。ベリルによって惑わされていた
時期の四天王たちは、ベリルの寵愛を競っていたのである。甘い囁きで
惑わす蠱惑的な美女から愛されたいと、功名を競っていたのである。

しかし、この場面のジェダイトは違う。愛されたいから側にいるのでは
なく、愛しているから側にいるのである。かつて自分を裏切った女を、
どうして赦せるのか。赦せないのは、見返りを求めるからであり、愛を
求めるからである。だが本当は、だれかを愛するということは愛される
こととは無関係
なのである。信頼や裏切りは、本来愛とは無関係なので
ある。

おそらくジェダイトはそれに気附いてしまったのだ。だれかを愛すると
いうことは、自分の気持ち一つ、それ以外の何ものとも無関係であると
いう事実に。

愛を要求するからこそ、愛されないことに憤るのである。信頼に応えて
ほしいからこそ、裏切りに瞋るのである。それは、相手を愛し信頼する
ことで相手を束縛する行為である。自分の気持ち一つに向き合うなら、
軽蔑も裏切りも、愛を曇らすものではない。

これに気附いてしまったのならすでにもうジェダイトを少年と呼ぶこと
はできない。彼はもう、立派な一人の男なのである。

無償の愛に殉ずる覚悟を固めた男は、もはや一人前である。ジェダイト
のこの姿勢は、欲望という得体の知れない欠落を満たすために他者の心
を所有しようと欲するベリルの姿勢とは対極にあるものである。

どんな見返りも求めない愛は惜しみなく与える愛であり、相手から貪る
妄執とはまったく極性が違う。驕慢なベリルが「少年」の青臭い忠義を
甘んじて受けようと思ったのは、愛を感得したからであろう。それは、
ベリルには馴染みのない感情である。

用はない」と叱責するベリルに対し、「お慰めしたく」とジェダイト
は応える。用を足す、役に立つというかたちではなく、ベリルの苦衷を
察しそれを「慰めたい」と望むこと、それは思い遣りであり愛である。

ベリルが現実的に望むことに荷担するのは功名と寵愛の遣り取りだが、
その心を思い遣り辛さを取り除いてやりたいと望むのは、何を引き替え
に与えてくれるわけでもないベリルに対して直接向き合うことであり、
それはこの二人の二者関係の問題である。

孤独と欠落を癒すためのベリルの手段は決定的に間違ったものであり、
本来その欠落を埋めるのは、何かを貪欲に手に入れようとすることでは
なく、心と心以外の何ものも介在しない、このような優しい二者関係で
あるはずなのだ。

そして、この二者の間に割って入るかたちで、決然とゾイサイトが入室
し、敵の前に跪くジェダイトに険しい視線をチラリとくれてから、自身
もまたベリルの前に膝を屈する。ゾイサイトもまた、ジェダイト同様に
だれかに対する無償の想い、心と心の二者関係のゆえに、ベリルの前に
跪くのである。

クインベリル。どうかマスターを助けていただきたい。わたしの命など
替わりになるはずもないが。もし聞き届けてもらえるならば。

死んでもよいと申すか。

それで済むなら、喜んで。

妾にはそのような忠誠心、一度も見せたことのないおまえがな。

プリンセスの命。それと引き替えなら、考えてもよい。

登場時からひねこびた変人として現れたゾイサイトは、洗脳されている
間もベリルに衷心からの誠意を見せることはなかった。比較的早い時期
に覚醒したあとは、当然ベリルに敵対こそすれ忠誠心などは望むべくも
ない話である。

このセリフで明確に対比されているように、ジェダイトのベリルに対す
る感情とゾイサイトの衛に対する感情は、見返りを求めない真心という
意味で同じもの
である。

そして、マスターの命と引き替えにわが命をとの申し出は、忠義の文脈
として揺るぎがない。己の一命を犠牲にしてもだれかの命を助けたいと
願うことは、嘘偽りのない真心の表出である。だが、ベリルはその嘆願
このように言い換える。「エンディミオンの最愛の人を殺せ」と。

これによって、ゾイサイトの申し出た「主の命かわが命か」という二者
択一は、豁然と軸がずれてくる。すなわち、マスターエンディミオンの
命か心か、そのどちらかを選べと迫られたのである。要するに駆け引き
の対価を値切られたのである。自分を犠牲にすることでエンディミオン
を活かそうというゾイサイトの売り掛けは、心か命か、そのどちらかと
値切られたのだ。

無論、主の最愛の人の命を奪うのだから、それが善意から発したもので
あれ、それは重大な裏切りには違いない。ゾイサイトがおめおめと生き
長らえることなどできない。いずれにせよ彼の命は亡いのである。

わが命に替えても、と申し出た際に彼の面輪に浮かんだ微笑みは、この
非情な駆け引きによって苦悩に歪む。しかし、だれの命とも引き替えに
できない最もたいせつなものこそ、エンディミオンの命である。死んで
花実が咲くものかとはだれでも考えることで、生きていればこそこの先
の目もある。

心か命かと迫られれば、咄嗟に命をとらざるを得ないのが人情である。
ゾイサイトもまた、この苦渋に盈ちた選択においては、だれでもが選ぶ
とおりの選択肢を選んだ。彼を責めることはだれにもできない。

肩を落としてほの暗い通路を辿り、「プリンセスの命……か」と独語ち
たゾイサイトの背後からクンツァイトが現れ、「イチかバチか」と危険
な賭に出てダークキングダムを脱出する決意を語る。ジェダイトに続き
クンツァイトもまた、己の生き様にケジメを附けんと決定的な挙に出る
のである。

復讐のためにか。

わたしには、それしかない。

四天王全員の恨みを体現するかのようなクンツァイトの復讐を留め得ず
空しく去りゆく背を見守るゾイサイトは、さらに追い詰められていく。

マスターを守れるのは、やはりわたし一人か……

四天王各自の去就が図らずしてゾイサイトを追い詰める、巧みな作劇で
ある。敵に傅くジェダイト、マスターを敵視するクンツァイト、そして
行方知れずのネフライト。呪いの石が刻一刻とマスターの命を削るこの
局面において、己を除く四天王全員がマスターの許を去ったのである。

ついにゾイサイトは覚悟を決め、ピアノの旋律によって、実に三十四話
ぶりに通算二体目の妖魔を生み出す。Act.35において美奈子と結託し、
うさぎの記憶を奪わんとしたときとは状況が違う。記憶が覚醒して後は
決してプリンセスの生命を直接狙うことがなかったゾイサイトが、つい
にプリンセス殺害の挙に出たのである。

プリンセスへの刺客として放たれた妖魔が、町中を散策するうさぎの前
に現れたところで、ゾイサイトと衛の会話にスイッチする。妖魔の傍ら
に出現して「悪いが命をもらう」と言い放ったゾイサイトは、この会話
が一繋がりの場面であることを考えると、一種の分身かスタンドアロー
ンの虚像
であったようだ。

ここでゾイサイトが現状に出向くことなく衛の部屋を訪れるのは、作劇
の都合という以上に劇的なリアリティをもっている。プリンセスを殺害
することにゾイサイトの望みがあるのではなく、マスターを想うがゆえ
に裏切りと識りつつそれを行うのだ。

その結果を見届けることよりも、マスターと共にありたいと望むのは、
ゾイサイトの真意であるとともに苦悩の選択からの逃避である。プリン
セス殺害という罪障の苦しみと迷いを断ち切り、ただ一人のたいせつな
人を見つめようとするのは、劇的リアリティとして自然である。

そして、事ここに至ってようやく寡黙な主は重い口を開き、オレたちが
聞きたいと切望していた事柄に対して自らの意志を表明するのである。
そしてそれは、十分に力強いものではあっても十分に適切なタイミング
ではなかった
のである。

クンツァイトが出ていった。

ここに来た影響かもな。ときどき感じる。

ベリルの呪縛を逃れるつもりです。

オレへの復讐のためか。

そういうものをすべて、クンツァイトは背負ったのかもしれません。

わたしは、マスターとともに。

これは悪くない収め方だろう。かねてよりクンツァイトの復讐の動機を
疑問視してきた当レビューではあるが、「そういうものを背負った」と
いう表現は、それが多かれ少なかれ四天王に共通する想いであることを
ほのめかしている。

無論、事実関係のレベルで考えればやはり不自然なのだが、そのような
視点を一旦閑却すれば、四天王全員に多かれ少なかれエンディミオンが
プリンセスを選び自分たちを見捨てたことを恨む気持ちがあるというの
は、リアリティのレベルは整合していないけれども、一種のリアリティ
を具えていることはたしかである。

後附けの言い換えとしては、これが精一杯だろう。クンツァイトは全員
のネガティブな感情を一身に代弁し、ゾイサイトは変わらぬ忠節を体現
する。一種の役割論にシフトしたわけである。事実関係のレベルでは、
どう取り繕いようもないのだから、これが選び得る限りの次善である。

その会話が続く間も、マスターを想うゾイサイトの必死さが乗り移った
妖魔は、一途にプリンセス抹殺に執念を燃やしてうさぎに迫る。それを
まったく識らぬ衛は、ゾイサイトの態度に不審を嗅ぎ取ったか、冒頭に
おけるゾイサイトの「なぜ」という問いかけに応えるかたちで話題を転
ずる。

オレがベリルとの取引を蹴ったこと、納得いかないみたいだな。

いえ。ただマスターには、何より命をたいせつにしていただきたいと。

このゾイサイトのセリフには、自分がマスターの心ではなく命を選んで
しまったことの辛さを噛み締める感情がこもっている。たいせつな人に
は命をたいせつにしてほしい。生き長らえてほしい。そのような、衷心
からの願いがこめられている。

だが、そんなゾイサイトの決断を識らない衛はその言葉に反駁する。

たいせつなものに、順番なんてない。何かのために犠牲にできるような
ものなら最初から大したものじゃないんだ。そりゃオレだって死にたく
ないけどな。でも、そのために棄てられるようなものも、もってない。

オレがここへ来たのも、そういうことだ。

ゾイサイトの脳裏に、四天王を質にとられて無抵抗のままベリルに下る
衛の姿がフラッシュバックする。命はもちろんたいせつだ。だが、それ
よりたいせつなものがあるのだし、彼がもっているのは、命に替えても
棄てられないたいせつなものばかりである。

それは四天王たちであり、うさぎである。

たいせつなものに順番なんてない。つまり、うさぎがたいせつであると
同じように、四天王もまた衛にとって掛け替えのないものなのである。
そう思えばこそ、最愛のうさぎを残してまで、今このようにしてこの場
に在る
のである。

うさぎか四天王か。命か心か。それは選ぶべきではないのだということ
である。そのために棄てられるものなど、「もってない」。その想いを
無にすることが、本当に主君を想うことなのか。主君があえて拒絶した
選択を臣下が勝手に横取りし無理強いすることが、本当にゾイサイトの
望む忠義のかたちなのか。

おまえだって、そういうものがあるだろう。

わたしは…

それは棄てるべきじゃない

そう言い放って瞑目する衛。だが、衛はその言葉で決定的にゾイサイト
を追い詰めてしまったことを識らない。エンディミオン一人の命を選択
したばかりに、その想いもたいせつな人も、すべて犠牲にしようとした
ゾイサイトの行為は、主君の想いと遠く懸け離れていたのである。それ
無名の裏切りにすぎない。

心か命かと問われ命を選んでしまった男に対して、たいせつに想うもの
は棄てるべきではない、何かの犠牲にすべきではないと当の本人が言明
する。あれかこれかという究極の選択において、どちらかをどちらかの
犠牲にすべきではない
という信念が、ここに表明されたのである。

遡って、前回ラストの破約は命に比べて心が大事だから約束を破ったと
いうことではなく、命のために心を犠牲にすべきではないから破ったの
だということだ。「いま少しだけいっしょにいてやりたい」という些細
な想いがたいせつだからこそ、命か心かという二項を閑却したのだ。

さらには、うさぎか四天王かという場面において、どちらを犠牲にする
ことも許せないからこそ、四天王を想うがゆえにベリルに下り、うさぎ
を想うがゆえにベリルの約束を反古にしたのである。

うさぎか四天王か。命か心か。衛はそのどちらを選択するのか。すべき
なのか。これは設問の立て方が転倒していたのだ。

だとすればゾイサイトもまた、命のために心を犠牲にすべきではなかっ
たのである。そんな取引を呑むべきではなかったということである。そ
のような基準に基づいて二項を立てるベリルに同意してはいけなかった
のである。なぜなら、マスターの心を犠牲にすることはゾイサイト自身
の心をも殺すこと
だからである。

うさぎと四天王、命と心のどちらをも、主体的な信念の許に断固として
選ばなかった衛の命が結果的に危機に晒されるのであるなら、その主の
信念にこそ殉じ、楯となるのが真の忠節だったのだ。

かくして衛は、Act.32の覚醒の瞬間と同様に、断固として道を示した。
ゾイサイトにとってその道は、あまりにも明瞭なへと続いていたので
はあるが。

冒頭で挙げた「信念の表明」がほんの少しだけ遅すぎたばかりに、ゾイ
サイトは後戻りできない過ちに手を染めてしまったのだ。ゾイサイトの
最期を語る今回のエピソードは、このような周到な計算に基づいてゾイ
サイトを追い詰める。

うさぎのピンチに駆け附けた他の戦士たちとともに、ゾイサイトの差し
向けた妖魔と闘う最中、うさぎの前に最強妖魔が現れる。挑発的に差し
招く最強妖魔を深追いしたうさぎは、手もなくふたたびピンチに陥る。

そのピンチを救ったのは、ゾイサイトであった。うさぎの背後から振り
降ろされた剣を無言で支えたゾイサイトは、しかし呆気なく妖魔の棘に
貫かれて倒れ伏す。最後の気力を振り絞って放ったゾイサイトの斬撃を
躱すと、最強妖魔はあっさりと引き下がった。まるでゾイサイトを亡き
者とすることがその目的であったかのように

草原に屹立する丈高い樹の根に仗り、ゾイサイトはその命を奪おうとし
たうさぎに看取られながら最期のアリアを嫋々と謳い上げる。この場面
のロケーションは、生のいきれが漂う盛夏の草原から冷たいくらい清々
しい蒼穹に吸い込まれるように一筋そそり立った立木が、悲劇の忠臣の
孤高の生き様・死に様を象徴して見事の一言に尽きる。

プリンセス、許してほしい。あなたの命をねらったことを。マスターへ
の、裏切りだ。

忘れては、いけなかったのだ。わたしの、何ものにも代え難い、想い。
いかなるときも、マスターと、ともに。

クンツァイト、ネフライト、ジェダイト。もう一度、マスターの許へ。

虚空に両手を差し伸べゾイサイトの奏でる「別れの曲」は、ジェダイト
の、ネフライトの、クンツァイトの、エンディミオンの耳に、かつての
素晴らしい日々の記憶を喚起しながら、届く。

ベリルに傅くジェダイトの、無心にクラウンの床を磨くネフライトの、
不可思議な儀式に臨むクンツァイトの胸に、まぼろしのピアノの旋律が
官能的に響き渡る。「別れの曲」の俗っぽさが、卑俗な選曲であるその
ゆえの力強さをもって、この場にあるすべての人に語りかける。

このシーンは、こんなに遠くまで来てしまった男たちの分かれ道を簡潔
に素描して余すところがない。遺された男たちは、もはや疑念を容れる
余地のないたしかな絆に結ばれたイノセントな遠い過去の日々へと帰る
べくもない、別々の途を歩いてしまっているのだ。

叶わぬ夢と識りながら、己のたいせつな想いを楽の音に乗せて放つゾイ
サイトの末期は言い様のない寂寥感を湛えている。

以前ヴィーナスに不意打ちを喰らったときと同じく、緑色の石へと姿を
変えたのち、呆気なくひび割れ光の欠片となってうさぎの掌から命の炎
を零れ落とすゾイサイト。一旦石に姿を変えることで視聴者の脳裏に儚
い再生の望みをつなぎ、それがあっさりとひび割れて消えるというこの
描写は、視聴者にゾイサイトの死を鮮烈に印象附ける表現としてシビレ
るくらい効いている。

そして、ゾイサイトの末期を看取るのがうさぎであり、ゾイサイトの変
じた石を両の掌に受ける描写は、白い手袋に包まれた優しい女性の赦し
の手に抱かれて死ぬという、神話的な官能性を図らずも具えている。

これは最高の死に花だ。

最前語った少女たちの抗争の論旨を想い出してほしい。まこちゃんも、
ゾイサイトも、ともに「犯した過ちに気附く」という、同じ構造をもつ
ドラマを抱えている。だが、まこちゃんの「一人でいいんだ」「それは
前世から決まっていたこと
」と比べて、ゾイサイトに突き附けられた、
「命か心か」という二者択一の逃げ場のない緊密さはどうだろう。一つ
一つ逃げ道を塞いでいくような冷酷かつ周到に計算された語り口の巧み
さは、「わたしが間違ってました」式の雑駁さとは比較にならない。

「命か心か」の場面において、不本意ながら命を選ばざるを得なかった
ゾイサイトの選択を手放しで責められる者があるだろうか。さらにその
絶対究極の二者択一をも軽々と飛越するとともに最終的にゾイサイトを
追い詰める衛の言葉のもつ迫真性、タイミングの妙はどうだろう。

究極の二者択一の場面においてそのどちらも選ばないというのは、小林
靖子的な作劇においては一つ節である。しかし、一頃流行った「究極の
選択」的命題に対して、そのどちらでもない第三の解答を提示する能力
を具えることが、人間という生き物の「とりえ」なのである。

これを白倉はその著書において「justice 」という言葉で括る。社会的
な公正さの観点で抜け道のない絶対の二者択一を選択することこそが、
現代正義論の文脈における「justice 」であり、それに答を見出せた者
こそヒーローであるとする。しかし、この現代正義を語る一連における
白倉の論理は、かなり胡散臭く混濁している

白倉自身がスーパーヒーローの資格として最初に挙げた二者択一の超越
というテーマはなぜかその後いっさい言及されない。その後の論理展開
では「ヒーローとは二者択一を断固として選択し得る者」という最初の
例とはまったく逆の前提に立脚している。

しかし、本来的にはスーパーヒーローとは絶対の二者択一を超越する者
であるという部分にこそ重点が置かれるべきであって、古来、ヒーロー
物語を語る場面における困難は、この絶対の二者択一の設定と、それを
いかにして超越するかという智慧にあるのだ、という認識が欠け落ちて
いるのである。

人間の歴史はたしかに「あれかこれか」の絶対の二者択一を非情に選択
することによって動いてきた。だがその一方で、歴史にはそうではない
側面もたしかに存在するのである。非情な二者択一の設問に対し、第三
の途を提示すること。数少ない事例ではあれ、人間の歴史は常に第三の
途を模索する姿勢によって少しずつマシなものになってきている

ヒーロー物語が現実に対してもつリアリティとは、この絶対の二者択一
の迫真性と、それを飛越する智慧の説得力のバランスのうえに成り立つ
ものなのである。グッと気合いを入れれば「限界突破」、というお手軽
な解決が忌避されるのは、ヒーロー物語を望む者が、現実の非情さに抗
し得る力が人間にあることを信じたいと潜在的に願っているからであり
それを信じさせてくれる力をヒーロー物語に期待しているからである。

すなわち、物語におけるヒーローとは、絶対の二者択一を単に飛越する
に留まらず、その可能性を受け手に信じさせる力をもつ者なのである。

それがたとえスーパーヒーローの超能力による解決であれ、彼が彼固有
の限界のなかで智慧を働かせダブルバインドを克服するプロセスには、
ただの非力な人間にすぎない者にさえ、固有の限界のなかで現実の非情
さを飛越し得る可能性を示唆している。

それを信じることは、プラグマティックな意味で正しい。そして、白倉
の決定的な錯誤とは、ヒーロー物語が具体的な意味での正義に立脚して
いるとする認識である。ヒーロー物語は、正義それ自体ではなく、自身
の正義に対する「姿勢」を提示する文芸
なのである。

ヒーロー物語における正義の観念が当たり触りのない紋切り型なのは、
正義それ自体は具体的観念として提示すべき事柄ではないからである。
感覚的に受け入れ得る凡庸な正義しか扱われないのは、正義が「なんと
なく」印象で決まるものだからではない。物語において正義を扱う場面
で、送り手の個人的信条や思想として積極的に意味附けずに扱えるから
にすぎない。

正義それ自体を具体的に規定し主張する物語など、寡聞にして「桃太郎
海の神兵
」やそれに類するもの以外、オレは目にしたことがない。

言ってる意味、わかるよな?(木亥火暴!!)

白倉の論述は利己的遺伝子論という「おもしろいフィクション」と選ぶ
ところのない虚論である。その論理が不自然に混濁しているのは、普通
一般のヒーロー物語が当たり前に具えている構造を、存在しないもの、
欠落を批判さるべきものとして語ろうとしたゆえである。

その意味において、小林靖子の一つ節であり、今回のエピソードの重要
な転回点を成す衛の信念の表明は、不幸にして白倉的作劇思想と関連性
をもってしまった。

オレたちは、事ここに至っても未だ成立し得る精緻なドラマに喝采を贈
りながらも、いずれその感動が裏切られる悲劇を目の当たりにしなけれ
ばならないのである。

最後に、ゾイサイトをこのような魅力的な役柄に変えたいちばんの功労
者である遠藤嘉人の労を労って本稿を終えるとしよう。小林靖子の常套
的な手法である役者の芝居に合わせて役柄に肉附けしていくやり方が、
最もプラスの方向に働いたのがゾイサイトの事例だろう。

一介の演技素人であった遠藤嘉人が、当初この役柄を演じるに当たって
与えられたイメージはネガティブなものでしかなかった
。遠藤自身の特
技を織り込んだ「芸術家」という設定以外は、いわく「不健康」「引き
こもり」「根暗」と、散々なものであった。

これはおそらく、パイロット監督の田崎や小林にも具体的なゾイサイト
像がなかったからであろう。思えばゾイサイトは、アニメ版でこそ中盤
の幹部役としてキャラが立ってはいたが、原作では戦士の目覚めに絡め
て瞬殺される雑魚キャラ
にすぎず、霊的存在として四天王が再登場した
際も、クンツァイト以外はその他大勢の扱いであった。

また、CV難波圭一の怪演によってキャラが立っていたアニメ版でも、
クンツァイトにイレ上げるオネェ言葉のオカマとして、女のいやらしい
部分を誇張した滑稽なキャラ
に描かれていた。このゾイサイト像が地球
国四天王を魔に魅入られた神聖騎士団的なロマンティックなイメージで
視ている原作者の容れるところではないのは明白である。

同じく原作における描写の稀薄なジェダイトやネフライトについては、
一般的な「美少年」「美青年」というわかりやすい位置附けが可能だが
ゾイサイトに関してはこのようなわかりやすいキーワードがない。

つまりゾイサイトという存在は、アニメ版を通じて「なんとなくキモい
キャラ」という漠然としたパブリックイメージを抱かれながら、アニメ
版どおりに描くことはできない面倒なキャラクターであった。

登場当時「何を考えているかわからないブキミなキャラ」として描かれ
たのは、要するにいくつかのキーワードから導き出された「なんとなく
キモい」という表面的なイメージだけを頼りに、表面的触感だけが描か
れたキャラクター
だからである。

そのような意匠のみのキャラとして一旦死んだゾイサイトは、中の人の
いわく「このままじゃいかん」という一念発起によって徹底的に肉附け
される。脚本を書く者も演出する者も、だれ一人として表面的な意匠と
いう以上のイメージをもっていなかったキャラを、演者が自身のなかで
勝手に肉附けし始めたわけである。

おそらくこれを、演技経験の豊富ないわゆる怪優の類が演じたのなら、
このような発展は遂げなかっただろう。ベテランの演技者は、表層のみ
で演じることも可能
だからであり、映像作品においてはそのような表層
しかないキャラクターが必要とされる場面もあるからである。

しかし、幸いなことに小林靖子のドラマにおいては、ノーアイディアの
部分を演技者が埋める余地がある。演技者が生き始めたキャラクターを
活かす柔軟性がある。この、いわゆる小林脚本における当て書きについ
て話し出すと長くなるので、ゾイサイトの場合には効果的に働いた手法
が、なにゆえレイちゃんやまこちゃんの描写においては奏功しなかった
かは、別稿に譲る。

結果として、表層以外は空っぽだった虚ろなキャラクターは、物語世界
を熱く生き始めることになる。遠藤自身が公式サイトで陳べているよう
に、前半でゾイサイトが一旦退場したことが、仕切り直しの契機として
うまく働いたこともあるだろう。しかしやはり、それをきっかけにして
遠藤が空っぽの役柄の内面を自身の想像力で埋めたことが、孤高の楽人
を熱い情熱の人に変えたのである。

そうしたやり方が常にうまくいくとは限らない。先ほど陳べたように、
役者を動かす者が確固たる思惑の下に表層しか求めていない場合には、
演技者による下手な肉附けはマイナスにしか働かない。その場合に求め
られているのは、体術としての演技であり佇まいという味でありキャラ
を表層だけで保たせられる磨き抜かれた勘働きなのだから。

しかし、この物語におけるゾイサイトは、出発点において単に空っぽで
あったというにすぎない。このキャラクターがどのように動き出すか、
だれ一人として明確なアイディアをもっていなかった。それを遠藤自身
が創ってもいいのだという閃きを得たこと
が、ゾイサイトというキャラ
にとって幸いだったのである。

小林靖子が「ゾイちゃんは遠藤君が作りあげたようなものだ」と語った
のは、別段世辞の類ではないだろう。筋書き上の役割はともかくとして
キャラクターの内面については、まったく制作者側はノーアイディアで
あったはずだ。役者自身が役柄を生き始めたことが書き手に閃きを与え
おおまかな筋書きに血肉を与えドラマを語る素地を与えたのである。

ヴィーナスによってもたらされた一度目の死を契機に、作り物にすぎな
いゾイサイトという人物の生を遠藤嘉人が真に受けることがなかったの
なら、少なくともこのような最良のかたちでゾイサイトのドラマが完結
することはなかっただろう。

遠藤嘉人よ、安んじてゾイサイトとして生きたかりそめの生を忘れ自身
の生をほしいままに生きるがいい。

生き証人であるオレたちが、しかとこの伝説を後世に語り継ぐから

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