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Act.47-1 天人五衰

未練たらしく細々と続けてきたこのレビューも、もう後僅か三話を剰す
のみとなった。仲間内では「勿体附けずにとっとと終わらせちまえよ
何年懸かってんだよゴルァ」という声も多いのだが(笑)、まあやはり
ここまで粘ってきた以上、自ずと気負いがあったのだと思う。

番組の放映が終了してからすでに三年の月日が流れようとしているが、
番組に熱狂していたあの当時のようなテンションが持続しなければ一行
も書けない、書いてはいけない、という思い込みが、却って継続を億劫
にさせていたという言い方も出来るだろう。

今回のリニューアルに当たっては、その作業プロセスでAct.1 から直近
Act.46までの文案を集中的に再読する羽目になったわけだが、今現在
の視点では、とくに初期話数の書きぶりなどはまるで他人の文章を視る
ようで、さして長年月を経たわけでもないのに隔世の感を覚えた。

考えてみれば、そのときにどんなに気持ちを込めて書いたとしてもハタ
から視れば論旨の内容自体で量られるわけだし、リアルタイムの熱狂の
テンションが現在の時点で甦るものでもないのだから、この思い込みが
ナンセンスであることに今更ながら気附かされた。

また、ひこえもん劇場の当時は、この牛縄がオレにとってはワンアンド
オンリーの発信のメディアだった為、セラムンのレビューを通じて特撮
シーンを鳥瞰しようというような目論見もあったのだが、今ならばその
時々に想うところを自由気儘に語れる黒猫亭日乗というチャネルもある
のだから、もっと肩の力が抜けた心境で書き継げるだろう。

とにかく最後まで完遂することが重要なのだ、と気持ちを新たに出来た
だけでも、数日間更新作業に没頭した甲斐があったというものだ。

さて、本題のAct.47だが、一本の映像作品として出来の悪いエピソード
というわけでは決してないだろうと思う。演出は男たちの熱いドラマが
目を惹いたAct.4344の鈴村が、高丸ローテの二話を挟んだだけで気忙
しく続投しているが、今回のエピソードの何とも言えない物足りなさ
鈴村演出の責に帰すことは出来ないだろうし、小林脚本もそれほど悪い
出来という言い方は出来ないだろう。

ここで語られているのは別段美奈子の内面ドラマでも何でもない。美奈
子が自身の死を予感しているという想定では一切ドラマが立ち上がって
こないのである。それはつまり、手術の決意と死の予感が、ドラマ的に
整合しないからであり、視聴者には個々の局面で美奈子が何をどのよう
に考えているのか、殆ど伝わってこない。

それはつまりAct.46のラストで美奈子が得た手術に踏み切る決意とは、
僅かな可能性でしかない生還の希望を信じる気持ちを前提とするからで
あり、確実な死を予感しているのであれば、手術を受けるという身ぶり
は仲間たちの気持ちを慮った芝居にすぎなくなるからである。

しかしAct.46のドラマの組み立ては、そのような他者への配慮としての
身ぶりを導き出すものではなく、僅かな可能性に賭けようとする美奈子
自身の心の再生を暗示するものだったはずで、要するにAct.46とAct.47
では、美奈子の心理に連続性がない。これでは美奈子の内面を見据えて
いてもドラマ性が立ち上がってくるはずがないのである。

ラストの「幻のパーティー」の席上で本人が読み上げる手紙は死を確信
したものとしか思えないわけだが、それを書いている時点での美奈子の
心情は視聴者にはまったく想像出来ない。美奈子の死が曖昧に描かれて
いるのが公式サイトに書かれているような理由であるとすれば、ハナか
ら美奈子の死を結末とする有意なドラマは仕組めなかったわけである。
それを語る為には、美奈子が死に至るまでの顛末を明示的且つ具体的に
描く必要があるのだから。

このエピソードにおける美奈子のシーケンスは、要するに他者視点から
視た死にゆく美奈子への惜別の情感
を描いているわけで、ラストの手紙
を書いている美奈子の心情が想像出来ないのは、それが聞き手の感じる
情感から逆算して書かれたテクストであって、美奈子の心理自体は自然
さを欠いた書き割りの絵空事だからである。

つまりこのエピソードにおける美奈子はドラマの主体ではなく、美奈子
の死というイベントにおいて、客体として視られる映像を所作事として
演じているのであり、取り残される人々が感じる名残り惜しさの感情を
掻き立てる方向で映像が組み立てられているのである。

アバンのアルテミスとの小ネタの会話からしてカメラは徹底的に美奈子
に寄り添っていて、一瞬たりともその姿を見逃すまいと執拗に追い続け
ティルト、パン、ズームを繰り返すが、美奈子が扉を開けて出て行く直
前に「必ず」カメラは置いていかれ、美奈子の姿が扉で遮られる最後の
一刹那をスローモーションで引き延ばしてまで彼女との別れを惜しむ。

美奈子に絡む映像の呼吸はこのアバンですでに提示されていて、美奈子
が別れの言葉を残して扉を開けて去っていくという絵面を有意に繰り返
し、その都度カメラは美奈子に追い縋り、必ず置いていかれる

一分一秒でも長く美奈子を視ていたいと切望し、それでも別れの言葉と
共に「必ず」取り残されてしまう視聴者の心理を代弁するカメラワーク
となっているわけで、これを拙いと腐すことは出来ないだろう。

余談に亘るが、この徹底的に美奈子に附けるダイナミックな撮り方を見
て、オレはてっきりAct.4546において松村文雄と連名でクレジットさ
れていた上赤寿一が撮ったものだろうと思ったのだが、Act.47は松村単
独のクレジットだった。

また、その動きとも関連してかなり前に出る寄り目のポジションが多用
されているが、これは以前Act.37で少し触れた上林カメラマン張りの前
進守備で、ベテランの松村カメラマン、年齢の割りにはかなりフレキシ
ブルに他人の芸風を盗んでいる。

唯一残念に感じたのは、リリカルにインサートされる観覧車のカットが
劇的な意味では剰り効いていないことで、それはつまりAct.12の邂逅を
背景とした美奈子とうさぎの間の想い出ということになるのだが、この
二人の間にはこれまでの物語を通じて印象に残るような交流が描かれて
いなかったし、美奈子を憧れのアイドル視しているうさぎは現時点では
最も美奈子との間に距離がある存在だから、うさぎと美奈子の関係性を
軸にしても剰り情感が立ち上がってこない。

またこのインサートカットは美奈子とうさぎの主観において顕れる限り
においては符丁は合っているのだが、何故かレイちゃんの主観において
もインサートされるのがよくわからない。Act.12の観覧車のくだりに関
しては、レイちゃんはまったく関係ないはずなのである。

その一方、美奈子の死がレイちゃんの脳裏においてはAct.34で描かれた
母親の死の場面と同様の見え方で想い描かれるのは、そうでなくてはな
らない呼吸である。美奈子との間に「まったく」ドラマがなかった亜美
ちゃんやまこちゃんはさておき、主人公であるうさぎにもレイちゃんと
同程度に美奈子との通い合いを象徴するイメージが必要であったことは
間違いない。それは何より映像が要求するバランスの感覚である。

以前Act.10のレビューで指摘したように、鈴村の関心は死にゆく美奈子
の内面のドラマを語ることにはなく、オレたちを置いて光の中に消えて
いく美奈子の姿を、美しい抒情の映像詩として不朽に留めることに特化
しているのだし、前述の通り小林脚本も具体的なドラマを描いてはいな
いのだから、必然的にそのような意味的には曖昧な性格のエピソードと
ならざるを得ないだろう。

ある意味嘗てオレが望み予感した通りの成り行きになったわけで、単体
で視るならそれほど悪い作りのエピソードではない。このエピソードで
不満があるとすれば、例によって北川景子の大芝居が剰りにもあんまり
すぎてイタい
ということくらいだが(笑)、鈴村には北川がコントロール
出来ないことはすでにアリバイとして仄めかされているのだから、それ
を言い立てても始まるまい。

本来ならば、後半最大のドラマと目されるべき愛野美奈子の死を描いた
エピソードを、オレが「物足りない」と冷たく一蹴するのは、美奈子の
死を巡る一連に関しては、「美奈子が死ぬ」という以上のドラマ的内実
が一切描かれていないからだ。

このエピソードでは、美奈子の死を結末とする首尾結構を具えたドラマ
が語られているのではなく、単純に美奈子の死というイベントが描かれ
ているのみなのだが、たとえばこれは、Act.34の亜美ちゃんサイドの筋
立てとよく似た事情である。

レイちゃんサイドの筋立てが首尾結構を具えた挿話構造を形成していた
のに比べ、亜美ちゃんサイドの筋立ては母親との和解というイベントを
語るのみであったが、Act.34の場合はそれで好かったのである。

すでに語ったように、水野亜美を巡る物語はこれまでのシリーズ全体を
通じて総て語り尽くされていたのであり、母親との対決における課題の
要件とは相手が母親その人であるというその一点でしかなかった。その
故にAct.34における亜美ちゃんサイドの筋立ては単に和解のイベントを
描くのみに留まり、それだけで壮大な水野亜美物語全体のコーダとして
十全に機能していたのである。

水野亜美を巡る物語ならそれで好かったのだが、愛野美奈子の場合には
それで十分とは言えないだろう。結局美奈子の生涯は最初から最後まで
小娘の片意地と意味附けられてしまったのだし、当レビューのタームで
言えば「私が間違っていました」で片が附けられたからである。

美奈子の生自体をドラマティックに描くことが出来なかったのだから、
その死もまたドラマティックなイベントでは在り得ない。年若い女の子
が理不尽に死んでしまうという、一般論の範疇での惜しさしか感じられ
ないのも当然である。

亜美ちゃんの場合とは違って、もし美奈子の死をドラマティックに盛り
上げるのであれば、その死を理由附ける挿話を更めて語る必要があった
のである。そうすれば、遡って美奈子の生もまた更めて鮮烈に意味附け
ることが出来ていたかもしれない。

さらには、特撮ヒーロー番組の構造上の位置附けを考えても、途半ばに
おける美奈子の死が危機的状況として立ち上がってこないという問題が
あるだろう。

これが型通りのスーパー戦隊であれば、決戦前夜におけるキーパーソン
の死は、物語終盤の流れを決定附ける危機状況のはずである。戦隊的な
ロジックにおいては、一人でもメンバーが欠けるという事態は由々しき
一大事となるからである。

たとえばスーパー戦隊において、全員揃うことで一人ひとりの場合より
も強い力が発揮されるという建前は、要するに必殺技が有効となるため
記号的な発動要件と謂うにすぎない。この場合「全員」であれば何の
問題もないわけで、三人戦隊よりも五人戦隊のほうが強いというわけで
は決してない。

物凄く単純化して言うなら、全員揃わなければバズーカが撃てないし、
バズーカが撃てなければ敵怪人が倒せないから、全員揃っている必要が
あるのである。これは巨大戦も同様で、全員揃わないとロボが合体出来
ないし、ロボが合体出来なければ巨大怪人を倒せないから全員揃ってい
る必要があるのである(更めて強調するが、これは原則論である)。

たとえば四人と五人ではたった一人しか違わないわけだが、五人前提と
いう所期条件で考えれば、一人欠けるだけでも一人もいないのと意味的
に変わらなくなる。便宜上「五人」と言ったが、これは三人でも六人で
も同じことで、特定の頭数が揃うことで初めて可能な必殺技という所期
条件
こそが「五人の力を合わせれば」という建前の正体である。

これは必殺技やロボの合体が、特定の頭数を前提にして作業を分担させ
ている以上、別段「一人ひとりの力より五人の力を合わせれば」という
建前は何処も間違っていない。ある特定の作業が複数の分業として想定
されている場合、「全員揃っている」という所期条件こそが重要なので
あり、その所期条件さえ満たされれば一人ひとりの力の単純合算よりも
大きな力が発揮されるというのは、一面の真理ではあるのである。

さらに、その時点における最強の敵を倒す為にはその時点における最強
の攻撃が必要とされるのは当たり前であって、特撮ヒーロー番組が従来
より強い敵が不断に現れ続けるというインフレーションのルーティンで
構成されているものである以上、戦闘においては常に「フルパワー」を
要求されるものである。

だからこそ戦隊は不断にパワーアップし続けるのだし、スタートライン
において「全員の力を合わせた」必殺技が最終手段と位置附けられてい
るのだから、その必殺技で倒せない敵を倒す為にはもっと強い必殺技や
必殺兵器を繰り出すしかなく、必殺技には常に「フルメンバー」「フル
パワー」という所期条件が附き纏う。

そのようなトクサツ的な記号を前提にすれば、ラスボスとの決戦を目前
に控えたタイミングで戦士団のリーダーが不慮の死を遂げるという成り
行きは、十分緊迫したイベントとして視聴者に感得されるはずだろう。

普通の戦隊であれば、メンバーが一人欠けるということは必殺技も放て
ないしロボも合体出来なくなるということで、重大な危機状況である。
戦隊的な文脈においては、戦隊と敵怪人のパワーバランスはフルパワー
のスペックでほぼイーブンに設定されているのだから、それはオールオ
アナッシングで量られる事柄なのである。

一方、この作品のリアリティにおいては、最初の最初から戦隊的必殺技
というトクサツ的記号が軽んじられていたわけで、それはAct.47の現在
に至っても五人が揃うことがないというシリーズ構造上、已むを得ない
スタイルである。

その現実的な理由を探るとすれば、原作およびアニメ版において一四歳
と設定された少女たちをギリギリのリアルタイム世代である女子中高生
に演じさせるという番組の大枠の性格上、キャストの少女たちの女子中
高生としての現実生活に配慮する必要があるからであり、最初から常に
五人揃って行動する戦闘ユニットとして設定することなど、現実的には
不可能だったからである。

さらに、それが原因か結果かはさておき、白倉プロデュース作品らしく
番組の全体構造においては敵組織との闘争よりも敵味方双方の陣営内部
における対立・葛藤のドラマが重視され、妖魔との戦闘はそのプロセス
における物語要素の一つであるにすぎなかった。

要するに、ぶっちゃけ美奈子がいてもいなくても妖魔との戦闘において
さほど大きな意味はなかったのだし、これからもないのである。

これ以降の実際の最終決戦の流れに即して言っても、五人揃って強大な
最終奥義を繰り出すことで勝利が得られるわけではなく、悲劇的な殺害
の衝撃でプリンセスに呑み込まれたうさぎをいま一度呼び戻すことこそ
が、他の戦士たちに課せられた戦いなのである。

その場合に重視されるのは、これまでの物語で語られてきたうさぎ個人
との距離感であり、これまでに積み重ねられてきた個々人の想いの強さ
の問題なのだから、土台「フルメンバー=フルパワー」という戦隊的な
記号が意味を持つことはない。

そういう観点で視ても、これまでの描写からしてうさぎと美奈子の間の
直接的な絆はさほど稠密なものではなかった。美奈子がいなかったから
うさぎを呼び戻すことが出来なかったわけではないのだし、それはこの
Act.47の時点の視聴者の感覚としてもまったく同様なのである。

美奈子が死んだ、ああこれで最終決戦に勝利することが難しくなった、
そのような印象を抱いた視聴者は殆どいなかったはずである。つまり、
劇中事実のレベルにおいても作劇面のレベルにおいても、結局美奈子は
物語上必要欠くべからざる存在とはなり得なかったのである。

水野亜美物語の一通りの決算であるAct.28を経た後の後半全体の課題と
なるのが、あの感動のラストシーンで一人身を引いていた愛野美奈子
断ち切りがたい絆の輪に合流するプロセス
を描くものであるなら、この
現状は紛れもなく失敗である。

これが戦隊だったら、「レギュラーヘタレ化」と揶揄されるくらい六人
目の華々しい活躍をこれでもかと描き、最早彼なくして最終勝利は在り
得ないという印象を強烈に視聴者に植え附けたうえで、悲劇的な運命を
併行して描くことで鮮烈な生き様を描ききることもできただろう。

この番組においても、せめて劇中事実のレベルにおいて、四人のピンチ
に美奈子が颯爽と現れ大勢を逆転するというルーティンを確立しておく
べきだったのだ。しかし、これまでのバトル描写を視る限り、美味しい
ところへ割って入って好機をつくり出すという描写はあっても、美奈子
の参戦が劣勢を鮮やかに覆したとか、美奈子の参戦が不可欠の勝利条件
であるという描写が一度もなかったのが痛い。

寧ろ、ああ今週はヴィーナスも混ざってるのね、フルメンバーで豪華だ
なぁ
というまったく逆の印象を視聴者に与えてしまっていた。この故に
美奈子=ヴィーナスの存在は勝利を確実なものにする為の念押しまたは
ご祝儀的な景気附けというレベルの重要性しか持ち得なかった。

しかし、ある意味でセーラー戦士というスーパーヒーローは、別に強く
なくても誰も文句を言わないキャラクター
なのだから、ヒーローらしい
戦闘力を戦士団のリーダーである美奈子=ヴィーナスに全部肩代わりさ
せるくらいでよかったはずだ(そうは行かなかったのは所謂大人の事情
というやつだろうが(笑))。

そのようにして戦いにおける美奈子の必要性が描かれていたなら、手術
による戦線離脱を拒み、理不尽なまでに生き急ぐ美奈子の動機にも説得
力が出たはずである。さらにその先に待つ運命が無念の死であるなら、
同じような筋立てでも、手術と仲間の危機を天秤にかける死の理由附け
のドラマを語ることも可能だったはずである。

しかしそのような劇的力学に基づく批判が妥当性を持つとしても、この
場合には何を言ったことにもならないのである。それはおそらく、最初
から語りの射程にはないロジックなのだから、その方向性で批判しても
この場合の作劇の問題性を正しく解析したことにはならない。

だから、ここでオレはやり方を変えてみることにした

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