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Act.4 これだから行間の読めない奴は…

映像作品はつくづくテンポなのだなぁと実感した(笑)。

ネットでも評判の悪いたかまる演出だが、これだけ全方位で監督として
弱点があると、それも致仕方のないところ。むしろ取り柄を探すほうが
難しい。「特撮ヒーロー番組としての」という限定を附ける必要もない
くらい、一人のドラマ演出家として未熟な面が目立つ。

Act.3 については、まったく畑の違う人間が、いきなりあの独特の東映
特撮の現場に踏み込んだら、さぞや葛藤や戸惑いもあろうかと努めて好
意的に見ようとしていたが、客観的にローテの二話を総体として判断す
るに、まったくそんな気遣いに値しない相手だったのだなぁ。

…つか、オレ、だんだんこいつに腹が立ってきた

今回はアクションシーンだけ視ても、三戦士揃い踏みの名乗りポーズや
三位一体攻撃など見所も多いはずだったのだが、イヤな感じの間の悪さ
がせっかくの特撮ヒーロー番組的なイベントを台無しにしている。

とくに三位一体攻撃は、音楽でタイミングを取って同時攻撃という「瞬
間、心合わせて」の実写版的なものになるはずだったのに、撮り方が格
好悪いので「ただの変なヒトたち」にしか見えない(木亥火暴!!)。

だれしも想い描くとおり、これがもしナベカツだったら、笑いと格好良
さを適度にブレンドした名シーンになってたはずなのに…こういうふう
な意味で「もしも○○監督だったら」と惜しまれるのは、クリエイター
として最低の評価だろう。

今回の妖魔は、攻撃しても分裂して技をかわし、倒しても倒しても残り
の二体が再生してしまうという設定ゆえに繰り返しの絵面になるので、
たかまる演出のテンポの悪さがなおさら強調された印象。単体攻撃で二
回、同時攻撃でも二回再生するので、くどいことこのうえない。

スプリット画面で変化を附けてはいるが、この手法も三回使ったのでは
まったく意味がない。何か根本的に技法観が間違っているのだとしか思
えない。

繰り返しの場面で、まったく同じ手順でまったく同じような場面がまっ
たく同じ分量で繰り返されるというのは、それが意図した狙いでない限
りあり得ない選択肢だと思う。技名乗り→攻撃→再生という流れを、何
ら明確な演出上の意図もなく、分量にもアングルにも技法にもまったく
変化を附けずに五回も六回も繰り返すこのセンス。

それでいいのか? 本当にそれでよかったのか?

だったら、おまえはもう映像作家を辞めろ

こういうもっさりしたテンポだと、オフビートな笑いに持っていくとい
う方向性もアリだが、その方向性で視ても中途半端で気持ち悪い。それ
なら三戦士各々のリアクションで笑いをとるということになるが、そう
いう芝居になっていないし、脚本上シリアスなシーンでは、監督が指示
を出さない限り、笑いの呼吸の芝居になることはあり得ない。

だいたい、少女たちが立ち回りを「演じる」という認識からして、まず
間違っている
のだと思う。Act.1Act.2を見る限り、田崎監督は沢井に
もハマチにも立ち回りを「演じさせて」いない…というのは、あくまで
レトリックで、実質的には田崎担当回でもたかまる担当回でも少女たち
の演技やスタントとの配分は同じなんだが、ことアクションに関して、
ド素人の動きが絶対的に美しくないことを田崎監督は熟知している。

美しいポーズなら、芸能人ならある程度の練習でできる。ことに三戦士
たちの本来の畑は雑誌モデルであって、止め絵で美しいポーズを演じる
ことには慣れっこだ。しかし、美しいポーズをリアルタイムでつなげて
コリオグラフィックな美しい動きにするためには、専門的な訓練と経験
が必要なもの。だから素人を動かす場合は、細かくカットを割って、短
いポーズのモンタージュで動きをつくるのだ。

短いスピーディなカッティングは、この意味で個々の監督のセンスなの
ではなくて、こういう条件下でアクション場面を撮る場合の技法上の必
然なのだと思う。変身後のアクションでは、芝居場以外の少女たちの動
きを一連のコンテニュイティーとしては見せず、動きの各要素をバラし
て編集で見せるというのは、東映特撮が非スタント系からキャスティン
グするようになった時代からの経験で培った知恵だと思う。

つまり東映特撮のアクションの九割は、演技者ではなく、カメラワーク
とカッティングでスタッフが組み立てるものなのだ。現実問題として割
れるカット数に限度がある以上、長いカットはきれいに動けるスタント
さんのロングショットに限り、本人が演じる場面はアングルに変化を附
けて細かくカットを割る、これがセオリーだと思う。

ところが、たかまるアクションだと、スタントとの連携以外の部分につ
いては、動きを分解してカットを割り、カメラを動かすことの必然性を
いっさい認識していない。カット数の配分が、他のゆっくりした芝居場
と、のべったり同じになっている。

特撮ヒーローアクションを演出した経験がある監督なら、クライマック
スではカット数が増えるので、そこから逆算して全体のカット割りやス
ケジューリングを組み立てるところだが、そこからしてすでに失敗して
いるということだろう。

何の訓練も受けていない中高生の少女が、妙な扮装で小腰を屈めてボソ
ボソ歌いながらグルグル回ったら、普通の意味では変なヒトにしか見え
ないというのは、当たり前といえば当たり前のこと(木亥火暴!!)。

そこを普通一般のヒト同様に「変な連中」という醒めた目で撮ったら格
好悪いのは当たり前なんだよなぁ。「どう見ても変なコトしてるように
しか見えないんだが、特撮ヒーロー番組というのはそういうものなんだ
ろう
」というたかまる監督の鈍感な意識が仄見える。

極端なコトをいえば、ひょっとしてこのヒトは「特撮ヒーロー番組って
滑稽なモノ」ととらえていて、よくあるパロディ的な笑いをとるのがア
ピールポイントだと思っているのかもしれない。お嬢ちゃんたちのへっ
ぴり腰のアクションなんて、どう撮ったって格好良く見えるとは信じて
いないのかもしれない。そうだとすれば、認識自体が間違っているとし
か言い様がないが、多分そんなコトすら考えていないんだろう。

沢井のしゃくれた横顔やハマチの薄い分け目など、本人が女の子として
女優として「そこを撮られたらイヤだな」と思うようなショットを、何
らの気遣いもなくただダラーっと撮り、そのカットにOKを出してしま
う無神経さを見る限り、女優にも作品にも愛情というものがいっさい感
じられない。

映像面の総てに責任を持つカメラマンだって、たまには間違いを犯すも
ので、女優の見られたくない一瞬を映し取ってしまう場面だってある。
女優のコンディションやリテイクを撮れるかどうかのスケジューリング
の問題もあるが、それを踏まえたうえで、不本意なワンショットにOK
を出すか出さないか、執拗にベストをねらえるかどうかが監督の見識や
力量に関わる部分だろう。

少女たちが、子ども時代の憧れのヒロインをいま自ら演じている、そう
いう気持ちに対するリスペクトなどまったく感じられない。自らの技倆
の範囲内で可能な限り格好良く、美しく撮ってやろうという愛情やこだ
わりが感じられない。こういう作品に関わる以上、そういう気持ちがな
いということは、オレの認識では許されないんだがな。

…というか、そういう部分のない人間が…少なくともこういう条件下で
そういう気持ちを抱けない人間が、なんで映像作品の演出なんかやりた
がるわけ? こんな仕事をしている奴が、自分のサイトで若松節郎監督
とのつながりを云々するなよ、立派なベテランTVマンである若松監督
に失礼だろう。

もちろん、先週来の脚本の読みの浅さもバッチリ健在で、たとえばレイ
ちゃんの危機にうさぎが駆け附けて、着ぐるみが脱げなくて逆に助けら
れるという場面。ここをたかまる監督は、ただのギャグ場面と見て、そ
こにしか注力していないが、本来的にはこのギャグは「レイちゃんのピ
ンチをうさぎに助けさせないための脚本上の工夫」だろう。

通俗的なセオリーでは、一見、レイちゃんのピンチをうさぎが助けるこ
とで「一人だけじゃ戦えない」的な落とし所に持っていくのが常道だろ
うが、小林靖子の目はさらにその一歩先を見ている。

これまでのレイちゃんの来し方から考えれば、レイちゃんの孤独な戦い
は、異端の自分を自己肯定するためのレゾンデートルとしての戦い。そ
の意味では、孤軍の戦いで危機に陥ったとしても、それはそれで仕方の
ない話で、他人にピンチを救われることではそのわだかまりは解消され
ない。ムーンの助力を「よけいなことしないで」と撥ね附けることで、
レイちゃんの緩解をもっと引っ張る選択肢もあった。

ここを他者の危機を救う落とし所に持っていく辺りが小林脚本の真骨頂
であって、いってしまえば、これまでのレイちゃんは、直截には他人を
助けるために戦っていたのではないという側面がある。

自らの異能を善用することで自身の存在を肯定したいから戦っていた、
そこに他者との実感的な繋がりや温かい関係性はない。内面的な自己充
足の域を出ていない。

それを、自分を救うために危機を顧みずに駆け附けてくれた他者を逆に
救うという手続を踏ませることで、うさぎの感謝の言葉に素直に感銘を
受ける流れに持っていったのが小林靖子の目の確かさだ。たしかに、こ
こまで考え抜かれた手続が踏まれたら、レイちゃんの頑なな心が、ただ
一度のきっかけではらりと解れても納得が行く。

また一方、亜美ちゃんのほうにもレイちゃんの心を解す重要な会話があ
るが、次週予告を見る限り、亜美ちゃんの心のドラマはAct.2 からずっ
と続いているのだとわかる。

>>また、屈託なく母親と戯れ合ううさぎを笑顔で見詰める亜美ちゃんとい
>>う、今現在では演者・演出者ともに今後の展開を知らない以上捨てカッ
>>トでしかない伏線もあった。

前回はこう書いたが、何のことはない、その伏線は同じたかまる担当回
の今週分でさっさと受け継がれているじゃあないか。何を読んでいたん
だ、たかまるよ。亜美ちゃんの心のわだかまりがAct.2 で解消されたわ
けではなく、「人の輪に溶け込めない」という問題を残したままである
こと、Act.3 の脚本上の亜美ちゃんの描き方がこの一点にアクセントを
置いていることは、だれが視たって明白だ。

友人宅で姿勢を崩せない硬さ、うさぎと母の屈託ない戯れに溶け込めな
い戸惑い、引いては自分と母との関係に想いを致す心の陰翳、こうした
複雑な要素が、魚眼でとらえた微笑みのワンショットに表れていたか。

ハマチの演技力がどうこうというのは愚の骨頂で、何をどう差し置いて
もこの場面は、少女たちの心のドラマでもあるこの番組では最大限のこ
だわりを持って撮られるべき重要な場面だったのではないのか。

たとえばこの場面の最後尾に、カメラアングルを変えて亜美ちゃんの真
顔の寄りがワンカットでもインサートされていれば、それで解決の附く
問題だったのではないのか。それこそが演出の知恵であって、「ジャリ
タレに細かい芝居は無理」みたいな多寡の括り方がそこになかったか、
そこをオレは問いたいね。

一方、レイちゃんの登場話がたかまる演出だったことで、彼女のキャラ
クターが曖昧なままであることも重大な問題だろう。前回は一種の留保
としてスルーしたのだが、Act.3 のレイちゃんの演技でだれもが不自然
に思うのは、うさぎに「レイちゃんは隠れていて!」と言われ、ごてい
ねいに頷いて小腰を屈めて木陰に隠れるところだろう。

この場面でセーラー戦士であるうさぎが一般人のレイちゃんに「隠れて
いて」と言うのはきわめて自然なのだが、自分を戦いの人と自認するレ
イちゃんが、セーラー戦士であるなどとはつゆ知らない普通の中学生の
うさぎに「隠れてろ」と言われて素直に言うことを聞くはずがない。

「あなたこそ隠れていなさい」とうさぎを庇って九印を切るか、「この
娘、いったい何?」と戸惑いを覚えるのが自然だろう。小林靖子だって
この手のイージーミスを犯さないとは限らないが、従来の彼女の傾向か
ら考えて、セリフを読めば呼吸がわかるような事柄について、そんな細
かいト書きを書くとは思えない。ここは非特撮系のたかまる監督が、ピ
ンの絵面と変身バンクがつながらないと考えて、レイちゃんをハカせた
のではないかと思う。

前回は、あえて指摘するまでもないことだと思って言及しなかったんだ
が、今回のエピソードでも、同じようにレイちゃんがピンチに陥ってう
さぎが助けようとするという流れになっていて、そこが重要なポイント
になっている以上、俄然意味合いが違ってくる。

先週からの流れで今週の話を視ると、レイちゃんというキャラクターは
自ら好き好んで戦いに乗り出すくせに、いざピンチに陥ったら遠慮なく
他人の助力をアテにするヘタレな人間のように見えてしまう。

しかし、「よく考えてみれば」今週レイちゃんがうさぎの助力をアテに
したのは、先週の話で彼女がセーラー戦士としての戦闘力を持つと知っ
て、妖魔と戦っても一般人よりも危険はないと認識しているからだ。そ
して、この時点では亜美ちゃんとの会話を受けて、その程度の助力なら
甘受しても差し支えないくらいの気持ちになっているということだ。

それ以前にマーキュリーと同時変身して、マーキュリーを庇って逃がし
はしているが、ただ逃がすのではなく妖魔の狙うお宝を託すくらいの気
持ちにはなっているので、自然なウェイトの掛かり方となっている。

他人を受け容れない気持ちのままなら、自分がお宝を持って逃げて囮に
なっていただろう。お宝を持って逃げるのも、この戦いの中の一つの役
割であるからこそ、マーキュリーも否やを唱えずに逃げたのだ。

このマーキュリーの行動が自然なのも、実はAct.3 のなかに伏線があっ
て、一見おふざけに見える冒頭のクイズの場面も、うさぎと亜美ちゃん
の戦いに対する考え方の違い、根本的な人物像の違いを明確に印象附け
る工夫ではあった。

単にうさぎがおバカで亜美ちゃんが賢いというだけのことではなく、戦
士の目的について、使命がどうとかではなく、困っている他者を救うと
いう利他的な側面を真っ直ぐ見詰めるうさぎと、本質的な筋道を洞察す
る亜美ちゃん
の、それぞれの対比が描かれている。

亜美ちゃんは、銀水晶を護ること「も」この戦いの重要な目的であるこ
とを、おそらく現時点の三人のなかでは最も認識しているのだ。だから
こそ、レイちゃんが敵と対峙している隙に迷いなくお宝を持って逃げた
のだと思う。レイちゃんにとっては、お宝を託したのはマーキュリーを
逃がすための方便だったとしても、マーキュリーにとっては戦士として
の重要な役割分担だからこそ、レイちゃんの指示を瞬時に実行した。

実は、脚本上ではどこも間違ってないんだよ。

そこからの流れで、自分が片附けようと思っていた妖魔が二体に分裂し
て一体を取り逃がし、早急に一体を倒してもう一体を追わねば亜美ちゃ
んとお宝が危ないという局面に至ってピンチに陥る、どうしていいのか
わからない、そこにうさぎが駆け附けるという段取りを踏むからこそ、
レイちゃんがうさぎの力をアテにするのが自然になってくる。

ここでうさぎがレイちゃんを助けても、少なくとも不自然ではない。前
述したように「今は礼を言っておくわ」的な納め方で引っ張るというの
も、行き方としてはアリだ。だが、そこでうさぎが変身不能という障碍
を設けるのが脚本の知恵で、急転直下少女たちの心は相寄り、具体的な
セリフではなく笑顔が意味を持つ落とし所へ結び附く。

特番にあった田崎監督の沢井評ではないが、これまでは、ともすれば小
器用に表情をつくれて流暢に声の出せる沢井の子役芝居が鼻に附く場面
もないではなかったが、この場面で「仲間っていいなぁ〜」と屈託なく
微笑む沢井の演技は、役者としての力量がどうこうではなく、豊かな情
緒生活を営んできた一人の少女の一瞬がにじみ出ていて抜群に良い。理
屈ヌキに美しい。レイちゃんが釣られて微笑むことに、演技的な説得力
を与えている。

なのに、演出がこんな好演を、少女の美しい一瞬を受け切れていない。
物語のなかで有機的に活かすという、大人の知恵を発揮していない。批
判されて当たり前だ。

こういうふうに、脚本のうえではデリケートな段階を踏んで、なおかつ
現代的なスピーディなテンポで少女たちの心の交流が描かれており、未
熟ながらも少女たちは劇中の人生を懸命に生きているのに、脚本に凝ら
された知恵も、少女たちの懸命な頑張りも、凡庸な演出者によってきわ
めて粗雑に扱われている。

オレはここに腹が立つ。

正直いって、オレみたいな覇気のない人間は、特番で田崎監督が「うさ
ぎというのはこういうキャラで…」みたいなコメントを熱く語ってるの
を見たりするとちょっと引いたりするんだが、そういう真摯さが上がり
の違いに歴然と表れているんだから仕方がない。

たかまる日記によると、次のローテはAct.11Act.12だそうな…また来
るのかよ、もう二度と来なくていいのに(木亥火暴!!)。

一カ月半も後ではあるが、憂鬱な話だなぁ。ネットで不評なことについ
ては、いっさい言及なし。まあ、宣伝も兼ねたサイトで評判悪かったと
は書きたくないだろうけどな。

それにしても、彼の日記の日本語の読みにくさは尋常ではない。なんか
こう、日頃パソコンなんか触ったこともない営業マンが、趣味でだれも
読まない日記を淡々と書き続けて、いっぱし情報発信しているつもりで
いるのを視るようなダイヤモンド・ダスト級のサムさ(木亥火暴!!)。

しかし、映像作家=文章家という感覚は、もう過去のものなのかね? 
まあ、たかまるをサンプルにして映像作家を語ると、他の映像作家のヒ
トたちが泣いて怒るかもしれんが、オレがこれまで聞いたり読んだりし
た範囲内では、映画やテレビドラマの監督は、ライター並に文章を書く
頻度が高いはずなんだが。

以前ネットで彼のサイトがリンクされていたんで、放映前の情報収集の
ために見に行ったんだが、トップページのわかりにくさやイヤな感じの
文章の下手さでイヤな予感はしてたんだよなぁ(木亥火暴!!)。

宣伝も兼ねたサイトのウェブ日記でこのような文章を書いて、それがま
ずいことだとまったく意識してないとすれば、こいつはそもそも公に表
現行為を行うことの意味をまったく理解していない。

個人的な備忘録をウェブにアップしているだけという感覚なら、ウェブ
のアクセシビリティを理解していないというだけだが、こいつは別のコ
ンテンツでOLビジュアル系の制作日誌なんかも公開しているから、一
種の情報発信のつもりで日記を書いているとは思うんだな。そういう性
格のコンテンツで、これだけグチャグチャの文章を書いたら、誤読によ
る誤解が一般に流布してしまうとは考えなかったのだろうか。

しかも、こういう文章を書くということは、他人の文章の客観的読解に
も難があるということで、簡潔で的確な小林脚本の真意を理解できない
のも宜なるかな。それこそ、なんでこんな雑な人間が表現行為を職業に
選ぼうと思ったのか、謎は謎を呼ぶばかり(木亥火暴!!)。

まあ、話をセラムンに戻すと、たかまる演出回のこの二本は、一般ドラ
マの演出家が三〇分ものの特撮ドラマをどう見てるかのサンプルにはな
るのかもしれない。子ども向けだし、この程度の見せ方なんだろう、み
たいな。日記でも、自分の子どもとはいえ女の子が喜んでいるからよし
としよう、みたいな自己評価らしい。

しかし、その辺の「子どもの見るドラマ」についての態度というのは、
特撮系のつくり手のなかでは、試行錯誤の末にある程度の結論が出た問
題だと思うんだけどね。もちろん、子どもにはドラマの良否なんていっ
さいわからない
んだよ、これは間違いない。子どもが喜ぶかどうかとい
うのは、ドラマの良否とは別次元の問題だ。

その意味では、そこだけを問題にするなら、子ども向けの番組が子ども
に受けるかどうかは、純然とマーケティングの問題になる。子どもは自
分の関心対象がどのように映ってるかだけで反応するから、現在只今の
幼児層が何に関心があるのかというリサーチが、かなり大きな決定要素
となるだろう。

そういうジャンルにおいて、意味性のあるドラマを制作するに際して、
つくり手の立ち位置をどこに置くかというのは、これまで散々当事者た
ちによって考え抜かれてきた問題だと思うんだ。その結果、かつてはム
ダにガチだった円谷も、今や純粋に幼児層の関心にアダプトする道を選
び、東映特撮は非公式にではあるが独自のドラマの語り口を模索する方
向に特化した。

こういう図式のなかに何も考えずにボーっと入ってきたたかまるが「子
ども向けってこんなんじゃねの?」とやってみたのが、この二話の雑な
語り口なのかもしれんね。行間読めないだけじゃなくて、多分空気も読
めない奴なんじゃないかと思うぞ(木亥火暴!!)。

まあ、一方的な罵倒に気が差して擁護するわけでもないが、たかまる演
出は単体で見てもひどいことはひどいんだが、一種、直前の田崎演出と
の落差でもってよけいにひどく見えるという側面もあるとは思う。

オレとしては、セラムンへの田崎参加を知ってから、メガレンやギンガ
マンで萌え&燃えを追求し、リリカルな演出に強くて今風の絵の見せ方
にも意識の先鋭だった田崎監督に期待をかける一方、パワレンの経験で
大味でガサツなアメちゃん方式の洗礼を受けたことで、そうした繊細な
部分がスポイルされてるんじゃないかという不安もあった。なんか、ラ
イダーの演出って、さっぱり個々の監督の持ち味が出ないんで、帰国後
長らく判断の附かない部分もあったしね。

Act.1 は顔見せ編ということで、それほど田崎演出がどうこうという部
分も小林脚本の凄みも見られなかったが、続くAct.2 では、この二人な
らではの部分に唸らされ、その「ならでは」な部分をもっと見たいと一
膝乗り出した、その鼻先に突き附けられたのが、たかまるショックだっ
たわけだな(木亥火暴!!)。

しかも、一方の小林脚本のほうは、Act.2よりAct.3Act.3よりAct.4
ほうがずっと勢いを増している。Act.2 から今週分までの脚本の流れを
見る限り、物語はどんどん好調に独自の地平を切り開きつつある。

この流れを全部田崎演出で追えていたら…という憾みがずっと附き纏っ
ているわけだよな。ギンガマンで戦隊が目指すべき一方の極北を実現し
てしまったコンビだからこそ、「女の子が主役の戦隊物」という、女性
の戦隊マニアという小林靖子の出自を考えれば最適のお膳立てで、ギン
ガマン以降の低迷(と敢えて表現するが)を払拭し、東映特撮の新次元
を開拓してくれるのではないかと期待できる。

いうならば、小林・田崎コンビにとっては、この一作が新たなエポック
になるかどうかの瀬戸際なんであって、そんな正念場へノコノコと了見
の間違ったド素人が迷い込んでくるんじゃねえよ、というのが正直なと
ころなんだな。一種の続き物として、こいつのローテでも重要な心理描
写が絡んでくるだけに、こいつのヘボさと意識の低さは犯罪的に感じら
れてしまう。

…てなところで、終わりだ、終わり。

ああもう、縁起悪いから塩でも撒いとけ!(木亥火暴!!)

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