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Column 白倉伸一郎をめぐる危機的な状況

セラムンという奇跡の番組を縦横に語り、エピソードを詳細解析すると
銘打った当レビューではあるが、ここ数話のレビューでは寄ると触ると
白倉の話題一色に終始して、オレ個人の白倉弾劾の場という色彩を帯び
てきていることに顰蹙する読者も多々あることだろう。

たしかに、ここ数話のレビューにおいて頻出した白倉批判は、セラムン
とは無関係な事情を反映した特定個人に対するネガティブキャンペーン
と見えるかもしれないし、事実上そのような側面はあるのかもしれない
ということは認めよう。

しかし、オレはこれまでの白倉批判に際して「戦犯追求」という意識は
寸毫も抱いていなかったし、白倉を手前勝手に裁いた気になって足れり
としているわけでは毛頭ない。いわんや東映特撮の現場から白倉伸一郎
が排除されれば、少しばかり風通しが良くなるだろうなどと考えている
わけでは決してない。

さらにいえば、文芸の人としては白倉伸一郎よりも高寺成紀を高く評価
するものではあるが、プロデューサーとしての評価はそれとは逆になる
のだし、高寺作品が手放しで評価に値する傑作揃いといえるかどうかに
ついては、さらに慎重に検証する必要があるだろう。大雑把に「クウガ
は傑作だがアギト以降の平成ライダーは凡作揃い」と断じているわけで
は決してないし、「高寺響鬼は傑作だが白倉・井上コンビがそれをダメ
にした」と断ずることに意味があるとも思っていない。

オレが白倉を批判する動機はただ一つである。特撮ヒーロー番組という
ものは、その主軸を映像を通じた物語文芸という側面に置くべきであり
テレビというメディアの特性を必要以上に強調することは本末転倒だと
考えるからである。そして、白倉の思想上の軸足は、無意識の裡にこの
転倒を犯していると考えるからである。

さらにいえば、白倉自身が批判している「所詮は玩具販促番組」という
性格を過剰に強調するどんな白倉擁護意見にもオレは同意しない。その
ような視点に拠る限り、作品として語られるべき内実は、テレビという
メディアの特性を主軸に置いた即物的な事象としてしか見えてこない。

白倉伸一郎が視聴率獲得と話題喚起のスキルを駆使するのは、メディア
の特性とそれを成立させるインフラを満足させたうえで、その先の何か
を語るためである。これは、白倉作品を作品として語る以上、まず以て
共有されねばならない大前提である。そこを外したなら、「メディアの
仕掛け人」的な事象面でしか白倉を語ることはできなくなる。

そのような観点でのアプローチにも、語るだけの意味はあるのだろうと
思う。物事には、必ず多様なアスペクトがあるのであり、どこからどの
ようにアプローチするのも論者の自由である。だが、それを語ることは
当レビューの使命ではない。なぜなら、この作品の最も優れた部分は、
何よりも文芸の文脈において語られるべきだからである。

さらにいえば、オレが指摘するシリーズ構成上の問題は、視聴率や玩具
販促という観点からは割り切れないものであり、あのような展開が視聴
率向上や玩具販促に益したとはとうてい考えられない。やはりこの番組
における白倉の影響は「表現」の観点から検証するのが筋なのである。
その文脈において白倉の「表現」を語るのであれば、文芸という尺度を
もって量るしかないのである。

そして、文芸の観点においては、高寺的なるものが生き残るか、白倉的
なるものが生き残るかということが重要なのではない。ある時代の文芸
を共時的な視点で語る場面において、主流的な何ものかが存在すると同
時にそうでないものもまた存在するという多様性が確保されていること
が重要なのである。

たとえば諸般の事情によってアギト以降の平成ライダーを白倉と井上が
開拓してきた経緯そのものは何ら問題ではない。クウガをつくった高寺
にも捲土重来の目があるという可能性が確保されていれば、それはそれ
でかまわないのである。文芸における多様性とは未生の存在可能性をも
含むからであり、それを突き詰めれば、ある実現された物語の陰に多様
な「そうではない物語」の実現可能性が胚胎していることを、オレたち
が信じられるということである。

「特撮史」という大仰な観点を前提にするなら、仮に仮面ライダー響鬼
が凡作だったとしても、高寺的なる文芸もリアルタイムで生きていると
いう存在証明となるのだし、白倉ライダーと二重写しのかたちで高寺的
なるライダーの存在可能性を想定できる。文芸の観点においては、その
可能性としての多様性こそが重要なのである。

「高寺対白倉」的な粗雑な二項の立て方や「高寺的なるもの」「白倉的
なるもの」という曖昧な規定が文芸の観点で意味をもつのは、表立って
実現している白倉ライダーの裏面に高寺ライダーもまた等分に存在して
いると考えることによって多様性が確保されるからであり、いわば措定
的な補助線にすぎない。

一方では、仮面ライダー響鬼という番組において高寺成紀が更迭された
のは、徹頭徹尾高寺個人の責任であるにすぎないのであり、このような
事情においてドタバタと後を引き継いだ白倉と井上が、それ以前の作劇
的なクオリティを維持できると考えるほうが間違っている。

そのような意味で高寺成紀と白倉伸一郎の対立という仮想的な対立軸が
成立しているわけでは決してないのだし、アクチュアルな関係性という
意味でこの二者の対立を妄想するのは、ただの業界ゴシップにすぎない
だろう。

高寺は単に高寺個人の責任で自滅したのだし、白倉はそれが社命だから
彼のあとを襲っただけのことであって、555 を終えた白倉・井上コンビ
に、平成ライダーという器で語るべき新たな何ものかが残っているはず
などはないだろう。だからこそ高寺成紀に出番が回ってきたのである。

白倉・井上でも語れるような内実だったのなら、冷や飯喰らいの高寺に
出番などはなかったのである。その高寺が勝手に失敗した後始末を圧し
附けられた白倉・井上を、「こんなのは響鬼じゃない」「オレの好きな
響鬼を返せ」と責め立てるのはお門違いが過ぎるというものだ。

それは、失敗した番組が辿る当たり前の経過にすぎないからだ。

学校給食でフォアグラやトリュフを出せば赤字に陥るのはわかりきって
いるのだし、仕込みに一週間かかるスープを献立に加えていたら、人手
も時間も間に合わないのはわかりきっている。高寺の失敗は、高寺的な
文芸を金と人手のかかる実現困難なもの、コスト対効果比の薄いものと
して意味附けてしまったことなのだ。

白倉的なるものと対置される高寺的なるものの本質は、別段に金と人手
のかかる本物志向の絵作りではない。クウガにせよ響鬼にせよ、高寺の
金の遣い方はどう贔屓目に視ても無駄遣いであって、その無駄遣いゆえ
に二度の更迭を味わったのなら、これほど愚かな失態はない。金を遣う
ことで「本当らしさ」が購えるというのは、幼児的な見誤りだ。そこを
見誤ったうえに自身の進退まで誤ってしまったことは、紛れもなく高寺
成紀個人の未熟さが招いた没落である。

高寺響鬼が頓挫したことでいちばん責められるべきなのは、高寺自身で
あるのが当たり前だ。特撮というジャンルに興味も愛着もない層にまで
アピールする作品世界を築き上げておきながら、それを完遂することが
できなかったことは、紛れもなく彼自身の責任として糾弾されるべきで
ある。

役割論的な意味における高寺の使命とは、白倉と同条件で成立する自身
の文芸の可能性を確立してみせることであったはずである。このような
かたちで失敗を喫することは、自身の信奉する文芸の在り方を巻き込む
かたちで自滅することに他ならない。高寺の二度目のしくじりは、テレ
ビ番組における高寺的な文芸の可能性を我から潰してしまうのである。

ただし、仮面ライダー響鬼という番組の失敗にもまったく意義がないと
いうわけではない。白倉伸一郎にとっての不運とは、高寺的なるものと
白倉的なるものという便宜的に対置される内実がどのように違うのか、
これが同一の作品上において対比されるという、普通ならばあり得ない
はずの事態が出来したことである。

今や特撮ファンダムでは、「旧響鬼」と「新響鬼」を比較検証する試み
が伝染病のように蔓延している。だが、その比較検証に文芸というパラ
メーターが導入されない限り、事実関係の側面からはこの二者の対立軸
は見えてこないとオレは考えている。新旧の響鬼は、やっていることの
事実関係や作劇面の可否を考えるならそのレベルに大差はないのだが、
直観的な印象はまったく違う。

その直観的な印象を隔てるものこそ物語文芸としての肌合いであって、
それが高寺にあって白倉にないものである。そして高寺が敷いたレール
のうえでは白倉に分がないのは当たり前であって、白倉が不利な勝負を
強いられている側面は否めない。さらにこの事態から逆照射するかたち
で「白倉ライダーとは何だったのか」という問いかけも生起する。

オレ個人としては、特撮ファンダムの大半がそう考えている程度を遥か
に超えて、今現在の事態は白倉にとって危機的な状況ではないかと考え
ているものである。

あらためて強調するが、白倉伸一郎には文芸的な勘がない。白倉響鬼が
ごく曖昧な根拠に基づいて批判されている理由は、平成ライダーという
番組が、実は物語文芸として成立する要件のかなりの部分を棄てて成立
している偏跛な物語であるという事実が露呈しかけているからである。

しかしその一方で、Act.28のレビューで語ったように今後の東映特撮を
リードする人材は白倉伸一郎をおいてはないだろうし、高寺成紀が決定
的に更迭された今それはますます確実な未来図となっている。このよう
な現状において、白倉のプロデュースにおいてなお独自の文芸的な境地
を開拓した実写版セーラームーンという番組の存在意義がますます重要
なものとなってくるのである。

オレ個人の来し方など、あなた方には何の関係もない事情ではあるが、
これまでのオレの一〇年近いネット歴においては、ネット上でジャンル
作品を熱狂的に語る機会ももちろん多々あった。だが、このような面倒
くさい長大なコンテンツを抱えてまですべてを語りきろうと心に決めた
作品はこれが初めてだし、それが高寺成紀のプロデュース作品ではなく
白倉伸一郎のそれであったのは、ただの偶然ではないと考える。

公平な言い方をするなら、最終話までの後半一クールがこのようなもの
になってしまったことを白倉の責に帰すならば、これまでの三クールに
おける佳作群の実現もまた白倉の功績であるといわねばならない。白倉
のプロデュース手法には偶然ではなく必然としてこのような作品を生み
出し得るポテンシャルが内在することも疑い得ない事実なのである。

ここで、もしこの番組のプロデューサーが白倉伸一郎ではなく高寺成紀
であったなら、という「IF」を考えるのも一種おもしろい思考実験……
というか座興だろう(笑)。

当然のことではあるが、今あるようなかたちでこの番組が成立すること
はあり得ない。高寺には物語に対する彼固有のアイディアが強固にある
からである。そしてそれは良くも悪しくも「特撮番組」という物語形式
の肌合いを大きく出るものではない。それはヲタク根性を根にもつ高寺
文芸の質的限界である。

当然高寺セラムンは高寺的なる内実の産物であって、批判的にいうなら
それ以上でも以下でもない。高寺プロデューサーは高寺成紀という個人
の創作物としての性格を突き詰めるため、あらゆる製作プロセスに影響
を及ぼそうと努めるからである。

しかし、今ここにこのようにしてあるこの番組は、特定個人の作物では
ないのだし、そこにこそ凡百のジャンル作品にない特異な価値がある。
それは、映像としての物語文芸の淵源に迫る本質的な価値である。

小林靖子がいくら良いホンを書いても、演出が追い附かねば総体的には
凡作に終わってしまう。逆に、不調な脚本を演出が後押しして新たなる
意味性を創出する場面もまた度々出来したのだし、ガッチリ噛み合った
脚本と演出が演者の最良の演技を引き出す場面もまた頻出した。

さらには、ゾイサイトの最期のように、脚本も演出も共に軽視してきた
役柄を演者個人が真摯に見つめ直すことで、壊滅的なシリーズの流れに
おいても一筋の光芒を放つ鮮烈なドラマが実現した事例もある。

このような高レベルの人材の集積によって、各自のポテンシャルの単純
な合算を超えるシナジー効果を生み出し得るのが、白倉的プロデュース
のメリットである。このような方法論によって「三〇分一話完結全五〇
話前後」という特撮ヒーロー番組の形式が具える可能性が最良のかたち
で開花した事例こそこの番組であり、この番組が成し遂げたこのような
意義に関して白倉が無自覚であったとは思えない。

視聴率的にも玩具売上的にも思わしい成果が得られず、結果的に円谷へ
番組枠を明け渡さざるを得なくなったこの「失敗作」が、それに触れた
者をなにゆえに熱く興奮させるのか。それは、「特撮ヒーロー番組」が
質的に成長し得る現時点での極北をこの番組が示しているからである。

白倉が一人の受け手としてそのことを理解していたかどうかは疑問では
あるが、この種のドラマとしては尋常ならざるインパクトを与える作品
に成長したことは、各方面の反応から理解していたことだろう。それは
たぶん、白倉の公人ではなく私人としての部分において誇らしい評価で
あったのだろうとオレは想像する。

少なくとも白倉は、バンダイの走狗でもないし、視聴率の鬼でもない。
バンダイを満足させること、そのために視聴率を確保することは、目的
ではなく手段であるということまでも見失ってはいない。テレビ番組が
ビジネスとして具えざるを得ないインフラを満足させることは、それが
成立するための要件にすぎないのであって、そこから何を表現するのか
ということが問われるのであるということは認識している人である。

だから、白倉には悪意も軽侮もなかったのだとオレは信じている。

この番組における白倉の悪しき影響というのは、意志的な悪意や打算に
基づくものではなく、白倉の思想が抱えるある種の構造的欠落によって
不可避的にもたらされたものであるというのが、オレの見解でありこの
レビューにおける白倉批判の立脚点である。

言い方を変えれば、「白倉のやることはすべて計算尽く」という幻想の
真偽を検証し、表現者としての白倉伸一郎の実相に迫ろうというのが、
一連の白倉批判の動機である。リチャード三世的な道化の暴君であった
高寺成紀が表現者として語り得るなら、陰湿な謀略家のヘンリー七世的
な白倉伸一郎もまた表現者として扱われるべきであり、表現者としての
責任をもつべきだ。

少なくとも、表向きの盟友たる井上敏樹の証言を信じるならこのコンビ
の作品における白倉の発言力は決して小さなものではない。あの井上を
して苦笑せしめる暴君性が、インテリ臭をウリにするこのクールなプロ
デューサーにもあるのである。マチズモという一種古臭い美意識に縛ら
れる井上敏樹には、逆説的に白倉の女房役を演じざるを得ない体質的な
ウィークポイントがある。

井上親子が半世紀にわたり飯を喰わせてもらったジャンルに対する敬意
と責任、それが井上敏樹を縛っている浪花節の呪縛だろう。だからこそ
井上敏樹が盟友として白倉を全面的にフォローする動機と、オレが執拗
に白倉批判を展開する動機が、立場の違いを超えて一本に重なるのだ。

要するにね。東映特撮がリードしてきたようなジャンルの将来は、今後
白倉が独りで担わなきゃならんということなんだよ。今後どうなるかは
わからないが、何度痛い目に遭っても大人になれない高寺には、文芸的
な才能がどうであれ、もう何も期待してはいけないということだ。

その場合、白倉が自覚してるんだかしてないんだかわからない彼固有の
欠落が、東映特撮の一時期の主要な作品の欠落として拭い難く刻印され
てしまうということが問題なんだ。

その欠落を、一時は高寺成紀という別の個性が担っていた時期もあった
のだが、高寺成紀は自分自身のヒューマンファクターに起因する問題に
よって、勝手に自滅してしまったのである。生き延びて自身の生成物を
残す智慧のない創作者はもはや創作者ではないのだし、勝手に脱落した
高寺の穴を日笠淳や塚田英明が埋められるものではない。逆説的な言い
方になるが、今や東映特撮内部において非白倉的なるものを実現できる
人材は白倉しかいないのである。

その可能性を濃厚に示唆する実例こそが、この実写版セーラームーンと
いう番組であったとオレは視ているし、それは白倉伸一郎という個人の
ポジティブな意味での誠実さの証しであると考えている。それは、若き
日の白倉伸一郎が入社試験の個人面接の場で滔々とRXを批判した行為
の、ハッタリではない心情的な動機の表出でもあるだろう。

この番組が、この文脈におけるような意味で「非白倉的な内実」として
うつくしく完結していたなら、それを白倉的な内実の多様化と表現する
こともできただろう。要するに、その二つは同じことなのである。

白倉の思想を真に受けるなら、様式として固定された白倉式のシリーズ
構成など超克の対象でしかない。それは単に白倉個人の文芸面での勘の
鈍さを暴き立てるものでしかないのだし、白倉の想いを最大限に活かし
てやりたいと願う井上敏樹の好意のうえでしか平成ライダー的な物語は
成立しない。それが物語として破綻していることなど井上には百も承知
のことである。

物語を破綻させたうえで白倉が拘っているもの、それは実はメディアと
してのテレビが抱えるアクチュアルな問題である。軸足が転倒している
と表現したのはそういうことであって、物語文芸というのは、その種の
アクチュアリティの一歩手前で踏み止まるものなのである。決して素手
でナマの現実を掴み出して突き附けようとはせず、それを物語のかたち
で語ることで間接的に意味を創出する何ものかなのである。

物語がアクチュアルであるというのは、精々「Sh15uya 」のようなもの
を指すにすぎない。物語を批評的に視る視点から、アクチュアルな社会
性に直接触れようとする試みは、メタ的な意味構造にならざるを得ず、
物語としての結構を破壊してしまうのである。

物語の語り手は物語を語る行為を通じてしかアクチュアルな実体に言及
することはできないのであり、物語を語る行為においては物語が物語と
して在ることがまず第一義となるのである。

この番組の数々の佳作群は、「ただの筋書き」が「物語」へと「なる」
プロセスの豊富な生きた実例である。この間の機微を理解しない限り、
この番組がこのようなものとして成立したことは、ただの偶然のままに
終わる。同様に、白倉自身にはまったく非がないにもかかわらず響鬼に
関わったことで理不尽な批判を蒙ることも、その間の機微を理解しない
ままなら、ただの災難というにすぎない。

東映特撮は、白倉が定年を迎えるまで今後十数年にわたって、物語成立
以前の「テレビ番組」を量産するというだけのことであり、それを観て
育つ世代に「物語とは何か」というアイディアを示す機会を、東映特撮
以外の制作会社に委ねるというだけのことだ。

たぶんオレは、極めつけの高寺シンパやアンチ白倉の論客よりももっと
図々しいことを考えている。オレは白倉が良い人間であることを期待し
ているのだし、自身の欠落を超えて成長することを期待しているのだ。

それが白倉自身のためであるなんていやらしいことを思っているわけで
は決してない。何よりそれは、オレが物語を楽しみたいからそう願って
いるのであり、オレたち受け手にとって都合の好い未来を勝手に夢みて
いるだけの話である。

もしそれが叶うなら、オレが死ぬまでにもう一度くらい奇跡が起こるん
じゃないかと思ってね(笑)。

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