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Act.46 イディオッツ・プロット

この前後編の直後に美奈子が死に、その後まこちゃんに目立った役回り
がなかったことを考えると、いっそのことこの二話でまこちゃんが本当
に死んでしまう
という目もあったのかなと思わないでもない。

まあそれはあの最終回を前提にした話ではあるのだが、そうなると本当
に印象がヴァニーナイツやアニメ版無印と同じになってしまうわけで、
美奈子の死というショッキングなイベントの印象も薄められてしまう。

そういうふうに妄想してしまうというのは、シリーズ後半のストーリー
運びに必然感が薄いからだろう。なまじ亜美ちゃんエピソードの転がり
方が「こうでなければ」という有無を言わせぬ説得力を持ったガチガチ
の劇的必然性に基づいていた
ため、これといったドラマを持たない他の
登場人物についてもそのノリで視てしまう。

早い話が、劇的観点から視るなら、ここでまこちゃんが死んでも視聴者
は反撥を感じなかったのではないか、もしくはそこで立ち上がってくる
「惜しさ」のようなものが掻き立てる情動と、何のドラマもない人物と
してラストまで生かされることを比べて、情感の経済としてどうだった
のか、という視点が成立するということである。

引いては木野まことの物語が思春期の迷妄としての「一人でいいんだ
を核として、それが「私が間違ってました」式の作劇によって締め括ら
れることに対して、「原作の設定に従っただけ」という以上の必然性が
感じられない辺りに問題があるのだろう。

一方美奈子が最終的に助からないという結末については、それほど違和
感はないし、おそらく彼女を殺してしまったのはこのドラマが積み上げ
てきた劇的リアリティそのもの
だろう。美奈子がこの先も生きて何事か
を成し遂げるのならまだしも、結果的には一種の「わからずや」として
物語を掻き回してきただけなのだから、「生きる」と表明するに至るま
でのドラマが肝要なのであって、その選択が酬われる必要はない

下世話な言い方をすれば、「生きる」と表明した美奈子が、にもかかわ
らず病に敗れることでもう一ネタ情感の盛り上がりができるのだから、
死ぬという結末自体は経済的な作劇である。それをやってはいけない、
何か他の大切な情感が犠牲になってしまう、という筋道上の障害もない
のだから、病死の結末自体を否定するものではない。

筋論でいうなら、それこそ白倉が著書で語っている「治らなければなら
ないというプレッシャー」ではないが、生きようとする意欲さえあれば
死病のさだめも覆せる、という一種の「奇跡」をドラマ上で扱うのは、
窮めてデリケートな問題なのである。その限りでは、「結局治らない」
という結末もまたそれ自体が否定されるべき理由はない。

とまれ、今回のエピソードで視るべきなのは、結末それ自体の是非では
なく、その結末から逆算したドラマとしてどうかという問題である。

前回のラストで最強妖魔にしがみついてシュープリームサンダーを放ち
生死不明のままエピソードを終えたまこちゃんだが、アバンでご丁寧に
元基の亀アクセサリーを割ったり、うさぎに不吉な胸騒ぎを覚えさせて
はいるが、ダークキングダムに到着したレイちゃんのシーンなどを挟ん
で少しだけ焦らせた後、番組開始五分で早々に無事な姿を見せている。

眼を覚ましたまこちゃんに対して美奈子は「どうしてあんなことをした
の、あんな、自分の命を
」と詰問する。そこで交わされる会話は、前回
指摘したような筋道を半ば踏襲しながらも、まこちゃん自身の宿命観は
相変わらず頑迷なものでしかない。

私の命とあなたの命は違う」と言いかけた美奈子の言葉を「命は命、
同じだよ
」と制するのは正しい。理由は前回指摘したとおりで、たとえ
命を棄てても使命に殉ずるのが戦士の覚悟なら、戦士である限り美奈子
とまこちゃんの命は等価
である。

だが、「私が昔から一人きりなのも、きっとこういうときに悲しむ人を
つくらないためなんだよ。そういうふうに前世から決まってるんだ
」と
いうのは、美奈子と同じ誤りを含む考えである。

なぜなら、意識的に他者との交わりを避けている美奈子や、不運にして
他者との関係に不全を抱えているまこちゃんはともかく、亜美ちゃんや
レイちゃん、うさぎには「こういうときに悲しむ人」が、ちゃんといる
からである。ならば「こういうときに悲しむ人」を持つ他の戦士たちは
まこちゃんとは事情が違うのか。

では、美奈子とまこちゃんだけが命を棄てて顧みない役回りなのか。他
の戦士たちは、彼女たちの犠牲のうえに命を長らえるべきなのか。だと
すれはそれはなぜなのか、なぜ美奈子とまこちゃんであって他の戦士で
はないのか。

それは「私の命とあなたの命は違う」という美奈子の誤謬と同じ種類の
誤りである。自分の場合にだけ命を棄てた挺身を敢行する必然があると
考えている美奈子に、まこちゃんが混ざっただけの話である。

また、まこちゃんのいう「前世から決まっている」という言葉が、俗に
いう決定論的な意味合いであるなら、その挺身には何の意味もないこと
になる。そう決まっているからそうなっただけにすぎない、ということ
になってしまう。前世で敵に勝てなかったのだとしたら、現世でも勝て
ないのだし、前世で星の滅びを押し留めることができなかったのであれ
ば、やっぱりこの世界もまた滅ぶのである。

そのような前提において、命を棄ててまで戦う意味とは何なのか。

その挺身で得られるのは、「いつも最後は一人」という思い込みに尤も
らしい理由附けが為されるというだけのことである。

この現世において意味ある戦いを戦うためには、輪廻のくびきから解き
放たれなければならない。永劫回帰する宿命の閉じた連鎖を破り、前世
とは違う在り方の現世を生きなければならない。

前世で「いつも最後は一人」と決められたなら、そうでない現世を生き
ない限り、そもそも星の滅びという大きな宿命を押し留めることなどは
叶わない。ミクロな宿命すら変え得ない者がマクロな宿命を変革し得る
はずなどはないのである。

人と人との交わりなど己の心の持ちよう一つ。それすら叶わずに宿命の
責に帰すような態度でいて、気持ちや心でどうにかなるような問題では
ない大きな宿命に立ち向かおうというのは、すでに概念矛盾である。

なぜなら、まこちゃんが宿命を受け容れる動機が「宿命なのだからこの
現状は仕方ない」という理由附けであるのに対して、宿命としての戦士
の使命が命じているのは、その宿命に包含される悲劇の再現を阻むこと
だからだ。戦士の使命に殉ずるというなら、まこちゃんの現世における
在り方もまた原理的には超克の対象なのである。

そしてそもそも大人の視聴者なら、関係性の不全を何某かのストーリー
附けによって正当化しようとする動機全般が誤っていることを最初から
識っている。関係性に不全を抱えるのであれば、やはりその問題に真っ
正面からぶつかって解決を図らねければならないのである。

人という存在が、人との交わりにおいてしか成り立たない以上、それを
免責し得るようなストーリーなど、この世のどこにもない
からだ。

それは、シリーズ前半で展開された亜美ちゃんの物語において、力強く
貫かれたテーマである。当たり前に考えれば、登場当初の亜美ちゃんは
今現在のまこちゃんよりももっと偏跛な人間であって、もっと対人的に
無力な人間だった。その欠落に何らかの代替物があり得るのなら、あの
ような痛々しい成長物語はいっさい不要だったはずなのだ。

これまでの物語を通じて、まこちゃんは自身が抱える対人面の欠落には
何一つ意志的なアクションを起こさなかった。亜美ちゃんのように血の
滴る痍を負いながら、まったくのゼロから人との絆を学んでいったわけ
ではない。ごく普通に仲間たちとうまくやっている、ごく普通の少女に
すぎなかった。

その意味では、以前指摘したように、この番組の少女たちの人物像が、
現実寄りのアクチュアルなものであったことが、「いつも最後は一人
のような偏向した心象的現実にリアリティを与えなかったのである。

もっとあからさまに言うなら、この番組で描かれたまこちゃんは、事実
において孤独な人ではなかった。「いつも最後は一人」に絡んだ筋立て
は、すべて取って附けたような無理筋だったのである。

冒頭で陳べたように、原作の設定がそうだったから実際に描かれた人物
像とは乖離があってもその筋道に沿って伏線を張り、そのとおりに処理
してしまったのである。それがどうにも違和感を帯びているのは、そこ
まで大幅に仕切り直すのなら、人物描写も大幅に変える必要があった
いうことだろう。表面的なまこちゃんの柄がどうあれ、内面に癒し難い
孤独を抱える人という「後附け」の筋道をあらためて描くエピソードが
必要だったのである。

元基とのエピソードがそれに当たるとはちょっと思えない。なぜなら、
その種の後附けは、元基という具体的な対象を得る「前に」まこちゃん
の語られざる心奥の常態として開示される必要があるからである。

オレたちがこのようなものとして視ているまこちゃんの人物像には「実
は」内面にこのような孤独がありました、「だから」元基という対象が
現れてもまこちゃんは一歩を踏み出すことができなかったのです、この
ような手続をもう一つ踏まない限り、元基とのエピソードは唐突な無理
筋でしかないのである。

これまでの人物像と元基とのエピソードで明かされたような欠落は、前
以て「実は」という「後附け」の説明でもされていない限り、スムーズ
に相互乗り入れできるようなものではないからである。

アニメ版と実写版のまこちゃんの柄はそんなに離れていないのに、設定
された欠落がしっくり来ないのは、アニメ版ではそんな設定をさっさと
放棄しておっとりした力持ちキャラに造形したから
である。あくまでも
原作の設定に従うなら、原作どおりの少し影のあるキャラクターに造形
しなければ平仄が合わないのは当然だ。

考え方が「私がバカでした」方式のリアリティに欠けるものであるのみ
ならず、そこに至る動機の面でもリアリティがなかったのである。

さらには、まこちゃんが命を棄ててもいいと考えた理由の一つが「死ん
でも、また生まれ変わればいい
」「この次もきっとあるよ」というジャ
ンプ方式の世界観であるのは、あまりにベタな愚昧である。

普通に考えれば、セーラー戦士がまた生まれ変わるということは、すで
に滅びを前提にした考え方
であり、前世と同じ敗北が永遠に繰り返され
というストーリーである。そこまで行かずとも、輪廻一般を表現する
言葉なのであれば、生まれ変わりがあるから命を粗末にしてもいいなど
という理屈が間違っているのは誰にでもわかる。

要するに、転生という設定が物語内事実でさえなければ、まこちゃんの
言葉は単なるビリーバーのそれである。世間一般の決め事に馴染めず、
自分好みの脳内補正を加えた世界律を前提に生きる人の言い分である。

セラムン世界の設定に内在するそのような危うさを最終的に批判したい
という意図はわかる。だが、その愚昧を登場人物に演じさせて直截物語
内のセリフで批判するというのは安直に過ぎるのではないか。なぜなら
その方法をとるなら、誰かが「ちょっと考えりゃわかる」レベルの過ち
を犯す大馬鹿者として描かれなければならない
からである。

そのうえさらに、今回のエピソードのキモとなっているロジックとは、
そのようなまこちゃんの愚昧な言い分が、そのまま美奈子のこれまでの
考え方の写し絵でもある
ということなのである。

つまり、大馬鹿者が一度に二人も出来上がってしまうのだ。

今回のストーリーにおいて、美奈子は初めて自身の姿勢の愚昧に気附く
のだが、それはまこちゃんの吐露する愚かな宿命観が、大筋においては
自身の考えとどこにも違いがないものだから
である。前回の喩えでいう
なら、美奈子の姿勢に感動し戦士の使命に傾倒するまこちゃんの考え方
は、それを目指すがゆえに美奈子のそれよりも先鋭に純化されている。

そして美奈子は、自身の考え方がそのように純化されて他者に演じられ
ることにより、初めて客観的な視点を持ち得て誤りに気附くのである。
つまり、逆にいうならこれまでの美奈子は、自身の姿勢に対して客観的
な視点を持ち得ていなかった
ということになる。

この気附きの物語が拍子抜けなのは、結局美奈子が重いバックボーンに
相応しい考えに考え抜いた末の結論であるべき正当性を具えた信念を、
いっさい持っていなかったということが明らかにされたからである。

物凄く突き詰めていえば、美奈子の姿勢が極端で頑迷なものだったのは
単にテンパって近視眼的になっていたから、ということになってしまう
のである。それがこのような構造の気附きの物語になっていることで、
美奈子の人生の数行のデッサンとして確定してしまうのだ。

自分の問題としては違和感を感じないが、他人が同様に振る舞うことで
それが愚かであることに気附く、というのは結局そういうことだ。ただ
裸の女王様だったのである。

気附きの提示が安いことを批判するのはそのゆえだ。前半で確立された
精緻なドラマのリアリティを前提に解釈するなら、この安さ間抜けさは
語り口のそれではなく、劇中人物のそれとして見えてくるのである。

大昔のロボットアニメや一昔前の戦隊なら、こういう安い筋立てでも、
それは語り口が安いのであって劇中人物の考え方が安いのではない、と
いう直観的な弁別ができた。そこまで細かい筋道を劇中現実として「真
に受ける」リアリティではないからである。

まさにバカとしか言い様のない問題構造に基づいて気附きのプロットを
構築し「オレがバカだったんだぁ〜!」と主人公が絶叫しても、それを
好意的な視聴者は「バカだなぁ」とせせら笑ったりはしない。それは、
その種の作品がその種のわかりやすいリアリティにおいて気附きの構造
を扱っていたからである。概してそれは他のプロットにおいてもリアリ
ティのレベルは同一だから、わかりやすいバカさが登場人物の愚かさと
して過剰に立ち上がってこないのである。

つまりこの番組の後半迷走の一因とは、前半で確立されたリアリティが
あまりに従来の特撮ドラマと比べて異質なものであったがゆえに、従来
の特撮ドラマ的な技法・手癖をそのまま援用することが難しかった
こと
もあったのではないだろうか。

今回のようなプロットは、一時代前の戦隊なら間違いなく通用していた
ことだろう。まったく同じ構造に基づくプロットを提示しても、視聴者
が劇中人物それ自体を愚かだと考えることはなかっただろう。ベタなの
は語り口であって劇中人物の考え方そのものではないのだ。

亜美ちゃんに関する物語では、従来の作劇によって方程式が確立されて
いるルーティンではなく現実においても容易に答えの出ない設問を出発
点として、非常にデリケートなリアリティに基づいて物語を構築してい
たからこそ、後半のこのプロットが劇中人物自体の愚かしさとして立ち
上がってくるのである。

これをして「現実と劇中現実を混同している」と解するのは、物語の話
法におけるリアリティに対して鈍感すぎる意見だろう。水野亜美物語の
リアリティがまこ美奈の気附きの物語では通用しないというなら、それ
一本のTVシリーズにおける劇的リアリティの設定に一貫性がない
いうことだ。

たとえば通常シリーズにおけるゲストライターによるコメディ編や異色
編とは違って、今回の気附きの筋立てはシリーズのメインストリームの
決着編である。それは一貫した劇的リアリティにおいて解釈されるのが
当然なのである。

このリアリティにおいて「私がバカでした」が落とし所であるのなら、
それは劇中現実を生きる登場人物その人が本当にバカだったということ
になってしまうのである。

バカだったのはまこちゃんと美奈子だけではない。前回クライマックス
で突如現れた黒木ミオの気まぐれによってダークキングダムに誘われた
レイちゃんのほうのプロットも、大した必然によって構築されたもので
はないのだし、そこでレイちゃんの前世否定の迷妄が批判されるのも、
行った先にいた人物のセリフによって直截お説教を喰らうのである。

その結論に至るまでに、亜美ちゃんによる「前世は無視できないんじゃ
ないかな
」という仄めかしの言葉があり、それがダークキングダム内の
衛のセリフとして再現され、確定されるという手続は踏まれているが、
要はスタンドアローンのセリフによって論旨が開示されただけである。

まこ美奈のメインストリームからスプリットしたレイちゃんの筋立ての
意味とは、結局のところ手早く前世全否定という一方の極論を批判し、
併せてAct.48において三戦士が自力でダークキングダムに来られるよう
に伏線を張っただけ
、ということになる。

レイちゃんがわざわざダークキングダムに跳んだ意味とはそれだけなの
であって、端的にいうなら説教されに行ったのである。これもまた、気
附きのプロセスとしては安い。衛の言葉はつまり「ああそうそう、オレ
も要するに、そういうコトが言いたかったワケ」というふうに視聴者の
漠然とした想いを代弁して溜飲を下げただけの話である(笑)。

この二エピソードは、この番組で成立してしまった劇的リアリティに無
自覚に一時代前のリアリティに基づいてプロットを構築した結果、主要
登場人物全員が劇的現実としてバカに見えるという問題を抱えている。

ここでまったく不意にオレの脳裏に閃いたのは、困ったことに「イディ
オット・プロット」というタームである。

本来このタームは、読者を含めて主人公以外の登場人物がすべてストー
リーの先行きや事件の真相を識らされていて、独り真相を識らされない
主人公がイディオット=バカのように滑稽に右往左往する様をニヤニヤ
しながらヲチするという構造を持つ物語を表現する言葉である。批判的
に用いられる場合もあるし、そうでない場合もある。

だから、今回のエピソードとイディオット・プロットというタームの間
には本来何の関係もないのだが、登場人物が全員バカであるという構造
の物語をイディオット・プロットと表現せずしてどうする
という気が、
たった今、無性にこみ上げてきたのである(木亥火暴!!)。

これはもう、文芸批評の学識全体に逆らってでもこの思い附きのネタを
強力にプッシュしたい気がしてきた。そのまんまだと謬見を広めること
になってしまうのだが、単数形を複数形の「イディオッツ」にすれば、
新タームの創出ということでギリギリセーフだろう(木亥火暴!!)。

ということで、リピート・アフター・ミー。

登場人物が全員バカである物語をイディオッツ・プロットという

はい、もう覚えたね? 危険だからくれぐれも単複の使い分けには気を
附けてね、黒猫亭からのお願いだ(木亥火暴!!)。

さて、最後に一つだけここで強調しておかねばならないことが残った。

それは、本編にどのような問題が内在するとしても、このラストシーン
だけは絶対的に正しい
ということである。今回のラストは、他の戦士に
気遣われているうさぎだけが意図的に排除されて、うさぎを除く四戦士
が横並びに歩きながら親しく会話を交わすシーンで幕を降ろす。

この一枚の絵は、最終回に至るプロセスとして非常に重要なのである。
うさぎを除く四人が横並びに歩き、打ち解けた会話を交わすこと。これ
が連想させるのは、かのAct.28のOPで使用された、番組開始前の番宣
用の映像素材である。

あのOPにおいて予告された、「五人が一列に並んで歩くこと」という
決着が、今回ラストの四人の姿によって遂に予兆を描かれたのである。
ここまでいえばオレが何を言わんとしているか、勘のいい方にはわかる
だろう。次回の美奈子の病死という山場を控えて、「うさぎを除く四人
が一列に並んで歩く」という絵がラストに押さえられているのである。

ここから逆算すれば、なぜ次回の急展開によって美奈子が死なねばなら
なかったのか、それが最終決戦前の手続として押さえられなければなら
なかったのか、その作劇的意味が理解できるだろう。

今回ラストの四人の姿は、Act.28OPで予告された最終決着の予兆なの
であるにもかかわらず、その直後に美奈子が急死することで、その予兆
が実現される可能性は一旦絶たれてしまうのである。

これについては最終回のレビューでもう一度詳説を試み、今は仄めかし
に留めておくが、今回のエピソードが脇筋にまとめて決着を附けるもの
であったのはこの絵面が成立するためだったのだと解釈すれば、とにも
かくにも脇筋を「終わらせる」ことがなぜ必然だったのかがわかる。

このローテに対するオレの評価はボロボロなものだが、ボロボロの筋立
てを以てなお、なにゆえ「終わること」が必須だったのか、それは最終
回を観ればわかることなのである。

とまれ、中途半端なエピソードに相応しい中途半端なレビューとして、
今はここで稿を終えたいと思う。

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