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Act.47-2 捻華微笑

このAct.47を「物足りない」と断ずるオレの感じ方は何処から来るのか
という設問は、オレ個人の作劇思想や一般論の尺度で量るのではなく、
もっと語り手の企図に寄り添って、その土俵上で検証するのでなければ
決して十分とは言えない……というか、こんなレビューをこの先も続け
ていく意味はない。

当レビューにおけるオレの立ち位置は、ある意味では傲慢窮まりない。
自分の物差しで他人の作物を裁いて足れりとするのではなく、相手の物
差しで相手を量り、前提を共有したうえで物を言うことを理想の到達点
としている。だとすれば、オレ個人の作劇思想や一般論の尺度ではこの
奇怪な物語を読み解くツールとしてまだまだ不足なのである。

このレビューが中断していた間、オレが考え続けていたこととは、この
物語の語り手たちは当時何を考えていたのか
ということである。それを
探ることは、おそらく客観的な解析とは成り得ないだろうし、従来的な
意味でのエピソード解析はこれまでの論述で足りているだろう。

ここまで四十数話のレビューを積み重ねてきた以上、失敗を失敗として
語ることは容易いが、オレ自身すでにこの最終局面を失敗であると確信
しているのは既定事項なのだから、今更それが失敗であることを自他に
証明することが今後のレビューの目的となるべきではない。

この物語の語り手は、何故そんなことがしたかったのか、それをもっと
掘り下げて考えてみたいのである。その為には、白倉張りの牽強付会の
珍説・奇説
を敢えて展開するのも、真相に到達する為の方法論としては
有効ではないかと思う。

要するに、ここからの解析は過不足のない客観的検証からもう一歩踏み
込んだものであり、ある種の喩え話である。喩え話でしか肉薄し得ない
事柄に敢えて切り込んでみようという禅問答のような趣向であるから、
従来のレビューのようなコンクリートなエビデンスに基づく解析にしか
興味のない方が読まれる必要はないだろう。

以下は、そのような前提でお聞き願いたい話である。

たとえばこのような「喩え話」は何うだろうか。一〇年以上前から特撮
シーンを見守ってきた方ならば、美奈子が仲間たちの許を訪れて最後の
挨拶を交わす一連の流れに、奇妙な既視感を覚えるはずである。

そう、このエピソードには、外でもない平成ライダーというコンテンツ
の起源となった仮面ライダークウガにおいて、主人公・五代雄介が丸々
一話と半分を費やして仲間たちの許を訪ね歩く、EPISODE 47「決意」
エコーが響いている。

奇しくもエピソードナンバーも同じ「四七」であり、クウガと同様この
番組も全四九話で完結しているという奇妙なシンクロニシティがあり、
これが偶然であると考えるのはナイーブにすぎるのではないだろうか。

……いや、たった今思い附いた理屈だけどな(木亥火暴!!)。

そんなのは単なるその場の思い附きにすぎないけれど、思い附きとして
は面白い。おそらく、Act.47以降の最終三話のエピソードの解析はそれ
だけを視ていても駄目なのであり、ある種作品の外にまで拡がりを持つ
直観的なアプローチが必要なのだと思う。

当レビューでは随分以前からこの最終三話の展開を「失敗したシリーズ
構成」と決め附けている。放映終了後三年経った現在に至るもその結論
には些かの変わりもない。すでに第四クールのエピソードのレビューで
屡々触れているような力学によって失敗したことも、大凡間違いないの
だろうと考えている。

さらに、そのような失敗が何故もたらされたのかという白倉の動機面に
纏わる問題も、観念的なレベルではすでに散々論じてきた。しかし超越
力の相対化や善悪二項対立の否定が白倉的作劇の根幹にあると指摘した
だけでは、白倉自身が標榜している思想を追認しただけにすぎない。

思想には必ず情緒的な動機というものがあり、時系列上の具体的な成立
の契機というものがある。ではこの場合のそれは何なのか。この物語が
このような終わり方を迎えなければならなかった、具体的な理由は何処
にあるのか。それを考えない限り、その考察は白倉自身が書いた筋書き
に則ったものであるにすぎない。

その疑問に対する答えが、今この場の思い附きによって得られたような
気がするのである。この際、エウレカとでも叫ぶべきだろうか(笑)。

しかしそれを考えるのは最終話のレビューまでとっておこう。今この場
で考えるべきは、愛野美奈子の死であり、それをクウガの一エピソード
にこじつける極々単純な思い附きについてである。

その思い附きを検証する為に、クウガのEPISODE 47「決意」を再見して
みたが、思ったよりは似ていない。それは、それがこの場の思い附きで
しかない以上当たり前の話で、世の中はそうそうホイホイと思い附きが
図に当たるほど都合好く出来ていないというのは、かねがね白倉式論理
へのツッコミでオレ自身が繰り返していることである(笑)。

しかしこの場合この思い附きはある特定の目的を果たす為の「喩え話」
にすぎないのであるから、もう暫くその思い附きが自在に赴くところを
追い続けてみよう。

クウガのこのエピソードで語られているのは、アルティメットフォーム
への変身という五代雄介の「決意」である。アバンと、そしてOP明け
の瞬間にその決意は語られ、それに続くストーリーは五代雄介がこれま
でに識り合った人々を訪ねて何心ない会話を交わすというものである。

さらにそれに併行して、五代に残された僅かな惜別の一時を守るべく、
五代に報せることなく単身グロンギのアジトに乗り込んだ一条刑事が、
未確認生命体B1号と遭遇し、遂に彼女との因縁の対決に終止符を打つ
までのくだりが描かれる。

放映当時も現在も毀誉褒貶半ばするエピソードではあるが、大人の事情
絡みとは言え、アバンとOPで凄まじき戦士への変身という危険な賭け
に出る五代の決意が端的に提示され、そのような内心を想像させつつ、
何心ない仲間たちとの会話で五代の心の静謐なドラマを語るムードは、
あの血みどろの最終決戦の前フリとして窮めて効果的だったと思う。

一方、セラムンのエピソードで語られているのは、手術を決意して入院
する美奈子が仲間たちと退院後のパーティーを計画するというもので、
その計画はうさぎに内緒で進められる。それと併行してダークキングダ
ム内部で呪いの石に刻一刻命を蝕まれる地場衛の姿が描かれ、また増大
するメタリアの力の暴走をベリル自身が危惧する様子が描かれる。

美奈子を巡る物語は、一見してこれまで美奈子が抱えていた宿痾からの
解放と仲間たちとの合流を目指すと見せつつ、一貫して美奈子の消失を
暗示する不吉な予兆を描き続け、具体的な描写はないものの遂には美奈
子の死がレイちゃんに、そして仲間たちに伝えられる。

さらに呪いの石の力で命の大半を吸い取られた地場衛は、ベリルを押し
退けてメタリアと一体化するという驚くべき行動に出て、これがAct.48
で完遂される陰惨で血腥い宿命の悲劇の種を播く。

冷静に考えればこの二つのエピソードの間には殊更に指摘し得るような
類似はない。類似を感じるとすれば、それは類似を視ようとする恣意が
あるからであり、恣意的に視ようとすれば何処に何を視ることも可能な
ものである。

しかし、オレの直観はその思い附きに基づく恣意が満更見当外れなもの
ではないことを囁いている。たしかに美奈子の死を語るこのエピソード
は、五代雄介の決意を語るエピソードを本歌取りしたものでは「ない」
だろう。しかし、そこに類似を視る恣意は、間接的に有効な視座を提供
してくれるのではないか、ひとまずそのような直観を信じてさらに考察
を進めてみよう。

無理矢理この二つのエピソードの共通点を探るなら、自身の死を予感し
た人物が、その内心を秘め隠しつつ大切な仲間たちに最後の挨拶を告げ
て廻るというところだろう。クウガの場合は、最初から視聴者は五代の
内心を識らされており、その前提において何心ない会話の端々に溢れる
五代の心情を類推するというドラマ構造になっている。

対するにセラムンのこのエピソードは、美奈子の心情は最後の最後まで
伏せられていて、視聴者には漠然とした予感が与えられるのみである。
ただし、視聴者が感じるその予感とは大部分「撮り方」に基づくもので
あって、明確に映像効果を指定しているのでもない限り、言語化可能な
要素としては脚本にそれほど死を匂わせる表現はない。

俗な言い方で言えば、美奈子のセリフはいわゆる「死亡フラグ」の定石
に則ったものだから、ひねくれた視聴者にアカラサマに死が予感される
というのみである。そこにたとえば前述のような濃厚な死のニュアンス
を盛り込んだのは鈴村の映像演出であり、このエピソードではほぼその
映像表現に関心が特化していて、個々のやり取りではドラマが期待され
ていない。

要するに、クウガのそれでは、会話の流れを受けて五代が発するセリフ
が仄めかす内心の動きを類推することでドラマが発生するが、セラムン
のそれでは、視聴者視点において死にゆく少女の言動の見え方が情緒を
盛り上げる形になっていて、普通の意味ではそれはドラマではなく抒情
表現である。

さらに言えば、結果として五代は死なない(異論もあろうがオレ個人は
そう解釈している)が、美奈子はその儘予定通りに死んでしまう。最後
に死んでしまう流れとなっているから、死んだ後に読み上げられる手紙
とそれを聞かされた仲間たちのリアクションで視聴者を泣かせることが
意図されているわけである。

つまり、似ているか似ていないかで言えば、似ているというより対照的
な構造
となっているのである。

そうした対照は何処から出てくるのかと言えば、クウガのエピソードは、
仲間たちとの会話によって生死定かならぬ先行きを控えた五代の心理を
浮き彫りにする言外のドラマとして見せる構造なのだが、セラムンのエ
ピソードは、まず「美奈子が死ぬ」という既定事項があり、それを盛り
上げる修飾要素として会話があるだけとなっていて、そこがまず一八〇
度違うのである。

当該エピソードの時点では最終的に五代が死ぬも生きるも五分の可能性
で、そのどちらに転ぶとしてもこの挿話のドラマ性に対してはさしたる
影響はない。しかし、美奈子の場合は死なないと意味のないエピソード
構造となっていて、その一方死を理由附けるドラマは一切語られない。

つまり、美奈子が死ぬという結論が最初からあって、それを語る筋立て
でありながら死を理由附けるドラマにはなっていないし、その結末その
ものがドラマ的感興を生み出す源泉でもない。美奈子の死が既定事項で
あるということは公式サイトでもハッキリ断言されているが、その既定
事項を映像的に盛り上げる為だけにあるエピソードなのである。

前提条件がまったく逆なのに同じような意匠の挿話として構成している
から、その見え方が対照的なものになっているのである。

更めて繰り返すなら、これはオレがそこに類似点もしくは対照性を探し
たから見附かった恣意的な発見にすぎないわけで、相違点を探そうと思
えばもっと簡単だろうと思う。しかし、オレはこのコジツケの思い附き
で探り出した類似点には、自然に見出し得るそれより多くの相違点より
も意味があると直観する。とりあえずこの直観を信じ続けることでさら
に考察は続くのである。

では、現物を比較して類似を探る試みは一旦棚上げして、今度は目先を
少し変えて、そんな影響関係が現実に在り得るか何うかを考察してみる
ことにしよう。

少しトクサツに詳しい人なら、クウガという番組が響鬼の悲劇を先取り
していたことをご存じだろう。というより、例の響鬼の一件は高寺成紀
が性懲りもなくクウガの暴挙を拡大再生産した為に起こった、必然的な
事件と視るのが妥当だろう。

クウガの時点でも響鬼と同様、高寺の暴走を補佐する為に後半から白倉
がヘルプに廻っているわけで、DVDで調べてみたら、井上脚本のライ
ジングパワー初登場エピソード、つまりEPISODE 24「強化」からP補と
して白倉伸一郎のクレジットが入っていた。

ちなみにこの「強化」の前編に当たるEPISODE 23「不安」までは、P補
のクレジット自体がなく(前半の数話までは横塚孝弘がクレジットされ
ている)、窮めて中途半端な時期の参入だったわけである。

白倉が自身の著書「ヒーローと正義」で触れている「少年の家出の話」
とは、直後に当たるEPISODE 25「彷徨」EPISODE 26「自分」で、ゴ・
ジャラジ・ダの快楽殺人を描くEPISODE 35の「愛憎」は、凄まじき戦士
の登場を予感させるシリーズ中の要のエピソードだから、クウガを論じ
るに当たってそれに触れるのは不思議ではないが、割合に重要性の薄い
子供の家出の話を殊更に採り上げたのは何故だろうとかねがね不思議に
思ってはいた。

しかしこうした白倉の参入時期を考えれば満更不思議でもないわけで、
初めて前後編をまともに補佐したエピソードが余程印象に残ったという
ことなのではないかと思う。著書中で語られるこのエピソードへの批判
は、何う贔屓目に考えてもコジツケの難癖で、いろいろなものを枉げて
とらないとこのような結論には決してならないだろう。

だが、それよりもっと重要なのは、ファイズやセラムンを手掛けていた
時期に執筆されたと思しき白倉の著書において、クウガという白倉自身
も関与した作品に対して、為にするような恣意的論難が堂々と記述され
ているという事実である(事実関係の誤認や歪曲に関してはいろいろな
ブログで指摘されている)。

平成ライダーの成立事情に詳しい人なら、それを殊更不審に思うことも
ないだろうが、セラムン前後の時期の白倉にとって、クウガという作品
の経験は決して好ましい想い出ではなかったはずなのである。

たとえば白倉がアギト以降の平成ライダーを担当したのは、ぶっちゃけ
高寺が下手を打って左遷されたからであって、高寺の失脚によって好機
が巡ってきたという見方も出来るが、高寺の失敗の尻拭いをさせられた
という見方も出来るわけである。

しかも、東映的にはクウガの続編としてアギトを制作したかったところ
高寺が突っ張る形で世界設定の連続が有耶無耶になった。これは別に
それほど高寺の言い分が間違っているとも思わないが(笑)、結果的には
白倉が社命でやっている仕事に個人的な動機で水を差したわけである。

さらにこれは一種の懲罰処置だとは思うが、あれほど高寺が切望してい
た劇場版はクウガには許されず、白倉のアギトであっさり企画が実現す
るわけだが、高寺成紀の人となりを考えると絶対白倉に悪感情を抱いて
いるだろう(笑)。一言で言って、それは逆恨みである。

そしてセラムンが制作された時期には、本来ならクウガの一件による懲
罰待遇が鈴木武幸の厚意によって解けた高寺が響鬼(もしくは嵐か)を
制作していたはずらしいのだが、まあ例によっていろいろあって日笠淳
ブレイドが先に制作される運びとなったらしい。

つまりこの時期の白倉の眼に高寺成紀は、

・自分の仕事に終始理不尽な割前を喰わせて
・身から出た錆なのに自分を逆恨みしていて
・上司の温情に後足で砂を掛け面目を潰した人物

として映っていたと想定されるだろう。

すでに、響鬼のプリプロが大幅に遅れ編成に混乱が出来した段階で鈴木
武幸の温情は台無しとなって、高寺の管理能力には上層部から決定的な
NGが出されていたはずである。

響鬼を制作する以前にすでに高寺の現場復帰という目はなくなっていた
わけで、響鬼が実際に制作されたことによる影響とは、高寺の去就に関
しては今度こそ依願退職に追い込まれたという違いでしかなく、現場で
何もやらかさなかったとしても、冷や飯喰らいの境遇に戻されたという
だけだっただろう。

ところが、白倉視点で言えば当時抱えていた自身の作品を圧迫してまで
高寺のご乱行の尻拭いをさせられたわけで、クウガ再びどころの騒ぎで
はなかっただろう。白倉から視れば、響鬼の後始末を引き受け前任者の
企図を可能な限り活かすように努めるだけでも十分貧乏籤なのに、高寺
時代の作風のファンから番組の簒奪者の如く忌み嫌われたわけである。

さらに、鈴木武幸が高寺を呼び戻そうと考えたのは、個人的な温情とい
う以上に、東映が抱える深刻な人材不足の故もあっただろうし、高寺が
ライダーに復帰することで白倉の負担も軽減されるという計算があった
のではないかと思うが、事ここに至っては、東映社内の人事問題で関係
各位に重大な混乱を招いたのだから、次のライダーには最も実績のある
白倉を立てる以外社外へ誠意を見せる術はなかっただろう。

要するに、高寺に託した希望は完全に裏目に出たわけである。

世の中はつくづく理不尽に出来ている(笑)。高寺成紀という人物は東映
に在籍している間中ずっと、最後の最後まで白倉伸一郎に割りを喰わせ
続けたわけである。これはもう、前世からの悪因縁とでも思うしかない
だろう。多分白倉は、前世で高寺に何か途轍もなく非道いことをしたん
ではないだろうか……たとえば、たとえばの話だが高寺の自宅にあった
アニメ関係グッズを勝手に全部捨てた
とか(木亥火暴!!)。

オレが白倉なら高寺が嫌いになると思うが(笑)、白倉伸一郎という人物
は黒猫亭とむざうとは大分違う人間なので、おそらくはそこまで単純に
高寺成紀という先輩を嫌っていないのではないかと思う。

いや、嫌いは嫌いなんだろうけど(木亥火暴!!)、感情的には嫌いでも、
変に生真面目な人間だから、その作品や制作姿勢を一概に否定すること
は出来なかったのではないかと思う。著書におけるクウガ批判には、高
寺作品に対するロコツな感情的反撥が透けて見えるわけだが、著書の書
きぶりほどには上から目線で批判的には視ていなかったのではないか。

無根拠な憶測だが多少白倉に同情的に解釈するとすれば、著書における
クウガ批判の事実誤認は、悪意的な誤誘導というより白倉個人が高寺個
人の言動から受けた印象で記憶が歪曲されていたのではないかと思う。

おそらくあのクウガ批判は、実は作品批判ではなく高寺思想に対する生
の形の反感が噴出したものではないかと考えると面白いのだが、それは
脇道にすぎるだろう。話をセラムンとクウガに戻すと、おそらく白倉は
著書で書いているほどクウガという作品を批判的に視ていないのではな
いかと思う。

元々白倉というプロデューサーは現場の仲間に過剰に入れ込むタイプの
人間で、ともすれば受け手の視聴者よりも現場の仲間を重視する困った
心性の人物ある。

そんな甘いところのある人間が、自身も関与した作品を、統括責任者が
嫌いだからと言って悪意的に批判するというのは窮めて「らしくない」
わけで、高寺が暴君的であればあるほど現場の人間に同情的になるのが
いつもの白倉体質で、そんな人々がギリギリ締め上げられながら作った
作品自体にはそれ相応の愛着があると視るのが自然だろう。

クウガの経験を経て悪夢の再現が起こった響鬼騒動に際しては、その経
験の反映が視られると思う。多分白倉は響鬼という作品も決して嫌いで
はなかったのだろうし、嫌いではない作品の嫌いな部分を論うことが無
意味なことをクウガの経験から悟ったのではないだろうか。後には白倉
も響鬼という作品が失敗作であることを仄めかしたようだが(笑)、それ
は響鬼の場合は自作でもあるからだし、クウガのように積極的に批判は
していないはずである。

白倉がクウガを批判したのは、自著において自身の関与した作物を一切
批判しないのも片手落ちと考えたこともあるだろうし、その場合思想的
には対極にある高寺がリードしたクウガが最も好適だったという側面も
あるだろう。

しかし、そんな生臭い都合よりも、クウガという作品全体を包んでいる
高寺思想臭に対する反撥の故ではないかと考えると窮めて面白い。おそ
らく白倉は、クウガを駄目な作品だとは考えていないのだろうし、寧ろ
面白い作品だと考えているのだろうが、高寺思想……というか高寺成紀
の体臭が生理的にイヤなのではないか。

たとえばクウガや響鬼関連の書籍を目にした方なら、パブリックな場面
で高寺成紀がどのような話しぶりをするのかよくご存じのことだろう。
リアルな人物像は一旦捨象するとして(笑)、一言で言って高寺は表舞台
では中学校の校長先生のような話し方をする。そのような人物がクウガ
のような物語を創ることが、白倉にはたまらなくイヤだったのではない
だろうか。

もっと踏み込んで言うなら、クウガのような作品を創るのは高寺のよう
な人物であることを識ってしまったことが、平成ライダー以降の白倉の
作風を決定附けたと考えるともっと面白い。ある種、その間の心理的な
ダイナミズムは、所期条件としてはクウガの世界観を引き継いだアギト
というシリーズの動態を視ることで検証可能なはずである。

ここで大本の話題に戻るなら、オレはクウガとセラムンの間に影響関係
が在り得るか何うかを今ここで考察していたわけであるが、心象で言う
なら真っ黒だと思う。実際、同時期に書かれた著書で殊更にクウガを例
に挙げて批判しているのだが、常々指摘しているように白倉式の論理と
いうのはまず結論ありきで、結論に繋げる為に穴だらけのストーリーを
積み重ねるという特徴がある。白倉式論理の真意を視る為にはプロセス
よりもまず結論を視る必要があるのである。

その結論とは彼の場合即ち「目的」であって、「目的」は即ち「動機」
である。つまりセラムンを創っていた時期には、クウガが体現する思想
を批判したいという積極的な動機があったわけで、どのような形で顕れ
たかには議論の余地があるだろうが、影響関係それ自体は存在したわけ
である。

だとすれば、たとえばオレがAct.47にEPISODE 47の影を視るのは、直接
的にはただの予断だが、間接的にはより真相に迫っているのではないか
という予感を覚える。何せこの思い附きは「喩え話」なのだから(笑)、
直接的には当たっているはずがないし、そんなことは何うでも好い

その喩え話によって、「美少女戦士セーラームーン」という作品の下層
レベルに、就中最終盤の構想のレイヤーとして「仮面ライダークウガ」
という因縁浅からぬ先行作品からの影響が蠢動していることを、オレが
確信出来たという事実が重要なのである。

作品外からの影響を考えるという意味では、以前語った「千年王国III
銃士ヴァニーナイツ
」も重要な要素だが、そこにクウガという要素が新
たに加わったわけである。

この確信が得られたお陰で、オレは一旦最終話までを考えてみて、そこ
からさらにこのAct.47に戻るという迂遠な手続を踏むことが出来た。

ではその前提の下に、今度は何故美奈子の死が既定事項として決定され
ていたのかを考えてみよう。それはオレがAct.28のレビュー中で土下座
してお願いした
からでは決してないだろう(木亥火暴!!)。

愛野美奈子は何故死なねばならなかったのか?

……そこ、脊髄反射で七〇年代のボケ入れるんじゃない!

ジークジオンとか言ってんじゃねーぞ!

順を追って考えていこう。愛野美奈子が死なねばならなかったのは多分
現場の感覚としては「何となくそうでなくてはならないから」だろう。

愛野美奈子の設定から導き出される在るべき姿を考えれば必ず死なねば
ならなかった、そういう言い方も出来るだろうし、それが最もしっくり
来る説明であることは否めない。ただこれは通じる人間にしか通じない
目配せの言葉であるにすぎない。説明というのは通じない人間に通じる
ように語る絵解きの言葉であるべきである。

では、何故愛野美奈子にはそのような設定が課されていたのか、今度は
それを考えてみよう。ご存じの通り、美奈子が死病を抱えているという
のは実写版オリジナルの設定で、原作にもアニメ版にもそんな設定など
何処にもない。

何故愛野美奈子は死病のさだめを課されたのか、それはこれまで四六話
の積み重ねで考えれば、さして難しい設問ではない。実写版のセーラー
戦士中で闘いの積極的な動機を持っていたのは、独り愛野美奈子だけで
あり、一四歳の少女が命懸けの闘いを闘う動機としては、同じ命を天秤
に掛けるしか説得力がないと考えた人物がいたからである。

形式的なことを言うなら、それは愛野美奈子というキャラクターがセー
ラーVだったからであり、「コードネームはセーラーV」という作品が
美少女戦士セーラームーンという作品の雛形だったからであり、その総
合として愛野美奈子=セーラーヴィーナスは前世の四守護神のリーダー
にしてプリンセスセレニティの影武者という特別なキャラクターだった
からである。

本来的には、愛野美奈子はこの物語の主人公で在り得た位置附けの人物
であり、セーラーVとはセーラームーンで在り得たかもしれない人物で
あり、セーラーヴィーナスは四守護神中最強の戦士であるべき人物であ
り、セーラー戦士団を力強くリードすべき人物なのである。

それ故に月野うさぎを主人公とする新たな物語においては、剰りに主人
公の影を負いすぎていたことで却って割りを喰った嫌いはあったのだが、
原作者の意志としても、仕切り直しの実写版に際しては、本来的な愛野
美奈子像を追求したいという動機はあっただろう。

この実写版がアニメ版よりも原作者の意向を強く反映したシリーズであ
るという事情は博く諒解されていると思うが、それを白倉流にアダプト
させるとすれば、戦士団中でただ一人闘いの動機を揺るぎなく堅持し、
戦士団を導く人物として美奈子を設定するということになるだろう。

これは白倉式原作解釈のセオリーで考えれば、自然なパターンである。
原作の本質的な要素を観念レベルで抽出し、その本質を在り得べき範囲
内で本来理想とすべき形にアレンジし、そこに具体の意匠を乗せて新た
な物語を創造していく、それが白倉式原作解釈のセオリーである。

平成ライダーやTHE FIRST の根っこにはそのような白倉独特の原理主義
的な原作解釈があるのであり、それをして実写版は「原作原理主義」を
表看板に謳っている
のである。当時も今も「どの辺が原作原理主義なん
だ」という原作ファンの不満は絶えないが、それはこのタームの意味を
履き違えているだけの話だ。

そして、当時の白倉伸一郎という人物は、主人公の闘争の動機を具体的
な個人性の範疇でしか信じられなかったのである。前述の通り、未熟な
女子中学生が揺るぎなく堅持し得る命懸けの闘争を闘う動機を想定する
場合には、その少女の日常的側面においても死と裏腹のシリアスな生が
在るべきである、と考えたのだろう。

一般的な一四歳の少女に、「自分が今この瞬間に死ぬかもしれない」と
いう想像力はあるだろうかと考えた場合、普通はそんな実感などはない
だろう。未だ自分の人生が始まってもいないこの年頃の少女にとって、
死とは徹頭徹尾他人事である。これから育っていく子供にとって命とは
自明の既得権益なのであり、死とはただの言葉にすぎない絵空事でしか
ないのである。

そんな想像が可能なのは死を身近に感じたことのある人間だけであり、
大人の手篤い保護教導の下に育つはずの女子中学生にそんな実感がある
とすれば、それは窮めて不幸な事態である。多くの闘争物語において、
闘う主人公が二〇代の青年と設定されているのは、その年齢域なら人に
よっては死を身近に実感する機会を経験していても自然だからである。

変に生真面目な白倉伸一郎にとって、セラムンという既存の物語構造で
最も気になったのは、自身の死という実感を未だ想像出来ない少女たち
が、前世の宿命というだけの理由で、命懸けの闘争を闘うという大枠の
設定だったのではないだろうか。

そんな未熟な少女に世界の命運を賭けた闘いを闘わせることは、無責任
なことなのである。これはたとえば神話世界である前世の月世界王国に
おいてであれば、現代的な視点を適用すること自体がナンセンスなのだ
し、そもそも前世のセーラー戦士団は一四歳の少女たちですらない。

しかし実写版の世界観においては、セーラー戦士たちは前世の四守護神
としてではなく、飽くまで現世の女子中学生としての意識で宿命の闘争
を闘うのである。現実の女子中学生たちに、揺るぎない闘いの動機など
最初からあるわけがない、ならばセラムンの物語とは極普通の女子中学
生が命を賭けて闘わねばならない理由附けに纏わる物語であるべきだ、
これが白倉的な出発点だろう。

未熟な少女たちが「ご町内ヒーローごっこ」の延長上で闘うというのが
原作やアニメ版の出発点であり、それこそ一種の「ライブ感」によって
徐々に物語はシリアスな性格を強めていくわけだが、既存の物語群が一
通り語り終えられた時点で、シリアスな宿命の闘争という性格を前提に
織り込んだ上で新たに語り直す物語としては、そこまでの射程を視野に
入れ逆算した形で出発点の設定を考えなければならないのである。

そのような前提において、愛野美奈子=セーラーヴィーナスはすでに最
初から闘争の動機を確立した人物として物語世界内に現れる。主人公で
あってもよかった人物として、物語の劈頭から姿を見せるのである。

そこまで戦士としての自己認識を確固として確立した人物が女子中学生
である為には、その少女に死の実感がなければならないのであり、さら
に駄目押しとして、現代的な基準を無効化する神話世界の住人としての
意識がなければならない。

実写版の愛野美奈子が今在るような形で造形されたことには、このよう
な考察が背景にあるだろう。既存の物語群では名実共に主人公の生霊と
して、所謂「キャラが被る」という形の割り前を喰わされたわけだが、
実写版では同じ生霊ではあっても「主人公の地位を簒奪された人物」と
して、うさぎとは対照的な独自の人物造形を試みているわけである。

そして、ここまで考察したうえでいま一度「愛野美奈子は何故死なねば
ならなかったのか」を問うならば、他の四人と違って最初から前提条件
として闘いの動機が確立されていた愛野美奈子の場合、リアルな現代の
女子中学生として設定された他の四人の少女との交流が、その非日常的
な闘争の動機を無効化する方向で働いたからである。

愛野美奈子の揺るぎない闘争の動機とは、前世の戦士としての意識であ
り、現世における死の宿命だった。その両方の意義が物語の進行に伴っ
て解消されていくなら、現世における一個の少女としての生を受け止め、
死の宿命に敢然と挑む決意が獲得された瞬間、愛野美奈子という先覚者
は闘争の動機を喪失してしまうのである。

愛野美奈子がこの時点で死んでしまうのは、つまり物語内における役割
が終わってしまったからなのである。登場時点において剰りにも確固と
した闘争の動機を堅持していた為に、それが消失してしまったとしても
代わり得る動機を遂に持ち得なかったのである。

闘う動機を持たない戦士は、まさに「ここにいる必要はない」のだ。

だとすれば、そもそも主人公の闘いの動機に拘る白倉の生真面目さは、
一体何処から生まれたのだろう。それがたとえばダイレンやシャンゼの
昔から視られた彼固有の資質なのだと断ずるのは容易いが、「最初から
そのような人物なのだ」というのでは、何を言ったことにもならない。
それこそ、視ようとすれば何処に何を視ることも可能なのである。

ここで先ほどの「喩え話」から得られた確信を適用するならば、白倉が
主人公の闘う理由に拘泥するのは、クウガの五代雄介が剰りにも無前提
に利他の闘争を闘う動機を揺るぎなく堅持していたからかもしれない。

文字通り五代雄介は「最初からそのような人物」なのであり、その動機
面の深耕は一切描かれていなかった。前掲著書で白倉はクウガと並べる
形でウルトラマンティガも批判しているが、ティガの主人公・マドカ・
ダイゴもまた過去の履歴を一切持たずに「最初からそのような人物」と
して唐突にオレたちの前に現れたのである。

おそらく白倉が信用しないのは来歴の定かではない「最初からそのよう
な人物」として現れるヒーローなのではないか。それは、剰りにも個人
としての白倉伸一郎とは共感の杜絶した存在だからであり、共感が杜絶
している以上、白倉は五代雄介もダイゴも信じられないのだろう。

クウガの五代雄介も、ティガのダイゴも、現在そのように在るヒーロー
としてのリアルタイムの心性が語られるのみであり、何うしてそのよう
な心性に至ったのかという心理面の履歴は一切語られない。

先ほど少し触れたアギトの主人公・津上翔一は、この意味で言って白倉
的にアダプトされた「最初からそのような人物」であるヒーローなので
はないだろうか。津上翔一こと沢木哲也は最初の最初から無前提で利他
の闘いを闘うヒーローであり、終始それに疑問を抱くことはない。それ
は出発点において彼の過去が喪われているからなのである。

アギト当時の白倉の論理においては、心理面の履歴が一切語られること
なく「最初からそのような人物」として現れるヒーローを設定する場合
に、心理面の履歴の不在を根拠附けるアリバイとして「記憶を喪失して
いるからである」と辻褄を合わせたのではないだろうか。

履歴が不在なのは、それが喪われているからだというのは窮めてわかり
やすい。但し、この場合は一時的に喪失しているだけなのだから、何れ
それを回収する必要が出て来るということは言うまでもない。

つまり当初はクウガの続編として構想されたアギトにおいて、最初から
白倉はクウガのアンチテーゼとしてアギトを設計したわけではなかった
のである。白倉がクウガを語り直すと想定した場合に、何うしても肯定
出来なかったのは「最初からそのような人物」として現れた五代雄介と
いう主人公の無前提の強烈なヒーロー性だったのではないだろうか。

今現在何故にそのように在るのかという成り立ちが理解出来ない事象を
白倉は信用しないのだろう。それにも関わらずクウガの劇中人物たちは
五代雄介の無前提の善意に触れ分かち難く彼との絆を確立し、何ら疑問
を抱くことなく彼を全面的に信用し、世界の命運を五代雄介という新時
代の英雄に一任し、一致結束して彼に協力するのである。

そして、最終局面においてラスボスのン・ダグバ・ゼバとの闘争に勝利
した五代は、尚且つ凄まじき戦士への変身がもたらすはずの「闘うだけ
の生物兵器」への堕落をも回避し、それに関して劇中のすべての人々は
「五代だから」それが出来たと解釈し、超絶的英雄である五代を交々に
称賛して物語は幕を閉じる。最終話のEPISODE 49では、丸々一話すべて
が、人々のそのような英雄礼賛のコメンタリーで埋め尽くされているの
である。

このラストを、白倉は信用しなかったのだろう。何故ならすべての劇中
世界のクライシスを回避し得たのは、五代雄介という主人公が無前提の
英雄
だったからであり、最終闘争に伴う巨大なリスクを回避し得たのは
五代が五代であったからという無根拠な理由によるものだからである。

そもそも白倉は五代が五代であることのリアリティなど信用していない
のだから、最終局面のクライシス回避がすべてその一点、五代が五代で
あり無前提の英雄であるという事実に収斂する納め方などまったく信用
出来なかったのではないか。

勿論オレは白倉伸一郎ではないのだから、クウガのこのような納め方を
批判する動機などない。本来英雄物語というのはそのような性格の物語
なのだし、前述のようなクウガ観そのものが一面的にすぎていて、もし
このように考えているなら、それは文芸に対する白倉の勘の鈍さの顕れ
だろうと思う。

オレがここで語っているのは、アギトを出発点とする平成ライダー的な
白倉の作劇観の根っこに、クウガからの批判的な影響関係があるのでは
ないかという仮説である。

そこからセラムンのこのエピソードに戻るとすれば、愛野美奈子は何故
死なねばならなかったのかという設問への回答の根っこに、クウガから
のエコーがあるという想定は間接的に妥当なのではないかと思う。

実写版の愛野美奈子のオリジナル設定が、如何なる必然に基づいている
のかという設問についてはすでに考察した。さらに彼女が死なねばなら
なかったのは、戦士でしか在り得ない人物が劇中における戦士としての
役割を喪失したからだという結論も語った。それは、白倉が愛野美奈子
=セーラーヴィーナスという人物の今在る現状の根拠に拘ったからなの
である。

五代雄介がこのような人物であることに説明は必要ないとしたクウガに
対して、同じように戦える人物がいるとしたらそれは記憶を喪っている
からだと根拠附けなければ納得出来ないような人物が、最初から揺るぎ
なく闘争の動機を持つ女子中学生の物語を語ったからこそ、愛野美奈子
は死なねばならなかったのである。

しかしその一方では、劇中における役割を喪失したとしても何故闘病の
為に一旦戦線を離脱するという形の微温的な退場が許されなかったのか
という疑問が残るだろう。

それは具体的な語りの現実に伴う問題であるとオレは考える。そのよう
な微温的な成り行きが在り得るとしたら、美奈子の回心はおそらくワン
クールほど遅すぎたのである。

美奈子が手術を受け容れる決意を固めたうえで尚且つ死なないとすれば、
それは要するに美奈子の病気は「治る」ということになる。そして病気
が「治る」のだとすれば、戦線復帰が前提視されていることになる。

セーラーヴィーナスを含む五人の少女を主人公とする物語である以上、
闘病の為に一旦戦線を離脱するのみならば、流石に最終局面では戻って
来なければお話にならないからである。表舞台の流れと併行して交々に
美奈子の闘病を描くとしても、手術から復帰までの間に一定の時間経過
が必要とされるから、遅くとも第三クール末頃にはそのようなイベント
が描かれていなければならない。

また病気が「治る」という流れに関しても、白倉は前掲著書で「踏まれ
た痛み原則」という奇妙に硬直したTVマン的な原則を紹介している。
掻い摘んで言えば、TVにおいて病気や障害を扱う場合には、「治る」
という結末も「治らない」という結末も視聴者の一部を痍附けてしまう
というディレンマについての原則である。

美奈子のフェードアウトという選択肢を選んだ場合、それが物語中盤の
適切な時期に描かれたのであれば、それまで散々「治る可能性が低い」
と強調してきた病気が、本人の気の持ちよう一つで「治る」という結末
を語ることになってしまう。それ故に「踏まれた痛み原則」に準拠する
のなら、手術への決意を肯定的に語り得るような適切な時期に美奈子の
退場が描かれることは決して在り得ないということになる。

一方、たとえばAct.46の時点で手術を決意した美奈子がその儘闘病の為
に戦線を離脱するとした場合、最終局面が現状の儘なら入院中に世界の
破滅に巻き込まれて死んでしまうということになる。たとえばセラルナ
やアルテミス、ネフライトのような人物が最終局面に一切絡まずに世界
と共に滅ぶとしても問題はないが、セーラー戦士団の中核を担った人物
が最終局面に一切絡まずに滅びてしまうというのではお話にならない。

愛野美奈子の設定において、劇中世界での役割を喪失して退場するので
あれば、この時点で死ぬしかないのである。

そしてこの想定において最後に検証すべきは、ラスト二話があのような
流れでさえなければ、愛野美奈子がこの時点で死ぬべき絶対的な必然性
はなかったという事実である。

ラストの美奈子の手紙を子細に検討するなら、美奈子の死は前世の宿命
との対決を不可避のものと位置附ける言葉を遺し、死によってその願い
に重みを加えるという作劇上の役割を担ったイベントでもあったことが
わかるだろう。

否応なく関係を迫ってくる前世の悪因縁とケリを附けない限り現世の生
は始まらない、美奈子の遺言はそのように語っているのである。それは
その限りでは正論であり、ここ数話の流れで「前世は無視して済む事柄
ではない」というテーマが語られている以上、妥当な結論である。

しかし、それがたとえばみんなの力を結集してメタリアおよびベリルを
打倒することであっては何故いけなかったのか。美奈子の遺言にはその
ような形のラストを拒む意味などはない。寧ろ前世の因縁を清算しない
限り現世の生もないという駄目捺しは、その成就を約束し大団円の結末
を予感させる言葉であるはずではないのか。

美奈子が死なねばならなかったのは、最終話で戦士たちの善戦も空しく
世界が一旦滅びるからである。宿命に敗れて滅びてしまう以上、そこに
闘病中の美奈子が駆け附けたとしても間抜けな無駄手間でしかない。

美奈子が決戦の場に再登場を果たすとすれば、それは勝利が前提だから
意味があるのである。逆に言えば、敗北が既定事項だから美奈子が決戦
の場に駆け附ける必要はないのだし、決戦の場に再登場する必要がない
から決戦前夜にあっさり死んでしまったのであり、美奈子の遺言は続く
Act.48において皮肉な形で実行されてしまうのである。

Act.48においては美奈子の遺言は「プリンセス……うさぎ、星の運命を
変えて
」「きっと変えてくれるって信じてるから」に重点を掛けて繰り
返され、ダブルミーニングの衛の言葉「もしまた星を滅ぼそうとする奴
が現れたら、おまえが倒すんだからな
」と響き合って、うさぎに対して
衛の殺害を冷酷に強要する言葉へと変容する。

美奈子の死と遺された言葉は、抜かりなくAct.48の悲劇を後押しする形
で経済的に用いられているのである。

だから最終的な結論はこうなる。

愛野美奈子は何故死なねばならなかったか?

それは最終決戦があのような形で描かれたからである。

ならば次回以降のレビューでは、美奈子を殺したこのような結末が何故
必然の既定事項としてシリーズ終盤に立ちはだかったのかを巡る考察に
ならざるを得ないだろう。

今回のレビューは剰りにも暗示的にすぎていて、釈然としない読者の方
もおられることと思う。「黒猫亭の野郎、久しぶりだからって調子コイ
て講釈カマしやがって」と思われた方も多いだろうが(笑)、言うなれば
今回のレビューは続く二話の解析を前にしたアリバイの側面もある。

オレが最前の「喩え話」から一旦最終話までを通観してどのような結論
を見出したと思ったのか、勘の好い読者ならもう見当が附いているので
はないかと思うが……

 

 ここまで話した時、黒猫亭とむざうは朝の光が射してくるのを見て、
 慎ましく、口をつぐんだ。

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