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Act.48-2 逆廻りのセカイ

結論から先に言いましょう。

この番組がこのようないびつな展開を辿ることは、おそらく最初の最初
から決まっていたのである。就中この最終二話がこのような展開を辿る
ことは、かなり最初の時点から白倉の構想としてあったのではないかと
オレは考えるようになった。

何故そうでなければならなかったのか、それには多分根拠などないので
ある。企画が動き出した時点でこの番組は、前半は少女たちの日常生活
と現世の生き様を追う明朗なタッチのキャラ廻しで、後半は宿命悲劇の
完遂を目指す縦糸主体の展開、そのような形で構想されていたのだろう
と思う。

この最終二話の悲劇的展開はアニメ版無印の終盤における悲愴な展開を
想起させるが、原作原理主義を標榜するこの番組的には原作のダークキ
ングダム編終盤を直接アレンジしたという言い方になるだろう。

エンディミオンとしてではなくタキシード仮面としてだが、原作の終盤
でも地場衛はベリルに洗脳されてうさぎたちと敵対し、銀水晶の癒しの
力でもその洗脳を解除することは叶わず、結局うさぎはタキシード仮面
を殺害した後に自身も自害して果て、前世の悲劇は再現される。

そこから銀水晶の奇跡の力を介して劇的な大逆転劇が起こるわけだが、
銀水晶内部に取り込まれた二人の生命は銀水晶の力で再生され、二人の
愛とセーラー戦士たちの友情の力が相俟って、最終的にメタリアの邪悪
な力を銀水晶の善美の力が粉砕し、セーラー戦士たちは勝利を得る。

その意味では、この最終二話の展開はアニメ版よりも原作の要素を相当
忠実に取り込んでいるわけだし、原作における「善悪二元論」の要素を
排除し「超越力の相対化」を施すなら、こういう落とし所になるという
のも理解出来る。

つまり、最初の最初から決まっていたのは「前世の悲劇の再現」という
クライシスと「銀水晶の力による逆転」という結末だったのではないか
ということである。就中、うさぎが自身の手によって地場衛を殺害する
という悲劇は、マストの要件として決定されていたのだろう。何故なら
原作コミックスを原典に仰ぐのであれば、美少女戦士セーラームーンの
クライマックスというのはまさに「そういうお話」だからである。

今回のエピソードが、周到な計算に基づいてそのイベントを結論とする
緻密な悲劇の連鎖を描いていたのは、この物語においては理も非もなく
その結末が当初からの青図として実現されねばならなかったからではな
いだろうか。

DVDの特典映像に挿入されている小林靖子の談話でも、「関係者全員
が合意した
」特定の道筋が予め決定されていて、そこに向かって物語を
進める必要があったことを匂わせている。要するに具体的なペーパーの
形で纏まった関係者各位の合意事項があって、それに対する「解釈」の
振れ幅はあっても、大筋その流れを逸脱することは出来なかったという
ことである。

その意味で、最終回が一種のリセット落ちとなっているのは、原作終盤
の展開とアニメ版無印のラストの両方に配慮し摺り合わせた形となって
いるわけで、かなり現実的な動機に基づくものだという言い方も出来る
だろう。

原作者としても東映特撮としても、東映アニメとの関係は決して良好な
ものではないのだが、少なくとも東映特撮サイドにはグループ会社とい
う義理合いがあるわけだから、アニメ版をまったく無視するというわけ
にもいかなかったのだろう。「関係者各位」の中に東映アニメが含まれ
ていたとしても、決して不自然な話ではない。

この物語が「美少女戦士セーラームーン」という曰く附きの大看板であ
ることを考えると、最終盤の展開は大人の事情に基づくところも大いに
あるのではないかと思わせるのだが、具体的な脚本によってその既定の
道筋を後附けていく以前に、シリーズ構成を担当する白倉がそのような
既定事項をどのようにアレンジしたのかということを考える必要がある
だろう。

それを簡単に要約するなら、プリンセスムーンを登場させ銀水晶の力と
メタリアの力を「まったく相同なもの」と位置附け超越力を相対化する
と共に、うさぎがプリンセスムーンという忿怒相に拘束されるのと相関
して地場衛もメタリアという破壊神と一体化させ、星の破滅をもたらす
力を連鎖的に交替させるという捻りが加えられたわけである。

この辺はよく原作者が納得したものだと思うが、おそらく白倉にとって
原作その儘の善美が邪悪に打ち克つ展開は到底受け容れ得るところでは
なかっただろうから、このアレンジに関しては周到に事前の折衝を重ね
て理解を得たものだろう。

原作者の拘りが実はそこになかったということも考えられるが、原作、
アニメ、ミュージカルが共に採用している大枠の力学は邪悪に打ち克ち
善美に味方する銀水晶の力を基盤に据えているのだから、このアレンジ
はかなり大胆なものである。しかし、漏れ聞くところによるとこの実写
版に対する原作者の姿勢はかなり好意的なものであるようで、寧ろ原作
ファンを標榜する層のほうが批判的な姿勢に終始していたようである。

何故にそういう温度の違いが発生するのかと言えば、要するにアニメと
同時進行の作業だった原作コミックスの場合、簡単に言えば「アニメが
ベースのマンガ展開」という扱いが物語における「原作者」の位置附け
に伴う拗れを招来したわけだが、実写版の場合、既存の原典として原作
コミックスに準拠することが予め合意されているのだから、アニメ版の
ような関係の拗れが発生しなかったということだろう。

要するに、準拠関係さえ明瞭になっていれば、原作者としては具体的な
細部にそれほど拘泥する必要はこの時点ではなくなっていたということ
である。アニメ版であれほど揉めたのは単にコミックスとアニメが別物
だったからではなく、原作者の構想した物語に準拠してアニメ版が展開
しているか否かという因果関係の問題で、リアルタイムの語りにおける
原作者の位置附けを巡る問題だったのである。

まあこの辺の業界ゴシップ的な部分を掘り下げるつもりもないが、煎じ
詰めれば「原作を尊重する」という意味では実写版の在り方は及第点で
あったということで、原作とアニメ版のように準拠の関係性の捻れなど
はなく、原作コミックスを別メディア展開したという因果関係が明瞭で
あったことがこのような大胆なアレンジを可能にしたのだろう。

巷では、アニメ版における確執を根拠にして、実写版における原作者の
影響力を過大評価する向きもあるようで、かなり原作者が制作に口出し
したようにイメージしている方もあるようだが、映像作品の制作実態を
考慮するなら、映像化権を獲得した作品の原作者が映像作品の制作自体
にそれほど具体的影響力を行使するということは考えにくいだろう。

その意味では、同時進行で進展して原作者が両方の作業にコミットして
いたアニメとコミックスの関係性とは別の観点で視る必要があるだろう
と思う。実写版の制作立ち上げにおいては、現実的な観点において原作
コミックスがすべてのメディア展開の原典であるという「歴史解釈」を
採用する必要があったというだけの話である。

実写版がまさにそのような事実関係の解釈に基づいてストーリーを展開
している以上、実写版の時点では原作者の位置附けは普通の意味におけ
る映像作品の原作者というにすぎなかっただろうし、まさにそれを巡る
確執が「原作」に相当するコンテンツの発生段階においてあったという
だけの話である。

小説やマンガを含めて、映像作品化において原作者に許されているのは
映像化の許諾を呑むか拒むかの判断だけで、それに際して原作者サイド
が条件を附けるとしても、映像作品の展開に対して原作者がフリーハン
ドの決定権を持つというのは窮めて考えにくいことで、普通ならそんな
面倒くさい条件を制作サイドが呑むことはない。

かなりの大家でも一旦映像化を許諾した作品の展開に対してフリーハン
ドの決定権を持つということはまず在り得ず、試写の席上で憤然と席を
立つという事態も稀ではない。小説家やマンガ家が映画やアニメ作品に
対して「一旦作者の手を離れた以上別の作品ですから私も一観客として
楽しませて戴きました」的な社交辞令を言うのは、つまり映像化を許諾
した作品の実際の制作において原作者の発言権はないからである。

そもそも実写版が制作された時点ではセーラームーンというコンテンツ
は東映の資産でも何でもなくなっていたわけで、寧ろバンダイのほうが
リアルタイムで原作者との接点を持っていたという言い方になるだろう
と思う。

さらにバンダイグループ内部でも女玩部門直接という形ではなく、セラ
ミュ
を中心とするかなりビジネスの規模が小さい傍流のセクションとの
繋がりということになり、時期的にも大山アンザ時代の全盛期をかなり
すぎて、休止の噂が内々に囁かれ始めた黒木マリナ時代の制作となる。

この時点ですでにセラムンは、女玩部門でもアパレル部門でもさほどの
影響力を持つコンテンツではなくなっており、したがって原作者の影響
力も相応に低下していたと考えるのが妥当だろう。

実写版の企画が動き始める直前の神戸みゆき時代には、ラストドラクル
三部作という窮め附けの珍品まで実現しているわけで、この辺になると
最早ミュージカルというジャンル固有の要請に基づくアレンジというよ
りも、別意匠に基づくセラムンという物語原型の語り直しに近くなる。

実際、実写版放映終了後の三公演を以てセラミュは不可解な形で休止に
入るわけだが、このようなタイミングを考えると東映アニメとは別系統
の組織になる東映特撮が、おそらくバンダイサイドからのアプローチで
セーラームーンというコンテンツのメディア展開を考える場合、アニメ
版の場合のように、原作者が何うしたこうしたという面倒な話になると
いうことも考えにくい。

実写版の放映時期に自由にコンテンツ商売が出来なかったというだけで
原作者と東映アニメの間の歴史的な確執には実質的にケリが附いていた
と視るのが相応だろう。その場合、コミックスを「原作」と認めて明瞭
な準拠関係に基づいて制作された実写版のほうを原作者が正当な映像化
作品として支持するのは、当たり前すぎるくらい当たり前の話である。

実写版とアニメ版を比較した場合、原作者サイドの温度を決定するのは
まさにその部分なのであって具体的な内容それ自体ではないのであり、
アニメ版に関して原作者が「出来に満足していなかった」というのは、
何某かの心情的現実を反映しているとしても、本質的な意味としては、
要するに「婉曲表現」というやつである。

それ故に実写版と原作者の意志の関係性を考える場合、それが在り得る
としても映像化の許諾に関わるかなり初期の段階に限られると考えるの
が妥当だろうし、具体的な展開に関して原作者の意志が介在したと考え
るのは都市伝説の範疇の事柄だろう。

要するに、あの原作者のことだからこのくらいはゴネただろうという噂
レベルの話ではないかと思うが、それとても原作者を過剰に戯画化した
想定であることは間違いないだろう。如何に原作者当人が実際に戯画的
な人物であったとしても、だ(笑)。

つまり、実写版の時点で映像作品としてのセラムンと原作者の関係にお
いて在り得るのは、原作者が実写版に対して不満を持ったか満足したか
という結果論でしか在り得ない。白倉の心情的ポジションとして、それ
が原作コミックスの映像化である以上、後者を目指すのは当然だったと
いうだけの話である。

白倉伸一郎というプロデューサーは、基本的に原作附き作品を手掛ける
場合には、批評的に再解釈するということはあるだろうが、原作を蔑ろ
にして原作者の意向を無視するというスタンスはとらないのである。

その結果実現した作物が原作者の不興を買うか好意的に迎え入れられる
かは飽くまで結果論でしかない。

オレがこのように考えるのは、個別のエピソードにおいて具体的に原作
者の意志が介在したと想定するならば、その「意志」とやらが具体的に
どのようなものでどのような創作的動機に基づくものであるのか、それ
が原作コミックスのどのような性格に合致した動機であるのか、という
検証が必須だが、寡聞にしてそのような検証が為されたという話を聞い
たことがないからである。

とあるファンサイトで、実写版のエピソードのストーリー展開を原作や
アニメ版と比較検証するという研究なら目にしたことがあるが、これは
当然原作者のリアルタイムの容喙とは関係ない話だし、そのような前提
の研究でもない。

寧ろ「原作者」としての地位確立とセラミュの経験を経た実写版の時点
では、原作ストーリーのアレンジに関しては一定の柔軟性を獲得してい
たと考えるほうが自然である。それは原作者である以上、映像化作品に
対して意見くらいは言うだろうし、それを制作サイドが配慮することは
考えられるが、「原作者が制作に口出しした」と明言し得るほどの話で
あるとは考えにくいし、剰えそのようなシステムになっていたというの
はもっと考えにくい。

この種の原作者独裁伝説というのはアニメ版の一件以来連綿として続い
ているわけだが、そうとられても仕方ないような強硬な意見表明が仮に
あったとしても、映像作品の制作実態においては原作者の意志を制作に
反映させられるような具体的なシステムや慣習は存在しない。単に原作
者を怒らせるとこの先いろいろ権利の許諾で面倒だというだけの現実的
な話であり、実写版の時点ではそもそも「この先」のビジネスなど存在
しなかった
のである。

さらに言えば、一種現役の天才視されている旦那の場合と違って、この
原作者が「この先」セラムンに匹敵するようなメガヒットコンテンツを
生み出し得るかということに関しても、一般的にはそのように視られて
はいないだろう。要するにこの原作者は、既存のメガヒットコンテンツ
であるセラムンに関して、一義的に許諾を決定する権利を有する法人格
であるにすぎない。

将来的なメディア展開ということに関して言うなら、おそらくアニメの
リメイクという辺りが最も現実的な線だろうが、東映アニメと絶縁して
いる以上、そうなるともう東映グループという企業とは一切関係ない話
になってくる。精々お得意さんのバンダイさんが先々困るかもしれない
から、そこそこ鄭重に扱うという程度の話だろう。

東映アニメが東堂いづみという人を雇ったのはその経験に懲りたからな
のだし、東堂いづみ氏原作のおジャ魔女どれみやプリキュアが実写版や
セラミュよりもバンダイを潤した以上、原作者と東映アニメの歴史的な
確執は歴史そのものの進展によって痛み分けで落ち着いたというところ
だろう。

原作者の影響力というのは、そのような現実的なビジネスにおける影響
力を前提にしたものであるにすぎないのであり、その個人がどのような
パーソナリティの持ち主だとしても、その間の事情に変わりはない。

そういう次第で、「原作者の容喙」という都市伝説的なフィクション
捨象して漸く白倉の意志に纏わる問題に切り込んでいくわけだが(笑)、
冒頭においてこの番組が初期の時点で「前半は少女たちの日常生活を追
う明朗なタッチのキャラ廻し、後半は宿命悲劇の完遂を目指す縦糸主体
の展開」として構想されていたと視たのは、これまで視てきたような現
実的な事情に加えて、そのようなシリーズ構成の雛形があったと考える
からである。

白倉が現在プロデュースしている「仮面ライダー電王」が、小林靖子と
組んでこれまでの両者の作品のリベンジを目論む試みであるという話は
日乗のほうで散々展開しているが、先日の第一九話でここに舞原賢三の
名前が加わり、名実共にセラムンの再現を演じてくれた。

そのローテに関連して公式サイトに白倉と舞原の関係を語るエントリー
がアップされたが、ここで「千年王国III銃士 ヴァニーナイツ」の名が
挙げられていて、白倉自身がその作品名を挙げている以上、ヴァニーと
セラムンの関係性について語っても差し支えないということだろう。

実写版のリアルタイム放映時には一切名前が出てこなかったので、そこ
に注意を向けるのは得策ではないと考えていたのかもしれないが、特ヲ
タの間では実写版セラムンを連想させる舞原賢三の名前に関連して名を
挙げているのだから、今現在は寧ろ関連性に注目してほしいと考えてい
るのかもしれない。

何度かここでも語ったように、ヴァニーナイツのプロデューサーである
畑澤和也はセラムンアニメ版の制作にも部分的に関わったことがあり、
ある種この作品は畑澤版セラムン実写版という位置附けになるだろう。

この作品のバリエーションとしてヴェッカーシリーズも位置附けられる
わけで、畑澤制作の集団戦闘ヒロイン物の原点となった作品であるが、
時期的にさほど間もない頃ということでセラムンからのフィードバック
が生の形で出ている作品でもある。

タイトルの「千年王国」にしてからがシルバーミレニアムを彷彿させる
わけだが、内容的にも転生を前提とする宿命の問題や世界の命運を賭け
た最終闘争が題材として扱われ、世界観の設定にセラムンの要素が色濃
く反映している。

タイトルロールのヴァニーナイツとは、主君であるアレスト・ホルンを
守護する三人の騎士の転生した姿で、一〇〇〇年周期で演じられる人類
と魔族の命運を賭けた世界闘争に際して、アレスト・ホルンとヴァニー
ナイツの魂は人間として世界に生まれ出る。

但し、深夜番組ということもあってか、主人公に当たるヴァニーたちの
「主君」アレスト・ホルンの転生とされるのは美少女ならぬフリーター
のヲタク青年であり、三人の騎士たちがそれぞれタイプの異なる美少女
であることで、大枠の作品世界は所謂「落ち物」「ダメハーレム物」的
なものとなっている。

つまり、何の取り柄もないダメ青年の許にある日突然美少女がワラワラ
と現れて奇妙な同居生活が始まるわけだが、お誂え向きに主人公の藤田
和幸は妹の愛美と二人暮らしで、天然ボケメイドやらお色気姉さんやら
根暗美少女やらに囲まれたけっこう愉しい毎日が始まるわけである。

しかし、そんな落ち物・ダメハーレム物的な明朗基調で語られたのは、
夫々のヴァニーたちが抱える過去のトラウマのドラマであったり、非情
な闘いの宿命の問題であったりと、決して明るいものではなかった。

この作品に関しては「前半のコメディ路線から一転して後半はシリアス
な展開に」と語られがちだが、お色気コメディや下ネタのルーティンが
あったというだけで、前半もまたエピソードの内容自体は決してコミカ
ルなものではなかったのである。

以前語ったことがあるが、この作品においてヴァニーたちは決して正義
の味方ではない。アレスト・ホルンの転生とされる和幸を護ることが、
引いては世界の命運を救うことにもなり、その意味でそれが彼女たちに
とっての正義という言い方も出来るが、彼女たち自身の意識の部分では
飽くまで個人性の範疇で闘っている。

アレスト・ホルン云々というのは飽くまで彼女たちの闘いが正しいもの
であることを保証する為のイデオロギーであるにすぎず、正しい闘争だ
から闘っているわけではない。三人の少女たちは、自身の欠落や憎しみ
を前世の使命によって埋め合わせる為に闘っているのであり、その闘争
は「アレスト・ホルンを守護する」という使命に則ったものである故に
それ以外の目的で闘うことはない。

物語においてヴァニーナイツは、一般人がアモル・ゴアの犠牲になって
もそれを積極的に護ろうとはしない。そのような動機を持つのは寧ろ、
前世の記憶に目覚めておらず現世の心優しい青年の意識で行動する和幸
のほうであり、和幸が善意から一般人を助けようとして危機に陥る場面
において、漸くヴァニーたちは和幸を護る為に闘うのである。

このような大枠の構造が元々畑澤の意図していた狙いであるか何うかは
不明だが、最後半のシリアスな展開は要するにヴァニーたちのこのよう
な姿勢によってもたらされたものである。

ヴァニーたちは和幸以外の者を積極的に救おうとはしない。アレスト・
ホルンを守護することが第一の使命である。それ故に彼女たちは、和幸
の救出を優先した為彼の妹である愛美を救うことが出来ず、アモル・ゴ
アに人質にとられた愛美は、ロープで縛められた儘ビルの屋上から突き
落とされ、兄の目前で無惨な墜死を遂げる。

この場面は、実際の映像では剰り描写が十分ではなかったので、愛美が
救えなかったのは唯の手抜かりのように見えてしまうのだが(笑)、本来
は乱戦の中で和幸と愛美のどちらかを選び取るべき退っ引きならない局
面が想定されていたのだろう。

妹を喪った怒りと哀しみから、伝説の英雄として覚醒するはずであった
和幸は邪悪な魔王として覚醒し、ヴァニーたちと互いに争い合う羽目に
なる。本来ヴァニーたちはアレスト・ホルンの騎士なのだから、アレス
ト・ホルンが大魔縁として覚醒してしまった以上、魔王の僕として仕え
るべきという理屈になるわけだが、ここで彼女たちは現世の少女として
魔王による世界の滅亡を阻む為に闘うことを決意するのである。

この終盤の展開は今日の畑澤作品を予見させる複雑に込み入ったもので
これを解説していると大幅にヴォリュームを喰ってしまうので、当時リ
アルタイムで感想を書いておられたサイト
をご覧戴くことにしよう。

ご覧の通り文章で読んでもよくわからない展開なのだが、これは実際の
映像を観てもさっぱり意味がわからない
からご安心あれ(木亥火暴!!)。

現世の命運を巡る世界闘争は結局アモル・ゴアの勝利となり、何うやら
魔族の支配する新世界として再生され、和幸とありすの恋は一〇〇〇年
後の次の世界闘争まで持ち越されたようなのだが、当初の設定では伝説
の勇者アレスト・ホルンが覚醒した場合、不要な存在を排除して新たな
世界を創り出すということになっていたのだから、このような一種の逆
リセット落ち
になるのは、明らかに後附け解釈である。

この最終展開は脚本も演出もそれほど良くなかったということもあり、
わかりにくいというだけではなくそれまでのドラマチックな展開をいろ
いろとワヤにしているわけだが(笑)、この当時の時代の感覚と言ってし
まえばそれまでとは言え、次々に斃れる仲間たちの犠牲の下に和幸との
最終決着の場に臨むありすの真心が遂に奇跡を起こすことなく、双方共
に果て世界が魔族の手に落ちるというボロ負けエンドは、十分に衝撃的
なものではあった。

まるで、奈須きのこ脚本のヴィジュアルノベルのバッドエンドを、その
儘映像化したようなものだったのである。当時のネットでも、数少ない
番組ファンがこのラストについて概ね批判的な意見を表明したのだが、
まあハッキリ言って褒められた作劇でないことだけはたしかである。

まず、この物語をどんな性格のドラマとして視聴者に提示したいのかと
いうビジョンがない。これを観たことによってどのような感興が生じる
べきなのかという計算がない。つまり送り手の側の生の形の表現内実が
ゴロリと投げ出されただけで、受け手としてはどのようにリアクション
してよいのか対応に困るのである。

オレがこの場面で採り上げているのだから読者諸兄姉はすでにご賢察の
ことと思うが、第一にこの展開がセラムンアニメ版無印の最終盤をアレ
ンジした、もしくは、そのフィーリングを引きずったものであることは
明らかであり、第二にセラムン実写版終盤の展開を先取りしていること
もまた明らかだろう。

白倉が銀水晶の力による正義の勝利を信じられずにメタリアの力と相同
のものと位置附け、星の滅びを一旦実現させたように、畑澤もまた原作
やアニメ版の銀水晶の勝利という予定調和の結末など信じることが出来
なかったのである。要するに、をとめチックなファンタジーに接した際
にオッサン一般が感じるような気恥ずかしい照れと、裏拳がうずうずす
るような冷静なツッコミの衝動がそうさせるわけである。

畑澤のヴァニーの場合、時期的にも作業的にも原典との距離が近かった
という事情があり、原典に対する批評的解釈としての生の形の反撥が、
このような身も蓋もない「身勝手な」結末を描かせたのだろう。

狭い業界内の動向であるから、白倉もこの間の事情は多少識っていただ
ろうし、この作品が一種の「実写版セーラームーン」であるという事情
についても識っていたと視るべきだろう。ヴァニーナイツという作品を
一通り観ていて、畑澤和也という制作主体についてある程度予備知識が
あれば、そのような結論に至るのが自然である。

先ほど紹介したエントリーで白倉が、幻想ミッドナイトの時点から舞原
賢三と接点があり、その後も彼の仕事に注目していたというのであれば
ここでわざわざヴァニーナイツの名を挙げている以上、理屈から言えば
白倉もリアルタイムでヴァニーナイツを観ていたという結論になる。

それ以前に、正義の闘争に独特の拘りを持ったTV特撮ヒーロー番組の
プロデューサーが、特撮誌上でもそれなりに大きく採り上げられた畑澤
プロデューサーの実質的な独立デビュー作である「仮面天使ロゼッタ
を観ていなかったはずはないだろうし、シャンゼリオンのような現代的
ヒーロー像に対して、直球勝負のピープロ的なシリアスなヒーロー像を
提示したロゼッタに何も感じなかったとは思えない。

いろいろな場面における白倉の発言を視ると、とにかくジャンル作品を
網羅的にチェックしていることが伺えるわけだし、ヴァニーナイツ当時
はTV特撮ヒーロー番組は現在ほど活発なジャンルではなかった。その
意味で深夜特撮ホラーは変格的な特撮ヒーロー番組の温床となっていた
のだが、さらにその中で正統的な変身ヒーロー物と言い得る作品を正面
きって制作していた畑澤作品の存在は無視出来なかっただろう。

何せその当時は平成ライダーという大看板が存在しなかったのである。
当時はライダーの枠はメタル末期のファミリー路線で、カブタックから
始まるロボットコメディを無理矢理「メタル」と言い張って継続してい
た頃であった。実質的にオーセンティックな変身ヒーロー物はウルトラ
と戦隊しか存在しなかった時代で、さらにティガの以前となると、実に
戦隊しか特撮ヒーロー番組が存在しなかった時代があったのである。

さらにこの当時一九九八年から一年間、白倉はシャンゼのツケを払う形
でテレ朝に出向となりトクサツのプロデューサーとしては雌伏期となる
わけで、特撮ヒーロー番組に関しては他人の作物を情報収集するという
だけの立場にあったわけである。

大して関係があるとも思えないが、白倉出向時代のテレ朝はウィークエ
ンドドラマ枠
長坂秀佳脚本の「透明少女エア」や円谷プロ制作の美少
女アクション「サイバー美少女テロメア」、円谷映像制作の「美少女新
世紀 GAZER」などを精力的に放映しており、枠は違うがヴァニーナイツ
もこの時期のテレ朝の番組である。

この辺のテレ朝深夜トクサツ番組には漏れなく中嶋豪という変な局P
絡んでいて、作歴を視ると白倉のテレ朝出向時代が全盛期となるようで
ある。この時期にテレ朝が集中的に深夜特撮に手を染めたのはこの中嶋
豪の影響らしく、上記の通り制作母体はバラバラで、局の編成上の傾向
だったことが視てとれる。

こういう時代状況において、白倉が出向先の局で活発に制作されていた
隣接ジャンル作品を積極的に視聴していたことは想像に難くないわけだ
から、舞原を紹介するエントリーでスラッとヴァニーナイツの名が出る
のも当たり前と言えば当たり前で、白倉の嗜好を考え併せれば、前述の
ようなヴァニーナイツ終盤の畸型的な展開に衝撃と影響を受けたと考え
るのも自然である。

このような接点を持つ白倉に、まさに正統的な位置附けにおいて美少女
戦士セーラームーンを実写化せよという社命が下れば、ヴァニーナイツ
を念頭に置かないはずがない。一種の先行例として、ヴァニーナイツの
構成を研究しただろうし、それが原因か結果かはさておき、舞原賢三を
演出陣に加えようとした動機にも、ヴァニーナイツのパイロットを担当
した監督であるという興味の故も多少はあったのかもしれない。

尤も舞原賢三はヴァニーナイツに関してはパイロットの二話を演出した
だけで終盤の展開には絡んでいないが、白倉が潜在的にヴァニーナイツ
を叩き台に想定していたのであれば、直接の関係者であるという興味は
当然あっただろう。

そしてこれが肝心な部分だが、おそらく白倉は同じセラムンという物語
原型をオリジンに持つ実写作品において自身の作物でもヴァニーナイツ
に匹敵するような終盤のインパクトを実現したいと構想したのではない
だろうか。

何度も強調していることだが、当時の白倉にはヴァニーナイツ後半の展
開が、視聴者の鑑賞を前提とした作品の作劇という観点において褒めら
れたものではないということが理解出来ていなかったのである。

おそらくセラムンを制作する白倉の意識においては、ヴァニーナイツと
いう先行作品が、参考にすべきお手本としても乗り越えるべき仮想敵と
しても位置附けられていたのだと思う。具体的な意匠面の類似もさりな
がら、本質的な全体イメージをこの作品に籍りていたのだろうと思う。

ヴァニーナイツ終盤の謎の展開は、一言で言って原作およびアニメ版の
ダークキングダム編終盤の展開を皮肉な形で裏返したものである。

それぞれの宿命に殉じる形の仲間たちの犠牲によりラスボスである和幸
の許に辿り着いたありすは、変身を解除し一人の少女である守野ありす
として和幸に対する想いの丈を打ち明け、魔王と化した和幸を元通りの
善良で心優しい青年に戻そうとするが、魔王アレストはそんなありすの
純心を欺いて破壊の魔剣エクス・カリバーの贄にしようとする。

亡き友の力添えを得て窮地を脱したありすは変身してアレスト・ホルン
と闘うが、最終的に魔王の中の和幸がありすの呼びかけに応え、魔王を
抑えながら自分を殺せとありすに懇願するが、当然ありすにはそれが出
来ない。最終的にありすには何ら為す術もなく事態は進行し、和幸は魔
王と共に自刃して果て、もう一人のアレストである天野がその亡骸から
魔剣を抜き取り玉座に就くことで現世は呆気なく滅亡を迎えてしまう。

そこから何の説明もなく魔族に席巻された裏返しの新世界が描かれて、
何も記憶していない和幸がその不気味な世界の中で苦悶する様子が描か
れるわけで、さらに不可解なカッティングで何処とも知れぬ場所におけ
る和幸とありすとの対話にスイッチして、「千年後に会いましょう」と
いう豪快な投げっぱなしジャーマンが決まるわけである。

これはつまりダークキングダム編終盤で銀水晶の奇跡が起こらなかった
世界
を描いているわけであり、ありすの訴えも友との友情も世界の命運
を覆すまでには至らず、何一つ奇跡が起こらずに空しく現世は滅びてし
まう。魔族に席巻された不気味な新世界は無印版ラストで描かれた新生
世界の陰画であり、大ラスの謎の対話は、この千年期の世界闘争に敗北
を喫した二人が魂の次元において次の転生に希望を託す姿を描いたもの
であり、この瞬間にオレたちが生きるこの千年期の特権性が相対化され
てしまう。

この世界観では、果てしない昔から一〇〇〇年周期で人類と魔族の間で
世界闘争が争われており、偶々直前の千年期において人類が勝利したか
ら現在の世界があるという設定になっている。つまり、オレたちが生き
るこの千年期に人類が勝利したとしても、次の千年期において人類が勝
利する保証はない。

そして、和幸やありす、あきら、あいりたちは、その世界闘争の局面に
際して人間に転生する永劫回帰の闘士であり、彼らの視点ではこの現在
に絶対的な特権性はないのである。

この物語の結末は、その無限に繰り返される世界闘争の次元に、個人の
想いを一滴注ぎ込んだだけで終了するのであり、この現在において注ぎ
込まれた一滴の想いが永劫の時の中に尾を引いていく哀切な詩情だけを
形見に、現在只今の時制における勝利には特権的な意味性がないことを
強調して物語は終わるのである。

つまり、この作品はセラムンという物語原型に対する批評的言及という
二次創作的な性格を持っているのである。

この番組においてこんな結末を描いてしまった畑澤和也は、単に彼個人
がセラムンという物語原型から脱却する為にそれを描かざるを得なかっ
たという理由でこれを描いたのだろう。原作やアニメ版の大逆転の結末
に対して「そんな奇跡は起こらない」と言いたかったという動機で、こ
の結末が描かれたのだろう。繰り返しになるが、これは決して褒められ
た作劇ではない。

勿論この作品は表向きには美少女戦士セーラームーンでも何でもない。
だからこそそのような批評的言及を映像化出来たわけだが、白倉が手掛
ける実写版ではそのようなわけにはいかない。原作コミックスを起源に
据える歴史解釈に基づいて、正しくセーラームーンのDNAを伝えねば
ならないのだから、端的に言ってこれは二次創作ではないのである。

だから白倉がこの先行作品から汲み上げたのは、全体的な構成イメージ
と、この作品を踏まえた上で自分ならどのようにそのような批評的内実
を表現するのか、さらにそれを表現しつつまさしく美少女戦士セーラー
ムーンという物語原型そのものでも在り得るような在り方を探るという
課題だろう。

最初の課題に戻るなら、この番組がこのようないびつな展開を辿ること
は、おそらく最初の最初から決まっていたのであり、就中この最終二話
がこのような展開を辿ることは、かなり最初の時点から白倉の構想とし
てあったのであり、さらに附け加えるなら、そこにこそプロデューサー
白倉伸一郎の勝負所があったのである。

白倉は小林靖子に全話の脚本を託すに当たって、開始時点では世界観の
風呂敷が拡がり、各戦士たちの現世の生き様にスポットが当たるような
作劇を求めながら、最終的にはこの二話の納め所に収斂するような流れ
を求めたのだろう。

ある意味で、表現者としての白倉の取り分はこの結末部分にあったわけ
だが、不幸なことに小林靖子のドラマツルギーは元々そのような結末を
志向するものではなかったのである。おそらく、白倉は自身の中で作品
全体の雛形としてヴァニーナイツがあるということなど、小林靖子には
伝えていなかったのではないかと考える。

要するにそのようなイメージ誘導をしてしまうことで、実際の書き手が
先行作品のイメージに引きずられてしまうのは決してプロデュース手法
として得策ではないだろうからである。

畑澤と白倉という二人のプロデューサーが美少女戦士セーラームーンと
いう物語原型に視たルサンチマンはこの脚本家に共有されていなかった
のだし、そのルサンチマンを形成する問題性に関しては最初からケリが
附いていたのだろう。

小林靖子は基本的に悲劇など信じていないのである。

小林靖子の作劇の基調にあるのは、人間にはどんな困難でも何とか解決
出来るという信念である。その延長上で、おそらく奇跡の存在も否定し
ていないのではないかと思う。以前語ったことだが、物語における奇跡
というのは、全身全霊を込めた人の営みに対しては天も能く応えるとい
う信念の謂いである。

それはつまり、ドラマにおいては個人の抱える問題性は全身全霊を傾け
た営みにおいて解決されねばならないという信念なのである。

番組開始から中盤にかけて、小林脚本の作劇は各戦士の個人の生き様に
横たわる問題性が解決可能なものであり、解決に向けて努めるべきであ
るという前提の下にストーリーを突き詰めていくような性格のもので、
各話の感動の在り方もそのような希望を前提としたものである。

この作劇の基調において、目に見えぬ強大な力が個人の営みを圧し潰す
宿命悲劇を結末とする展開は描けない。だからこの物語では終盤で唐突
に物語の基調が変わっているのである。それは、ほんの一時の気紛れに
基づくものではなく、寧ろこのような結末こそが既定事項だからこそ、
そこへ向けて大きく舵を切る必然があったのである。

オレ個人としてはこの想定に確信を持っているのだが、その一方では、
これを指摘したからといって本質的には何を語ったことにもならないと
も思っている。

何度も繰り返す通り、「この作品がこうなっているから、それを参考に
したこの作品もこうなっている」というのは、問題を先送りにしただけ
なのである。白倉から畑澤に差し戻された問題性を、畑澤作品の地点で
解決しても白倉の作物を語ったことにはならないのである。

たしかに白倉が実写版をこのような全体イメージに基づいて構想したこ
とが事実だったとしても、そのような「容れ物」に白倉自身の借り物で
はない動機において何を注ぎ込んだのか、それが問われなければならな
いだろう。

それ故に次はそこに何が注ぎ込まれたかを考察することが必要となる。

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