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Act.48-1 偶然セカイ

 けれどもAct.48のレビューになると

 黒猫亭とむざうは言った。

…前回出来心であのような引きを設けた為に、うっかり最後まで読んで
しまった方からえらく怒られた。ちょっとした茶目っ気なのだからそこ
まで怒らなくても好いのにとか思いつつ、「引くだけ引いておいて続き
が何年先になるか知れたものではない
」と言われると、これまでがこれ
までだけに
返答に詰まった(木亥火暴!!)。

そういう次第で、行き懸かり上仕方なく早急に続きを書く羽目になった
わけである。まあこういうふうに自分を追い込んでいかないと、終わる
ものも終わらないわけだから結果オーライ、それもまたよしである。

あだしごとはさておきつ。前回のレビューで、愛野美奈子の死のさだめ
とは、それに続く最終二話の展開からの要求に基づくものであることを
視てきたわけだが、では今度は何故最終二話の展開が今在るような形に
なってしまったのかが問われなければならない。

まずは例によって虚心に本編を視てみよう。

鈴村復帰以後のシリーズの流れは、白倉式のイベント叙述が主体となる
挿話が多く、脚本も鈴村の演出スタイルとそれほど懸け離れたものでは
なかったが、今回ばかりは鈴村には苦手なタイプの脚本が廻ったと言え
るだろう。

このエピソードに関しては、ネットでも剰り好い評判を聞かない。大き
なイベントが釣瓶打ちの急展開なのだが、一見して詰め込みすぎの感を
覚えるし、慌ただしく終盤の風呂敷を畳んだような印象を覚える。

まあこれは、白倉プロデュース作品一般にアリガチな通弊ではある。

とにかく今回は尺調整に苦労している節が視られる。本放映時を顧みる
なら、最終盤の展開に辟易していたオレは、この頃にはもう録画頼りで
リアルタイム視聴を放棄していたのだが、友人からの電話で叩き起こさ
れて「放送事故みたいな出来だからすぐ観てみろ」と急かされた(笑)。

実際に観てみると前述のような至極慌ただしい展開で、アバンからOP
にかけてはわけのわからない趣向になっているし、アバンからAパート
辺りまでの展開は、剰りに省略だらけで雑な印象を覚えた。これが日頃
繋ぎのスマートさに拘る鈴村演出なのだから、余っ程苦労して三〇分に
納めたのだろうと思われた。

おそらく脚本からして省略だらけの書き方になっているのだと思うが、
省略が省略として成立する為には演出が行間を補ってやる必要がある。

たとえば、エンディミオンとクンツァイトの決闘を見物させる為に黒木
ミオがうさぎを連れ去る場面など、別にミオがどのような手段を使って
うさぎを拉致したのかなど見せる必要はないが、最低限ミオがうさぎの
部屋に入室しうさぎが訝しがるというような絵面は必要だっただろう。

ミオの訪問からうさぎの略取まで当事者であるうさぎが一切映らないと
いうのは、幾ら何でも不自然すぎて省略の域を超えているだろう。育子
ママやシンゴのリアクションなど何うでも好いから、必要な絵を入れる
ことを中心に足し引きを考えるべきだったのではないだろうか。

そもそも脚本からして相当の無理筋なのだろうと思うが、演出によって
行間がちっとも埋まっていないから、なんだか落丁だらけの本を読んで
いるような欠落感があるのである。このような脚本は、以前黒猫亭日乗
で語ったような「足し算の演出」には向いていない。

Act.48単体で考えると、うさぎが衛に縋って泣く場面までは前回描いて
おいても邪魔にはならなかったと思う。測ってみたら高々四十数秒なの
だが、それが尺調的に無理だったとしても、アバンで暢気に前回のおさ
らいを入れる必要などはなかったのではないかと思う。

今回は別段愛野美奈子の死の余韻を引くべき絶対的な必要性のないエピ
ソードで、前回の話を思い出さねば成立しない物語ではない。今回以降
の展開が愛野美奈子を死なせたのであって、その逆ではないのである。

愛野美奈子の物語はそこまで上手く物語全体にコミットしていたわけで
はないからである。陸橋上での会話それ自体が愛野美奈子の死の話題を
前フリとしているのだから、それで前回から引き継ぐべき要素としては
十分な配分である。

そして、舞原担当回を視るまでもなく、アバンのパートでは本編を圧迫
してまで前回のおさらいを入れなければならないという絶対的な決まり
事などないのだから、独立の芝居場として使ってうさぎと地場衛の会話
をアバンで終わらせるくらいで丁度座りが好かっただろう。

そのほうがテーマ曲が不自然にズリ上がる不細工な手法よりもよっぽど
マシだったのではないかと思う。何う考えても、陸橋上の不吉な会話
背景にあの希望に満ちた明るい主題歌は合わないし、対比としても効い
ていないのに、そこを無理矢理OPを改変して整合させようとしている
のが見事に外している。

そもそもOPフォーマットという基本の決まり事を破っているのだから
アバンにおさらいを入れるという何うでも好い決まり事だけ遵守しなけ
ればならなかったというのも筋の通った話ではなかろう(笑)。

本来、「もしまた星を滅ぼそうとする奴が現れたら、おまえが倒すんだ
からな
」という衛のダブルミーニングのセリフは、Act.48全体の不吉な
通底音となるべきものなのだから、そこまでをアバンで語りきっておく
のがベストだったはずである。OPが明けてからでは、今回のお話全体
を集約する会話という印象は格段に薄くなる。

OP明けのAパートを、エンディミオンとクンツァイトの一騎打ちから
始めていれば映像の呼吸としてもキリが好かったのだが、現状では地場
衛がうさぎをバイクに乗せて走り去った直後にダークキングダムの森に
出現している為に、最初から物凄く忙しない印象を覚えてしまう。

繋がりで視ればアバンで顧みられた美奈子の死からOP明けの衛の不吉
なセリフまでが一連のシーンであり、Act.48のメインストーリーはエン
ディミオンとクンツァイトの決闘からの繋がりで構成されている。

以前も指摘したことだが、何うも鈴村演出回では、アバンで語りきって
おくべきシーケンスがAパート冒頭にちょっとだけ零れる傾向があり、
鈴村自身に自覚があるか何うかは不明だが、これは脚本の性質を理解し
た構成とは言えないと思う。

この番組の生理では、アバンのシーケンスはOP前に語りきられること
で本編のメインストーリー全体に効果を及ぼすような呼吸で書かれてい
るのだから、少しでも本編に零れ出したのでは台無しになる。一旦OP
で気分が仕切り直されるわけだが、それが前提の語りの呼吸となってい
るのだから、わざわざ仕切り直しを無効にするような構成で繋ぐのでは
意味がない。

ことに今回は、同じ一人の人物が断絶した二つのシーケンスに連続して
登場するのだから、きちんと仕切り直しておかないと慌ただしい印象に
なるのは当たり前である。

こういう繋ぎ方をする場合は、語りの視点が地場衛にベタ附きになると
いうことなのだから、本編全体において地場衛が視点人物にならなけれ
ばおかしい(Act.21のまこちゃんのように)が、今回の場合には途中で
地場衛はメタリアに呑み込まれて己を喪失し、それ以後の展開はうさぎ
やセーラー戦士の主観に引き取られる。

だから、何う考えてもうさぎと地場衛の会話のシーケンスがAパートに
零れているべき必然性がない。アバンと本編に繋がりの感覚を持たせる
狙いだとしたらそんなことをしても意味がないし、考えなしな繋ぎ方だ
と言われても仕方がないだろう。

余談だが、鈴村はこのエピソードでもAパートお尻の爆破カットを半端
な呼吸でカットしてBパート冒頭でダブらせており、シリーズ中盤では
この手法を多用しているが、この種の如何にもTV的な引きの呼吸の編
集というのは、物欲しげでオレ個人としては大嫌いである。

これは、バラエティ番組の編集でCMの前後に同じ素材を繰り返すのと
狙いとしては同じで、見せ場のカット尻を半端に切ってCMの間も興味
を繋ぎBパート冒頭から更めて語り直す趣向だろうが、一繋がりの動作
が半端に切れること自体編集の呼吸として汚らしい。

アバンのシーケンスがAパートに零れる鈴村担当回の特徴も、このよう
な狙いの延長上にあるのだとしたら、物事の本質を視ていない表面的な
発想だと思う。

またこの一騎打ちにしてからが、現状の描写ではエンディミオンを殺害
しようとしていたクンツァイトがジェダイトの不意討ちから身を挺して
エンディミオンを庇うくだりが、芝居の繋がりで間抜けに見える。

現状の芝居だと何らの躊躇もなく相手を殺そうとしていたクンツァイト
が、次の瞬間に殺そうとしていた当の相手を庇うという見え方なのが、
かなり繋がり上不可解なわけで、普通はクンツァイトの芝居に一瞬タメ
を設けて逡巡を匂わせるものだろう。

ならば望み通りに」と叫んでそのまんま殺しかけているように見える
から間抜けなのである。剣を翳して間髪を入れずジェダイトに気附いて
身を入れ違えるという呼吸になっているが、ふと躊躇ってから視線の芝
居でジェダイトに気附くというほんの一呼吸で随分違った印象になった
はずである。そのような呼吸になってさえいれば、ただその一刹那の裡
にクンツァイトの妄執がどのような形で昇華されたのかがくっきりと見
えるはずである。

さらに余裕があるのなら、カットを割ってジェダイトの挙措を一瞬イン
サートしていたらもっと効果的な芝居場になっていたはずである。それ
は、ジェダイトがこのタイミングでエンディミオンに襲い掛かったのは
クンツァイトと連携してエンディミオンの必殺を期したからだろうが、
現状ではクンツァイトが刺されるまでジェダイトが映らないので、何故
このタイミングでジェダイトが斬り掛かったのかピンと来ない。視聴者
はクンツァイトが刺されてから初めて「ああそういえばいたんだよね」
とジェダイトの存在を想い出すのである。

クンツァイトがエンディミオンを庇って刺されるという結果が見えてか
ら漸くジェダイトが映るので、ジェダイトがクンツァイトの斬撃に乗じ
て助勢を図ったという企図が絵で呑み込めないのである。そこが絵面で
ピンと来ていれば、「何故?」というジェダイトのセリフも自然に響く
が、視聴者の感覚としてはいきなり湧いて出ているので「何故はおまえ
やろ」という気がしてしまうのである。

つまり、現状では目紛しい一刹那の混乱の裡にクンツァイトが刺されて
いたという衝撃を際立たせる方向で絵面が組み立てられていて、その為
に予めジェダイトを見せる手続を踏んでいないのだが、この場面は本来
クンツァイトの回心の機序を映像の組み立てで見せるべき場面なのであ
り、クンツァイトの死はその結果にすぎないのである。

つまり鈴村はこの芝居場で表現されているのが、嘗て前世でクンツァイ
トが己の剣を「主の為に死する剣」と表現していた言葉であることを
れている
のである。覚えていてこのようになっているのであればただの
怠慢
なのだから、忘れていたと解釈するのが礼儀だろう(笑)。

直前の場面でまさにその回想が繰り返されていて、クンツァイトに王家
に相応しくない乱暴な剣と窘められたエンディミオンが、敵と刺し違え
てでも倒す剣
の何処が悪いと応じ、ならば四天王の剣はと問われたクン
ツァイトが「我等の剣は主の為に死する剣」と即答するのだが、今回の
回想ではエンディミオンの言葉しか押さえられていない。

しかし、この決闘はその一連の不吉な予言が成就されたものなのだ。

つまり、エンディミオンを斬ろうとするクンツァイトの剣は彼本来の剣
ではなく、身を挺してエンディミオンを庇う赤誠こそが本来の四天王の
剣の在り方なのであって、この一瞬の間に復讐鬼クンツァイトは地球国
四天王のクンツァイトである己を取り戻したはずなのだが、取り戻した
瞬間が映像の何処にも映っていない
のである。

現状の見え方では、殺る気マソマソで斬り掛かったが脊髄反射で庇って
しまったようにしか見えず、やっちゃったモンは仕方ねーやオイラ莫迦
だよな的にクンツァイトの回心が語られているから、折角の伏線がいろ
いろ有耶無耶
になってしまっている。

クンツァイトの妄執それ自体の筋道に関しては、不可解な点が多々ある
ことを何度も繰り返し指摘してきたが、それはそれとして、この場面に
おいてクンツァイトは「エンディミオンの裏切り」という虚構のストー
リーを漸くにして手放すのだから、クンツァイトとエンディミオン夫々
の自己犠牲は、わだかまりなく互いを信頼していた頃に語られた彼らの
基本姿勢と響き合っている必要があって、その響き合いを芝居や映像で
見せる必要があったのである。

現状の映像を視ても、直前にまさしくその回想が用いられているのにも
関わらず、この対決がその前世の会話で語られた予言の成就であること
など普通の視聴者は気附きもしないだろう。「クンツァイトが反射的に
エンディミオンを庇って死ぬ」「死に際に漸く改心する」という、ただ
それだけの段取りが演じられたようにしか見えない。

クンツァイトを演じる窪寺昭の芝居の組み立ても、そのような段取りを
前提にしたものとしか思えず、クンツァイトの回心の瞬間を演技で表現
するのは野暮だと考えたのかもしれないが、演技力云々というより芝居
場の解釈が間違っているのだと思う。しかし、本来役者を支配して芝居
場の語る意味性を統一するのは演出者の仕事のはずである。

これは剰り褒められた演出ではない。

以前語ったように鈴村演出はどちらかと言えば一本の脚本が挿話を十全
に語りきっているようなエピソードに向いている。何処の誰が読んでも
同じ意味を感得するような明晰な脚本が向いている。それはつまり鈴村
展弘という演出者を褒めていることには決してならない。

脚本のドラマ的な行間を埋めることはそれほど得手ではなく、かっちり
したお話の上に映像の意匠を乗せていく演出に特化している。そうした
演出スタイルの故に、今回のストーリーの捌き方にはいろいろ要不要の
判断に齟齬が視られたように思う。

また大本の関心が映像表現、つまり撮り方・繋ぎ方に集中している為に、
撮られるもの、つまり役者の芝居を揉むことは得手ではないという弱点
もあるだろう。従来の鈴村演出回一般には、役者の演技をコントロール
出来ていないという共通した弱点があるように感じる。田崎や舞原なら
自身の物語解釈に基づいて粘るところを、鈴村はそのかなり手前、演者
個々人の思惑通りの芝居でOKを出しているように感じるのである。

役者というおしなべて我の強い特殊な人種と闘って屈服させるには物腰
が柔らかすぎる人間だということもあるのではと思う。全話DVDの特
典映像で見せる女優陣にナメられきった姿や、現在すでに閉鎖された嫁
のブログなどで語られた平素の温厚な態度を視る限り、強烈に自己主張
する相手とやり合って自分の言い分を通すというタイプの人間とは思え
ない。お仕事中の鈴村カントクの姿を伝える公式サイトの記事を読んで
も、そのような鈴村像を覆すような報告は窺われない。

たとえばAct.47のレビューでは敢えて指摘しなかったが、折角の泣かせ
所であるラストのクラウンの場面でも、気持ちよさそうに大泣きしてい
る北川景子
以外、あの迫力ある芝居を演じる沢井美優や憑依型の演技で
独特の雰囲気を醸し出す浜千咲ですらもが「小学生の嘘泣き」のような
せせこましい小芝居で視聴者をゲンナリさせる。

まあ、安座間美優に「味のある棒読み」以上のものを期待するのは酷だ
ろうし、北川景子が大泣きするのは幼児のような洟水垂らした大泣きが
芝居の華だと思っているから
なので仕方ないとしても、あの場面の演技
は誰一人褒められた出来ではなかっただろう。

今回アバンでうさぎが泣く場面の沢井の芝居もひどいもので、前回語っ
たように、うさぎと美奈子の間には死んだからと言って本心から泣ける
ほどに通い合いのドラマがあったわけではないのだから、仕方ない事情
もあるにはあるが、所作事と割り切るにしても、あんな子供の嘘泣きに
OKを出すなよとは思った。

要するに鈴村展弘という演出者は、脚本と格闘して本質的なドラマ性を
掴み出したり、役者と闘って芝居場を彫琢するよりも、撮り方・繋ぎ方
で何とかしようとするタイプの演出者なのである。監督に昇格したばか
りで経験が浅い、押しが効かないということもあるだろうが、しんどい
ぶつかり合いで作品を鍛え上げていくようなところがなく、自分が何と
かしますから的に対決を避けるようなところがある。

キツい言い方をするなら、それは監督ではなく助監督の生理である。

その意味でこのAct.48の鈴村演出には、一人の監督として本質的に足ら
ざる部分が如実に顕れているのではないかと思うし、一言で言って物語
に負けている演出
である。

何某かスケジュール面の問題があったのかもしれないが、もう撮りきる
だけで一杯一杯という印象なのである。そもそも、こんなしんどいエピ
ソードが高丸ローテの二話を挟んだ連投の最後に控えているのも気の毒
な巡り合わせだとは思うが、余裕があってもそれほどの違いはなかった
のではないかと思う。

こういう言い方も何だが、ことこのエピソードに限って言えば鈴村では
荷が重かった
のである。

今回描かれているドラマ的内実とは、Aパートではクンツァイトの死を
語り、Bパートではエンディミオンメタリア化の悲劇と外ならぬうさぎ
自身の手によるその殺害という究極の悲劇を語るものである。通常は本
編で二回CMが入るABCの三パート構成なのだが、このエピソードに
限ってはAB二パートの変則構成になっている。これが物語の要請に基
づくものではなく現実の都合によるものであることは後段を通読戴けれ
ばわかるだろう。

それがさらにドミノ倒しのようにうさぎのプリムン化を導き出し、星の
破滅という究極のカタストロフを導き出すわけで、作劇的に言うなら、
これは悲劇の連鎖というオーセンティックな大悲劇のクライマックスの
骨法を踏襲していて、バタバタと慌ただしく極端な悲劇が連続する為、
選れて演出力を要求される挿話構造である。

そのような視点で視れば、まず陸橋上のうさぎとの会話で愈々「自分が
何とかする
」という地場衛の決意が暗示され、ダークキングダムの森の
決闘から続く一連のシーケンスはその地場衛の決死の企図が運命の悪戯
によって脆くも崩れ去る宿命悲劇を語るものである。

そして、うさぎに「もしまた星を滅ぼそうとする奴が現れたら、おまえ
」と最後の始末を託したとしても、うさぎに自分が殺せないことなど
地場衛には百も承知のことであり、それ故本心から自分への殺意を抱き
剣技の上でも自分の技倆を上回るただ一人の男であるクンツァイトの剣
にすべてを託したのだろう。

但し、クンツァイトの問いに応えてエンディミオンが「そこまで覚悟し
たわけじゃない
」と言うのは、クンツァイトの想いに真正面から応えた
いという気持ちもまた、それと同程度に重要だということである。この
曖昧ともとれる頑固な決定留保の姿勢は、Act.44でゾイサイトに語った
言葉に照応しており、同じように大事なものには決して序列を附けない
という一種奇矯なエンディミオンの信念を顕わしている。

視聴者視点においては、彼の思惑としてクンツァイトなら自分を殺せる
はずと見込んだのか、それともメタリア諸共滅ぶ前にせめてクンツァイ
トの妄執を晴らしたいと望んだのか、そこをはっきり弁別する必要はな
いということである。まず肝要なのは、復讐を望むクンツァイトに対し
て、今なら真剣勝負に応じてやることが出来るということであり、その
結果自分が斃れるとしても、それもまたよしということである。

よしクンツァイトの勝利が叶わなかったとしても、その場合の決定権は
自分にあるわけだから相手の命をとらなければ済むことで、クンツァイ
トの剣がこの身を貫くことがないのなら、自ら剣の上に身を投げるだけ
のことである。

窮めて大雑把に見えるが、地場衛=エンディミオンの思惑はその限りで
はどちらに転んでも自分一人が死ぬことで八方円く納まるようになって
いたのである。

しかし、その場に偶々ベリルに使わされたジェダイトが介入することに
よって一刹那の裡にクンツァイトの回心がもたらされ、「主の為に死す
」という番狂わせが演じられた為、次の選択肢である自死を選ぼうと
するが、そこに偶々黒木ミオが退屈しのぎに連れ出したうさぎが居合わ
せることで「自分が自ら死ぬのを目の当たりにしてうさぎは耐えられる
のか」という心理的抵抗が生じる。

ここでエンディミオンがうさぎを目にしたことで一瞬自死を躊躇ったが
故に、ついにエンディミオンはメタリアに呑み込まれてしまうわけで、
今回の物語で描かれているのはまさに冷酷な宿命に人間のあらゆる営為
が蹂躙される神話的悲劇なのである。

物事が加速度的にどんどん悪いほうに転がるというオーセンティックな
大悲劇の定石が巧みに踏襲されているわけで、この呼吸を一歩間違えれ
ばスラップスティックに見えてしまう。たとえば「嫌われ松子の一生
なども物事が加速度的にどんどん悪いほうに転がる話であるが、これを
引きの視点で捉えると狂騒的なスラップスティックになる。

悲劇と喜劇は紙一重と言われるのはこの為で、普通なら物事というのは
それほど一方的に悪いほうにばかり転がらないのだし、もしそうなると
したらそれはハタ目には滑稽なことである。

たとえば、路上で財布の中身をぶちまけてしまった男が小銭を拾ってい
る裡に犬の糞を踏んでしまい、驚いて後ずさったら塗装作業の足場にぶ
つかって頭からバケツごとペンキを被り、前が見えなくなってよたよた
と車道上にまろび出たところを後ろから来たトラックに撥ねられたとし
たら、本人的には一切笑い事ではなかろうけれどハタ目には十分ギャグ
である。

物事がどんどん悪いほうに転がるというのは、語り口次第で悲愴なこと
でも滑稽なことでも在り得るのである。

現状の鈴村演出では、このAct.48全体がシステマティックに劇中の人々
を破滅に誘う悲劇の連鎖となっているという、劇的なテンションが一切
表現されていない。観念的に言えば、バラバラなイベント叙述を並べた
だけという散漫な印象を覚えるのである。

その夫々のイベントがすべて、シリーズ全体の決算となるような大きな
画期を成す故に、何とも慌ただしく「詰め込みすぎている」という印象
を覚えてしまうが、これは本来詰め込みすぎた話ではないのである。

たとえば、「もしまた星を滅ぼそうとする奴が現れたら」という地場衛
の不吉な言葉、「主の為に死する剣」という前世の約束、ジェダイトを
使わしたベリルの配慮、うさぎを連れ出そうとする黒木ミオの気紛れ、
このような要素が渾然一体となって宿命の悲劇を完遂するのであるが、
これらすべてが一本の緊密な悲劇を構成する「部分」としてのイベント
なのだという意識が、鈴村の演出には視られない。

普通にシリーズ全体のクライマックス!という程度の認識でのべったり
演出している為に、宿命が刻々と用意するカタストロフの緊張が一向に
伝わってこない。クンツァイトの死やエンディミオンのメタリア化とい
う「イベント」をその時々に追っているだけで、うさぎと衛の会話から
エンディミオンの殺害までが、因果関係の連続した一連の悲劇であると
いう意識がない。

おそらく前回のAct.47は鈴村が撮っても他の誰が撮っても上がりの差異
は程度問題の範疇だろうし、鈴村視点で言えば向いた脚本だったと思う
のだが、今回のAct.48に限っては、脚本に内在する緊密な悲劇の構造に
まで目が及んだであろう舞原賢三の演出でなければならなかったところ
である。

おそらく舞原賢三がこのエピソードを担当していたなら、Act.2728
匹敵するような戦慄すら覚える神話的悲劇として映像化が可能だったの
ではないだろうか。この脚本に関しては、トクサツ的な文脈の足し算の
演出術では一切太刀打ちが叶わないのである。多分、田崎竜太でもこの
脚本を十全に映像化することは不可能だっただろう。

今回のエピソードの根幹に、これまで語ってきたような大悲劇の構造が
内在しているのだとすれば、それは西欧演劇的な緊密なドラマツルギー
と堅牢な作劇構造の所産であり、歌舞伎芝居的な緩やかな作劇観に基づ
く意匠の戯れとは異質だからである。

このいびつな脚本を十全に映像化する為には、小林靖子が構想した冷酷
な宿命悲劇を、彼女と同レベルに立って理解し映像化し得る「もう一人
の作家」としての目が必要だったのである。

たとえばこれに続くFinal Act においては、うさぎの唐突なプリムン化
が星の破滅をもたらすわけだが、現状の作物では何故そういう無理矢理
なカタストロフが不可避だったのかがよくわからない。

Final Act の舞原演出を俟って唐突に何ら理由もわからぬ儘に納得して
しまうわけだが、その前段の筋道がわからないから何とも言えない隔靴
掻痒の気持ち悪さを感じてしまう。そこで語り手が真に欲していたのは
シリーズ前半のドラマをすべて否定する悲劇の結末であったことが露呈
してしまい、その恣意が屹立した印象として受け手に感得されてしまう
のである。

第四クールを語るオレのトーンは一貫してこの展開にこのような結末を
志向する恣意を視るわけだが、そのような語り手の恣意が突出した第一
印象として立ち上がってくるのは、本来この最終二話で語られるべき大
悲劇としての挿話構造が不完全にしか成立していないからなのである。

舞原演出を神棚に奉るつもりもないが、Final Act の演出を視る限りは
少なくとも舞原の意識としてはその間の機微が諒解されている。それに
ついては当該エピソードのレビューに詳説は譲るが、まさに舞原演出は
この最終二話の悲劇としてのドラマ構造を踏まえた映像として最終話を
映像化しているのである。

Act.48の筋立てが滑稽なまでにどんどん悪いほうに転がるのは、それが
神話的悲劇だからなのであって、星の破滅を基点として遡ってその理由
附けが合理的且つ不可避的な流れとして語られているからなのである。

Act.48の時点で視聴者が感じるべきなのは、たとえばクンツァイトの死
が哀しいとかエンディミオンのメタリア化が残酷だとかそれを殺害した
うさぎが可哀想だというような、その場その場の情感ではない。

事態の一方的悪化をもたらす宿命の逃れ難い冷酷且つ強力な力である。

本来ならこのエピソードは、戦慄すべき運命の圧倒的な強制力を語る大
悲劇として映像化されねばならなかったのであって、個々の人物の命運
それ自体に重点を置き物悲しい絵巻物のように見せるべきではなかった
のである。

もしもそのような宿命悲劇として十全に映像化されていたとしたなら、
星の破滅という悲劇的結末を恣意的に志向する物語の是非を単純に問う
ことは難しかったはずであり、語り手の恣意というメタ的な要素がこれ
ほど単純な作劇上の問題として屹立することもなかったはずである。

たとえばベリルが星の破滅を防ぐ為にジェダイトにエンディミオン暗殺
を指令すること、たとえば黒木ミオが退屈しのぎの野次馬根性でうさぎ
を決闘の場に連れ出すこと、これは劇中事実のレベルでは別段星の破滅
を志向する恣意では在り得ない。そうであってもなくても構わない程度
のちょっとした附加的な脇筋である。

しかし、前述のようなドミノ倒しのように緊密に連鎖する大悲劇の構造
を前提とするのならば、星の破滅というカタストロフを強烈に志向する
宿命の冷酷な力が偶々そのような偶然を装っただけで、たとえベリルが
そのような余計な気遣いをしなくとも、たとえ黒木ミオがそのようなつ
まらない気紛れを起こさなくとも、別の形で同じような悲劇がもたらさ
れたのではないか、と視聴者にまざまざと想像させるような宿命の力の
迫力が描かれていなければならなかったのである。

今回の筋立て全体を覆うこの不吉で冷酷で強力な力が、現状の作物には
微塵も感じられないのである。

以前語ったように、悲劇というのは宿命に圧倒される経験である。目も
眩むほどに大きくて強いものに無力に弄ばれる感覚である。

たとえば現状の番組を視た場合、視聴者はこの物語の本当のラスボスは
外ならぬうさぎ=プリンセスムーンだったと考えるだろう。しかし今回
のエピソードが、たとえば舞原演出によって十全以上の宿命悲劇として
映像化されていたとしたら、この物語の本当のラスボスは人智を超えた
「宿命」という強大な強制力である
ことを感得していたはずである。

ネットの感想を視て廻ると、何故最終回で戦士たちはベリルやジェダイ
トと闘わないのか、何故プリムンの暴走は止められなかったのか、とい
う至極ご尤もな疑問をよく見掛ける。

その疑問に対するオレなりの回答は、すべての劇中人物が闘うべき相手
とは「宿命」という形のない巨大な敵だったから
、というものである。

ベリルよりもメタリアよりもプリンセスムーンよりも強大な敵、それは
何が何でも人を破滅に導こうとする宿命という形のない力なのである。

そんな力など現実には存在しない。宿命など実在しないのだし、そんな
のはドラマの中にしか在り得ないものである。これは強調しておくべき
ことだと思うのだが、「宿命」という観念は選れてドラマツルギー上の
虚構
なのである。

その一方で、人間の現実においては一時的に物事がどんどん悪いほうに
転がるという局面が必ずあるのだし、その連続に耐えられない場合には
人は(国さえも、星さえも)いとも簡単に滅びを迎えてしまう。

宿命を前提とする大悲劇という虚構は、そのような普遍的な人間の実感
を純化・誇張して語り、擬似的にそのような極端な人生を観客に生きさ
せることで、そこから平穏な日常への回帰の感覚をもたらし、大いなる
カタルシスを提供するのである。

今回のエピソードは、子細に要素を分析するとそのような大悲劇を志向
しているわけで、結論から逆算してプロセスを理由附ける作劇構造なの
である。これをそのようなものとして映像化する場合に重要なものとは
連続性の感覚であり、一つのイベントが次のイベントを不可避的に導き
出すという冷酷な劇的合理の感覚である。

その前提で、最初からもう一度視ていこう。

アバンからのうさぎと地場衛の会話は、地場衛が本心を隠してうさぎを
安堵させ、最後の名残りを惜しむ場面であり、おそらく地場衛の企図と
してはうさぎに識られることなく自身諸共メタリアを葬る決意を固めて
いたはずである。

そして「もしまた星を滅ぼそうとする奴が現れたら、おまえが」という
言葉は、絶対にそうはさせない決意だが、万が一にも自分の計画が破れ
ることがあるなら、そのときは頼んだぞ、という底意である。

これはつまり、今回の物語は結末においてそうなるという作劇的な予言
である。最悪を想定する言葉が予め語られる場合、大概の物語ではまさ
にその最悪の事態が出来するものである。

だからこそ、ここまでが一続きの予言のシーケンスになっていて、続く
一連のシーケンスはその予言が実際に実現される流れを描いているわけ
である。つまりこのアバンは今回の本筋を予告するプロローグであり、
本来決闘以後の流れとは独立していなければならないはずである。

鈴村の繋ぎ方ではここがアバンとAパートに分断されているのだから、
そういう見方をしていないということである。プロローグと本筋の弁別
が出来ていない、その質的な差異を認識していないからのべったりした
絵巻物の語り口になっているわけである。

続く決闘の場面でも、クンツァイトがエンディミオンの中のメタリアの
存在に目聡く気附きその真意を問う、それが前世の回想を誘い、自分が
これまで抱いてきたエンディミオンへの憎悪が筋違いのものであって、
エンディミオンが昔の儘の敬意に値すべき主君であることを悟る契機を
つくる。

現在のエンディミオンが昔に変わらぬ自身の「主」であることがここで
確認されるなら、そこからさらに導き出されるのは、自らの剣が「主の
為に死する剣
」であるという旧い誓言である。その瞬間、前世における
この二人の嘘偽りのない会話は予言としての性格を獲得するのである。

本来地場衛の計画では、クンツァイトが自分を倒すかもしくは自分がク
ンツァイトを敗っても活かすという段取りになっていたわけだが、そこ
にジェダイトが現れることで、「エンディミオンを庇ってクンツァイト
が死ぬ」という最も望まない形の結末が招来される。

しかもそれはジェダイトという四天王で最も年若い少年の手による所行
で、前世の主君を狙って誤って四天王のリーダーであるクンツァイトを
殺すという大罪を犯したジェダイトは最早決して後戻り出来なくなる

一見して、どちらに転んでも自分さえ死ねば八方円く納まるはずだった
地場衛の目算は、ジェダイトによるクンツァイトの殺害という最悪の方
向に転がっていく。それが待ちに待ったクンツァイトの回心によるもの
であることがさらに悲劇的であり、「主の為に死する剣」という不吉な
予言が成就されることでそれがもたらされる辺り、運命の皮肉という外
はない。

ここでもしクンツァイトが回心しなければ四天王の二人が嘗ての主君を
手に懸けるという流れになっていたわけだが、それは一面ではエンディ
ミオン自身が望んだ結末であり、星を救う為の意味ある殺害であること
で二人の罪には慰藉と赦しが与えられるのだし結果としてクンツァイト
の妄執は晴れメタリアは滅ぼされるのだから、何ら問題はない。これは
最善ではないが次善ではあるだろう。

しかし、ここでクンツァイトが回心してしまったが為に、クンツァイト
は死に、ジェダイトは無意味な同胞殺しで手を汚しクンツァイトの最期
の呼びかけに応えることも出来なくなる。嘗てゾイサイトの末期の呼び
かけに背き、現世における己の生き様を「決めた」少年は、遂に自身の
手を血で汚すことでクンツァイトの呼びかけにも背くのである。

たしかにクンツァイトの妄執を晴らすことだけは叶ったが、それは望ま
ざる死と大罪と引き替えのものでしかなかった。死すべきなのは、本来
はエンディミオンただ一人だったはずなのであり、それでなくては悲劇
を円満に回避することは叶わなくなる。

この場面は、前述の通り旧い予言の成就として映像化されるべきなので
あり、さらには宿命の強大な力を物語るものとして映像化されねばなら
なかったのである。ここが現状ではクンツァイトの悔悛だけが強調され
た感動的な演出になっているから、本来的には最悪の結末であることが
視聴者に意識されないのである。

勿論、エンディミオン一人が命を抛つことですべてが解決するという筋
道が、メタ的な意味で最善の結末であるはずなどはないが、劇中事実の
レベルではそれ以外の選択肢はなくなっているのだし、その前提で考え
るなら、現実に出来した結末は地場衛の企図からすれば最悪の結果なの
である。

何故ならここでクンツァイトが回心したからといって、それは単にエン
ディミオンが自ら死なねばならなくなったというだけの違いにすぎない
からで、それに加えてジェダイトの大罪とクンツァイトの死という余分
な付録が附いたのは予想外の犠牲だからである。

この決闘の時点でエンディミオンは、クンツァイトの復讐の妄執自体は
たしかに自身に責任のある「仕方ないこと」と受け容れているのだし、
自分が死ぬことでクンツァイトの憎しみは晴れると考えている。

クンツァイトの死や自身への忠誠の復活など最初からエンディミオンは
望んでもいなかったのである。この流れはクンツァイト自身にとっては
本来の自分を取り戻すことが出来た充実の死であるが、エンディミオン
からすれば、彼の死と引き替えにそんなものが得られることを望んでい
たわけではない。

クンツァイトが抱いている無理もない憎しみを自分の命によって購って
やりたい、それがエンディミオンの当初の望みであり、クンツァイトに
対する嘘偽りのない真心だったはずである。

現状の演出に欠けているのは、事態が否応もなく最悪の方向に転がって
いるという緊迫感
なのである。いわば演出の視点がここでクンツァイト
が回心することで安心しているのだ。この場面において、クンツァイト
の回心すらが皮肉な運命の駒としてエンディミオンを追い詰め、引いて
はそれを見守るうさぎをも追い詰めているという認識がない。

それは、エンディミオンが自刃を選ぼうと剣を胸に宛った瞬間にうさぎ
が「衛!」「やめて!」と叫んで物陰から飛び出して、そこで逡巡した
為に一足行き遅れてメタリアに呑み込まれたような呼吸になっていない
ことでもわかるだろう。

現状の見え方だと、自刃が間に合わなかったというより、遅かれ早かれ
衛がメタリアに呑み込まれていたような見え方になっているが、ここの
場面は本来、うさぎがそこにいなければメタリアを滅ぼすことが可能で
あったような見え方になっていなければならなかったのである。

繰り返しになるが、それは本当のラスボスはメタリアでは「ない」から
であって、計画通りに運べば滅ぼせたものが偶々滅ぼせなかったと表現
することでこそ、その事実が浮き彫りにされるからである。

それは劇的論理の観点においては、偶々物事が拙く運んだのではなく、
そこにうさぎがいて衛を引き留めたことが必然に見えるように描かねば
ならなかったということである。

現状の見え方ではその後のメタリア化エンディミオンの威力表現が派手
なこともあって、メタリアを自分諸共葬るという地場衛の計画は最初の
最初から無謀だった、地場衛の目算を遥かに超えてメタリアの力は強大
だったというような見え方になっているが、本当ならそれは十分成算の
ある賭けに見えていなければならないのである。

もっと言えば、メタリア化エンディミオンが無闇に強いのは、うさぎを
除く三戦士を無力化する為というだけの話で、メタリアがムチャクチャ
強いラスボスだということを表現すればいいのではない。

すでにこの時点では、メタリアなど「道具」にすぎないのである。

地場衛の霊に導かれたとは言え、何ら特別な力を持たないうさぎが何故
メタリア化エンディミオンをあっさり倒せたのかと言えば、それはそう
させるように宿命が強制したからである。この場合は、メタリアが暴走
することではなく、うさぎがエンディミオンを自身の手で殺害すること
こそが最悪の結末だから
こそ、そうなるように大きな力が働いているの
である。

ここをトクサツの生理に基づいて、ドカンドカンと派手な花火の連発で
遂にラスボス登場!とばかりに盛り上げた鈴村を責めることは出来ない
だろうが、メタリア化エンディミオンは単に他の三戦士に倒せなければ
それでいいのであって、絶対的に強くなくても構わないのである。

ここで強調さるべきは、銀水晶の力も敗れ他の三戦士も手も足も出ない
のに、何故かうさぎにだけは簡単に倒せるという脇の甘さである。その
ようなご都合主義的なまでに「出来すぎている」感覚である。

うさぎがエンディミオンを殺害するところまで含めてそう在るべく何か
が仕向けている
という不吉な連続性である。そしてそこからさらに導き
出されるうさぎのプリムン化と星の破滅が何故避けられなかったのかと
言えば、それが旧い予言だからである。

つまり、この最終二話の流れとは、複雑に重層する不吉な予言の成就の
集積
として、常に迷わず真っ直ぐに最悪の結末を志向する宿命の進行を
形成しているのである。クンツァイトの死、エンディミオンのメタリア
化、うさぎによるその殺害、プリムン暴走による星の破滅、これらのイ
ベントはすべて嘗て予言された不吉な未来なのであり、最終二話の展開
はそれらの予言が着々と見えざる手によって合理的に成就していく流れ
を積み重ねているのである。

敵と刺し違えてでも倒す剣、主の為に死する剣、星を滅ぼす者の打倒を
託す衛の言葉、そして月の王女と地球の王子の恋を禁じる禁忌、これら
は共に手を携えて非情な悲劇を遂行する予言の呪いなのである。それ故
に、この最終二話で表現されねばならなかったのは、予言の呪いが一つ
また一つと成就されていく緊迫感の持続でなければならないのである。

そのような感覚はこれまでのトクサツでは描き得ないものと見做されて
いたようだが、オレたちはすでにそれが実現されていることを識ってい
るはずである。

他ならぬAct.2728を担当した舞原賢三の演出がそれである。Act.28
アバンで演じられた幻の殺害の生々しさ、神話的な幻夢感、それが一転
瞬の裡に虚構に回収される手際、これを視た以上、Act.48はこのように
しか演出出来なかったのだなどと言うことは出来ない。

映像に張り詰める宿命悲劇の緊張感、持続する冷酷なドラマツルギーの
テンションを意識的に演出することは原理的に可能なのである。すでに
舞原賢三がそれを実現しているのだから。

何度も繰り返すが、少なくともAct.48とFinal Act だけは、舞原賢三が
連続して演出すべきだったのである。

しかし鈴村展弘の限界とは、遥かその手前、要するにこのエピソードが
そのような構造の物語であることに気附けなかったところにある。彼に
とって今回のエピソードは、クンツァイトの死とエンディミオンのメタ
リア化とうさぎの手によるその殺害を語った、山また山が連続する慌た
だしいエピソードでしかなかった。

これだけ大きなイベントが立て続けに起こる忙しいエピソードだから、
映像の段取りが大変だという認識しか視られない。要するに鈴村にとっ
てはこのエピソードは「詰め込みすぎ」のお話にしか見えなかったので
ある。

おそらくこの番組において、鈴村がここまで物語に完膚なきまでの敗北
を喫したのは初めてだろう。鈴村にはこのエピソードが何を語っている
のか、まったく理解出来ていなかったので、まったく性格の違う物語と
して映像化してしまった
のである。

理解しているとしたら、その認識に則って描写要素の取捨選択が可能な
はずだからパッと視てわかるような尺調の失敗があるはずがない。前回
のおさらいや月野家のドタバタなど省いても差し支えない要素を捨てず
に残し、その一方で必要なはずの絵が足りていないなどという混乱など
あるはずがない。

だから視聴者であるオレたちにとっても、このエピソードは「クンツァ
イトの死とエンディミオンのメタリア化とうさぎの手によるその殺害を
語った、山また山の連続する慌ただしいエピソード」にしか見えない。

初見の際、オレはこのエピソードに関しては脚本も失敗しているのだと
考えた。これほど多くの劇的な要素が一話の裡に連続して起こるという
のは、普通一般のトクサツの生理で考えれば無理筋である。だとすれば
Act.47に「愛野美奈子の死」というただそれだけの単独イベントを振る
シリーズ構成は不経済であるということになり、それをも含めて終盤の
風呂敷の畳み方が剰りにもアンバランスだと感じていた。

しかし、このエピソードを子細に検討することで、少なくとも脚本家が
潜在的に構想していたドラマ性がどんなものであるのかが見えてきた気
がしたのである。

小林靖子がたとえばシェークスピア演劇のような正統的な大悲劇の骨法
に明るいという話も聞かないが、まさに今回のエピソードはそのような
正統的な大悲劇を連想させる緊密な挿話構造となっている。そしてその
ような脚本をこのように演出することも可能なのだし、そのように演出
されることで大本の挿話構造がまったく見えなくなることもあるという
のが、第二の驚きとしてオレには感得された。

おそらく今現在に至るも本人的には一切気附いていないだろうが、ここ
で鈴村展弘が喫した物語への敗北というのは、予想以上に物凄く大きな
ものだったのである。

それは、引いてはオレが嘗て黒猫亭日乗で語ったトクサツ一般の足し算
の演出術の敗北でもあるだろう。このエピソードにおける鈴村の演出は
トクサツのロジックで言えば何ら過不足のないものである。トクサツの
一演出者としての鈴村展弘は何ら間違ったことはしていない。単にその
ロジックでは扱い得ない劇的内実が、このエピソードには内在していた
というだけの話なのである。

ではこのエピソードが象徴するような作劇の方向性は「トクサツ」では
在り得ないのか。そんなことはないだろう。

突如東映特撮に振られた第三の放映枠であったこの番組は、最初の最初
からビジネスとして大きなヒットが見込まれていたとは思えない。一種
白倉の趣味的な実験枠としての性格も内々にはあったはずである(笑)。

結果的に出来したのは、「トクサツに何が語り得るのか」の極北を探る
畸型的な実験の供宴であり、トクサツプロパー以外の演出者によって、
本来トクサツという枠組みから喰み出す契機を内包していた小林脚本の
映像化がさまざまに試みられたわけで、これも立派な「トクサツの在り
得べき姿」の模索の試みだったはずなのである。

そこに調整要員として参入した鈴村は力量的には十分なトクサツ演出者
であり、田崎が抜けた後は東映特撮の生え抜き監督の代表として、それ
なりに存在感を示していた。最終盤の変則ローテに関してはいろいろと
大人の事情があったはずなのだが、前季までの舞原に代わって節目のエ
ピソードを悉く任され、それなりに勝率の好い勝負を演じてきたはずで
ある。

しかし、このエピソードではまるっきり間違ってしまったのである。

それは遡って言えば鈴村に代表されるような演出のロジックでは決して
Act.28のようなドラマは語り得ないということなのであり、もっと踏み
込んで言えば、このエピソードを書いた小林靖子にしてからが、鈴村の
演出で実現された映像以上の想像力はないだろうから、現状のAct.48で
それほどの不満はないはずである。

鈴村の演出を一方的に批判するわけにはいかないというのは、それが故
でもある。おそらく表面的に書いてある物語は現実に映像化されている
ような物語なのであり、小林靖子の表層的な意識としても、それ以上の
ものを求めたわけでもないのである。

それは小林靖子が脚本家であって演出家ではない以上当たり前の話なの
だし、東映特撮で育ってきた小林靖子にとっては、自分の書いた作物が
鈴村的な演出のロジックで映像化されるのがデフォルトの映像的想像力
なのだと思う。つまり、脚本に書いてある通り実直に映像化した場合、
普通なら今在るような形でしか実現しないのである。

この番組における舞原賢三の重要さというのは、要するに自分が本質的
にどのようなドラマ性を内包する物語を書いてしまったのかについての
映像的想像力を持たない脚本家に、その脚本に潜在する本質的なドラマ
性を映像作品としてまざまざと突き附けるところにあるのである。

今回偶々小林靖子が書いてしまったのは、西欧合理主義的な劇論の系譜
に連なる緻密なドラマツルギーが成立させる宿命悲劇なのであり、一年
約五〇話の実験は遂に小林靖子にこんなものまで書かせてしまったわけ
だが、偶々東映特撮の代表的な演出ロジックを体現する演出者にお鉢が
廻った為に、表面的にはそれが見えにくくなっているのである。

十分に健闘した鈴村には気の毒だが、このエピソードだけは是が非でも
舞原演出でなければならなかったのである。本来予期された物語を超え
る映像が力強い虚構として実現するという実写版セラムンの奇跡が最終
盤でもう一度成就する為には、それしかなかったのである。

舞原賢三自身としても、もしもこの最終盤においてこの二エピソードを
自分が連続して手掛けていたら何うなっていただろうと、折りに触れ夢
想することがあるのではないだろうか。鈴村展弘の仕事を尊重するなら
表立ってそんなことは口にしないだろうが、それは舞原賢三にとっては
逃れようもなく物語に召喚されるような感覚であるに違いない。

もしそれが叶っていたら、オレは多分白倉伸一郎という物語の勘がない
一人のプロデューサーに、これほど興味を抱くことはなかったかもしれ
ないと思う(木亥火暴!!)。

引いてはそれは、OVのほうに一話分の舞原賢三の契約を割いてしまっ
たローテの仕切りが然らしめるところなのだから、ざっくり言って白倉
の采配によるものである。つまり話をえらく簡単にしてしまえば、オレ
が今現在白倉を粘着質にヲチしているのは、白倉自身の自業自得という
ことなのである(木亥火暴!!)。

というわけで、例によって白倉の名が出たところで、現実の作物の具体
を離れ、このエピソードがこのようなものとして実現されたことで屹立
してしまった白倉の恣意、即ちシリーズ前半で描かれた日常的な実感に
基づく普遍的なヒューマンドラマをすべて否定し去り、非情な宿命悲劇
に向けて舵を切るという大転換の動機について語ることにしよう。

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