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Act.8 三重の物語

田崎演出の一応の見納めとなる第八話だが、まあ、扱ってる題材そのも
のは設定に絡むネタではあっても、先週同様ヒマネタの一種と言って差
し支えない。エピソードの芯となるレイちゃんとまこちゃんの衝突も、
予想通り「アヤセとドモンのケンカ」そのもの(木亥火暴!!)。

おせっかいノープロブレムな人情家のまこちゃんと、他者との依存関係
を嫌う「それとこれとは別よ!」のレイちゃんが、うさぎの甘えを巡っ
て対立するという構図は、そのままアヤセとドモンの関係に置き換え可
能だ(附録コラム参照のこと)。

では、レイちゃんとまこちゃんの関係とアヤセとドモンの関係の間で、
対称性の破れている部分はどこなのか、小林靖子個人の作物ではなく個
別の番組としてのセラムンを語るのだから、そこを論じたほうが意味が
あるだろう。

人物類型に関するセラムン個別の事情というのは、いうまでもなく、各
キャラクターについて、セラムンという作品世界を知る者の間に緩やか
な共有イメージが持たれている
ということだろう。

その前提のうえで、小林靖子的な戦隊キャラへのアダプテーションが加
えられるのであるから、つまりどうアレンジしてもレイちゃんは火野レ
イという共有イメージから大きく外れるわけにはいかないし、それは木
野まことというキャラについても然り。

それぞれのキャラクターについて、それをそれとあらしめる要素をすべ
て論っていくのはたいへんな仕事になるので、今回は彼女たちとうさぎ
の関係に絞って論じよう。

非常に単純化していえば、うさぎとの関係において、常に理屈ヌキに甘
いのがまこちゃんで、常に批判的なのがレイちゃんだ。あえて断ってお
くが、これはあくまでアニメ版においてそれぞれのキャラを立てる過程
で結果的に定着したイメージだ。

オレは実写版放映後にとりあえずコミックスを全巻読んだが、その範疇
においていうなら、コミックス版のキャラクターにはそういう性格附け
がない。だからオレがセラムンキャラの共有イメージとして語っている
のは、アニメ版のキャラクターと、それをベースとしてキャラクターを
解釈しているセラミュのキャラクターのことだ。とりあえず、そういう
前提で以下の話を聞いてもらおう。

アニメにおいてもセラミュにおいても、レイちゃんはうさぎの言動に対
して常に辛口のツッコミを入れ、まこちゃんは大らかに受け容れるとい
うパターンでそれぞれのキャラクターが成立している。

レイちゃんとまこちゃんの、それぞれのうさぎに対する関係性がこのよ
うなものであるとして、では実写版では、それにどのようなアダプテー
ションが為されているのだろうか。

「甘い」「厳しい」という関係性の位置附けが、親の役割のアナロジー
で語られているのは同じでも、アニメ版ではレイちゃんが口うるさいお
母さん、まこちゃんが大らかで娘に甘いお母さんとして、両者が母親の
両面を象徴するポジションにある
のに対し、実写版ではレイちゃんとま
こちゃんが父母の役割を分担している
というのがオレの意見だ。

ある意味、親の役割論でいえば、実写版のそれのほうがオーセンティッ
クな見方であるといえるだろうが、ひとまずアニメ版から順を追って見
ていこう。

アニメ版のレイちゃんは、元々サディスティックで攻撃的な類型に連な
る釣り目キャラであるがゆえに、主人公に対する態度が辛口のツッコミ
にならざるを得ず、うさぎという幼児的なキャラクターを中心に据えた
関係性のなかでは、口うるさい母親という側面が結果的に出てきた。

対するにまこちゃんは「気は優しくて力持ち」系の大女キャラであった
がゆえに、主人公の細かい欠点や幼児的な言動に拘泥せずに丸ごと抱擁
するような大らかさな母性を附与された。

いわば、それぞれのアニメ的なキャラ類型の必然として、うさぎを中心
とする関係性が決まったようなところがある。うさぎ自身が「ドジで泣
き虫な半人前ヒーロー」という一種ののび太キャラで、ツッコミどころ
満載だったからこそ、だれがどのようにツッコむかという部分でキャラ
同士の間合いが決定される部分があった。

これが、小林靖子的な戦隊キャラの類型にアダプトされた実写版ではど
うなるのかというと、まずそもそもうさぎがのび太ではない。今回のよ
うな甘えを、何の思慮もなく口に出してもおかしくないくらいに無定見
ではあるが、ドラえもんの助けを借りないと一人でトイレにも行けない
ような幼児的なキャラではない。

うさぎのキャラ設計については、過去に散々語ったので多言は費やさな
いが、ドジではあっても、うさぎはうさぎとして一人で立っている立派
なヒーローなのだ。そして、くどくも強調するとおり、実写版のうさぎ
の正体は小林戦隊におけるレッドなので、家族のアナロジーでは、幼児
的な娘ではなく熱血行動型の息子という比喩になる。

今回の話でも、対立のきっかけとなるうさぎの言動を、最初から宿題と
コンテストがかち合ったから助けてくれという虫の良さとするのではな
く、一度は宿題を済ませたのだが、うっかりノートを捨てちゃったので
間に合わない、というケアレスミスに設定している。これは実写版的な
うさぎの造形と、今回のようなエピソードを生起させるための「ドジ」
という共有イメージの折衷としてギリギリのラインだ。

しかも、結果的にはうさぎの独力で宿題はクリアしているのだし、自分
の甘えたおねだりが原因でレイちゃんとまこちゃんがモメ出すと、即座
に「忘れて」と取り下げ、レイ・まこの関係修復を第一命題とするだけ
の真っ当さはキープしている。これだけ真っ当だと、ツッコミのための
ボケにこじつけるのは難しく、引いてはうさぎの幼児性ゆえにレイ・ま
こに母性的な性格が生じるという成り行きにもなりにくい。

普通に対等の友人として「よかったら助けてくれないか」と持ち掛けて
いるので、うさぎのおねだりに対してとるリアクションは、それはその
まま、うさぎが提起した物語上の課題に対する、各々のキャラクター類
型上の「条件反射」ではなく、信念上の問題が露呈したということにな
るだろう。

さらに、それを巡ってモメるのは、スーパーティーンズモデルに見せ掛
けたアヤセとドモンである。うさぎのドジなんか衝突するためだけのた
だのダシにすぎず、をとことをとこの依って立つ信念を賭けたぶつかり
合いに発展するのは理の当然である(木亥火暴!!)。

結局うさぎのドジの後始末はうさぎ自身の問題として解決され、その解
決への努力が、我が身一身の都合を目的としたものから、二人の友人の
和解を念じたものに性格がシフトしている。

ただし、当たり前の意味での戦隊キャラよりも、セラムンのうさぎは行
動派的な無思慮のゆえに失敗を繰り返すレッドキャラなので、一種対等
の大人のキャラクターとして設定されているアヤセとドモンは、保護者
的なポジションに回らざるを得ない。リョウマがレッドとなった場合の
アヤセとドモン、という比喩がわかりやすいだろうか…いや、もっとわ
かりにくくなったな、多分(木亥火暴!!)。

セラムンの五人のなかでは、うさぎと友人同士であることが相互の関係
性で最大の問題となる亜美ちゃんと、どう描かれるかはわからない美奈
子を除けば、大人びたレイちゃんと元々母性的な包容力のあるまこちゃ
んは、うさぎに対して親の役割を受け持たざるを得ない。

その場合、口うるさいことがただの「条件反射」ではなく、理に基づい
てうさぎの言動を冷静に批判するレイちゃんは、ヒステリックに教条的
な命令を強圧する教育ママ的な位置附けではあり得ない。「理に基づく
禁止の言葉を発する存在」という、非常にオーセンティックな意味での
父親性が附与されてしまう。

一方まこちゃんは、うさぎの言動が理に照らして正しいことかどうかに
は拘泥しない。うさぎとの関係性がプライオリティとなって、まず一旦
うさぎのすべてを受け容れる存在だ。ことに、先週から描かれているま
こちゃんの常態としては、恋愛方面に限らず人間関係の機微全般につい
て非常に気の回る世間知のあるキャラクターとして描かれていて、強い
賢母のイメージが生起している。

これをまた単純化していえば、今回の話は、レッドを巡ってアヤセとド
モンが対立する話であると同時に、息子の軽率な発言を巡って対立する
父母の和解を描く物語であるといえそうだ。そう考えたうえでもう一度
今回の話を視てみると、アメリカのホームドラマでよく描かれているよ
うな、息子の怠慢を巡る父母間のもめ事エピソードと類似のテイストを
持っている。

ただ、今回の物語がストレートにこういう比喩のままに納まらないのは
明らかで、それは結局二人の対立が、いつまでもうさぎ中心では回って
いかないからだな。

ホームドラマのアナロジーでは、家族は実際に血縁上の家族なので、た
とえ両親二人の間の問題になったとしても、その間には必ず子どもの存
在が挟まっているが、セラムンの場合は擬似家族にすぎないし、入れ子
のようにレイちゃんの現実の家族の問題が課題として設定されている
で、あくまでアナロジーに留まるのみだ。

今回の話では、レイちゃんとまこちゃんが対等の扱いで描かれる対立話
である一方、設定面の課題を抱えているのはレイちゃんで、まこちゃん
はその救出者の役割を演じている。物語の中心はうさぎではなく、あく
までこの二人にある。

さらに、話の落とし所としては、レイちゃんとまこちゃんが対等に互い
を理解したうえで和解するという話になっているが、レイちゃんの理に
落ちすぎる言動の根幹に、父親との確執に基づく欠落があるという形に
なっているのが、いっそう事情を複雑にしている。

だれもが想起するとおり、この話はタイムレンジャーの竜也と岡本富士
太演ずる父親の確執の物語のヴァリエーションであり、父親との和解が
実現されない限り、本当の意味では着地しない物語だ。芯の芯の部分で
は今回の物語の主役はレイちゃんだという言い方もできる。まこちゃん
は単に、レイちゃん個人の事情に対して善意の傍観者的な立場で介入し
ているにすぎないからだ。

つまり、この話には、うさぎ・レイ・まこの三者関係の側面と、レイ・
まこの二者関係の側面と、レイちゃん個人の事情という三重の中心があ
る。レイちゃん個人の事情については、今回の話に関しては未だに関係
性の物語としては生起していないので、「家庭事情」という概念的な課
題にまつわる物語の性格になる。

小林靖子のこれまでの行き方を考えると、「固有の事情」という概念的
課題のままにレイちゃんの物語が完結することはあり得ない。いずれ必
ず父親である火野が登場し、再度娘と対決する成り行きになるだろう。
そうでない限り、レイちゃんの父親は冷血な偽善者のままで、そういう
父親を持つ欠落を、この先もレイちゃんは抱え続けることになってしま
からだ。

小林靖子的なドラマ観では、死んだ母親の命は取り返しがつかないとし
ても、父親もレイちゃんも生きて未来のある存在なのに、互いの関係性
を修復せずに終えるのは、怠慢でしかあり得ない

タイムレンジャーにおける竜也と父親の確執も、父親が息子を理解する
ことと、息子が父親を理解することを個々に描き、そのうえでさらに相
容れない生き方として対立を設定し、対立の結果として互いを認め合う
に至るという丁寧な手続を踏んでいる。親父の会社なんかオレには関係
ない、あんな奴は息子とは思わない、こういう距離感で物語が完結する
わけにはいかないんだな。

そして、これまではタイムとセラムンの間で対称性の破れている部分に
着目して視てきたわけだが、この父子対決の構図については、ほぼこの
両者は重なり合ってしまう。

レイちゃんは、その異能を疎まれて父親に棄てられた子どもではあるの
だが、父親の愛情を求めるゆえに苦悩しているのではない。これを額面
どおりに取っていいかどうかはさておくとして、レイちゃんが父親につ
いて抱いている感情は、現時点では、その冷酷さと偽善、身勝手さに対
する憤りであるかに見える。

心の底で父親の愛情を求めているがゆえの、棄児の孤独や欠落というふ
うには見えないのだな。竜也と同様、父親への不信と強制への反撥、そ
ういう側面から対立が設定されている。だから、父親と離れていても、
家庭の欠落という意味での孤独が中心的な課題なのではない。

父親に棄てられたことは自身の異能を見詰める契機にすぎず、異能ゆえ
の迫害ということでは、周囲の人間と父親は同列である。彼女にとって
父親にまつわる問題というのは、「親子ごっこ」や「理想の親子」を演
じる偽善性、そして母の臨終を看取らなかった冷酷さ
であって、あえて
父親との関係性でいえば、血に繋がる父親に対する軽蔑それ自体と、血
縁の逃れ難さそのものが課題の中心だ。

課題設定がこのようなものであるからこそ、暫定的な落とし所とはいえ
今回の話が、父親の束縛からの逃走という形で決着しているのだ。未だ
に彼女の物語では、父親その人を指向する関係性の物語は生起していな
のだな。

で、今回のエピソードの構造は、こういう関係性の生起していない内面
的な物語が芯の芯にあって、それがまこちゃんとの二者関係として中心
をつくり、さらにうさぎとまこちゃんとの三者関係の中心をもつくって
いるという、ちょっと複雑な構造の物語になっているのだな。

オレ個人の見方としては、これはちょっと要素の詰め込みすぎではない
かと思う。この三つの中心がピッタリ重なっていたとしても、同心円が
三つでは三〇分のエピソードの構造としては複雑すぎるし、じっさいに
は場面場面で少しずつ偏心しているのではないかと思う。

つまり、今回のお話は、よくできてはいるが、だれにウェイトを置いて
観ればいいのかがちょっとわからない。だれもがオレらセラムン廃人の
ように数十回も録画を観るわけではないので(笑)、話の中心を担う人物
はもう少し単純化したほうがいいのではないかと思う。ここ数話の小林
脚本には、こういう複雑性が見え隠れしていて、ちょっとバランスが危
うい嫌いはあるんじゃないかと思うね。

さて、せっかくの田崎さよならエピソードなのに、演出についてはまっ
たく触れないできてしまったので、ここらで田崎演出に目を向けること
にしようか。

しかし、正直なところ、今回のエピソードではAct.7 よりも脇の甘いと
ころが散見されて、ちょっと拍子抜けした部分もあるね。こういうタイ
ミングで批判的な意見をいうのも気が退けるが、どうしても今回のエピ
ソードについては、重箱的な論旨に終始せざるを得ないだろう。

たとえばレイちゃんとまこちゃんがホテルの一室を脱出する場面、これ
がどういう段取りになってるのか一見してわからないのは、日頃の田崎
演出らしくない気持ちの悪さだね。

最初オレは、二人が室内からルームサービスを呼んで、まこちゃんがテ
レティアSでルームサービスのヒトに変身して入れ替わったのかと思っ
たんだが、だったら二人が脱出したあと、本物のルームサービスのヒト
がどうなったのか、いっさい説明がないのはおかしい。

そこで、ルームサービスの職員は最初からまこちゃんの変装だったと解
釈して、それならワゴン車が最初から台車にガワ附けただけの贋物だっ
たのも理解できると思ったんだが、そうなると今度は、いつまこちゃん
が見張りに気附かれずに部屋を脱出したのかがわからない。

よくよく録画を見返すと、どうも最初に入ってきたルームサービスのヒ
トはまこちゃんではないようなので、最初の解釈のほうが正解だったら
しい。だとしたら、二人が脱出に成功したタイミングで、当て身を喰ら
わすなり縛り上げるなりして身体の自由を奪った本物の職員のヒトを、
ワンカットでもインサートしないと説明が成立しない。

ひょっとして、無関係な第三者のホテル職員の身柄を暴力的に拘束する
のは、正義の味方としていかがなものかという判断で差し控えたのかも
しれないが、こういうテンポで見せるような活劇のシーンで、説明上必
ず必要な画が落ちるのはちょっと痛い。

説明のための説明ではなく、気持ちよいテンポをつくるため、こうした
疑問を感じさせないためには必要不可欠な説明なのだから、どうしても
ワンカットを入れるべきだったはずだ。

それがわからない田崎監督ではないはずだが、どうしようもない事情が
あったとしても、ここ一番の見せ場でこういうミスは痛い。じっさいに
初見でここに引っ懸かったということは、その画を入れなくても成立す
るかもしれないという目論見が、不成功に終わったということなんだか
ら、明らかにミスだろう。

まあ、ああいう穴開きテーブルの仕掛けを短時間の間にいつつくったん
だ、だいたいあそこに穴開ける意味あるのか、というのは、番組のリア
リティレベルからしてそんなに気にならなかったが(笑)、細かいコトが
気になるヒトは、あの穴が移動しながら会話する芝居を附ける「だけ」
のための仕掛けなので、作為性が気になるかもしれないね。

こういう部分を見ると、なぜか前回の露骨にヒマネタなエピソードより
も、割と設定話に近い今週のほうが、それもとくに後半のほうが、田崎
監督のモチベーションが低かったように感じてしまう。

今挙げたような致命的な難点以外は、いつもの田崎演出らしい巧さが見
られるだけに、何とも不可解ではある。邪推すれば、あまりにも唐突な
「実は当初からの予定で来週で降板」という発表はウソで、何かこの撮
影の当時に動きがあっての降板劇かも…と勘繰りたくなる(笑)。

…というわけで、類型や構造面での問題を中心に話す過程で、結果的に
最後の田崎演出を批判するような気持ちのよくない形になったが、こう
した疑問を解消するために、何度かOAを見直したところ、大分事情が
わかったような気がしてきた。

前回の予告を観た瞬間からバレバレの話なのだが、三〇分一話完結の特
撮番組で、黒服の大男が未成年を略取している絵面が描かれたら、それ
は離れて暮らす親による「意に染まぬ連れ戻し」のサインである(笑)。
これはもう、昔からそう決まっているのだとしか言い様のない決め事な
のである(笑)。

ただ昔といっても、精々八〇年代までを遡るにすぎず、少なくとも七〇
年代までは、本物の犯罪者による営利誘拐というネタがアリだった。た
とえば初期のウルトラにおける山田正広脚本の少年物などでは、黒服の
大男は額面どおり現実の犯罪者の象徴だった。

平凡な日常を送る少年少女たちが、ふとしたきっかけで大人の世界の犯
罪事件に巻き込まれて大冒険…という、オーセンティックなジュヴナイ
ルの路線をそのまま継承していたわけだ。大人の世界に対する憧れと不
安、大人顔負けの活躍をする少年たちへの共感、そうした年少の読者・
観客の期待に応えるのが、この類型のエピソードだったわけだな。

ところが、おそらく東映の等身大変身ヒーローの隆盛からだと思うのだ
が、この種のヒーロー活劇で、現実的な犯罪者が扱われることは少なく
なってきた。大本の仮面ライダーが、そもそも一種の組織犯罪と対決す
る、当時の時点では「リアルな」設定の番組で、子どもが犯罪者と対決
するというジュヴナイル的なエピソードの入り込む余地がなくなってき
たという事情もあるだろう。

子どもを誘拐するのは、ショッカーなどの敵組織の一手独占で、現実的
な犯罪者の出る幕がなくなったのだな。で、ショッカーと対抗する力を
持つのは変身ヒーロー以外にはないわけで、ライダーの五郎辺りを最後
として、ジュブナイル的な人物造形によるガキの登場は少なくなった。

それ以外にも、まあ、ぶっちゃけた話、だんだんこの頃から視聴者のガ
キがマセてきて、大人の犯罪者相手に小生意気なガキが大活躍する話に
拒否反応を示すようになってきたからではないかと思う(笑)。

代わりに、というワケでもないだろうが、少年少女を中心に据えたエピ
ソードでよく見られるようになってきたのが、この「意に染まぬ連れ戻
し」の物語類型だ。いわく、公務に飽きた某国のプリンセス、仕事づく
めの毎日から逃げ出したアイドル、両親の不仲に悩んで家出した金持ち
の御曹司等々、情緒的な問題を抱えてハイソサエティや公的な立場から
逃走する少年少女を、ボディガード的な立場の大男が追い掛けるという
エピソードの類型は、枚挙に暇がない。

おそらく、この類型の大本は「ローマの休日」辺りにあるんではないか
と思うが、大昔にテレビで見たきりの泰西名画を隅々まで覚えてるほど
オレもクラシックファンではないので、これも明言は避けよう(笑)。

現在一般的に特撮番組で用いられているパターンというのは、少年なり
少女なりが黒服の大男に無理矢理車に押し込まれそうになっているのを
ヒーローが目撃し、反射的に手を出して助けてしまい、最初は事情を明
かさなかった少年少女の虚言に振り回されるうちに心の交流があり、事
情を打ち明けられたヒーローが少年少女の抱える情緒的な問題の解決に
一臂を籍す、というものだ。

まあ、類型論ばかり延々続けてても仕方ないのでこの辺にしておくが、
要するに「見るからに怪しい黒服の大男」というのは、この現代におい
ては額面どおりの存在であることは滅多にない。それは概して、主人公
と視聴者を欺いて事件に関わらせるためのミスリードであり、この類型
が一般化した後は「お約束」の一つである(笑)。

ようやくセラムンの話に戻るのだが、このAct.8 においては、そもそも
ストーリー構築の段階からこの類型を一種の素材として扱っている節が
ある。つまり、こういう類型の話をそのまんまやるのではなく、「意に
染まぬ連れ戻し」=「家庭的な問題」のコードとして扱っているという
ことだ。同様に「黒服の大男」という手垢の附いた約束事を、まこちゃ
んを絡ませるための約束事と割り切って使っている。

前述したような「詰め込みすぎ」という印象は、こういう物語作法にも
関連しているのではないかと思う。

井上、武上辺りのベテランの書き手には、ガキの視聴者のリテラシーの
限界というのが感覚的にわかっているので、ある種俗に落ちるようなハ
コを組む意識、つまり「今時、こんなだせぇ話書いてんじゃねぇよ」と
ツッコまれるだけの俗っぽさに甘んじる意識がある。今回の話を彼らが
書いたら、「意に染まぬ連れ戻し」の類型をメインのハコに据え、要素
を単純化して古色蒼然とした交流話を書いただろう。

だが、小林靖子の「本気モード」はそうではないのだね。今さらクドク
ドと小林靖子を褒めるのも気が退けるが、このヒトは今時珍しいインテ
リジェンスのある脚本家であると同時に、ヒーロー特撮のヘビーなマニ
アでもある。

特撮番組というジャンル内で活きているコードを駆使してまで、三〇分
で描けるドラマのギリギリのヴォリュームを探っているのが、ここ数話
の行き方だったと思う。これを、彼女が視聴者に投げた球を全部捕るつ
もりで観ようと思ったら、オレの年代の視聴者ですら、三〇分間丸々の
緊張を強いられる。

これは、こういうジャンルの番組のあり方としてどうなんだろう、とい
う危惧がないでもないんだな。もちろん、彼女の球を全部捕る義務なん
か視聴者にはないんだし、そうでなくても楽しめるようにはつくられて
いるが、たとえば、特撮分野では絶大な支持を集める彼女も、アニメの
仕事では「特撮のときほどおもしろくない」と評価が低いけれど、ある
意味アニメの仕事のほうがまっとうなのだと逆説的に思う。

視聴者のリテラシーを奈辺に置くか、というのは、どんなメディアであ
れ、送り手と受け手のある分野では宿命的な命題だ。ガオの武上やライ
ダーの井上は、コアなファン層にそっぽを向かれるような仕事で、逆に
ポピュラリティを獲得した側面もある。

思い切ってリテラシーを低く設定するのも、こうしたメディアでは必要
な場合がある。広く一般受けするためにはリテラシーを低く設定する必
要があるし、その場合のパイはジャンルファン以外をも含める加点法に
なる。逆に、非常にマニアックな路線でリテラシーを高く設定した場合
は、そうした指向性に感受性のある層という限定されたパイを残らず浚
う減点法の問題になる。

視聴率という顔のない数字をプライオリティとするテレビ番組は、もち
ろん基本的には不特定多数に向けた加点法を指向するので、小林靖子が
この方向性でセラムンの脚本を突き詰めていくことは、オレらのような
コアなファンには嬉しいことでも、かなりラディカルな賭けではあると
は思うんだな。

じっさい、今回の話が「詰め込みすぎ」であることは、前述の籠抜け描
写のミス以外にも、たとえば、車で連れ去られたレイちゃんの行方を、
徒歩のまこちゃんがどうやって突き止めたのかとか、省略の話法が部分
部分で有効な省略の域を超えていたりする辺りに表れていると思う。

たとえば、普通ルームサービスのヒトと入れ替わったのであれば、本物
の職員の衣装を奪って着替えたと思うのが一般的だが、セラムンの場合
には、テレティアSによる変身という裏技がある。続けて観ているファ
ンならば、小道具を使った変装の場面が描かれていなくても「あ、テレ
ティアね」とピンとくる。

ただ、これも省略していい描写かといえばそうではないと思う。番組独
自の約束事は、基本的にその都度カットを入れて強調するのが、こうい
う連続ドラマの場合には必要な手順だと思う。

まこちゃん手作りのナコナコ衣装も、「うさぎのためを思って」の準備
と考えるか、それとも、秘密基地で言った「ぬいぐるみに興味ないし」
という発言がそもそも嘘なのだから、最初から自分も内緒で出るつもり
だったのではないかと考えるかで、大分キャラクターのニュアンスが変
わってくる。

オレ的には段取りからいって後者のほうではないかと考えるのだが、そ
うすると、まこちゃんの虚言やコンテストの準備が、女の子っぽい行為
に対する羞恥心というまこちゃん個人の課題に関わる描写になって、大
分解釈の意味が違ってくる。

もちろん脚本が省略した描写は演出で補うこともできるが、実現された
映像を視る限り、田崎監督が演出で省略を補えるだけの余裕がまったく
なかったのではないかと想像される。

場面場面で、監督が尺を加減するだけの余裕がなかったからこそ、監督
が演出家として拘った場面の尺を最低限コントロールした結果、残りの
尺の余裕がなくなり、省略が省略にしか見えない局面が出来したのでは
ないだろうか。

具体的には、例の「行くよ〜!」「行け〜!」の場面を、あのモデラー
トな高速度撮影の呼吸で語ること、これが今回の田崎演出としては譲れ
ない一線だっただろう。

実際OAを何度も観て、たとえばオレが最前挙げたような難点を、何か
インサートして補う余地があっただろうかと考えた場合、どこかのシー
ンを丸ごと削る以外に方策が思い附かない。しかし、今回の作品でどこ
かを削る場合には、あまりにも各部の要素が密接に物語の必然として語
られている
ために、現場処理では間に合わなくなってしまう。

本来的には、脚本が意図的に省いたことを映像として膨らませるために
は、もう少し要素の刈り込みがあって然るべきだっただろう。そういう
意味では、脚本単体として視た場合には優れた脚本ではあっても、演出
への配慮に欠ける仕上がりだったといえるかもしれない。

このヴォリューム感では、小林靖子とは別人格の、一人のクリエイター
としての田崎竜太が、映像に何かを託する余裕がない。ここを引っ張っ
て存分に歌わせて、ここを引き締めてタイトに、というような全体の尺
の調整、メリハリの計算が難しい。脚本が描かなかった何かを、演出家
のアイディアで入れるための余裕がない。おそらく、今回のエピソード
で田崎演出の冴えが見られなかったのは、そういう部分にも由来するの
ではないだろうか。

たとえば毎週のルーティンとして視た場合、今回のクライマックスには
タキシード仮面の出番がない。前回のムーンの正体露見を受けて、次回
大々的なタキ話を展開するため、今回は出現を控えたのだと思うが、毎
週バカにならない尺を消費する約束事の要素が一つ抜けたというのに、
この余裕のなさはどうなのだろう。

…うーむ、やっぱり批判的な論調になっちゃうなぁ(笑)。

それというのも、たとえばAct.7 で予告と本編を比べた場合、明らかに
カットされた部分があったこと、それが割と重要な描写に絡む要素だっ
たこと、そうしたことがこの先どんどん増えていくんじゃないかと危惧
してしまうからなんだね。

ことに、舞原監督辺りのベテランなら、ある程度場面場面の重要度のバ
ランスや、帳尻合わせの計算が期待できても、脚本読めない某監督やラ
イダー外されてブーブー言ってる某監督辺りでは、脚本の機微が読めず
に生命線をバッサリ切っちゃう懼れが多分にある(笑)。

田崎監督が田崎演出の水準をキープして横綱相撲を押し通していたら、
そんなに心配はしなかったんだが、今回の脚本は、良き女房役の田崎監
督をしても一応の帳尻合わせが手一杯だった。そこの現実性を見失うほ
どに、小林靖子の極北を指向する情熱は突き抜けてしまっているのか、
それが心配なんだよなぁ。

従来の番組における小林脚本には、自身の指向性をほどほどに折衷して
演出家の領分を侵さない節度があったが、どうも最近のセラムンでは自
身の指向性ばかりが突出しているきらいがある。くどくも繰り返すとお
り、今回の脚本は非常によくできていると思うが、田崎監督に対しては
何も残してやっていない。

おそらく今回の田崎監督の「取り分」は、先の逃走シーンと、正装した
レイちゃんが、戸惑いするように弄んでいたハイヒールを棄てて裸足で
一歩を踏み出す場面の機微に留まるだろう。それ以外では、小林脚本が
強いる複雑な機微を十全に表現するために、映像的なテクニックを駆使
することに徹している。

女同士の和解の芝居を、たとえばハリウッド映画の女同士の友情ものの
雰囲気で(芝居の附け方が、たとえば女二人で飲み明かした後のナイト
ロケの雰囲気だよね)とか、例の逃走シーンがどことなくヌーベルバー
グの雰囲気を模していたりとか、映画的な引き出しを駆使して女同士の
対立と和解の物語を盛り上げている。

田崎監督の降板が本当に予定どおりだったのなら、この局面で小林靖子
は、田崎監督に花道を残す選択ではなく、信頼できる田崎監督の手腕を
見込んだ自己実現のほうを選択したことになる。

事情を知らない一部外者のオレには、それが何となく冷たいように見え
るんだが、多分現実的には、もっと複雑な東映内部の社内事情があるの
だろうね。

白倉Pと共に東映特撮の次代を背負う、エース監督としての田崎竜太の
立場、特撮ヒーロー番組というジャンルの直中で、常に極北のドラマを
目指す小林靖子の立場、さらには、近年東映特撮とのタッグで目立った
実績のないTBSをキー局として、地方局で制作される実写版セーラー
ムーンという番組の複雑怪奇な成立事情。

奇跡的なキャスティングの妙もさりながら、出発点において、白倉、小
林、田崎という東映特撮第一線の人材を得たことは、この番組にとって
実に幸福なことだった。

これまで長々とこのエピソードについて批判的な意見を展開してきたけ
れど、それらの難点が容赦なく減点されると仮定しても、たとえばたか
まる演出とは次元の違う出来なんだから、許すか許さないかでいえば、
オレは当然許すよ。だからこそ、このコンビについての意見は、そもそ
も次元の違う問題なのだということだ。

オレ自身がとくに高踏な意見を吐いているんだと衒っているわけではな
くて、この脚本、この演出がここまでのレベルで勝負しているのを見せ
られたら、このコンビネーションで成し遂げられた作物のレベルを可能
な限り見極めて、そのレベルでものをいわなきゃ嘘だ。

一般的な意味での可否を問うているわけではなく、小林靖子が目指す地
点を見据えたうえで、その地点における可否を問うのでなければ、難癖
を附ける意味もなかろうぜ。

たまたまオレたちはこの番組に普通以上に入れ込んでいて、しかも何度
も録画を観て意見を整理してコメントを書くだけの私生活上の余裕があ
るけれど、そうでなくて精々一、二回録画を観るだけの余裕しかなかっ
たら、批判の生まれようもないくらい高次元の作品だ。

残念ながらというべきなのか、今時大人向けのドラマでもこの水準に達
しているような脚本、演出は少ないだろう。それを考えたら、今回だっ
て普通の番組レベルのおもしろさでは満点の出来といっていい。

そういう突出した次元の映像作品が、土曜日の朝七時半からの幼女向け
番組で成立しているという事実、目指す地点の志の高さ、これがオレに
細かいことをウダウダ書かせているんだな。

小林脚本についていえば、実際に撮られた映像から原テクストとしての
脚本それ自体を逆算すると、描こうとする内実と実際に書かれた脚本の
記述のレベルは、もはや職業ライターのアベレージの仕事のレベルでは
ない。ダレ場や段取り芝居の場面に至るまで、全体と有機的に噛み合う
ように考え抜かれたセリフがちりばめられている。

たとえば、毎回毎回ダークキングダム内部のドラマとして描かれる、ク
イン・ベリルの決めゼリフの冴えはどうだ。「愚かさも愛おしく思えて
こようというもの」の回りくどさ、「わらわの愛を得たいと懸命な者の
ほうが、口ばかり動かす奴より愛おしいとは『思わぬか?』」と当のネ
フライトに問う辺りの機微、このダイアログの冴えは尋常ではない。

単に決めゼリフそれ自体として素晴らしいだけではなく、クイン・ベリ
ルが四天王たちを愛欲の機微で操る手管の一端として、強烈に掛け合い
のテンションが漲っている。この脚本あればこそ、少ない出番ながら、
杉本彩演ずるベリルの存在感には圧倒的なものがある。

またこのベリルの老獪な手管が強烈に表現されているからこそ、セリフ
のうえに表れてこないジェダイトの心情が健気なものにも映ってくる。
じっさい、ここ数話でジェダイト株が急騰し、ネフライトの姑息さに気
を揉む視聴者が急増していると聞く。

それを映像化する田崎演出については、そうした脚本の意図を隅々まで
見抜いていて、間然するところがない。ある意味、駆け出しのぺーぺー
で、おまけに文才のないたかまる辺りに小林脚本が読めないのも無理の
ないところがあるんだな。

セラムンの小林脚本は、映像作品の構成要素が、それ単体ではなく、全
体のなかでの有機的関連性において初めて豊かな内実を持つという、ご
く当たり前の認識に基づいて書かれている。その場その場のセリフや掛
け合いのおもしろさにだけ気を取られていたら、全体構造において初め
て立ち現れてくる緊密な意味連鎖に気附きようもない。

田崎監督は、あの555劇場版ですら出演者に「この場面のこのセリフ
にはどんな意味があると思う?」と考えさせた逸話を持つ、徹底的に脚
本を読み込み、役者の芝居を重視するタイプの演出家なんだけど、一方
ではテクニカルな見せ方にも意識的な部分がある。

たしかメガレンだったと思うけど、当時社会現象となっていたエヴァの
OPを見て刺激され、音楽のリズムとカッティングを合わせて格好良さ
を出す手法をメガレンのOPで試みたと語っていた。

その意識あればこそ、「すごすぎ!いけてるスーパーみく」のエピソー
ドのクライマックスで、ED曲の「気のせいかな」を効果的に使ったリ
リカルな演出が実現した。映像作品におけるリリシズムの問題は、一方
ではテクニカルな手法上の問題や、映像表現上のアイディアの問題でも
あるんだな。

この脚本とこの演出の組み合わせでいえば、緊密に構築された意味構造
としての脚本を過不足なく読み解き、生身の役者の芝居として受肉させ
る過程において演出家自身の表現意図を加味し、プラスαの映像表現を
駆使して、1+1以上の作品を成立させ得る理想的なコンビネーション
だと思うのね。

だから、小林脚本の理想型を実現し得るのは、現時点の東映特撮の人材
では田崎竜太を措いて他にはいないと思うし、田崎演出エピソードから
逆算して、小林靖子がこのメディアにおいて成し得る作物の上限が決定
されると思うんだ。つまり、田崎竜太に効果的な演出ができないような
脚本は、現実的には実現不能
だということだ。

そういう意味で、許せる許せないの問題としてではなく、田崎竜太の力
量と見識なら必ずフォローして然るべきだった難点が、この脚本では出
来してしまった、それをオレは危惧するんだな。Act.6 の舞原監督なん
て、ばっさり場面をカットして次善のフォローを入れるという、非常に
現実的な対応をしているわけで、演出家にこういう妥協を強いる脚本は
やはりちょっと完成度において問題があるだろうと思うんだ。

たとえば、徒歩のまこちゃんが車で連れ去られたレイちゃんを…という
部分だって、神社の前でまこちゃんがタクシーを拾う絵を入れれば四、
五秒のカットで済む。でも、おそらく最上のパターンというのは、まこ
ちゃんが「最も危険な遊戯」の優作よろしく最後まで徒歩で車を追って
いったという絵面だと思うのね。じっさい、小林靖子のつもりでも、ま
こちゃんは走って車を追ったんだと思う。

しかし、まこちゃんがその超人的な脚力で自動車を追い詰めたという描
写が実現したとして、「んなアホな」と笑いを誘うだけで、そのシーン
には有機的な意味性なんか何にもないわけだ。しかし、多分絵面やキャ
ラ描写としてはかなりおもしろかったと思うんだよ。

ただ、それを実現するには、けっこう長めに何カットも絵を入れる必要
があるし、ロケで移動ショットだったら段取りだってたいへんだ。

じゃあ、そこで妥協して絵を入れずに、ホテルの一室の前に現れたまこ
ちゃんが息を切らして汗をかいている、という芝居にしたらどうかとい
うと、こういう現実離れした非常識な描写は、じっさいに走ってる絵を
見せないと、それこそ「んなアホな」でオシマイの説得力のないものに
なってしまう。

また、いかに超人的な体力のまこちゃんとはいえ、人間が徒歩で自動車
を延々追い掛けている絵面を入れちゃったら、まこちゃんがレイちゃん
のために払った労力のウェイトが過剰に強調されてしまう懼れがある。
前述のように、このお話は非常に複雑な中心を持っているんだから、ま
こちゃんの奮闘に過剰なウェイトがかかるのは好ましくない。

最終的にああいう形になったのは、その辺を曖昧にボカしてバランスを
取っているわけだが、オレの感覚では、映像作品には全体的な意味性と
は別の次元で、ただおもしろいだけの遊びの部分もないと、辛い。

今回の話では、画面に表れない小林靖子の「つもり」というのが、かな
りあったと思う。テレティアSの変身による籠抜けや、なりきりコンテ
ストの事前準備もそうだろう。これが全部表の映像で表れていたら、ま
こちゃんエピソードとしてかなりおもしろいものになったはず。

自動車を走って追い掛けるまこちゃん。ルームサービスの職員に当て身
を喰わせて変身するまこちゃん。みんなには内緒でコンテストの準備を
進めていたけど、結局出場する勇気がなくて、うさぎの昏倒を自分への
口実に出場するまこちゃん。

まこちゃんがステージで演技する場面では、ちゃんと最初は緊張して声
がかすれるという芝居が附いているし、場内の参加者のなかではいちば
ん被り物の手が込んでいるという目配せもある。

これらの要素が、全部省略されて、一種のコードや仄めかしとして扱わ
れている。それぞれが単体のエピソードとして成立していたら、映像と
してさぞかしおもしろいものだったろうけれど、複雑な群像劇のなかで
個々の映像描写が埋没してしまっているわけだね。

あくまでオレ個人の感覚が尺度になってしまうけれど、この方向を突き
詰めるとしても、脚本が描き得る群像劇的な内実の量的な限界というの
は、Act.7 のレベルが精々だと思うのね。これだけ緊密に物語的な内実
が詰まっていると、映像それ自体のおもしろさが語る、意味性とは遊離
した遊びの部分を入れる余地がない。

前回の「カメの頭がムクーリ」でもいいんだが、意味性の連鎖にちゃん
とクリアランスを設けて、映像が映像それ自体として視聴者を楽しませ
る部分がないと、息苦しいと思うんだ。その一方では、視点を固定して
ある人物に全面的に感情移入し、緊張感に満ちた三〇分のドラマを語る
には、視点と中心がバラけすぎている。

小林靖子がここ数話の成り行きを通じて、一種の群像劇としてセラムン
世界の全体性を同時進行で描こうと試みている
のは、何となく読めてき
たのだけれど、この尺で「同時進行」を有効に描くには、先週のお話の
ように、「物語をちょっと進める」のが限界ではないのかな。

今回のように、明らかにレイちゃんとまこちゃんにウェイトのかかる話
で、レイちゃん自身の問題と、レイちゃんとまこちゃんの問題、うさぎ
との三者関係までを重ね合わせて描こうとした場合は、やはり密度がコ
ンデンスされすぎているような気がするし、この三つの輪を有機的に関
連づけることにも成功しているとは思えない。また、関連のない事件が
同時進行で進んでいたり、一つの事件を多視点で語るという群像劇なら
ではのおもしろさが本格的に生起しているわけでもない。

三〇分を楽しむ次元とは別のところで、この方向性が目指す地点から逆
算すると、今回のエピソードは全体構造の指向する意味性のレベルで失
敗していると思うんだな。失敗という言葉が強すぎるなら、理想型を目
指す過程で出現した、価値的に評価不能な作品とでも表現しようか。

今西錦司が言う「蝙蝠に進化する過程で半分だけ羽根の生えた鼠」みた
いなもので、過渡的なるがゆえに、価値的なレベルでは意味を持たない
作物として実現しているんではないか。まあ、今西先生は「あり得ない
もの」の喩えとして言ってるわけだが。

省略の話法は省略として機能するギリギリのところで留まっていて、マ
イナスでもプラスでもない。提起された手懸かりと、基本設定の知識に
よって、視聴者が補足可能な範囲であることはたしかだが、ただ、それ
はそれだけであるにすぎない。省略することが効果的だから省略したの
ではなく、省略しても意味が通じるから仕方なく省略したというだけの
ことだ。

通常の意味で省略の話法が成功しているという場合、たとえば台車の逃
走シーンのようなチャームの部分を十全に歌ったうえで、そのバランス
のうえで、省略が省略として効果を上げている、画面に出さないことに
よって、画面に出した場合よりも効果的になるような場合を指すのでは
ないだろうか。

もちろんこれは、絶対的な意味での「満点」であって、さまざまな現実
的な障碍によって、このような「絶対の満点」が実現されるものではな
いだろう。

今回の場合、田崎竜太が演出として「ここを省略したほうが効果が出る
だろう」と判断して、その判断が間違っていたということではなかった
と思うんだね。彼にとっても、今回の省略は妥協の産物だったろうと思
うんだな。

それはつまり、今回の脚本が十全に実現されるためには、じっさいには
三〇分の尺では足りなかったということだろう。

小林靖子も新しい試みに取り組む以上は、これまでの勘で尺に合わせた
ホンを書けない場面も出てくるだろう、その良し悪しを断じても仕方な
いしここでああだこうだ論じてもそれが小林靖子に届くものでもない。

しかし、それをして、これでいいんだと言うのも、受け手として誠実で
はない
だろうね。

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