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Act.48-3 最後から二番目の真実

畑澤和也が一種の個人的なトラウマの解消を目論んであのような結末を
描いたのだとすれば、白倉伸一郎はその先行例を雛形としてどのような
内実を込めようとしたのか。

歴史的な観点で謂えば、白倉にとってヴァニーナイツの記憶はクウガの
記憶と連結しているはずである。早々にネタを割るようで恐縮だが(笑)
時系列的に謂えば、一九九八年から一年間テレ朝に出向した白倉は、翌
一九九九年には東映に戻っており、ヴァニーナイツはこの前後の作品で
ある。

そして白倉の東映復帰後の表舞台における初仕事が二〇〇〇年のクウガ
のプロデューサー補ということになるのだから、ヴァニーナイツを基点
に考えるならその直後にクウガの経験が来ることになり、この二つの記
憶は連結しているはずである。

事実上この二つの作品の間に白倉内部で関連があるか何うかはさておく
として
、関連があると考えても自然であることは間違いない。前回と同
様に、やはりここは予断をベースに推測を重ねるのが効果的なアプロー
チとなるのではないか。

前回のレビューでは、白倉がクウガに対して抱いている不満とは、五代
雄介の無前提のヒーロー性に対する懐疑であるということを想定した。
ヒーローの今このように在る成り立ちに対する拘りが愛野美奈子を殺し
たのであることを視てきた。

ならば、クウガへの反撥が何故かセラムンの制作の場面で表出している
のだと仮定した場合、前段で白倉の取り分と表現した部分に関しては、
どのような内実が響き合っているのだろうか。

差し当たりそれもまた五代雄介の無前提のヒーロー性にあるのだという
想定で考えてみよう。月野うさぎと五代雄介の間には無視出来ない共通
点があるわけで、ある意味、月野うさぎという主人公もまた今このよう
に在る成り立ちがまったく説明されていない無前提のヒーローである。

たとえば愛野美奈子が非情なまでに自らを殺して宿命の闘争に身を投じ
るのは、前世の記憶に目覚めた先覚者であること(物語後半でなし崩し
的に有耶無耶にされたが)と、死病のさだめを課された故であることは
前回指摘した。つまり、愛野美奈子というのは一面では選れて白倉的な
性格を持つヒーローなのである。

しかし、月野うさぎが赤の他人の為に利他の闘いを闘う動機は、現世の
月野うさぎの身上を勘案してもまったく理由附けが為されていない。

まさに生まれつきそのような人間だとしか言い様がないわけで、この意
味では五代雄介とそれほど違うヒーロー性ではない。それ故にうさぎを
中心としたエピソードでは、彼女の個人性に関する課題を矢継ぎ早に畳
み掛けて、その無前提のヒーロー性がどのように揺らぐのか、揺らいだ
結果として個人性の部分から更めて立ち上がってくるヒーロー性が見出
し得るか、という形の実験が試みられたわけである。

これはつまり、単にヒーロー性の欺瞞を暴きたいという目的で行われる
のではなく、自身の個人性とは無縁の部分における利他の善意は嘘臭い
と感じる動機に基づくものである。それが他人事なら、自分に累が及ぶ
ことはないのだから何とでも綺麗事が言えるというわけで、自身の利害
や何うしようもない愛憎を、在って然るべき葛藤を経て超克し得るのが
真のヒーロー性ではないのかという疑問である。

たとえば亜美ちゃんに纏わる問題性においては、明朗活発な人気者であ
るうさぎに、まったく対照的な存在である亜美ちゃんの孤独が理解可能
なのか、救済可能なのかという設問がぶつけられ、ダーキュリーに愛の
裏切りに基づく復讐者という仮構上の役割を振ることでうさぎの善意を
揺さぶりにかかる。

このような課題設定は、白倉的には不可能性の問題として意識されてい
るわけで、無前提のヒーロー性が個人性に敗れた後に、個人性の範疇に
おける葛藤を経た上で在り得る善意が、白倉式のヒーロー性として立ち
上がってこなければならない。

それが小林靖子を通過することで解決可能性の範疇の問題性として扱わ
れることになる。水野亜美物語における不可能性の課題は悉く解決可能
性の文脈で語りきられてしまったのである。

白倉的には、月野うさぎとは対照的な水野亜美の物語において零れ出る
不全の連鎖こそが、月野うさぎの無前提のヒーロー性を突き崩す個人性
の部分と視たのかもしれないが、畳み掛けられた個人性の課題は悉く解
決され、人としての成長を果たした水野亜美は、最早物語を動かし得る
存在ではなくなった。

たとえば水野亜美を巡る悲劇を現出させる場合でも、うさぎが直接介在
してしまったらその場で課題が解決してしまう為に、敢えてうさぎを関
わらせない工夫を施す必要があったことは屡々視てきた通りである。

これまで視てきたように、うさぎと亜美ちゃんの間の葛藤が対等な二人
の少女の間の諍いとして意味附けられていたのは、実はAct.5 のみなの
であり、そこから転がり出た水野亜美物語において、うさぎは常に亜美
ちゃんに対する無私の真心を動機として行動し続けている。

その動機が月野うさぎという一個の少女のヒーロー性を個人性の文脈で
根拠附けることなどはなく、うさぎの亜美ちゃんへの想いには相変わら
ず根拠などないのであり、根拠などなくてもそのヒーロー性は有効なの
である。

月野うさぎが無前提のヒーローであることは、小林靖子に脚本を任せた
以上、最早認めざるを得ないだろう。これはもうこの二人の間で主人公
性に対する前提が違う以上、最初から問い得ない問題性である。

「五代が五代であること」を今在る成り立ちの観点から疑うことは窮め
て難しいのである。五代雄介や月野うさぎのような主人公性が無前提で
成立し得ることは、何うやら疑い得ないのである。彼は、彼女は、その
ように今在る現状を根拠附ける成り立ちなど説明されなくとも、物語の
中で主人公たり得る存在なのである。

それは逆に謂うと、どのように説明したとしてもこのような主人公性の
根拠附けとして十分ではないからであり、この種の主人公性は一種の超
越的英雄性としてその儘に受け容れる以外にないものだからである。

これは、主人公が主人公であるという結論から遡ってアリバイとしての
懐疑から出発する主人公性を描き続けた白倉ライダーとはまったく生理
の違う主人公性ではあるが、それが成立し得ることは最早疑い得ないと
いうことである。

しかし、主人公が主人公であるが故に世界律を超越し得るという結論に
ついては懐疑の余地がある。月野うさぎの主人公性を認めるとしても、
月野うさぎが月野うさぎであるが故に凄まじき戦士への変貌を回避し得
るとは、相変わらず白倉は信じないのである。

白倉がクウガの落とし所に納得しなかったのは、「五代が五代だから」
という自己言及的な理由で回避された「凄まじき戦士」への変貌という
問題の故ではないかという話は前回させて戴いた。

凄まじき戦士への変身は闘うだけの生物兵器への堕落を不可避的な因果
律として内包しているはずであり、それを主人公がヒーローだからとい
う理由で回避し得るのはご都合主義ではないのか、という疑問である。

おそらく、白倉的にはクウガの力がダグバの力と絶対的には相同である
という前提それ自体は受け容れやすいものだっただろう。超越力という
ものに良いも悪いもあるわけがない、力は力でありそれを人間が何う使
うのかというだけの話である。

その意味で、リントがグロンギに対抗して創り出した闘う力であるクウ
ガが、究極無敵のグロンギであるン・ダグバ・ゼバに対抗可能なほどに
強力な存在になるのであれば、結果においてダグバと相同の存在になら
ねば不自然なのである。

それ故に、白倉の視点においては、クウガ終盤の状況設定において在り
得べき道筋とは、凄まじき戦士に変身したクウガがダグバを倒し得たな
らば、それに付随する結果として闘うだけの生物兵器に変貌したクウガ
を一条刑事が撃つという悲劇的な結末だったのではないか。個人の意志
が世界律を覆し得ないという前提に立てば、それが当然なのである。

それはグロンギという敵が、闘争と暴力を自己目的化した畸型的な存在
である以上は、それと同一原理に基づく超越力によって闘うヒーローも
最終的に相同の存在にならねば嘘だからである。クウガが語ったような
闘争否定のテーマを語るなら、最終的にこれまで闘い続けた五代もまた
グロンギと相同の存在となって葬り去られねばならない、これが白倉的
な結論だったのではないか。

たとえば平成ライダーにおいてもこの種の超越力の相対化の試みはさま
ざまに為されているわけで、人類の次なる進化形態と位置附けることで
複数のライダーを登場させたアギト、ある特定の契約に基づいて付与さ
れる力と位置附けることで13ライダーズを現出させた龍騎、そして敵
も味方もすべてひとしなみにオルフェノクと位置附けベルトの科学力で
誰でも変身し得る存在としたファイズ等、超越力に良いも悪いもないと
いう思想は白倉の作物を貫流している。

しかし、ライダーにおいて堅持されている結末とは、ライダーと怪人は
決して同じ存在ではないという逆説である。この存在論的に相同である
二者を弁別し得る基準が、個人性のレベルで何処かに必ずあるはずだ
いう前提でヒーロー像が模索されているのである。

それはつまり、白倉が自作において闘うだけの生物兵器に堕落したクウ
ガを一条刑事が撃つという結末を回避する為に設けた前提だろう。白倉
がクウガとまったく同様な状況設定においてヒーロー物語を描くのであ
れば、間違いなく最終的に一条刑事は五代を撃つ必要があるのである。

その間の問題性を仮面ライダーという器でやり尽くした白倉は、悲劇的
なクライシスを前提とする容れ物であるセーラームーンにおいては視点
を一八〇度変えて考える。もしもクウガがダグバを倒す代償として凄ま
じき戦士に変貌しダグバと等しい存在となるのだとしたら、その結末を
前提として語り得るヒーロー物語は在り得るのか
という想定である。

そもそもこの作品の全体イメージとしては、終盤において「うさぎが衛
を殺し、自らも自害して果てる」というクライシスと「滅びを迎えよう
とする世界を銀水晶の奇跡が再生する」という結末が用意されているの
だから、ここに「うさぎが超越力に呑み込まれる」という要素を紛れ込
ませる余地はあるだろう。

うさぎが超越力に呑み込まれるということは、つまりクウガがダグバと
等しい存在となるように、うさぎがメタリアと相同化するということで
あり、物語中盤においては度々その可能性が仄めかされるのだが、その
目論見を既定のクライシスに織り込むには、どのようにアレンジすべき
なのかという現実的な課題がある。

まず、衛が悪の手に墜ちて敵に廻るという展開を実現することはさほど
困難ではない。原作通りベリルに洗脳されるのでも好いだろうし、その
為に四天王がベリルに洗脳された存在であるという布石も打ってあるの
だから。

メタリアが取り憑くという想定も十分に在り得るだろうし、そうするに
は、たとえばベリルがメタリアを実体化させる為に衛を依巫として用い
るという展開でも好いだろう。そもそもセーラームーンという物語原型
においては、最愛の恋人である地場衛がうさぎの敵に廻るという残酷な
シチュエーションが無闇に多用されているのだから、そのアイディアに
は事欠かないだろう。

衛がメタリア化したこととの対称においてうさぎもまたそれを倒す為に
銀水晶の力を解放し、超越力の極大化に伴って純粋な破壊力としてメタ
リアと相同な存在に変貌するという筋道は十分に考え得るだろう。

但しこの場合の課題はクウガと同等の条件附けを実現することそのもの
ではなく、同等の問題性を扱うということなのだから、この想定では過
不足が出る。何故なら、この条件を現出させる為に籍りた「うさぎが衛
を殺し、自らも自害して果てる」という大本の物語原型に由来するイベ
ントには、「望まざる殺害」という悲劇的性格が付随しているからであ
り、この共倒れのクライシスは銀水晶の奇跡によって回収される必要が
あるからである。

クウガの場合とは違って、悲劇的結末で終わるだけではセーラームーン
の物語ではなくなる上に、それだけではヒーロー性が成立しないという
問題があるのであり、さらに銀水晶の奇跡によってそれが回収されるの
であれば、詰まるところ「五代が五代である」という理由でリスクを回
避したクウガと選ぶところないご都合主義に堕してしまうからである。

たしかに銀水晶の奇跡によって共倒れの悲劇が回収されるというのは、
物語の方便にすぎないという言い方も出来るだろう。本来の物語として
は悲劇的な闘争劇が語られたのだが、それでは物語として成立しないか
ら銀水晶の奇跡という修飾要素で表面的なハッピーエンドを現出したと
いう見方である。

しかし、それならクウガの物語も、本質的には一条刑事が凄まじき戦士
を射殺するという悲劇的結末が語られているのだが、物語の方便として
理由になっていない理由で表面的なハッピーエンドが描かれているだけ
なのかもしれないのだし、そのように読み解き得る余地はある。実際に
五代雄介が最終闘争の結果死んだという解釈はファンの間で根強くある
わけだし、最終話のキューバロケ(笑)を彼岸における幻想シーンと解釈
することも可能である。

つまり、銀水晶の奇跡をメタ的な観点において意味附けるなら、クウガ
の結末を懐疑した意味が消失してしまうのである。

たとえばヒーローという存在を基点にして物語を考える場合、ヒーロー
と敵は別の存在であるという概念上の差別化が必須要件となるのだが、
闘争という概念を基点にして物語を考える場合、ヒーローも敵も等価の
存在であり正義やヒーロー性など存在しない、結果的に勝った者が正義
だという結論となる。

白倉がクウガの結論に納得しなかったのは、この両者が整合しないこと
による苛立ちの故ではないかと思うのだが、この矛盾せる両者を調停し
得るのは、本来この二者間でバランスをとる物語のデザイン上の問題
しかない。

たとえば白倉がヒーロー物語の欺瞞性を弾劾し否定する立場に立脚する
のであれば、話は簡単である。その場合の基点は闘争という概念に置く
べきなのだから、ヒーローも敵も等価な存在であり、ヒーロー物語など
ただの絵空事にすぎないという結論を描けば好い。ある意味で、それは
簡単なことである。そもそもヒーロー物語とは絵空事なのだから。

しかし、白倉の思想的な立ち位置というのは、ヒーロー物語をこよなく
愛好する者が、その概念上の欺瞞性や不完全性に苛立つというものなの
ではないかと思う。その限りでは、ヒーロー物語は存在するべきなのだ
し、その物語は信じられるものでなければならない、という結論に予め
立脚しているのである。

たとえばクウガの想定でいえば、ダグバを倒す為にクウガが闘うだけの
生物兵器になり一条刑事に撃たれたとしても、その選択肢を敢えて選び
取った五代の決断にはヒーロー性が存在する。しかし、十中八九抗い得
ないはずの世界律である凄まじき戦士への変貌というリスクが何の根拠
もなく回避し得るとすれば、回避という結末を織り込んだリスクなどリ
スクに値しないし、そんな物語は信じられないということなのだろう。

セーラームーンの物語においてこの懐疑を活かす為には、メタリアを倒
す為にメタリアと相同の存在になるというだけでは足りないのである。
それらすべてのイベントを、銀水晶の力がなかったことにするというと
ころまでを引っくるめて考えなければならない。

うさぎがメタリアと相同化するという成り行きに対する拘りは、中盤で
屡々銀水晶とメタリアの力が同じものと語られ、うさぎの感情の高ぶり
に応じて銀水晶が暴走するというエピソードが語られたことでもわかる
のだが、そのような展開へ踏み込む最初の最初からプリンセスムーンが
登場していることを視ても、うさぎがメタリアと相同化することについ
ては白倉内部でも混乱があったことが伺える。

この間の筋道についてはAct.3639のレビューでも語ったが、うさぎの
感情に応じて銀水晶が暴走することと、プリンセスムーンが破壊の限り
を尽くすことは本来まったく別のことであるにも関わらず、その両者の
間に弁別が為されていないからである。

さらに言えば、メタリアとの相同化ということで言えばこのどちらの線
でも十分なロジックは成立しない。うさぎの感情の高ぶりに呼応して銀
水晶の力が暴走するのだとしても、その感情の在り方は普通の人間なら
抱いて然るべきレベルのものにしかすぎないのだから、うさぎがメタリ
アと相同なものになるというより、銀水晶がメタリアの力と相同なだけ
である。

一方プリンセスムーンが最終局面で暴走するのだとしても、それはそも
そもうさぎとは別人格であり、復讐者であるプリンセスムーンがメタリ
アと相同なのだとすれば、それはうさぎの人格とは無縁なところで最初
から相同なのである。

銀水晶の力が暴走するのだと仮定した場合、うさぎがメタリアと相同化
するということは、本来銀水晶の力の昂進に応じてうさぎの人格が変貌
するということである。サイキックファンタジーなどに多々そのような
作例があるが、大きな力を持つ能力者は屡々情緒が不安定になり攻撃的
な人格に変貌することがある。ガンダムの強化人間などもその一例と言
えるだろう。

一方プリンセスムーンがうさぎを呑み込むのだと仮定した場合、うさぎ
がメタリアと相同化するということは、うさぎとプリンセスムーンの負
の心性の在り方に連続性がなければならない。つまり世界の犠牲として
非命に斃れたプリンセスセレニティの忿怒相であるプリンセスムーンが
在り得べきうさぎの姿として敷衍可能なものでなければならない。

しかし、シリーズを通じた月野うさぎのキャラクターにおいては、この
どちらの可能性も在り得ないのである。三クールの積み重ねで描かれた
月野うさぎの主人公性が本来解決可能性の文脈におけるものであること
はすでに指摘したし、それが根拠など必要としない無前提のものである
ことも指摘した。

その在り方の成り立ちが根拠附けられない人格を揺らがせることは大変
困難なのである。

たとえば白倉ライダーの主人公が簡単に揺らいでしまうのは、その在り
方を根拠附けているのが、白倉の想定したその人物の成り立ちだからで
ある。明確な根拠によって在り方が説明されている以上、その根拠が揺
らげば人格そのものも揺らぐのは当然だろう。

しかし、月野うさぎが何故にこのような人格であるのかはまったく説明
されていないのだから、逆に言えばその人格は明晰に説明可能な理由に
基づいて揺らがせることは出来ないのである。

だとすれば、このような揺るがない主人公性を前提に考えるなら、銀水
晶の力の昂進に伴ってうさぎの情緒が不安定化し、力に呑み込まれると
いう筋道は窮めて考えにくい。その場合、何が何うあれ銀水晶は使用者
を狂気に導くのだという世界律を設定する必要があるが、そんな設定は
物語原型の何処を探しても存在しない。

物語原型に忠実に許容限界を探るのであれば、現状のように使用者の極
普通の感情の波立ちですら銀水晶に影響を与え破壊の力を解放するとい
うのが関の山である。つまり、この方向性では本当の意味でうさぎがメ
タリアと相同化することにはならないのである。

また、同じ前提に基づくのであれば、慈愛のセレニティの忿怒相である
プリンセスムーンの心性とうさぎの心性に連続性を見出すのも困難なの
である。プリンセスムーンというキャラクターそのものの存在基盤とい
うのは、癒しの極性を持つ心優しいセレニティが、銀水晶の巫女として
世界の犠牲に供される場面において、心の奥底に蠢動する憎しみや怒り
の感情が単極化して顕現したものということになるだろう。

セレニティとプリンセスムーンが別人格であり、前世においては存在し
なかったということならば、そのような生霊的な反転と二極分化の原理
に基づく存在であらねばならないのだが、だとすればプリンセスムーン
はセレニティの負の感情を純粋化した存在であるということになる。

直接その前世における人格が描かれなかったセレニティなら、おそらく
うさぎよりも人格の二極分化が自然に想定可能だろう。Act.25で登場し
たセレニティは、感情昂進の極大における銀水晶の力で死せる地場衛の
復活という正の極性の奇跡を実現したのだから、憎悪と怒りに基づいて
破壊の限りを尽くすプリンセスムーンとは人格の極性が完全に逆である
ことが伺える。

そのような善美の人格に単極化していたからこそ、心の奥底に圧殺され
た負の感情が現世においてプリンセスムーンという極性の反転した人格
として顕現したというロジックが想定可能である。

しかし、現世における月野うさぎはそのように単極化した結構人ではな
く、正負の感情のバランスがとれた健全な一体感こそがうさぎの主人公
性の特徴である。理念的な善美としてではなく現実的な善意として無私
の利他心を行動に移せるのがうさぎの主人公性である。この意味で、う
さぎの情緒はまったく圧殺されていないのだし、世界の犠牲に供されて
いるわけでもない。

現実に描かれた物語でも、うさぎは一貫してプリンセスムーンの行動律
を否定的に視ているし、実質的にうさぎとプリンセスムーンの心性には
連続性の根拠がない。それは、プリンセスムーンという存在は存在その
ものが成り立ちを根拠附けられている者であるのに対して、月野うさぎ
の今在る在り方には根拠など存在しないにも関わらず、強力にそのよう
な者で在り続けようと志向する存在
だからである。

うさぎの肉体をプリンセスムーンが支配するという局面なら想定出来て
も、月野うさぎ自身が進んでプリンセスムーンと一体化するという成り
行きは金輪際在り得ない。この方向性でも本当の意味でうさぎがメタリ
アと相同化することにはならないのである。

メタリアとの相同化という結末から遡って配された二筋の伏線は、結局
月野うさぎの無前提の主人公性という障害によってうまく機能すること
はなかった。

それ故に現状の物語は、メタリアと一体化したエンディミオン=地場衛
の殺害を、メタリアとの相同化の「原因」とするという妥協策をとって
いるのであり、月野うさぎという人格がメタリアと相同化する道筋を根
拠附けることが出来なかったから、うさぎがプリンセスムーンの暴走を
止め得ない理由附け
を描くに留まったのである。

現状で描かれてきた物語においては、月野うさぎとプリンセスムーンは
完全に別人格であり、一つの肉体を共有する存在として描かれている。
そして、Act.42においてこの両者は対話を交わし、プリンセスムーンは
物語の表舞台から一旦姿を消す。Act.46においては、あろうことか最強
妖魔にエナジーを吸い取られた人々を癒す為に出現するわけで、これは
後に亜美ちゃんが「あれ、うさぎちゃんだったんじゃないかな」と視て
いるのだが、この仄めかしは現状の物語では整合していない。

寧ろ、プリンセスムーンの持ち道具が剣と竪琴の両様に変形することが
象徴するように、プリンセスムーンは破壊の相に単極化した存在という
よりも、怒りや憎しみという荒々しい感情に特化した忿怒相であり、そ
れを慰撫することで癒しの力を発揮することも可能であるというふうに
見える。

そのような前提においてAct.48の悲劇を顧みるなら、メタリアと一体化
したエンディミオン=地場衛をうさぎが殺害することによって、うさぎ
という人格は打ちのめされて心の奥底に沈潜するが、それに伴ってプリ
ンセスムーンという忿怒相が顕在化し、エンディミオンの死という犠牲
を要求して安定を得ようとする世界に対して復讐を開始する成り行きに
なる。

一応これは上手く折り合いを附けたものと視るべきだろう。

メタリアとの相同化という意味ではまったく破綻しているのだが、見立
てのレベルでは何とかイメージを保っているし、プリンセスムーンが星
を滅ぼす動機も、それをうさぎが止め得ない理由も上手く併行して成立
させている。

但し、この時点において、そうでなければならない白倉的な動機が完全
に挫折していることについては注意が必要だろう。

何をどのようにしても月野うさぎという人格をメタリアと相同化出来な
かった以上、背理的に「五代が五代である」という理由で凄まじき戦士
への変貌というリスクを回避し得たクウガの結末を否定することは出来
なかったのである。

そのような無前提の主人公性というのは、物語固有の世界律に先駆けて
超越的な影響力を持つ
のである。クウガがこのように終わることを批判
的に視た白倉を除く視聴者の大半は、そのような曖昧な理由に基づいて
最大のリスクが回避されたことに、物語性のレベルで説得力を感じたの
だし、白倉自身が自らの手でその成り行きを語り直すことによってそれ
を認めざるを得ない羽目に陥ったのである。

現実の作品において、うさぎが衛を殺害し、その結果プリンセスムーン
が星を滅ぼしたのは、前項で視てきたような作品の全体設計と物語原型
が要求するイベントであったからというだけにすぎなくなってしまった
のである。

メタリアを宿した衛がうさぎの手に懸かって滅び、その衝撃でうさぎの
人格が心の奥底に沈潜するのは、物語原型における自害のアレンジとい
うだけの話になっている。最愛の恋人の殺害という行為の衝撃は月野う
さぎという主人公を以てしても受け止め得るものではなく、うさぎの人
格は完全に打ちのめされ、ぽっきりと折れてしまうのである。

しかし、月野うさぎという人格の連続上で考えるなら、うさぎ自身が星
を滅ぼす動機などは在り得ない。そもそもうさぎに衛を殺させる為には
星の滅びを回避するという衛との約束を持ち出さざるを得なかったのだ
から、そのうさぎ自身がどのように打ちのめされたとしても星の滅びを
意志的に選択するはずがない。

衛自身が選び取った結末に手を添えるのである以上、攻撃の対象を要求
する怒りや憎しみという負の感情が暴走するということもまず考えられ
ないだろう。衛を殺したのはメタリアでもベリルでもない、外ならぬう
さぎ自身なのだし、そうさせるように仕向けたのは衛自身なのである。

ならば、うさぎが衛の死に接して憎み怒るべき対象はこの世の何処にも
存在しない。

在り得るとすれば、その衝撃と哀しみによってうさぎの主人公性を成り
立たせていた心の力が折れ退場するという道筋、すなわち、星の滅びと
いうカタストロフにおける不在証明の道筋でしかないのである。

つまり、プリンセスムーンが星の滅びを実現するという飛びきりのクラ
イシスにおいて、主人公であるうさぎは何故その場にいなかったのか
いう理由附けを語る一連でしかなくなっているわけである。

一方、プリンセスムーンがエンディミオンの死に際して星の滅びを実行
するのは当たり前の話で、そもそもプリンセスムーンという存在は世界
の繁栄の代償として犠牲に供された少女の、世界に対する復讐を実行す
る忿怒相なのである。

現世において宿命の恋を完遂するという衛とうさぎの誓約が破れた以上
は、命を賭けた恋を代償として求める世界に対して、犠牲にされた個人
の怨嗟と怒りを象徴するプリンセスムーンが復讐を開始するのは当然の
成り行きなのである。

かくして、予め定められた通り、星の滅びは実現する。

最早この時点では、何故にそのようにならなければならなかったのかと
いう理由附けは消失しているのである。作劇の実践におけるさまざまな
思惑と動機が複雑に絡み合って導き出されたはずのこのクライシスは、
実現の時点では何ら根拠を持たない無前提のクライシスとして物語の前
に立ちはだかってくるのである。

以前語ったように、この物語世界は大前提として破滅に脅かされる世界
なのであり、うさぎと衛は世界に試しを受ける者である。そのときオレ
はこの物語の世界をこのようにディスクライブした。

この物語の劇中世界はそうではない。この世界は、まず、大前提として
破滅に脅かされる世界なのである。かつて銀水晶の力によって繁栄して
いた古代王国は、他ならぬその銀水晶の力によって滅びを喫した。

これが一人の王女の悲恋による破滅だとしても、その世界の繁栄もまた
その王女が巫女として操る銀水晶の力によって得られていた以上、所詮
はその世界は自らの命運を王女個人のか細い肩に委ねるといういびつな
形で成立していたということになる。

そうであるならば、かつて古代王国が迎えた滅びは、たとえそれが王女
個人の感情問題に帰着するにせよ、その時代における人間存在の可能性
の限界であるということだ。

恋もすれば嫉妬もする一人の少女の心を縛り附け、その犠牲の下に成立
していた幸福なのだから、その少女の不幸は、いつか世界に跳ね返って
くるのが当然だ。

そして、その滅亡せる古代王国の呪いが、この繁栄を謳歌する現代社会
にまで連なる歴史のなかに常に潜んでいたというのが、この物語世界の
大前提となる世界律なのである。それはつまり、この世界における平和
と安寧は、無前提に与えられているものではなく、いつか訪れる破滅の
試しに際して、果敢に戦い取られねばならないものだということだ。

結局のところ、このエピソードの時点では、この試みは不可避的な敗北
を喫したのである。白倉がこのクライシスに託そうとした内実は挫折し
たのだし、このクライシスを実現する為に語られてきたAct.36以降の流
れもまた、破滅を招来する為というだけの意味しか持っていない。

破滅というクライシスは自己言及的な循環論理で成立するのである。

この物語における最強の世界律とは、目に見える超越力ではなく、世界
の犠牲となった個人の怨嗟が、不可避的に世界を滅びに導くという宿命
の力だったのである。その意味で、個人の意志が世界律を覆し得ないと
いう認識に立つのであれば、美少女戦士セーラームーンとは、ヒーロー
物語として語り得ない物語原型
なのである。

この時点で危機に瀕したのは、劇中世界だけではなく、ヒーロー物語と
してのこの物語のレゾンデートルそのものだったのである。

この悲劇が何故にもたらされねばならなかったのかを検証する試みは、
最終的にこのような無根拠性に辿り着いた。そこにあるのは、このクラ
イシスに意味と根拠を視ようとした企図の残骸でしかない。現状の物語
が語る意味性とは、破滅という悲劇的結末はその実現を強力に要求する
ものであるという劇的力学でしかない。

ならば、続くFinal Act において視るべきなのは、そのクライシスから
この物語がどのようにして立ち直ったのか、何故にそのような奇跡が在
り得たのかということになるだろう。さらには、この危機的状況からの
逆転劇において、白倉が自身のヒーロー物語をどのように語り終えたの
かという道筋であるべきだろう。

その局面に対して大きな影響を与えたのは、外でもない舞原賢三という
一人の演出者の存在である。このAct.48には不幸にして立ち会うことが
叶わなかった舞原が、ただ一本のエピソードの演出を通じてどのように
物語を救済したのか、次回はこれを視ていくことになるだろう。

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