Act.1 悪くはなかった。

東映特撮初の女児向け展開ということで、女児市場の要件は押さえてい
ると思った。女児は男児に比べて保守的な傾向があるようで、内容面で
は、飛び抜けた画期的要素は初めから期待できないのではないか。そう
いう意味で、まさに女児向け戦隊枠の開拓というイベントがこの番組の
キモだろう。

出発点においてスタッフが措定した番組の方向性が、このAct.1 のよう
な「手堅くてコージーで作り物めいた非現実性」や「冒険しないオーソ
ドックスさ」であるのは、想定視聴者層と容れ物の性格を考えれば当然
ではないかと思う。

OPの主題歌でセーラー戦士たちが口パクだけでなくコーラスに参加す
るパートがあったり、大人の目から見たら悪趣味な教室のセットなど、
ファンシーで楽しい要素をベタなストーリーで見せるということでは、
狙いとしてはよく理解できるところ。アニメの戦闘スタイルの新体操ノ
リをそのまま実写化したり、いろいろ手探りしているのがわかる。

仲間内では「セーラー服の戦うヒロイン像ということでは、スケバン刑
事やエコエコアザラクを超えようとする気概がないのでは」という意見
もあったが、この番組には、すでにヒットしたアニメキャラクターを非
月曜ドラマランド的方向性(もしくは非テレビ朝日的方向性)で実写化
する試みの、ある程度以上のヒットを必須要件として課されたデリケー
トさがある。

この番組を、旬のアイドルを使った穴埋め番組的なスタートラインから
クリエーターの暴走が異様な方向性に突出したスケバン刑事や、深夜の
ホラー枠を開拓しテレビにおける連続ホラードラマの定型確立に向けた
熱意の籠もったエコエコなどと比べるのは、ちょっと比較対象に無理が
あるのではないかと思う。

それと、想定視聴者である女児は、最近の再放送ですでにアニメのセラ
ムンに触れているという判断もあったかと思う。アニメのセラムンは原
作マンガとほぼ同時進行で独自の作品世界を展開したのだから、一種の
一次創作といえるが、実写版のほうには、それら過去の作品遺産の存在
を踏まえて両方に目配せをしながらつくる二次創作の性格がある。

「女児層は意外に保守的」というマーケティング的な判断が前提なら、
ここから大きく外れる出発点を用意することは得策ではなかったのでは
ないか。

なにしろ、ここの大家のぷらちゃんの情報によると、アニメ版が放映さ
れていた当時の女児の認識としては、アニメ版の顔と衣装を忠実に模し
た着ぐるみショーのほうが「本物」で、舞台向けにアレンジした衣装を
着て生身の役者が歌い踊るセラミュは「贋物」という位置附けだったそ
うだ。原作およびアニメのDNAを忠実に実写へ移植することは、実写
版スタート時点での至上命題だったのではないだろうか。

小林脚本のテイストということでいえば、無印終盤の悲愴なクライマッ
クスを、番組のカラーとどうすり合わせるかというところで、真価が発
揮されるんではないかな。うさぎとルナの掛け合いのベタさ加減など、
井上俊樹との交流の影響も見られるが、なるちゃんが母親を贋物と見破
る場面の知的な呼吸や、的確な省略でクライマックスに向けてテンポを
上げていく手際などは小林脚本らしい勘所だ。

それから、オレは原作コミックスをまったく読んでないので知らないん
だが、原作ファンの言によると、原作コミックスでは宿命や忠誠といっ
たような要素が主要なテーマになっているそうで、その辺は今後どう扱
われていくんだろうな。

個人的な意見としては、宿命については、人それぞれの考え方があると
しても、今時の子どもに忠誠なんてテーマを語ってどうすんのよ、と思
わないでもないな。

つまり、忠誠をキーワードにセラムン世界を解するならば、うさぎが成
長するのは戦士として女王としての宿命があって、その宿命が逃れられ
ないものだからということになるし、戦士たちがうさぎを助けるのは、
彼女本人の人格がどうであれ、主に自他の関係が主従関係であるから、
ということになりゃあしないだろうか。儒教的徳目は社会的関係性の倫
理だからね。

でもってそれは、裏を返せば宿命や社会的関係性に基づく徳目を遵守す
ることで、心情的には非常に個人主義的な倫理の実践に留まるんじゃな
いかという気がするんだよな。つまり、外面的にそう決まっていること
に「己を滅して遵う」という外面的な行動で応じることによって、内面
的な倫理観が満足される、というような。

これを逆転して、相手が自分にとって心情的にたいせつな人であるから
こそ、宿命や社会的関係性が要求する以上の内面から迸り出る善意を実
践するというのが近代倫理のセオリーじゃないだろうか。少なくとも、
これまでの作品における小林靖子的な情動形成のパターンはそうなって
いるよね。滝沢馬琴的な意味での忠誠心を、少女マンガ的に美化して描
かれても、胡散臭いだけだと思うんだけどなぁ。

まあ、原作コミックスを読んでみれば、その辺の事情についてもう少し
ハッキリするだろうし、原作コミックスに詳しいぷらちゃんに、事前情
報として詳しく聞いておこうかと思う。

|

Act.2 なんかこう、刮目したぞオレは。

前回のコメントで「手堅くてコージーで作り物めいた非現実性」「冒険
しないオーソドックスさ」をこの番組の基本ラインと視たのは、まった
くオレの不明であった。

たしかにそうした方向性の作劇であり、作品イメージであることには間
違いないが、それ「だけ」ではない。今回のAct.2 に相対しては、オレ
としても大いに刮目せざるを得ない。

Act.1 の感想からスピンアウトして、宿命や使命の要素についてグダグ
ダ不安を漏らしてはみたが、今回のエピソードですでに実写版のスタン
スは決まった感があるね。今回、ストーリーのキモはまさにそこにあっ
て、前世からの宿命=使命と、「亜美ちゃんだから」という個人的な感
情を直接天秤に載せて、後者を選択するという作劇になっていた。

それが亜美ちゃんのセーラー戦士加入に関する問題だからこそ、よけい
に際立ったということもあって、コミックス版でも「母親が医者」とは
書いてあったが、「母親が有名な医者なので、そっち系目指してる子が
すり寄ってくる」とニュアンスを脚色し、それを伏線に絡めてドラマを
つくる知的な手際は相変わらずの小林節。

天才少女の亜美ちゃんに近附いてくるのは、何らかの目的で亜美ちゃん
を利用しようとする者ばかりで、彼女を一人の友人として扱ってくれる
者はいなかった。ルナの戦士探索とうさぎの接近が重なるのは物語の都
合というもので(笑)、亜美ちゃんにうさぎの好意を「セーラー戦士への
勧誘」と誤解させることで、「戦士だから」と「亜美ちゃんだから」を
直截対比させる構図を作っている。

田崎演出も、メガレンの「すごすぎ! いけてるスーパーみく」のエピ
ソードで見せたようなデリカシーを再現して、二人の少女の交流をきわ
めて美しく繊細に描いていた。短いシーンながら、うさぎと亜美ちゃん
が初めて会話を交わす一連は、亜美ちゃんの戸惑いとうさぎの天真爛漫
さを映像に語らせていて、本人たちの演技力を超えた効果を感じた。

うさぎが亜美ちゃんを戦士の仲間だと知って、それを亜美ちゃんに知ら
せることで彼女が痍附く場面の描き方は、小道具のプリンの扱いも含め
て、巧みというのは言い過ぎで凡庸と謂えば凡庸なんだが、脚本と演出
の輪郭がソリッドで非常に気持ちがいい。個人的にはプリンを小道具に
持ってきたのは、田崎監督のネタ出しじゃないかと思うんだが。

うさぎはAct.1 のラストでセーラー戦士になることを「ワクワク、ドキ
ドキ」と表現していて、女の子が憧れるような、日常からのちょっとし
た素敵な飛躍ととらえているだけに、亜美ちゃんが戦士の仲間だと知っ
ても屈託がない。

「いっしょに戦おう」と軽く言い放つのは、戦士としての自覚の欠如と
とってもいいし、こういう状況に置かれた少女の素直な感想ととっても
いい。それは、うさぎ本人にしてみれば、亜美ちゃん個人に対する好意
と何ら矛盾しない。

しかし、亜美ちゃんにしてみれば、うさぎは自分を「天才少女」「有名
医の娘」という属性を抜きにして、一人の友人として見てくれた初めて
の相手。そして、初めての会話では積極的に近附いてくるうさぎに亜美
ちゃんのほうで距離を置いていたという描写がある。今度こそは応じよ
うとしたタイミングでのこのセリフは、亜美ちゃんにとっては一種の皮
肉な裏切りだ。

屋上で独り呟く「慣れてるから」というセリフは、孤独に慣れていると
いうばかりではなく、小さな裏切りや軽い失望には慣れている、という
亜美ちゃんの来し方を簡潔に語って間然するところがない。ここまで輪
郭がクッキリしていれば、大人の視聴者ならうさぎと亜美ちゃんの両方
の視点を実感できる。うさぎの純粋な好意と亜美ちゃんの哀しみ、どこ
にも悪意がないだけに、すれ違いの哀しさが際立つ。

亜美ちゃんを演じるハマチこと浜千咲は、演技の勘がいい沢井美優に比
べて格段に芝居が劣る印象があるけど、それでもこの一連の流れが訴え
るすれ違いの情感は、万人が共有し得る明晰さがある。どこにでもある
ような少女の心のすれ違いの凡庸なドラマが、もの凄い明晰さでクッキ
リと語りきられている。こういう呼吸が気持ちいいんだよね。

そのすれ違いが解消されるキッカケに、文字どおりのクリフハンガー
持ってくるのも、凡庸と謂えば凡庸。「くだくだしい説明」はないが、
この場のセリフは明らかに「心情の説明」だし、クリフハンガーは説明
のために作為的に設定された危機的状況である。

ただ、提起された設問である「すれ違いの解消」そのものを全部説明で
解決しているわけではなくて、必要最低限のことを説明していて、そこ
に至るまでの気持ちの流れはストーリーそれ自体に語らせている。言わ
ぬが花の部分に、かっちりした余白を作っているんだよね。

この作品で語られている内容に、大人が考え込むような深いものは何も
ないけれど、シンプルな内実を非常にデリケートかつソリッドに表現し
ていて、ある意味、大人「も」観る子供番組のドラマ表現としては理想
的なスタイルではないかと思う。大人が観るドラマだって、ある意味で
は深いものは何もなく、どこにでもある凡庸な内実をいかに巧みに語る
かとういう「語りの形式」がキモだったりするわけだしな。

それから、実写ならではのうさぎのキャラクターもAct.1 に続いて明確
で、メイキングで田崎監督が「天真爛漫だけどバカじゃない」と表現し
ていたように、細かく神経を配るタイプではないが本当に大事な勘所は
押さえていてそれを頑固に貫くような意志の強いところも見せている。
コミックス版やアニメ版と比べて「強い」要素が際立っているね。

まあこれは、典型的な小林靖子的なヒロイン像なわけで、プリンセス・
セレニティとして覚醒した後のお姫様像から逆算した設計ではないとは
思うんだけど(多分小林靖子だったら、プリンセス・セレニティのキャ
ラは、コミックスやアニメよりももっとノブレス・オブリージュな凛々
しいイメージで設計すると思うので)。

なんかこう、アニメ版やコミックス版のパターンでは、一歩間違うと、
純粋な心で己を犠牲にしてほろほろ泣いてさえいれば、天が味方して凄
いパワーが炸裂してすべて解決してくれます、みたいな見え方にならな
いとも限らない。他人を思いやる心の美しさそれ自体が力となるとは信
じられなくなった年代の人間にしてみれば、ヒロインが「弱い」という
のはちょっと受け入れにくいところがあるんだよね。

もちろん、コミックス・アニメ双方のうさぎがただ単に「弱い」だけの
キャラとして描かれていたとは思わないんだが、守られ属性のキャラだ
けに、周囲の人々の強さに応える形でさらなる強さを発揮する、という
受身の呼吸にならざるを得ない。

まあ、女の子の読者・視聴者からしてみれば、そちらのほうがコージー
なんだろうけどね、大人の男性から見ると、そういう期待に応えること
は一種の駄菓子の甘さに感じられてしまうわけで。

個人的には、スーパーヒロインにはもっとグイグイ周りを引っ張ってい
くような強さがほしいので、強いヒロイン描写を得意とする小林靖子に
は、今後もこの方向性でうさぎを描いていってほしいところ。

今回の話のうさぎ像がいいと思ったのは、亜美ちゃんに対する分け隔て
ない好意の描かれ方も普通にいいんだが、それはコミックス・アニメに
共通したうさぎの美点。

とくに小林節ならではと感じたのは、「いやなものを無理にさせちゃダ
メ」と頑固に主張する(劇中で三回くらい繰り返しているので、三〇分
番組の感覚では十分以上に「頑固」だと思う)強さ、危機的状況のなか
でも、亜美ちゃんの自由意志尊重を自身の行動で実証する強さだと思う
んだな。

亜美ちゃんに比重のかかった話だから、彼女の言動に目が行きがちだけ
れど、それと併行して描かれるうさぎサイドの流れのなかでは、うさぎ
は常に亜美ちゃんを気遣い意志的に行動している。

Act.1 から通して観ると…いや、もうすでに特番から五、六回通して観
ているんだが(笑)、うさぎの行動原理が一貫して「身を挺して友人を守
ること」と規定されているんだね。

アニメ版やコミックス版でも、基本的にうさぎは友人知人を助けるため
にアクションを起こすんだけど、結局は頼りなくピンチに陥って泣きを
入れ、ルナやタキや新戦士の助力を得るという流れになっている。半人
前の正義の味方ごっこの延長というニュアンスは否めない。アニメ版無
印では、始終ルナに尻を叩かれて、正義の味方を演じているという印象
が強いしね。

一方実写版の描かれ方では、なんかこのヒトはたまたま正義の味方には
なったけど、それ以前から友人のためにはわが身を顧みず行動するヒト
だったんじゃないかと思わせる積極性と行動力がある。コミックスやア
ニメのルーティンとなっている「ここ一番のときは必ず他人の助力で危
地を脱する」というニュアンスがきれいになくなって、自力救済の側面
が強調されている。

亜美ちゃんが変身を決意するに至る現実的な事情が、「他者を犠牲にす
ることなく、自力で自身を救済するため」であるのと同じように、ムー
ンがマーキュリーに「いっしょにやろう」と呼び掛けるのは、二対一の
不利な状況を脱するためではなく、「いっしょに戦う」という新たな絆
を互いに確認するためだ。この二人は、二人が共に助けるとか助けられ
るという共依存関係を脱し、自力で戦いの場に立っていて、なおかつ強
い絆をつくり出している。

そして、実写版のうさぎはこれまで一度も泣いたことがない。「ドジ」
ではあるが「泣き虫」ではないんだよね。泣いたりオロオロしたりする
前に、まず身体が動くキャラとして描かれている。Act.1 で発表会会場
に駆け附ける際の描写の省略(すったもんだの段取り描写を飛ばして、
気が着くともう足場のうえで藻掻いている、というような)が、キャラ
描写として効いてくる。

紹介編であるAct.1、Act.2で泣き虫描写がないということは、この先も
コンセンサスを無視してアニメ版の先入観で書いてくるゲストライター
でもない限り、そういう描写はないということだろう。

ネットでは、Act.1 で泣き声超音波攻撃を出さなかったことを惜しむ感
想もあったが、従来のうさぎのキャラから泣き虫という性格を払拭する
のは、もしかしたら実写版スタッフの確信犯なのかもしれないね。

この泣き虫属性の排除が「等身大の女子中学生」を狙ったものなのか、
意図的なヒロイン像の造形なのかは、現段階で論じてもしょうがない問
題ではある。ただ、主要な狙いなのか副次的な効果なのかはともかく、
それによって、コミックス・アニメ双方のうさぎ像にあった「半人前の
ヒーロー(この場合、性別とは無関係にヒーローというタームを用いて
いる)」という性格が弱くなったのはたしかだろうな。

アニメ版のムーンのアクションシーンというと、オレが必ず思い出すの
は、三石琴乃の「ぎゃひー」みたいな悲鳴とともに「止め絵になって逃
げ惑うムーン」という情けない絵面なんだが、とくに無印初期の頃のう
さぎは、精神的にも肉体的にも無力な出来損ないのヒーローというのが
特徴だったと思う。

それを幼児性と表現しても構わないとは思うが、うさぎ像の変遷という
ことでいえば、従来のセラムン無印には「未熟な人間が、たまたまヒー
ローになったことをとおして成長していく物語」というビルドゥングロ
マンスの側面があったと思う。結果的にか当初からの狙いかはさておく
として、その視点では、「泣き虫」という属性は、出発点における人間
としての未熟さ・無力さの象徴となっていた。

危機的状況にあって「泣く」というのは最も無駄な行為なのであって、
幼児性という観点からいえば、人が泣くのは直截にはだれかの保護を求
めるためだ。それなのに、人々を「保護」すべき立場のヒーローがピン
チにあって「泣く」、しかも、主人公であるムーンがいちばん弱く、始
終だれかの「保護」を受けて強敵に辛勝する、というパロディ的なヒー
ロー像がセラムン初期のウリだった。「女の子戦隊」という番組の基本
コンセプト自体がパロディそのものだったしね。

そうしたパロディ的な出発点があったからこそ、成長物語としての側面
が出てきて、最終決戦の場で逃げも泣きもせずに気迫でラスボスを圧倒
するうさぎの姿を感動的なものにしていたのは否めない。

しかし、これは一種「他者を益する長所もない凡人が、周囲の人々の善
導で成長した」的な受け身の印象は免れないわけで、あんまりオレの好
みではない。オレ的には、ヒーローというのは、とくに変身ヒーローと
いうものは、登場した時点ですでに他者にポジティブな影響力を持つ傑
出した人物であってほしいわけだ。

それを発展途上の「じゅうよんさい、ちゅーにっ」の少女に求めるのか
という問題もあるし、昨今の流行りでいえば、一四才の少年少女を主人
公にした場合は、形はどうあれ、たいがいダメダメな出発点からのビル
ドゥングロマンスの形式を踏襲するものではある。エヴァンゲリオンの
影響なのか、ビルドゥングロマンスの形式で描かれていながら、主人公
がいっさい成長しない物語というのも流行りだしな(木亥火暴!!)。

しかし、近年の君塚良一脚本のドラマなんかを観ると、ビルドゥングロ
マンス的な物語形式と主人公のヒーロー性の折衷の試みが、成功を納め
ているように思う。たとえば「踊る大捜査線」や「さよなら小津先生」
の主人公は、刑事や教師として周囲の影響で成長していくキャラである
と同時に、自身が衆に秀でた特技を持ち、周囲にポジティブな影響力を
持つヒーローとして描かれていた。

たしかに一種の成長物語ではあるのだけれど、凡人の凡庸な成長を描く
のではなく、ヒーローがより良い人間や職業人となり、同時に周囲をよ
り良く変えていくプロセスを、物語性豊かに語っているわけだ。こうい
う双方向性は、現代の感覚として至極健全だと思う。

ドラマ自体つまらなかったし大してヒットもしなかったから、中山美穂
の「ホーム&アウェイ」なんてだれも覚えてないと思うが、こんな強引
なシチュエーションコメディでさえ、主人公は超絶的な味覚を持ち、旅
先でふれあった人々を期せずしてより良い方向へ導く影響力を持つ、一
種のヒーローだった。

君塚ドラマでは、豊かな物語性の追求とセットで、かなり先鋭に「秀で
た能力と影響力」というヒーロー像の復権を狙っているが、やはり虚構
性の高い物語の主人公は、凡庸な人物ではおもしろくないんだと思う。
凡庸な人間には、共感できても魅力は感じないし、凡庸な人間ならでは
の物語性の限界があるだろう。

話を戻すと、小林靖子的な限界突破は、凡人である主人公には能く為し
得るところではないと思う。本来的には、ヒーローとしての要件を満た
した人物だけが、物語世界内でヒーローを演じ得るのではないか、つま
り、ヒロイックな人物像とヒロイックな行動は本来一体不可分のもので
はないのか、オレは最近そういうふうに考えている。

だれもが自分の物語の主人公になれるというのは真実でも、世の中のす
べてのドラマが等身大になる必要なんてない、とくに特撮ヒーロー番組
は…というのがオレ個人のヒーロー観。

従来のうさぎは、マンガ・アニメの主役キャラとしては、幼女とヲタの
ツボをそれぞれ突いた造形だったと思うが、「半人前」である以上ヒー
ローそのものではなかった。シルバーミレニアムのクィーンとなった未
来像を先取りすることで、物語の中心人物としての要件は担保してはい
たが、千年の断絶を設けることで、シリーズが進んでもうさぎ自身は幼
児的で未熟なキャラを保っていた。

泣き虫の属性に象徴されるこうした性格は、何の取り柄もない少女が、
いつかだれかの影響で素晴らしい存在になれるかもしれない、劇的な機
会さえあれば自分もヒロインを演じることができるかもしれない、とい
う視聴者の期待には応えてくれるけれど、ヒロインの行動によって物語
的な興奮が生まれるわけではない。

物語という装置が、凡庸なわたしに対して非凡な周囲や事件が何かをし
てくれる、という期待を満たす段取りなのだとすれば、過度に主観的な
現実観への迎合であって、こんなにつまらないことはない。

それが女の子の持つ保守性に向けての対応なのだとすれば、少女向けの
物語は所詮男子には受け容れ難いものでしかないが、社会的な状況も変
わってきた現在、女の子の嗜好も徐々に変わってきたのではないかと期
待したいところだね。

素晴らしい事件や他のだれかが何かをしてくれるのを待つ主人公に自ら
を重ねるのではなく、自身の行動で自身と周囲を変えていく人物に憧れ
と共感を持つ、そのほうが現代女性として健全なんではないかと思う。
そういう意味で、この番組で「強いうさぎ像」が描かれていくことは、
新たな女児向け番組ジャンルの地平を拓く端緒となるかもしれない。

あえてレトリックを用いれば、実写版のうさぎはこれまで描かれたなか
で最も「漢らしいうさぎ」なんじゃないかと思う。沢井美優の見た目が
とても女の子っぽいので気附かないが、その行動だけを抜き出して考え
ると、「アタマが悪くてドジだが無類の侠気と行動力を持ち合わせてい
る男子学生」と表現して差し支えなかろうと思う。

…なんだ、それって伊達健太じゃねえか(木亥火暴!!)。

こういうヒロイン像が最も顕著に際立つのは、たとえばこの先ウラネプ
コンビが登場すると仮定した場合、土萌ほたる=サターンをめぐる絶対
的に相容れない窮極の選択を強いられる場面だろう。

そして、こうしたカルネアデスの舟板的な絶対の選択というテーマは、
小林靖子が好んで書くところではあるんだね。これまでの経験では、甘
いと言われようが非情な二者択一を軽々と飛越する第三の選択肢を提起
し、それを強い意志で実現してしまう、という行き方があった。

その試みは、メガレンの「激ヤバ! オレたち死ぬのか?」では上手く
捌かれていたものの、未来をかけた非情なオルタナティブをシリーズ全
体の主題に据えたタイムレンジャーのときは、あまり成功しているとは
思えなかったけどな。

まあ完全オリジナルの戦隊と違って、原作附きのセラムンならおおよそ
の筋立ては事前に検討して工夫を凝らせるので、どういうふうにうさぎ
のキャラを立たせてくれるか、非情なディレンマに対して第三の選択肢
を提起するのか、ギンガマンで長期的なシリーズ構成に成功した小林靖
子がこの難問をどう捌くか、その辺りにはかなり興味があるね。

実は今回のエピソードでもその萌芽はあって、「いやなものを〜」と主
張するうさぎに対して、ルナは「代わりはいないんだし」という身も蓋
もない鉄壁の必然性を剥き出しで持ち出している。戦士の資格や能力で
はなく、転生した戦士当人であるという当人性に代替はあり得ない。こ
れは不可避的な事情であって、本来否も応もないんだという機微は、よ
り露骨に語られているんだよね。

しかも、このテーゼは「転生した戦士当人であるから覚醒して当然」、
というような内的選択の問題としてではなく、「彼女の代わりはいない
んだから参戦してもらわないと困る」という関係性のなかの現実問題の
形で表現されていて、さらに生々しい言葉となっている。

結果的に亜美ちゃんが戦士の道を選んだことで本格的な葛藤には至らな
かったけれど、これだって回避不能の二者択一ではあったはず。未だに
転生云々の設定紹介がされていないから、初見のお子さまには気附かれ
ない問題ではあるけどね。

予定調和のメンバー集めに対して野暮な想定だとは思うが、もしも亜美
ちゃんがそのまま拒み続けていたら、そしてその意志をうさぎが尊重す
るのだとしたら、四守護神はその重要な一角を欠いた不利な形で最終決
戦までを戦い抜く必要があった。これは、亜美ちゃんが一旦戦士加入を
拒絶するという手続を踏ませた実写版ならではの設問となる。

一方で、今回の描写を見る限り、うさぎがこの先どんなに経験を積んで
成長しようとも、同じディレンマに対しては必ず同じ答で臨むであろう
ことも容易に想像が附く。ならば、この設問に対する解は今回の物語が
すでに素型として語っているということになるね。

そして、この方向性がウラネプとの対立にどうアダプテーションされる
かというヒントとなるのは、先に引いたルナの言い分だろう。彼女は飽
くまで現在の時制で戦士たちをとらえている。

これは、ルナがうさぎたちのように転生した存在ではなく、第一期シル
バーミレニアム滅亡の直接当事者であることにも関係があるのかもしれ
ないが、ルナは「前世から決まっているんだから遵え」というような言
い方はしていない。逆にいうと、ルナの視点では、戦士たちの覚醒はい
わゆる「前世からの宿命」ではなく、予期される計画でしかない。

四守護神とプリンセスの転生が予め定められており、ルナは再びの集結
を予期して現世での彼女たちナビゲートする役割だからこそ、再度の敵
の来襲に際してここで降りられては困る、という現実的な話をしている
にすぎない。

たしか今現在は記憶の一部を封印されているはずだが、ルナにとって、
うさぎや亜美ちゃんは昔知っていた人々当人でもあるし、別人でもある
という微妙な位置附け。逆説めくが、ある意味では宿命の不可避性とい
うニュアンスは、実はここにはないんだともいえる。前世からの宿縁と
か来し方そのものを、この現世にまで持ち越すというニュアンスは今の
ところない。

また、ネガティブなレゾンデートルとしての負の妄執というトミノ的な
宿命観でもない。トミノ作品では、自分が自分であること、その当人を
当人たらしめる当人性に拘り続ける限り、予め定められたカタストロフ
は避けられないというテーマを一貫して語り続けているが、小林作品で
はまさにその逆のテーマを語っている。

その当人がこれまで生きた証となる過去の重みを軽やかに振り捨ててで
も、自分がこれまでどおりの揺るぎない自分であり続けるという実感を
諦めてでも、現在の時制でより良い生き方を選択すべきだ、生まれ変わ
るべきだ、そしてそれはいつでも可能なんだと語られている。

今回の話でいえば、亜美ちゃんが戦士加入を承諾したのは、それが不可
避的な当人性だからではなく、その選択が今現在の亜美ちゃんにとって
より良く生きるためのものだったから、ということになる。

ここに光明があるのではないかとオレは思う。タイムレンジャーではタ
イムパラドックスの問題に足をとられ一時迷走したものの、こうした問
題に関して、常に小林靖子は現在の時制に立ち続けることで「未来は変
えられる」と訴えてきた。

過去がどうであれ、強い意志を持ってこの現在を十全に生きることで、
必ず未来は変えられるというのが、一貫した小林靖子のテーマだった。
不可避的な悲劇を避けるために、より良い選択肢を考え続けようと訴え
てきた。

ウラヌスとネプチューンが過去にどんな悔いを残していようとも、その
解消をどのような形で成就するかは、飽くまでこの現在の選択の問題で
はある。じっさい現在におけるウラネプの非情な行動は、飽くまで過去
世の因縁に基づいて現在のウラネプが選んだ選択肢なのである。

設定された具体的困難と、一見妥当なその解決法、それに対してより良
い別の選択肢を提起すること。それこそが、物語のもたらすサプライズ
なんだろうと思う。過去の作品では、きわめて無自覚に扱われていると
しか思えない「転生物」のつまらない呪縛を、実写版では木っ端微塵に
粉砕してもらいたいところだね。

そして、そうした期待の当否は、来週のレイちゃん登場編で早々に判断
できるかもしれないね。予告に出てくるセリフはコミックス版と対応す
るもので、レイちゃんがその異能ゆえに今現在周囲からいわれない差別
を受けているのは、過去世の因縁のためであったという「解釈」が陳べ
られている。

現世の苦境を肯定的に「解釈」するために過去世を持ち出すのは、転生
物の抱える構造的に不快な部分。これをどう扱うのか、やりっぱなしで
スルーするのか、それとも後々実写版的な方向性とすり合わせるのか、
そこに今のオレの興味は集中している。

現在の不幸を理由附けるためのネガティブな意味附けでなくても、前世
というフィクションを措定して現世を解釈するやり方には、必ず不快な
側面があると思う。オレの個人的なアレルギーだといわれればそれまで
だが、そういう論理というのは、新興宗教の教祖が必ず持ち出してくる
自己正当化でもあるんだよね。

しかし、もし現実に自分に異端の異能が具わっているとしても、それに
は理由なんかないというのが本当だと思う。今現在の自分がこのようで
ある理由を、過去世という具体的なストーリーによって解釈しようとす
るのは、唾棄すべき易道だとオレは思うんだな。

無根拠な現状を出発点として、この現在をどう生きるかによって、過去
は初めて自らの生き様で意味附けられるものだろう。現在を十全に生き
る前に心地よい意味性をもたらす過去を措定するのは、本末転倒のイカ
サマだ。

だから、転生がアリとされている物語内であっても、自分がこうである
のはこれこれという過去世の因縁のためだ、という筋道は描いてほしく
ない。もしもレイちゃんにとって、自身に具わる異能を受け容れる契機
が必要なのであれば、それは現在の時制において自身の能力を必要とし
ているだれかがいるから、ということで十分じゃないかと思うんだ。

普通に考えてみれば、たとえば今現在の自分がこのような自分であるの
は、これこれという理由があるからだ、決められた意味があるんだ、と
いう話になったらたまらなく不愉快じゃないか?

たとえば新興宗教の教祖というのは、自分は家庭的、健康的、経済的な
不幸に苛まれた人間で、それはこれこれという霊的な因縁があったから
だ、一種の試練だったのだ、それは崇高な使命を帯びた運命にあったか
らだ、というような理由附けを好んで行う。

それは必ず不健全な妄想となるし、論証不能の狂信的な自己正当化に陥
るものだ。なぜなら、そういう事柄に具体的な理由附けを求めること自
体が間違っているからだろう。

輪廻転生というのは宗教的な装置であって、そういう不健全な問いかけ
に解答を提供するフィクションなんだと思うが、これを現代の物語の要
素として扱う際には、ある程度のデリカシーがほしいとオレは思うんだ
な。「ぼく球」のヒットでソウルメイト探しが流行った例を挙げるまで
もなく、そうでなくても転生ものには狂信的なビリーバーが附きやすい
わけだから。

|

Act.3 高まるのは何か?

さて、期待と不安が高まる「たかまる」演出だけど(笑)、オレ個人とし
ては、このヒトが演出に参加した「らしい」ドラマをけっこう観ている
ので、タッチはある程度予想していたとおり。クイズ形式のやりとりが
マジモンのクイズのセットで演じられるベタなネタは、監督のネタ出し
だと思う。

それに、彼の日記でMAが難航したようなことを書いてあったけど、い
かにもフジのコメディドラマみたいなにぎやかしのSEがバンバン入っ
てて、こんなモンのために難航したのかと小一時間(木亥火暴!!)。畑が
畑だけに、CXくささが随所に見られたな。

ラストでレイちゃんが加入を断り立ち去る姿を見送りつつ、「えっ?」
というワンテンポ遅れたうさぎのリアクションで次週に引く呼吸など、
ぼくドラ辺りで見慣れたセンスだね(笑)。このラストシーンの劇判なん
て、もう少し穏やかなものでも良かったはずなんだが、今にも妖魔でも
出現しそうな選曲になってる辺りの大袈裟さも含めて、やはりフィルモ
グラフィーが語るとおりの演出スタイル。

そういう意味では、ドラマ部分はこういうテイストなんだと思えば大し
たアラは見られないし、「映画青年が丹念に基本的な技法を駆使しまし
た」的な絵作りは好感を持って観た。月野邸の夜景に亜美ちゃんのセリ
フを被せて、ワンカットで時制と状況を説明する辺りの映像的な経済セ
ンスは、いかにもオーソドックスな映画好きという印象だ。

しかし、特撮ヒーロー番組ならではのスピーディーなアクションシーン
ではちょっと…いや、かなりイマイチ。通常撮影とスローモーションの
素早い切り返しなど、東映特撮では二〇年前に確立した手法だし、二〇
年前の東映特撮のほうが格好良くて効果的だというのはどうなのよ。

そういう意味では、ジャンルのレガシー要素がまるっきり受け継がれて
いなくて、それもまあ、外部監督では致し方のないところだろう。

こういう部分では特撮プロパーでない(日記をしばらく読んだ限りでは
個人的にもその手の趣味はない)弱みが出ていると思うけど、研究熱心
なとこもあるようだから、他の監督の演出回を観て「やられた」と思え
ば、それなりに工夫してくるんじゃないだろうか…いや、してほしいと
ころだな(笑)。どういうふうにカットを割ればスピードとテンポが出て
くるかというのは、経験の範疇の事柄でもあるしね。

なんかこう、これは先入観なのかもしれないけど、全体的に頑張っては
いるが「いっぱいいっぱいで頑張ってる」的な余裕のない印象が目立っ
たなぁ。

撮影技法やSEの乗せ方、芝居の附け方、全部が全部ていねいにやって
はいるんだけど、そこはもうちょっとサラッと流したほうがテンポが出
るのに、とか、狙ってる線と違う行き方になってるのに目が届いてない
んじゃないか、という手慣れていない印象が随所に感じられた。

たとえば、ラスト近くでうさぎがタキを目で探す場面があるけど、二度
目に見返った視線がなぜか一旦下を向く。察するに、その視線の先は一
段下がってる地勢で、演じてる沢井からすれば視線を落とすのが自然な
芝居なのかもしれないが、カメラアングルは人物で奥行きを附けたバス
トショットなので、視聴者からはそこまではわからない。ロングで全景
を押さえている画面設計ならそういう芝居もアリだが、ここでは明らか
に画面設計と芝居の組立がちぐはぐだ。

結果的には、うさぎが自分より背の高い人物を探すのに、足許を見回し
ているような滑稽な絵面になってしまってる。それじゃまるっきり阪神
巨人
の漫才だよ(木亥火暴!!)。

映像作品は、カメラで切り取られた画角内のショットが世界の構成要素
のすべてなんだから、ここはウソでも沢井の芝居を止めて、普通に見回
しているように「見える」芝居を附けるべきだったろう。

あと、後半の一連で、万寿閣に潜入する二人→護摩壇に向かうレイちゃ
ん→二人がレイちゃんをハケーン→倒れてる巫女の傍らに佇むレイちゃ
んという流れ、たしかに脚本上でも時間と移動速度の関係に誇張がある
んだろうけど、このくらいはアニメや特撮ではよくあること。

要はレイちゃんが画面に登場する間隔にタメをつくって、演出がその矛
盾に気附かせなければいいワケだが、ここをなんとなく普通の時系列の
感覚で演出して繋いでいるので、レイちゃんの行動をうさぎたちと同時
進行でそのまま追ってるような映像になってしまい、矛盾が矛盾にしか
見えない。こうしたジャンル作品の誇張に慣れている監督なら、タメを
つくるために芝居やカットの尺を伸ばしたり、場面を入れ替えたりする
ところ。

総じてたかまる演出は、結論は留保するが、もっと現場を掌握してジャ
ンル映像を研究し、経験を積んでほしいという、偉そうな「ちょっと辛
口」感想になっちゃうな(木亥火暴!!)。

さて、肝心のレイちゃんなんだけど、前回の亜美ちゃん以上に芝居が辛
い印象だなぁ。それに、前回の予告でも出ていた札撒きシーンの鼻の穴
も凄かった
が、「め〜いく、あ〜〜〜っぷ!」と叫んだ眉の引きつり具
合もちょっとヤバい感じ(木亥火暴!!)。

こうして見ると、動いた顔の表情ということでは、やはり連ドラ出演経
験のある沢井美優がいちばんソツがないね。モデル出身の子が多いだけ
に、バンクの変身シーンや固定アングルでゆっくりした芝居をする場面
の顔のつくり方はきれいだが、激しい芝居で表情が激変する場面では、
自分の顔がどう見えてるのか意識が行き届いてない感じ。

まあ、赤の他人でオサーンのオレらが「この顔ヤバくね?」と思うくら
いだから、プロの雑誌モデルでもある本人たちにしてみれば、不本意な
表情がビデオメディア全盛時代の作品に固定されるのはまさに赤っ恥。
なりふり構わない芝居と顔のつくり方のバランスが取れてくるのは、本
人たちがOAを繰り返し見て、自分の出演場面をチェックできるように
なってからのことだろうね。

ただまあ、期待どおりメイクアップのバンクシーンは、三戦士随一のエ
ロさ
だったな。レオタの下腹部のアップがオーバーラップしながら画面
を横切ってスカートが出現するなんてサブリミナル演出、ちょっとエロ
すぎじゃねーか?(木亥火暴!!)

事前のスチルで見る感じでは、ちょっと変身後のメイク濃いんじゃねー
かと思えないコトもなかったが、色白美肌にナチュラルな黒髪というこ
ともあって、コスチュームの似合い方もオレ的には三戦士でいちばんだ
な。肉感的な口許とほっそりした首に巻かれた真っ赤なチョーカーの取
り合わせが、無闇にエロい(木亥火暴!!)。

ラストシーンと予告との繋がりで見る限り、先週ネタを振った「やっと
わかった」の件も、もう少し引っ張る感じではあるね。戦士の宿命があ
ったから異能が具わっていた、ボクはここにいていいんだ(木亥火暴!!)
という単純な話で終わりそうにはない。

「戦士の宿命」と「仲間になる」ことをイコールにせず、段階を踏んで
イニシエーションを描く以上、現状を肯定するために過去解釈を持ち出
すという段取りを一旦否定したうえで、あらためて「仲間」をキーワー
ドにして戦う目的を見出す手続が描かれるんだろうね。

そういう意味では、先週の亜美ちゃん話も、あれで目出度し目出度しで
はないという目配せが為されていて、小林脚本は相変わらず健在だ。

一人の友人ができることと、周囲に打ち解けることは別の事柄なんだと
いう当たり前の認識がここにはある。また、屈託なく母親と戯れ合うう
さぎを笑顔で見詰める亜美ちゃんという、今現在では演者・演出者とも
に今後の展開を知らない以上捨てカットでしかない伏線もあった。

当たり前の話ではあるけれど、女の子たちの関係がこういうリアルな現
実認識に基づいて描かれていくのであれば、いずれは、なるちゃんたち
従来の友人たちと戦士たちとの間に位置するうさぎの友情の葛藤、欠落
のない家庭を持つうさぎと、そうではない戦士たちとの対比
なども、こ
れから徐々に描かれていくのではないかと思う。

それが製作発表で言われていた「戦闘シーンよりも女の子たちの日常に
比重を置いて描く」ということなら、特撮的なカタルシスを少々犠牲に
してでも歓迎できる方向性だね。

|

Act.4 これだから行間の読めない奴は…

映像作品はつくづくテンポなのだなぁと実感した(笑)。

ネットでも評判の悪いたかまる演出だが、これだけ全方位で監督として
弱点があると、それも致仕方のないところ。むしろ取り柄を探すほうが
難しい。「特撮ヒーロー番組としての」という限定を附ける必要もない
くらい、一人のドラマ演出家として未熟な面が目立つ。

Act.3 については、まったく畑の違う人間が、いきなりあの独特の東映
特撮の現場に踏み込んだら、さぞや葛藤や戸惑いもあろうかと努めて好
意的に見ようとしていたが、客観的にローテの二話を総体として判断す
るに、まったくそんな気遣いに値しない相手だったのだなぁ。

…つか、オレ、だんだんこいつに腹が立ってきた

今回はアクションシーンだけ視ても、三戦士揃い踏みの名乗りポーズや
三位一体攻撃など見所も多いはずだったのだが、イヤな感じの間の悪さ
がせっかくの特撮ヒーロー番組的なイベントを台無しにしている。

とくに三位一体攻撃は、音楽でタイミングを取って同時攻撃という「瞬
間、心合わせて」の実写版的なものになるはずだったのに、撮り方が格
好悪いので「ただの変なヒトたち」にしか見えない(木亥火暴!!)。

だれしも想い描くとおり、これがもしナベカツだったら、笑いと格好良
さを適度にブレンドした名シーンになってたはずなのに…こういうふう
な意味で「もしも○○監督だったら」と惜しまれるのは、クリエイター
として最低の評価だろう。

今回の妖魔は、攻撃しても分裂して技をかわし、倒しても倒しても残り
の二体が再生してしまうという設定ゆえに繰り返しの絵面になるので、
たかまる演出のテンポの悪さがなおさら強調された印象。単体攻撃で二
回、同時攻撃でも二回再生するので、くどいことこのうえない。

スプリット画面で変化を附けてはいるが、この手法も三回使ったのでは
まったく意味がない。何か根本的に技法観が間違っているのだとしか思
えない。

繰り返しの場面で、まったく同じ手順でまったく同じような場面がまっ
たく同じ分量で繰り返されるというのは、それが意図した狙いでない限
りあり得ない選択肢だと思う。技名乗り→攻撃→再生という流れを、何
ら明確な演出上の意図もなく、分量にもアングルにも技法にもまったく
変化を附けずに五回も六回も繰り返すこのセンス。

それでいいのか? 本当にそれでよかったのか?

だったら、おまえはもう映像作家を辞めろ

こういうもっさりしたテンポだと、オフビートな笑いに持っていくとい
う方向性もアリだが、その方向性で視ても中途半端で気持ち悪い。それ
なら三戦士各々のリアクションで笑いをとるということになるが、そう
いう芝居になっていないし、脚本上シリアスなシーンでは、監督が指示
を出さない限り、笑いの呼吸の芝居になることはあり得ない。

だいたい、少女たちが立ち回りを「演じる」という認識からして、まず
間違っている
のだと思う。Act.1Act.2を見る限り、田崎監督は沢井に
もハマチにも立ち回りを「演じさせて」いない…というのは、あくまで
レトリックで、実質的には田崎担当回でもたかまる担当回でも少女たち
の演技やスタントとの配分は同じなんだが、ことアクションに関して、
ド素人の動きが絶対的に美しくないことを田崎監督は熟知している。

美しいポーズなら、芸能人ならある程度の練習でできる。ことに三戦士
たちの本来の畑は雑誌モデルであって、止め絵で美しいポーズを演じる
ことには慣れっこだ。しかし、美しいポーズをリアルタイムでつなげて
コリオグラフィックな美しい動きにするためには、専門的な訓練と経験
が必要なもの。だから素人を動かす場合は、細かくカットを割って、短
いポーズのモンタージュで動きをつくるのだ。

短いスピーディなカッティングは、この意味で個々の監督のセンスなの
ではなくて、こういう条件下でアクション場面を撮る場合の技法上の必
然なのだと思う。変身後のアクションでは、芝居場以外の少女たちの動
きを一連のコンテニュイティーとしては見せず、動きの各要素をバラし
て編集で見せるというのは、東映特撮が非スタント系からキャスティン
グするようになった時代からの経験で培った知恵だと思う。

つまり東映特撮のアクションの九割は、演技者ではなく、カメラワーク
とカッティングでスタッフが組み立てるものなのだ。現実問題として割
れるカット数に限度がある以上、長いカットはきれいに動けるスタント
さんのロングショットに限り、本人が演じる場面はアングルに変化を附
けて細かくカットを割る、これがセオリーだと思う。

ところが、たかまるアクションだと、スタントとの連携以外の部分につ
いては、動きを分解してカットを割り、カメラを動かすことの必然性を
いっさい認識していない。カット数の配分が、他のゆっくりした芝居場
と、のべったり同じになっている。

特撮ヒーローアクションを演出した経験がある監督なら、クライマック
スではカット数が増えるので、そこから逆算して全体のカット割りやス
ケジューリングを組み立てるところだが、そこからしてすでに失敗して
いるということだろう。

何の訓練も受けていない中高生の少女が、妙な扮装で小腰を屈めてボソ
ボソ歌いながらグルグル回ったら、普通の意味では変なヒトにしか見え
ないというのは、当たり前といえば当たり前のこと(木亥火暴!!)。

そこを普通一般のヒト同様に「変な連中」という醒めた目で撮ったら格
好悪いのは当たり前なんだよなぁ。「どう見ても変なコトしてるように
しか見えないんだが、特撮ヒーロー番組というのはそういうものなんだ
ろう
」というたかまる監督の鈍感な意識が仄見える。

極端なコトをいえば、ひょっとしてこのヒトは「特撮ヒーロー番組って
滑稽なモノ」ととらえていて、よくあるパロディ的な笑いをとるのがア
ピールポイントだと思っているのかもしれない。お嬢ちゃんたちのへっ
ぴり腰のアクションなんて、どう撮ったって格好良く見えるとは信じて
いないのかもしれない。そうだとすれば、認識自体が間違っているとし
か言い様がないが、多分そんなコトすら考えていないんだろう。

沢井のしゃくれた横顔やハマチの薄い分け目など、本人が女の子として
女優として「そこを撮られたらイヤだな」と思うようなショットを、何
らの気遣いもなくただダラーっと撮り、そのカットにOKを出してしま
う無神経さを見る限り、女優にも作品にも愛情というものがいっさい感
じられない。

映像面の総てに責任を持つカメラマンだって、たまには間違いを犯すも
ので、女優の見られたくない一瞬を映し取ってしまう場面だってある。
女優のコンディションやリテイクを撮れるかどうかのスケジューリング
の問題もあるが、それを踏まえたうえで、不本意なワンショットにOK
を出すか出さないか、執拗にベストをねらえるかどうかが監督の見識や
力量に関わる部分だろう。

少女たちが、子ども時代の憧れのヒロインをいま自ら演じている、そう
いう気持ちに対するリスペクトなどまったく感じられない。自らの技倆
の範囲内で可能な限り格好良く、美しく撮ってやろうという愛情やこだ
わりが感じられない。こういう作品に関わる以上、そういう気持ちがな
いということは、オレの認識では許されないんだがな。

…というか、そういう部分のない人間が…少なくともこういう条件下で
そういう気持ちを抱けない人間が、なんで映像作品の演出なんかやりた
がるわけ? こんな仕事をしている奴が、自分のサイトで若松節郎監督
とのつながりを云々するなよ、立派なベテランTVマンである若松監督
に失礼だろう。

もちろん、先週来の脚本の読みの浅さもバッチリ健在で、たとえばレイ
ちゃんの危機にうさぎが駆け附けて、着ぐるみが脱げなくて逆に助けら
れるという場面。ここをたかまる監督は、ただのギャグ場面と見て、そ
こにしか注力していないが、本来的にはこのギャグは「レイちゃんのピ
ンチをうさぎに助けさせないための脚本上の工夫」だろう。

通俗的なセオリーでは、一見、レイちゃんのピンチをうさぎが助けるこ
とで「一人だけじゃ戦えない」的な落とし所に持っていくのが常道だろ
うが、小林靖子の目はさらにその一歩先を見ている。

これまでのレイちゃんの来し方から考えれば、レイちゃんの孤独な戦い
は、異端の自分を自己肯定するためのレゾンデートルとしての戦い。そ
の意味では、孤軍の戦いで危機に陥ったとしても、それはそれで仕方の
ない話で、他人にピンチを救われることではそのわだかまりは解消され
ない。ムーンの助力を「よけいなことしないで」と撥ね附けることで、
レイちゃんの緩解をもっと引っ張る選択肢もあった。

ここを他者の危機を救う落とし所に持っていく辺りが小林脚本の真骨頂
であって、いってしまえば、これまでのレイちゃんは、直截には他人を
助けるために戦っていたのではないという側面がある。

自らの異能を善用することで自身の存在を肯定したいから戦っていた、
そこに他者との実感的な繋がりや温かい関係性はない。内面的な自己充
足の域を出ていない。

それを、自分を救うために危機を顧みずに駆け附けてくれた他者を逆に
救うという手続を踏ませることで、うさぎの感謝の言葉に素直に感銘を
受ける流れに持っていったのが小林靖子の目の確かさだ。たしかに、こ
こまで考え抜かれた手続が踏まれたら、レイちゃんの頑なな心が、ただ
一度のきっかけではらりと解れても納得が行く。

また一方、亜美ちゃんのほうにもレイちゃんの心を解す重要な会話があ
るが、次週予告を見る限り、亜美ちゃんの心のドラマはAct.2 からずっ
と続いているのだとわかる。

>>また、屈託なく母親と戯れ合ううさぎを笑顔で見詰める亜美ちゃんとい
>>う、今現在では演者・演出者ともに今後の展開を知らない以上捨てカッ
>>トでしかない伏線もあった。

前回はこう書いたが、何のことはない、その伏線は同じたかまる担当回
の今週分でさっさと受け継がれているじゃあないか。何を読んでいたん
だ、たかまるよ。亜美ちゃんの心のわだかまりがAct.2 で解消されたわ
けではなく、「人の輪に溶け込めない」という問題を残したままである
こと、Act.3 の脚本上の亜美ちゃんの描き方がこの一点にアクセントを
置いていることは、だれが視たって明白だ。

友人宅で姿勢を崩せない硬さ、うさぎと母の屈託ない戯れに溶け込めな
い戸惑い、引いては自分と母との関係に想いを致す心の陰翳、こうした
複雑な要素が、魚眼でとらえた微笑みのワンショットに表れていたか。

ハマチの演技力がどうこうというのは愚の骨頂で、何をどう差し置いて
もこの場面は、少女たちの心のドラマでもあるこの番組では最大限のこ
だわりを持って撮られるべき重要な場面だったのではないのか。

たとえばこの場面の最後尾に、カメラアングルを変えて亜美ちゃんの真
顔の寄りがワンカットでもインサートされていれば、それで解決の附く
問題だったのではないのか。それこそが演出の知恵であって、「ジャリ
タレに細かい芝居は無理」みたいな多寡の括り方がそこになかったか、
そこをオレは問いたいね。

一方、レイちゃんの登場話がたかまる演出だったことで、彼女のキャラ
クターが曖昧なままであることも重大な問題だろう。前回は一種の留保
としてスルーしたのだが、Act.3 のレイちゃんの演技でだれもが不自然
に思うのは、うさぎに「レイちゃんは隠れていて!」と言われ、ごてい
ねいに頷いて小腰を屈めて木陰に隠れるところだろう。

この場面でセーラー戦士であるうさぎが一般人のレイちゃんに「隠れて
いて」と言うのはきわめて自然なのだが、自分を戦いの人と自認するレ
イちゃんが、セーラー戦士であるなどとはつゆ知らない普通の中学生の
うさぎに「隠れてろ」と言われて素直に言うことを聞くはずがない。

「あなたこそ隠れていなさい」とうさぎを庇って九印を切るか、「この
娘、いったい何?」と戸惑いを覚えるのが自然だろう。小林靖子だって
この手のイージーミスを犯さないとは限らないが、従来の彼女の傾向か
ら考えて、セリフを読めば呼吸がわかるような事柄について、そんな細
かいト書きを書くとは思えない。ここは非特撮系のたかまる監督が、ピ
ンの絵面と変身バンクがつながらないと考えて、レイちゃんをハカせた
のではないかと思う。

前回は、あえて指摘するまでもないことだと思って言及しなかったんだ
が、今回のエピソードでも、同じようにレイちゃんがピンチに陥ってう
さぎが助けようとするという流れになっていて、そこが重要なポイント
になっている以上、俄然意味合いが違ってくる。

先週からの流れで今週の話を視ると、レイちゃんというキャラクターは
自ら好き好んで戦いに乗り出すくせに、いざピンチに陥ったら遠慮なく
他人の助力をアテにするヘタレな人間のように見えてしまう。

しかし、「よく考えてみれば」今週レイちゃんがうさぎの助力をアテに
したのは、先週の話で彼女がセーラー戦士としての戦闘力を持つと知っ
て、妖魔と戦っても一般人よりも危険はないと認識しているからだ。そ
して、この時点では亜美ちゃんとの会話を受けて、その程度の助力なら
甘受しても差し支えないくらいの気持ちになっているということだ。

それ以前にマーキュリーと同時変身して、マーキュリーを庇って逃がし
はしているが、ただ逃がすのではなく妖魔の狙うお宝を託すくらいの気
持ちにはなっているので、自然なウェイトの掛かり方となっている。

他人を受け容れない気持ちのままなら、自分がお宝を持って逃げて囮に
なっていただろう。お宝を持って逃げるのも、この戦いの中の一つの役
割であるからこそ、マーキュリーも否やを唱えずに逃げたのだ。

このマーキュリーの行動が自然なのも、実はAct.3 のなかに伏線があっ
て、一見おふざけに見える冒頭のクイズの場面も、うさぎと亜美ちゃん
の戦いに対する考え方の違い、根本的な人物像の違いを明確に印象附け
る工夫ではあった。

単にうさぎがおバカで亜美ちゃんが賢いというだけのことではなく、戦
士の目的について、使命がどうとかではなく、困っている他者を救うと
いう利他的な側面を真っ直ぐ見詰めるうさぎと、本質的な筋道を洞察す
る亜美ちゃん
の、それぞれの対比が描かれている。

亜美ちゃんは、銀水晶を護ること「も」この戦いの重要な目的であるこ
とを、おそらく現時点の三人のなかでは最も認識しているのだ。だから
こそ、レイちゃんが敵と対峙している隙に迷いなくお宝を持って逃げた
のだと思う。レイちゃんにとっては、お宝を託したのはマーキュリーを
逃がすための方便だったとしても、マーキュリーにとっては戦士として
の重要な役割分担だからこそ、レイちゃんの指示を瞬時に実行した。

実は、脚本上ではどこも間違ってないんだよ。

そこからの流れで、自分が片附けようと思っていた妖魔が二体に分裂し
て一体を取り逃がし、早急に一体を倒してもう一体を追わねば亜美ちゃ
んとお宝が危ないという局面に至ってピンチに陥る、どうしていいのか
わからない、そこにうさぎが駆け附けるという段取りを踏むからこそ、
レイちゃんがうさぎの力をアテにするのが自然になってくる。

ここでうさぎがレイちゃんを助けても、少なくとも不自然ではない。前
述したように「今は礼を言っておくわ」的な納め方で引っ張るというの
も、行き方としてはアリだ。だが、そこでうさぎが変身不能という障碍
を設けるのが脚本の知恵で、急転直下少女たちの心は相寄り、具体的な
セリフではなく笑顔が意味を持つ落とし所へ結び附く。

特番にあった田崎監督の沢井評ではないが、これまでは、ともすれば小
器用に表情をつくれて流暢に声の出せる沢井の子役芝居が鼻に附く場面
もないではなかったが、この場面で「仲間っていいなぁ〜」と屈託なく
微笑む沢井の演技は、役者としての力量がどうこうではなく、豊かな情
緒生活を営んできた一人の少女の一瞬がにじみ出ていて抜群に良い。理
屈ヌキに美しい。レイちゃんが釣られて微笑むことに、演技的な説得力
を与えている。

なのに、演出がこんな好演を、少女の美しい一瞬を受け切れていない。
物語のなかで有機的に活かすという、大人の知恵を発揮していない。批
判されて当たり前だ。

こういうふうに、脚本のうえではデリケートな段階を踏んで、なおかつ
現代的なスピーディなテンポで少女たちの心の交流が描かれており、未
熟ながらも少女たちは劇中の人生を懸命に生きているのに、脚本に凝ら
された知恵も、少女たちの懸命な頑張りも、凡庸な演出者によってきわ
めて粗雑に扱われている。

オレはここに腹が立つ。

正直いって、オレみたいな覇気のない人間は、特番で田崎監督が「うさ
ぎというのはこういうキャラで…」みたいなコメントを熱く語ってるの
を見たりするとちょっと引いたりするんだが、そういう真摯さが上がり
の違いに歴然と表れているんだから仕方がない。

たかまる日記によると、次のローテはAct.11Act.12だそうな…また来
るのかよ、もう二度と来なくていいのに(木亥火暴!!)。

一カ月半も後ではあるが、憂鬱な話だなぁ。ネットで不評なことについ
ては、いっさい言及なし。まあ、宣伝も兼ねたサイトで評判悪かったと
は書きたくないだろうけどな。

それにしても、彼の日記の日本語の読みにくさは尋常ではない。なんか
こう、日頃パソコンなんか触ったこともない営業マンが、趣味でだれも
読まない日記を淡々と書き続けて、いっぱし情報発信しているつもりで
いるのを視るようなダイヤモンド・ダスト級のサムさ(木亥火暴!!)。

しかし、映像作家=文章家という感覚は、もう過去のものなのかね? 
まあ、たかまるをサンプルにして映像作家を語ると、他の映像作家のヒ
トたちが泣いて怒るかもしれんが、オレがこれまで聞いたり読んだりし
た範囲内では、映画やテレビドラマの監督は、ライター並に文章を書く
頻度が高いはずなんだが。

以前ネットで彼のサイトがリンクされていたんで、放映前の情報収集の
ために見に行ったんだが、トップページのわかりにくさやイヤな感じの
文章の下手さでイヤな予感はしてたんだよなぁ(木亥火暴!!)。

宣伝も兼ねたサイトのウェブ日記でこのような文章を書いて、それがま
ずいことだとまったく意識してないとすれば、こいつはそもそも公に表
現行為を行うことの意味をまったく理解していない。

個人的な備忘録をウェブにアップしているだけという感覚なら、ウェブ
のアクセシビリティを理解していないというだけだが、こいつは別のコ
ンテンツでOLビジュアル系の制作日誌なんかも公開しているから、一
種の情報発信のつもりで日記を書いているとは思うんだな。そういう性
格のコンテンツで、これだけグチャグチャの文章を書いたら、誤読によ
る誤解が一般に流布してしまうとは考えなかったのだろうか。

しかも、こういう文章を書くということは、他人の文章の客観的読解に
も難があるということで、簡潔で的確な小林脚本の真意を理解できない
のも宜なるかな。それこそ、なんでこんな雑な人間が表現行為を職業に
選ぼうと思ったのか、謎は謎を呼ぶばかり(木亥火暴!!)。

まあ、話をセラムンに戻すと、たかまる演出回のこの二本は、一般ドラ
マの演出家が三〇分ものの特撮ドラマをどう見てるかのサンプルにはな
るのかもしれない。子ども向けだし、この程度の見せ方なんだろう、み
たいな。日記でも、自分の子どもとはいえ女の子が喜んでいるからよし
としよう、みたいな自己評価らしい。

しかし、その辺の「子どもの見るドラマ」についての態度というのは、
特撮系のつくり手のなかでは、試行錯誤の末にある程度の結論が出た問
題だと思うんだけどね。もちろん、子どもにはドラマの良否なんていっ
さいわからない
んだよ、これは間違いない。子どもが喜ぶかどうかとい
うのは、ドラマの良否とは別次元の問題だ。

その意味では、そこだけを問題にするなら、子ども向けの番組が子ども
に受けるかどうかは、純然とマーケティングの問題になる。子どもは自
分の関心対象がどのように映ってるかだけで反応するから、現在只今の
幼児層が何に関心があるのかというリサーチが、かなり大きな決定要素
となるだろう。

そういうジャンルにおいて、意味性のあるドラマを制作するに際して、
つくり手の立ち位置をどこに置くかというのは、これまで散々当事者た
ちによって考え抜かれてきた問題だと思うんだ。その結果、かつてはム
ダにガチだった円谷も、今や純粋に幼児層の関心にアダプトする道を選
び、東映特撮は非公式にではあるが独自のドラマの語り口を模索する方
向に特化した。

こういう図式のなかに何も考えずにボーっと入ってきたたかまるが「子
ども向けってこんなんじゃねの?」とやってみたのが、この二話の雑な
語り口なのかもしれんね。行間読めないだけじゃなくて、多分空気も読
めない奴なんじゃないかと思うぞ(木亥火暴!!)。

まあ、一方的な罵倒に気が差して擁護するわけでもないが、たかまる演
出は単体で見てもひどいことはひどいんだが、一種、直前の田崎演出と
の落差でもってよけいにひどく見えるという側面もあるとは思う。

オレとしては、セラムンへの田崎参加を知ってから、メガレンやギンガ
マンで萌え&燃えを追求し、リリカルな演出に強くて今風の絵の見せ方
にも意識の先鋭だった田崎監督に期待をかける一方、パワレンの経験で
大味でガサツなアメちゃん方式の洗礼を受けたことで、そうした繊細な
部分がスポイルされてるんじゃないかという不安もあった。なんか、ラ
イダーの演出って、さっぱり個々の監督の持ち味が出ないんで、帰国後
長らく判断の附かない部分もあったしね。

Act.1 は顔見せ編ということで、それほど田崎演出がどうこうという部
分も小林脚本の凄みも見られなかったが、続くAct.2 では、この二人な
らではの部分に唸らされ、その「ならでは」な部分をもっと見たいと一
膝乗り出した、その鼻先に突き附けられたのが、たかまるショックだっ
たわけだな(木亥火暴!!)。

しかも、一方の小林脚本のほうは、Act.2よりAct.3Act.3よりAct.4
ほうがずっと勢いを増している。Act.2 から今週分までの脚本の流れを
見る限り、物語はどんどん好調に独自の地平を切り開きつつある。

この流れを全部田崎演出で追えていたら…という憾みがずっと附き纏っ
ているわけだよな。ギンガマンで戦隊が目指すべき一方の極北を実現し
てしまったコンビだからこそ、「女の子が主役の戦隊物」という、女性
の戦隊マニアという小林靖子の出自を考えれば最適のお膳立てで、ギン
ガマン以降の低迷(と敢えて表現するが)を払拭し、東映特撮の新次元
を開拓してくれるのではないかと期待できる。

いうならば、小林・田崎コンビにとっては、この一作が新たなエポック
になるかどうかの瀬戸際なんであって、そんな正念場へノコノコと了見
の間違ったド素人が迷い込んでくるんじゃねえよ、というのが正直なと
ころなんだな。一種の続き物として、こいつのローテでも重要な心理描
写が絡んでくるだけに、こいつのヘボさと意識の低さは犯罪的に感じら
れてしまう。

…てなところで、終わりだ、終わり。

ああもう、縁起悪いから塩でも撒いとけ!(木亥火暴!!)

|

Act.5 心の棘

東映公式サイトのスタッフインタビューコーナー「ダークキングダムの
縁の下
」に、メイク担当谷本忍による、田崎、たかまる、舞原各監督の
指示の出し方についての証言が掲載されている。

それによると、舞原監督は意外とイメージ本位の指示出しをするという
話で「ポニーテイルはもっと高くしたほうが、活発そうに見えるんじゃ
ないか
」というような言い方をするらしい。

ちなみに、田崎監督は髪の毛一本に至るまで本当に細かく具体的な指示
を出すそうで、大雑把なことは言わない。たかまるは、やっぱりという
かなんというか、丸投げ。「可愛く見えればいいから、任せるから」だ
そうな。

まあ、どのキャラの話であるかにもよるが、こうしてそれぞれの監督の
実作を一渡り観てしまった後では、「もっと高くしたほうが活発そう」
と「可愛く見えればいいから、任せる」には、千万億里の意識の隔たり
があるように感じられてしまうね。

他の監督たちがちゃんとキャラクター描写に踏み込んで注文を出してい
るのに、たかまるだけは「ちゃんとあなたが仕事してくれて、上がりが
汚くなければOKっすよ」的なやる気のなさ。

まあ、戦隊経験があって東映特撮のスタッフのだれかしらに面識のある
両監督と、まったくの新参者のたかまるを同列に比較するのもちょっと
気の毒な気はするが…いや、情緒面の差引勘定ではまったく気の毒では
ないが(木亥火暴!!)、少なくとも公平ではないかもしれない。

…しかし、舞原監督は東映特撮関係の監督のなかでは、比較的オフビー
トな部類と見られていると思うんだが、それでもたかまるよりは全然マ
シだったな。つまり、映像作品として許されるオフビートなテンポの下
限が舞原監督のレベルということなんだろうか(木亥火暴!!)。

舞原監督は、そのとぼけた作風からすると意外にもイメージに拘る監督
のようで、たかまるとは違った意味で「変な絵面」のインパクトで勝負
するところがあるね。

予告の時点でも大受けだった、「無理してる亜美ちゃん」の身体表現が
つっぱらかったペンギン手だったりする辺りの「変な絵面」インパクト
は、たかまる演出の無駄な魚眼とかとは違って、かなりプラスに効いて
いるね。少なくとも、ちゃんと一回ペンギン手のヌキを押さえている辺
り、無意味な賑やかしではなく意図的な演出になっている。

勝ち抜きメイク合戦で笑わせておいてから、洗面所のミラーショットに
つないで、溶けたアイラインがピエロの涙のように見えるのは、たとえ
ば、映画版の「ドーベルマン刑事」でも使われているアイディアで、主
題歌の「黒い涙」というのは涙で溶けたマスカラのこと。ありふれた演
出ではあるんだが、作品の文脈に沿って意味附けられ適所に用いられる
とこんなに効果的で、同時に監督の冷めた目線も感じさせるんだなぁ、
と感心する。

この場面の亜美ちゃんをピエロのように見せているということは、つま
りこの場面を演出した人間が、この亜美ちゃんを「滑稽な存在」と視て
いるという意味だ。亜美ちゃんに寄り添って労るのではなく、冷淡に突
き放して滑稽だと意味附けているわけだ。

この場面の亜美ちゃんが「道化」であるという意地悪い隠喩になってい
るんだが、それを道化として笑い飛ばしてやらなければ、視聴者から視
て救いのない話になってしまうという物語作法上の事情がある。

この演出の眼の冷たさが、逆に観客に対していっそう亜美ちゃんの存在
を哀しく見せている。演出の視点が「可哀想に」と亜美ちゃんと共感し
ていたら、この哀しさは出なかっただろう。お話の骨格が辛い話である
だけに、視聴者にあまり感情移入させてしまうと、哀しいという情感よ
りも不愉快さが先に立ち、後味が悪すぎる。

全体的に舞原監督の目線は、少し引き気味で亜美ちゃんの奮闘をコミカ
ルに描写しているね。そうでなかったら、ちょっと辛くて見ていられな
いものになっていたかもしれない。一歩退いて笑うくらいのスタンスで
ないと話が辛気くさくなってしまっただろう。

うさぎが「おはよう!」と挨拶して「いつものように」教室中の生徒が
返事を返す、続けて亜美ちゃんが同じように挨拶して、返事をした生徒
たちが「ええっ?」とどよめく天丼ネタも、コミカルにテンポ良く流し
てやらないと、ちょっとイヤな間の話になってしまう。

そういう意味では、舞原監督のスタンスは、こういう物語である以上、
非常に的確だということになるね。舞原監督は、東映特撮というより、
むしろ円谷映像の仕事が印象的だから、コミカルでとぼけてて突き放し
た持ち味は得意とするところだろう。

「映像作品は段取りだ」というのは、特殊脚本家・小中千昭の「ファン
ダメンタルホラー
」の一節だが、イメージ主義の演出家であっても、脚
本の文脈を論理的に筋道立てて理解したうえで、実際的な段取りを巧み
に用意しなければ、効果的な演出はできないものなんだろうな。

ああそうそう、あんまり関係ないけど、今回の妖魔が風船怪人だっての
は、なんか「仮面天使ロゼッタ」でMr.カラーが出演した舞原担当回
を思い出させるな(笑)。女の子三人組のタラタラした宴会場面とか、割
と共通するイメージは多いね。

それから、亜美ちゃんエピソードだと、かわちえのなるちゃんの出演場
面が多くなるのは、狙いなんだろうか(笑)。一種、かわちえがセラミュ
で演じた亜美ちゃんもオーセンティックな亜美ちゃん像から大分離れて
いたとは思うんだが、こうして実写版の亜美ちゃんと並べて、亜美ちゃ
んとは対照的な芝居を演じさせることで、かわちえの役離れを手伝って
やってる…なんてことはねーか(笑)。

…さて、各論はこのぐらいにして、小林脚本の評価を含めた総体的な構
造面の話に移ろうか。なんというのか、舞原監督の演出的な工夫は工夫
として、個人的には亜美ちゃんの姿を見ているのがちょっと痛々しくて
辛かったなぁ。

散々たかまるを叩いたくせに、レイちゃん出ずっぱりというだけでかれ
これもう二〇回くらい見ているAct.4 よりも、ちゃんとつくられてるこ
のAct.5 のほうが、ドラマが重いだけに気楽に見られないというのが皮
肉ではある(木亥火暴!!)。

不器用な女の子が周囲に溶け込もうと無理をして空回りする話って、定
番ではあるけれど、「女の子が滑稽な行動で恥ずかしい思いをする」と
いうのが、個人的には可哀想すぎてちょっと見ているのが辛い。今回の
エピソード以上に悲惨な落とし所だったら、多分二度は見られなかった
ろうなぁ、と思う。

もっとリアルな学園ドラマだったりすると、亜美ちゃん自身にも敬遠さ
れるだけのネガティブな属性があって、周囲の女の子ももっと残酷だっ
たりするんだが、それはそれで客観視できるので、まだしも安んじて見
ていられるような気がする。しかし、セラムンのリアリティでは、基本
的に亜美ちゃん自身はどこも悪くないのでなぁ。

アニメやコミックス、セラミュなどで水野亜美像を知っている視聴者に
とって、亜美ちゃんは基本的には心の底から優しくて善良なよく気の回
る女の子であり、その裏腹に「良い子」のレッテルや自身の善良さそれ
自体に抑圧された、ある意味自家中毒的に発生した孤独の翳りを持った
キャラだという予備知識がある。

オレみたいに無印初期の亜美ちゃんをよく知らない視聴者から視ると、
亜美ちゃんは、他の四戦士と違って本人自体はネガティブファクターを
抱えていないのに、主に「近寄りにくい」という曖昧な理由で敬遠され
ているキャラクターに思えていた。

とくに月火水の三戦士が一旦揃った後のキャラクター描写としては、ア
ニヲタの理想像的な完璧な美少女として描かれていたので、周囲との軋
轢という意味ではイマイチピンと来なかったというのが本当のところ。

ドジで泣き虫なうさぎはともかく、異能と勝ち気な性格のために周囲か
ら迫害を受けるレイちゃんや、男っぽくて惚れっぽく、それゆえ男運の
極端に悪いまこちゃん、早くに覚醒したために孤独な戦いを演じる美奈
子たちは、みなそれぞれ何らかの欠落を抱えている。しかし、亜美ちゃ
んにはそうした自身の属性にまつわる欠落は稀薄だったと思う。

亜美ちゃんに関する問題は、主に周囲の不寛容さや家庭状況というよう
な外的な要素に起因するもので、本人は頭脳も性格も気遣いも容姿もと
てもよく出来た、それこそ優等生的な美少女、というのが一般的な亜美
ちゃん像だったんではないだろうか。

そういう先入観で見ていたものだから、Act.2 を観ても「登場回だから
こんな描き方なんだろう」「デフォルトがこれで、イニシエーションを
経てから定常的なキャラ像に」的な見方が抜け切れていなかったような
気がする。

そういう見方からすれば、Act.2 の時点で解消されていなかった対人面
での不全を正面から採り上げたAct.5 では、そうしたわだかまりが劇的
なきっかけで解消される、という「課題の解決」的な落とし所に着地し
てもよかったはずだ。

しかし、今回の筋立てでは逆に、亜美ちゃんがその「課題」を「解決」
しようと無理をして自己変革を目論んだ末に空回りをして痍附き、「無
理をしなくてもいい、意識を持ち続ければ、物事は自然にゆっくりと変
わっていくものだ」と、視聴者が解決への予感を感じるだけの、穏やか
な結末に落ち着いている。この辺は、「もっとリアルな学園ドラマ」と
は別の意味でリアルな着地点だろうと思う。

今回の話の結末では、眼鏡少女が眼鏡をかけ忘れてきたというだけのこ
とで、劇的なことは何も起こっていない。本質的には亜美ちゃんの悩み
にはだれも応えてやっていないし、何も解決していないと言えば解決し
ていないんだな。

しかし、物事は劇的なきっかけでは変わらないし、劇的なカタルシスを
もたらすために、どんどん事態が悪化したりはしないものだ。少女たち
の欠落は、ゆっくりと穏やかに埋め合わされていけばいい。その意味で
は、これまでの四エピソードとは、登場人物たちの心の動きの在り方が
少し違っていたと思う。

これまでのエピソードでは、新しい物語を力強く前進させるために、主
に劇的な回心の心理が描かれていた。少女たちの抱える欠落を細やかに
描き、それに真っ直ぐ入り込んでいくうさぎの言動、少女たちの心の揺
らぎ、そしてうさぎの力強い一言やアティテュードが彼女たちの回心を
決定附ける、という流れになっていた。

しかし、今回設けられた設問は、そもそもがAct.2 でうさぎが初めて亜
美ちゃんと言葉を交わすシーンで言った「あたしのことはうさぎって呼
んでよ」という何心ない一言に端を発している。つまり、今回のドラマ
は、これまで少女たちの心の欠落に「純真な」手を差し伸べてきたうさ
ぎが、自らの「純真な」友人観を亜美ちゃんに圧し附けたために、結果
的に亜美ちゃんを追い詰めるというものになっている。

登場時から一貫して、うさぎは物事に対する細やかな気遣いや配慮を苦
手とする天真爛漫なキャラとして描かれているので、この辺はまったく
違和感がない。「もっとなかよくなりたい」という純真な思いは、とき
として穢れた悪意よりも相手を痍附ける。

うさぎの純真さ、純粋さは、いつでもオールマイティな癒しのパワーと
して友人たちに働きかけるわけではない。深読みをすると、そこに不吉
な予兆を感じないでもないが、それはさておくとして。今回の問題は、
一見して亜美ちゃんと周囲という一対多の関係性の問題にも見えるけれ
ど、実は主にうさぎと亜美ちゃんの二者間の問題だったのではないかと
オレは思うんだ。

亜美ちゃんにとってうさぎは、それほどまでに大事な存在なのだと思う
んだよね。事実、「本当の友人」というキーワードで亜美ちゃんが思い
悩むとき、そこに現れるのはうさぎの姿だけであって、レイちゃんやな
るちゃんの姿はない。友人との親密度に順位附けをするほど野暮なこと
はないけれど、亜美ちゃんにとっては、うさぎが「純粋に」友情を示し
てくれたからこそ、世界に向かって心の窓を開こうと思えた存在である
だけに、「友人」の問題では常にうさぎが直截の対象となる。

うさぎとの友情がなければ、レイちゃんやなるちゃんとも交流はあり得
なかったのだ。だから今回の問題では、レイちゃんとなるちゃんも重要
な役割を果たすけれども、亜美ちゃんとうさぎの二人の間の物語だった
と断言して差し支えないと思う。そういう意味では、非常にエロティッ
クな話ではあったんじゃないかな。

そして、「友だちだったら、こうじゃん」と直観的に考えるうさぎの思
惑と、「本当の友だちって、どんななんだろう」と包括的な筋論に思い
を致す亜美ちゃんの悩みの対比は、やっぱりAct.3 の例のクイズシーン
が端的に予言している行き違いではある。

そこに新たに加わったレイちゃんは、美奈子のMDや呼び捨ての躊躇い
という、亜美ちゃんとうさぎの二者間の交流を媒介する小道具をすべて
すっ飛ばして、瞬時にうさぎとの間合いを詰めている。ここの三者間の
対比が絶妙だ。

レイちゃんは、瞬時に劇的に回心するタイプのキャラクターなのだな。
心を許すと決めたらそこに迷いはなく、ずばりと相手の懐に飛び込んで
いく。逆に、そこに彼女の辛い来し方が見えたりするのだが、亜美ちゃ
んが疎外される孤独を感じてきたのに対し、レイちゃんは迫害の孤独を
味わってきた、その違いといえるかもしれない。

嫉視や無関心に基づく孤立と、他者の悪意と実質的な攻撃に苛まれる孤
独では、腹の括り方が違うのだという言い方をしてもいい。亜美ちゃん
が他者との間合いの取り方の問題で孤立してきたのに対し、レイちゃん
の場合は最初から戦いの間合いで孤立している。それならば、心許せる
友と呼べるだけの存在が現れたなら、その判断にすべてを委ねて顧みる
ことはないだろう。だからレイちゃんは一瞬で間合いが詰められる。

すでに呼び捨てでポンポンと言い合っている二人を見て、ハッとする亜
美ちゃんの表情が痛々しい。前回レイちゃんの回心に一助を果たした亜
美ちゃんが、俗な言い方だが、この場面ではレイちゃんに「置いてきぼ
り」にされている。ハマチの表情芝居もどんどん美しさを増してきてい
るね。ラストでうさぎに抱き附かれてびっくりする表情は、火星人のオ
レまで思わず惚れそうになっちゃうくらい美しい(木亥火暴!!)。

前回は、主にレイちゃん自身の問題について、レイちゃんに対してうさ
ぎと亜美ちゃんが働きかけるという構図だったのだが、今回のエピソー
ドでは、うさぎ対亜美ちゃんの関係の問題で、亜美ちゃんのためにレイ
ちゃんがうさぎに対して一歩退いた地点から働きかける構図になってい
る。ここに、ダイナミックなバリエーションの美しさがあると思う。

今のところ、レイちゃんはうさぎたちを「仲間」という立ち位置で認め
ただけなので、「友だち」という立ち位置にある亜美ちゃんの悩みとは
違う地点にいて、亜美ちゃんの孤独に対してシンパシーを感じながら、
そこについては悩んでいない。レイちゃんはパジャマパーティの参加を
断って顧みるところなく、かえってそれに参加した亜美ちゃんが悩みを
抱えているというところに、それは端的に表れている。

そういう構図だからこそ、今回のうさぎは亜美ちゃんの心を救う方向で
はなく、追い詰める方向でしか動いていない。悪意も穢れた感情もなく
真っ直ぐに亜美ちゃんの気持ちを求めるうさぎの言動が、どんどん亜美
ちゃんを痍附け追い詰めていく。

「そういうの、いちばん友だちっぽくないよ」というのは、亜美ちゃん
に対していちばん残酷な言葉であって、いちばん言われたくない相手か
らのいちばん言われたくない言葉を、そう言われないための滑稽でさえ
ある懸命な努力が原因で言われる、という残酷な皮肉が効いている。

それを他ならぬうさぎが言う、亜美ちゃんのためを思う気持ちではなく
自分の気持ちに正直なだけの残酷な言葉をうさぎが言う。相手の気持ち
を救うために力強い言葉を接ぐこともなく、「お水とってくる」とその
場凌ぎを言って、つまりは自分の言葉や態度が亜美ちゃんを痍附けたこ
とを十分に知りながら、亜美ちゃんの気持ちを労ることよりも、自分の
辛さを優先して、張り詰めた緊張のなかに彼女を取り残して逃げ出す。

亜美ちゃんの辛さに接しても、うさぎが自分の辛さを押して相手を労り
救済する強い一言を発するという成り行きにはならない。これは、これ
までのエピソードの行き方とは大分違う。

たとえばこの場面を、真の友情に至るイニシエーションとして、それま
で胸に包んできた言葉を互いに正直にぶつけ合う一連ととる解釈もある
だろう。

しかし、正直な言葉を受け止めるためには、タイミングが重要だと思う
んだ。あのやりとりについては、最初の最初にうさぎが「本当の友だち
になれる本」を見附けてしまったことを亜美ちゃんに知らせたことで、
亜美ちゃんは決して冷静にはなれなくなってしまったと思う。

マニュアル本を見なければ友だちもつくれないほど「みっともない」欠
落を抱えた少女であること、それはだれにも知られたくない亜美ちゃん
の心の深奥に潜むコンプレックスだ。まして、初めての友だちであるう
さぎにだけは、決して知られたくない「死ぬほど恥ずかしい」秘密だ。

それを、うさぎ当人から「これはどういうことなの?」と言わぬばかり
の詰問調で突き附けられる、一人の女の子としてこれほど恥ずかしい、
情けない、辛く哀しい瞬間はない。

このような端緒を持つ会話が、冷静に進むはずなどはない。いちばん恥
ずかしい部分を晒け出してしまったことで逆上してしまった亜美ちゃん
の言葉は、どんどん「それを言っちゃオシマイよ」的な身も蓋もない赤
裸々な方向へズレていく。

亜美ちゃんの「あなたがこう言ったから私はこうした」「あなただって
喜んでくれたじゃない」という言葉は、こういう場面では決して言って
はいけない自分勝手な責任追及の言葉だし、「私が言ったのはそういう
ことじゃない」といううさぎの言葉にもやはり責任逃れのニュアンスが
ある。ここはかなり生々しい。

少女たちは、問題を解決するためではなく、自身の気持ちを抑え難かっ
たというだけの理由で、劇しい情感のままに語り合い、結果的には痍附
け合ってしまった。正直な言葉は、劇しい内実を含むがゆえに、あえて
語ろうとするなら、適切なタイミングにおいて慎重に言葉を選ばなけれ
ば意味がない。不適切なタイミングで、逆上してぶつけ合う直言は、単
にお互いを痍附け合うだけに終わるものだ。

ここでの生々しいぶつかり合いは、つまり情緒面での課題設定で、一種
の情緒的なカタルシスへのタメなんだと思うんだ。ここで設けられた情
感のタメが、クライマックスで過不足なく解消されることで、劇的なカ
タルシスは成立する。

オレの感覚だと、現状のラストの組み立ては決して間違ってはいないん
だが、ここのタメと引き合うだけのカタルシスの情動にはなってない
思うのね。ここの計算というのは非常にデリケートな部分だし、視聴者
の感覚の個人差が最も大きいところ。だからこそ、これはオレのごく個
人的な感想に留まるんだがね。

オレには「お水とってくる」の場面で、うさぎが不適切なタイミングで
直言をして、そこで波立った情感の決着を附けずに、痍附いた亜美ちゃ
んを残して逃げたこと、これがとても重く見える。

一方、オレの仲間内では、この場面については「正直に自分の気持ちを
吐露してくれたほうがありがたい、そのときはわからなくても、落ち着
いて考えれば理解できる」、そういうふうな意見のほうが多かった。

亜美ちゃんの自己変革や周囲との軋轢に重きを置いてみれば、まさしく
うさぎの一言は亜美ちゃんのためを思った忠言であって、その場を去る
のは亜美ちゃんに一人で考えさせるためととっても差し支えない。

おそらく、物語全体の組み立てから考えると、おおむねそういう解釈で
も間違ってないんだと思うんだが、オレはむしろ、亜美ちゃんの自己変
革それ自体よりも、うさぎ対亜美ちゃんの二者関係に重点を置いてこの
エピソードを観た。

そういう意味では、ドラマのテーマとドラマの肉体に微妙な二重性があ
るのかもしれない。正直なところ、オレの感じ方だと、亜美ちゃんの自
己変革や対他関係の改善は、うさぎとの二者関係に附随する派生的な主
題と感じられてしまうんだね。

今回のエピソードで最終的に求められていた解決は何かと考えると、亜
美ちゃんが変わることでも周囲に受け容れられることでもなく「うさぎ
が求めるような形の愛情に、亜美ちゃんが応えられるかどうか、そして
応えるのであれば、どのように応えるのか
」だったんではないか、とい
うのがオレの感じ方なんだな。.

うさぎの「もっとなかよくなりたい」「もっと楽しく附き合いたい」と
いう要求は、まさしく恋愛関係における二者間の愛情の在り方の問題と
重なるのではないかと思うんだ。愛し方、愛され方の認識に齟齬のある
恋人同士がその溝を埋めていく過程の葛藤と、等質の課題設定だったの
ではないかと思うんだね。

ぶっちゃけていうと、うさぎと亜美ちゃんの問題というのは、たとえば
恋人から「もっと愛情を言葉で表して」「もっといろんな所に連れてっ
てよ」と要求されて、それが自分のメンタリティにない愛情表現である
がゆえにどう応えていいのか悩む、という構図と等質だと思うんだ。

だから、「本当の友だち」を「本当の恋人」に置き換えても、今回の物
語は成立しちゃうんだね。「私たちって、オレたちって、本当に恋人同
士なのかな」「本当は、彼は、彼女は、自分のことを恋人と考えてはい
ないんじゃないか」と悩む話は、結構ラブコメにもたくさんある。オレ
には、今回のエピソードにおけるうさぎ対亜美ちゃんの二者関係は、
頭徹尾恋愛のメタファーで描かれている
ように思えたのね。

じっさい、女性同士の友情はハイティーンになるまで恋愛感情と未分化
だと聞いたことがあるし、そこを分明にする必要もないとは思うんだ。
一般的に女性同士の友人関係は、男性同士のそれと比べて、肉体的接触
が許されたり独占欲や嫉妬の感情が大きかったりと、いってしまえば同
性愛的な側面が強いようだ。

それを直ちに「女性には漏れなく同性愛的傾向がある」と断じるのは早
計で、女性同士と男性同士の友情にはそういう性差が一般的にある、女
性は恋愛感情と友情が未分化な時期が男性に比べて長い、という程度の
認識に留めるのが妥当だろうね。で、今回のエピソードでは、期せずし
てなのかどうなのか、物語の構造自体にそういう側面が濃厚に表れてい
たとオレには見えるんだよ。

今回のエピソードで、亜美ちゃんは周囲に溶け込めない自分に悩んでい
たのではなく、ひたすらにうさぎを喪うことを懼れていたのだね。うさ
ぎの要求どおりにできない自分の不全に悩んでいたのではなく、その要
求に応えられないことそれ自体に悩み、その結果、うさぎが自分から離
れていくのではないかと悩んでいたのだと思うんだ。

実は、ここには自己変革の悩みやその必要性の自覚なんか直截描かれて
はいないんだね。亜美ちゃんが変わろうと思ったのは、うさぎが望むよ
うな自分になりたかったからであって、あくまで亜美ちゃんの目はうさ
ぎ一人しか見ていない。

もちろんこれは「…という描き方になっている」という話であって、そ
ういう内実の物語なんだと言っているわけではないけどね。たしかに、
亜美ちゃんが自己変革の必要性を認識し変わろうと悩んでいることは、
表向きは明らかだ。第二話以降の物語は、そういうニュアンスを示唆し
続けてきたわけだし、アバンのモノローグでも「三人でいること」の心
地よさに触れている。その流れのなかで、たかが一つのエピソードの描
写がその大筋の流れを覆すというものでもない。

しかし、これまでの流れに対する一つの決算としてあるべきエピソード
の描写で、亜美ちゃんの心理がこのように描かれていること、そういう
現実もまた無視していいものでもないと思う。だから、あくまで個人的
な感想ではあるのだが、今回のエピソードには、テーマ=描写によって
表現される観念と、ボディ=具体的に描写されたものそれ自体に二重性
があると感じるんだ。

もちろん、女児向けの特撮番組でそんな淫靡なテーマが正面に浮上する
ことはあり得ないが、一種の隠しテーマとして意識的に描かれているの
であれば、ドラマ的な情感の落とし所はその二重のニュアンスの双方に
ケツを持つ必要があったんではないかと思うんだよ。

舞原監督の老練なところは、脚本に内在するこうした構造を見抜いて、
葛藤の緩解を肉体的な接触、女性同士の抱擁に落とし込んでいる辺りだ
と思うんだが、オレにはこのシーンはハッキリ恋愛の隠喩で描かれてい
るように思える。つまり、舞原演出はうさぎ対亜美ちゃんの二者関係を
番組で許されるギリギリのラインで、恋愛関係そのものとして決着させ
ていると思うんだな。

つまり、言葉ではなく肉体的な接触そのものがもたらすエロスで決着さ
せている。ここでうさぎが亜美ちゃんに抱き附くのが脚本の指示だった
とすれば、小林靖子自身がこうした構造に意識的であったのかもしれな
いが、抱き附かれた亜美ちゃんの表情のニュアンスがあのようなもので
あったからには、舞原監督にも暗に脚本の意を酌んだ明確な演出意図が
あったと思える。

それなのに、エピローグの部分の余韻が、急に自己変革や周囲との対他
関係の部分に落とし込まれているので、その「建前」に当たるテーマ性
と「本音」に当たるエロティックなニュアンスの折り合いが附いてない
ように思えるのだね。

じっさいには女性同士の同性愛的な友情の物語を語ってきたのにもかか
わらず、取って附けたように自己変革や対他関係という建前の地点に着
地させている、そのことに違和感を感じたといってもいい。

抱擁で決着するのは、あくまでうさぎと亜美ちゃんの二者関係における
諍いの情感の問題であって、それを建前どおりに自己変革のテーマに繋
げるにはそこに具体的な言葉の応酬があって、亜美ちゃんが自発的にう
さぎの要求に対する解答を表明し、うさぎがそれを受け容れるという理
の面での手続が必要だったような気がする。

たとえばラストで亜美ちゃんからの自発的なアクションがないまま、う
さぎが亜美ちゃんを一方的に「許容する」形で抱擁に至るのは、喧嘩し
た後の恋人同士が「おまえは全然悪くないよ、オレが悪かった、ぶちゅ
〜」みたいな成り行きで喧嘩を納めるのとあんまり変わらないと思うん
だ。つまり、この解決では、物語に内在する二重性の、建前に当たる部
分がうやむやにされている

こうした、ある意味下世話な感情の調停が成された後に再び建前的な部
分に復帰させるには、葛藤の根に当たる「言葉の部分」をうやむやにし
てはいけなかったんじゃないか、そこはハッキリ言葉で葛藤の決着を附
けるべきだったんじゃないのか、多分、オレが引っ懸かったのはそうい
う感覚なんじゃないかと思う。

そして、オレにとって「お水とってくる」の場面が過剰に重く見えたの
は、ここで本来うさぎに要求されていたのが、亜美ちゃんの自己変革に
対するアドヴァイスではなかったからだろう。

本音の部分でうさぎの愛情を求めている亜美ちゃんに対して、建前の部
分でうさぎが応えていること、ここで発せられるべきうさぎの言葉は亜
美ちゃんのこれまでの努力に対する理性的な批判ではなく、愛情に基づ
く労りであるべきだったと感じられたこと、そこに二人の間で決定的な
すれ違いがあると感じられたからだ。

最終的に「無理しなくていいよ」とうさぎが亜美ちゃんの気持ちを労る
のであれば、ラストではなくここで労ってもよかったはずだ。同じ内容
を語るのでも、この場面では「ウソだったらうれしくない」「いちばん
友だちっぽくない」という、批判の言葉になっている。

亜美ちゃん自身の自己変革の問題がメインならば、それも解決へ至る過
程の一つだが、二者関係の問題がメインととらえると、明らかにうさぎ
は、物語作法上、亜美ちゃんを痍附け二者間の葛藤を決定附けるためだ
けの言葉
を言わされている。

つまり、今週のうさぎは、これまでの「ヒーローとしてのうさぎ」では
なく、一人の等身大の女の子として扱われているんだな。一人の女の子
ともう一人の女の子の気持ちのすれ違いの物語が、痛々しく語られてい
る。ダークキングダムもタキシード仮面も、少女たちの繊細な物語に気
を遣うかのように、今回ばかりは遠慮がちだ。

交わされた言葉のタイミングと内容が、決定的にズレている。ズレてい
るからには、その具体的な言葉のやりとりによるズレがもたらす情感の
タメが、ラストできちんとズレを整復した具体的な言葉の噛み合いの形
で解消されるべきだったと思うんだ。

「月野さん」では隔たりがあり、「うさぎ」では抵抗がある、亜美ちゃ
んの気持ちのなかでは「うさぎちゃん」という辺りがほどよい立ち位置
なのだという筋道はわかるのだが、しかしそれが咄嗟に出た一言であっ
て、それを今まで亜美ちゃんを追い詰めていたうさぎが「亜美ちゃんら
しくていい」と認める筋道になっているのが、なんとなく「オマケして
あげた」みたいなスッキリしない印象を与えるんだね。

亜美ちゃん自身の意識的な言葉として「今はまだ呼び捨てにはできない
けど、『うさぎちゃん』じゃダメ?」という問いかけの形になっていた
ら、また印象は変わっていただろうと思うのね。前述のとおり、今回の
話は、うさぎ自身が課題の設定者なので、うさぎの側のポジティブなア
クションで解決するのでは、「可哀想だから勘弁してあげた」的な出来
レースの臭いがしてしまう。

亜美ちゃんがうさぎを「うさぎちゃん」と呼ぶことが、「うさぎって呼
んでよ」といううさぎの呼びかけに対して亜美ちゃんが見附けた答なの
はわかるのだが、そこに至るプロセスが、その呼びかけで生起した物語
上の設問に対する直截の解答になっておらず、狙いなのかミスなのか、
そこは今後のつながりで判断するしかないところ。

つまり、今週のお話には劇的なカタルシスがない。少しだけ勇気を出し
て水たまりを飛び越える亜美ちゃんの笑顔に被って、友情の欺瞞を声高
に語る女子高生たちの声が聞こえるアバンが、少しだけ辛い方向にバラ
ンスが破れているように、うさぎと亜美ちゃんの心のバランスシートは
呼び捨てで呼ぶかどうか、という最初の課題をクリアしても、ほんの少
しだけ剰りが出ると思う。

それは、今回の事件がAct.2 で張られた伏線の「解決編」ではなく、そ
の伏線によって生じた「別の事件」だからだろうね。今回の事件によっ
て、過去の伏線の解消は為されたが、今回の事件そのものが生んだ新た
な葛藤の根が今後に持ち越されている。

抱擁で決着するのは対立それ自体の調停だけであって、対立に至るまで
の葛藤自体は、たいがいなおざりにされてしまうものなのだよね。俗な
言い方をするなら、「抱いてうやむやにする」というやつだ。うやむや
にするからには、葛藤の根はそのままキャリーオーバーされてしまう
のだ。

レイちゃんという媒介者がいたことで、うさぎは亜美ちゃんの気持ちが
ほんの少しだけわかったし、亜美ちゃんもほんの少しだけうさぎとの距
離を詰めることができた。その一方で、互いを理解し合う過程で刺さっ
た諍いの小さな棘は、心の秘やかな深奥に放置された。

この棘を抜いて、ある程度の完結したカタルシスを今回のエピソード内
で与えるのであれば、亜美ちゃんが自力で何らかの解答を出すという明
確な形に持っていくか、うさぎが自らの過ちを認めて亜美ちゃんを慰藉
するか、どちらかの形であったほうがスッキリしたと思うんだな。

「私はあなたをうさぎちゃんと呼ぶ」という意志的な言葉になってさえ
いれば、その後のうさぎのリアクションがまったく同じでも差し支えな
い。亜美ちゃんが自身の力で答を見出すことで、少しだけ救われたとい
う印象は格段に違っただろうと思うんだ。

そこは明確な言葉のやりとりで語ってほしかったところだ。セリフで語
るべきところと語らざるところのバランス感覚は人それぞれだから、こ
こはベタでなくてよかったという人もいるかもしれないが、少なくとも
オレの感覚では、ここはセリフの芝居場だと思う。

「お水とってくる」の場面で、具体的なセリフのやりとりによる劇的な
行き違いの芝居場を設けただけに、もう少し力強いセリフの噛み合いで
行き違いの解消を描いてほしかった。そう望むのは、オレがこの少女た
ちの物語に、愛情ゆえの優しさを求めているからかもしれんな。

まあ、オレが求める「優しさ」というのは、行き違いが解消される芝居
を明確なセリフで語ってやることで、亜美ちゃんが少しでも救われたと
視聴者が信じられることなんだな。亜美ちゃんがそれと知らずに心に棘
を残したまま、宙ぶらりんな形で終わるのが、ちょっと耐えられないん
だよ。

そういう意味では、視聴者に対する優しさなのかもしれないし、それを
登場人物に対する優しさと言い換えても、大きな意味では変わらないと
思う。亜美ちゃんに対して、セリフで語ってちゃんとわからせてやって
ほしい、彼女がちゃんとわかったということを、オレたちにもわからせ
てほしい、という優しい物語を求める気持ちなんだね。

二〇分間の物語で、物語が物語として在るために、愛すべき少女を散々
笑い者にしていじめたわけだから、そのくらいの救いがほしいよね、と
いう情緒面の差し引き勘定の話なんだよ。この種の勘定は、いくら細か
く計算しても、きっと過不足が生じるものなのだろうし、人それぞれ受
け取り方も違うだろうから、このくらいにしておこうか。

|

Act.6 …神話怪人かよ。

なんつか、オレ的には今市市今市だったな。といって、どこが悪かった
という不満も見当たらないので、先週同様個人的な引っ懸かりの問題だ
とは思うんだが。

多分、いちばん醒めたのは、脚本だの演出だのというドラマづくりのテ
クニックの部分ではなく、ストリート系の不良が出てくる辺りじゃない
かと思う。

オヤヂの偏見でものをいうと、今時のああいう輩は悪質犯罪者と近似
ので(木亥火暴!!)、全体としては少女マンガ的な筋立てなのに、そこだ
け現実の犯罪者予備軍が(だから偏見だってば)出てくるのが、風俗的
な「てにをは」が合わなくてちょっと気持ち悪かったんだろうな。

同じ話でも、「他校のアコガレの先輩」みたいな道具立てなら、こうい
う気持ち悪さを覚えなかったと思うんだが、現実問題として校内の話に
するとお金と手間がかかりすぎちゃうんで、低予算実写番組生え抜きの
ホン書きとしては、習い性で自動的に避けてしまったんだろうな。

ここは、多少絵面がしょっぱくなってもかまわないから、体育館やグラ
ンド内の話で完結させてほしかったところだな。もしくは、不良たちを
校内のヘタレな鼻つまみという設定にするんでもよかったろう。

「あっ、あいつら高等部の○○だ、性格チョー悪くて最悪〜」みたいな
処理で構わなかったんじゃないかな。

最初にうさぎが不良たちに搦まれる場面でも、ああいうノリの不良だと
ナイフで脅したりスタンガンで麻痺させて拉致したりっつーシャレにな
らない連想がついつい働いてしまう(木亥火暴!!)。

普通の学園ドラマなら、ナンパな不良が男前の女子中学生に叩きのめさ
れて「覚えてろ」でちっとも不自然じゃないんだが、「見た目よりお子
ちゃまな不良で運が良かったなぁ」と要らぬ心配をしてしまった(笑)。
これはつまり、ああいうノリの不良たちが、しかも「校内の人脈」では
なかったからだな。

学園物のリアリティでは、女の子に袖にされた恨みからニセ手紙でおび
き出して笑い物にするくらいでも十分悪い奴に見えるんだが、それはあ
くまで「学園」という結界内のリアリティなんだよね。一歩学園の外に
出ると、あまりにも無思慮で衝動的な暴力や、逆に大人顔負けの悪知恵
を働かせた悪辣な「少年犯罪」が、現実世界には溢れ返っている。

一般の学園ドラマでも、ナイフをちらつかせる類の危険な不良は出てく
るけど、それは「学園という結界」の外部にある「怖い現実」の形で表
現されていて、校内の人物が校外の不良との交流で危機を迎えて…とい
う境界線上の物語として表現される場合がほとんどだ。

たとえば女子高生が主人公だった「仮面天使ロゼッタ」では、こうした
学園という結界も校外との境界も、まったくといっていいほど描かれな
かったからこそ、「学園ヒーロー物」という側面が表れず、「女子高生
がたまたまヒーロー」という性格の物語となったのだと思う。

そういう物語であれば、シャレにならない現実世界の怖さや汚さが正面
きって描かれていても、まったく違和感はない。単にそれは学園ドラマ
ではないというだけの話だから。

学園の外にも女子高生はいるのだし、そして、学園の外にいる女子高生
は、現実の怖さや汚さの一側面を形成してもいるからね。そして、学園
ドラマとは違うリアリティで、学園内のドラマを描くことだってもちろ
ん可能なのだ。

だから、たとえば何かが問題になるのだとすれば、それが学園ドラマで
あるにもかかわらず、学園ドラマとしてのリアリティが成立していない
場合や、学園ドラマのリアリティから醒める瞬間がもたらされた場合に
限られるだろうと思う。

なので、学園物と現代風俗の折り合い、現代的センスとファンダメンタ
ルな少年少女物語の舞台設定との、ほどほどの一線をキープする仕掛け
は、学園ドラマのリアリティを決定する重要なファクターだと思う。

とくにセラムンは、よくある学園ドラマのように「どことは特定してな
いが、多分東京市部の田園都市」という「人口密度が薄くて地理的な孤
立性の高い」と仮構できる舞台設定ではなく、「この現実とはちょっと
違う少女マンガ空間における港区麻布十番」という微妙な設定なので、
その辺の匙加減は難しいところ(笑)。

いずれにせよ地方局制作でもキー局が全国配信するドラマである以上、
「東京」もしくは「首都圏」が舞台となるのは宿命なのだが、「麻布十
番」ではあまりにど真ん中だよな。それが少女マンガ空間であることは
わかっていても、「東京の麻布十番」という記号は、あまりにも結界と
しての地理的な閉鎖性や孤立性が薄い。たとえ画面上に表れたその「麻
布十番」が赤羽や池袋だったとしても(木亥火暴!!)。

そういう、結界としての性格が弱い記号上の土地に、非常に現実的な見
かけの不良を置くことで、今回のようなきわめて少女マンガ的なリアリ
ティの物語から一瞬醒める瞬間があったんだな。一般的な学園ドラマで
ああいう形の「校外の不良」が出てきた場合は、結界外部の社会的な歪
みの象徴として「本当に悪い人たち」であることがお約束だからね。

本来的な学園ヒーローもののリアリティなら、ニセ手紙でおびき出して
笑い物にする程度の不良たちの可愛い悪事と、アヤシゲな術で拉致した
女の子のエナジーを喰い物にする妖魔のシャレにならない悪事を対照さ
せることで、未熟さゆえの心の次元で許されない悪事と、意志的に目論
まれた絶対的な悪事の対比が際立ち、日常の裏面に潜む「悪の組織」の
脅威が、「子どものごっこ遊び」とは違う次元のリアリティで成立する
んだと思う。

しかし、なんつーか、特撮ヲタのオヤヂの感覚からすると、悪の組織に
拉致されてエナジーを吸い取られるよりも、その辺の不良にラチられて
工事現場とか廃工場とか山ん中で輪姦されるほうが、よっぽどシャレに
ならなくてイヤだ
と思う(木亥火暴!!)。

まあ、不良少年の悪質化という犯罪形態は大都市に特徴的な現象だろう
とは思うから、大多数の小都市や小市町村の視聴者のリアリティでは、
ストリート系のスタイルがただちに悪質な少年犯罪を連想させるわけで
はないと思うんだけどね。むしろ、田舎でああいうオサレな恰好してる
子どもたちは、中央のファッションに憧れるほどほどに不真面目で社会
的には無害な子どもたちなんだとは思う。

また、不良たちにリーダーを「シュンちゃん」と呼ばせたりして、少し
子どもっぽい不良というニュアンスは残しているし、「こいつらは結局
ヘタレなお子ちゃまなんだよ」という、キャラ描写上の目配せが十分で
はなかっただけだとは思う。

そのせいで、バスケの試合でコテンパンに負かされることが、こいつら
にとっては、痍附いたまこちゃんの気持ちに釣り合いのとれるだけのダ
メージになるような見え方になっていないのが、ちょっと溜飲の下がら
ない部分なんだけどね。

また引いては、このバスケ試合に、まこちゃん本人が為し得ない心の敵
討ちを、義に感じた仲間たちが代わって行っている、というほどのカタ
ルシスがないために、まこちゃんがマジモンのピンチに陥っている間、
三戦士がつまんないことで遊んでいるようにも見えてしまう。ここが本
当に痛快なカタルシスになっていたら、クライマックスで話がバラけた
ような印象にはつながらなかったような気がするのだが。

つまりは、そこも不良たちのキャラ設計がちょっと違っていたんではな
いかと思うんだ。あんな不良たちでも、バスケの腕にだけは自信がある
ような描写や、バスケだけはマジでやっているような雰囲気、そうした
要素があれば、3on3の試合で負かされることに意味が出てくる。妖
魔退治に比べれば大したことはない乙女心の意趣返しにも、等分の重み
が出ていたろう。

現状では、まこちゃんがこの試合のことを知らないだけに、少女たちが
試合に勝つことに意味があるのか、不良たちが負けることに意味がある
のか、イマイチはっきりしない。基本的に、少女たちは携帯アイテムの
魔法の力で勝負しているので、勝つことそれ自体には意味はない。

しかし、不良たちが負けることにも意味が出ていないので、結果的には
未覚醒のまこちゃんがヤヴァイ状況に陥っているのに、先輩戦士たちが
魔法の力で遊んでいるような散漫な印象になってしまっている。

こういう個人的な引っ懸かりの部分を除けば、ガヤ+ガイシュツキャラ
総登場編であるにもかかわらず、人物の出し入れもスムーズで、ある意
味アニメで馴染んできたセラムン無印の世界観に最も近い雰囲気を実現
した好編ではあったね。ネフライトとジェダイトの嫉妬心を煽って競争
させているベリルの女王様ぶりも、短いセリフでよく表現されていた。

物語要素は、それこそ三〇分番組で描けるギリギリのヴォリュームの内
実を盛り込んでいてとくに散漫な印象もなく、演出技倆もそれに応えて
いて危なげがない。もっとも、先週の予告にはあったカットが目立って
削られているので、編集段階でかなりの取捨選択が必要とされたんだと
は思うが。

とくに、予告にあった「うさぎがまこちゃんにリップを塗ろうとして、
まこちゃんが拒む」
というカットは、予告でも長めに紹介しているくら
キャラ描写上重要で、捨てたのは惜しかったけれど、他の部分でも表
現されている事柄なので捨てたのだろうね。うさぎがまこちゃんを引き
回すシーンのテンポを優先したのかもしれないけれど、こういう部分を
含めての監督の判断だから。

こうしてローテの二話をまとめて観てあらためて感じるのは、舞原監督
の感覚としては、細部の描き込みと全体のバランスを天秤にかけた場合
は、絶対的にバランスを優先するということだな。「ここは重要な場面
だから、全体のバランスを崩してでも」あるいは「そこを起点にして全
体のバランスを設計」ということはないような気がする。

視聴者が番組を観ている間中、平均的に楽しめることを優先して作品構
成を考えているような気がするね。メリとハリ、見せ場とダレ場の計算
を全体の流れのなかで評価してくれるような観客を期待できないテレビ
ドラマの演出家としては、それが正解なのかもしれない。

心配された安座間の棒読みも、予告のセリフ以外ではそれほど気になら
なかったし、まあ棒読みということでは次回も(木亥火暴!!)。数カット
の決めポーズを観ただけだと、ノッペリと無表情に見えた安座間の柄だ
が、無表情は無表情なりに意外に面白い表情の動き方をする。

これは、それなりに出来た芝居の動きのなかで十代の少女のリアルな情
感の輝きが見え隠れするという沢井やハマチの見え方とは違って、純粋
に素の安座間の柄の面白さというだけの話だとは思うが(木亥火暴!!)。

とにかく、女が男をグーで殴ってあれだけ様になるのは、「ベルサイユ
のばら」のカトリオーナ・マッコール以来だと思う(木亥火暴!!)。カト
リオーナ・マッコールの場合は、そこしか女優としての見所がない辺り
が、将来的な不幸を予言していたりするのだが(木亥火暴!!)。

こういうガールズ特撮では、主演陣の割合としてどれだけ「ハズレ」が
少ないかが視聴動機に直結する要素だと思うのだが、下馬評的には唯一
の不安要素と目されていた木星の中の人がそれなりに魅力的であること
は、番組全体のファンとして嬉しいところではある(笑)。

もちろん、生身の役者が演じる以上、アニメやセラミュのまこちゃんと
は違うキャラになっているので、うさぎが屈託なく甘えられる母親的な
役柄としてのまこちゃんを期待していいのかどうかはまだ未知数だが、
実写版のうさぎは甘えん坊ではないので、そうはならない気がするね。

うさぎは今回のエピソードでも、地元の十番商店街を引き回して転入者
のまこちゃんを馴染ませるという、東京で居を転々としてきた人間には
有り難みの実感できる役割を演じている。

その一方では、まこちゃんの心奥にあるジェンダーのコンプレックスに
は無神経で、「男らしい」を連発してたりする辺り、これまでのうさぎ
像にあった正負の要素が一話のなかで余すところなく表現されている。
今週から少し前髪を揃えて眉を出しているのが、さらに意志的な表情に
見せているしね。

ポジティブな側面もネガティブな側面も引っくるめて、われわれ視聴者
は、主人公であるうさぎを、このようなものとしてすでに受け容れてい
る。そして、痍付いたまこちゃんの気持ちを労る言葉を発し、憤るうさ
ぎとその義侠に感じて共に立つ仲間という構図は、スケバン刑事などに
も見られる武侠小説的な醍醐味だね(木亥火暴!!)。

まあ、その報復行動が、与えられた被害に見合っているかどうかは前述
したとおりだが。

そして、まこちゃんの覚醒に至る流れを、ピンチに陥ったまこちゃんの
心象風景のなかに変身したムーンが割り込んでくる形式としたことは、
不可思議な感動とヒロイズムを実現しているね。神話怪人(笑)に襲われ
たまこちゃんを見捨てて逃げるタケルの姿に、過去の孤独の履歴がダブ
り、その回想中に直截変身したムーンが現れ、変身ブレスを与える。

ここはうさぎ視点ではなくまこちゃん視点で、変身した姿でムーンが現
れ変身アイテムを与えるという、最高にヒーローらしい演出になってお
り、まこちゃんの孤独に直截解答を与える形で出現しているのが非常に
ストレートで強い感動を生む。

ただ、この扱い方では、レイちゃんの覚醒のときよりも、もっと直截に
予定調和の過去解釈が語られている。自分たちが「仲間『だった』」と
いう決定論でまこちゃんの孤独を埋め合わせている。これは、レイちゃ
んのディレンマの場合よりも全然知恵がない解決だ。

そこがオレ的には少し気に入らない部分ではあるが、これまでに三人の
戦士が揃っていることで初めて醸し出される華やかなイベント性によっ
て、それが気にならない呼吸にはなっていると思う。

また、それ以外にも、亜美ちゃんやレイちゃんに比べて、まこちゃんが
孤独を感じている理由が漠然としすぎているという嫌いもあるだろう。
たしかに、ここで描かれたような状況で同じような孤独を抱えている人
は、現実にも大勢いるのだろうし、人が現実に感じる孤独にわかりやす
い唯一つの原因などないのかもしれない。しかし、物語はそれではいけ
ないのだと思う。

まこちゃんは、両親に死に別れたから孤独なのか、大女で女の子として
見てもらえないから孤独なのか、暴力的な人間だと誤解されているから
孤独なのか、それとも男運が悪いから孤独なのか、この辺がアニメより
もさらに漠然としていて、一つに絞りきれない。そして、これらの近い
ようで実は雑多な諸要素が、何らかのストーリーで有機的に結び附くの
かどうかも、現時点では定かではない。

視聴者としては、まこちゃんのどのような部分に共感して孤独を分かち
合えばいいのかわからない。どのような孤独によって規定された人物な
のかが把握できない。アニメのまこちゃんは、この辺の要素を整理して
男っぽい見かけの割に女らしくて惚れっぽく、つまらない男によく引っ
懸かっている人物としてそれなりに統一感を出していたが、少なくとも
今回の描き方では、それほど単純化したストーリーでは語られていない
ような気がする。

|

Act.7 …白獅子仮面かよ。

…というわけで、前回から過去のオンボロ特撮の怪人にオマージュを捧
げることにしたらしい妖魔の造形、今回はとうとう白獅子仮面かキカイ
ダー01かというくらい安い出来に(木亥火暴!!)。

さて、どうでもいい妖魔の話は措いといて、本編なんだが…まあ、とに
かく何も言わずに田崎に全話撮らせろ(木亥火暴!!)。

本来なら、こういうライトなブリッジのエピソードこそ、たかまる辺り
の余所者に撮らせりゃ無難なんだろうが、田崎竜太が撮ると田崎演出以
外の何物でもない出来になっちゃうのだなぁ、とやっぱり再確認。

冒頭の戦闘場面など、このコンテ、このカメラワーク、このカットワー
クでなきゃいかんのだよ。舞原監督も凡手ではないが、どちらかといえ
ばバラエティ寄りの演出家で、戦闘シーン自体にそんなに興味のある監
督ではない
ので、あっさりしすぎる嫌いはあった。今回ようやくセラム
ンならではと思われるアクションの描き方をもう一度観られたような気
がする。

スローモーションの入れ方一つとっても、たかまる演出みたいにただ切
り返して遅い絵を入れてるだけじゃない、ちゃんと緩急の呼吸でスピー
ディに見せている。こんなことは田崎監督に限らず戦隊生え抜きの監督
なら当たり前のことなんだが、非特撮ヒーローアクション系の監督ロー
テが四話も続いたので、久々の感がある。

後半の戦闘シーンも、亜美ちゃんに続いてレイちゃんまで戦線離脱で、
せっかく四人まで戦士が揃ったのに、かなーり絵面が寂しいが、アクロ
バティックな連携技に蹴り技を加え、短いながらも見所のあるシーンに
仕立てている。とくに、まこちゃんのダイナミックな柄を活かしたハイ
キックは、夙に待望されていたところ。敵のフェイントを見切ったうさ
ぎが、技を放つ瞬間をタメて一挙動で見返る呼吸も気持ちいい。

このローテから加わる鈴村展弘も、特撮ヒーローアクション出の監督だ
が、鈴村演出回を意識して観たことはないので、どういうアクション演
出になるかはわからない。しかし、これまでのローテでは、アクション
のわかる監督は三人中田崎竜太ただ一人だったので、鈴村監督にもその
方面で期待したいところ
だな。

また、女の子を可愛く撮ることにかけては、どうして演出が違うだけで
こうも違うかと思わせるくらい巧みな田崎監督だが、今回は初回ローテ
のように沢井の横顔をただ避けているだけではなく、横からのアングル
も積極的に入れているが、かなり良い表情を引き出している。衛がうさ
ぎの変身を目撃する場面でも、回転する鏡のミラーショットをとらえる
という雰囲気のあるワンカットが田崎監督らしい。

今回は変身しなかったレイちゃんも、素面の芝居を観ているだけで満足
できるくらい可愛く撮れているし、前回は多少表情が硬く見えた安座間
も、下ろした髪にキャスケットというのが、適度にアクティブで適度に
女の子っぽいバランスがいい。

ただ、「女の子の下っ腹に手を当てナニかを吸い取ると、カメの頭がム
クーリ
」という、見たままを説明したに過ぎないのに妙に下品に響く絵
面は、笑うとこなのかどうなのか、かなり悩んだ(木亥火暴!!)。

脚本とも関連してくるが、今回の話はハッキリいって他のどの話と比べ
てもさしたる特徴もない、話を進めるための話にしかすぎない。お話ら
しいお話といえば、元基をタキと勘違いしたうさぎが彼の誘いに乗って
トリプルデートをするという他愛ないものにすぎない。

ダークキングダムサイドの内部事情がもうちょっと語られ、セーラーV
の秘密がもうちょっと語られ、うさぎと衛の宿世の恋がもうちょっと進
み、レイちゃんとまこちゃんがもうちょっと口を利くようになっただけ
で、お話がちょっと進んだだけのエピソードだ。

後で振り返ると、「うさぎたちがもとき兄ちゃんたちとデートする話」
というだけで、あんまり記憶に残らないかもしれないが、一年のスパン
で考えると、レギュラーメンバー集結が一段落した後は、こういうふう
に「話をちょっとずつ進める」という手続の積み重ねが大事なものだ。

この「話をちょっと進める」ためのエピソードを、小林脚本と田崎演出
は、平均以上に見ていて飽きない三〇分のアトラクションに仕立ててい
る。たかまるや舞原監督ならともかく、このコンビだとどちらのネタ出
しなのかわからないが、うさぎと衛の恋の進展を描く手際も、ハンカチ
を小道具に元基をダシに使う辺り、凡手ではない。

ただ、こういうお話の芯が弱くバラエティで見せる話は、むしろ舞原監
督が得意とするところだし、たかまるが撮っても後々そんなに差し支え
が出ないという後ろ向きな意味でも、わざわざ田崎のローテに入ってい
るのが惜しまれる。できれば初期の戦隊みたいに、メインの田崎監督に
は四話くらいまで集中して担当してもらい、次に舞原、たかまる、鈴村
という順序で来ていれば、ここまでたかまるが叩かれることもなかった
んではないかな、と思う。

…いや、叩いてるのオレもだけど(木亥火暴!!)。

とにかく、今週は素直に観て素直に楽しめばそれでいい類のエピソード
なので、これ以上の論評は必要ないだろう。むしろオレ的には、今回の
エピソードを観る以前から心はすでに「イクヨー」「キナー」(違うっ
てば(笑))に行っているので(木亥火暴!!)、エピローグのレイちゃんと
まこちゃんの衝突を見て「キター!」になっているのだが(笑)。

|

Act.8 三重の物語

田崎演出の一応の見納めとなる第八話だが、まあ、扱ってる題材そのも
のは設定に絡むネタではあっても、先週同様ヒマネタの一種と言って差
し支えない。エピソードの芯となるレイちゃんとまこちゃんの衝突も、
予想通り「アヤセとドモンのケンカ」そのもの(木亥火暴!!)。

おせっかいノープロブレムな人情家のまこちゃんと、他者との依存関係
を嫌う「それとこれとは別よ!」のレイちゃんが、うさぎの甘えを巡っ
て対立するという構図は、そのままアヤセとドモンの関係に置き換え可
能だ(附録コラム参照のこと)。

では、レイちゃんとまこちゃんの関係とアヤセとドモンの関係の間で、
対称性の破れている部分はどこなのか、小林靖子個人の作物ではなく個
別の番組としてのセラムンを語るのだから、そこを論じたほうが意味が
あるだろう。

人物類型に関するセラムン個別の事情というのは、いうまでもなく、各
キャラクターについて、セラムンという作品世界を知る者の間に緩やか
な共有イメージが持たれている
ということだろう。

その前提のうえで、小林靖子的な戦隊キャラへのアダプテーションが加
えられるのであるから、つまりどうアレンジしてもレイちゃんは火野レ
イという共有イメージから大きく外れるわけにはいかないし、それは木
野まことというキャラについても然り。

それぞれのキャラクターについて、それをそれとあらしめる要素をすべ
て論っていくのはたいへんな仕事になるので、今回は彼女たちとうさぎ
の関係に絞って論じよう。

非常に単純化していえば、うさぎとの関係において、常に理屈ヌキに甘
いのがまこちゃんで、常に批判的なのがレイちゃんだ。あえて断ってお
くが、これはあくまでアニメ版においてそれぞれのキャラを立てる過程
で結果的に定着したイメージだ。

オレは実写版放映後にとりあえずコミックスを全巻読んだが、その範疇
においていうなら、コミックス版のキャラクターにはそういう性格附け
がない。だからオレがセラムンキャラの共有イメージとして語っている
のは、アニメ版のキャラクターと、それをベースとしてキャラクターを
解釈しているセラミュのキャラクターのことだ。とりあえず、そういう
前提で以下の話を聞いてもらおう。

アニメにおいてもセラミュにおいても、レイちゃんはうさぎの言動に対
して常に辛口のツッコミを入れ、まこちゃんは大らかに受け容れるとい
うパターンでそれぞれのキャラクターが成立している。

レイちゃんとまこちゃんの、それぞれのうさぎに対する関係性がこのよ
うなものであるとして、では実写版では、それにどのようなアダプテー
ションが為されているのだろうか。

「甘い」「厳しい」という関係性の位置附けが、親の役割のアナロジー
で語られているのは同じでも、アニメ版ではレイちゃんが口うるさいお
母さん、まこちゃんが大らかで娘に甘いお母さんとして、両者が母親の
両面を象徴するポジションにある
のに対し、実写版ではレイちゃんとま
こちゃんが父母の役割を分担している
というのがオレの意見だ。

ある意味、親の役割論でいえば、実写版のそれのほうがオーセンティッ
クな見方であるといえるだろうが、ひとまずアニメ版から順を追って見
ていこう。

アニメ版のレイちゃんは、元々サディスティックで攻撃的な類型に連な
る釣り目キャラであるがゆえに、主人公に対する態度が辛口のツッコミ
にならざるを得ず、うさぎという幼児的なキャラクターを中心に据えた
関係性のなかでは、口うるさい母親という側面が結果的に出てきた。

対するにまこちゃんは「気は優しくて力持ち」系の大女キャラであった
がゆえに、主人公の細かい欠点や幼児的な言動に拘泥せずに丸ごと抱擁
するような大らかさな母性を附与された。

いわば、それぞれのアニメ的なキャラ類型の必然として、うさぎを中心
とする関係性が決まったようなところがある。うさぎ自身が「ドジで泣
き虫な半人前ヒーロー」という一種ののび太キャラで、ツッコミどころ
満載だったからこそ、だれがどのようにツッコむかという部分でキャラ
同士の間合いが決定される部分があった。

これが、小林靖子的な戦隊キャラの類型にアダプトされた実写版ではど
うなるのかというと、まずそもそもうさぎがのび太ではない。今回のよ
うな甘えを、何の思慮もなく口に出してもおかしくないくらいに無定見
ではあるが、ドラえもんの助けを借りないと一人でトイレにも行けない
ような幼児的なキャラではない。

うさぎのキャラ設計については、過去に散々語ったので多言は費やさな
いが、ドジではあっても、うさぎはうさぎとして一人で立っている立派
なヒーローなのだ。そして、くどくも強調するとおり、実写版のうさぎ
の正体は小林戦隊におけるレッドなので、家族のアナロジーでは、幼児
的な娘ではなく熱血行動型の息子という比喩になる。

今回の話でも、対立のきっかけとなるうさぎの言動を、最初から宿題と
コンテストがかち合ったから助けてくれという虫の良さとするのではな
く、一度は宿題を済ませたのだが、うっかりノートを捨てちゃったので
間に合わない、というケアレスミスに設定している。これは実写版的な
うさぎの造形と、今回のようなエピソードを生起させるための「ドジ」
という共有イメージの折衷としてギリギリのラインだ。

しかも、結果的にはうさぎの独力で宿題はクリアしているのだし、自分
の甘えたおねだりが原因でレイちゃんとまこちゃんがモメ出すと、即座
に「忘れて」と取り下げ、レイ・まこの関係修復を第一命題とするだけ
の真っ当さはキープしている。これだけ真っ当だと、ツッコミのための
ボケにこじつけるのは難しく、引いてはうさぎの幼児性ゆえにレイ・ま
こに母性的な性格が生じるという成り行きにもなりにくい。

普通に対等の友人として「よかったら助けてくれないか」と持ち掛けて
いるので、うさぎのおねだりに対してとるリアクションは、それはその
まま、うさぎが提起した物語上の課題に対する、各々のキャラクター類
型上の「条件反射」ではなく、信念上の問題が露呈したということにな
るだろう。

さらに、それを巡ってモメるのは、スーパーティーンズモデルに見せ掛
けたアヤセとドモンである。うさぎのドジなんか衝突するためだけのた
だのダシにすぎず、をとことをとこの依って立つ信念を賭けたぶつかり
合いに発展するのは理の当然である(木亥火暴!!)。

結局うさぎのドジの後始末はうさぎ自身の問題として解決され、その解
決への努力が、我が身一身の都合を目的としたものから、二人の友人の
和解を念じたものに性格がシフトしている。

ただし、当たり前の意味での戦隊キャラよりも、セラムンのうさぎは行
動派的な無思慮のゆえに失敗を繰り返すレッドキャラなので、一種対等
の大人のキャラクターとして設定されているアヤセとドモンは、保護者
的なポジションに回らざるを得ない。リョウマがレッドとなった場合の
アヤセとドモン、という比喩がわかりやすいだろうか…いや、もっとわ
かりにくくなったな、多分(木亥火暴!!)。

セラムンの五人のなかでは、うさぎと友人同士であることが相互の関係
性で最大の問題となる亜美ちゃんと、どう描かれるかはわからない美奈
子を除けば、大人びたレイちゃんと元々母性的な包容力のあるまこちゃ
んは、うさぎに対して親の役割を受け持たざるを得ない。

その場合、口うるさいことがただの「条件反射」ではなく、理に基づい
てうさぎの言動を冷静に批判するレイちゃんは、ヒステリックに教条的
な命令を強圧する教育ママ的な位置附けではあり得ない。「理に基づく
禁止の言葉を発する存在」という、非常にオーセンティックな意味での
父親性が附与されてしまう。

一方まこちゃんは、うさぎの言動が理に照らして正しいことかどうかに
は拘泥しない。うさぎとの関係性がプライオリティとなって、まず一旦
うさぎのすべてを受け容れる存在だ。ことに、先週から描かれているま
こちゃんの常態としては、恋愛方面に限らず人間関係の機微全般につい
て非常に気の回る世間知のあるキャラクターとして描かれていて、強い
賢母のイメージが生起している。

これをまた単純化していえば、今回の話は、レッドを巡ってアヤセとド
モンが対立する話であると同時に、息子の軽率な発言を巡って対立する
父母の和解を描く物語であるといえそうだ。そう考えたうえでもう一度
今回の話を視てみると、アメリカのホームドラマでよく描かれているよ
うな、息子の怠慢を巡る父母間のもめ事エピソードと類似のテイストを
持っている。

ただ、今回の物語がストレートにこういう比喩のままに納まらないのは
明らかで、それは結局二人の対立が、いつまでもうさぎ中心では回って
いかないからだな。

ホームドラマのアナロジーでは、家族は実際に血縁上の家族なので、た
とえ両親二人の間の問題になったとしても、その間には必ず子どもの存
在が挟まっているが、セラムンの場合は擬似家族にすぎないし、入れ子
のようにレイちゃんの現実の家族の問題が課題として設定されている
で、あくまでアナロジーに留まるのみだ。

今回の話では、レイちゃんとまこちゃんが対等の扱いで描かれる対立話
である一方、設定面の課題を抱えているのはレイちゃんで、まこちゃん
はその救出者の役割を演じている。物語の中心はうさぎではなく、あく
までこの二人にある。

さらに、話の落とし所としては、レイちゃんとまこちゃんが対等に互い
を理解したうえで和解するという話になっているが、レイちゃんの理に
落ちすぎる言動の根幹に、父親との確執に基づく欠落があるという形に
なっているのが、いっそう事情を複雑にしている。

だれもが想起するとおり、この話はタイムレンジャーの竜也と岡本富士
太演ずる父親の確執の物語のヴァリエーションであり、父親との和解が
実現されない限り、本当の意味では着地しない物語だ。芯の芯の部分で
は今回の物語の主役はレイちゃんだという言い方もできる。まこちゃん
は単に、レイちゃん個人の事情に対して善意の傍観者的な立場で介入し
ているにすぎないからだ。

つまり、この話には、うさぎ・レイ・まこの三者関係の側面と、レイ・
まこの二者関係の側面と、レイちゃん個人の事情という三重の中心があ
る。レイちゃん個人の事情については、今回の話に関しては未だに関係
性の物語としては生起していないので、「家庭事情」という概念的な課
題にまつわる物語の性格になる。

小林靖子のこれまでの行き方を考えると、「固有の事情」という概念的
課題のままにレイちゃんの物語が完結することはあり得ない。いずれ必
ず父親である火野が登場し、再度娘と対決する成り行きになるだろう。
そうでない限り、レイちゃんの父親は冷血な偽善者のままで、そういう
父親を持つ欠落を、この先もレイちゃんは抱え続けることになってしま
からだ。

小林靖子的なドラマ観では、死んだ母親の命は取り返しがつかないとし
ても、父親もレイちゃんも生きて未来のある存在なのに、互いの関係性
を修復せずに終えるのは、怠慢でしかあり得ない

タイムレンジャーにおける竜也と父親の確執も、父親が息子を理解する
ことと、息子が父親を理解することを個々に描き、そのうえでさらに相
容れない生き方として対立を設定し、対立の結果として互いを認め合う
に至るという丁寧な手続を踏んでいる。親父の会社なんかオレには関係
ない、あんな奴は息子とは思わない、こういう距離感で物語が完結する
わけにはいかないんだな。

そして、これまではタイムとセラムンの間で対称性の破れている部分に
着目して視てきたわけだが、この父子対決の構図については、ほぼこの
両者は重なり合ってしまう。

レイちゃんは、その異能を疎まれて父親に棄てられた子どもではあるの
だが、父親の愛情を求めるゆえに苦悩しているのではない。これを額面
どおりに取っていいかどうかはさておくとして、レイちゃんが父親につ
いて抱いている感情は、現時点では、その冷酷さと偽善、身勝手さに対
する憤りであるかに見える。

心の底で父親の愛情を求めているがゆえの、棄児の孤独や欠落というふ
うには見えないのだな。竜也と同様、父親への不信と強制への反撥、そ
ういう側面から対立が設定されている。だから、父親と離れていても、
家庭の欠落という意味での孤独が中心的な課題なのではない。

父親に棄てられたことは自身の異能を見詰める契機にすぎず、異能ゆえ
の迫害ということでは、周囲の人間と父親は同列である。彼女にとって
父親にまつわる問題というのは、「親子ごっこ」や「理想の親子」を演
じる偽善性、そして母の臨終を看取らなかった冷酷さ
であって、あえて
父親との関係性でいえば、血に繋がる父親に対する軽蔑それ自体と、血
縁の逃れ難さそのものが課題の中心だ。

課題設定がこのようなものであるからこそ、暫定的な落とし所とはいえ
今回の話が、父親の束縛からの逃走という形で決着しているのだ。未だ
に彼女の物語では、父親その人を指向する関係性の物語は生起していな
のだな。

で、今回のエピソードの構造は、こういう関係性の生起していない内面
的な物語が芯の芯にあって、それがまこちゃんとの二者関係として中心
をつくり、さらにうさぎとまこちゃんとの三者関係の中心をもつくって
いるという、ちょっと複雑な構造の物語になっているのだな。

オレ個人の見方としては、これはちょっと要素の詰め込みすぎではない
かと思う。この三つの中心がピッタリ重なっていたとしても、同心円が
三つでは三〇分のエピソードの構造としては複雑すぎるし、じっさいに
は場面場面で少しずつ偏心しているのではないかと思う。

つまり、今回のお話は、よくできてはいるが、だれにウェイトを置いて
観ればいいのかがちょっとわからない。だれもがオレらセラムン廃人の
ように数十回も録画を観るわけではないので(笑)、話の中心を担う人物
はもう少し単純化したほうがいいのではないかと思う。ここ数話の小林
脚本には、こういう複雑性が見え隠れしていて、ちょっとバランスが危
うい嫌いはあるんじゃないかと思うね。

さて、せっかくの田崎さよならエピソードなのに、演出についてはまっ
たく触れないできてしまったので、ここらで田崎演出に目を向けること
にしようか。

しかし、正直なところ、今回のエピソードではAct.7 よりも脇の甘いと
ころが散見されて、ちょっと拍子抜けした部分もあるね。こういうタイ
ミングで批判的な意見をいうのも気が退けるが、どうしても今回のエピ
ソードについては、重箱的な論旨に終始せざるを得ないだろう。

たとえばレイちゃんとまこちゃんがホテルの一室を脱出する場面、これ
がどういう段取りになってるのか一見してわからないのは、日頃の田崎
演出らしくない気持ちの悪さだね。

最初オレは、二人が室内からルームサービスを呼んで、まこちゃんがテ
レティアSでルームサービスのヒトに変身して入れ替わったのかと思っ
たんだが、だったら二人が脱出したあと、本物のルームサービスのヒト
がどうなったのか、いっさい説明がないのはおかしい。

そこで、ルームサービスの職員は最初からまこちゃんの変装だったと解
釈して、それならワゴン車が最初から台車にガワ附けただけの贋物だっ
たのも理解できると思ったんだが、そうなると今度は、いつまこちゃん
が見張りに気附かれずに部屋を脱出したのかがわからない。

よくよく録画を見返すと、どうも最初に入ってきたルームサービスのヒ
トはまこちゃんではないようなので、最初の解釈のほうが正解だったら
しい。だとしたら、二人が脱出に成功したタイミングで、当て身を喰ら
わすなり縛り上げるなりして身体の自由を奪った本物の職員のヒトを、
ワンカットでもインサートしないと説明が成立しない。

ひょっとして、無関係な第三者のホテル職員の身柄を暴力的に拘束する
のは、正義の味方としていかがなものかという判断で差し控えたのかも
しれないが、こういうテンポで見せるような活劇のシーンで、説明上必
ず必要な画が落ちるのはちょっと痛い。

説明のための説明ではなく、気持ちよいテンポをつくるため、こうした
疑問を感じさせないためには必要不可欠な説明なのだから、どうしても
ワンカットを入れるべきだったはずだ。

それがわからない田崎監督ではないはずだが、どうしようもない事情が
あったとしても、ここ一番の見せ場でこういうミスは痛い。じっさいに
初見でここに引っ懸かったということは、その画を入れなくても成立す
るかもしれないという目論見が、不成功に終わったということなんだか
ら、明らかにミスだろう。

まあ、ああいう穴開きテーブルの仕掛けを短時間の間にいつつくったん
だ、だいたいあそこに穴開ける意味あるのか、というのは、番組のリア
リティレベルからしてそんなに気にならなかったが(笑)、細かいコトが
気になるヒトは、あの穴が移動しながら会話する芝居を附ける「だけ」
のための仕掛けなので、作為性が気になるかもしれないね。

こういう部分を見ると、なぜか前回の露骨にヒマネタなエピソードより
も、割と設定話に近い今週のほうが、それもとくに後半のほうが、田崎
監督のモチベーションが低かったように感じてしまう。

今挙げたような致命的な難点以外は、いつもの田崎演出らしい巧さが見
られるだけに、何とも不可解ではある。邪推すれば、あまりにも唐突な
「実は当初からの予定で来週で降板」という発表はウソで、何かこの撮
影の当時に動きがあっての降板劇かも…と勘繰りたくなる(笑)。

…というわけで、類型や構造面での問題を中心に話す過程で、結果的に
最後の田崎演出を批判するような気持ちのよくない形になったが、こう
した疑問を解消するために、何度かOAを見直したところ、大分事情が
わかったような気がしてきた。

前回の予告を観た瞬間からバレバレの話なのだが、三〇分一話完結の特
撮番組で、黒服の大男が未成年を略取している絵面が描かれたら、それ
は離れて暮らす親による「意に染まぬ連れ戻し」のサインである(笑)。
これはもう、昔からそう決まっているのだとしか言い様のない決め事な
のである(笑)。

ただ昔といっても、精々八〇年代までを遡るにすぎず、少なくとも七〇
年代までは、本物の犯罪者による営利誘拐というネタがアリだった。た
とえば初期のウルトラにおける山田正広脚本の少年物などでは、黒服の
大男は額面どおり現実の犯罪者の象徴だった。

平凡な日常を送る少年少女たちが、ふとしたきっかけで大人の世界の犯
罪事件に巻き込まれて大冒険…という、オーセンティックなジュヴナイ
ルの路線をそのまま継承していたわけだ。大人の世界に対する憧れと不
安、大人顔負けの活躍をする少年たちへの共感、そうした年少の読者・
観客の期待に応えるのが、この類型のエピソードだったわけだな。

ところが、おそらく東映の等身大変身ヒーローの隆盛からだと思うのだ
が、この種のヒーロー活劇で、現実的な犯罪者が扱われることは少なく
なってきた。大本の仮面ライダーが、そもそも一種の組織犯罪と対決す
る、当時の時点では「リアルな」設定の番組で、子どもが犯罪者と対決
するというジュヴナイル的なエピソードの入り込む余地がなくなってき
たという事情もあるだろう。

子どもを誘拐するのは、ショッカーなどの敵組織の一手独占で、現実的
な犯罪者の出る幕がなくなったのだな。で、ショッカーと対抗する力を
持つのは変身ヒーロー以外にはないわけで、ライダーの五郎辺りを最後
として、ジュブナイル的な人物造形によるガキの登場は少なくなった。

それ以外にも、まあ、ぶっちゃけた話、だんだんこの頃から視聴者のガ
キがマセてきて、大人の犯罪者相手に小生意気なガキが大活躍する話に
拒否反応を示すようになってきたからではないかと思う(笑)。

代わりに、というワケでもないだろうが、少年少女を中心に据えたエピ
ソードでよく見られるようになってきたのが、この「意に染まぬ連れ戻
し」の物語類型だ。いわく、公務に飽きた某国のプリンセス、仕事づく
めの毎日から逃げ出したアイドル、両親の不仲に悩んで家出した金持ち
の御曹司等々、情緒的な問題を抱えてハイソサエティや公的な立場から
逃走する少年少女を、ボディガード的な立場の大男が追い掛けるという
エピソードの類型は、枚挙に暇がない。

おそらく、この類型の大本は「ローマの休日」辺りにあるんではないか
と思うが、大昔にテレビで見たきりの泰西名画を隅々まで覚えてるほど
オレもクラシックファンではないので、これも明言は避けよう(笑)。

現在一般的に特撮番組で用いられているパターンというのは、少年なり
少女なりが黒服の大男に無理矢理車に押し込まれそうになっているのを
ヒーローが目撃し、反射的に手を出して助けてしまい、最初は事情を明
かさなかった少年少女の虚言に振り回されるうちに心の交流があり、事
情を打ち明けられたヒーローが少年少女の抱える情緒的な問題の解決に
一臂を籍す、というものだ。

まあ、類型論ばかり延々続けてても仕方ないのでこの辺にしておくが、
要するに「見るからに怪しい黒服の大男」というのは、この現代におい
ては額面どおりの存在であることは滅多にない。それは概して、主人公
と視聴者を欺いて事件に関わらせるためのミスリードであり、この類型
が一般化した後は「お約束」の一つである(笑)。

ようやくセラムンの話に戻るのだが、このAct.8 においては、そもそも
ストーリー構築の段階からこの類型を一種の素材として扱っている節が
ある。つまり、こういう類型の話をそのまんまやるのではなく、「意に
染まぬ連れ戻し」=「家庭的な問題」のコードとして扱っているという
ことだ。同様に「黒服の大男」という手垢の附いた約束事を、まこちゃ
んを絡ませるための約束事と割り切って使っている。

前述したような「詰め込みすぎ」という印象は、こういう物語作法にも
関連しているのではないかと思う。

井上、武上辺りのベテランの書き手には、ガキの視聴者のリテラシーの
限界というのが感覚的にわかっているので、ある種俗に落ちるようなハ
コを組む意識、つまり「今時、こんなだせぇ話書いてんじゃねぇよ」と
ツッコまれるだけの俗っぽさに甘んじる意識がある。今回の話を彼らが
書いたら、「意に染まぬ連れ戻し」の類型をメインのハコに据え、要素
を単純化して古色蒼然とした交流話を書いただろう。

だが、小林靖子の「本気モード」はそうではないのだね。今さらクドク
ドと小林靖子を褒めるのも気が退けるが、このヒトは今時珍しいインテ
リジェンスのある脚本家であると同時に、ヒーロー特撮のヘビーなマニ
アでもある。

特撮番組というジャンル内で活きているコードを駆使してまで、三〇分
で描けるドラマのギリギリのヴォリュームを探っているのが、ここ数話
の行き方だったと思う。これを、彼女が視聴者に投げた球を全部捕るつ
もりで観ようと思ったら、オレの年代の視聴者ですら、三〇分間丸々の
緊張を強いられる。

これは、こういうジャンルの番組のあり方としてどうなんだろう、とい
う危惧がないでもないんだな。もちろん、彼女の球を全部捕る義務なん
か視聴者にはないんだし、そうでなくても楽しめるようにはつくられて
いるが、たとえば、特撮分野では絶大な支持を集める彼女も、アニメの
仕事では「特撮のときほどおもしろくない」と評価が低いけれど、ある
意味アニメの仕事のほうがまっとうなのだと逆説的に思う。

視聴者のリテラシーを奈辺に置くか、というのは、どんなメディアであ
れ、送り手と受け手のある分野では宿命的な命題だ。ガオの武上やライ
ダーの井上は、コアなファン層にそっぽを向かれるような仕事で、逆に
ポピュラリティを獲得した側面もある。

思い切ってリテラシーを低く設定するのも、こうしたメディアでは必要
な場合がある。広く一般受けするためにはリテラシーを低く設定する必
要があるし、その場合のパイはジャンルファン以外をも含める加点法に
なる。逆に、非常にマニアックな路線でリテラシーを高く設定した場合
は、そうした指向性に感受性のある層という限定されたパイを残らず浚
う減点法の問題になる。

視聴率という顔のない数字をプライオリティとするテレビ番組は、もち
ろん基本的には不特定多数に向けた加点法を指向するので、小林靖子が
この方向性でセラムンの脚本を突き詰めていくことは、オレらのような
コアなファンには嬉しいことでも、かなりラディカルな賭けではあると
は思うんだな。

じっさい、今回の話が「詰め込みすぎ」であることは、前述の籠抜け描
写のミス以外にも、たとえば、車で連れ去られたレイちゃんの行方を、
徒歩のまこちゃんがどうやって突き止めたのかとか、省略の話法が部分
部分で有効な省略の域を超えていたりする辺りに表れていると思う。

たとえば、普通ルームサービスのヒトと入れ替わったのであれば、本物
の職員の衣装を奪って着替えたと思うのが一般的だが、セラムンの場合
には、テレティアSによる変身という裏技がある。続けて観ているファ
ンならば、小道具を使った変装の場面が描かれていなくても「あ、テレ
ティアね」とピンとくる。

ただ、これも省略していい描写かといえばそうではないと思う。番組独
自の約束事は、基本的にその都度カットを入れて強調するのが、こうい
う連続ドラマの場合には必要な手順だと思う。

まこちゃん手作りのナコナコ衣装も、「うさぎのためを思って」の準備
と考えるか、それとも、秘密基地で言った「ぬいぐるみに興味ないし」
という発言がそもそも嘘なのだから、最初から自分も内緒で出るつもり
だったのではないかと考えるかで、大分キャラクターのニュアンスが変
わってくる。

オレ的には段取りからいって後者のほうではないかと考えるのだが、そ
うすると、まこちゃんの虚言やコンテストの準備が、女の子っぽい行為
に対する羞恥心というまこちゃん個人の課題に関わる描写になって、大
分解釈の意味が違ってくる。

もちろん脚本が省略した描写は演出で補うこともできるが、実現された
映像を視る限り、田崎監督が演出で省略を補えるだけの余裕がまったく
なかったのではないかと想像される。

場面場面で、監督が尺を加減するだけの余裕がなかったからこそ、監督
が演出家として拘った場面の尺を最低限コントロールした結果、残りの
尺の余裕がなくなり、省略が省略にしか見えない局面が出来したのでは
ないだろうか。

具体的には、例の「行くよ〜!」「行け〜!」の場面を、あのモデラー
トな高速度撮影の呼吸で語ること、これが今回の田崎演出としては譲れ
ない一線だっただろう。

実際OAを何度も観て、たとえばオレが最前挙げたような難点を、何か
インサートして補う余地があっただろうかと考えた場合、どこかのシー
ンを丸ごと削る以外に方策が思い附かない。しかし、今回の作品でどこ
かを削る場合には、あまりにも各部の要素が密接に物語の必然として語
られている
ために、現場処理では間に合わなくなってしまう。

本来的には、脚本が意図的に省いたことを映像として膨らませるために
は、もう少し要素の刈り込みがあって然るべきだっただろう。そういう
意味では、脚本単体として視た場合には優れた脚本ではあっても、演出
への配慮に欠ける仕上がりだったといえるかもしれない。

このヴォリューム感では、小林靖子とは別人格の、一人のクリエイター
としての田崎竜太が、映像に何かを託する余裕がない。ここを引っ張っ
て存分に歌わせて、ここを引き締めてタイトに、というような全体の尺
の調整、メリハリの計算が難しい。脚本が描かなかった何かを、演出家
のアイディアで入れるための余裕がない。おそらく、今回のエピソード
で田崎演出の冴えが見られなかったのは、そういう部分にも由来するの
ではないだろうか。

たとえば毎週のルーティンとして視た場合、今回のクライマックスには
タキシード仮面の出番がない。前回のムーンの正体露見を受けて、次回
大々的なタキ話を展開するため、今回は出現を控えたのだと思うが、毎
週バカにならない尺を消費する約束事の要素が一つ抜けたというのに、
この余裕のなさはどうなのだろう。

…うーむ、やっぱり批判的な論調になっちゃうなぁ(笑)。

それというのも、たとえばAct.7 で予告と本編を比べた場合、明らかに
カットされた部分があったこと、それが割と重要な描写に絡む要素だっ
たこと、そうしたことがこの先どんどん増えていくんじゃないかと危惧
してしまうからなんだね。

ことに、舞原監督辺りのベテランなら、ある程度場面場面の重要度のバ
ランスや、帳尻合わせの計算が期待できても、脚本読めない某監督やラ
イダー外されてブーブー言ってる某監督辺りでは、脚本の機微が読めず
に生命線をバッサリ切っちゃう懼れが多分にある(笑)。

田崎監督が田崎演出の水準をキープして横綱相撲を押し通していたら、
そんなに心配はしなかったんだが、今回の脚本は、良き女房役の田崎監
督をしても一応の帳尻合わせが手一杯だった。そこの現実性を見失うほ
どに、小林靖子の極北を指向する情熱は突き抜けてしまっているのか、
それが心配なんだよなぁ。

従来の番組における小林脚本には、自身の指向性をほどほどに折衷して
演出家の領分を侵さない節度があったが、どうも最近のセラムンでは自
身の指向性ばかりが突出しているきらいがある。くどくも繰り返すとお
り、今回の脚本は非常によくできていると思うが、田崎監督に対しては
何も残してやっていない。

おそらく今回の田崎監督の「取り分」は、先の逃走シーンと、正装した
レイちゃんが、戸惑いするように弄んでいたハイヒールを棄てて裸足で
一歩を踏み出す場面の機微に留まるだろう。それ以外では、小林脚本が
強いる複雑な機微を十全に表現するために、映像的なテクニックを駆使
することに徹している。

女同士の和解の芝居を、たとえばハリウッド映画の女同士の友情ものの
雰囲気で(芝居の附け方が、たとえば女二人で飲み明かした後のナイト
ロケの雰囲気だよね)とか、例の逃走シーンがどことなくヌーベルバー
グの雰囲気を模していたりとか、映画的な引き出しを駆使して女同士の
対立と和解の物語を盛り上げている。

田崎監督の降板が本当に予定どおりだったのなら、この局面で小林靖子
は、田崎監督に花道を残す選択ではなく、信頼できる田崎監督の手腕を
見込んだ自己実現のほうを選択したことになる。

事情を知らない一部外者のオレには、それが何となく冷たいように見え
るんだが、多分現実的には、もっと複雑な東映内部の社内事情があるの
だろうね。

白倉Pと共に東映特撮の次代を背負う、エース監督としての田崎竜太の
立場、特撮ヒーロー番組というジャンルの直中で、常に極北のドラマを
目指す小林靖子の立場、さらには、近年東映特撮とのタッグで目立った
実績のないTBSをキー局として、地方局で制作される実写版セーラー
ムーンという番組の複雑怪奇な成立事情。

奇跡的なキャスティングの妙もさりながら、出発点において、白倉、小
林、田崎という東映特撮第一線の人材を得たことは、この番組にとって
実に幸福なことだった。

これまで長々とこのエピソードについて批判的な意見を展開してきたけ
れど、それらの難点が容赦なく減点されると仮定しても、たとえばたか
まる演出とは次元の違う出来なんだから、許すか許さないかでいえば、
オレは当然許すよ。だからこそ、このコンビについての意見は、そもそ
も次元の違う問題なのだということだ。

オレ自身がとくに高踏な意見を吐いているんだと衒っているわけではな
くて、この脚本、この演出がここまでのレベルで勝負しているのを見せ
られたら、このコンビネーションで成し遂げられた作物のレベルを可能
な限り見極めて、そのレベルでものをいわなきゃ嘘だ。

一般的な意味での可否を問うているわけではなく、小林靖子が目指す地
点を見据えたうえで、その地点における可否を問うのでなければ、難癖
を附ける意味もなかろうぜ。

たまたまオレたちはこの番組に普通以上に入れ込んでいて、しかも何度
も録画を観て意見を整理してコメントを書くだけの私生活上の余裕があ
るけれど、そうでなくて精々一、二回録画を観るだけの余裕しかなかっ
たら、批判の生まれようもないくらい高次元の作品だ。

残念ながらというべきなのか、今時大人向けのドラマでもこの水準に達
しているような脚本、演出は少ないだろう。それを考えたら、今回だっ
て普通の番組レベルのおもしろさでは満点の出来といっていい。

そういう突出した次元の映像作品が、土曜日の朝七時半からの幼女向け
番組で成立しているという事実、目指す地点の志の高さ、これがオレに
細かいことをウダウダ書かせているんだな。

小林脚本についていえば、実際に撮られた映像から原テクストとしての
脚本それ自体を逆算すると、描こうとする内実と実際に書かれた脚本の
記述のレベルは、もはや職業ライターのアベレージの仕事のレベルでは
ない。ダレ場や段取り芝居の場面に至るまで、全体と有機的に噛み合う
ように考え抜かれたセリフがちりばめられている。

たとえば、毎回毎回ダークキングダム内部のドラマとして描かれる、ク
イン・ベリルの決めゼリフの冴えはどうだ。「愚かさも愛おしく思えて
こようというもの」の回りくどさ、「わらわの愛を得たいと懸命な者の
ほうが、口ばかり動かす奴より愛おしいとは『思わぬか?』」と当のネ
フライトに問う辺りの機微、このダイアログの冴えは尋常ではない。

単に決めゼリフそれ自体として素晴らしいだけではなく、クイン・ベリ
ルが四天王たちを愛欲の機微で操る手管の一端として、強烈に掛け合い
のテンションが漲っている。この脚本あればこそ、少ない出番ながら、
杉本彩演ずるベリルの存在感には圧倒的なものがある。

またこのベリルの老獪な手管が強烈に表現されているからこそ、セリフ
のうえに表れてこないジェダイトの心情が健気なものにも映ってくる。
じっさい、ここ数話でジェダイト株が急騰し、ネフライトの姑息さに気
を揉む視聴者が急増していると聞く。

それを映像化する田崎演出については、そうした脚本の意図を隅々まで
見抜いていて、間然するところがない。ある意味、駆け出しのぺーぺー
で、おまけに文才のないたかまる辺りに小林脚本が読めないのも無理の
ないところがあるんだな。

セラムンの小林脚本は、映像作品の構成要素が、それ単体ではなく、全
体のなかでの有機的関連性において初めて豊かな内実を持つという、ご
く当たり前の認識に基づいて書かれている。その場その場のセリフや掛
け合いのおもしろさにだけ気を取られていたら、全体構造において初め
て立ち現れてくる緊密な意味連鎖に気附きようもない。

田崎監督は、あの555劇場版ですら出演者に「この場面のこのセリフ
にはどんな意味があると思う?」と考えさせた逸話を持つ、徹底的に脚
本を読み込み、役者の芝居を重視するタイプの演出家なんだけど、一方
ではテクニカルな見せ方にも意識的な部分がある。

たしかメガレンだったと思うけど、当時社会現象となっていたエヴァの
OPを見て刺激され、音楽のリズムとカッティングを合わせて格好良さ
を出す手法をメガレンのOPで試みたと語っていた。

その意識あればこそ、「すごすぎ!いけてるスーパーみく」のエピソー
ドのクライマックスで、ED曲の「気のせいかな」を効果的に使ったリ
リカルな演出が実現した。映像作品におけるリリシズムの問題は、一方
ではテクニカルな手法上の問題や、映像表現上のアイディアの問題でも
あるんだな。

この脚本とこの演出の組み合わせでいえば、緊密に構築された意味構造
としての脚本を過不足なく読み解き、生身の役者の芝居として受肉させ
る過程において演出家自身の表現意図を加味し、プラスαの映像表現を
駆使して、1+1以上の作品を成立させ得る理想的なコンビネーション
だと思うのね。

だから、小林脚本の理想型を実現し得るのは、現時点の東映特撮の人材
では田崎竜太を措いて他にはいないと思うし、田崎演出エピソードから
逆算して、小林靖子がこのメディアにおいて成し得る作物の上限が決定
されると思うんだ。つまり、田崎竜太に効果的な演出ができないような
脚本は、現実的には実現不能
だということだ。

そういう意味で、許せる許せないの問題としてではなく、田崎竜太の力
量と見識なら必ずフォローして然るべきだった難点が、この脚本では出
来してしまった、それをオレは危惧するんだな。Act.6 の舞原監督なん
て、ばっさり場面をカットして次善のフォローを入れるという、非常に
現実的な対応をしているわけで、演出家にこういう妥協を強いる脚本は
やはりちょっと完成度において問題があるだろうと思うんだ。

たとえば、徒歩のまこちゃんが車で連れ去られたレイちゃんを…という
部分だって、神社の前でまこちゃんがタクシーを拾う絵を入れれば四、
五秒のカットで済む。でも、おそらく最上のパターンというのは、まこ
ちゃんが「最も危険な遊戯」の優作よろしく最後まで徒歩で車を追って
いったという絵面だと思うのね。じっさい、小林靖子のつもりでも、ま
こちゃんは走って車を追ったんだと思う。

しかし、まこちゃんがその超人的な脚力で自動車を追い詰めたという描
写が実現したとして、「んなアホな」と笑いを誘うだけで、そのシーン
には有機的な意味性なんか何にもないわけだ。しかし、多分絵面やキャ
ラ描写としてはかなりおもしろかったと思うんだよ。

ただ、それを実現するには、けっこう長めに何カットも絵を入れる必要
があるし、ロケで移動ショットだったら段取りだってたいへんだ。

じゃあ、そこで妥協して絵を入れずに、ホテルの一室の前に現れたまこ
ちゃんが息を切らして汗をかいている、という芝居にしたらどうかとい
うと、こういう現実離れした非常識な描写は、じっさいに走ってる絵を
見せないと、それこそ「んなアホな」でオシマイの説得力のないものに
なってしまう。

また、いかに超人的な体力のまこちゃんとはいえ、人間が徒歩で自動車
を延々追い掛けている絵面を入れちゃったら、まこちゃんがレイちゃん
のために払った労力のウェイトが過剰に強調されてしまう懼れがある。
前述のように、このお話は非常に複雑な中心を持っているんだから、ま
こちゃんの奮闘に過剰なウェイトがかかるのは好ましくない。

最終的にああいう形になったのは、その辺を曖昧にボカしてバランスを
取っているわけだが、オレの感覚では、映像作品には全体的な意味性と
は別の次元で、ただおもしろいだけの遊びの部分もないと、辛い。

今回の話では、画面に表れない小林靖子の「つもり」というのが、かな
りあったと思う。テレティアSの変身による籠抜けや、なりきりコンテ
ストの事前準備もそうだろう。これが全部表の映像で表れていたら、ま
こちゃんエピソードとしてかなりおもしろいものになったはず。

自動車を走って追い掛けるまこちゃん。ルームサービスの職員に当て身
を喰わせて変身するまこちゃん。みんなには内緒でコンテストの準備を
進めていたけど、結局出場する勇気がなくて、うさぎの昏倒を自分への
口実に出場するまこちゃん。

まこちゃんがステージで演技する場面では、ちゃんと最初は緊張して声
がかすれるという芝居が附いているし、場内の参加者のなかではいちば
ん被り物の手が込んでいるという目配せもある。

これらの要素が、全部省略されて、一種のコードや仄めかしとして扱わ
れている。それぞれが単体のエピソードとして成立していたら、映像と
してさぞかしおもしろいものだったろうけれど、複雑な群像劇のなかで
個々の映像描写が埋没してしまっているわけだね。

あくまでオレ個人の感覚が尺度になってしまうけれど、この方向を突き
詰めるとしても、脚本が描き得る群像劇的な内実の量的な限界というの
は、Act.7 のレベルが精々だと思うのね。これだけ緊密に物語的な内実
が詰まっていると、映像それ自体のおもしろさが語る、意味性とは遊離
した遊びの部分を入れる余地がない。

前回の「カメの頭がムクーリ」でもいいんだが、意味性の連鎖にちゃん
とクリアランスを設けて、映像が映像それ自体として視聴者を楽しませ
る部分がないと、息苦しいと思うんだ。その一方では、視点を固定して
ある人物に全面的に感情移入し、緊張感に満ちた三〇分のドラマを語る
には、視点と中心がバラけすぎている。

小林靖子がここ数話の成り行きを通じて、一種の群像劇としてセラムン
世界の全体性を同時進行で描こうと試みている
のは、何となく読めてき
たのだけれど、この尺で「同時進行」を有効に描くには、先週のお話の
ように、「物語をちょっと進める」のが限界ではないのかな。

今回のように、明らかにレイちゃんとまこちゃんにウェイトのかかる話
で、レイちゃん自身の問題と、レイちゃんとまこちゃんの問題、うさぎ
との三者関係までを重ね合わせて描こうとした場合は、やはり密度がコ
ンデンスされすぎているような気がするし、この三つの輪を有機的に関
連づけることにも成功しているとは思えない。また、関連のない事件が
同時進行で進んでいたり、一つの事件を多視点で語るという群像劇なら
ではのおもしろさが本格的に生起しているわけでもない。

三〇分を楽しむ次元とは別のところで、この方向性が目指す地点から逆
算すると、今回のエピソードは全体構造の指向する意味性のレベルで失
敗していると思うんだな。失敗という言葉が強すぎるなら、理想型を目
指す過程で出現した、価値的に評価不能な作品とでも表現しようか。

今西錦司が言う「蝙蝠に進化する過程で半分だけ羽根の生えた鼠」みた
いなもので、過渡的なるがゆえに、価値的なレベルでは意味を持たない
作物として実現しているんではないか。まあ、今西先生は「あり得ない
もの」の喩えとして言ってるわけだが。

省略の話法は省略として機能するギリギリのところで留まっていて、マ
イナスでもプラスでもない。提起された手懸かりと、基本設定の知識に
よって、視聴者が補足可能な範囲であることはたしかだが、ただ、それ
はそれだけであるにすぎない。省略することが効果的だから省略したの
ではなく、省略しても意味が通じるから仕方なく省略したというだけの
ことだ。

通常の意味で省略の話法が成功しているという場合、たとえば台車の逃
走シーンのようなチャームの部分を十全に歌ったうえで、そのバランス
のうえで、省略が省略として効果を上げている、画面に出さないことに
よって、画面に出した場合よりも効果的になるような場合を指すのでは
ないだろうか。

もちろんこれは、絶対的な意味での「満点」であって、さまざまな現実
的な障碍によって、このような「絶対の満点」が実現されるものではな
いだろう。

今回の場合、田崎竜太が演出として「ここを省略したほうが効果が出る
だろう」と判断して、その判断が間違っていたということではなかった
と思うんだね。彼にとっても、今回の省略は妥協の産物だったろうと思
うんだな。

それはつまり、今回の脚本が十全に実現されるためには、じっさいには
三〇分の尺では足りなかったということだろう。

小林靖子も新しい試みに取り組む以上は、これまでの勘で尺に合わせた
ホンを書けない場面も出てくるだろう、その良し悪しを断じても仕方な
いしここでああだこうだ論じてもそれが小林靖子に届くものでもない。

しかし、それをして、これでいいんだと言うのも、受け手として誠実で
はない
だろうね。

|

Act.9 テクニカルなボディ

たかまるショックで先行きが心配された鈴村演出だが、とある事情で初
見の際に音量をしぼって映像だけを追っていたところ、これはこれでか
なり良いんじゃないかと思えた。普通に観ていたら、気附くのにけっこ
う時間がかかったかもしれないので、結果的にはながら見で正解だった
ような気がする。

カメラワークの流麗さはこれまででいちばんだし、比較的ディゾルブ
多用した編集も「なんでもディゾルブ」というコッポラ方式に陥ること
なくリズミカルで効果的なつなぎとなっていた。冒頭からの導入をディ
ゾルブでつないで、フルショットから短い時間で状況説明、展示された
宝石まで一気に視聴者の視線をリードする手法はハイレベルだ。

ここで「ハイレベル」と一口に言ってしまったらコメントが終わってし
まうので、ここはキネ旬やシネフィル向けの映像本よろしく、今回駆使
された技法をしばらく逐次的に追ってみよう。

まず冒頭で、宝石の前に子どもを置いて、暗転した一瞬の間に盗まれた
宝石にリアクションさせるのも気が利いているね。もっともこれは脚本
にあるのかもしれないが、その子どもの驚きのリアクションを受けて、
衝撃の表現としてコマ落としのトラックアップ、ディゾルブしてタキの
疾走、翻したマントを利用したワイプで月野邸につなぐまでの一連は息
も吐かせない。

続く月野邸での一連から、役者の動きとカメラの動きを連動させて構図
をつくり、芝居の流れをつくる、黒澤張りのカメラワークが始まる。

バンクではあるが、ローポジ・ハイアングルの外観ショットで逆光を入
れ込んだ「早朝」の時制説明をこなし、洗い物をする手許にカットして
「家族の食事が終わったこと」を説明し、流しに向かう育子ママの正面
という普通あり得ないカメラ位置を措定することで、うさぎの動作を待
ち受けるカメラ。

なかよしルナ(笑)を連れて出るうさぎのフルショット、テレビを点けて
愛野美奈子の話題(中略)タキの声明文から池袋西口公園(笑)にカット
して「世間への流布」というポイントを押さえ、戻ってくると育子ママ
の魚眼ショットのリアクション、セリフを話す育子ママを追ってパンし
てうさぎのリアクションを押さえ、育子ママフレームアウト、残ったう
さぎが「ルナ…」と呼び掛けると、カットしてルナのアップ。ルナ「大
変だわ」。カットしてクラウン外観へ。

クラウン内の作戦会議のシーンも、ネットの掲示板を覗くと、日頃カメ
ラワークやカットワークに注目して観る習慣がないと思われる一般視聴
者から「あそこ、うまかったねぇ」という意見が出ているくらい、上手
い見せ方となっている。

まずモニターを見詰める四戦士をトラックワークでナメて動きで構図を
つくっていき、セリフの流れにしたがってテーブルを回り込んだり、芝
居のテンポとカメラの動き・カットワークを連動させ、トラックショッ
トとパンニング、カットバックを効果的に使い分けている。歌わせるべ
き芝居のカットでは、役者の動きを予め計算してフレームを切り、最も
効果的なアングルを決めたカメラが、動作の頭から構えて待っている。

回想シーンでフレームをボカすような効果を附けるのは田崎監督もやっ
ているが、色調の彩度を落としてディフューズをかけるほど凝っている
のは鈴村が初めてだと思う。フィルムの用語でいっているが、もちろん
これは便宜上の表現で、全部デジタルワークなのはいうまでもない。

例の「し〜ん」のギャグ場面も、カメラワークとカッティングに限って
見てみれば、映像のリズムが非常に心地よい。マイクを取る一瞬のイン
サートカット、急激にフレームインするローポジ・ハイアングルのバス
トショットから、カットしてアイポジのクローズアップ、カットして口
許のアップをインサートし、アイポジのバストショットへカットして、
ズームバックでフルショットからパンダウン、そこで「し〜ん」。

独り芝居の幕がハネてうさぎが秘密基地を去るところも、階段上でうさ
ぎのセリフと芝居をカメラが待ち、セリフを言い切った時点で駆け足に
なって、駆け足の途中で切り替えて階下からのバックショットにつなぐ
のは、溶暗へのきっかけづくりだ。そして、暗転からセレニティの夢に
つなぐのは、闇から夢へのつながりで感覚的に自然なカットワークとい
えるだろう。

暗転した時点からセレニティの声が響いて、一拍遅れて逆光でシャロウ
フォーカス
のセレニティのショットにフェードイン。「お願い…」のエ
コーのかかった語尾が消えるか消えないかのタイミングで、刮目する衛
の目許のクローズアップへカット。カットして、起き上がる衛をトラッ
クショットで追いながら回り込んで、手前のシルクハットとドミノマス
クにピントを送りつつナメる。

セリフあって歩み寄り、タキ衣装を手に取ると、カットして床に落ちる
うさぎのハンカチ。流れ出す甘い劇伴。「ディゾルブして」回想へ。回
想終わり。「カットして」ハンカチを拾う衛の手、カットして衛の思い
入れしばし。劇伴終わり。

回想への入りがディゾルブで出がカット、というのはうさぎの場合も衛
の場合も同じで、回想一般の真実の表現だけだとしたら、拘りの範疇の
事柄で普通の視聴者はだれも意識しないだろう。ただ、ディゾルブで回
想から抜けると、衛の思い入れが場面転換してダークキングダムへ移行
するための「タメ」にならない。

その回想も、同じ場面をうさぎと衛の視点で別々に編集して入れている
という凝りようだが、初見でそれに視聴者が気附くわけではない。しか
し、ここを同じ場面でありながら互いの視点に編集することで、うさぎ
と衛がお互いに等分に惹かれ合っていることの目配せとしている。

場面転換して、SEでダークキングダム外観へカット、劇伴変わってベ
リルのアップへカット。ここで気附くのは、今回の場合、重要なショッ
トは板附きではなくカメラが待っているか、フレームイン、フォーカス
イン、フェードインで入ってくるということ。カットしたら、そこに重
要なショットが映っている、ということはまずない。この場面でも、外
観からベリルのバストアップへつないだ瞬間、目立たない程度に照明が
連動している。

試みに他の例を列挙してみると、冒頭のタキは、宝石の盗まれたガラス
ケースへのコマ落としのトラックアップにディゾルブする形で現れ、神
出鬼没の手際と疾走する怪盗の姿が重ね合わせられる形で表現されてい
る。一方、うさぎのほうは、育子ママの芝居を押さえつつドアを開けて
入ってくるうさぎとルナを「待てる位置」にカメラが据えられていて、
ちらし髪のパジャマ姿で入室してくるうさぎをとらえている。

クラウンに四戦士が集う場面でも、外観からカットするとすでに手前の
亜美ちゃんと奥手のまこちゃんをナメながらカメラが動いている。普通
の言い方をすれば、カット頭をセットポジションとしてカメラが動いて
いるのではなく、カメラが動き始めた後にカット頭を設定している。

そしてカメラの動きは亜美ちゃんを回り込みながら奥手のまこちゃんの
正面を押さえ、最前景にレイちゃん、その背後にうさぎをとらえた地点
で停止する。レイちゃんを最前景に、亜美ちゃんを前景、まこちゃんと
うさぎを後景にとらえて三重の奥行きの構図を動きながらつくっていき
重要人物が次々にフレームインしていく。

うさぎが見詰める窓の外からフレームインしてくるなるちゃんについて
は今さらいうまでもないが、あんまり触れたくない成田物産社長の登場
場面でも、まず成金趣味丸出しの指輪を填めた指とぶっとい葉巻のイン
サートカットを入れてから登場することによって、端的に人物類型の紹
介を済ませている。

まあ、この調子でEDまでテクニカルなフォローをしていたらキリがな
いので、この辺にしておくが、ことほど左様に今回は、カメラワークと
カットワークが断絶を感じさせずに視聴者の興味を強力に牽引し、併せ
て芝居のリズムまでつくり出している。

こういう流麗なカメラワーク、カットワークが、視聴者の無意識に働き
かけて生み出す映像のリズムの快感は、たしかに映像作品ならではのも
のといえるだろう。

当たり前に考えれば、カメラワークは撮影監督、カットワークはエディ
ターの領分だが、エディターは複数のチーム制のようだから、監督以外
の特定個人の技倆を云々するだけの情報はないし、こういう体制ではど
ちらかといえば各回演出者の裁量が大きい分野のように思う。

対して、撮影監督のほうはAct.7 以降ベテランの松村文雄から上赤寿一
に変わっている。しかし、Act.7およびAct.8でそれと気附くほどに日頃
の田崎作品のルックやリズムと変わっていないのは、細かく具体的なコ
ントロールを及ぼす田崎監督の資質によるものかもしれない。

なので、今回の流麗なカメラワークが鈴村監督の資質によるものか、本
来的な上赤撮監の技倆なのかは、部外者に断定はできないが、オレの勘
では、演出と撮影技法が滑らかに連動して効果を挙げていることから、
テクニカルな計算と全体の技術的組立の部分は鈴村監督の資質が活きて
いるのだと視ている。少なくとも、鈴村監督にはテクニカルな領域で的
確な指示や提案ができるということだろう。

うるさいくらいにSEを入れているのはたかまると同じでも、計算とメ
リハリが効いているので、たかまるのときと違って気にならない。書き
文字の「し〜ん」はともかく、「サッと来てサ〜」とか「メガネきゅっ
きゅっ」とか「ガンガン行かなきゃ」などのSEも、フキダシ効果や押
し出しワイプなどのバラエティ的な演出も、中盤のドタバタシークェン
スに入ってから積極的に入れていて、序盤や終盤のシリアスシーンでは
ちゃんと調子を変えている。

そういう意味では、三〇分、目を皿のようにして観ていても、テクニカ
ルな部分に死角はない。脚本の読解、芝居の附け方を観ても、脚本の意
図を演出が損ねているような部分は見当たらない。こんなときだけ霊感
を頼る成田にレイちゃんが不快感を感じる芝居でも、亜美ちゃんに切り
返して亜美ちゃんの視線を下げさせ視聴者の視線を誘導してから、レイ
ちゃんがスカートを掴むインサートカットを入れている。

道半ばでファイズを外された悔しさからか、鈴村展弘初演出回のこのエ
ピソードには、最後の最後のカットに至るまで緊張感が持続しており、
どこも間違っていないという意味でよくできた作品となっている。

ただ正味な話、今回のエピソードがおもしろかったかといえば、それこ
「可もなく不可もなく」としか言い様がない。また、それでいいのだ
といえないこともないが、たとえばAct.7 のような中身のない話でも、
回転する鏡のミラーショットを入れてチャームをつくる田崎監督には、
見識の点で一歩を譲る感は否めない。この辺が「なんか中途半端」「所
詮は総集編監督」という鈴村評につながる、イマイチな点だろう。

それでも今回の話、印象が弱いのは鈴村演出のせいばかりとはいえない
だろう。とにかく、タキの声明文のせいで日本中が大パニック、という
割には話がなさすぎた。クライマックスでも、タキを見附けて暴走した
うさぎと、ネフを追う亜美・まこの戦闘がスプリットして、そのまま終
わっちゃってるし。普通に観ていると、「あれ、もう終わり?」という
呆気なさがあった。話の仕掛けが、タキの暴走に載っかったネフが、鑑
定士に催眠術をかけて横取りを目論む、というのは単純すぎだ。

邪推するなら、前回までの詰め込みすぎ感は、問題のAct.5 当たりから
始まった傾向で、それから一カ月くらい後の今回のAct.9 には、現場か
らのフィードバックがあったのでは、とも思える。先週までとは打って
変わったこの単純さは、三〇分で描けるセラムンらしい内実のボリュー
ムを模索する試みの一環かもしれないね。

次回予告や公式サイトの記述を見ると、次回はレイちゃんの過去話に絡
めてセーラー戦士の真実が語られ、クインベリルの出動と四戦士潰滅の
危機まで描かれるようで、今週とはガラッと変わった大ネタの連打にな
る予感。

これまでの小林脚本どおりだと、緊密な構成ながらこれほど多くの要素
を有機的に語ろうとするあまり、演出に過剰な負担がかかる脚本となる
懼れが多分にある。まあ、今回のホンを見る限り、軌道修正の意識はあ
りそうだが、万が一従来どおり詰め込みすぎの難易度の高いホンとなっ
た場合、鈴村演出の真価はそこで問われるんではないかと思う。

Act.7Act.8 の惜しい部分を超えることで、田崎演出の域に迫ること
も、満更夢ではないだろう。

さて、脚本に話が及んだところで、今回のエピソードでいちばん引っ懸
かった点を挙げると、ラストでまこちゃんがうさぎを責めるところ。

たしかにうさぎは、任務を放り出して勝手に暴走し、人違いと気附かず
にタキを救うためにかえって自分が危地に陥り、あまつさえネフと二戦
士の戦いとは最後までスプリットしたまんまだったわけで、だれかが叱
る必要があった
のだろうが、それがまこちゃんだというのが腑に落ちな
いんだな。

まず一旦うさぎをまるごと受け容れるという一般的な木野まこと像を離
れていっても、これまで番組で描かれたまこちゃんのあり方は、たとえ
ば「親子は仲良くすべき」という筋を離れてレイちゃんの気持ちを大事
にしたように、筋目よりも相手の気持ちをまず大事にするキャラとして
描かれてきたと思う。そもそも登場回であるAct.6 で妖魔に対して憤っ
たのも、妖魔がタケルに憧れる女の子たちの気持ちを嘲笑ったからだ。

そういうキャラであるまこちゃんが、たとえ相手が世間的には泥棒で、
戦士たちにとっては敵であれ、何度も危機を救われた相手を想ううさぎ
の気持ちを、一方的に「禁止」するのは納得できない。

Act.7 のラストでレイちゃんと対立したのも、タキに憧れるうさぎの気
持ちをレイちゃんが「くだらない」と一蹴して憚らなかったからだ。ま
こちゃんの行動原理のプライオリティは、他人から見てどんなにくだら
ないものであれ、今現在の当人の気持ちがいちばん大事、それを踏みに
じるのは許せない、というものではなかったか。

しかし、一方ではあの場面でうさぎを叱れるのは、背理的にいってまこ
ちゃんしかいなかったという事情もある。レイちゃんは、自身の生い立
ちにまつわる抵抗から、今回の作戦には参加しなかったという負い目が
あるし、亜美ちゃんとうさぎの関係性のなかでは、うさぎを諫めるとい
う選択肢はない。残るのはまこちゃんだけなのだが、それがあまりにも
便宜的にすぎるという気がするんだね。

あの場面で意志表示しなかったとはいえレイちゃんにとって、愛だの恋
だのはいずれ冷めるもので、眼前の危険性と比較すればハナから考慮に
値しない、そのうえでまこちゃんが頭ごなしに禁止し、亜美ちゃんが理
解を示すという三者三様の対照が表れてしまった。これはあまりうまく
なかったのではないかと思う。

なぜなら、まこちゃんがうさぎとタキとの接近を禁止したのは、単に
の場面でレイちゃんと同格でうさぎの行動を諫められる立場にある人間
が他にいなかったから
で、まこちゃんならそうして当然だからではない
からだ。そうした便宜的な立ち位置が、三人の少女のうさぎに対する立
ち位置の対照として描かれてしまうと、本来そうあるべきではない事態
が、現時点での本質として固定されてしまう。

だとすれば、この事態をこれまで描かれた木野まこと像とすり合わせる
ために、今後更なるイベントを設ける必要がある。たとえば、今回うさ
ぎがタキに惹かれていることに真っ先に気附いたのはまこちゃんだが、
それと「てにをは」の合わない「禁止」の辻褄を合わせるためには、今
後うさぎとタキとの関係を進めるうえで、まこちゃんが真っ先に理解を
示し、仲間たちに働きかける
というアクションが必要だろう。

こうして、また一つ小林靖子は忘れることが許されない宿題を抱えたわ
けだ。Act.5 のうさ・亜美の衝突のツケは未だ払われたようには思えな
いし、いかにうねりながら互いの関係やキャラクターが変化し、成長し
ていく物語とはいえ、複雑さを増していく物語世界に、小林靖子は円満
な解決をもたらすことができるのだろうか。

|

Act.10 月は無慈悲な夜の女王

…うさぎ、いくら何でも、その指はヤヴァイでしょ(木亥火暴!!)。

ひょっとして今時の女の子は、そういう下品な符丁を知らないのだらう
か? 意味のわからないヒトは、大泣きしているうさぎの手つきに注目
すべし。指一本ズレてるのがギリギリセーフだ(木亥火暴!!)。

しかしまぁ、思わせぶりな「プリンセスへのレクイエム」作曲が妖魔製
造のためだったとは。その辺のサボテンやオブジェにポンと石くっつけ
たらお手軽に妖魔が出来上がるジェダ・ネフに比べて、何と手間のかか
ることよ(木亥火暴!!)。

しかも、そんなに苦労して生み出した妖魔だけに、四戦士が束になって
かかっても手に負えない強力な武器を持っていると思ったら、ムーンが
ちょっと気張っただけで呆気なく消滅しちゃうし。この、妙な能力に特
化していて、強いんだか弱いんだかわからない辺りのブキミさが、ゾイ
サイト妖魔の特徴ってことか。

まあ特徴っつっても、話の流れ上、結果として圧倒的にジェダ妖魔の数
が多いわけで、妖魔がまったく出なかった二話を除く八話中、五体まで
がジェダ、二体がネフ、そして今週のがゾイということになる。今回の
闇次元生物みたいなのは、デザインラインにしてからが「白塗りに虫の
羽根」というゾイサイトっぽいものだからまだしも、ネフのがサボテン
兄弟にボヨンでは、ジェダ妖魔と明確なデザイン上の差別化が為されて
いない。

まあ、ジェダ妖魔もネフ妖魔も石の力で無生物を妖魔化したもので、選
んだ対象が違うだけで基本的に製造原理は同じだが、ゾイ妖魔は独特の
音楽魔術で生み出されたものだから、これだけデザインラインが違うと
いうことかもしれないね。

それから、仲間内の意見では、妖魔の音符攻撃が安い戦隊パロディビデ
オのように見えるという不満の声も挙がったが、たしかにこれは微妙な
ところだなぁ。

そもそも今回の妖魔の能力自体が戦隊的なんで、戦隊的な特撮にしたの
も無理からぬところではあるが、ビデオの質感の問題というのは見た目
の問題なので、気になるヒトは気になるのかもしれない。要するに、こ
ういう見え方でもいいんだが、月曜ドラマランドの安っすいクロマキー
合成を思い出させるのがいちばんまずい点だろう(木亥火暴!!)。

ライダー方面で似たようなエフェクトを考えてみると、顔のくどい社長
の薔薇吹雪くらいしか思い当たらない。薔薇社長変身のエピソードは鈴
村担当だったという縁もあるが、あっちは実体のあるものをまき散らす
んだから、音符が飛ぶのとは大分勝手が違う。

まあ、オレ的には実体的ではないものが飛び交うイメージとして、ああ
いう選択肢もアリだと思うのでそんなには気にならなかった。それより
も気になったのは、音楽攻撃と音符攻撃の見た目上の違いが強調されて
いなかったこと
かな。

要するに、音楽攻撃=心理攻撃もしくは聴覚攻撃で、音符攻撃=エネル
ギー弾でしょ? セーラー戦士のリアクションからすると、この二つは
別の技みたいなんだが、エフェクト的にはとくに差別化されてないのが
気になったな。つまり、飛び交う音符が妖魔の歌声のビジュアリックな
威力表現なのか、エネルギー弾の表現なのかが曖昧なので、殺陣の意味
がわかりにくくなっている
のね。

CGで弾着の表現があるということは、戦士たちの殺陣はエネルギー弾
としての音符を避けていたともとれるが、それにしては音符の動き方が
シャープではない。たとえばモスラの電磁鱗粉と同じような効き方なの
かとも思ったが、結局なんだかわからない。どうでもいいことといえば
そうなんだが、こういうエフェクト上の問題というのは、アクションが
活きるか死ぬかの問題でもあるので、気にはなった。

それから、セーラー戦士のリアクションといえば、音楽攻撃で苦しんで
いる仕草まで、スタントに振り附けているのは違うんじゃないかと思っ
たな。細かいことをいいだすと、戦闘中のリアクションまでコリオグラ
フィックな振り附けで見せるというのは、戦闘シーンの映像的な見せ方
の手法上の問題になるわけだが、オレのこれまでの理解では、映像上の
見せ方がコリオグラフィックなのではなく、劇中の戦士たちの戦闘スタ
イルがコリオグラフィックなんだ
と思う。

たとえばセラミュでは、戦闘シーンというのは全部殺陣ではなく音楽に
合わせた踊りの「振り附け」だ。踊りの振り附けに具体的な殺陣の意味
性が付与されているので、セラミュを知らない人はただの間つなぎの踊
りだと思ってぼーっと見ていると、その間に戦闘の趨勢が決していたり
話が進んでいたりするので戸惑うことになる(笑)。

とくに、広い舞台上を無慮十数人に及ぶ登場人物が右往左往する見せ場
になるので、ビデオ収録にも腕が要るし、生鑑賞でも視点移動がたいへ
んだ(笑)。まあ、筋運び上重要な踊りはセンターでピンスポが当たるか
ら、最低限真ん中の動きだけ視ていればいいんだけどね。

だから、セラミュの場合は戦闘の見せ方がコリオグラフィックなんだと
言えるが、実写番組のフォーマットとして、戦闘シーンを踊りとして演
出するのは無理がある。まあ、大昔に、朝っぱらからミュージカルを繰
り広げてコケた某番組
のこともあるしな(木亥火暴!!)。

だから実写版では、戦士たちの攻撃の趣向が新体操やジャズダンスのテ
イストなんであって、戦闘シーンの見せ方がそうなのではない。ゴーグ
ルVの戦闘法が、新体操にインスパイアされたものなのと同じことだと
思う。だから、戦士たちの意図的な攻撃フォーメーションから外れたリ
アクションまでそのノリで振り附けちゃうと、要するにアステカイザー
やアイゼンボーグみたいに「戦闘シーンではアニメになる」のと意味的
には同じことになっちゃうな。

しかしまあ、今週は満を持して放った妖魔が呆気なく消滅したり、ベリ
ル様の瞬間移動をサポートしたり、美奈子を危機に陥れたりと美味しい
場面独り占めのゾイサイトだが、前半の頑張りでポイント稼いだジェダ
が一休みした後は、ネフライトを飛び越えていきなりゾイサイトの時代
が来る
のか?(木亥火暴!!)

それに引き替え、無口なジェダ・ゾイに代わってペラペラと棒読みで説
明的なセリフを喋らされた挙げ句、姑息な告げ口野郎としてベリル様に
もファンにもそっぽを向かれるとは、毎週律儀に働いているにもかかわ
らず、なんと不憫な奴なんだろう、ネフライト(木亥火暴!!)。

あと気になったのは、子供会の場面で大勢の親御さんの後ろで平気で動
き回り喋りまくるルナ(木亥火暴!!)。

エリカとレイちゃんが話している場面でも、まったく気にする様子もな
く動き回っていたんで、子どもの前ではとくに取り繕う必要を感じてい
ないのかもしれないが、あんなに紙芝居そっちのけで大泣きの大騒ぎし
ていたんだから、親御さんがうるさがって振り返るかもしれないぢゃな
いか(木亥火暴!!)。

それから、これもやはり仲間内の意見として、愛野美奈子が一人で車道
側から車に乗り込むのはおかしくないか、普通マネジャーがドアを開け
てやるだろう、という声があったが、たしかにちょっと不自然な段取り
に見えるな。

これがスポーツカーや軽自動車だったら、中でモゾモゾ動くより回り込
んで乗ったほうが楽だが、ベンツみたいなでかい車だったら、歩道側か
ら乗り込んで奥に詰めるのが自然だろうし。

ただまあ、空港前の車寄せはたいがい一方通行だし、4ドアすべてから
の乗車が考えられているので、隣の車線まで十分な余地があるという見
方もできる。劇中でトラックが美奈子に迫る場面は、うまくつないで別
の場所で撮影しているわけだし、空港の車寄せだという見立てでいうと
普通はあり得ない逆走なので、じっさいには絵面で見るほど不自然な行
為ではないのかもしれない。

まあ、車でいうなら、一国のプリンセスがSPより先に報道陣の真っ直
中に降車してきて、剰えぶっ倒れても護衛が駆け附けないで取材陣のた
かるままになっているほうがよっぽど不自然だと思う(木亥火暴!!)。

しかも、玄関ホールからコンビニとタイヤ販売店が丸見えっつーのが、
国賓を迎えるにはあまりにも安いホテルだなぁ、と。クレジットで確認
したら、「第一ホテル光ケ丘」だそうな…道理で玄関前が殺風景なはず
だぜ、所もあろうに笹目通り沿いじゃねーか。ひょっとして日本政府か
ら冷遇されているのか、エストア国(木亥火暴!!)。

というわけで、ツッコミどころはいろいろあったんだが、本編それ自体
についていうと、けっこうオレは今回のエピソードを気に入っている。

いや、お話自体がおもしろかったかというと、平均以上に突き抜けてお
もしろかったわけではないと思う。前回のコメントで期待したような、
大イベント編というほどのワクワク感もなかったしね。

前回のコメントでいったことだが、技巧派でソツのない鈴村演出、良く
撮れてはいるし脚本の解釈にも危なげはないが、どうも今一つ突き抜け
たおもしろみがない、チャームがない
。しかし、オレが前回そういった
時点では、割と鈴村演出に好意的になっていたと思うんだな。

冒頭で論ったようなポイントは、レベルからいえば田崎演出のAct.8
同程度のもの、オレ個人の感覚では、許容範囲の埒内だと思うんだな。

まあ、ベースとなる脚本の難易度が一桁違うという留保は附くし、田崎
竜太ならば「何やってるんだ、金看板のタザキが」になるが、新人・鈴
村展弘だったらそこまで責めるのは酷だろうという、そういうバランス
のうえでの話ではあるが。

実際問題、明らかに「これはどうなんだ」と思えるのは、音符攻撃のわ
かりにくさとコリオグラフィックなリアクションの二問題、それに神社
の講堂で動き回るルナくらいのもの。

ことに後者は、語り口の嘘として許容範囲の事柄だと思うし、前者につ
いてもまあ、拘ればそういう指摘もあるね、くらいの事柄で、全般的に
いえばむしろAct.8 よりも危なげはない。

本筋に絡む大きな問題としては、他ならぬここの大家のぷらちゃんから
挙がった意見として、エピローグでいきなり大泣きするうさぎに戸惑っ
たという声があった。

たしかにオレも、初期話数に関するコメントで、実写版のうさぎのキャ
ラについて「泣き虫ではない強いうさぎ像」と指摘した手前、今回の大
泣き描写に「おやおや」と虚を突かれたことは事実だ。

ぷらちゃんの意見を掻い摘んでいうと、要するにあの場面でうさぎが泣
いたのは、ベリルやルナの言葉、そして「かぐや姫」というキーワード
によって前世の記憶が刺激され、月の王国のプリンセスとしての記憶が
無意識裡に作用して、「われ知らず」うさぎを泣かせたのではないか、
そうだとするとあのような子どもっぽい手放しの大泣きはおかしいので
はないか、というもの。翻って、これを演出上のミスではないかと指摘
していた。

これは脚本の意図の問題もあるから、とりあえず、順を追って考えてみ
ようか。まず、あの場面でうさぎであれだれであれ、だれかが泣く必要
があったかどうかを考えてみよう。

これは、あらためていうまでもなく、泣く「必要」などなかったんだと
思う。あの前後の場面だけ取り出して考えると、だれかが泣かないと作
劇上不自然だったかといえば、まったくそんなことはないんだな。

たとえばいつものうさぎなら、「月の王国とか言われても、な〜んか実
感湧かないよね」くらいのリアクションでもおかしくなかった…という
か、実写版のうさぎならそっちのほうが自然だったわけで、いきなり泣
き出したからこそ、この場面を巡る解釈の問題が生じたわけだ。

ここで子どもたちの間で共有されている「かぐや姫」の童話の物語構造
を考えると、これがキーイメージとして選択されている理由が、「月の
王女」という共通点によって、うさぎの前世の記憶を刺激するためだけ
のものとは、オレには思えないんだな。

竹取物語の幼児向けの再話である「かぐや姫」の物語は、一種の貴種流
離譚であって、月の王国の貴種であるかぐや姫がなぜか竹の節に潜んで
いて、正直者の翁と媼に福を授けた後、月からの使者によって連れ戻さ
れるという話だ。この物語をセーラームーンの前世譚である月の王国の
滅亡記と比べると、「かつて月に王国があり、主人公はその王女であっ
た」ということしか共通項がない。

しかしこれを、滅びた月の王国の王女が現世に転生したセーラームーン
=プリンセス・セレニティ=ネオクイーン・セレニティではなく、二一
世紀の日本人である月野うさぎの視点で視れば、月世界の王女としての
出自と正直者の翁と媼の育て児としてのアイデンティティの狭間で引き
裂かれるかぐや姫の境涯は、見事にうさぎの現状と重なるだろう。

普通一般に現代の子どもが「かぐや姫」の童話を読んで感じるのは、か
ぐや姫自身は翁と媼の許を去りたくなかっただろうということだ。これ
は、原典の竹取物語では曖昧な点だが、童話としてのかぐや姫ではいち
ばんに強調されるポイントだ。現代人の感覚からすれば、その出自がど
うであれ、翁と媼の愛し子として育ったかぐや姫にとっては、竹取の翁
の娘としての現状こそが真実の自身であって、月世界からの使者は残酷
な宿命の使徒としか思えない。

月野育子の娘として育ち、平凡な女子中学生としてこれまでを生きてき
た月野うさぎの真の出自は「月の王国の王女を護る四戦士」であった。
これはつまり、月野うさぎとしての円満な生活は偽りであって、宿命に
殉じるためにその「かりそめの姿」を振り捨てて生きなければならない
ことを意味する。

コミックスやアニメのセーラームーンで、最も曖昧にぼかされてきたポ
イントは、まさにこの部分ではなかったのか。たとえば、ダークキング
ダム編で、うさぎが衛と共にクインメタリアと戦っていたときに、月野
家の人々はいったいどこで何をしていたのか。

コミックスでもアニメでも、「月野うさぎ」を巡る物語でいちばん曖昧
に胡麻化されてきたのは、月野うさぎとして二〇世紀に生を享けた平凡
な少女としての現状と、滅びた月の王国の王女セレニティであり、三〇
世紀のシルバーミレニアムの女王ネオクイーンセレニティとなるべき貴
種としての出自との葛藤だ。

月の王女とかぐや姫の類似があまりにもベタであるがゆえに、ぷらちゃ
んもスルーしちゃったんだろうが、童話としての「かぐや姫」が最も読
者に訴えるのは、そのようなものとして生きる自分と、そうあるべき自
分との葛藤の結果、抗い得ない宿命として愛に満ちた現状を否定せざる
を得ない悲劇の物語だ。かぐや姫の童話は、セーラームーンという物語
構造が一貫して避けて通った問題を真正面から採り上げた物語
なのだ。

そして、現状で出揃っている四戦士中で、現世の生活が破綻して困るの
は、家庭的な面で欠落を抱えていないうさぎだけなんだな。それが各自
の抱える問題の真の解決となるかどうかはさておき、現在の生活がかり
そめのものであって、本当の自分は幻想的な物語の主人公であるという
のは、うさぎ以外の三人にとっては甘やかな「真実」の開示だろう。

そう考えていくと、あのときのうさぎの涙が幼児的なものであったのは
当たり前の話であって、われ知らず涙を流したのは、うさぎの「真実の
出自」としてのプリンセス・セレニティが、過去の悲劇を哀しむゆえで
はなく、竹取の翁と媼の間に育った「月野うさぎ」が真の出自の開示に
よって今現在の愛に満ちた生活が崩壊することに怯えたからだ。

…という解釈もできるんだよ。

現在という時制に最も重きを置く作家である小林靖子の認識として、プ
リンセス・セレニティ=月野うさぎ=ネオクイーン・セレニティという
連環のなかで、何がこの物語において主柱となるかは明らかだろう。前
世が滅びた月の王国の王女であろうが、未来がシルバーミレニアムの新
女王であろうが、月野うさぎとして現れた主人公は、あくまで二一世紀
の平凡人としての月野うさぎその人だ。

二一世紀の女子中学生である月野うさぎの視点では、先代クイーン・セ
レニティも遠いし未来の愛娘であるちびうさも遠い。彼女にとっての近
しい者は、月野家の父母であり弟であり、今現在の友だちと、エンディ
ミオンではない地場衛だろう。

ぷらちゃんの解釈だと、要するに前世の記憶を取り戻したうさぎは、数
千年前に滅びた月の王国の王女プリンセス・セレニティその人だという
ことになるし、その前提の意見だろう。だが、前世の記憶がよみがえっ
たとしても、月野うさぎは依然として月野うさぎであるという行き方も
十分以上に考えられる。

そうすると、この場面のうさぎの芝居を論ずるときに問題となるのは、
ここで泣いたのは、セレニティであるうさぎなのか、月野うさぎである
うさぎなのかということだ。前世の記憶が無意識にエコーしたにせよ、
かぐや姫の童話と家出中の身の上が今現在のうさぎの心に感応したにせ
よ、どちらの場合にもこの二者択一は成立し得る。

そして、オレがここでいいたいのは、ぷらちゃんの解釈とオレの解釈の
どちらが正しいか、ということではない。たぶん、第三者にとっては、
そのどちらも将来的には等分にあり得る選択肢なのだということだ。

だとすれば、この場面でこういう芝居を附けたことを「間違い」として
論じることは妥当ではない。むしろ、どちらとも解し得るような曖昧な
芝居を附けることは、この場面において最も現実的に適切な知恵ともい
える。

いくら小林靖子と鈴村展弘が事前にコミュニケーションをとれたとして
も、このような微妙な問題について、将来に亘る問題を論じ切れたとは
思えないし、じっさいには小林本人にすら具体的にどうなるかはわから
ないことだろう。

微妙な問題ではあるが、煎じ詰めれば、ぷらちゃんはセレニティとして
泣けといっているのであり、沢井美優は月野うさぎとして泣いたのであ
ると思う。オレ個人としては、コミックスやアニメの先行きを知ってい
る沢井がエンディミオンとの悲恋に殉じたセレニティとして泣けなかっ
たのであれば、事実として月野うさぎが泣いたのであると思う。

そのどちらにも等分に実現の可能性があることであれば、現実に実現し
たもののほうが正しいのであって、齟齬が生じるとすれば未来において
の話だと思う。とりあえず、現時点においては、オレは小林、鈴村、沢
井の間で、泣いたのが月野うさぎであることのコンセンサスはとれてい
ると思う。だから、何かが問題になるのだとすれば、この場面の芝居で
はなく、それを受けての将来的な展開の問題になるだろう。

そもそもこの問題が問題として浮上するかどうかは、実写版としての新
たな作品世界の伸張を俟って論じられるべきこと。それは、たとえ小林
靖子の脳裏にシリーズ全体の青図があるとしても、じっさいに書かれて
みるまでは断定できない性質の問題だし、現実問題として沢井が泣いた
時点では決まっていない未来に属する問題だと思う。なので、これを鈴
村演出の瑕瑾と断ずるのは、ちょっと適切ではないんではないかな。

演出論の問題でいえば、ここで沢井をセレニティとして泣かせてしまう
ことは、演出の側から脚本に対してアピールをすることになる。そこで
月野うさぎとして曖昧に泣かせてしまった鈴村は、ある意味小林脚本に
先行きのゲタを預けた形になるが、東映のシステムでは分を弁えた行為
といえるだろう。

これは逆にいうと、やっぱりぷらちゃんのいわんとするとおり、表現者
としての鈴村監督の関心は物語的な側面にはない
のだといえないことも
ない。小林靖子が強力な牽引力で語る物語を、映像として受肉させる作
業によって生起するテクニカルなボディ、映像それ自体に特化した関心
こそが鈴村監督の創作動機なのではないだろうか。

たとえば、いろいろなツッコミどころにもかかわらず、オレが今回のエ
ピソードをすべて許してしまうのは、アバンで前回までの粗筋を語り終
えた後の、一分かそこらの映像の具える、類稀な美しさのゆえだ。

厳密に数えても十カットかそこらしかない短いシーンだが、この場面の
アバンとしての美しさは言葉で説明ができない。有意のストーリーとし
ては、「夜半にかぐや姫の挿し絵を描いていた少女が、亡き母の面影を
偲んで月を眺める」というありふれたものだ。

そして、カットを構成するショットも、非常に端的で意味的な面では不
足も剰りもない。実際には、「亡き母」を意味する「布団の畳まれた病
室のベッド」は白く飛ばされていて、よく見てもわからない。

このショットが意味附けられるのは、中盤でレイちゃんがエリカの境遇
に自身を重ねるときの回想においてであり、アバンのこの場面において
は、かぐや姫の絵→白く飛ばされた部屋のなかにあるかぐや姫の絵本→
微笑みながら月を眺める少女という流れにしかすぎない。

そして、レイちゃんの眺める月が、OPの月面のズームアウトに重ね合
わされるとき、オレたちは鈴村展弘の訴える映像的な感動がどこにある
のかを知る。

小林靖子が理詰めで語る精緻な物語的感動ではない、美しい少女が演じ
る物語の、最も美しい瞬間を計算し尽くされた映像で語ること。今回の
鈴村エピソードは、そういう美しい瞬間を実現したのだから、後はもう
どうでもいいとすらいえるんだ、オレ的には(木亥火暴!!)。

意味性とは別の次元で、美しい少女が微笑んで見上げるあの月が、毎週
土曜日の朝にオレたちが主題歌とともに見ているあの月なのだと関連附
けたこのアバンは、オレには比類なく美しく見える。

オレが覚えるこの感覚は、もしかしたら、セーラームーンの火野レイと
いう人物固有の物語を十全に映像で語ることとは必ずしも関係がないこ
となのかもしれない。

亡き母が月に棲むことを想って、中学生にもなる女の子が微笑みながら
月を眺める心境を思い遣ることも、セーラー戦士の過去開示に火野レイ
の物語がどのような関連を持つかを考えることも、この際求められてい
ないのかもしれないのだ。

火野レイの死せる母親に対する想いに共感する以前に、そのような過去
を持つ火野レイが美しく微笑みながら月を見上げること、その月が毎週
見慣れたタイトルバックの月に重なること、この映像表現がただ美しく
愛おしい。

そして、今回のエピソードが語り終えられた時点では、アバンのあのと
きのようにレイちゃんが月を見上げることは、もう二度とない。月の王
国の秘密を知らされたうさぎがどんな気持ちで泣こうが喚こうが、それ
は大きな問題ではないんだ。

月は死せる母の棲む都と想っていたレイちゃんが、自分こそが月の都か
ら来た存在であることを知り、もはや微笑みつつ月を見上げなくなるこ
と、それこそがオレにとっては大きな問題なんだよ。

だからこそ、なおいっそうのこと、あの瞬間の映像の美しさが愛おしい
ものとなる。それに比べたら、後の問題はすべて「物語」にまつわる問
題であって、この問題とはいっさい関係がない。

だから、今回のエピソードに関しては、オレはもう何もいわないことに
しよう。

|

より以前の記事一覧