Act.25-1 恐ろしき錯視

どうも、たかまるショックを遙かに凌駕する竹光ショックのせいで、妙
なトラウマができてしまったようだ。

クライマックスで、辛い愛の断念の芝居を演じるうさぎが、健気に微笑
みをこしらえて「早く逃げて!」と駆け出した瞬間、思わず知らず不快
な記憶が蘇って、主題歌のメロオケが華々しくバーンとかかってしまう
んじゃないかと冷や冷やしてしまったぜ(木亥火暴!!)。

初期の頃は竹光同様劇判の選曲センスを疑われたたかまるだが、今現在
はスタッフが羽交い締めにして行動を掣肘しているせいか、こういう部
分でも危なげがない。逆にいうと、初期の頃は相当突っ張って他人の言
に耳を傾けなかったんだろうな。

前回ローテの出来の良さで想定した「たかまるシフト」がしんじつ存在
し機能しているかどうかは、このローテの出来如何にかかっているわけ
だが、少なくとも今回に限っては、さしたる破綻も視られなかったよう
に思う。

たとえばアバンの部分でも、前回からの引きのパートは全面的に劇判を
差し替え
、下品な竹光イズムの悪印象を払拭して、シリアスな芝居とし
て見せることに成功している。

互いに惹かれ合いながらも、ジークフリートとジークリンデのように世
界が武器を構えて仲を堰いている男と女が、初めて正体を明かして真情
をぶつけ合うシリアスな芝居場のバックに、主題歌のメロオケというの
は、いくらなんでもあり得ない選択肢だろう。この場では、やはり今回
のように重い苦悩を漂わせる大島ミチルの重厚な劇判が相応しい。

たしかに、こういうヒロイックな作品において、物語の盛り上がりが最
高潮に達したタイミングで主題歌のメロオケを聞かせられると、条件反
射的に高揚するという観客心理もわかる。

しかし、たとえばいかに細野晴臣の手がけたイメージソングが、それ単
体では楽曲として優れていても、それが「風の谷のナウシカ」のクライ
マックスで、しかもデビュー直後の安田成美のフニャフニャにふやけた
ボーカルを伴って劇場内に鳴り響いていたら、あれだけの感動を実現で
きたかどうか、あらためて考えてみるがいいだろう(木亥火暴!!)。

決着するところ、主題歌で高揚する心理というのは、パブロフの犬的な
条件反射
以外の何ものでもないのだ。人間にだって条件反射というもの
はある。まったくオチてないストーリーでも、ジャジャジャ〜ンと終劇
の音楽が流れたら終わった気がするのと同じことだ。

主題歌のメロオケに催す高揚は、この芝居場の意図する感銘とは決定的
にズレている。たとえていえば、モグラ獣人が死に花を咲かせる泣かせ
どころのバックに、最盛期の子門真人が気持ちよさそうにシャウトする
「アマゾン ダダダッ!」が延々流れていたらどうだ(木亥火暴!!)。

しっかりせよと抱き起こすアマゾンの腕のなかで、瀕死のモグラ獣人の
槐柳二声が「チュチュ〜ン」と哀しげに鳴いてる場面に、子門真人の熱
烈シャウト…高揚はするだろうけど、ここで盛り上がってしまったら最
早オレは人間ではないと感じるシチュエーションだ(木亥火暴!!)。

勢いとノリで見せるデカレンセイザーならそういう強引さもまた魅力
の一つに映ったかもしれないが、この番組においては、物語の要請に対
して最低限的確であること
が求められている。さらには、的確である以
上の創意が求められている。この場面において、「ジャンと鳴らせばバ
ンと盛り上がる」式の的確以下の雑駁な手業を晒すのでは、すでにして
お話にならない。

いわばこの番組においては、作劇の基礎力が厳しく求められているので
あって、脚本家の良きパートナーであるためには、脚本が不調な場面で
もそれを映像・演出の手腕で補い、ネガティブ要素をも脚本家とは別個
の一人の作家として再解釈し、ポジティブに再構築し得るだけの作劇面
の底力が必要とされるのだ。

あのイケイケのバブルの時期に、大衆受けを狙う泥臭いジャンルで育っ
た佐藤監督は、こうした地道な作劇の基礎力よりも、即効性でウケを取
れる具体的な手癖を多く覚えてしまったのかもしれないね。こういう感
性は、むしろ大映テレビを根っこに持つ今井詔二の体質に相応しい。

…だから、竹光はもうライダーに行け(木亥火暴!!)。

つか、鈴村と竹光をトレードしろ(木亥火暴!!)。

いろいろ言うには言ったが、作劇の基礎を危なげなくこなし、「それ以
上の創意」を提供できる力量を示した時点で、オレはセラムンにおける
鈴村演出を大いに買っている
。映像人としての鈴村の拘りを実現できる
現場は、この番組以外にはこの地上にないとさえ思っている。いわんや
それが、番組の基本的なナラティブからして大味な平成ライダーなどで
あろうはずがない。

一人の企業人である以上、いろいろ社内の事情もあるのだろうが、ライ
ダーの金看板に拘るよりも、ジャンルの愛好者たちに不朽の代表作を強
烈に印象附けたほうが、長い目で見て己がためじゃないのか
、鈴村よ。

看板番組で十人並みの作品を残した監督の一人として記憶されるより、
傍流であろうが映像人として全力を尽くせる作品で、田崎や舞原に立派
に伍して「あの鈴村」と鮮烈な記憶を残すほうが、男一匹、かっこよく
なおかつお得な選択ではないのか、鈴村展弘監督よ。

「ヲタクの目など気にしない」などとつれなく突っ撥ねてくれるなよ。
大人の映像人の真摯な営為を、リアルタイムで正当に評価し得るのは、
所詮大人の視聴者でしかない
のだから。今現在の子どもたちが、立派な
大人になるまでに、ジャンル作品の素晴らしさを語り継いでいくのは、
オレたち大人の特ヲタなのだから。

ライダーの現場にいる限り、鈴村は田崎に勝てないし、それは単に東映
内部のハイエラルキーの埒内で田崎にはかなりのことができるけれど、
新人・鈴村にはそれほどのフリーハンドが与えられないというだけのこ
とだろうよ。そして、田崎竜太がセラムンからライダーへ忙しく渡り歩
くのは、彼の立場上仕方のない話だが、鈴村展弘はそうではないのでは
ないか。

さらに、平成ライダーの基調となる大味なナラティブの許では、鈴村は
竹光とさえまともな勝負ができないだろう。鈴村演出をして鈴村演出た
らしめているような拘りが、あのナラティブでは物語を語るうえでなん
ら有意に作用しないのだから、勝負にすらならないのだ。竹光の雑駁な
汚物リアリズムも、鈴村展弘の緻密な拘りも、みなひとしなみに大味な
物語のお景物としてオマケの華を添えるのみ
だ。

一方、たださえ監督が三人しかいないセラムンの現場では、「それ以上
の創意」を提供できる人材が舞原一人のみ、「必要最低限の的確さ」を
確保できるスタッフ集団に支えられた監督が一人、残る一人が、経歴と
しては申し分ないが基礎の面では「的確以下」ではなんとも心細い限り
である。個別の番組で田崎竜太を確保することが難しいのであれば、鈴
村展弘レベルの人材がぜひとももう一人欲しいんだよ。

…まあ、帰ってきたら帰ってきたで、また容赦なくツッコミ入れるつも
だけどな(木亥火暴!!)。

そういう意味では、形ばかりの王様のたかまるローテでは、番組生え抜
きのスタッフが目を光らせている以上、最低限の的確さは確保されてい
るが、「それ以上の創意」の部分では、やはり田崎や舞原、鈴村たちの
残した佳作群には、一歩も二歩も譲らざるを得ない。

今回のエピソードでも、原脚本の持つ内実を損ねない程度のレベルは確
保されているが、脚本の余白を豊かな創意で埋め、足らざるを補い過剰
を刈り込み全体の色味を調整する、「もう一人の作家」の目
を感じさせ
るまでの演出とは感じられなかった。

具体的な面に目を向けても、たとえば仲間内では、取り乱して走り去っ
た陽菜を追う衛とうさぎが鉢合わせするシーンのつながりがおかしい、
倒れている陽菜との位置関係も何か変なのでは、という意見があった。
自然なつがなりの感覚で見ると、ここの鉢合わせからすれ違いに至る場
面に、なんとなくぎこちない違和感を覚えるのはたしかである。

しかし、前後をつぶさに視てみると、ここはこれで間違ってはいない
だな。つか、なまじいに辻褄を合わせたために絵面が変になってしまっ
たということなんだろう。つながっていないというより、つながりを考
えたために、変な絵面になってしまったんだな。

つまり、陽菜を追う衛がうさぎと正面から鉢合わせするということは、
普通に考えたら、陽菜が逃げた方向からうさぎが走ってきたということ
になるわけで、うさぎと衛が鉢合わせする以上、それ以前にうさぎと陽
菜がすれ違っていないとおかしいわけだ。

しかし、うさぎと陽菜には面識があるのだから、取り乱している陽菜が
周囲を見ていないのはしょうがないとして、自分のほうに向かって走っ
てくる陽菜にうさぎが気附かないというのはおかしい。だから陽菜とう
さぎはすれ違わなかったけれど、うさぎと衛とは鉢合わせした、という
条件を満たすためには、うさぎと衛が出会したちょうどその地点から鍵
の手に曲がった場所に陽菜が倒れている
という位置関係になるわけだ。

なので、位置関係としては間違っていない…というより、ああいう位置
関係にならざるを得ない。しかし、うさぎと衛が行き会ったあとに、衛
がうさぎの脇をすり抜けて陽菜に駆け寄る、という芝居を附ける場合、
本当ならうさぎの背後に陽菜を置いて、うさぎの前で立ち止まると見せ
た衛が、そのまま行き過ぎてうさぎの奥手の陽菜に駆け寄るような動線
にしないと、見た目がマヌケになってしまう。すれ違いというのは、本
来あくまで一本の動線上で完結すべき事柄
だからな。

要するに、あそこがマヌケに見えるのは、前後の事情から丁字路の交点
で行き違いの芝居を設けざるを得なかったために、本来なら縦の奥行き
の一本の動線上で完結すべき動作が、鍵の手に曲がるという横の動線を
形成してしまったためなんだな。

これをたかまるの失態だというのは、ちょっと気の毒な気がする(笑)。
従来のたかまるだったら、多分そのまま背後に陽菜を置いて「なんでう
さぎは陽菜に気附かなかったんだ」と突っ込まれるというパターンだっ
たのではないだろうか。

竹光ショックの反動でたかまるを庇うわけではないが、ここの動線が無
矛盾であるだけ、スタッフの掣肘だろうが何だろうが、見た目優先で、
しかもその見た目がダメダメだった以前のたかまるイズムよりは、少し
はマシになっている
と思いたいんだな。

しかし、背中から斬られて仮面が両断されるというのは、これはやはり
動作の附け方が間違っているだろう。同じように割って入るのでも、ク
ンツァイトの斬撃の前にステッキを構えて正面から立ちはだかるような
動作であれば、シルクハットと仮面を除いて素顔の地場衛として芝居場
を設ける段取り
に持っていくには自然だったろう。ついでにステッキま
で両断されていれば申し分はない。理由はあとで説明する。

まあ、あくまで比較の問題にはなるが、前回のエピソードのクライマッ
クスで、タキシード仮面=地場衛の正体露見のくだりに不満を覚えたオ
レには、ここで痍附いたタキが「素顔の地場衛」として芝居を演じるた
めにはシルクハットが邪魔だと感じる感じ方は、仮面だけを取り除かせ
た雑駁な竹光イズムよりマシだと思った。

前回ラストの芝居場でも、いきなり仮面に手を伸ばすのではなくシルク
ハットを脱がせてから仮面を…という手順を踏ませていたら、タキシー
ド仮面の扮装を解除して愛しい人の俤を探り当てるという芝居が、動作
のリズムを伴って情感を高めていたことだろう。それ以前に竹光には、
日本人の顔立ちにそのままシルクハットは乗らないという、当たり前の
感覚をぜひ身に着けてほしい(木亥火暴!!)。

タキの全体のコスチュームデザイン上、赤影もどきの仮面という目許隠
しのアイテムがあってこそ、なんとかその珍妙さが緩和されていたので
あるから、帽子を載せたまま仮面を除けば、単に変なナリをした日本人
の相貌
が顕れるのは当たり前のことだ(木亥火暴!!)。

たしかに、大前提の美的感覚として、昼日中に見るタキシード仮面の風
体は、すでにそれだけで滑稽である。タキシードがソアレであるという
TPOの問題以前に、それを「ヒーローの装束」とあらしめるために、
二十代の若者にわざわざ大時代なシルクハットを載せステッキを持たせ
ているからだ。

これがタキシードだけなら、現在でもフォーマルな場面で着用されてい
る衣裳だからさほど異様ではないが、さすがにシルクハットとステッキ
は今時の風俗ではない。仮面とマントはヒーローに共通する窶しの意匠
であって、これをファッションとしての「風俗」と解するべきではない
だろうから、つまりタキシード一式を貸衣装の類ではなく「タキシード
仮面の装束」として日常から異化しているのは、シルクハットとステッ
キというアイテム
だといっていい。

この風体自体がすでに滑稽であるのに、たかだか帽子一つ分の滑稽さの
加減乗除を云々するのはトリビアルに過ぎるかもしれないが、大人の目
から見て異様な風体の男女がシリアスなラブシーンを演ずるという大前
提がある以上、こういう類のトリビアリズムが大いに意味を持つ。

特撮ヒーロー番組においては、「大前提として滑稽である」から「滑稽
でもかまわない」ではない。大前提としての滑稽さが、局面局面の芝居
場のシリアスさを損なわないように気遣う、トリビアルなデリカシー

重要なのだ。

そして、この局面において「素顔の地場衛」という場合、仮面とシルク
ハットはセットであると考えるべきだろう。見た目の滑稽さを回避する
健全な美意識と、装束の成り立ちの両面から考えれば、どうしたってそ
うあるべきだ。

たとえば「バットマン・リターンズ」を例にとるなら、キャットウーマ
ンの前でバットマンがブルース・ウェインの素顔を晒す場面では、ワン
ピースになっているバットスーツの首から上をすべて破り取るという形
になっている。かなりの荒技であるが、さすがアニメ屋出身のアメヲタ
の総大将ティム・バートン、主人公の正体開示において、絵的に必要と
されているのが何か
を見誤っていない。

ラテックス素材のバットスーツの首回りが破れ、そこから唐突に露出し
ているブルース・ウェイン=マイケル・キートンの素顔。それと対峙す
るのは、綻びかけたパッチワークのマスクから金色の蓬髪がまろび出た
キャットウーマン。

すでに綻びかけていながらも、素顔のブルースに「いっしょに帰ろう
と口説かれてもマスクを脱がなかったキャットウーマンだが、愛の復讐
の対象である宿敵マックス・シュレックの冷酷な言葉にあっては一息に
毟り取り、そこから呆気なく顕れるのは憎しみに歪んだセリーナ・カイ
ルを演じるミッシェル・ファイファーの疲れ切った素顔だ。

これなどは、仮面劇における正体開示が物語のクライマックスを緊密に
構成する、いわばお手本のような名シーンだろう。これを絵的に支持す
るのは、たとえば後頭部から前顎にかけて破り取られたバットスーツか
ら唐突に生えているかに見えるブルース・ウェインの日常的な素顔であ
り、キャットスーツと一体化したように歪んだセリーナ・カイルの狂気
の相貌との対比だ。

ヒーローとしての窶しから「素顔を晒す」という最重要な場面において
は、やはり帽子一つ分のトリビアルを論ずべき美学が重要になってくる
のだ。日本人の顔立ちには、そのままではシルクハットが乗らないとい
う見場の問題と、そこから派生する仮面とシルクハットがセットであろ
うという装束の成り立ちの問題、そこまでを考えるべきだったろう。

仮面のヒーローの素顔というのは、窶しの装束の全体性を破綻させなが
ら、日常性を伴って唐突に露出しなければならない
レスキュー・ポリ
スシリーズ
恒例のマスクオフを想定すればわかりやすいだろう。下世話
な喩えでいえば下手糞なアイコラのように(笑)、日常性と祝祭性のキメ
ラとしての突出した異様さを醸し出しているべきだ。

最大限好意的に解釈して、今回のクライマックスで完全に衛の素顔を顕
わすために、前回のヒキではタメを設けたのだ、仮面だけを除き一瞬垣
間見せるのみに留めたのだ、という見方もできるが、後述するような理
由でこの場面の衛は完全に素顔を晒しているべきだったとオレは思う。

今回のクライマックスとの対比でいうなら、アバンでタキが真情を明か
しかけて言葉を飲み込む場面では、手ずから再び仮面を着用し、タキと
しての窶しに戻りマントを翻して立ち去っているが、この動作に帽子が
一つ加わってもリズムは破れない。この芝居場の結末で、衛はタキシー
ド仮面としての窶しに戻る。段取りとしてはそれが最重要なことで、帽
子の足し算引き算でラストの段取りとの対比が生まれるのではない。

そして、今回のクライマックスの素顔の露見では、帽子が床に転がり仮
面が真っ二つに両断され、息絶えなんとする衛にはもはや破れた窶しを
取り繕うだけの余力は残されていないし、そのつもりもない。これだけ
で、すでに対比としての効果は十分だろう。

つまり、クンツァイトの斬撃に衛が斃れる場面の段取りとして最重要な
のは、帽子が吹っ飛び仮面が両断され、不可逆的にタキの窶しが破れる
こと
であって、衛がどこをどう斬られたかということではない。そこか
ら逆算して動作を附けるべきだっただろう。

先に「ステッキまで両断されていれば申し分はない」といったのは、帽
子と仮面とステッキという、タキシードの装束を日常から異化し地場衛
をタキシード仮面とあらしめていた窶しのアイテムを、他ならぬうさぎ
を庇うために破られる、その最期に臨んで不可逆的に素顔の地場衛に戻
る、そういう呼吸が一挙動で完遂されるからだ。

さらに、この三つのアイテムを除いたタキシードとマントの姿で横たわ
る衛のシルエットは、セレニティ覚醒に至って一瞬だけオーバーラップ
するエンディミオン王子のシルエットに相同である。非命に斃れた地場
衛の姿が、過去に演じられた悲劇の姿と相同であること、これがうさぎ
の「まもる」という呼びかけから連続して「エンディミオン」という呼
びかけを引き出すのは、自然な呼吸である。

先ほど触れたうさぎとのすれ違いもそうだったが、動作として不自然な
部分はあっても、肝心要の部分が特撮ヒーローアクション番組の感覚と
して自然である以上、たかまる個人が、というよりやはり現場のスタッ
フの意見が相当に反映され、たかまるローテにおいては最低限の的確さ
が確保されていると視るべきだろうと思う。

おそらく佐藤健光は、一個の映画監督としての経験も手業も、高丸雅隆
を大きく凌いでいるのだろうが、ことこの番組に関していえば、見当外
れの無用な「創意」を持ち込むばかりか的確ですらない時点で、若輩の
監督を擁する「現場」にさえ、はるかに遠く及ばないのである。

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Act.25-2 復讐鬼対白髪鬼

それでは、具体的な現場事情の問題はこの辺で切り上げて、これからは
竹光ローテの二話分まるまるサボった大筋の流れを視ていくとしよう。

そういう事情でかなり過去に遡った話になるが、前回いちばんの大ネタ
は、やはりクンツァイトを中心とするダークキングダム四天王の相克と
いうことになるだろう。

ついにその一端が明かされたクンツァイトの不可解な行動の動機、それ
復讐だった。しかもその復讐の対象は、ベリル一個、プリンセス一個
などという生やさしいものではなく、現在の地球の滅亡をも含む「すべ
て」に対するものであった。

これまで常に小面憎い余裕の笑みを口辺に漂わせ、冷笑的な態度を崩さ
なかったクンツァイトだが、Act.24では一貫して余裕の欠片もない真顔
を通し、これまでの謀略も策謀も嘲弄も、すべてはこの憎しみを晴らす
ための方便であったことが明かされた。

わたしはすべてに対して復讐する。

この言葉に込められた憎しみには、これまで決して本心を明かさなかっ
たクンツァイトの、偽らざる真情が顕れていると視るべきだろう。視聴
者にとっては明白である、ムーンに対するダーキュリーの悪因縁に割っ
て入り、プリンセス・セレニティであるその正体を見越したうえで自ら
の獲物と宣言するからには、その憎しみを疑いようがない。

さらに、その復讐の一手として、いとも無造作にかつての主君であるマ
スター・エンディミオン抹殺に乗り出すからには、クンツァイトが果た
そうとしている復讐の源として、過去の地球王国の滅亡に絡んで取り返
しの附かない悲劇が演じられたこと
が仄めかされる。

それはこの不敵なクンツァイトをして、一個の武人として最も恃むべき
エンディミオンとの主従関係も、四天王の同僚たちとの交誼をも犠牲に
して顧みないほどの絶望に陥れるものであったのか。

その悲劇を根に持つ恨み憎しみを晴らすためには、自身を含めて六〇億
の地球人類すべてが滅んでもかまわない。大いなる邪悪の力であるクイ
ン・メタリアの復活を望むのは、己の憎むすべてを抹殺するために恰好
の力であるからだ。

月と地球のいにしえの両神聖王国が、たとえ星々の間の虚空に漂う塵と
なって消え失せようとも、一人の男がその滅亡に際して抱いた大いなる
憎しみの念は決して消えはしないのか。

この復讐鬼クンツァイトの前に立ちはだかるのは、増大するメタリアの
邪悪の力によって復活した、白髪鬼ゾイサイトだ。無論、ソード・アン
ド・ソーサリー
をもろともに体現する、練達の武人であり強力な妖術師
でもあるクンツァイトの前に、変奇な孤高の楽人ゾイサイトの力はあま
りにも非力ではある。

とはいえ、現世のマスターである衛当人に拒まれても一筋にかつての主
君を信じ抜くゾイサイトの真情にあっては、非情の復讐鬼といえども無
碍に力押しを通せない。そして、破滅に向かおうとするクンツァイトを
断固阻止するというゾイサイトの決意がはっきりと語られたとき、この
会話によって初めて明らかにされたかに見えるクンツァイトの本心に、
オレはかえって疑問を感じた

すなわち、かつての両王国滅亡の悲劇に立ち会ったゾイサイトが、この
現世において再来しようとしている同様の危機を未然に防ぎたい、主君
の覚醒を促したい、今度こそ敬愛する主君には正道に立ち還りその大い
なる滅亡を阻止してほしいと望む気持ちなら理解できる。

しかし、いにしえの悲劇に端を発する復讐を動機として動くクンツァイ
トが、われからその悲劇の再現を仕組む筋道は、どこかねじくれていて
理解に苦しむ

そもそも、大いなる滅亡を自らの手で招来するのがクンツァイトの計画
であるのなら、クンツァイトの抱く憎しみは、かつての滅亡の悲劇それ
自体を対象としたものではない
ということになる。そして、ゾイサイト
が覚醒を呼びかけなければ、破滅の日まで放置するつもりだったという
からには、マスター・エンディミオンを抹殺することや苦しめることそ
れ自体が主目的ともいえない
ことになる。

ならば、これまでプリンセスの炙り出しに執心していたように、主君を
誑かしたプリンセスを苦しめ抹殺することがその復讐の骨子なのか。こ
れもまた違う。ゾイサイトとの会話によれば、クンツァイト自身の見方
としては、かつての滅亡の主原因は、プリンセスが主君を恋に誘ったこ
とよりも、エンディミオンの裏切りによるものであると語られている。

しかし、実際のクンツァイトの行動は、セーラー戦士たちを卑劣な謀略
によって追い詰めることでプリンセスを炙り出すことがメインであり、
それもまたプリンセス当人の抹殺が目的というより、メタリア復活に大
きな影響を持つ銀水晶の発現を目的としたものである。エンディミオン
=地場衛に対しては、積極的に関わろうとさえしていない。かつて彼自
身がクイン・ベリルの下問に応えたとおり「クイン・メタリアの復活」
とそれによる破滅こそが彼の目指す復讐の主要な筋書き
だ。

そして、マスターやプリンセス、ベリルはおろか、地球人類六〇億を含
めたこの現世における「すべて」が復讐の対象であるというのなら、
つての破滅を乗り越えて再生したこの現世の繁栄それ自体を否定するこ
こそが、クンツァイトの最終目的であるということになる。

この複雑に縺れたアヤを解き明かすのは、少し骨が折れる。

コミックスやアニメ、ミュージカルにおいて描かれた過去の滅亡劇を総
覧しても、大いなる滅亡の直接的な責任はメタリアとそれに使嗾された
ベリルにあり、ほぼエンディミオンやセレニティに責任はない。

たしかに月人と地球人の恋愛は一種の緩い禁忌とされてはいたが、明確
に掟として禁じられていたわけではない。コミックスによれば、それは
古人による一種の思い遣りの部類に属する不文律であって、両王国人の
交わりが神の怒りに触れ衰亡を招くという類の、超越存在との違約とい
う意味での禁忌ではなかった。

しかし、クンツァイトが滅亡の主因を「マスターの裏切り」と表現し、
ゾイサイトが「プリンセスのせいだ」と表現するからには、エンディミ
オンとセレニティの悲恋に絡んで、少なくともクンツァイトにとっては
エンディミオンが四天王を裏切ったととれるような状況
が演じられ、
なくとも四天王にとってはそれが滅亡の主因と視られるような何か
が起
こったことになるだろう。

だとすれば、最大限クンツァイトの見地に立つなら、エンディミオンが
セレニティを愛したことで、彼が四天王もしくは地球王国を裏切る結果
となり、そのために月と地球の両王国が滅亡した
、こういう因縁が想定
されており、それに対する復讐が現世におけるクンツァイトの行動の主
要な動機なのだということになる。

一方、その復讐を果たすためにクンツァイトが目指しているのは、第一
にクイン・メタリアの復活とそれに伴う現世の地球人類の滅亡、第二に
プリンセスへの血讐であって、第三にベリル、同等程度にエンディミオ
ン=地場衛の抹殺という順序になって、ゾイサイト介入以前はエンディ
ミオン抹殺は予定外だった
ということになる。

さらに、ゾイサイトの介入がエンディミオンとしての覚醒を促すもので
あり、クンツァイトがそれを阻もうとするからには、直接抹殺しないま
でも、破滅の悲劇を再演することで裏切り者に生き地獄の苦悩を見させ
ようという目論見でもなかった
ことになる。

なぜなら、前世のマスター・エンディミオンが地場衛として未覚醒のま
まであれば、過去世同様の破滅を前にしたエンディミオンとしての衛の
苦悩は、本当の意味では実現しないからだ。単に一個の無力な市井人と
して、自身とは無関係な世界全体の危機としての滅亡に巻き込まれて滅
ぶのでは、前世の裏切りに相応しい苦悩を味わうことにはならない。

さらにいうなら、クンツァイトの言葉を整合的に解釈すれば、彼は滅亡
それ自体よりも滅亡をもたらしたマスターの裏切りが許せなかった
とい
うことになるが、それならばマスター一個の現世での人格である地場衛
を目指して憎しみを燃やすべきであり、現世における地球の滅亡それ自
体に関心はないはずだ。

そして、すでにこの現在においては、月に憎むべき仇敵の裔が住まう王
国は存在しない。地球はかつての彼のふるさとであり、旧王国の滅亡後
に再生した現世の繁栄は、非命に斃れた自らの血脈の力強い復興であっ
て、普通の道筋なら言祝ぐべき事柄のはずだ。それなのに、現世での彼
の関心の在り方はそのまったく逆になっている。

復讐として「すべて」の滅びを主要な目的とするからには、この現世そ
れ自体が復讐の対象であり憎しみの源であるということになる。過去に
何があったにせよ、それによって抱かれたクンツァイト一個人の憎しみ
が晴れないうちに再生し、過去世の悲劇をなかったこととして繁栄を謳
歌するこの現世が許せないとクンツァイトが考えていることになる。

こうした個人の情念の世界大のインフレーションは、たとえば「ジャイ
アントロボ THE ANIMATION
」で幻夜が語る「人は汚れた過去はすぐに忘
れてしまう
」という動機に近縁だが、幻夜の父フォーグラー博士の悲劇
は、曲がりなりにも世界対個人という図式上で演じられた因縁であり、
世界の幸福のために殉じた男を巡る哀しい誤解のドラマだった。

しかし、クンツァイトの場合を考えると、たしかに天秤の一方に載せら
れているのは世界の破滅だが、彼の動機そのものはエンディミオン個人
の裏切りという個人対個人の問題に決着する。それなのに、その復讐の
対象は個人をすり抜けて世界大にインフレーションを起こしている。

この縺れ合った筋道が整合するためには、過去世の因縁がもたらした憎
しみと現世における行動の間に横たわる大きなギャップをつなぐべき何
かが、今後あらためて語られる必要があるだろう。今回のクンツァイト
の言葉がいかに真正なものであれ、彼の言行は大いに矛盾している。

オレたちは、それをよく覚えておくべきだ。今回のクンツァイトの告白
をもってして、何某かの謎が解かれたように思うのは錯覚だ。かえって
謎は混迷の度合いを深めたのであり、このレビューのタームでいうなら
それもやはり小林靖子に課せられた大いなる「宿題」だ。

次回予告で、斃れ伏した四天王たちを前に剣に縋って鬼哭するクンツァ
イトは、何を思って咆吼するのか。かつてゾイサイトが知っていたクン
ツァイトを今の姿に変えたのは、いかなる悪因縁なのか。「花とか自然
とか海とかが好き
」なクンツァイトが、かつての仲間に本気で刃を向け
られるように「変わった」のは何故か。

翻ってAct.13の描写に思いを致せば、シンという「最初からいなかった
男」の繊細な優しさは虚構ではなく、今のように「変わ」ってしまう以
前のクンツァイトの人格を何某か反映したものであり、復讐鬼と化した
非情のクンツァイトは、あのとき初めて生み出されたものなのかもしれ
ないとさえ思える。

次回予告の映像によれば、いにしえの悲劇の際には、仲間たちが斃れ伏
した後までクンツァイトは命の息を長らえ、その最期に復讐を誓ったよ
うだが、その後、ダークキングダムの現世における再興の事情、四天王
籠絡からクンツァイト放逐に至るまでの実際が語られていない以上、こ
の謀略の復讐鬼には未だ多くの謎が残されているのだ。

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Act.25-3 算盤で恋を語る話

ダークキングダムの噂の二人を視てきたあとは、今回最大の問題である
日下陽菜に目を向けるとしようか。これまで衛の愛情を不自然なまでに
まったく疑うことがなかったかに見える日下陽菜だが、今回ばかりは、
打って替わって不自然なまでに嫉妬の炎に身を焦がしている。

ここに、日下陽菜として措定された類型の女性に対する、脚本家の同性
としての悪意
を視るのがオレの感じ方だが、それは満更オレの僻目ばか
りではないと思う。そして、彼女を巡る描写上の最大の問題点は、書き
手の側に、個人的な悪意があること
だとオレは考える。

たとえば、ネットでは陽菜に対する攻撃的な意見も少なからず目にする
が、その論旨に納得できるものはほとんどないにも関わらず、陽菜に対
して反感を抱くに至る心情そのものは理解できる。書き手が込めた悪意
の棘は、このように、ネガティブな形でしか酬われないということだ。

それがいかに稚ない反応であろうが、このように描かれた日下陽菜に対
してストレートに反撥を抱く視聴者がいることは、ある意味、書き手の
自業自得である。

今回の陽菜の態度は、これまでが不自然であった以上に不自然である。
これまでこのように描かれてきた同じ人物に、ここまでのことを言わせ
る必要があったのか?
 オレはそれを問いたい。

ここまでのリアルな不快さが描かれる必要が本当にあったのか。いや、
これまでの陽菜の描写とのバランスを考えると、オレにはそうは思えな
い。今回の陽菜の逆上はどう考えても不必要な真情の暴走にすぎない。

従来の書き割り的な陽菜の描写の深度を考えれば、こうしたリアルな真
情は幕外の内心の葛藤として処理し、劇中ではその「結論」だけを美し
く演じさせ、これまで散々薄っぺらな描き方をされてきた人物に、せめ
てもの花道を用意すべきだった
とオレは思う。

リアリティという観点から視ても、衛への愛情が思い込みにすぎなかっ
たのなら、女持ちのハンカチ一枚で取り乱すというのは、「てにをは」
が合わない。むしろ、思い込みの愛情であったなら、決定的な場面を見
ても、普通一般よりも自身に都合好く解釈するくらいではないのか。そ
れこそが人物描写上のリアリティというものだろう。

今回の陽菜の言動の生々しいリアルさと、従来の連続上にある描写のリ
アリティは、まったく整合していない。リアリティとアクチュアリティ
の不整合
という言い方をしてもいいだろう。

日下陽菜という女には、是が非でも表面を取り繕った美しい姿のままに
退場させたくはなかったのか、小林靖子。

断っておくが、オレは日下陽菜という劇中人物やそれを演じる松下萌子
という一個のグラドルのファンではない。基本的に日下陽菜という人物
には好感は抱けないが、そう視聴者に感じさせる書き手の描き方に、ど
うにも納得の行かない引っ懸かりを感じるのである。

男を引き留めるために、彼の抱えるいちばんの弱みを衝き、しかも哀願
の身振りで惻隠の情に訴えること、これはたしかにアクチュアルだ。人
には、どんな手段を講じてでも愛する人を引き留めたい瞬間がある。

つまらないプライドを抛ってでも、自身の公正さを恃む矜持を裏切って
でも、愛しい人を振り向かせるという「結果」だけをただ一筋に得よう
と欲する瞬間がある。それは日下陽菜であろうが、他のだれであろうが
同じことだとは思う。

愛情の問題は、公正さで裁いてはいけない。美しくあれ、直くあれと望
んではならない。まして恋の闘争においては、結果だけが尊ばれる。早
い話が、どんな汚い手段を弄してもゲットしたもん勝ちの世界である。
それは、現実としてそういうものだからしょうがないという意味ではな
く、本来そうあるべきものだという意味だ。

なぜなら、以前亜美ちゃん問題に絡めて「独占的な二者関係」と表現し
たような異性間———無論、この現代においては同性間でも一向にかま
わないが———の関係性においては、理が絶対的なプライオリティでは
あり得ない
からである。

この関係性においては、異性という絶対的な他者をゼロ距離で許容する
という理不尽な間合いが強要される。その間合いでは、本来他者との関
係性を調停するためにあるべき理が、人に耐え得ないほどに重くなる場
面があるのだ。

本来、理というのは、理によって裁かれる人の心を一旦閑却する前提で
成り立つものだが、独占的な二者関係を円満具足に維持するためには、
心の問題を閑却することは不可能だからだな。

理によって裁くことで二者関係の調停を強要する第三者が介在しないか
らこその二者関係なのであるから、理に基づく裁きが本来的に不満の充
足や憤りの解消を目的としたものではなく、第三者にとっての客観的な
公正さの回復を目的としたものである以上、理は二者関係の円満な維持
を本質的に保証してくれないのだ。

ただし、これは非常にアクチュアルな生活知のレベルでの問題である。
物語の語りの作法の観点では、自ずから問題は異なってくる。つまり、
物語で描かれる恋愛劇においては、劇中人物の円満具足な二者関係の維
持がプライオリティとなるのではなく、それを見守る観客の感じ方がプ
ライオリティとなる
のである。

汚い手段を弄して恋愛の勝者となることが、現実においていかに当たり
前の事柄であろうとも、それを見守る観客を措定した場合、理が踏みに
じられたことに対する不快感を催すのは十分に予想されるだろう。下世
話な表現でいっても、たとえば現実の恋愛の闘争において、姑息な手段
で恋人を勝ち得た人間に対しては、だれしも反撥を抱くものだ。

物語というのは、そうした一般的な観客層が現実的に抱いている感情に
も配慮する必要がある。恋愛劇を離れていっても、たとえば極端な話、
テレビドラマの鉄則として、犯罪としての殺人を犯した人間は必ず死ぬ
か司直の裁きを受けるという決め事がある。

これなどは、大括りな大衆一般の倫理感情に配慮した決め事だし、そう
あるべきだというつくり手の側に求められる倫理そのものでもある。

物語は、ことに映像作品は、観客によって視られるために演じられる
メーシス
である。現実そのものではなく、そのまねびである。そこで働
く第一原理は、今このように在る現実の在り様ではなく、そう在るべき
と人が憧れる現実の在り様だ。

調子に乗って随分と遠くまで来てしまったが(笑)、話を陽菜に戻すと、
今回問題となる陽菜の態度は、「恋する女ならそれもアリ」「陽菜は陽
菜なりに一生懸命」「お嬢のプライドをかなぐり捨てた健気さ」と視聴
者を刮目させる類のリアリズムではなく、どこか竹光チックな泥臭いリ
アリティで、まぎれもなく日下陽菜という書き割りキャラを本物の悪役
に仕立て上げるための方便
に見える。

これはいつもの小林靖子の、「自身のリアリティに対する頑固なまでの
誠意」ではなく、「自身の悪意に対するナイーヴな無防備さ」ではない
かと思う。小林靖子という一個人が、日下陽菜的なる類型の女性に対し
て悪意を抱いているのは、最早疑いようもない。しかし、いかに物語の
キャスティングボードを握る作者といえども…いや、それだからこそ、
自身の裡なる個人的な悪意は、厳しく律するべきではなかったか。

今回の陽菜の態度は、自分のものだと無前提に信じ込んでいた餌を野良
犬に横取りされそうになり、パニックを起こした飼い犬のヒステリーに
しか見えない。普通に描けばそういう下世話な喩えにはまり込んでしま
うような修羅場を、そのまんま描いているのだから仕方がない。

そのイタさを存分に検証するために、例によって今回の陽菜のセリフを
逐語的に追ってみよう←やめとけよ(笑)。

ほっといて。わたしなんかいなくなったほうがいいでしょ。

わたし、ほんとバカだよね。小さいころから衛といっしょにいるのが当
然で、衛がわたしのことをどう思っているのかなんて、聞いたこともな
かった。

もういいよ。だれか好きな人のところへ行けば。

このセリフを聞いて不愉快にならない視聴者はいないだろう。なぜなら
陽菜は、本当に自分が「いなくなったほうがいい」とか「ほんとにバカ
」とか「だれか好きな人のところへ行け」などと思ってこう言ってい
るのではない。あなたは内心そう思っているのだろうが、それは自分に
対して不当だ、そうは問屋が卸さないぞ
、と責めているのだ。

自分が「いなくなれ」と邪魔にされている不満、バカにされたという不
満、だれか好きな人のところへ行こうとしている衛への不満、このよう
に、自身の衛に対する既得権益が犯されたことへの不満を、徹頭徹尾当
て附けの皮肉としてぶつけているだけだ。

普通に考えれば、これまで衛の気持ちを確かめなかったのは、陽菜に非
のあることであって、裏を返せば、自分の衛に対する気持ちは応えられ
るのが当然だと無前提に信じ込んでいて、衛の気持ちなんか一度も思い
遣ったことがなかったということだ。

これが反省の言葉として口にされるのであれば、最低限、衛にとっては
恩人の娘であり温室育ちの社長令嬢たる日下陽菜の立場として、精一杯
の誠意となる。しかし、衛を責める言葉として発されるのであれば、父
が拾ったどこの馬の骨とも知れない過去なき男を、自身の所有物として
見下していた傲慢さ
が、かすかに顔を覗かせてしまう。

衛、ずっといっしょにいて。わたしのパパは衛の恩人なんだから。パパ
がいなかったら、衛…だから、わたしのことをきらいでも、いっしょに
いて、お願い。

先に引いた言葉のあとの彷徨の末に、妖魔にエナジーを奪われて倒れ伏
した陽菜は、強気な当て附けから一転して、卑屈な哀願に走る。これは
妖魔にエナジーを奪われたために気弱になっちゃったとかそういうこと
じゃなくて(木亥火暴!!)、一種「バーゲン」の呼吸だということだ。

強気に責めたあとに卑屈な哀願に走るのは、よくある駆け引きの呼吸で
ある。先のセリフでは、自分がいかに不当に扱われているかを並べ立て
て相手を揺さぶり、今度は情のしがらみに訴えて、「きらいでも」いっ
しょにいて欲しいと哀訴している。

心覚えのある向きからすれば、日下陽菜という人物に対してつくづく嫌
気の差す瞬間だ。女が卑屈に発する「きらいでもいっしょにいて」など
という言葉は、到底真に受けてはいけない

これはつまり、「好きになってくれ」と無理押しに言っているのに等し
い。「きらい」という強い表現を殊更に使うのは、「きらいなはずがな
い」という前提において、わざと相手が怯むほどに強い言葉を選んでい
るのである。勢い、相手は「きらい」というほどの強い忌避感はないの
で「きらいじゃない」と言わざるを得ない、その接ぎ穂の呼吸で「だっ
たらいっしょにいて」「好きになって」という流れになる。

はっきりいって、今回の陽菜の芝居場はただの二カ所しかないにもかか
わらず、さしたる長台詞でもないにもかかわらず、書き手のネガティブ
な智恵が周到に駆使された、持って回った不愉快なセリフを言わされて
いる。それは、これまで陽菜に対して漠然とした反感を抱いていた視聴
者にとっても、ハッとするくらい不愉快な悪意の露呈と感じられる。

非常にメタフィクショナルなレトリックになるが、オレは今回の陽菜の
扱われ方を子細に検討するうちに、日下陽菜という人物に対して哀れみ
を感じるようになった。この女が視聴者に憎まれる観客心理は痛いほど
によくわかる。しかし、じっさいこの女の本来的なポジションにおいて
は、それほど観客に憎まれるべき筋合いなどはないはずなのだ。

日下陽菜は、今回のエピソードにおいて、にわかに「スチュワーデス物
語」における片平なぎさ
の地位に転落した…あるいは昇格したというべ
きか(笑)。ただの障碍物に過ぎない書き割りキャラだったはずなのに、
唐突に名と実を具えた悪役に成り上がった。

そして、二度目のセリフは、衛の抱える個人事情を衛自身の言葉によっ
てうさぎに明かすための、きっかけのダシとして言わされている。さら
には、それを受けたうさぎが陽菜の辛さを思い遣ることで、陽菜の醜い
駆け引きとの対比においてうさぎの純粋さを引き立てるダシにも使われ
ている。

ここまで便宜的に使われている人物は、あまりにも哀れだ。

さらに、陽菜と衛の間で問題となっているのは、「結婚」であって「恋
愛」ではない。一足飛びに「結婚」である以上、それを支持すべき愛情
が思い込みにすぎなかったのであれば、衛と陽菜は普通一般にいう恋愛
関係ですらなかった
ということになる。

これは辛い。

恋人が自分以外の人を好きになったのではなく、自分たちが恋人同士で
すらなかったことを唐突に暴露されること。これは辛い。

本来的には、こうした耐え難い辛さを味わう人物として、陽菜は描かれ
るべきではなかったのか。そのうえでこそ、うさぎの「陽菜さんが辛い
思いをすることを、忘れてた
」という、恋のライバルをも思い遣るセリ
フが活きてくるのではなかったか。

しかし、今回の陽菜の二度の芝居場は、視聴者がそう感じるには、あま
りにもあざとい悪知恵が突出している。これを素直にリアルな女性の真
情と取るには、駆け引きの呼吸が毒々しすぎる。せめて虚構を虚構とし
て扱うメタフィクションの観点から、陽菜という劇中人物の在り様を哀
れむのが精一杯だ。

しかも、今回の落とし所としては、辛い気持ちを堪えて二人を逃がし、
妖魔に立ち向かううさぎを救おうとする衛を、今度ばかりは陽菜が引き
留め、衛は陽菜を宥めるために「必ず戻ってくる」と約束する。その様
子を視て、自分と衛の間に割って入った人物がうさぎであることを確信
する陽菜だが、一方の衛はうさぎのピンチに命を抛つ。

オレはおまえの気持ちに応えることはできない。せめて…

つまり、衛はうさぎに対する気持ちと陽菜に対する義理あいを自分なり
に調停するために、自分の一命をもって替えようとしたのだ。これは、
陽菜に対して「戻ってくる」と言ったのは確信犯の嘘だということだ。

陽菜があそこまでのことを言ってしまったあとでは、衛にはうさぎの気
持ちに応えることはおろか、陽菜の気持ちに応えることもできなくなっ
てしまった。相手に「わたしのことをきらいでも、いっしょにいて」と
まで言わせてしまったうえで、相手が自分の気持ちを察していることが
明白な状況で、本当にいっしょにいられるものではない。

衛は、もう還ってこないつもりで陽菜に嘘を吐いたのだろうし、うさぎ
のために死を選ぶことで、うさぎの気持ち、うさぎへの気持ちに殉じる
覚悟であったのだろう。「これが、最後だ」という衛のセリフは、もう
一回だけタキになってうさぎを助けるという意味ではなくて、これでケ
リを附けるという覚悟
の顕れであったのかもしれない。

今回の陽菜の言動は、それがいかに不愉快なものであれ、本質的には先
に喩えたように、つまらないプライドを抛ってでも、自身の公正さを恃
む矜持を裏切ってでも、愛しい人を振り向かせるという「結果」だけを
ただ一筋に得ようと欲する真心から出た言動である。ただ、物語のなか
の人物には許されない卑劣な算盤を弾いた
ことが、視聴者に言い様もな
い不快感を与えてしまった。

その心情がいかに純粋なものであれ、行為として不純であれば容赦なく
罰されるのが、物語の登場人物に適用される冷酷な原理である。

その不快な打算は、決着するところ「女の浅知恵」と旧弊な指弾を蒙っ
ても仕方のない愚かな行為にすぎず、愛しい人の心を引き留めることは
おろか、その人をして己の恋の仇敵のために命を抛たせるという皮肉な
結末を招く。しかも、死地に赴く人を引き留めようと掴んだ袖を離させ
るために、空々しい嘘まで吐かれている。

醜い打算は空しい嘘で酬われ、心を分かち合うことが叶わぬならせめて
その身柄だけでも得たいという望みは、心も命ももろともに仇敵に奪わ
れるという最悪の皮肉でもって酬われる。

日下陽菜は、自ら美しく身を引くという選択肢が十分以上に許されてい
る立場でありながら、見苦しいまでの打算を駆使して惨めに取り縋った
その挙げ句、愛する人とその人が愛した人に、完膚なきまでの敗北と屈
辱を舐めさせられた。

それでなくとも辛い別れを最初の最初から運命附けられている気の毒な
女性に、身も世もない打算の酬いとして惨めな敗北と屈辱を周到に準備
すること、これはやはり語り手の悪意以外の何ものでもない。

何よりそれは、劇中人物に対して公正ではない。初手から割を喰わされ
ることが決まっている人物には、それに見合うだけの見せ場を与えるの
が、娯楽作品の作劇に求められる公正さの感覚というものだろう。

そしてそれは、たしかに女の醜い部分に対する過剰な悪意に関する問題
ではあるのだけれど、小林靖子個人のジェンダーが女性だからどうだこ
うだという話ではない。

「同性の厭な面」という言い方なら男性にだって適用可能だし、さらに
いえば「異性の厭な面」に対する厭悪の感情、つまり異性に対するルサ
ンチマンの類なら、老若男女を問わずだれにだってひとしなみにある。

それは、いってみれば最もデリケートな個人のプライバシーに属する事
柄なのであり、いかな物語の語り手といえども、心の奥底に大事に秘め
ておいて差し支えない事柄だろうと思う。さらには、娯楽の分野に携わ
る者の嗜みとして、物語作法上求められる自律として、今回のように生
の形で物語に表出させるべきではなかったとも思う。

ジェンダーの問題や表出した悪意それ自体の不快感の問題を離れていっ
ても、今回の描き方によって、日下陽菜という人物がこの先この物語の
表舞台から退場するに当たって、何をどうしようと今回描かれたような
内実がその真情だということが、必要以上の強さで視聴者に印象附けら
れてしまった

こうした辛い真情を抱えたままで、人としての矜持に悖るアティテュー
ドを現実に行ってしまったという耐え難い記憶をふまえたうえで、視聴
者が納得できるような退場の道筋をこの人物に用意することは、絶対に
できない
。そして、この人自身が納得したうえで物語から身を引かない
限り、うさぎと衛の恋は、だれかの気持ちを不当に痍附けて得られたも
だと意味附けられてしまう。

畢竟するところ今回の陽菜のくだりは、不必要なばかりではなくシリー
ズ構成上の無視できない障碍となってしまっている。そしてそうした錯
誤が犯されるに至ったあり得そうな理由が、書き手の個人的感情以外に
見当たらない
、そこがいちばんの問題点ではないかと思う。

それを回避し得るチャンスはたしかにあったはずだ。きちんと脚本の読
解ができる監督との台打ちの場面で、許され得る程度を超えた書き手の
感情の暴走を掣肘することもできたはずだ。しかし、いかに現場の構成
が良い方向へ向かっているとはいえ、根本的に脚本の読解が弱い高丸雅
隆個人にそれを求めるのは、ないものねだりというものだろう。

それは一種不運な巡り合わせでもあったし、先に触れた人材難という、
この番組の抱える現実的なウィークポイントでもあっただろう。それゆ
えに、日下陽菜を巡る今回の描写に関しては、個別の描写として不快を
感じる以上に、この番組の一ファンとして遺憾であると思う。

…しかし、「かあいそうだとはほれたということよ」という漱石のセリ
フに倣うなら、オレは陽菜に惚れていることになるが(木亥火暴!!)、つ
くづくオレって一途でダメな女に弱いんだのう(木亥火暴!!)。

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Act.25-4 木馬が廻る

さて、衛と陽菜の関係を視てきた以上、物の順序として、うさぎと衛の
関係にも目を向けないわけにはいかないだろう。

先に触れたアバンの芝居場は、これまで複雑に錯綜していたすべての事
情が露見して、瑞々しい羞恥から逃げ去ろうとする少女を、男の手が力
強く引き留め、思わせぶりに言いかけて口を噤みそのまま立ち去る…と
いう王道中の王道パターンで視聴者のハートを鷲掴みにする。

前回も含めて、ここの芝居場の段取りは、互いに知っていることと知ら
ないことがややこしく錯綜していた男女が、その縺れ合った糸玉をてい
ねいに解きほぐしていくプロセス
を簡潔に描いていて快い。そして、的
確な段取りとして快い以上に、男女の間の事柄の決定的な場面が演じら
れる芝居として、節度のあるエロティシズムが快い。

たとえば、前回のスタジオの場面の告白は、セーラームーン対タキシー
ド仮面という仮面の関係性において、月野うさぎが地場衛に寄せる想い
をそれとは明かさずに語っている。

うさぎ視点では、セーラームーンとしての仮面を帯びた自分が想いを寄
せるだれかについて、それがだれであるかを知らない第三者のタキシー
ド仮面に吐露しているという形になる。もちろんこれは、セーラームー
ン=月野うさぎと知る衛の視点では、逆転してタキシード仮面対月野う
さぎの関係となっている。

しかし、タキシード仮面の正体が他ならぬ地場衛であると知れた後は、
うさぎ視点ではセーラームーン対地場衛の関係となり、衛視点ではうさ
ぎに先駆けて地場衛対月野うさぎの関係性の次元に降りてくる。ここま
でくれば、あと一息である。

うさぎは、セーラームーンとしての窶しに託した真情の吐露が、結果的
には当の本人を相手にした告白となっていた事実を悟ってしまい、羞恥
のあまり辛うじて残されたムーンの仮面をかき合わせてその場を逃げ去
ろうとするが、一足早く素顔の次元に踏み込んでいた衛が「うさぎ」と
呼びかけることで、ようやく両者平等に月野うさぎ対地場衛という、
べての窶しを抛った裸の地平
に着地する。

このようにていねいに段階を踏んだ正体開示のプロセスは、本質的にエ
ロティックな性格を孕んでいる。バタイユのエロティシズム論を引くま
でもなく、秘め隠した素肌が唐突に暴露される瞬間には、当然エロティ
シズムが発生する。それは実際の素肌ではなく、抽象的な意味合いにお
ける皮膚性や肉体性であっても同じことが成立するとオレは思う。

しかもそれが、初手から大胆に素肌を露出したコスチュームの女性ヒー
ローにまつわる正体開示であり、さらにはそれが、どうにもならない袋
小路の苦しい恋心がようやくにして淡く酬われるタイミングであること
で、二重三重にエロティックなニュアンスが加味される。

そもそもセーラー戦士のコスチュームは、ヒーロー番組における意匠面
のエロティシズムとしては、ほぼ限界に達している。これ以上だと下品
に渉るし、イメクラ的な性行為に直結した露骨な欲望の領域に踏み入っ
てしまう。

しかし、これ以上脱がせようも見せようもないコスチュームを前提とし
て物語を語る場面で、さらに「脱がせ」のエロティシズムがあり得ると
したら、今回のこのシーンは、ヒーロー番組屈指のエロティシズムを現
出しているといえるだろう。

ほぼ素顔をまんま晒していながら、しかも作劇上正体隠しにはとことん
無頓着でありながら、面と向かってはだれもセーラー戦士の正体に気附
かないという、きわめて東映特撮ライクな約束事を前提とした話ではあ
るのだが(笑)、エロティックなコスチュームの女性ヒーローに関して、
さらに表面上の意匠を超えたエロティシズムが成立するというのは、東
映特撮史上まことに希有な事態である。

たとえばそれを側面から盛り立てる要素としては、いつものように脚を
流して横座りしたムーンの女性的なたおやかなかたちであったり、膝頭
の曲線やストッキングのあえかな光沢であったり、ここ一番で妙に女性
的なリアリティが突出する沢井の切なそうな表情芝居や、上ずり裏返っ
たセリフ廻しであったり、名を呼んで引き留めるために少女の腕を掴ん
だ男の手の力強さであったりするのだろう。

たしかに、エロティシズムというものは、抽象的な観念のみでは生起し
ない。具体面における肉体性を伴ってこその扇情性ではある。その意味
では、健康的で外向的なバスケ少女の内面に潜む女性的な肉体性がヴィ
ジュアルに強調されているという具体的なディテールは無視できない。

しかし、この場のエロティシズムの核となっているのは、ていねいで段
階的な開示が醸し出すスリリングな脱衣のプロセスの暗喩、それに加え
て、月野うさぎという少女の素顔と彼女の抱える恋心が、すでに裸にさ
れていたという事実を、当の相手から唐突に暴露される瞬間の羞恥、こ
れである。

今まさに衣服を解かれて裸にされることよりも、自分がすでに裸にされ
ていたこと、裸の自分をすでに視られていたことを唐突に識らされる瞬
間の羞恥
のほうが、はるかにエロティックなものだ。

そして、こうしたエロティシズムは、演出や演技によって具体化される
過程で現出されたものではなく、そもそも脚本の構造に内在している要
素であると思う。このような淫靡な要素が、明晰で理知的な印象のある
小林靖子の作為から発するとは、ちょっとした驚きである。

ただ、この場面で唯一引っ懸かりを覚えたのは、衛の思わせぶりな一言
を受けたうさぎが、恋の希望にカラリと微笑む落とし所である。

たしかに、月野うさぎというキャラクター描写の振れ幅としては、この
ような「今泣いたカラスがもう笑った」的なヴィヴィッドな感情の動き
もアリだとは思う。しかし、常日頃の明朗なキャラクターが、衛を前に
すると恋する少女の初々しい惑いに揺れる辺りのギャップが、この場面
の瑞々しい情感を支えていたのだから、ここは笑わせないほうがよかっ
たのではないかと思う。

OP明け以降のうさぎの感情とのつながりからいっても、晴れやかに微
笑むほどの希望という描き方でないほうがよかったのではないか。むし
ろ、恋心の暴露がもたらす羞恥の混乱のただなかで、これまで一筋に見
つめ続けてきた相手が唐突に見つめ返してきた、ここはおののきの芝居
で受けるべきだったのではないだろうか。

恋は、心に秘めた片恋であるうちはそれほど怖いものではない。愛しい
人を狂おしく見つめる一方的な視線のみが、それを恋としてあらしめて
いる。求めて得られないうちは、恋とは怖いものではない。それは、そ
の恋を心の奥底の未決箱に埋めてしまうも、派手な花火を打ち上げて自
滅するも、未だ可能性としてはイーブンで、選択は自分自身のフリーハ
ンドに委ねられているからだ。

しかし、片恋であると思った気持ちが唐突に酬われてしまうこと、これ
怖いことだろう。もはやその気持ちは、自分一個の自由裁量にはなら
ない。自分が求めたからこそ相手が応えたのであり、絡み合ってしまっ
た互いの視線は、もはや自分一個の気まぐれで逸らすことは叶わない、
もはや自分の意志で後戻りすることは不可能である。

独占的な二者関係とは、言葉を換えればきわめて不自由な束縛しあう関
係性
である。束縛しないのであれば、それはすでに独占ではない。恋の
場面において、機を一にして男女の気持ちが惹かれ合う事態が稀である
ことを考えれば、昔の歌じゃないけれど、だれかを想う気持ちが応えら
れる瞬間とは、大きな自由を手放す瞬間でもある。求める気持ちに応え
る相手は、本質的に自分に対して束縛を要求する者である。

そんな面倒な理屈はどうあれ、一方的に追い求める相手が唐突に振り向
く瞬間、人はおののきを感じるものだと思う。下世話な喩えでいうなら
ば、声を嗄らして追い掛けていたひったくりが、突然クルリと振り向い
て向かってきたら怖いだろう(木亥火暴!!)。

…ああまた不適切な喩えを弄したために、かえって話がわかりにくなっ
てしまったな(木亥火暴!!)。

とにかくオレは、個人的な感覚として、この纏綿たる芝居場の落とし所
でカラリと微笑んだうさぎを憾むものである。

以前から疑問を呈していた監督ローテをまたがるアバンの問題があるの
で、ここはひょっとして佐藤監督の担当だったのかもしれないし、絵的
な面でも、抑えめではあるが前回ラストの逆光演出を受けている。たか
まる演出における芝居の解釈の問題として視るべきか、佐藤監督の感性
の問題として視るべきなのか迷うところではあるのだが、所詮それは、
オレ個人の嗜好の問題ではあるだろう。

さて、アバンのもたらした希望を受けて、うさぎの心が頂点目指して舞
い上がったからには、その対比において絶望のどん底に叩き込まないで
はおかないのが、この物語の情感の力学だ。

先に詳述した陽菜のくだりがあって、衛の真情を問い質そうとしたうさ
ぎは、予想以上の真相の衝撃に打ちのめされ、思わぬ嬉しさにまたして
も亜美ちゃんを忘れて己の恋に溺れそうになった気持ちを愧る。

前述のとおり、ここは陽菜を巡る描写の問題が尾を引いて、恋敵をも思
い遣るいつものうさぎの前向きさが、だれかを踏み台にして描かれた美
に見えてしまうのが残念ではある。

そして、衛の辛い立場を思い遣り、せめても見つめ返してくれた気持ち
をよすがに、妖魔との戦いの場に赴くうさぎを待ち受けるのは、うさぎ
をプリンセスと見抜いて復讐の炎を燃やすクンツァイトと、当然のよう
に悪美のダーキュリーだ。

今回はこのクライマックスまでいっさい出番がなく、唐突に出現した悪
美が、以前まで「月野さん」と呼んでいながら、Act.22以降のエピソー
ドで「う・さ・ぎ・ちゃん」と茶化すのは、ダイアログの芸が細かい。
おそらくこれは、銀水晶の光を受けて一瞬垣間見えた囚われの亜美ちゃ
んが、「うさぎちゃん」と名を呼んだことの悪意的なパロディだ。

これもまた悪意の描写ではあるが、悪美の悪意がうさぎを痍附ければ痍
附けるだけ、亜美ちゃんにまつわる問題は深みを増す。この悪意の描写
は不必要ではない。

プリンセス守護の三戦士があえなく氷結の憂き目に遭い、妖魔と復讐鬼
と造反の戦士に囲繞され孤立無援のムーンを襲うクンツァイトの必殺の
刃を、わが身をもって庇うのは、陽菜を欺き「これが最後」と覚悟を決
めた地場衛のタキシード仮面。復讐鬼の斬撃はかつての主君を深々と切
り裂いて、窶しの意匠を解除する。

セーラームーンとしての窶しのままに、恋する一人の少女である素顔の
月野うさぎとして、愛する一人の青年である素顔の地場衛をかき抱き、
初めて「まもる」と名を呼ぶうさぎだが、これは衛が初めて「うさぎ
と名を呼んだAct.15に対する待ちに待ったアンサーだ。

そういえば、あのエピソードでも不必要なまでに派手な背中落ちがあっ
たけれど、つくづく丈夫な地場衛は平然と腕の痍口に今回の騒擾の元に
なったハンカチを巻き、その場を歩いて後にした。しかし今回、末期の
息を励まして己の真情を語り終えた衛は、いつもの丈夫さを見せてはく
れず、愛する少女の腕のなかで息絶える。

アバンにおいて、月野うさぎと地場衛の素顔の地平上において見つめ合
うに至った二人は、一人が一人のために命を賭ける悲劇を体験すること
によって、さらに前世の二人としてあらためて覚醒しようとする。

この瞬間は、「うさぎ」という呼びかけに対して初めて「まもる」と呼
びかけた瞬間であり、互いに想い合う男女の気持ちが死を媒介にして初
めて結ばれた瞬間であり、はるか遠い過去に演じられた悲劇が再現され
た瞬間でもある。うさぎが初めて「まもる」と名を呼んだことが契機と
なり、「エンディミオン」という封じられた真名が口にされる。

こうした劇的な高まりが、うさぎの真の記憶を刺激して、いよいよプリ
ンセス・セレニティが劇的な姿を現す。

そして、プリンセス覚醒による銀水晶の発動に際して、クンツァイトが
咄嗟にダーキュリーをマントで庇うのも芸が細かい。ここにもAct.22
明確なエコーがあると思う。邪悪なるものに対して、銀水晶の力は危険
である。火事場の馬鹿力的な小規模な発動ですら、ダーキュリーを縛る
邪法を解消して真の亜美ちゃんの姿を垣間見せた。

未だ手駒として有用であるダーキュリーを手放すわけにはいかないクン
ツァイトが、銀水晶の力がダーキュリーに及ぶのを懼れるのは当然だ。

しかし、いよいよ出現したプリンセスの衣裳が、あまりにも清楚寄りの
デザイン
であったのは、ちょっと拍子抜けしないでもない(笑)。ここは
たしかに、未だ王女にすぎないセレニティの清楚さと、非日常性を強調
するデザイン性の兼ね合いの問題があっただろう。しかし、もう少し、
夢の世界の王女様らしい装飾性があってもよかったような気がする。

ただし、この場面のセレニティが絹の寝巻きを着た湯上がりのお姉さん
に見えないのは(見える人もいるかもしれんが(笑))、やはり沢井の表
情芝居の妙と、何よりも照明の力に負う部分が大きいだろう。松村カメ
ラマンの復帰以来、あまり意識することがなかった斗沢秀の仕事ぶりだ
が、このプリンセス出現の場面では、照明の素晴らしさが際立っている
と思う。

プリンセスをプリンセスとして見せるのは、衣裳のデザインとかメイク
とか、そういう装飾面の意匠だけの問題ではない。常に優しく静かな月
光に包まれているかのような光の戯れこそが、プリンセス・セレニティ
としての非日常性を支えている。白いシルク様の光沢地のドレスは、魔
法のような光を受けて豊かな表情を見せている。

まあ、デザイン面の喰い足りなさは喰い足りなさとして、ここぞの場面
でいい仕事をしてくれた斗沢あればこそ、この演出で見せられるなら、
オレはこのセレニティを真のプリンセスと認めよう…ちょっとガンダム
ZZのサラサとラサラ
に似てるけどな(木亥火暴!!)。

最後はちょっとした小ネタとなるが、選択肢の問題として過去世のプリ
ンセスとエンディミオンは、うさぎと衛とは別の役者が演じるという方
向性もあったのではないかと思う。現に以前の衛の夢の場面では、別の
女優が演じているのだから、あのエピソードの時点から今回までの間に
最終的な判断が下されたのだろうと思う。

まあ、前世と現世の役者が違うと、今回のクライマックスのような場面
では少し描き方に智恵が必要となるが、細かい整合性に拘るなら、前世
と現世の二人を同じ役者が演じることは、ストーリーに無視できない矛
盾をもたらしてしまう。

つまり、それぞれの転生者の前世と現世の姿がまったく同じだというこ
とになると、現世においてヴィーナスが演じる影武者に、少なくとも過
去世の記憶を持つベリル、クンツァイト、ゾイサイトが気附かないとい
うのはおかしい
ことになる。ベリルは役割上、過去世ですべての関係者
の顔を見知っていただろうし、四天王は四天王で、月王国の四守護神と
まったく面識がないというのは考えにくい。

そもそもの最初から、ヴィーナスが四守護神のリーダーであることはわ
かっていたはずだし、ヴィーナスがいかに陽動しても、前世においても
ヴィーナスが実はプリンセス・セレニティの仮の姿であったと考えると
は思えない。

まあ、過去世におけるセーラー戦士団が四守護神+ムーンの編成であっ
たかどうかという問題はあるが、前世ではセレニティがムーンに変身す
ることもなく、四天王たちにプリンセスと面識がなかったとしても、前
世ではいなかった新戦士のムーンに不審を抱くというのは、あってしか
るべき当然の疑いである。

ただまあ、これは細かく詰めていけばそういう矛盾もあるという話では
あるし、そこを整合させるか前世と現世で役者を替えることでややこし
い事態を招くかは、悩みどころではあっただろう。視聴者一般がそこま
で気にしないのであれば、それはそこまでの話である。

それから、亜美ちゃんがダークキングダム内で孤立するネフライトに心
ならずも同情を寄せる
のは、悪美を形づくる亜美ちゃんの疼きの表出と
して自然だが、よりにもよってその相手が口先野郎のネフライトかよ、
というツッコミは免れないなぁ(木亥火暴!!)。

前回は、見苦しい姿でベリルの前に逃げ戻った敗残者ネフライトだが、
佐藤演出では、この場面のネフライトに対して妙に同情的なものを感じ
たのはオレの錯覚か(笑)。

やっぱ、汚物大好きの竹光だけに、みっともなく汚れて屈辱にまみれた
男には思い入れでもあるんだろうか(木亥火暴!!)。そんな惨めな敗残者
に対して、コケットリーな美少女が素っ気ない優しさを見せるというノ
リにグッときちゃったりするんだろうか(木亥火暴!!)。

ああ、やだやだ、虫酸が走る(木亥火暴!!)。

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Act.26 時の娘

Act.25のコメントがあれだけ膨大化したのは、佐藤ローテ二話分の筋立
ての回収のせいもあるのだが、うさぎと衛の恋を阻む最大の障碍であっ
た日下陽菜がここに来て予想外の修羅場を演じ、そこからの流れでうさ
ぎのプリンセスへの覚醒が描かれるという大一番であるがゆえ、という
側面もあった。

明けて今回のAct.26は、前半がこれまでの筋立ての説明編、後半が衛の
旅立ちを描くという構成で、セーラースタータンバリン投入、セラルナ
顔見せという小ネタもあるにはあるが、第一部終了に際してのエピロー
グという性格の落ち着いたエピソードだ。

そして、今回のエピソードを通じてあらためて強調されているのは、う
さぎと衛の恋の不可避性と、周囲の禁止というテーマである。この宿縁
について、ルナが語る記憶を逐次的に再録してみよう。

るかむかし、地球はひとつの国で、月には王国がありました。ふたつ
の国は光と緑にあふれた美しい国でした。そんななかで、地球の王子と
月のプリンセスは、恋におちました。

地球の王子と、月のプリンセス。ふたりはとってもふかく愛し合ってい
ましたが、じつはそれは、禁じられた恋だったために、わざわいがわざ
わいを呼び、月の王国と地球の王国は戦いを始め、ついには、大いなる
悪によって地球は滅亡し、月の王国もほろんでしまいました。

ヴィーナスが、「タキシード仮面にちかづくな」って言ったのは、正し
かったわ。プリンセスと王子の恋は不吉なのよ。前世で地球と月がほろ
んだのは、そのせいだって「言われてる」し。

…ここでなぜか、ルナの言葉は「伝聞」となる。まこちゃんならずとも
この部分の成り行きには、不審を持って然るべきだ。禁断の恋ゆえの王
国の滅亡という神話的類型は、ファンタジーに慣れた視聴者の耳にはあ
まりにも自然に響いてしまうので、これがただの「伝説」ならば「なる
ほどそうだったの」で済んでしまう話だ。

しかし、事実性のレベルで考えれば「なんでそんなことで星がほろぶの
」というのは、抱かれて当然の疑問である。ファンタジー的な約束事
では一見自然な流れに見えるが、個人のレベルの私的事情である「禁じ
られた恋」が「星の滅亡」という大状況の具体に降りてくるまでには、
眩暈がするほど大きなギャップがあって然るべきなのではないのか。

まこちゃんの提示する疑問は、その辺にギャップを感じる自然な感覚か
ら発するものであろう。なにしろルナが語っているのは、本来「伝説」
ではないはずなのだ。自身が身をもって体験した、惑星と衛星レベルの
大規模な二大国家滅亡の歴史的大悲劇
である…まあ、あのCGを視る限
り、そんな巨大王国には見えなかったが(木亥火暴!!)。

ルナの立場が伝説の伝承者というものであればともかく、彼女は実在し
た歴史の当事者の一人
であり、なおかつ転生者ではなくその場に居合わ
せた当人
である。自身が渦中にあった大状況を包括的に語ることと、そ
れを、語られるその都度情報自体としては劣化しバリアントを生起する
口碑として語ることは、自ずから別の行為である。

そういう意味では、ルナの言葉は、オレたちが期待した真相の開示とは
微妙にズレている。蘇った「記憶」を元に語られた言葉であれば、もっ
と色濃く当事者性が滲み出ていなくてはならない。

あの大悲劇に際してルナはどこにいたのか、どのような立場であったの
か、悲劇の二人に対しては、どのような位置で接していたのか、どこか
らどのようにこの事件を視ていたのか。こうしたことが、ルナの個人視
点で語られて然るべきだったのではないか。

しかし、実際にルナの口から語られたのは、たとえば、両王国滅亡の歴
史的記憶が活きていた大過去というものを想定した場合の、「伝説」の
レベルの言葉である。アルテミスが言うように、ルナの記憶がはっきり
と蘇ったのだとしたら、その言葉は「伝説」ではなく、「伝説」の元と
なった「事実」のヴィヴィッドな回想であるべきだろう。

ここの階層がズレているのが、まこちゃんの「どうしてそんなことで星
がほろぶのか」という疑問を惹起するわけだ。「伝説」というのは「事
実」そのままではなく、「事実」から生起した語りにすぎない。本来的
に「伝説」とは、「事実」の持つさまざまなレベルの具体的ディテール
が削ぎ落とされ、異化された要素が逆に附加され、相異なる意味性のア
マルガムとしてダイナミックに変遷していくテキストである。

たとえば「伝説」において「禁断の恋」と「星の滅亡」が因果関係で結
ばれている場合、それは一般的に何かの「象徴」である。歴史的事実の
なかに内在する何某かの内実を抽象して、時代時代の視点によって異な
る意味性を附与することで、不可逆的に変質していくテキストこそ「伝
説」だ。だからそもそも「伝説」から遡って「歴史的事実」の具体を復
元する作業は不可能である。

しかし、今回のルナの昔語りは、その歴史的事実を体験した当人が「伝
説」のスタイルによって当時の大状況を物語るという破調な形式となっ
ていて、「伝説」そのものでもない。

ここでルナの言葉が「伝説」の形式をとっている理由は、そのものズバ
リ、当事者性の払拭ではないかというのが、オレの見方だ。さらには、
それを語っているのが事件の当時リアルタイムで生きていた者であるか
らには、時間による変質を蒙ったバリアントという性格も無視していい
だろうと思う。

要するにルナの説明は、事態の真相を識らない当時の部外者が漠然と抱
いていたような見解にすぎない。つまり、「王子とプリンセスの恋は不
吉」というのは、何らかのレベルでその恋が当時「禁じられて」いたこ
とと、まさにその悲恋ゆえに滅亡が招来された事実の綜合として、事情
を識らない部外者が下した解釈だということになる。言ってみれば、情
報が制限されているゆえに派生した迷信の類だ。

そしてさらに、まこちゃんが問う「どうしてそんなことで星が」という
具体的な疑問に対しては、うさぎか衛の記憶が戻らない限り真相がわか
らない
という、さらに具体的で当事者性の色濃い条件附けが課されてい
る。「伝説」の形式による迷信のレベルから、歴史のレベルに具体化し
た途端、さらに大状況の渦中の特定人物の記憶にすべての謎が委ねられ
たわけで、事件の叙述レベルは目紛しく揺らいでいる

だとすれば、周囲がうさぎと衛の恋を禁止することには、何の根拠もな
ということになる。「不吉」「近附かないほうがいい」という曖昧な
言い方になっているのは、そのためだ。真相はわからないが、過去に似
たような状況で大きな悲劇が起こったらしい、だから同じようなことを
くり返さないほうが、差し当たり無難であろうという、消極的な理由で
あるにすぎない。

なぜなら、セーラームーンの世界には宗教的な超越者が想定されていな
いからだ。一般的に「伝説」のレベルで、禁断の恋と王国の滅亡という
二つの主題をつなぐのは、前回も触れた「超越存在との違約」という要
素であろうが、それは王族を一種の巫覡の長として、超越者との間に生
涯不婚の契約がなされているとか、両王国の血脈の交わりが禁じられて
いるとか、そういう類の超越者との間の「約束違反」の酬いとして滅亡
が招来されるというパターンである。

ところが、ルナの語りによれば、禁断の恋によって争いや災厄がもたら
されたのは事実でも、最終的に両王国を滅ぼしたのは「大いなる悪」で
あるとされている。これは少し神話類型としては符丁が合わない。普通
一般に、禁断の恋によって滅亡がもたらされる場合、滅亡を惹き起こす
力は
宗教的に尊崇される超越者そのものであるからだ。

禁忌というのは、共同体内の決め事であって、禁忌の侵犯に対して滅亡
が対置されている場合は、滅亡をもたらし得る大いなる力との間の取り
決めが想定されている。しかしこの場合、滅亡をもたらした「大いなる
悪」は、崇められる対象ではなく忌避さるべき敵である。

これを型通りの禁忌の文脈で解釈すると、地球と月の両王国は「大いな
る悪」との間に、両王国不通の誓言によって不可侵の契約を取り結んで
いたということになるが、現世におけるクイン・メタリアが、復活を阻
み倒すべき敵と位置附けられているからには、それはあり得ない。

だとすれば、セレニティとエンディミオンの悲恋が争いと災厄をもたら
したのは、じつは伝説や神話のレベルの事件ではなく、事実性や歴史性
のレベルの事件
だったということになる。それに関連して滅亡が惹起さ
れたのは、事実的なレベルで弱体化した両王国の隙を悪の力が衝いたか
らだということになる。

つまり、セレニティとエンディミオンの恋が禁じられていたのは、直接
滅亡と関連附けられた因縁に基づくものであるわけではない。何らかの
理由によって、両王国間の恋は禁じられていたものの、滅亡と対置され
るような禁忌として認識されたのは、滅亡それ自体についての蒙昧な解
釈のゆえ
であるということになる。そして、歴史のレベル、さらには事
実のレベルでそれを視た場合、王子とプリンセスの恋を禁じることには
何ら根拠がないということになる。

ルナの昔語りが、何とも言えず気持ちの悪い隔靴掻痒の物足りなさを覚
えさせるのは、伝説と歴史と事実のレベルが複雑に混在していて、さら
にはその結論としての恋愛の禁止が、じつは何の根拠もない迷信にすぎ
ない
ことが、きわめてわかりにくく語られているためだろう。

この気持ち悪さは、どこかクンツァイトの復讐劇に感じる矛盾と通底し
ている。真相が段階的に開示されたように見せながら、じつは肝心要の
鍵となる事実をいっさい語っていないがゆえに、整合的に事態を解釈で
きないという、同じような気持ち悪さが残されている。

物語はあと半年も残されているが、クンツァイトの謎も含めて、この部
分に対して整合的なケリを附けるつもりがあるのかどうか、その辺が気
になるところではある。

他方、うさぎを除くレイ・まこも「はっきりとはしないけど、なんとな
く」記憶が戻ったようなのだが、どの程度想い出したのかがさっぱりわ
からない。転生者に蘇る記憶というものが、どのレベルの意識をいうの
であるか、物語中で規定されていないのだから仕方がない。

転生者であるとはいえ、レイちゃんもまこちゃんも、月のプリンセス守
護の四戦士団というごくごくの側近であり、歴史の枢軸に近い位置にい
た人間のはずだ。

非常にアクチュアルな観点でいうなら、どうやらプリンセスの養育係的
なポジションにあったルナ、プリンセスの身辺にあって近衛の騎士とし
て補弼していた四守護神、これらの二者は、王国滅亡という歴史的大状
況にあって、接し得る情報の階層は同程度だったはずだ。

ならば、両王国滅亡譚をルナがレイ・まこに語るという構図そのものが
不自然
だということになる。日常的な顕意識のうえでは「全然」想い出
していないうさぎはともかく、銀水晶の光を浴びてルナの記憶の封印が
解かれ、レイ・まこもいくばくかの記憶を取り戻したのであれば、その
場に居合わせたうさぎ以外の者は、ある程度記憶を共有しているはずで
ある。

知っていることと知らないことに差異があるとすれば、それはその時点
における当事者としての視点の違い、さらには、現時点における認識に
差異があるとすれば、記憶の覚醒度合いの差、転生者と当人との意識の
差ということであろうか。

ここを決めかねているのか、というのが、今回のこのくだりを見ての感
想である。ことは、今在る人間がその当人として体験していない事柄に
ついての記憶の在り方、意識の在り方についての問題である。ここに拘
りが生じるというのも、十分に想像できる。

つまり、火野レイなり木野まことなりという現世の人格は、両王国滅亡
を直接体験した当事者ではなく、その転生者である。彼女たちが、たと
えば自身が体験した事柄であるかのようなリアリティで前世の記憶をも
持つとすれば、たとえば前世のセーラーマーズとしての意識と現世の火
野レイとしての意識が一本の連続上にあるということになり、火野レイ
はセーラーマーズの現世における仮の姿という解釈が可能となる。

ごくごく初期の頃のレビューでオレが示唆した、「転生ものの呪縛」と
いう要素が、いよいよ前面に浮上する頃合いだ。

転生というシステムがアリとされた世界観において、ならば転生者の現
世における人格とはどういうものなのか、人としての本質的な立ち位置
を奈辺に置くべきなのか、という疑問が、そろそろ正面きって採り上げ
られるべき頃合いとなった。

この場合、設定上の縛りとなるのは、セーラーヴィーナス=愛野美奈子
がすでに完全な覚醒を果たしているという既成事実である。つまり、こ
の物語においては、げんざい只今のセーラー戦士ではなく、前世のセー
ラー戦士と連続した意識と記憶を持つ状態が、完全な覚醒として規定さ
れている
のである。

ただし、これは後附けの説明でなんとでもニュアンスを変更できる部分
ではある。美奈子が前世のヴィーナスと連続した意識上で行動している
ように見えるのは、ルナ同様前世の一件の当事者であるアルテミスから
補足された情報に基づいて、意識的に前世の彼女に同化した行動をとっ
ているとも解釈できる。実際には同一上の意識というほどの連続性はな
かった、という形に持っていくことも可能である。

つまり、アイドルの道を選んだのと同様に、前世のヴィーナスとしての
役割をこの現世において引き受けただけ、という持って行き方もあり得
るだろう。そうだとすれば、「前世の記憶」という、一般的には意識の
連続を伴う要素について、恰も「いつか観た映画のような」記憶として
処理し、当人の意識をあくまで現世における人格に固定することも可能
である。

今回のレイ・まこのリアクションが「はっきりとはしないけど、なんと
なく」というものであったのは、その辺に対する留保であろう。その決
定がどのようなものとなるのかは、今後の物語の転び方次第であろうと
思う。

まずく転んで、どうしても前世の因縁をモチベーションとしてドラマを
構築しなければならない羽目になったとしたら
、次善として型通りの転
生者の覚醒が描かれる目も残っているだろうね。

この辺り、思い切った力技できちんと明示する必要があるだろうが、今
回は段階的にプリンセス覚醒から銀水晶発動を見せるのみに留め、その
辺りの描写は掻い撫でただけ、という印象だ。

そういうわけで、提示された「情報」としての前世譚を詳細に視てしま
えば、今回触れておくべき問題として残るのは、衛と陽菜との別れ、そ
してうさぎの決意という、三角関係の清算のみだろう。

くり返しになるが、陽菜は衛との別れを最初の最初から運命附けられた
人物である。彼女は、コミックスにもアニメにもない実写版オリジナル
のキャラクターであり、その存在理由は、うさぎと衛の宿世の恋に現世
における障碍を設けるという、それだけのものである。

うさぎと衛の性格的相性の問題や、銀水晶探しにまつわるセーラー戦士
対タキシード仮面という仮面の関係性、前世における滅亡の悲劇とそれ
に絡めて二人の関係を忌まわしいものとする周囲の無理解、多面的な意
味合いからの禁止のアクション…こうした数多くの障碍に、さらに現実
的な生活面からの障碍を附け加えようと考えた作者の意図は、今となっ
ては窺い知ることはできない。

衛くらいの年代の男性を過去なき男と設定する場合、それまでの生活を
支えてくれた後ろ盾があるだろう、そして、どこの馬の骨ともわからぬ
正体不明の男を、それなりに経済力を持つ人間が引き取る以上、履歴面
を抜きにした衛の個人的資質を評価しているという動機が想定されるだ
ろう、それならば、その人物に娘があったとして、自家の後事を託する
ために衛と娶せようとするだろう、こういう思考の流れは理解できる。

衛を引き取るのが経済力を持つ人間でなければならないのは、地場衛と
いうキャラクターが、型通りの「みなしご」ではなく、どこかリッチで
ファッショナブルな雰囲気を持つキャラクターであるという共通認識に
配慮したもの
だろう。普通に考えれば、本人に過去の記憶がなく身元も
判明していない人間が未成年であれば、行政が養育するか篤志の人物に
引き取られる以外に選択肢はない。

そして、陽菜の回想によれば、衛が日下家に引き取られたのは、幼児期
といってもいいくらいの少年時代である。つまり、日下家に引き取られ
た当時の地場衛は、普通一般にいえば身寄りのない孤児である。

こうした現実性に配慮した場合、リッチでファッショナブルという地場
衛のキャラクターに相応しい経済的なバックボーン、さらにはそうした
リッチな属性を獲得するに至る自然な履歴を用意するのは、ちょっと難
しい。ここはぜひとも金持ちに引き取られたことにしないと、表面だけ
ファッショナブルに繕っても、どこか東芝日曜劇場を思わせる所帯じみ
たキャラクター
になってしまう(笑)。

そして、金持ちというのは、それが純粋な厚意から出た行いであれ、何
の見返りもなく善行を施すものではない。「見返り」と一口に言っても
金銭的なそればかりを指すのではない、たとえば身元不詳の過去なき男
に見どころを感じて引き取るという「厚意」を想定した場合、それが自
家の繁栄という実際的な「幸福」の形で返ってくるべきだと考える、こ
れが金持ちの思考形態だろう。

何かに対して何らかの犠牲を払う以上、それにはそれなりの有形無形の
リターンがあるべきだと考え、まったくの無駄に終わる投機はしない。
少なくとも、小林靖子にとってリアルな金満家というのは、現実的な人
生における勝者を強烈に志向する人間であり、その種の考え方をするも
のだということだろうね。

さらに、その篤志の金満家に子どもがいないということにしてしまった
場合、地場衛は莫大な経済力に対するオールマイティを獲得してしまう
ので、ここにディフィシェンシーを設けるために、本来的な跡取りとな
るべき実子の存在を設ける。

しかし、その一方、昼メロ好みの「嵐が丘」的な「下男として育てられ
たみなしご」という立ち位置に据えてしまうのも、家族性の部分におい
て過度のディフィシェンシーやルサンチマンを抱えることとなって焦点
がズレてしまい、設定上好ましくない。

地場衛が日下家の家族の一員としてそれなりの愛情を享けて生い育つた
めには、衛と実子が対等であらねばならず、ならばいずれ衛と娶せるべ
き跡取り娘と設定してしまえば、自家の戸籍に入るという意味では実子
も同然なので、八方円満に相調和して無理がない。こういう構想上の彫
心鏤骨の過程は、十分に尊重できる。

なので、ネット上で言われているほどには、「陽菜イラネ」とオレは考
えない。これも一種のリアリティに対する誠意だと考えるのだが、肝心
要の跡取り娘の造形に関しては、作者のリアリティがネガティブに作用
したのだということ、これは前回くどいくらいに強調した部分だ。

たしかに日下陽菜のような来歴を想定する場合、円満具足な結構人であ
る「はずがない」、現実面の欠落を克服する過程において人間としての
円満な成長があるのであれば、「不幸にして」何ら現実面の欠落を抱え
ずに生い育った人間には、どこか人間性に未成長な欠落が残されている
べきだろう。

そういう意味では、日下陽菜の厚かましさともとれる鈍感さや、前回露
呈した自己中心的な我の強さは、この種の人間の欠落の在り方としてア
クチュアルではある。

ただそれは、必ずしもネガティブな形で物語上に顕れる必要はないので
あって、ある意味、陽菜と同種の人間的欠落は、何不自由のないプチブ
ル家庭に育ったうさぎにも想定されて然るべきであろう。そして、これ
までのうさぎの描き方において、そうした欠落は他者の痛みに対する想
像力の欠如という形でくり返し描かれてきたが、うさぎの本来的な資質
である天性の善良さと微妙なバランスを保っていたと思う。

それは、主役としての描写の量的な絶対値に負うところも大きいだろう
が、たとえば主役陣と比較して描写の量的絶対値が少ないダークキング
ダムサイドの人物に関しては、描写の密度を高めることで絶対量の不足
を補って餘りある強烈な印象を残している。研ぎ澄まされた彫琢の精髄
である鋭いセリフの数々で、ベリルや四天王のキャラクターは、少ない
描写の余白を読ませる効果的な描き方をされてきたと思う。

他方、日下陽菜に関しては、量的な面でも密度の面でもきわめて関心薄
く描かれていて、こうした描写の中途半端さが、彼女を画面に出すこと
で視聴者に苛立ちを覚えさせるのみに留まっていたと思う。それはそれ
で、全体における描写の重点やバランスというものがあるのだから、そ
ういうキャラクターであっても間違ってはいない。

ドラマにおいては、視聴者を苛立たせるためだけの人物というものにも
それ相応の存在理由がある。彼女は主役である男女の恋の障碍となるた
めだけに登場させられたキャラクターである。そういう分際というもの
がある。

その立ち位置においては、今回のクライマックスで描かれたように、最
初の最初から、彼女自身の意志で美しく身を引くという選択肢しか残さ
れていない。オレの感覚では、これは気の毒な役どころである。

いかに平素は苛立ちを煽る役柄であろうが、本質的に彼女は、主人公た
ちが幸福になるための犠牲として、苦痛を舐める役どころである。視聴
者は最終的にそこに気附き、痛みを分かち合うべきなのだ。陽菜の痛み
に共感し、うさぎたちの罪悪感を分かち持つべきなのだ。

うさぎと衛と日下陽菜の三者の関係性において、何が本当に辛いのかと
いえば、それはウザい女が愛しい男を独占していて恋が成就されないと
いう、見かけのうえでの不可能性が問題となるのではない。

メタフィクショナルな次元においては、物語の要請として主人公たちの
恋の成就はあらかじめ定められており、見かけ上どんな困難な障碍が設
けられていようとも、それはいずれ回復さるべき病的状態を現出するた
めの物語要素にすぎない。本質的にこの三者関係を呪縛しているのは、
あらかじめ成就が定められた恋愛において、それが可能なるがゆえにも
たらされるアンビバレンツであるべきだ。

自身の望みを叶えるためには、痍附けたくもない相手を痍附けずにはい
られないということ、だれかの不当な苦痛と引き替えでなければ願望が
充足されない
ということ、これが絶対的に関係者全員を苦しめるアンビ
バレンツであるべきなのだ。

こうした関係性において理想的な解決とは、真に愛し合う二者関係に対
して、そこから弾き出された存在が納得して身を引くことである。これ
は、恋愛という自由意志で成立する関係性の範疇の事柄でなければ成立
しない解法であって、法的に関係が規定された婚姻関係の絡む三角関係
においては、こうした理想的な解決がもたらされることは稀である。

二者関係から弾き出された存在が、自身の責任においてその苦痛の克服
を引き受けること。自身を弾き出した男女に対していっさい怨嗟の情を
含まずに、自身を取り巻く現実を受け容れること。愛されているのは自
分ではない他のだれかなのだという、辛い現実を受け容れようと努力す
ること。これは自己超克の試練であって型通りの不幸ではないし、だれ
かの幸福の犠牲になったわけではない。

物語のうえで、従来の二者関係に第三者が介入して新しい二者関係を構
築する際に、だれ一人不当に扱わないためには、こうした筋道を用意す
る必要があるだろう。そうでないとすれば、残された怨嗟や憎悪の情が
ダイナミックに衝き動かすドラマを用意して、そうしたネガティブな感
情が平穏な日常を破壊するカタルシスを用意する必要があるだろうし、
それはつまり昼メロやレディースコミックの世界である。

そして、この番組の先行きに関して、うさぎと衛と日下陽菜の三角関係
がもたらすネガティブな日常破壊のドラマを観たいと願う視聴者など、
おそらくただの一人もいないだろう。何度もくり返すが、この関係性に
おいては、最初の最初から落とし所は絶対的に決まっている

日下陽菜という気の毒な女性は、空港での別れの芝居を花道としてこの
物語から退場することが、最初から決まっている登場人物である。これ
までがどうであれ、この空港の場面での辛い「強がり」が彼女の真実と
して美しく描かれるべきだった。

そもそも「強がり」とは嘘である。しかし、別れに際して笑顔をつくり
このような美しい嘘で男を送り出すのは、あっぱれ見事な「女ぶり」の
見せ場なのである。自分以外のだれかを愛する愛しい男にだけは弱い涙
を見せたくないと、しゃんと伸ばした背筋で手を振り、精一杯強がって
みせるのは、立てた「女ぶり」のやせ我慢だ。

男ぶり、女ぶりとは、身ぶりの問題である。後生一生の退っ引きならな
い局面においてどう振る舞うか、ここに身ぶりの問題が立ち現れる。

そして、そうした局面において最重要なのは、畢竟するところ心の問題
ではなく身ぶりの問題
だといっていい。ここでは、身ぶりこそが真実な
のであって、身ぶりに隠された本音は、視聴者だれもが等しく分かち持
つありふれた共感要素でしかない。

物語の観点においては、絶体絶命の局面でどう振る舞うかが最重要なの
であって、どう思ったかなどは描かれる必要さえないといえるだろう。
どうせだれだって同じようなことしか思わないのだから、それは描写の
大前提となる出発点であって、最終目的では決してない。独自の美意識
に基づいた美しい身ぶりを演じ得る人物であること、物語の登場人物が
自身の真実として示すべきはそれしかない。

うさぎの一筋で純粋な想いが、結果的にだれかを痍附けずにおかないと
いうアンビバレンツを説得力を持って描くためには、日下陽菜の描写は
おろそかにしてよいことではなかった。だれ一人望まなかったのに、結
果として痍附けられた陽菜の気持ちが痛ましいものであることを示さず
して、この恋が成就してはならない。

そのためには、この空港の別れの場面で健気に立てた女ぶりこそが、日
下陽菜の最後の真実である必要があっただろう。最初から運命附けられ
た別れを美しく立派に演じ抜くこと、これは日下陽菜という劇中人物が
作者に要求し得る最大の権利
であったはずだ。

しかし、現実に描かれた物語では、オレは到底この場面の陽菜の哀しい
強がりを、彼女の真実として真に受けることはできない。彼女がプライ
ドの高い人物として描かれるためには、この時点で「気附く」のでは遅
すぎる。彼女が強がって主張する「プライド」は、前回の醜い修羅場に
おいて、自身の手によって泥にまみれ踏みにじられたばかりである。

ここの強がりは、強がりであることが視聴者にそこはかとなく感得され
ればいいのであって、前回の描写によって強がりであることが「裏附け
られる」必要などまったくない。不必要に強調された彼女の人間的欠落
は、本来的には「建前」の美しさを立てることによって、せめても人と
してのプライドを保ちつつ辛い現実に立ち向かおうとする彼女の決意を
嘘にしてしまったと思う。

なにせオレなんか、「日本にいないで」という陽菜の言葉を、自分と衛
がうまくいかないなら、せめてうさぎと衛を遠避けておきたいという、
あざとい計算じゃないかと一瞬疑ったくらいだ(木亥火暴!!)。小林靖子
がこのセリフに本気でそんな意味を込めたのだとしたら、それはいくら
なんでもやりすぎ
だが。

オレもまあ、本気でそう思ったわけじゃないが、それは、前回の描写の
せいで、そうした惨めったらしい未練を自身に禁じるほどの矜持が彼女
に残っているかどうかが曖昧になってしまったせいだと思う。少なくと
も「けっこうプライド高い」という言葉を聞いて、大部分の視聴者が失
笑した
ことは間違いないだろう。

そして、辛い現実に立ち向かおうと自身を鼓舞する人間から、プライド
まで剥ぎ取ってしまうのは過剰に残酷だ。愛しい男に対して、せめて醜
い内心を晒すまいと懸命に振る舞う女の強がりを嘘にしてしまうのは、
物語の語り口として不必要に残酷だ。

去りゆく男に弱い涙を見せまいと背中を向けて手を振る陽菜の内心が、
前回描かれたような生々しいものであることなど、大人ならだれにだっ
てわかることだ。だれだって、自分の愛した相手が他のだれかを愛して
いると知ったら、「はいそうですか」と簡単に納得するわけがない。

汚く泣いて縋っても、醜く情のしがらみに訴えてでも、愛しい人の心を
取り戻したいと願うのは人情だ。ただし、心にそう思うことと実際にそ
う振る舞うことは、絶対的に別問題
である。現実の振る舞いとして泣い
て縋ってしまったがゆえに、今この場で背中に隠した涙は嘘になってし
まったのだし、情のしがらみに訴えてしまったことで、衛の将来に対す
る思い遣りは嘘になってしまった。

Act.25の陽菜がらみの筋立てが丸ごと要らないと思うのは、たとえば、
ハンカチを見附けた場面以降の筋立てが丸ごとなかったと仮定して、こ
の空港の別れの場面で、背を向けて手を振る陽菜が劇しく泣いていれば
だれにだってあのくらいの内実は想像できるからだ。だれにだって想像
できることは、敢えて描写する必要はない
のだし、この場合は邪魔でし
かない。

陽菜がいつもどおりのノホホンとした態度でああいう強がりを言う、そ
こで視聴者は「こいつ、何考えてるのかホントわかんねぇ、やっぱ薄っ
ぺらなキャラだな」と不審に思う、しかし背を向けた陽菜がはらはらと
痛ましく泣いていれば、視聴者は驚きとともに一種の情感の罠にかかる
のである。

厚かましいくらい鈍感で視聴者を苛立たせる書き割りキャラだが、美し
い建前の許に身を引く際に涙を堪えきれなかった、その涙に対して視聴
者が痛ましさを禁じ得ないのであれば、陽菜を不当に追い詰めたのは
聴者も同罪
だ。同罪であるべきだ。そこで視聴者は、陽菜の辛さを分か
ち合うことで、衛の罪悪感をも分かち合うべきなのだ。本来そのように
ドラマは組み立てられるべきなのだ。

可愛げをそそる人物でなければ不当に扱っていいというものではない。
いじめても可愛らしく泣かない奴はいじめていいということではない。
邪魔な人物は邪魔だからといって悪者にしていいというものでもない。

日下陽菜がいかに鈍感で苛立たしい人物であったとしても、愛する男か
ら身を引く辛さはだれだって同じはずだ。愛し合う男女にとって、それ
がいかに自然な成り行きであっても、身を引かされる当人にとって、そ
れは絶対的に不当な現実である。

このような共感可能な辛さが不意に露呈され、否応なくそれに絡め取ら
れることで、視聴者はドラマの罠にかかるのだ。

陽菜が薄っぺらな描き方をされてきたという事実は、こういう形でしか
活かしようがなかったと思う。だれも関心を持たないような人物にも、
だれもが生きるような人生があるのだということ、そこで味わう辛さに
分け隔てはないのだということ、どうでもいいからといって不当に扱っ
ていいものではないのだということ。これを理解するよすがとして、ど
うでもいい書き割りキャラは活かされるべきだったろう。

この物語における日下陽菜は、最終的には、視聴者に受け容れられその
哀しみを共に哀しみ得る存在として、唐突に立ち現れるべきだった。そ
こをこそ到達点と設定してすべてを組み立てるべきであった。

彼女に運命附けられた辛さを十全に描くことで、うさぎと衛の関係もま
た活きていたはずだ。現状では全方位の禁止に晒されている二人の関係
だが、陽菜が納得して身を引くことによって、それだけのポジティブな
重みを獲得していたはずだ。

陽菜が辛い諦めを引き受けるに至ったうさぎと衛の関係が、おろそかに
禁じられていいものではない。陽菜が納得して身を引くことによって、
逆に陽菜はうさぎと衛の関係を劇中で唯一肯定し得る立場に立つ。視聴
者もまた、陽菜にあれだけの苦痛を舐めさせた二人の関係は何だったん
だと、二人の関係がいかに逆境に晒されても応援していく動機を持つ。

ひるがえって、第一部のラストでついにうさぎと衛が何ら確たる約束も
なく、旅立ちを見送ることもなくすれ違いのままに別れることとなった
のは、他にいろいろな思惑があるのだとしても、衛と陽菜との関係をう
まく着地させることに失敗したからだ
とオレは感じる。

たしかに、現状の組み立てでは、うさぎは衛を見送るわけにはいかない
だろうし、お互いの愛情を確認するわけにもいかないだろう。それは、
日下陽菜という人物に美しく身を引かせることに失敗しているからだ。

衛と陽菜の別れに際して、視聴者に「二人のこれまでの関係は終わった
が、新たな関係の構築が始まるのだ」というセリフどおりの嬉しい予感
を与えることに失敗したからこそ、うさぎは空港に駆け附けるわけには
いかなかったのだ。

日下陽菜は、今こそ辛いだろうけれど、やがて別の意味で衛と幸福な関
係を築き得るのだ、前世の宿命に裏附けられたうさぎとの関係とは別の
意味で、現世でこれまで積み重ねてきた陽菜との関係は、衛にとって真
実のものなのだと視聴者が信じられさえすれば、うさぎと衛の間に何ら
かの約束や通い合いが持たれてもよかっただろう。

去りゆく陽菜の背に向けて衛が叫ぶ「たいせつだと思ってる」という言
葉が、愛を得られなかった惨めな女に対するとどめの一撃にしか聞こえ
ないのは、やはり描かれている何かが決定的に間違っているのだ。

陽菜は、衛が自分を「たいせつ」に思う気持ちが、男女の愛ではなく、
肉親に対するそれのような感情であることを知っている。そしてそれが
今現在の自分が望むものと決定的にズレていることを哀しむと同時に、
その衛の気持ちが真実のものであり、今現在の自分の望みとは別の幸福
をもたらしてくれるであろうという予感にも縋っている。それが最後の
真実として感得可能な形で描かれるべきだった。

そこはバランスの問題だ。うさぎと衛が何らかの確かな希望を抱くため
には、そこから弾き出された日下陽菜もまたそれに見合うだけの嬉しい
希望を許されねばならない
。プライドを抛った哀願が皮肉に裏切られ、
約束されたはずの女ぶりを嘘にされた日下陽菜が、ボロボロに打ちのめ
されて去るのでは、いくらなんでも情感の天秤が傾きすぎている。

前回指摘した、物語における公平さの感覚、それが辛くも残されていた
というべきなのだろうが、衛と陽菜の関係が円満具足に着地し得なかっ
たからには、うさぎと衛もまた、ハッキリした言葉による約束や通い合
いで、互いの距離がもたらす孤独の辛さを和らげることは許されない。
うさぎは、約束や確認もなく遠国に旅立った人を想い続ける辛さを強い
られる。

物語としては、やはり失敗しているというべきなのだろう。

うさぎと衛の関係が、出発点のままにはあり得ないという視聴者の感覚
は、劇中でこの二人が成し遂げた具体的な何かによってもたらされるの
ではない、普通なら自然消滅してもしょうがないような成り行きとなっ
ているのに、それが前世から宿命附けられた恋だからこそ、どうせこの
先何とかなるんだろうという予定調和の感覚
を持つだけだ。

ベタだろうが何だろうが、男が遠地に旅立つからには、女に約束の言葉
を残すべき
である。約束もなしに女を待たせるのは、ドラマにおける恋
のプラトーではない。

空港で見送らないという落とし所へ持っていくのであれば、女の側に何
らかの確信を持たせるべきだ。この場合、ドラマが禁じるのは「空港で
見送る」というアクションであって、そこで交わされる通い合いを禁じ
ているわけではないからだ。

距離に隔てられた恋心が、ドラマとして必要なテンションを維持するた
めには、やはり言葉や約束や確信という「かたち」として残るものが必
要なのだとオレは思う。

そういう意味では、第一部のエピローグとされるこのエピソードの結末
は、どこか間違っている。何もかもがドローになったという、何とも煮
え切らない感覚を視聴者が覚えるのだ。今回は詳細に触れないが、少な
くとも第一部完結というのなら、亜美ちゃんの奪還と三角関係の決着を
対にして語るべきであっただろう。

亜美ちゃんも敵に奪われたまま、去りゆく陽菜の手当も為されず、うさ
ぎと衛の関係にもハッキリした通い合いがないままに第一部の幕が引か
れたというのであれば、やはりそれは、物語が動くだけ動いた挙げ句、
何の決着も附かずに持ち越されたという、一種のシリーズ構成上の失敗
だろうとは思う。

しかし、その一方でこの失敗は、ドラマづくりというダイナミックな営
為の実態をまざまざと体現した、豊穣な失敗である。凡百の成功より出
て意味のある幕引きであったことは、少なくともこの半年間、固唾を呑
んでこの物語を見つめ続けてきた人間にとって疑い得ない事実である。

ひとまず、小林靖子を肇めとするスタッフ諸氏には、おつかれさま。

そして、ドラマとそれに対して一方的に売り続けたオレの喧嘩は、これ
にて後半戦へともつれ込む(笑)。

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Act.27-1 愛はさだめ

レギュラー出演のアナウンスに接してDVDを取り寄せて以来の小池里
ファンであるオレは、なんとかセラルナに萌えようと、努力はしてい
るんだ。しかし、努力しても叶わないことというのもこの世の中には存
在する
ので、こればかりはやってみないとわからない(木亥火暴!!)。

小池里奈のセリフ廻しも、潘恵子のルナに意図的に似せようとしてはい
るようなのだが、どうも猫ルナの柄と、小池里奈の芝居の柄の平仄が微
妙に合わない感じがしてしょうがない。

慣れてくれば違和感を感じないのかもしれないが、これまでのルナの可
愛さというのは、小作りなオバチャンのマスコット的可愛さなんであっ
て、萌えを伴う少女のあどけない可愛さとは微妙に違うんだよな。

小池里奈の芝居の端々に滲み出る普通の少女らしいやんちゃな可愛さに
は、ビジュアルとしてたしかにグッと来る一方で、その正体が小作りな
柄のオバチャンであるという認識が、今のところちょっと萌えに歯止め
をかけている嫌いは否めない(木亥火暴!!)。

萌えというのは、事実性の次元において期せずして立ち現れるアクチュ
アルな情動であるが、物語性の次元におけるリアリティと整合していな
い場合は、ちょっと興醒めを覚えるということだな。

ひるがえってセラルナの場合を考えると、ルナ人間体を演じる小池里奈
は疑いようもなく事実一一歳の少女であって、小池里奈がコスプレして
いるという次元においては、萌え要素に欠けるわけではない。

その次元において問題となるのは、やっぱあの変な色のヅラは何なんだ
とか、あのカラーコーディネートはねぇだろうとか、デザインやテクス
チャーの面で小池里奈の健康的なスタイルの良さがあんまり引き立たな
い衣裳であるとか、そういうデザイン性のレベルの話でしかない。

萌えの観点において本質的な問題となるのは、素の小池里奈の次元から
一歩踏み込んだ役柄の次元において
である。小池里奈という一一歳の少
女が演じているのは、本来「セーラールナという新キャラクター」では
なく、「別の演者が演じるこれまでのルナ」であるべきで、「セーラー
ルナという新キャラクター」は、その結果として立ち現れてくるのでな
くてはならないだろう。

現実の少女としての小池里奈の肉体性は、あくまでルナというキャラク
ターを演じるうえで、期せずして抗いようもなく表出する事実としての
肉体性であるべきだろう。妙な言い方になるが、小池里奈という演者は
現実に少女としての肉体性を自明に具えているのだから、萌えに関して
はその事実だけで十分なのであって、殊更に少女としての可愛さを伴う
セリフや芝居を附けるのは、逆に興醒め
だということだな。

演者の肉体性が直截画面上に表出する実写作品の場合、このような仕掛
けでギャップを設けるためには、けっこういろいろと注意を払うべき繊
細な事柄があるということだろう。

これがアニメだったら、描きようでいくらでも猫ルナとイメージ的に共
通性のある顔立ちにできるし、同じ声優が少女萌えを掻き立てるあどけ
ない芝居を演じても、アニメにおいて声優がキャラクターに声をアテる
という行為は、事実性の次元において最初から嘘であると断っている様
式なので、萌えの観点ではまったく問題にならない。

実際、一人の声優がストイックな姉御キャラを演じたり、萌え爆発な幼
女キャラを演じたりするのは、見た目の柄によって役を限定されない声
優稼業においては一般的な事情である。現状で確立されているジャパニ
メーションとは、ハナからそういう仮構性の高いメディアなのだから、
少年少女役を実際の幼年者が演じることに拘ったアニメなど、テレビ黎
明期やスタジオジブリの一部の作品くらいである。

潘恵子自身のフィルモグラフィーの話になると、どちらかといえばガン
ダムのララァイセリナとか、聖闘士聖矢の城戸沙織など、お姫様声優
という固定イメージのほうが強いが、そういう役柄を演じられる雅味が
あるというだけで、女王陛下のプティアンジェふしぎな島のフローネ
のタイトルロールなど、萌え寄りの幼女キャラクターも演じている。

アニメ版のほうでも、セーラームーンS劇場版にルナ人間体が出てくる
ようだが、未見なので詳細なコメントは差し控える。ただ、この場合は
潘恵子自身が人間体の声も演じるわけだし、猫ルナの柄とギリギリ整合
しているハイティーン相当の少女に変身するのだから、まったく違和感
はないだろう。

猫ルナ自体のキャラクターについても、実際には「オバチャン」ではな
く「女の子」と規定されているし、潘恵子自身の言によれば、実写版の
ルナ役については、長期に渉るアニメシリーズを踏まえた母親的な演技
ではなく、友だちとして同じ立ち位置の演技を監督から要求されたとの
ことである。だから、おそらくセラルナがギリギリうさぎたちと同年代
の少女であれば、そんなに違和感は感じなかったかもしれない。

ただ、この番組のリアリティで、うさぎたちと同年代の少女があざとい
猫耳や尻尾を附けて萌え爆発な決めポーズを演じていいか
というと、そ
こは微妙なところだったろう(木亥火暴!!)。

この番組における女子中学生は、極度に先鋭なリアリティに基づく人間
ドラマを演じる世代なのであって、月野育子や古幡元基などのコメディ
リリーフ役は、この世代を外して設定されている。

セラルナのキャラクターが、ちびうさを出さずに幼女が自己投影可能な
ちびうさ的な立ち位置のキャラクターを出すための方便
であるという大
前提の事情を差し引いても、セラルナを同年代の少女として設定する目
はハナからなかったということだな。かといって、外部太陽系戦士のよ
うに年上の女性として設定することも、セラルナというキャラクターの
柄やあらゆる意味における重みとの兼ね合いから問題外だ(笑)。

ちびうさの代替としての意味からも、世代的な設定に関する考察からも
セラルナが一一歳の少女によって演じられているのは仕方ないとして、
ではなんでルナの人間体が稚ない少女でなくてはならないのか、そこに
趣向という以上の積極的な物語的意味附けがない

そして、オレがいっているのは、お景物以上の意味がないキャラクター
にオーバースペックともいえるような細かい設定をしろということでは
なくて、事実少女である演者から滲み出るあどけない少女性を、物語性
の観点からどう受け取っていいかわからない
という曖昧さが、結果とし
て萌えに歯止めをかけているということなんだな(木亥火暴!!)。

さらに、今回の本格登場編におけるセラルナは、見かけが変わっただけ
ではなく、物語内の成り行きとしてもこれまでのルナと立ち位置を変え
ていて、鬼軍曹的な教育係として気負っており、人間体に変身できたこ
とで無闇にはしゃいでいるという、二重三重に平素とはギャップのある
状態にある。

各戦士を訪れて戦士としての特徴を要約するのは、顔見せ的な意味合い
や第二部開始に当たってあらためて主要キャラを紹介するという意味も
あるのだろうが、別に猫ルナだった頃でもできたはずのことを、殊更に
人間体になってからやる必要はない。

教育係としての意識で現状の戦士たちの成長ぶりを視察する、あるいは
人間体となった嬉しさで戦士たちにそれを見せびらかしたい、という一
応の名目は立つのだが、物語上のちょっとしたシチュエーションギャグ
の仕掛けとして、一見して正体不明のキャラクターが各戦士の許に出没
しているという見かけ
になっていて、これらの事柄の綜合として強調さ
れているイメージ上のギャップが、セラルナと猫ルナのイメージ上の断
絶を際立たせている。

アバンで早々に正体バラしをしてしまったのは、ここをサプライズの仕
掛けとして伏せたまま引っ張ったら、よけいに断絶が際だってしまうの
で賢明な判断だったと思うが、どうしたってセリフや仕草にあどけなさ
が滲み出てしまう一一歳の少女が、ベテラン声優の演じるぬいぐるみの
猫と同一の役柄を演じることには無理があるので、イメージ上の橋渡し
のほうをもっと優先したほうがよかったのではないかと思う。

そして今回のオレの決めゼリフとしては、「萌えは後から附いてくる」
ということにしておこう(木亥火暴!!)。

もうセラルナに関しては、小池里奈に可愛い芝居をさせちゃダメ。小池
里奈個別の可愛さを抜きにして徹底的にルナとして演じさせることで、
何がどうあろうと事実として一一歳の少女である小池里奈の可愛さが、
自明性を伴って滲み出てくるものだろう。

そういう意味では、猫属性萌えや幼女萌えを意識したお遊戯的な変身バ
ンクやセラルナとしての動きの附け方も、ちょっとサービス過剰でいた
だけない。動作がコミカルにしつこいということもあるが、少女のおま
せなコケティッシュぶりが、どうにもルナっぽくない
からだ。

セラルナをルナと同一視した場合、ルナのキャラクターが「女の子」と
して規定されてはいる一方、内面においてはセーラー戦士たちをリード
する大人っぽい部分をも持っているわけだから、こういうあどけなさが
あざとく見えてしまうんだな。

また、この変身バンクに猫ルナを混ぜたのは、イメージを収斂させるた
めの仕掛けだろうが、じっさいこのバンクで動いているCGのルナは、
小池里奈の可愛さを引き出す動きのほうに引き寄せられて描かれている
ので、平素のルナらしい落ち着いたお茶目さとは違う。

まあ、猫属性少女定番の萌えポーズとして、ぬいぐるみにできない動作
をあえてやらせているわけだし、それをぬいぐるみのCGがマネしてい
わけだから、違和感があるのは当たり前なんだが、新しく混ざってく
る小池里奈にルナのほうを引き寄せて描いても、イメージを収斂させる
ことにはならないと思う。最初は人間体のほうを極力従来どおりのルナ
のイメージに引き寄せて描き、徐々に崩していくという組み立てのほう
がよかっただろう。

ただまぁ、おそらくセラルナの変身バンクもヴィーナス同様今後フルサ
イズで使われることはあるまいし、セラルナの出番自体も減っていくこ
とだろう。さらに、新キャラクターの顔見せとして、そのキャラクター
自体の魅力をまず初っぱなから最大限に前面に押し出すという方法論も
あながち間違っているとはいえない。

猫ルナと人間体のイメージ上の連続性も、反復して描かれればそれなり
に確立されてくることだろう。オレの見解は、あくまで顔見せ編におけ
る描写の在り方についての意見である。

それから、先ほどは当たり前のように「セラルナはちびうさの代替」と
コメントしたが、セラルナのデザインやキャラクターイメージがちびう
さのバリエーションであるという以上に、かなり初期の段階から、作者
はこの番組にちびうさを出したくないだろうという予想
を抱いていたた
めに、そう判断した次第である。

なぜなら、ちびうさというキャラクターは、転生という設定とならんで
セラムン世界を呪縛する「未来の先取り」という要素の象徴的存在だか
らである。ちびうさが存在する以上、うさぎと衛の恋の帰趨はハナから
決まっていることになる。

コミックスやアニメでは、うさぎと衛の恋にそれなりの決着が附いてか
らちびうさを出しているので、一応の名目は立つのだが、未来の世界に
クイーンとキングがいる以上、うさぎと衛の関係に自然な物語上の障碍
を設ける場合、「未来の世界が危機に晒されている」とか、ちょっと不
自然な状況を設定しなければならなくなる。

加えて、一〇〇〇年の断絶を設けているとはいえ、普通一般の感覚から
すれば、シルバーミレニアムというのは、大部分の大人にとって気持ち
悪い未来像である(木亥火暴!!)。ベタに考えても、うさぎと衛に統治さ
れる地球なんぞに住みたいと思う奴はいないだろう(木亥火暴!!)。

そもそも裏の主題歌である「セラヴィー」において、予定調和の小説や
映画はつまらない
と嘯いているのだから、予定調和そのものの象徴的存
在であるシルバーミレニアムなど出したいとは思わないだろう。

そして、この番組の構想においてうさぎと衛の恋を一年間のシリーズを
通して引っ張る計画だとすれば、その恋の結末を明かすちびうさは到底
出せるキャラクターではない。シルバーミレニアムにも言及せず、うさ
ぎと衛の恋の結末も伏せておくためには、どうでもちびうさを出すわけ
にはいかない。

それでもちびうさ的なキャラクターを出したいというのは、まあ普通に
考えたらお餅屋の万歳さんの意向なわけだが(木亥火暴!!)、それを裏附
けるかのように、ルナ持ちの変身携帯ルナティアLは一部新金型を使っ
た新造形で、もう一種同じ仕掛けで玩具を売ろうという魂胆らしい。

…それにしては、肝心の持ち道具がムーンとまったく同一の「ムーンラ
イトスティック」で、どうやらパッケージ変更だけで同一商品を売るつ
もりらしいというのが、商売の仕方として投げやりなんだか前向きなん
だかサッパリわからない(木亥火暴!!)。

察するに、新戦士を一人出して玩具を売るためのリスクは、携帯のフタ
の金型一個分しか払いたくないということらしい(木亥火暴!!)。そんな
モンは、たとえばデカレン七〇〇円ソフビの金型で、イエローとピンク
の胸の番号のモールドを変更するだけの手間とほぼいっしょだから、限
りなくゼロに近いということだろう(木亥火暴!!)。

こうした大人の事情も踏まえつつの新キャラクターなのは重々承知して
いるんだが、未来の実娘であり王位継承者であるちびムーンがムーン同
様ムーンライトスティックを持っているのは自然でも、一介の使用人に
すぎないセラルナが王族の持ち道具をまんま持ってるってのは納得いか
なかったりするんだな。

しかも、攻撃力の実態はハリセンレベルなんだぞ?(木亥火暴!!)

…つか、パチモンじゃん(木亥火暴!!)。

さて、前半こそのんびりしたセラルナ紹介編に終始した感があるAct.27
だが、打って換わって後半戦では、待望の亜美ちゃん奪還編へシフトす
る大ネタ
で、シリーズ前半を締め括る一大クライマックスへ突入する。

マスターズゴルフの休止を挟んで、公式には第二部の幕開けとされる今
回に至って、第一部の締め括りにあるべき亜美ちゃん奪還にようやくケ
リを附けるのはいかにも破調だが、これには、亜美ちゃんエピソードの
最終章をぜひとも舞原に任せたい
という強い希望でもあったものか。

しかし、シーズンビジネスが密接に絡むこの種の決定が、書き手も兼ね
たシリーズ構成者の一存に任されているとも考えにくい、少なくとも、
スポンサーサイドとネゴする立場の白倉も納得のうえでなければ、こう
いう破調の構成とはならないだろう。

さらに、ぜひとも舞原賢三に水野亜美物語の幕を引かせたいという制作
サイドの意向は、何をどう取り繕ったとしても、その裏に高丸・佐藤両
監督に対する深甚な不信があることを暴露する。

たしかに舞原賢三は、このドラマ全体の核となる亜美ちゃんを巡る物語
を一手専売で担当してきた感のある有能な監督だが、普通なら、だから
といってシリーズ全体の構成を崩してでも亜美ちゃん奪還編を舞原に…
という流れにはならないだろう。

時期的な問題として高丸雅隆担当回で第一部が完結してしまうという事
情があったとして、「だから」第二部劈頭の舞原賢三担当回に第一部の
実質的な締め括りを持ち越すという決定は、よほど特殊でネガティブな
事態であるといわねばならない。

顧みすれば、はっきりいって、前回の佐藤ローテの二話はこのタイミン
グでとくに描かれる必要もないヒマネタエピソードであって、Act.22
でに高められたテンションを、無用にクールダウンさせるものでしかな
かった。Act.24に至っては、ヒマネタどころか、エピソードの芯となる
ものがまったくない
。単にだらだらと段取りで筋立てが進められている
だけで、これが一本の独立したエピソードであるべき意味すら感じられ
なかった。

もっといえば、前回のレビューで指摘したように、Act.25で爆発した陽
菜絡みの修羅場の筋立ては丸ごと不必要である。この筋立てが不必要で
ある以上は、たかまるローテの二話は、本来一話で十分な内容を不必要
な筋立てを交えて二話に膨らませたもの
だという言い方もできる。だと
すれば、佐藤・高丸両監督の近作四話は、本来緊密に語れば二話で十分
な内容を水増ししたものとさえいえるのかもしれない。

ここを勘繰れば、制作首脳の意向としては、たかまるローテで描かれた
ようなエピソードを佐藤監督に渡すのもいやだったし、今回の舞原ロー
テで描かれるべき一大クライマックスを高丸雅隆に渡すのもいやだった
ので、わざとローテ調整用にヒマネタを挟み、中身を水増しして引き延
ばしたのでは…とさえ思えないだろうか。

現在、物語全体の高まりとは反比例して、この番組の演出面における人
材難は危機的な様相を呈している。ただでさえ、特撮三〇分番組が三人
二話のローテーションで回されている現状には無理があるのに、番組の
カラーを確立した田崎も、中盤を支えた鈴村も今はいない。舞原ローテ
の次はいきなり佐藤ローテであって、何とかレベルアップしたたかまる
ローテも、ここ一番の決め手に欠ける。

たとえばオレが、この三人の演出家の正規の打順でシリーズの流れを構
成するとすれば、うさ・まもや亜美ちゃん絡みの大ネタではないが、今
後の布石として押さえておかねばならないような脇筋を佐藤ローテに回
し、大筋の流れのタメとなるような無難な好編をたかまるローテに、そ
してそれらを受けたクライマックスを舞原ローテに回すというシステム
を構想する。

しかし、三人×二話のローテーションでこの構想を実行すると、約一カ
月半で序破急のリズムとなるのだが、これはスパンの長い一年のシリー
ズとしては、少し駆け足にすぎる
だろう。

さらに、第一部の終了に際して先に触れたような配慮が実際にあったの
だとしたら、こうした構想を分断するようなシリーズ上の節目が訪れた
場合、監督ローテーションの調整がまったく附かないというデメリット
もある…つか、そもそも番組専従の三人の監督とエピソードのマッチン
グを量る基準が、「全然ダメ」「ややまし」「とても良い」というスキ
ル面の可否の三段階評価でしかない状況というのはきわめて異常だ。

普通一般のこの種の番組は、スキル面ではまあまあ以上のレベルを確保
した監督陣を配し、そのセンスや持ち味のバリエーションでエピソード
とのマッチングを図るのが常道だろう。ところがこの番組では、「全然
ダメ」から「とても良い」へ向かう一方的な三段階の流れでしかそれを
図ることができない。この打順を適宜入れ替えることも困難だ。

公平にいうならば、高丸雅隆にせよ佐藤健光にせよ、この番組以外の場
面でさほど叩かれた経験もないわけだから、番組の性格との絶対的な相
性が良くないのだといえないこともない。スキル面云々という話になっ
てしまうのは、この番組の演出面に対する要求水準が高いために、他の
番組なら出ないボロが際立ってしまうせいで、ある意味、この番組に参
加したために叩かれるのは、一種の貧乏くじといえなくもない(笑)。

しかも、監督ローテーションを回していけるギリギリの頭数しかない現
状では、代替の人材を確保するまで、嫌気が差したからといって抜ける
わけにもいかない。もちろんこれは契約関係という現実的な現場事情を
抜きにいっているわけだが、フリーランサーサイドでもいやだから抜け
るというわけにもいかず、東映サイドのほうでも不評だから降ろすとい
うわけにもいかず、東映特撮枠が一枠増えたことによる影響は、予想外
に大きそうだ。

巷では鈴村復帰説も囁かれている現在、第二部の進行にしたがって大幅
なスタッフの流動があるのでは、と、希望的な意味合いも込めて予感し
ている次第である。

一方、もちろんこうしたオレの臆断は、制作の内幕を識らない一部外者
の下司の勘繰りにすぎないだろうし、実際にはこれほど単純な事情では
ないだろう。しかも、いかに微々たるアクセス数とはいえ、公に開かれ
たウェブサイトのコンテンツとしてこういう憶説を披瀝することは、巡
り巡ってあまり良い影響をもたらすともいえない。

しかし、オレは東映とも小林靖子とも無関係な一個人にすぎないし、こ
の番組に対するコミットの仕方は、型通りに「応援する」というファン
ダム的なスタンスではない。独立した個人の限界内で、オレは識りたい
ことを識ろうとするし、三〇分の映像のなかに込められた内実を可能な
限り突き詰めたい、その過程で考えたことを余さずこの場に書き綴って
いくつもりだ。

それが実際の番組づくりに影響を与えるなどと不遜なことを本気で考え
ているわけではないが、もし仮に万が一そうなったとしても、そういう
コミットの仕方なのだからしょうがない
と、あらかじめ腹を括っている
ということである。

それが番組の先行きに必ずしも良い影響をもたらさない可能性を持つ言
であったとしても、だからそれを控えるというのは、かえって不遜だ
ろう。物事はなるようにしかならないのだから、あり得ると想定される
すべての影響に配慮して存分に語ることなどできはしない。

つまり、この先この番組がどういう形をとろうとも、オレはそれに対し
ていっさい責任は感じないし、有り体にいえば無関係だと考えている。
当たり前のことだが、オレはオレの言説それ自体に対する責任しかとら
ないということだ。

弱小サイトの一コンテンツ担当者にしては自意識過剰と思われるかもし
れないが、ぼちぼちサイトのアクセスも増えてきたことだし、これはこ
の際、態度表明としてはっきりさせておこう。

今後、このコンテンツでこれこれのコメントが公開されたとして、たま
たま番組の成り行きがそれに沿った形となろうとも、それはおそらくオ
レの言説とはまったく無関係である「べき」だし、オレが関知し得る表
面的な事情としてそういう影響が顕れない限り、オレ個人としてはそれ
に対していっさい責任を持たない
ことを明言しておく。

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Act.27-2 さだめは死

閑話休題、現場事情に関する部外者の憶説はこのくらいにして、そろそ
ろ実際の作品に目を向けるとしようか。先の宣言の流れからいうと、前
回ローテで言及したそばからベタベタの窓抜きNRとは、オレに喧嘩を
売ってるのか、舞原賢三?
…と、噛み癖の悪い狂犬のように一方的に力
み返ってみるとしようか。

しかしまあ、今後の窓抜きNRのお手本となるようなこれだけのハイレ
ベルで見せられたら納得せざるを得ないし、第二部の幕を開けるに際し
て、第一部を手短に総括するという、きわめて意味のある使い方、こう
いう喧嘩ならいつでも買うぞ
。とにかく、うさぎのナレーションのテン
ポにジャストフィットさせたつなぎのリズムが心地よい。

語り手のうさぎを最初から窓抜きで出すのではなく、まずフルフレーム
のバストショットで押さえておいて、「わたし月野うさぎと、亜美ちゃ
んと、レイちゃんと、それからまこちゃんが…
」というセリフのリズム
にしたがって、曼陀羅状に配された各戦士入れ込みの円形の窓がシュリ
ンクし、そこからの流れでうさぎを窓抜きに引いていく。

さらには、うさぎの視線をヴィーナス・プリンセスバージョンへ挙げさ
せ、そのきっかけでうさぎの窓もシュリンクして仕舞い込んでオフのナ
レーションに持っていき、最後に亜美ちゃんに言及することで前回の引
きにつなげて、語り手のうさぎが与り識らぬはずのセラルナ対ダーキュ
リーの邂逅戦につなぐ多層的な手順が、実もってていねいだ。

おまけに、このアバンの締め括りが猫ルナの額の三日月のアップで、そ
れがOPの満月に重なる手法は、以前鈴村がAct.10で用いたパターンと
同工異曲ではあるのだが、セラルナ登場をフィーチャーしたエピソード
の趣向としていかにも洒落ている。

前回も触れたように、アバンもやっつけの約束事とはとらえず、本編へ
と視聴者の興味をつなぐ重要な要素と認識してこれだけの手間を懸けて
いる舞原賢三の姿勢は、毎度のことながら称賛に値する。

さらに、どうも復帰以降はネガティブ評価を覚えがちだった松村カメラ
マンの絵づくりも、セラルナ対ダーキュリー、ルナ橋を歩くセラルナと
いう一連の新キャラクターお目見えシーンにおいては、効果的なフィル
ターワークで、変なカラーコーディネートのキャラクター(笑)を可能な
限りきれいに見せようと意識しているように感じられる。

パープルにイエローにネイビーという強い色同士のうるさい配色になっ
ているセラルナは、クラウンやトイザらスなどのポップな色調メインの
屋内シーンならさほど違和感は覚えないが、ビルの屋上やルナ橋という
地味な色調の場面ではどうにも浮いて見える。ここをフィルターで抑え
て全体の色調を調整するのは、たしかに的確な判断だ。

番組初期のルックを確立した松村カメラマン、ここへ来て番組のタッチ
に関する勘を取り戻したというところなのか、それともベテランカメラ
マンの的確な判断力が吉と出ているのか。少なくとも、前回の舞原ロー
テで覚えたような不満は今回は感じなかった。

スタッフの好調ぶりというつながりでいうならば、Act.25のプリンセス
出現シーン
で手腕を見せ附けた斗沢秀の照明も、クラウンでの「重大発
表」ギャグというどうでもいいお遊びの場面でも沢井の芝居と連動して
効果を挙げているし、トイザらスのセラルナや湖畔に佇むダーキュリー
という面倒くさい場面でも、存分に持てる力量を発揮している。

このエピソードにおいては、大筋においてテクニカルな死角はない。ラ
イダーとも戦隊とも異なる、これまでの東映特撮にはない新しいルック
の作品が、若手を中心とした現場によって的確に支えられているという
事実は、ジャンルの将来を明るいものにしているといえるだろう。

ただ一つだけ今回のエピソードのビジュアルな難点を挙げるとしたら、
またしても前回の舞原ローテと同様な指摘になるのだが、クライマック
スのムーン対ダーキュリーの戦闘場面のロケーションだ。粒状性の良い
エマルジョンのフィルム作品なら問題ないのだろうが、ビデオ作品とい
う性格を考えると、規則正しいストライプが走るようなテクスチャーを
持つ背景は避けたほうが無難だっただろう。

おそらく何らかの録音施設だと思うのだが、吸音のための壁一面のフィ
ンは、肉眼の見た目的にはおもしろかったのだろうが、ビデオで見ると
カメラが動く度にモアレを起こして、ちょっと見苦しい。

モアレが何らかの眩暈効果のようなものを醸し出していれば、意図的な
ロケーション設定だと思えるのだが、原理的に汚く潰れるだけなので、
ビデオ映像のデメリットが強調されただけに見える。ちなみに、オレの
ところのモニターは、この番組のために三月に買った新品の29型4:3の
三菱製で、ビデオ撮影作品を観るには比較的好適な環境だと思うが、普
通に縦縞が汚く潰れているだけに見えた。

ある意味、こうした具体面に対して先鋭な意識を持っているはずの舞原
ローテにおいて、二度もクライマックスのロケーション選定に失敗例が
あるというのは、ちょっと不思議な話である。前回の例がちょっとした
スタッフとの連携不足や現実的な現場事情によるものだとしても、モア
レというのは基本的知識の範疇の事柄のはず。

まあ、モアレが汚いものという意識で映像作品を見ているのは、オレの
ようにレビューを目的として意識的にあら探しをしている人間や、本職
の映像関係者くらいだろうから、大きな失敗ともいえないのだが、何と
なく「らしくない」のが釈然としないところだ。

…うーん、どうなんだろうなぁ、やっぱ意図的な狙いだったのかねぇ?
でもたしか、そもそもこの種の規則正しいパターンが画面全体に占める
割合って、例のポケモン事件以来規制されてるんじゃなかったかな?

それでは、そろそろこのローテの根幹をなす大ネタであると同時に、前
半を締め括る一大テーマである亜美ちゃん奪還に目を向けるとしよう。
亜美ちゃん奪還劇全体については、次回決着が附いてからあらためて総
括したいと思うが、今回のエピソードではついにダーキュリーが宿望を
果たし、セーラームーンを殺害するところで幕引きとなる。

まあ、そうはいってもこの番組のリアリティでは、これまで人が死ぬと
ころは一度も見せていないわけだし、まして主役であるムーンがあっさ
り死ぬはずがない
んであって、死んだように見えるのは見せかけにすぎ
ないとは思うんだが、劇的内実において描かれているのはダーキュリー
によるムーンの殺害だということだ。

たとえば男子向けの戦隊のリアリティならば、少なくともムーンが死線
を彷徨う重症を負うという程度には生々しく描かれていただろうし、あ
るいは、銀水晶という万能のアイテムを前提にするなら、実際に肉体的
には一度死んだことになっていたかもしれない。

いずれにせよ、ここで語られている劇的内実は、愛憎ただならぬ間柄の
親友の殺害という取り返しの附かない罪障と、そこからの再生の物語だ
ろうと思う。劇的な力学のレベルでは、今回のラストでムーンは、愛す
る者の手に懸かって一度死んだ
のだと解釈してよいだろう。

最初から順を追って視ていこう。アバンのセラルナとの邂逅戦以来、苦
悩するダーキュリーのようすが度々インサートされ、銀水晶の力によっ
て亜美ちゃんに懸かったクンツァイトの妖術が破れかけていることが、
くり返し描かれる。それは、蘇りかけたうさぎへの想いと、それを阻止
しようとする魔魅の綱引きの形で描かれている。

たとえばセラルナが去った後のビル屋上の苦悩の場面では、クラウン内
に独り取り残され、四人の友情を一心に想って手袋を編む不鮮明なかつ
ての自分の記憶の姿に悩まされ、自問するダーキュリーがふと見上げた
落日、その同じ夕陽をルナ橋を渡るうさぎが見上げるきっかけで、そこ
から亜美ちゃんが望んだ四人の姿、さらには微笑む亜美ちゃんの俤に想
いが及ぶ流れは、例によっての美しい対称をなしている。

また、湖畔に佇むダーキュリーの場面では、ルナの行方を気遣ううさぎ
が何心なく見上げた同じ月…否、その月を映して揺れる水面をダーキュ
リーが見つめるという心憎い描写によって、うさぎへと向かいかけてい
るダーキュリーの心中を描き、さらにクンツァイトがその水面の月を飛
礫で乱す
ことによって、想いの淵から引きずり出す。

見るな。おまえはすでに、闇の者だ」というクンツァイトの言葉は、
ダーキュリーが水面に映じた仄かな月の輝きを受けることすら許されな
い暗い闇の中の存在であり、最早後戻りできない地点に来てしまったこ
とのダメ押しだ。

うさぎと同じ月を見上げるという形なら、落日のシーンの反復にすぎな
いし、これまでにも似たような描写があったわけで凡手の誹りを免れな
いが、この場面の描写では、真っ向から美しい満月を見上げることがで
きないという、心利けた捻りが加えられている。蘇りかけた記憶に悩ま
されるダーキュリーは、水面に影を落とした千々に揺れる不鮮明なかた
としてしか月を視ることができない。

これは、クンツァイトがあらためて命ずるまでもなく、いにしえの王国
とそのプリンセス=うさぎの象徴である月を仰ぎ見ることを、内心ダー
キュリーが懼れていることの顕れだろう。水野亜美として抱いていたう
さぎへの愛情を想い出してしまうことは、ダーキュリーとしての自分の
存在の消滅に直結する。

なぜなら、ダーキュリーは真実をねじ枉げた偽りの「愛の復讐」をレゾ
ンデートルとする、水野亜美の虚像
にすぎないからである。ムーン=う
さぎに対する憎しみは、劇しく切ない愛とは裏腹の、水野亜美として抱
いてはならない盲目的な激情を真実の悪意的な歪曲によって解放した、
ネガティブな虚構にすぎないからである。

そして、こうしたダーキュリーの存在の欺瞞性は、ダーキュリーがうさ
ぎに策略を授けて呼び出す場面で、揺れ惑うダーキュリーを一喝するク
ンツァイトの言葉に顕れている。

戦え、今のおまえであり続けるために。

「今のおまえ」であり続けることが、本当にダーキュリーの望みである
のか、ここは問われてよい疑問だろう。水野亜美のダーキュリーとして
の意識の在り方は、実はよくわからない描き方をされているからだ。

アバンのうさぎの言葉では「悪い心に変えられた」というふうに表現さ
れているが、水野亜美の心が悪い心にねじ枉げられているのか、それと
も悪美=ダーキュリーに相当する第二人格を植え附けられたのか、ここ
が曖昧なままこれまで通されてきた。

一見してダーキュリーの言動は、水野亜美としての過去の記憶を持ち合
わせているように見えていたが、「わたしは、いったい、だれなの?」
という自問の言葉にあっては、それすら確かではないということになる
だろう。それが、ダーキュリーとしての意識から水野亜美に戻りかけて
いることに伴う混乱なのかどうかも定かではない。

これらの描写を綜合して考えると、ダーキュリー=悪美は、水野亜美と
しての記憶を完全に保持していたわけではなく、偽りの真実である「愛
の復讐」をひたすら実行すべく動機附けられていただけで、自分がだれ
であるか、なにゆえにそのような憎悪を抱いているのかについても頓着
することはなかった、ということになるだろうか。

たしかに、ここを分明に語ることにあまり意味はない。「悪い心に変え
られた」というのは、何かを説明する言葉ではなく、ダーキュリーの現
状を表現するだけの言葉である。一方では、Act.22の感動のラストにお
いては、ダーキュリー=悪美は水野亜美その人ではなく、偽りの姿であ
ることがハッキリと言明されている。物語に必要な説明は、これだけで
事足りているという言い方もできるだろう。

なぜなら、ダーキュリー=悪美の意識の在り方を掘り下げることは、
野亜美の在り方について視聴者の解釈を無用なダークサイドへミスリー
ドする結果になる
からだ。

ダーキュリーは意図的にそのように設計された人格ではない。たしかに
クンツァイトの妖術によって生み出された存在だが、今このようなもの
として在るダーキュリーは、目0指されてそうなったのではなく、結果と
してそのようなものとなったのだ。

それは言い方を変えれば、水野亜美の人格にダーキュリーを生み出すよ
うななにものかが潜んでいたということになるのだが、そこは限界のあ
る人間が責任を持つべき範疇の事柄ではない
だろう。ここに視聴者の関
心を向けることは、得策ではない。

ダーキュリーの在り方について最も重要なのは、悪意を抱く他者の作為
によって本来の人格がねじ枉げられていることだ。たとえばこれを、妖
術によって心の深奥に潜むダークサイドを解放した、という言い方もで
きるだろうが、それは大きなお世話様である。

人間が醜い真情を心の奥底に圧殺するには、それ相応の理由があるので
あって、それを決めるのはあくまで当人の自由意志だ。そして、人の本
来の人格というときに、自身の裡なる混沌のなかから何をもって自身の
真実と選び取るかという自由意志の介在なしに、おろそかに「本来の人
格」などという言葉が遣われてよいものではない。

クンツァイトの妖術が、水野亜美の心に潜む水野亜美固有の闇に働きか
けたのだとしたら、それは許されない行為であるし、その結果生起した
人格は、本来の水野亜美とは無関係である。それをして「おまえの本当
の姿はこれだ」と強弁するのであれば、望みもしない贈り物によって悪
魔はそういう詐術を遣う
ものだということだ。

「今のおまえであり続けるために戦え」というクンツァイトの言葉は、
悪魔の二枚舌による厚かましい欺瞞である。ダーキュリーは、そう思わ
されているだけで、今の自分であり続けることに執着してなどいないの
だから。この場合、うさぎの言う「いつまでも、あんな亜美ちゃんでい
ていいわけない
」という言葉のほうが真実だ。

そして、こうしたクンツァイトの悪魔性は、前回はダーキュリーを押し
退けて手ずから葬ろうとしたプリンセス=セーラームーンを、ダーキュ
リーに斃させる計画にシフトしたことにも顕れている。

憎しみの対象を自ら手に懸けることは、わが身の血讐の快感としてしか
跳ね返ってこないが、仇敵が愛する者の手に懸かって果てる場合は、よ
り深甚な苦痛を相手にもたらす。つまり、クンツァイトは自身の快味よ
りも敵の苦痛を選んだわけで、憎しみの成就に対してひねこびた徹底が
なされている。

今回のダーキュリー対ムーンの対決に関しては、銀水晶の影響で揺らぐ
ダーキュリーを逐一クンツァイトが引き戻すというくり返しで描かれて
おり、それはクライマックスにおけるふたたびの銀水晶発動に際して、
クンツァイトが再度妖術の花弁を飛ばすことで終局を迎える。

銀水晶の力とクンツァイトの妖術が正面から拮抗し、その結果として、
最後の妖術の後押しでダーキュリーは宿望のムーン殺害を果たし、しか
もその直後という最悪のタイミングで、銀水晶の癒しの力によって水野
亜美の記憶は目覚める。

氷の剣によって打ち砕かれたムーンライトスティック、硬直した指から
氷の剣を必死でもぎ離そうとする動作、高まる鼓動と収縮する瞳孔、こ
れらは、この結末が愛する者の「殺害」という生々しい事態を暗示して
いることの裏附けであろう。ここに血は一滴も描かれていないが、本来
これはおびただしい流血に彩られるべき凄惨な場面を志向する演出であ
ろうと思う。

死せるムーンを見下ろすダーキュリーの表情の絶妙の変化、また、水野
亜美としての記憶が蘇る際の回想の鮮やかさ
、これは特筆されていい。

回想シーンの描き方には常に意欲的な舞原演出だが、現在から過去に遡
りつつモノクロからカラーへと徐々に鮮明度を増し、カットのテンポが
上がっていくリズムの素晴らしさ、喪われた記憶の再来の表現としての
的確さはどうだ。初めて亜美ちゃんと言葉を交わした瞬間のうさぎの姿
が、テンポアップする回想の終端にリタルダンドの呼吸で鮮やかな色彩
を伴って立ち現れる瞬間の、劇的な感銘はどうだ。

愛する者の殺害という血の生々しさを伴う結末を、絶叫の余韻で引くこ
の呼吸は、視聴者にただ事ではない緊迫感をもたらす。さらには、決め
事のBGMを抜きにして直結されたモノクロームの予告は、意味ありげ
な亜美ちゃんの独白で極度のストレスを視聴者に与える。

ついに水野亜美を巡る物語は、最愛の友であるうさぎに「仮想上の」流
血と死をもたらしてしまった。くり返し強調するが、これはあくまで劇
的内実における仮想上の血であり死である。そうでなければ、水野亜美
は仲間たちの許へは二度と帰れない。血と、死と、次回描かれる再生は
あくまで目覚めた水野亜美の心象に映じた象徴でしかない。

水野亜美の奪還は、こうした皮肉な形で成就された。そのうえでさらに
設けられた絶望的なイニシエーションは、愛する仲間たちの許への水野
亜美の帰還の物語
となるはずである。

さて、これほど稠密に悲劇とそこからの再生を志向する筋立てにおいて
は、残された小ネタもそれほど多くのものではない。目に附くこととい
えば、竹光ローテから延々引っ張っているネフライトとダーキュリーの
関係くらいのものだろう。

自暴自棄のネフライトが最後に敢行したプリンセス抹殺の暴挙も破れ、
愛を乞うるベリルから「いずれ相応しい死に場所でも探してやらねば」
とまで突き放されたネフライトだが、このベリルの冷酷な言葉にあって
唇を噛む甘さを持っているのがジェダイトの可愛げだ(笑)。

さらに、暗所でいじけるネフライトにゾイサイトが接近し、「気が向い
たらいつでも来い」と誘うのは、なんだか荒れてる不良に体育会系のク
ラブの顧問が更正を持ち掛けるノリ
なんだが(木亥火暴!!)、その流れで
哀れみを示すダーキュリーの姿に回想が及び、一度は岩肌に叩き附けた
マントを頭からひっかぶるに至っては、母親に見捨てられたマザコン男
が初めて他の異性に興味を示すようなノリだ(笑)。

要するにネフライトは、無用にプライドは高いが、本質的に愛されたい
男なのだな。未だプライドが残されていた頃には、素直にダーキュリー
の憐憫を受ける気持ちにはなれなかったが、それが絶対的に快いもので
あったからこそ施しのマントを振り捨てることができなかった。

無根拠なプライドが粉みじんに打ち砕かれ、母とも恋人とも恋い慕うベ
リルに見捨てられ、らしくもない自嘲と自己憐憫に酔いしれる今、心に
縋るべき温もりは、かつてダーキュリーが投げ掛けたつれない憐憫の記
憶でしかない。

ここで描かれているのは、一種の棄児の乳離れだな(笑)。

ネフライトの心中では、一途に思い詰めていたベリルへの思慕が、ダー
キュリーへと傾いている。復讐を動機として動くクンツァイト、かつて
の主君に対する忠義を立てるゾイサイトに続いて、ネフライトもまた、
ベリルを絶対とする忠臣ではなくなった。

残るジェダイトも、ベリルの冷酷な言葉に接して、かつての仲間を想う
気持ちに揺れている。こうした甘さは、悪に徹しきれない人の良さとも
表現できる性情として、ジェダイトを特徴附けている。

こうしてダークキングダムは、徐々に崩壊への道を辿っている。ダーク
キングダムという邪悪な集団そのものは、もはや恐るべき敵ではない。

その一方で、災厄と破滅をもたらす大いなる力は、銀水晶の度重なる発
動を受けてどんどん強化されてもいる。大いなる悪=クイン・メタリア
は、銀水晶の力と相呼応している節がある。それはすなわち、銀水晶が
力を増すにしたがってメタリアの力も強力になり、正邪の戦いは激烈さ
を増していく
ということであり、さらには、完全復活を果たしたメタリ
アを封印し得るのは、完全なる銀水晶の力でしかない
ということだ。

しかし、銀水晶の力を今現在のうさぎたちよりも十全に駆使し得たはず
のいにしえの王国は、メタリアに抗し得ず破滅の道を辿っている。王子
とプリンセスも、大いなる破滅の際に共にあえなく斃れている。

いにしえの王国はなぜ破滅を喫したのか、銀水晶の純粋な巫女であるプ
リンセスはなぜメタリアに敗れたのか、現在のセーラー戦士が勝利し得
るとした場合、その違いはどこにあるのか。結局、謎はここに収斂せざ
るを得ないだろう。

いにしえの王国の滅亡の真相、そしてそれを明かすうさぎと衛の真の記
憶の覚醒、すべてはここにかかっている。

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Act.28-1 前奏曲と愛の死

伝説においては、白い手のイゾルデは望まずして最愛の人を死に至らし
め、金の髪のイゾルデの癒しの妙薬は決して死に先駆けることはない。

白い手のイゾルデの妬みは、その愛する者であるトリスタンを絶望の死
へと追いやり、トリスタンを救う力を持ちながらもそれがかなわなかっ
た金の髪のイゾルデをも、その枕辺に共に死なしめる。妬みによって偽
る女は、死によって永遠に結ばれた真実の愛に拒まれ、惨めな現世に独
り取り残される。

これは愛と死の神話的悲劇である。

そして、われわれが視ていくべきこの物語の場合、金の髪のイゾルデが
持つ万能の妙薬が癒すべきは、愛する者である金の髪のイゾルデその人
を殺害した罪障に戦く白い手のイゾルデの心である。

美しい伝説に込み入った手を加え、トリスタンを除いて二人のイゾルデ
を直結した奇怪な架空の物語のなかで、愛と死と癒しを巡る悲劇は撤回
可能なのか。今回のレビューでは、そこから視ていきたい。

なお、ワグナーの楽劇においてはイゾルデは一人しか登場しない。彼女
はトリスタンを癒すためでなく、その愛によって共に死ぬために、劇中
を通してひたすらに死へと突き進むかのように振る舞い続けた愛人の死
の床へと駆け附ける。

また、金の髪のイゾルデは、麗しのイゾルデとも呼ばれている。

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Act.28-2 白い手のイゾルデ

さて、前回のクライマックスで掻き立てられた極度の緊張とストレス、
これをおあずけにして読み手の興味をつなごうとするほど、オレはあざ
とくもないし、有り体にいえば辛抱強くもない。まず真っ先に、そこか
ら視ていくのが人の道というものだろう。

前回の引きで、ついにダーキュリーは「裏切られた愛の復讐」を果たし
セーラームーン=月野うさぎを殺害するに至った。その宿望が達成され
た瞬間に、うさぎたちを苦しめ続けたダーキュリーは消滅し、その偽り
の復讐の形見として、死せるムーンが水野亜美の眼前に取り残された。

アバンで描かれたそのつながりの一連は、一種、トランス状態で犯した
殺人の後の狂乱の芝居場を志向している。正気に戻った亜美ちゃんがお
そるおそる「…うさぎちゃん?」と呼びかける、夢から醒めたばかりの
人のような声音の弱々しさは、視聴者の裸の神経を掻きむしり、背筋に
粟が立つような緊迫感を醸し出す。

絶え入るような悲鳴から暗転して、演出者の底意地の悪い視線は、微動
だにしないムーンを膝に掻き抱き、虚ろな視線をあらぬ方へ投げて凝固
する亜美ちゃんを静かに回り込みながら、瞑目するムーン、二つに割れ
たムーンティアラ、粉々に砕かれたムーンライトスティックをインサー
トして、自らが手を下した行為の衝撃になす術もなく虚脱する少女の姿
を、無音の画面上に冷たく晒す。

そのゾッとするような静寂を破るクンツァイトの言葉や靴音は、残響を
強調して処理されており、無人のホールの生音を擬したリアリティを附
与すると同時に、どこか舞台劇を思わせる演劇的な効果をもたらし、さ
らには、正気附いた亜美ちゃんが無我夢中でムーンに這い寄る激しい息
遣いの残響を過剰に高めることによって、夢幻的なムードへとシフトし
ていく。

それこそ夢のなかの出来事のようにのろのろとムーンに近附き、自らの
手を虚ろに投げ出されたムーンの手へと伸ばしかけるもどかしい動作を
暴力的に薙ぎ払うかのように、広角の寄りでとらえられた亜美ちゃんの
眼前をサッとマントが横切り、息詰まる悲劇を演じた三人の演者が鮮や
かに舞台上から退場した瞬間に、「うさぎちゃん!」とルナがフレーム
インする劇的な呼吸も見事だ。

途方に暮れたルナが見下ろす打ち割られたムーンティアラからOPの満
月にカットする趣向は、Act.27を出でて有意に効いたつなぎの演出だ。
このアバンは、愉快なセラルナエピソードによって押し出された前回の
クライマックスの締め括りの芝居である。

そうした構造に即応して、今回のアバンの語りを担当するのはセーラー
ルナと猫ルナであり、お茶目なムードからタメも何もなく一転して、陰
惨な殺害劇のその後を語る。そして、本編開始早々に死んだはずのうさ
ぎは何事もなく蘇り、この劇的なアバンで描かれた悲劇をあっさりと夢
に帰してしまう。クライマックスで次回へ引き、アバンでそれを受ける
というこの番組のスタイルが、最大限に活かされた好例だ。

また、この一連において、最早ダーキュリーの呪縛から解き放たれ、水
野亜美として目覚めたはずの亜美ちゃんが、この場面を通してダーキュ
リーの窶しのままに留まるのは、普通に考えれば矛盾している。

一般的な特撮ものの作法から考えれば、ダーキュリーが消滅し水野亜美
に戻ったということを、ダーキュリーの窶しからマーキュリーのそれへ
の変化、もしくは変身の解除という形で表現するのがセオリーである。

アクチュアルな面から考えても、セーラー戦士はあのような衣裳に「変
装」しているのではなく、ああいう姿の戦士に「変身」しているはずな
のだから、ダーキュリーの衣裳と内実は本来セットであって、ダーキュ
リーの存在が消滅したのであれば、ダーキュリーとしてのコスチューム
も解除されるべきだ。

しかし、ここをダーキュリーのコスチュームのままで通したのは、森の
彷徨の場面で投げ捨てたジュエリースターブレスレットが黒いままであ
るというアリバイも押さえられてはいるが、むしろ意図的な演出ではな
いかとオレは考える。

邪悪なダーキュリーがその手でつくった罪は、たとえ彼女が消滅したと
しても、その肉体を共有する水野亜美の手を穢すのだ。

その取り返しの附かなさ、不条理さの表現として、ダーキュリーの存在
が消え失せても、その邪悪な復讐者としての禍々しい姿は水野亜美をと
らえて離さないのである。強張った指から離れようとしない氷の剣と同
様に、底意地悪く罪障の記憶を強調しながら水野亜美に纏い附くのだ。

別の言い方をするなら、うさぎを憎み、セーラームーンを殺害したダー
キュリー=悪美と、セーラーマーキュリー=水野亜美は、どうしたって
同一人物の独り芝居でしかないということを、この場面を演出した者が
強調しているということだ。

ムーンを殺害した後のダーキュリーが、たとえばモーフィングや閃光を
放ってマーキュリーの姿に変わっていたとしたら、ダーキュリーとマー
キュリーを規定する個別の特殊事情が強調され、視聴者は「これはダー
キュリーの仕業であって、亜美ちゃんのせいじゃないんだ」という当た
り前の事実を意識してしまう。

コスチュームを変化させるというアクションによって、視聴者の気分が
仕切り直されてしまい、愛する友を己が手に懸けてしまったという亜美
ちゃんの衝撃との間に距離ができてしまう。その姿が変わることで、本
来それは亜美ちゃんが責任を感じるべき事柄ではないという事実が、劇
的な意味合いにおいて不必要にくっきりと強調されてしまうのだ。

前回指摘したような、悪美と亜美ちゃんの関係性、「仮想上の死」とい
う概念、その文脈でいうならば、これもまた亜美ちゃんの心象風景の表
現にすぎない。ダーキュリーと水野亜美の同一性は、亜美ちゃんの受け
た衝撃を表現する、この場面の劇的効果の意味合いにおいてのみ強調さ
れているということだ。

Act.22のレビューで語ったように、オレはダーキュリーの邪悪な内実を
亜美ちゃんの「心の奥底に秘め隠された真情」というふうにはとらえて
いない。そのようなとらえ方は、已むに已まれぬ疚しさを抱えて取り残
された三人の友が、あらためて亜美ちゃんの気持ちに思いを致し、自分
たちの立ち位置を確認するための契機にすぎないと考えている。

Act.22においてハッキリ宣言された、ダーキュリーが邪悪な妖術のもた
らす偽りの影であり、亜美ちゃんの真の気持ちを体現した存在ではない
という結論は、この今においても堅持されねばならない。

その意味では、亜美ちゃんの罪悪感は、ダーキュリーの邪悪さそれ自体
を自身の責任と感じているのではないと考える。というか、そこを強調
して描くことは最早無意味である。今回劇中で描かれた内容を視ても、
亜美ちゃんの言う「私がやったんだ」という言葉は、自身の裡なる醜い
心根が友を痍附けたのだ、というニュアンスでは描かれていない。それ
は、かのAct.16の無用なくり返しにすぎないだろう。

森の場面で語られる「もうダメかも…」という絶望に苛まれながらも、
四人の仲間が再び心を一つにする未来の温もりに憧れ、その祈りを込め
て一心に手袋を編み続けた自分が、皮肉にも仲間たちを痍附け、最愛の
友であるうさぎの命を奪う結果となろうとは。この場面において、亜美
ちゃんが感じる衝撃として描かれているのは、ダーキュリー絡みのエピ
ソードに纏わるいっさいの結末のみを圧し附けられた不条理さだ。

忘れてはならないのは、この場面の亜美ちゃんは、ダーキュリーから水
野亜美として覚醒した瞬間に、最早息の通わぬ友の冷たい屍をいきなり
己が手に圧し附けられたのだということだ。彼女には、少なくとも木馬
遊園地で失神して以来の記憶はない。そこからここまでの間に繰り広げ
られた辛い事件の結末が、目覚めた瞬間にそこにあるのである。

そして、底意地の悪い演出者は、惨酷な血を幻視する凄惨な死の領する
惨劇の巷にいきなり放り出された亜美ちゃんに、邪悪なダーキュリーの
見かけをそのままに纏い附かせ、「この屍を見るのだ、これは、冷たく
鋭い氷の剣を翳し、邪悪な黒衣を得意げに纏うおまえ自身がやったこと
なのだ」と、視聴者と水野亜美自身に強調してみせる。

優れた演出者に必要なのは、ときとして、このように暴力的なまでの皮
肉な底意地の悪さを発揮できる資質であったりするのだろう。Act. 5
レビューで指摘したように、こういう場面で舞原賢三は人物に寄り添っ
て労るようなスタンスには立たない。本編開始早々に撤回される「友の
殺害」という「悪夢」を、夢みる者である水野亜美の感じる悪夢のリア
リティにおいて生々しく強調してみせる。

Act. 5とのつながりでいうならば、ダーキュリー登場編においては「滑
稽ではなく決まっている」と評したダーキュリーのメイクではあるが、
ダーキュリーとしての力み返った表情が消え失せ、そのままの拵えで演
じられる衝撃に動転した水野亜美としての演技は、どこか浮いていて滑
稽でさえある。

ここを冷たく突き放し誇張して描く演出者の目は、ものの五分の後に覆
される衝撃的な悪夢を、過剰なまでのリアリティで視聴者に突き附けて
くる。シリーズ前半のクライマックスをかたちづくるダーキュリー絡み
の物語、その終焉に際して描かれた屈指の劇的名場面といえるだろう。

さて、ひたすらに裏切りの復讐を望み、悪夢の次元でとはいえ、ついに
はその歪んだ宿望を果たしたダーキュリー=悪美とは、どのような存在
だったのか。ダーキュリー消滅に際してそれを考えるのも無駄ではある
まいと思う。

無論、ダーキュリーが創造されるに至った意図のレベルの問題において
は、それはさほど入り組んだ筋道ではないだろう。

これまでの物語を通じて、わが身一心の問題を克服し、仲間たちの絆に
思いを致せるようにまで成長した亜美ちゃんが、その想いのゆえに苦悩
を味わい、さらには敵に回ることによって、それまで物語の主体として
描かれてきた人物を客体として位置附け、仲間たちの亜美ちゃんに対す
る想いのドラマをかたちづくるための作劇の方便である。

オレがここで考えたいと思っているのは、これまでのドラマが描かれる
ことによって、非意図的に生成されたダーキュリーの在り方である。つ
まり、作者がどう考えていたとか、どういう狙いで描かれたのかという
次元の問題ではないので、いわゆる正解のある設問ではない。これを、
オレ個人の思い込みだと判断されるのは、読み手の自由だ。

ダーキュリーとは、結局何だったのか。結論から先に提示するいつもの
スタイルに即していえば、それは水野亜美に纏わるこれまでの成長のド
ラマをすべてなかったこととして、それでいて月野うさぎに対する劇し
い想いだけは抱いているという、在り得ざる水野亜美の姿ということに
なるのではないか。

非常に卑近なアナロジーでいえば、ダーキュリーは月野うさぎの魅力に
憑かれ附き纏う同性のストーカーだ(木亥火暴!!)。

ダーキュリーの悪意と憎悪は、一方的で独占的な劇しい愛情が受け容れ
られなかったという、在りもしない事実に対する歪んだ復讐の情熱では
ないかとオレは考える。

まかり間違えば、水野亜美もそうなっていたのかもしれない。これまで
彼女に関して描かれてきた、うさぎとの対立と宥和のドラマにおいて、
痍附き涙する度に亜美ちゃんは必死で何かをつかみ、うさぎへの想いを
頼りに人としての成長を果たしてきた。それは、まさに人間ドラマその
ものである。

しかし、そうしたドラマを許されなかった多くの人々が、現実に生きて
いる。瞬く星を鏤めた夜空の高みにあって、優しく微笑み冴え冴えと鮮
やかに輝くあの月のように、いくら手を伸ばしても決して届かぬ美しい
人に対する愛情は、いつかは劇しい憎しみに変わる。

それが愛であるうちはいかに歪んだ形ではあれ応え得るのだとしても、
頑なな憎悪に変じた後にその凍り附いた心を溶かす術は最早ない。もし
もこのドラマで描かれたダーキュリー絡みの一連に、一点の憾みを覚え
るとしたら、うさぎの愛がついにダーキュリーとしての頑なな心をほぐ
すまでには至らず、裏切りの復讐が成就されてしまったことだろう。

今回のアバンまでに描かれた一連によって、ダーキュリーの歪んだ一方
的な復讐は成就され、その結末を水野亜美に圧し附けることによって、
うさぎとの健全な愛情を育むに至った他ならぬ水野亜美自身に対しても
復讐を果たしている。この盲目的なまでのネガティブな悪意は、どこか
ら生まれるのであろうか。

うさぎはダーキュリーに対して終始「亜美ちゃん」と呼びかけるが、そ
れは考えるまでもなく当たり前のことである。しかし、この錯綜した事
情においては、それではダーキュリーの憎しみそれ自体を昇華すること
はできないのだ。

ダーキュリーは、在り得たかもしれない水野亜美なのだろうが、水野亜
美その人の今現在の人格とは完全に無縁である。それは何度も強調した
とおりだが、ダーキュリーが水野亜美から生み出され、肉体を共有して
いる他者である以上、ダーキュリーとして呪縛されている水野亜美と直
截向き合おうとするうさぎのスタンスでは、結果として生み出された奇
怪な妖怪であるダーキュリー自身と向き合うことはできない。

つまり、ダーキュリーの抱くいびつな憎悪に対抗するためには、それを
全否定する必要があるのだ。ダーキュリーの裡に囚われた水野亜美に呼
びかけ、水野亜美を呼び戻すことによって、ダーキュリーの消滅を図ら
ねばならない。

しかし、逆説めくがダーキュリーは紛れもなく「もう一人の水野亜美」
でもあるのだ。ダーキュリーが執念を燃やす、偽りの事実に基づく裏切
りの復讐は、どこか全否定できないものがある。

先ほどのストーカーの喩えでいえば、普通一般に人間は赤の他人が勝手
に抱く恋愛妄想に責任をとらねばならない筋合いなどいっさいない。そ
んなことは不可能だし、有り体にいえば関係ないとさえいえるだろう。

しかし、現実のレベルとは違う次元でいえば、人間は自らが関わるすべ
てに対して原理的には責任があるのだと思う。ただ、限界のある人間に
はそのすべての責任に応えることは不可能だし、それが不可能であるが
ゆえに免責されているというだけのことなのだと思う。

原理的な意味合いにおいては、責任能力と責任関係は絶対的に整合して
いないというのがオレの考え方で、それはAct.22のレビューにおいて、
自身のアティテュードが、より良い亜美ちゃんの立ち位置を護るため
に十全であったとうさぎが思えない限り、亜美ちゃんを取り戻したいと
欲する限り、人と人の間には絶対的な責任関係が生じるのだ
」と表現し
たとおりである。

非常にデリケートな筋道なので、この表現で理解していただけるかどう
かは自信はないが、これは現実生活においてストーカーにも誠意をもっ
て接するべきだといっているのではない(笑)。

現実に生きる人間が、無数のダーキュリー的なる他者の一方的な愛憎に
晒されているのだとして、それに応え得る術はない。現実的な意味合い
における不利益行為は全面的に拒絶し得るし、対抗的に憎悪を抱くこと
は許されるのだとしても、原理的なレベルにおいてその愛憎それ自体を
全否定し、なかったことにすることはできないのだと思う。

ストーカーが一方的な愛憎を抱くのは、本人が「悪い」とか「間違って
いる」からではなく、人間存在を囲繞する関係性の罠が、期せずしてそ
のような不条理な関係性を生成してしまうのである。さらに、そこで問
題となるのは、相互的な意味での関係の不可能性である。

ダーキュリー的なるものに働きかけて、何某かの有意な相互的関係性を
構築することはできないのだ。ダーキュリーが想いを遂げるか、それを
退けるか、行為としての次元でせめぎ合うほかに、この関係を解消し得
る術はない。それは、ダーキュリーとうさぎが同じ世界を共有していな
いからであって、ダーキュリーは在り得ざる因縁に基づいて劇しい憎悪
を抱いているからである。

これは妖術によって生み出された特殊な存在にだけ当てはまる事柄では
なく、他者と共有不能な世界認識に基づいて一方的に激情を抱く、いわ
ゆるストーカー一般に当てはまる事柄だろうと思う。ダーキュリーは、
うさぎと水野亜美の間で持たれた物語とは違う物語を頑なに狂信し、存
在しない物語に基づいてその復讐を果たそうとする怪物だ。

さらに、前回のダーキュリーの揺らぎが、ダーキュリーそれ自体として
の揺らぎではなく、水野亜美の人格が表出しかけたことによる統一性の
混乱にすぎず、ムーンを手に懸けたダーキュリーが誇らかに嗤いながら
消滅したからには、ダーキュリーとして生み出された存在に対して、う
さぎはまったくの無力であったということになる。

この物語の結末は、ダーキュリー的なるものに抗し得る力がどこにもな
いことを結果的として裏附けてしまった。悪夢のなかの存在であるダー
キュリーは、悪夢の次元でその憎悪を成就し、それは再び卑近な喩えを
弄すれば、ストーカー殺人のような事態であろう。

在り得ざる物語に基づく愛はやがて憎しみに変わり、その偏跛な憎しみ
は、かつて愛した者を滅ぼさずには完結しない。

人は常に一方的な暴力に晒されている。そして、この物語ではそれをも
たらす者にクンツァイトという復讐者を充てている。しかし、現実にお
いては、邪悪な妖術などなくとも、たやすくこの妖怪は生み出される。

かつて欧州に出現した妖怪は世界を変えてしまったが、この今に現れる
妖怪は、プライヴェートな恣意に基づいてねじまげられた世界に閉じこ
もり、死によってしか完結しない危険な愛の夢を始めようとする。

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Act.28-3 主は汝の許へ来たりて

アバンを終えたら、やはりOPにも一言触れておかないわけにはいかな
いだろう。東映の公式サイトによれば、今回のOP映像は尺調整のため
の変則的なものとのことだが、巷では、第二部開始に当たって新キャラ
入れ込みのOPにリニューアル、という憶説も流れていたので、それが
これなの?という戸惑いを覚えた←おまえだけだろう(木亥火暴!!)。

それにしては従来のOP素材をいじっただけ、という構成は手抜きっぽ
いし、新キャラも入ってないから、変だとは思ったんだが、正直、セー
ラー戦士の、決してうまいとはいえない斉唱で歌われる主題歌のインパ
クトにはちょっと面喰らったので、「えー、これから毎週これかよ?」
と思ったことは事実。リアルタイムで効いている演出ではなかったって
ことだろうな。

むしろ、演出面での意図としては、OPを飛ばしたいくらいだったのか
もしれない。アバンからオフの番組タイトルと提供ロールだけを挟んで
本編を始め、二度目に流れる主題歌のバックにスタッフロールを流すと
いう劇場映画のようなやり方もあったのだろうが、おそらく現実的な事
情から、OPを飛ばすことはできなかったのかもしれない。

意外と特撮三〇分番組というのは、OPやEDのフォーマットを崩す演
出が嫌われるという話をどこかで聞いたことがある。世知辛い話だが、
番組フォーマットというのは要するにCMを入れるためのレイアウトな
のだし、CM枠は分単位で決められて切り売りされている。また、この
種の番組をほぼ一社独占でスポンサードしているバンダイには、商品プ
ロモ映像としての特撮番組に対する独自の要望があるだろう。

とまれ、せっかくのドラマに水を差すような現実的な憶測はこの辺で切
り上げよう。そういう次第で、リアルタイムで見たときはちょっと虚を
衝かれた感のある変則OPだが、ある意味、このエピソードを通して見
たあとでは、また違った趣があることに気附いた。

モノトーンの画面を後景に回し、窓を抜いてカラーの後景と同じ映像が
流れるという抑えた趣向の今回のOPは、尺も短いし、ストーリーとし
ては、五人の戦士が集合して主題歌を歌うというシンプルなもの。

本来のOPの流れでは、回転台に乗って回る四人を押さえた二カットに
おいて数フレーズしか重ねられない五人のユニゾンを、全面的にフィー
チャーして、うさぎを中心にして集まった仲間たちの多幸感あふれる斉
唱として組み立てている。

そのため、絵面としては多少地味で、楽曲としても小枝がピンで歌った
ほうが耳に快いのは当たり前だが、絶望的なアバンの直後に配された、
ラストにおける感動の控えめな予告としては的確なつくりだろう。

劈頭のフルムーンから「脚本 小林靖子」のクレジットまでが従来どお
りなのは、制作首脳と作家に対する「番組の看板」としての配慮なのか
もしれないが、続く映像が番組放映開始前の番宣でのみ使われた素材な
のは、懐かしく、また感慨深い。

あの頃は「五人の女の子が演じる戦隊もの」のイメージ映像として、ま
あこんなもんだろ的にとくに何を感じるでもなく見ていた映像だが、物
語がこのように異様な相貌を顕わし、水野亜美物語を中心として「五人
の女の子」の輪を巡る劇的なうねりを展開したあとで、さらにはそうし
た物語の帰趨を決する息詰まるエピソードの冒頭で、あらためてこの凡
庸なイメージカットを見せられると、一種奇妙な感慨がある。

それを語ることは、それを目論んだ演出者の意図の問題を出でて、遠く
この地点まで連れてこられたオレたち視聴者の気持ちを語ることになる
だろう。思えば遠くに来たものだ。五人の女の子が愉しげに語らい合い
ながら希望に向かって駆け出すこと、この凡庸な光景がこのドラマのな
かで実現されるのはいつのことだろう。

未だ物語は折り返しを迎えたにすぎず、すべてを終えた五人がこのよう
に睦み合う光景は視聴者に許されていないが、月野うさぎが水野亜美の
手に懸かって死ぬという衝撃の展開を受けて、そこからの回復の物語を
語り、少女たちの絆の温かさ、確からしさの描出を目指すこのエピソー
ドの着地点として、最もこれまでの劇的内容から遠く、意味附けのまっ
たく施されていない素材を持ち出した舞原の勘は、的外れなものではな
いと思う。

そして、そこからつながるのは、いつもOPで見慣れた、うさぎと四人
の仲間たちが背中合わせで輪をつくり回りながら主題歌を歌うという映
像だが、このエピソードを最後まで見てからあらためてこのOPを見る
と、それがあの感動のラストシーンの控えめななぞらえとして意味附け
られていたことに気附く。

あのラストシーンで感動的に流れた主題歌を、仲間たちが輪をつくって
共に歌うこと。遡って倒置されていることで、今はまだ伏せられている
が、これはラストシーンと対称をなしている。そういう目で子細に視る
ならば、うさぎのピンがフィーチャーされているのは、アリモノの素材
であるという都合上当たり前の話だが(笑)、編集面で有意にヴィーナス
が立てられているという事実にも気附くだろう。

この短いOPにおいては、絶対的な分量として各人の配分にさほどの違
いがあるわけではないが、回転台が回り込んでヴィーナスが背後に回っ
た瞬間に別窓で前面に回り込んでくる映像をつなぐことで、連続的に長
めに映っているという印象を狙っていること、さらにヴィーナスだけ後
景でアップが押さえられていること、こうした点から、エピソードの主
役であるマーキュリーよりもヴィーナスがフィーチャーされたつなぎで
あることがわかる。

そのために、回転台で回りながらのカメラ目線を外すキッカケがぎこち
ないという、元々の素材に顕れたNG的な要素ももれなくさらけ出され
ていたりするわけだが(笑)、それがかえって、多少不細工な細部に目を
つぶってでもヴィーナスを長めに画面に出す、という明確な編集上の意
志を垣間見せているのではないだろうか。

未だ「予告」の段階にすぎないOPを語る場面の節度として、これ以上
突っ込んだことは言わないが、ラストシーンの感動を絵的に支えている
のは、四人の輪を見守るヴィーナス=美奈子の存在である。

というか、このラストシーンは、余人ならぬ愛野美奈子が視ている光景
であることによって、また、愛野美奈子としての宿命を抱えたヴィーナ
スの後ろ姿によって完結するヴィジュアルなのである。

OP素材としては、主人公であるうさぎが輪から外れてピンで歌ってい
るけれど、ラストシーンで仲間たちの輪から外れているのは、愛野美奈
子=セーラーヴィーナスである。

そういう意味では、このOPがラストシーンのなぞらえであり控えめな
予告であるという性格は、ねちっこいまでに周到な対称として徹底され
ているといえるだろう。

そして、そうした演出上の意図が、視聴者に与える効果として成立して
いるかどうかという問題では、やはり冒頭で触れたようにリアルタイム
の効果としては効いていないと思う。そして、オレの基本的な考え方と
しては、原理的にリアルタイムで効くことが期待できない描写は、一般
的な鑑賞のレベルでは無視していい要素だと思う。

このOPの仕掛けは、おそらく送り手からのメッセージとして視聴者が
受け取るべき事柄ではないのかもしれない。作劇の試行錯誤のプロセス
においては、OPを飛ばすか飛ばさないかというオルタナティブも存在
したのだろう。

そして、結果として短い尺のOPを入れるということになった場合に、
それを最後まで観てからでないと気が附かないラストシーンのなぞらえ
として構成するというのは、視聴者に向けた仕掛けとして効くか効かな
いか微妙な線である。

一種、これはつくり手の側のこだわりの範疇の事柄、気持ちの問題とし
て受け取るべき事柄なのかもしれない。つまり、送り手の側では、効か
なくてもかまわないというスタンスで自身のこだわりを通している。

これは「2週間以上も自宅に帰れず、もう体はボロボロです。」と公式
サイトで語られた
舞原賢三の意気込みを示すものであろうし、オレがそ
れに触れたのは、今回のレビューではとにかく余さずすべてを語りたい
というオレの気持ちの問題だ。

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