Act.13 七センチの爆弾

七センチの距離さえあれば、爆弾のような破壊力を繰り出せる…などと
戯れ言をいってみても、最近の若い人には何のことだかわからんのだろ
うと思いつつ、前回のイチゴショートに続く今週の「実験してみよう」
シリーズは、当然「一つの饅頭を二人で半分こ」だな(木亥火暴!!)。

このOA直後に入ったカラオケボックスのメニューに中華饅頭があった
ので、参加者の半数だけ注文して、半分こで喰ってみた。しかし、コン
ビニで売ってるような井村屋だの中村屋だのならともかく、ちゃんと蒸
籠で蒸すような本格的な中華饅頭だと、餡がしっかり固まっててうまく
半分に割れないことが判明した。

本格的中華饅頭の餡は、蒸すことによって焼売状に固まるので、これを
手で半分に割ろうとしても、どうしてもガワ半分の部分と餡全部+ガワ
半分の部分に泣き別れになってしまうのである。

これでは、餡の全部詰まった部分を渡すかガワだけの部分を渡すかで、
微妙な喰い物ギャグの世界が展開してしまう。どちらを渡すにしろ、ど
ちらかにわだかまりが残ってしまい、とてものこと舞原監督の言う「七
センチの距離」が詰まらない。

そこでオレたちの下した結論は、本編中の映像では遠目でわからなかっ
ただけで、あれはおそらく、肉まんより餡の柔らかい小倉あん饅頭だっ
たのではないか、というものだ。ちなみに、小倉あん饅頭とチロリアン
饅頭は、響きこそ似ているがまったくの別物である。

それならば、うさぎが饅頭を半分に割って差し出したときの地場衛の表
情が、心なしか迷惑げであったのも納得がいく。普通に考えてみれば、
高校生にもなる男の子が、磯で散々砂いじりをしたしょっぱい手で小倉
あん饅頭を半分に割ったものを、厨房の女の子から、さあ喰えとばかり
に差し出されて嬉しかろうはずがない。

たとえばこれが肉まんだったとしたら、「おう、オレちょうど腹ぁ減っ
てたんだ」とかぶり附く場面も、いくぶん自然である。しかし、ヤドカ
リだのホンダワラだのの臭いが染み附いた磯臭い手で割った、小倉あん
饅頭の半分こ…これはかなり微妙である。磯の香と塩味と、極端に甘い
ホットな小倉あんの取り合わせ…微妙と表現するにも微妙すぎる。

たとえていえば、おままごとに付き合わされた大っきい兄ちゃんが女の
子から泥団子を「はい、ごはん」と差し出されたときの心境に近かった
のだろう。その内心の葛藤を、うさぎの気持ちを酌んでグッと飲み込み
柄にもない甘いものを黙って喰って見せる衛の心意気…うん、これだ、
これが舞原監督の言う「七センチの距離」なんだよ(木亥火暴!!)。

よし、少なくとも、オレは納得した(木亥火暴!!)。

すっきりしたところで、小ネタはこのくらいで切り上げて、本編の話に
移ろうか。公式サイトの記述によると、舞原監督が「うさぎと衛が七セ
ンチ近附く話」と表現した今回のエピソードだが、一〇センチでも五セ
ンチでもなく七センチと表現する辺りが、イメージ主義の舞原演出の真
骨頂だ。これは当然、脚本のなかに「うさぎと衛、七センチ近附く」な
んて書いてあるわけがないんであって、演出上のキーワードだな。

以前、映像作家は文章家であることが一般的と書いたが、スタッフや演
者の間で意識を共有するために、こういうイメージを喚起するようなワ
ンフレーズを思い附くことも、演出技倆の範疇だろう。そういう意味で
は、映像作家は内輪の制作サイドに対しても表現行為を行う商売だ。

言葉を超えた映像それ自体が語る内実を表現するのが映像作品だといっ
ても、それを実現するためには、具体的にスタッフや演技者を動かすた
めの、緊密でレトリカルなコミュニケーションが必要だ。

ときにはコミュニケーションに意図的なブランクを設けて、一個人の意
図以上の効果を引き出すことも立派なコミュニケーションだろうし、具
体的なディスカッションによって、とことん細部を詰めるのももちろん
コミュニケーションだ。そして、今回の舞原監督の「七センチ」のよう
に、個々人のイメージを触発しつつも、ゆるやかな共有をもたらすよう
なワンフレーズを案出するのもコミュニケーションの技法だろう。

集団統率の側面を持つ職業では、常にコミュニケーションが重要な意味
を持つ。言葉の分野がなおざりにされて、言葉以上を目指す文芸分野が
成立するはずがない。映像作家というのは、手持ち主体のドキュメンタ
リー映画でもない限り、基本的に独りでは何もできない職業で、他人に
対して言葉で何を伝えられるかが重要な職能だ。ことさらに名文家であ
る必要はないだろうが、最低限、自身の意図を不特定多数に向けて言葉
で的確に表現する能力が必要なんだと思う。

…なんか、湿っぽい方向に話が及びそうだから、この話はこの辺にしと
こうな。まあ、みんな、だれの話をしようとしているのかわかってるだ
ろうし(木亥火暴!!)。

では、「七センチ」と表現されたその距離はいかに詰められたのか、そ
れを視ていくことにしよう。まず、「うさぎと衛が接近する」と一口で
いっても、事ははそれほど単純ではない。基本的に現段階では、うさぎ
と衛はそれぞれお互いに隠し事をしていて、片方だけがその真相を知っ
ており、仮面の関係では素顔の関係とは逆のベクトルで関係が成立して
いるというややこしい事情があるからだ。

まず、Act.1 で提起されたこの二人の関係を、始点として視てみよう。
初登場時の衛は、無愛想で口の悪い根性曲がりとして登場し、初っぱな
から強烈にうさぎと視聴者の反感を買っているが、衛のほうでもうさぎ
個人に興味を持った節はない。この男が満遍なくだれにもかれにも失礼
な奴
だというのは、今ではみんな知っている(木亥火暴!!)。

ところが、うさぎの初変身後に突如登場したタキシード仮面は、さした
る理由もなくセーラームーンを庇い、颯爽とした態度と物謂いでムーン
=うさぎの乙女心を鷲掴みにしている(笑)。もう、初めての瞬間から、
ムーン=うさぎは、タキシード仮面に恋心を抱いているといってもいい
だろう。

一方、タキシード仮面としての衛がムーンに惹かれる想いの真相は、こ
の時点ではまったく判然としていない。あえていえば、タキシード仮面
は過去世からの声に囚われた衛が演ずる地場衛とは別の人格だという表
現もできて、その別人格たるタキシード仮面が否応もなく現世の人格で
ある地場衛を引き摺っているという見方もできる。

意識に連続性が確保されているわけだから、病理的な意味での別人格で
はないが、タキシード仮面に変装した後の衛は、地場衛とはまったく違
う態度、物腰、そして何より感情でムーンに接しているといっていいだ
ろう。変身後の二人の関係は、一種の仮面劇と視ていいと思う。この時
点でムーン=うさぎが恋心を抱いているのは、地場衛が演じるタキシー
ド仮面という架空の人格なのだな。

こういうややこしい関係性があるので、仮面と素顔の間で同自性が確保
されている場合は「ムーン=うさぎ」「タキ=衛」という表記、役割的
な別人格として扱う場合は「ムーン」「うさぎ」「タキ」「衛」と個別
の表記にするのだが、まあ我慢して附いて来てくれ(木亥火暴!!)。

続くAct.2 以降の二人の関係は、この出発点から発展しており、素顔の
関係ではいがみ合い、仮面の関係では強い絆で惹かれ合うというコント
ラストで描かれている。これを前世の宿縁の強調と、反撥しつつも接近
するラブロマンスの同時進行と表現しても差し支えない。要は、シチュ
エーションコメディ的な関係性だということだ。

この均衡が破れるのは、初の接近編といってもいいAct.7 においてなの
だが、二人の関係性という面から視ていくと、このエピソードで押さえ
られているのは、うさぎの意識では「タキシード仮面でさえあれば、そ
の正体が元基でも構わない」というポイントだ。この辺の乙女心は、さ
すがの心にオバチャンを飼っている男にすら理解不能だ(木亥火暴!!)。

この辺は、うさぎの抱く恋心の稚なさと解釈してもいいだろうが、顔も
素性もわからない男に憧憬を抱くことはあり得ても、そこから遡って素
顔のその人がどんな人でも許容するというのは、まあ普通一般の恋愛と
比較するにはちょっと現実離れしすぎているかもしれない。

そして、この時点で考えねばならないのは、たとえばタキシード仮面の
正体が元基であっても構わないのなら、それが衛であっても構わなかっ
たのかということだな。結論からいうと、おそらくそうではなかっただ
ろう。

この時点で、タキ=衛の正体が判明してしまったなら、タキは衛として
ムーン=うさぎと接しないわけにはいかない。そして、うさぎの衛に対
する感情は、未だ反撥の域を出ていない。勢い、ムーンとタキもまた反
撥の間合いで対峙せざるを得なくなる。タキシード仮面は地場衛のつく
り上げたイリュージョンということになって、つまりタキシード仮面の
ペルソナとしてのリアリティが消失する。

それは、この時点ではまだ、タキシード仮面の正体が地場衛なのであっ
て、その逆ではないからだ。セーラー戦士たちは、現時点でも「選ばれ
た戦士」というポジションであり「変身」するわけだから、月野うさぎ
とセーラームーンという別々の立ち位置は成立するが、タキは地場衛と
いう人間が「変装」しているだけ
なので、正体がバレてしまえば、それ
はただの人間・地場衛だ。

月野うさぎとセーラームーンの二重性が自明であるムーン=うさぎが常
に連続した意識で描かれているのに対して、タキと衛のキャラに断絶が
あるのは、彼の場合の二重性は、意図的に演じられているものだからだ
な。そして、Act.7 の時点でムーン=うさぎが恋心を抱いているのは、
いってしまえば人間・地場衛が演じている怪盗タキシード仮面という仮
面=ペルソナそのものだということだ。

ムーン=うさぎの恋心を成立させている仮面劇が破れるのは、まだまだ
時期尚早ということだね。

そして、Act.7 のドタバタで描かれているのは、「タキなら正体がどん
な人でも好き」といううさぎの稚ない思い込みが「何か違う」という違
和感によって破れる過程と、タキに感じるときめきと衛に手を握られた
ときに感じるそれにパイプを通すこと。タキと衛それぞれに対する感情
の現状に依然落差はあっても、ときめきという実感に基づいて基調を整
えたということだな。

そして当然、衛がムーン=うさぎの正体を知るという大きな事件があっ
て、この時点で対等な立場での仮面劇という均衡が破綻する。タキ=衛
視点では、ついにムーン=うさぎの等式が固定し、タキとしての人格が
なぜ無条件にムーンに惹かれるのかを、衛が意識的に考え始める契機と
なった。なぜなら、この時点でもまだ、地場衛の意識では月野うさぎに
惹かれてはいないからだな。

架空の人格の「はず」のタキシード仮面は、明確な理由もなく出会った
その瞬間からセーラームーンに惹かれ、ムーン=うさぎはその架空の人
格である「はず」のタキシード仮面に一目惚れした。ここには、恋愛劇
にとって最も重要な接近のプロセスがまったく欠落している。

そして、月野うさぎと地場衛の関係性についても、Act.7 までは、ほと
んど接近らしい接近は描かれていないといっていい。ここまでに描かれ
ているのは、月野うさぎと地場衛が知り合いとなるための、リアルな意
味での「時間」だ。出会った翌週から、もう恋愛の間合いで接近のプロ
セスが始まる恋愛ドラマとはここが違う。

Act.7 までの流れのなかで描かれたうさぎと衛の関係をつぶさに視てい
くと、「いがみ合いながらも、内心で惹かれ合っていく」という描写は
まったくないことに気附くだろう。裏も表もなく、「偶然」鉢合わせし
てはその都度角突き合わせている、それだけなのだ。

だから、Act.7 のトリプルデートで衛を発見したうさぎが「ゲ〜ッ」と
なるのは、嘘も隠しもない本当の気持ちだと視るべきだ。この時点でう
さぎが恋しているのは、タキシード仮面だと思い込んでいる元基のほう
であって、衛が現れたのは純然たる不快事だったわけだ。この年頃の女
の子の考えなんて、それほど複雑精妙じゃないんだよ(木亥火暴!!)。

ぶっちゃけ序でに暴論を吐かせてもらうと、非常に直接的な意味でうさ
ぎが衛に惹かれ始めたきっかけは、手を握られてドキドキしちゃったこ
と、それ、そのものだといっていい(木亥火暴!!)。

だからって、女の子を落としたいときに無闇矢鱈に手を握ってはいけな
いよ(木亥火暴!!)。ちばまもるは、いつもきびしいくんれんをつんでい
るから、おんなのこのてをにぎってもおこられないんだ(木亥火暴!!)。

もっといえば、タキシード仮面に感じるはずのときめきを元基といても
感じなかったのに、大嫌いなはずの衛に手を握られて感じたからこそ、
それがうさぎの心に引っ懸かったわけだ。

うさぎの心のなかでは、タキシード仮面に感じる甘やかな感情と、衛に
対して感じる感情に橋渡しが為されてしまったわけで、タキ=衛の等式
が成立していない以上、それに明確な理由附けができないからこそ、衛
の存在が気になり始めるわけだな。

一方、衛のうさぎに対する感情の変化は、Act.7 についてのコメントで
若干触れたが、もう一度よく考えてみると、ムーンの正体が月野うさぎ
であることがわかったからといって、地場衛のうさぎに対する感情がそ
んなに大きく動いたかというと、そうでもないのではないかと思う。

あくまでこのエピソードでは、月野うさぎが地場衛に目を向けるきっか
けが描かれただけで、衛のほうではムーン=うさぎの等式が固まったと
いう認識レベルの問題にすぎなかったのかもしれない。

その前提に立って考えると、「あいつが…セーラームーン」と独語した
ときの回想が、Act.4 の飛行石シーン(笑)はツーショットだからまだし
も、Act.7 の元基とはしゃぐうさぎを視る衛視点の映像であるのは、惹
かれる気持ちの表現としては平仄が合わないような気がする。

普通なら、相手と二人きりの場面のみで構成されるべき回想が、他人と
デートしているうさぎを視る離れた視点のもの、それもついさっきの記
憶を主としたもので構成されている。深読みをすれば、飛行石シーンが
ツーショットであるのはさして重要ではなく、それが一種「銀水晶」の
存在を仄めかすものだから挿入されているという見方もできるだろう。

初見からこれが違和感となっていたのだが、考えてみれば、ムーンに対
する自分の気持ちも理解できていないのに、ムーン=うさぎと判明した
途端にいきなり気持ちが傾くというものでもない。

たしかに、うさぎに対する感情に若干の変化はあっただろうが、ゆえ知
らずムーンに惹かれているからといって、ムーン=うさぎと知ってムー
ンに対する感情をそっくりうさぎに振り向けるほど、素直な男ではない
だろう。第一、うさぎの場合と違ってその感情が好意なのか何なのかす
らわかっていないのだから。

初見からの違和感ということでいえば、ムーンが巻いてくれたうさぎの
ハンカチを解いてポケットに仕舞う衛の動作が、あまりにも無造作で素
気ないような気はしていたのだが、これもそう考えると視聴者に対する
一種のサインだということになるだろう。

そうだとすると、Act.9 のタキシード仮面の行動が軌道修正的に本来の
目的に特化したものであること、そしてAct.10の衛の態度が何の揺らぎ
もないポーカーフェイスであったことにも、一応の正当性はある。

Act.10で家出をしたうさぎがクラウンで衛と鉢合わせし、うさぎのほう
がハッと気後れして衛がいつもの仏頂面で応じる場面は、最初オレはリ
アクションが逆ではないかという気がしたんだが、よくよく考えてみる
とあれでよかったのだということになりはすまいか。

表面上、Act.7 でもたらされた最も大きな変化が、衛がムーンの正体を
知ったことであるゆえに、衛のほうにうさぎに対する態度の変化があっ
て然るべきと思いがちだが、ある意味、最初の混乱を乗り切ってしまえ
ば、こと衛の視点では何ほどの感情的な影響もない事件だったといえな
いこともないのだ。

あのセーラームーンが、日頃よく鉢合わせをする小生意気な子豚ちゃん
だった、それだけの驚きだ。オレはどうも、Act.7 までの接触で二人が
惹かれ合っている「はず」という、俗なラブコメ的予断で二人の関係を
視ていた嫌いがあったので、それがピンと来なかった。

実はうさぎと衛の気持ちのうえでは、Act.7 以前の関係は「たまたまよ
く顔を合わせる、ムカつく奴」という域を出ない、身も蓋もないもので
あったとしたら、そしてAct.7 の一件でうさぎは衛に惹かれ始めたが、
衛のほうではムーンの正体を知ってうさぎの見方が若干変わっただけだ
としたら、衛の態度が表面上まったく変わらず、うさぎのほうが衛を意
識して動揺するのは当たり前のことなのだ。

むしろ衛のほうは、ムーンの正体を知ってうさぎに対する態度を意識的
にこれまでよりもセーブしていたとしても不思議ではない。タキシード
仮面とセーラームーンとしてならAct.9 のように本音で話せるが、地場
衛と月野うさぎはこれまでどおりの関係でなくてはならない。衛の意識
のうえでは、この仮面劇を意識的にこれまでどおりに維持する積極的な
動機ができたというだけなのかもしれない。

Act.10のこの場面で、衛がまさに「仮面」のような無表情であって、う
さぎ主観の回想でうさぎの動揺が描かれて「何だろう? 何かダメ…
という未整理な内心が吐露されるのは、非常に正しいということだ。

この場面では、ムーン=うさぎと知る衛は意識的に無表情を装っている
し動揺すら感じないが、未だ知られざる理由で衛に惹かれ始めたうさぎ
は、自身の幼稚なワガママを衛に見透かされるのを懼れる気持ちになっ
ている。

次に「地場衛」が登場するのは、ようやく今回になってからで、今回が
本格的な接近編だということになる。中盤のすったもんだで、すっかり
接近が果たされていたような気になっていたが、実際にはじれったいく
らい丁寧に二人の心の在り様が描かれてきたので、お互いに視線が向き
合った恋愛の間合いで二人の接近が描かれるのは、実は今回が初めてだ
ということになる。

そして、今回のエピソードでまた一つオレの予断が明らかになった。つ
まり、うさぎと衛は、実はこれまでまったくお互いのことを知らなかっ
ということに、今さらながら気附かされた。ワンクール丸々の時間が
あったというのに、この二人は今までお互いがどんな人間なのか、まっ
たく知らなかったわけだ。

タキとは別人格の衛について、その同一性に気附いていないうさぎが、
彼の人柄をまったく知らないということはあるだろうが、ムーンに惹か
れるタキ=衛が、意識のうえで断絶のないムーン=うさぎの同一性を知
りながら、彼女の人柄を全然知らないということがあり得るのか。

しかし、これまで視てきたとおり、実はタキ=衛がムーンに惹かれる気
持ちには、現時点ではまったく根拠もプロセスもない。いうならば、相
手がどんな人柄であるかとは無関係なところで、宿命的に親和力が働い
ている
。しかも、二人の仮面劇においては、神話的な闘争のなかで救い
救われるという騎士道物語的な祝祭性が支配的で、人柄がどうとかいう
現実的な問題は縁遠い。

また、現時点でのうさぎは衛にときめきを感じているわけだが、それも
やはりタキ=衛の同一性に基づく実感的なものであり、遠因は無根拠な
タキへの一目惚れがベースとなっていて、うさぎがその同一性の真相を
知らない以上、やはり彼の人柄とは無関係の問題ではある。

うさぎと衛は、今回のエピソードに至るまで、お互いのことを「失礼で
無愛想な奴」「俗っぽくてうるさい女子中学生」程度にしか認識してい
なかったわけだ。そして、これまで描かれたエピソードのなかでは、た
とえば視聴者ならだれでも知っているようなうさぎの美点が衛の前で発
揮されたことは一度もない。

Act.12は…うーむ、一種の突発的な暴走だから、どちらかといえばタキ
がムーンのピンチを救ったパターンに近いだろうね。救った瞬間だけは
うさぎだった
わけだが(木亥火暴!!)。

さらに、今回の物語で衛がうさぎに惹かれ始めた理由として、うさぎの
シンに対する尽力の動機がタキとの相同性に基づくものだと、衛が認識
していたからと視るかどうかというのは、微妙な問題だと思う。本質的
なことをいえば、タキの境遇とシンのそれが似ているというのは、うさ
ぎにとっては行動の「動機」ではなく「きっかけ」にすぎない。

うさぎというキャラにはいろいろ鈍い部分もあり、円満な境遇で育った
ために、他人の欠落に対する想像力に欠けるところがある。シンの場合
でいえば、想いを寄せるタキと同じ境遇にあるということが、シンの気
持ちを思い遣る契機となっているわけで、タキと似ている「から」彼を
何とか助けたいと行動しているわけではない。

ここは人それぞれの見方だろうが、オレ的には、衛がムーン=うさぎの
同一性を知り、そのうえで自身の境遇を話したAct.12の伏線は、Act.13
でうさぎに惹かれる気持ちとはあまり呼応していないと視たい。

むしろ、相手がだれであれ懸命に人のためにできる限り尽くそうとする
うさぎ本来の美点を目の当たりにして、ミーハーで脳天気なお気楽厨房
と思っていた少女を見直し、あらためて惹かれるようになったというほ
うがしっくり来るような気がする。

シンの話を聞いて「タキシード仮面と同じ…」と呟くうさぎの内心を衛
が見抜いていたのだとすると、あまりにも衛という男があざとく見えて
しまうんだね(笑)。続く一連の筋立てを「こいつ、オレのことを想って
こんなに頑張って…」という意識で見ていたのだとすると、なんかいや
らしいでしょ?(木亥火暴!!)

恋愛の間合いで対峙する男女の一方が、あまりにも他方の気持ちを見抜
いていると、ちょっとあざとい話になっちゃうんだな。ここは、うさぎ
の行動のきっかけとしてAct.12の伏線が効いているだけで、衛の気持ち
の動きにまでその反映を見るのはちょっと行き過ぎかな、と。もう少し
衛という男は朴念仁寄りのキャラではないかと思う。

現にうさぎが「タキシード仮面と同じ…」と呟くのと、衛が「こいつも
オレと同じ…」と呟くのは、後先になっていて時差がある。衛の場合は
記憶を取り戻すことを懼れる気持ちまでワンセットで「同じ」と言って
いて、そこまで話が進んでから共感しているために時差があるので、微
妙に意味合いは違うけどね。

そして、シンのためにうさぎが張り切り、衛がお目附役として附いた時
点では、うさぎも衛もお互いを見ているわけではなくて、二人ともシン
のほうを向いている。おそらく衛の「おまえがあいつを困らせるんじゃ
ないかと思って」というのは、この時点では言葉どおりの意味だろう。

ある種、自分と同様の境遇のシンに対して、気楽な気持ちで子どもが介
入することに危惧と軽い苛立ちを覚えていたのではないかと思う。当初
は、うさぎが子どもっぽい思い附きで試行錯誤する様子を、遠くから無
関心そうに監視しているだけだ。そして、都会で自然を買おうとすれば
女子中学生の手に負えないだけの金がかかる。

結局子ども相応の小遣い銭からうさぎの手に入ったのは、一本の切り花
と絵葉書が二葉。しかし、衛はうさぎほど鈍い人間ではないし、うさぎ
と衛が知り合いになるために時間を設けてあるのだから、それこそ「満
更知らない仲でもない」程度の距離感で相手がわかる。うさぎがシンの
ために尽力する気持ちを、少なくとも興味本位や面白半分の軽い動機で
はないと見てとって、力を貸す気になった。

そして、この時点で衛が思い遣っているのは、うさぎであってシンでは
ない
。自身もさまざまに記憶を取り戻そうと試みた衛には、うさぎの尽
力がハナから徒労に終わることは目に見えている。衛はうさぎの心尽く
しが何某かシンの記憶を取り戻すよすがとなるとは、まったく信じてい
ないように思える。

「ダメでも気にするな」というのは、あくまで他人のために何かしてあ
げたいといううさぎの純粋な気持ちを信じて、その善意が現実の非情さ
に痍附くことを労っての言葉のように思える。

銀水晶探しを自身に課している衛にとって、他人の助力で喪われた記憶
が戻るということにはリアリティがない。むしろ、赤の他人のうさぎが
シンのために真心込めて奔走した事実を伝えることによって、シン自身
が自分の過去と向き合う勇気を持てるように励ますことが、彼にできる
最善だというスタンスだろう。いわば、これはきっかけづくりにすぎな
いということ。

うさぎより少し大人で、同じ悩みを抱えるがゆえにシンの境遇を理解し
やすい衛からすれば、見当外れでありながら、それゆえにいっそう純粋
さが際立つうさぎの子どもっぽい奮闘が、心底から愛おしいものに見え
ただろう。つまり、今回のうさぎの奔走は、ハナからムダになるような
幼稚なものにつくられている
ということだ。

また、うさぎの「とにかく何かしてあげたい」という善意に触発された
からこそ、本来ならうさぎに話したように「過去を思い出すのは簡単な
問題じゃない」というスタンスで、シンをそっとしておいてもよかった
のに、自分も同じ境遇であることを打ち明けて励ましている。

今回目指された「七センチ」の接近は、こういう間合いだった。

お互いがお互いを知ること、今まで知らなかったことに気附くこと。衛
はがさつで騒々しい子どもだと思っていたうさぎが、他人のために懸命
に奔走できる真っ直ぐな子だと知ったし、うさぎは失礼で無神経な男だ
と思っていた衛の思わぬ優しさと陰翳を知った。お互いの美点に気附い
たというよりも、より相互理解が進んだと視るべきだろう。

そして、このようにして七センチ距離が詰められた結果、一つの食べ物
を二人で分け合うまでの間柄に進んだ。食べ物を分かち合うということ
は、親密性の表現として非常にストレートな暗喩である。

同じものを二つ交々に食べるのではなく同じ一つのものを半分に分かっ
て食べるということは、より「同じものを食べている」という同時体験
のニュアンスが強くなる。そして、あらためていうまでもなく、物を食
べるという行為には、ときにはエロティックなニュアンスがある。

背後で修羅場が演じられているとはいえ、シンの家の門前で衛がうさぎ
を思い遣って嘘を吐き、そこへルナから急報が入って「じゃあ、私、急
ぐから…」とうさぎが去るこの場面、お互いの含羞の呼吸がいい。

別れ際にそれを惜しむ余韻が残るだけの関係に進んだことが、この芝居
でわかる。衛の「あ…ああ…」という戸惑いは、背後の騒動や負傷の痛
みに気を取られていたからというより、こういう間合いの芝居として視
たいね。

さて、こうして、うさ・まもの関係性を一渡り視てきた後は、各論のレ
ベルでもう少し。

上記のような流れは流れとして、物語の大筋の謎に関していえば、また
別の見方ができるだろう。たとえば、意図的にオミットして語ってきた
が、シンという男の謎について考えると、実はまた新たな見方が生まれ
てくる。

シンはなぜ、「花とか自然とか海とか」が好きなのか。コミックスやア
ニメをある程度観ている視聴者なら、それをいにしえの地球王国近衛の
四天王・クンツァイトの造形と絡めて解釈することも可能だろう。過去
作同様の成り行きとなるかどうかはさておき、シン=クンツァイトなら
ベリルの妖力が及ぶ前の人格と関係あることは間違いない。

…だとすると、ちょっと不思議に思わないか?

いったい、今回のエピソードのラストで、シンは「記憶を取り戻した」
のだろうか? こういう疑問が生じるのは、シンが記憶を取り戻すこと
を「そういうものが好きな自分でいられなくなるような気がして」懼れ
ていると語られているからなんだが、ダークキングダムの四天王として
覚醒することが彼にとって「記憶を取り戻す」ことになるのだろうか。

何かここに、ミスリードがあるような気がする。現にゾイサイトが何か
を「想い出した」からこそベリルが戦々恐々とするわけだし、ネフライ
トもまた何かを「想い出し」そうになった瞬間にベリルの妖術で記憶を
抑圧されている。つまり、四天王たちには「記憶の封印」という共通項
があるわけで、ダークキングダムの四天王として覚醒することは、いか
なる意味でも「記憶を取り戻した」ことにはならないということだ。

そして、これは過去作の設定だが、ダークキングダムの四天王というの
は、地球王国近衛の四天王たちを、ベリルが妖術によって召喚して宝石
を寄り代に転生させたもの、ということになっている。

だとすれば、地場衛=タキシード仮面=エンディミオン王子と、シン=
ダークキングダム四天王クンツァイト=地球王国四天王クンツァイトの
対応関係はどうなるのか。

つまり、衛が現世に転生したエンディミオン王子だとすれば、「喪われ
た記憶」という言葉には二重性があって、現世の地場衛としての来し方
の記憶という意味と、過去世のエンディミオン王子としての記憶の二つ
を指しているはずだ。

そして、本来四天王はベリルによってつくられた物だが、厳密な意味で
は衛やうさぎの「転生」とは別のあり方であるような気がする。つまり
四天王たちは記憶を抑圧され洗脳されているだけで、地球王国の四天王
当人たちというニュアンスがより強いと思うんだな。

実際にクンツァイト覚醒のシークェンスを視てみると、どうも記憶を取
り戻したというよりも、積極的にベリルの妖術が働いて洗脳が進んだよ
うに描かれている。つまり、シンにとって本来「記憶を取り戻す」とい
うことは、地球王国四天王のクンツァイトとしての記憶を指すのではな
いか。

ベリルの妖術によって苦悶するシンが、最後にうさぎのもたらした白い
花に手を伸ばして及ばず…という描き方の後、ダークキングダムのクン
ツァイトとして立つ彼は、その手で白い花弁を毟り落としながら傲然と
嗤っている。

地球王国四天王としてのクンツァイトの記憶は、結局蘇らなかったのだ
ろうか。ダークキングダムの邪悪なクンツァイトとして裏も表もなく悪
として覚醒したのだろうか。なんだかオレは、ここに仕掛けがあるよう
な気がしてならない
んだな。ベリルがクンツァイトを人間世界に放逐し
た理由、彼の起用を躊躇う理由、その辺りに鍵があるような気がする。

このクンツァイトの謎が謎として残されている限り、今回のエピソード
を固定的な視点で視ることは、それこそ予断を許さない。うさぎの努力
は本当に「ムダに終わるべく設定された幼稚なもの」として終わったの
だろうか。シンのために奔走する二人の行動は、結果として本当に二人
の接近を描くためのダシにすぎなかったのか。本当に二人の健闘も及ば
ず皮肉にもシンは邪悪な男として「記憶を取り戻して」しまったのか。

とりあえず、この辺については、現段階であれこれ考えても仕方がない
ことで、それこそ予断にすぎないだろう。

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Act.14 死の棘は何処にかある

ええいやあ 朝からもらい泣き ちすん(木亥火暴!!)。

…というわけで、今回舞原ローテの隠し味は、悪魔の棲む家エクソシ
スト
ドラキュラの花嫁などのホラー映画へのオマージュという認識で
よろしいか。

エクソシストのクライマックスで、リーガンやメリン神父の吐く息が白
く見えるのは、巨大な冷凍室内に寝室のセットを組んで、俳優の背後に
小さなライトを隠しておき、息を吐く度に息にだけライトを当てて撮っ
たそうだが、今はCGで何でもできる世の中なんだねぇ。

そういえば、前回の予告にあった「いつもうさぎちゃんが心配してくれ
て…助けてくれて…でも、私だってうさぎちゃんを守れる
」というセリ
フ、今回は本編中になかったね。撮影までされていながらカットされた
まこちゃんのリップとは違って、予告オンリーの一種のナレーションと
とるか、またしても脚本からカットされた一連があったと視るか、微妙
なところだな。

もしも後者だとすれば、今回はある程度尺を調整する余裕があったはず
だから、舞原監督の個人的な資質として、あまりセリフで内心を語る芝
居が好きではないのかもしれないね。

さて、今回はヒロイン存亡の危機という久々の大ネタで、うさぎを守る
ために三戦士とタキが奔走するという感動編。予想どおりうさぎと亜美
ちゃんの交流が主軸に据えられていながら、背後に隠れたレイ・まこ、
タキのそれぞれの動きが、主軸の二人の交流を妨げない範囲で効いてい
るという、理想的なバランスだった。

まさしく今回は、Act.5 で残された棘に対する直截のアンサーであると
ともに、ここまでに築かれた仲間たちの交流の決算でもある。おそらく
は一から十まで舞原監督のネタ出しであろう、クラウンの新年会シーン
の素晴らしさはどうだ。

書き初めに表れた各人のキャラクターでクスリと笑わせ、各人のイメー
ジカラーで揃えた和装の艶やかさで華を出し、舞原監督十八番のテンポ
好いバラエティ描写で描かれた新年会の模様は、すべてがこれまでのエ
ピソードの落ち穂拾い。ここはつまり、それをそれと描かずして描かれ
た回想編だ。

あの辛かったパジャマ・パーティで、亜美ちゃんが無理を押して独りで
歌った「セラヴィー」を、この仲間たちの前で、うさぎと共に歌うのな
ら、ただひたすらに夢のように愉しい。

あのとき渡せなかったプリンを、今は二人も増えた仲間と共に食べられ
る喜び。「おいしい!」と無邪気にはしゃぐうさぎを見ると、「ああ、
あのとき亜美ちゃんが望んでいたのは、こういううさぎのリアクション
だったんだなぁ」と今さらに想われて、時経てそれが実現したことの嬉
しさに、すでにもうオジサンは涙さしぐむ有様だ(木亥火暴!!)。

カラオケ嫌いを標榜するレイちゃんが、テーブルの下でロリポップを無
意識に振ってリズムをとる描写、実現したAct.6 では棄てられた「リッ
プに照れるまこちゃん」の描写の復活などもさりながら、ジェンガに興
じる亜美・レイをうさぎの悪のりが邪魔するという配置の妙も抜かりな
く押さえている。

亜美ちゃんエピソードでは、亜美・レイの関係性も重要な要素となるだ
けに、亜美ちゃんの私室内の写真の構図も含めて、この二人の間の関係
性に意識を向けるナビゲートを入れるのは、棄て目が利いている。

そして、ナコナココスプレを何故かドスの利いた低音で仕切っているレ
イちゃんの姿や、まこちゃんとルナが、しっとりしたバラードをノリノ
リでデュエットすることには、一々納得の行く因縁がある。不良たちに
嘲られ、雨に打たれて佇んでいたまこちゃんの姿に接して、使命を離れ
て戦士たちを召集したルナの女の子らしい優しさが記憶に蘇る。

深読みをすれば、不自然にまこちゃんが抜けたエピソードで披露された
美奈子の新曲をまこちゃんが歌い、それをだれも聞いていないというの
は、一種のセルフパロディ、楽屋オチといえるかもしれないね。

小気味好いテンポでコミカルな雰囲気を出しながら、さりげなく描写上
重要な要素を印象的に織り込んでいく、舞原監督お得意のスタイルの集
大成となった名シーンといえるのではないだろうか。これだけ的確に各
要素を扱えるからには、舞原監督は自身の演出回以外にも全話を注意深
く観ているとしか思えない。

この辺りが、たかま……いや、もういなくなった人の悪口はやめておこ
うじゃないか(木亥火暴!!)。

この新年会の場面は、繰り返しになるが夢のように愉しく幸福だ。これ
までの各人のエピソードで、個々のキャラクターの抱える問題を象徴し
て印象的だった要素が、すべて嬉しい方向で意味附けられてリファラン
スされている。幸福というのは、こういうことなんだ。すべての過去の
経緯がポジティブな方向で落ち着いて、心地よい気分に浸ること。

だが、これは夢だ

現実には、苦い悔恨なしにすべての因縁がポジティブな方向で落ち着く
ことなどあり得ない。二週間のブランクを措いて、待ちに待っていた視
聴者につくり手たちが見せたのは、こういう美しい初夢だった。現実に
はあり得ないほど素晴らしい幸福の夢だからこそ、比類なく美しい。

その意味で、この幸福な夢の宴のデザートにプリンを持ってきたのは、
亜美ちゃんエピソードであることの目配せという以上に的確だ。あのと
き見られなかったあの人の笑顔を、時経て見られるようになったこと、
これはいちばん嬉しく甘い夢だ。そしてその人から、あなたたちが大好
きだとわかりやすい言葉で気持ちを語ってもらえること。人と人との関
係において、絶対的に幸福な夢がここにある。

この幸せの夢の頂点を待っていたかのように、ドラスティックに事件は
起こる。この劇的対比の持つ緊迫感は絶大だ。そしてオレたちは、こん
なふうにして、「愉しいパーティ」の最中に倒れた人をもう一人知って
いるはずだ。そう、Act.5 のパジャマ・パーティで倒れた亜美ちゃんの
ことだ。

あのパジャマ・パーティで亜美ちゃんが倒れ、「愉しいパーティ」の夢
は破れた。パーティの表面的な愉しさは、亜美ちゃんが無理を押して周
りに合わせていたための見せかけのものであったことが判明し、彼女の
自己変革の欺瞞性が明かされ、なるちゃんは不審を感じつつ帰宅し、う
さぎと亜美ちゃんの間には、決定的な亀裂が刻まれてしまった。

あの場で亜美ちゃんが倒れたことで、亜美ちゃんの真実が赤裸々に暴露
され、その場の人間がバラバラになってしまったわけだ。そして、この
夢の新年会でも、うさぎが倒れたことで残された三人はバラバラに散る
のだが、それは各人が各人にできることを懸命にやり抜くためだ。

まこちゃんは走り、レイちゃんは祈り、亜美ちゃんは夜通し附き添って
看病する。体力オバケと、祈り屋と、医者の娘にできる最善のことをや
るために、三人の少女は懸命に奔走する。このところは、棒読みが一種
の味にまで感じられるまこちゃんだが(笑)、今回の「うさぎ、絶対妖魔
なんかになっちゃだめだ!」というセリフは抜群にいい。少ない出番な
がら、レイ・まこの渾身の演技には気迫が漲っている。

あのとき倒れた亜美ちゃんをうさぎが看病したように、今度は亜美ちゃ
んが、うさぎの枕頭に就いて汗だくになりながら必死の看病に励む。こ
れは、新年会の描写がこれまでのなぞらえであったのと同じく、いよい
よ亜美ちゃんとうさぎを主軸に据えた流れへ入るためのAct.5 の再話と
いっていい。

たとえば、Act.5 についてオレが以前くどくどと語ったようなことが、
そっくりそのまま、まったく別の意味附けを施されたうえで繰り返され
るわけだ。

亜美ちゃんが育子ママに嘘を吐いたことを気に懸けるのは、たとえば彼
女が月野家を訪れたAct.3 の、うさぎと育子ママの戯れを見る亜美ちゃ
んの気持ちを思い出せばいい。たかまる演出ではよく判らなかったけれ
ど(木亥火暴!!)、うさぎと母親の屈託のない戯れに、亜美ちゃんは疎外
感を感じていたはずだ。

月野母子の間に持たれている自然な絆、人間関係におけるそうした自明
性とは無縁だった亜美ちゃんは、どうしても入り込めないものを感じて
いたはず。それが、今回の成り行きでは、亜美ちゃんとうさぎの間で持
たれた秘密から育子ママを弾き出している。母親に嘘を吐くことは、子
どもたちが子どもたち自身の関係性を主軸に置いて生きていく、大きな
きっかけとなるアクション
だ。

当然この一連には、なるちゃんが入って来なければ平仄が合わない。

欺かれた育子ママを媒介に、畳み掛けるようになるちゃんを絡ませて、
やはり同じく二人の秘密からなるちゃんを排除している。これは秘密の
共有に基づくうさぎの独占であると同時に、育子ママとなるちゃんに対
する思いやりの側面もある。

亜美ちゃんは、うさぎを見詰めることで結果的に育子ママやなるちゃん
へも真摯に目を向けるようになっている。単に「私とうさぎちゃんだけ
の問題だからほっといて」ではない。ここで描かれている亜美ちゃんの
進境は著しいものだ。

大人に対して善意の嘘を吐き通すこと、相手を思いやって弁解をしない
こと、これは他者のために積極的に辛さに耐える姿勢だ。「自分のこと
をもっとわかってほしい」「自分の辛さを取り除いてほしい」という、
子どもらしい欲求とは正反対の強さだ。

Act.5 のときにその欠落を惜しんだ「自発的なアクション」が、期待以
上の強さで表現されている。あのときは、亜美ちゃんもうさぎも、自分
の辛さを優先してぶつかり合ってしまったが、今回は、少なくとも亜美
ちゃんは自分の辛さを耐えて、うさぎはもとより、周囲の人々をも思い
やっている。

奪い去られたうさぎを奪還するために乗り込んだ洞窟の決戦は、Act.5
の「よくも亜美ちゃんを!」の一言でうさぎが弱敵を瞬殺する場面とは
対照的に、最強の敵を相手に何度も泥にまみれながら「うさぎちゃんを
返して!」と叫びながら立ち上がるという描き方になっている。

結局マーキュリーの力では、強敵を倒してうさぎを奪還することはでき
なかったが、必死の叫びがうさぎの心に通じて、うさぎが内面の戦いに
勝利するきっかけをつくった。

畢竟するところ、これは一種のテレパシーといってもいいわけで(笑)、
デリケートな心の問題を超能力で解決するのはどうなんだと思わないで
もないんだが、これをダイアログでは「大きな声」と表現している。

この一夜を通して、亜美ちゃんがやり抜いた健闘がきわめて強いもので
あったからこそ、うさぎを呼ぶ声が「大きな声」であったということ、
これは自然に了解できる。思いは通じるんだということだね。

Act.5 でオレが引っ懸かった最大の問題は、うさぎと亜美ちゃんの間に
横たわる無理解の冷たさが払拭されていないことだった。うさぎと亜美
ちゃんはあまりにもその来し方が異なるがゆえに、本当の意味で相手の
気持ちを理解するところまでは行っていなかったと思う。

もちろんあのときコメントしたように、これほどに懸け離れた生い立ち
の少女たちが、劇的なきっかけを介して、真の意味で互いを理解し合う
という筋立ては、一種リアルではない。だからこそ、心の鎧となってい
た眼鏡を自然に外せたとか、みんなが「亜美ちゃん」と呼ぶようになっ
たとか、そういう微温的な落とし所が腑に落ちたわけではある。

ただ、個人的には、あの結末ではうさぎと亜美ちゃんの立ち位置の違い
がハッキリしただけのように感じられていた。そこから一歩進んで、理
解し合えるという希望を仄めかすところまで行ってほしかったのだが、
うさぎがいつものように友人たちと昼食を囲み、亜美ちゃんは屋上に戻
るという絵面が、少し冷たすぎるように感じられた。

それはつまり、うさぎがいつものようになるちゃんたちと昼食を食べる
のは居心地良いだろうけれど、亜美ちゃんが屋上でサンドイッチを囓る
のは、決して居心地の良いものではなかろうから
だ。あの時点のうさぎ
と亜美ちゃんは、単に別々の場所にいるというだけではなく、気持ちの
うえでも別々の地点にいたはずだ。

結局それは、あのエピソードでは、今回の亜美ちゃんの健闘に匹敵する
ような、辛さに耐えて行う自発的アクションが描かれていなかったから
だろう。それが本当に今後十全な形で埋め合わされるのか、正直な話、
オレは結構不安に感じてはいたんだね。

しかし、今回の亜美ちゃんは、オレの予想を遙かに超えて自己超克の努
力を敢行し、うさぎのために尽力した。圧倒的な強さを見せ附け、セー
ラー戦士の非力を嘲るクンツァイトの必殺の斬撃を、とにかく一度は独
力で凌いでみせた。

念ずれば通ずは絵空事で、この最強の敵に今この場でマーキュリーが勝
利できるものでもない、そんなことはだれでもわかる。しかし、この泥
まみれの努力が報われないわけがない、報われてほしい。死に物狂いの
奮闘も及ばず敗れ、友を奪われる悔しさを、天が救わぬはずがない。こ
ういう視聴者の期待があるからこそ、拍子抜けともいえるうさぎの覚醒
が感動を呼ぶ。

念ずれば通ずは絵空事でも、人と人の間で、想いは通じるものなんだ。
マーキュリーがクンツァイトに勝てなくても、亜美ちゃんの想いはうさ
ぎに通じたし、それゆえにうさぎはクンツァイトの妖術に勝利した。

クンツァイトが、とくに劣勢でもないのに、ありきたりのムーン・トワ
イライト・フラッシュを浴びて逃げ去ったのは、絶対の自信を持つ妖術
が破れ、動揺したからだろう。これは、セーラー戦士がクンツァイトに
勝利したのと同じことだ。

怒りの籠もった一撃で風船怪人を倒したバトルでは得られなかった、情
緒面でのカタルシスが、ここにはある。

で、今回の話を通じてうさぎが亜美ちゃんを理解するようになったかと
いうと、それはそうでもないんだな。ただ、そんなことはもうどうでも
いい地点にまで、この二人の距離は近附いているといえるだろう。

人と人の間の事柄で、たとえば相手が今どんな気持ちでいるのかとか、
どんなことを考えているのかとか、そんなことがわかれば理解し合えて
いるとはいえないだろう。肝心なのは「大きな声」が通じること。頭で
どうこうということではない、気持ちを察するということでもない、大
事なときに声が通じることが大切なんだ。

この落とし所なら納得できる。

ある種、恋愛関係のメタファーで描かれたAct.5 の落とし前として、今
回の亜美ちゃんは少しだけ大人になって、うさぎ以外の人々にも思いを
致せるようになった。形のうえではうさぎを独占したけれども、それを
媒介として育子ママやなるちゃんを思い遣るようになった。形式的に独
占することによって、独占欲を昇華することができたのだ。

オフで流れる数瞬の回想が、すべてうさぎとの肉体的接触を伴う甘美な
映像であったり、覚醒したムーンがやはり亜美ちゃんの顔の泥を手ずか
ら拭ったり
、底流としてのエロティックなニュアンスは残っているもの
の、そうしたエロティックなモティーフを友情として昇華できる地点に
まで、亜美ちゃんというキャラクターは成長した。うさぎが「亜美ちゃ
んらしくていい」と認めてくれた「うさぎちゃん」という呼びかけで、
亜美ちゃんは見事にうさぎを奪還したのだから。

そしてまた、うさぎがみんなのことを「大好き」と叫んだ声に、みんな
が「うるさい」とリアクションを返したように、みんながうさぎを呼ぶ
声に、うさぎは「うるさい」とリアクションを返して覚醒した。

エピローグで、忘れていた宿題に気附いてみんなに手助けをねだるうさ
ぎから、みんなが「逃げろ」と駆け出す幕切れ。

今回のエピソードには、オレが常日頃「美しい対称」と表現している構
図が満ちあふれている。これまで語られたエピソードのさまざまなポイ
ントや、今回のエピソードそれ自体のうちにリンクされた、有機的な対
称が美しく効果的なパターンをつくっている。

さしあたりオレの心に刺さったAct.5 の棘も、完全に払拭されたといっ
ていいだろう。

さて、亜美ちゃんとうさぎの関係性についてはこれくらいにして、他の
要素について視てみよう。亜美ちゃんとうさぎの間の葛藤は緩解したと
しても、今回新たに生起したのは、亜美・うさに対するなるちゃんとい
う構図だ。これもまた一種の対称ではあるのだが、Act.5 の時点では、
うさ・なるの自然な関係に接した亜美ちゃんが、彼女たちの関係の鋳型
に無理して自分を当てはめるという形になっていた。

しかし今回は、前回よりもなるちゃんの描き方が生々しくなっていて、
なるちゃんが亜美ちゃんのマンションに押し掛ける場面の絵面が、まさ
しく「修羅場」としか言い様のない形になっていた(木亥火暴!!)。

またしても下世話な表現になってしまうのが恐縮なんだが、なんだか愛
人宅に本妻が乗り込んできててんやわんや、みたいな絵面に見えて仕方
がないんだな(木亥火暴!!)。

だって、「うさぎ、いるんでしょ?」はねえだろう(木亥火暴!!)。

ここの畳み掛けは、かわちえの柄もあるんだろうけど、「変じゃない?
顔見せないなんて」「私が来たって言ってくれた?」「言ってないの?
私に会わせたくないわけ?」と、どんどん物謂いが喧嘩腰で生々しい方
向にドライブしていく。聞きようによっては、非常に傲慢だったり、亜
美ちゃんを侮っているようにも聞こえ、修羅場以外の何物でもない。

しかも、うさぎに貸したCDがどうしても必要だからといって、さして
親しくもない女の子の自宅に夜分押し掛けるというのは、ちょっと不自
然な気がする。

明日必要なCDなら、うさぎも亜美ちゃんも同級生なのだから、明日学
校に持ってきてくれと電話で伝えれば済む話だ。これはだれでも勘繰る
ように、うさぎが亜美ちゃんのところへ泊まると聞いたなるちゃんが、
不審に感じてわざわざ押し掛けてきたのだろう。

ここの芝居場が生々しいのは当たり前で、なるちゃんは当然自分がうさ
ぎのいちばんの親友だと「何の疑いもなく」思っているので、自分を媒
介せずに直接うさぎと亜美ちゃんがなかよくするのはおもしろくない。
亜美ちゃんのマンションを訪れたなるちゃんには、最初から敵意のよう
な感情が漲っている。

パジャマ・パーティの夜、亜美ちゃんに疎外感を感じさせたうさぎとな
るちゃんの関係の自明性が、意志的な努力の末に勝ち取られた亜美ちゃ
んのうさぎに対する友情と対比させられているわけだ。自然な関係は、
関係それ自体の脆さや無根拠さに無自覚であるがゆえに、他者に対して
傲慢な側面を持っている。

なるちゃんは、亜美ちゃんよりも自分のほうがうさぎと親しいのは「当
たり前」だと思っている。当たり前なんだが、最近なんだか放課後の附
き合いが悪くなったと不安には感じているだろう。多分、語られざる部
分でなるちゃんは苛立っているのではないか。

アニメ版のなるちゃんにも、そういうエピソードがあったような記憶が
あるけれど、実写版との柄の違いもあって、独り寂しくぽよ〜んと悩ん
でいたような気がする(木亥火暴!!)。

実際、亜美ちゃんエピソードでは必ずなるちゃんが対比上重要な役回り
を演ずるという規則性は、これで確立されたと視るべきだろう。しかし
Act.5 では亜美ちゃんが損な役回りで、今回のエピソードを俟ってよう
やくその解消が為されたわけだが、今後再び亜美ちゃんエピソードがあ
り得るとしたら、今度は亜美ちゃんとなるちゃんの関係を中心としたも
のにならざるを得ないのではないかという気がする。

それは、今回のエピソードでなるちゃんの問題が投げっぱなしとなるの
だとすれば、あまりにもなるちゃんが悪役っぽく見えてしまうからだ。
今回は、ドア越しのすったもんだですっかりイヤな女に見えてしまった
が、マンションを去る場面のモノローグで辛くもいつも通りのなるちゃ
んのラインをキープしていた。

ある種、うさ・なる、亜美・うさの関係性の対照が、自明性と意志性の
対比という側面もありつつ、その一方で、現世で獲得された友情と前世
で宿命附けられた絆という対比もある。さらに踏み込んでいえば、亜美
ちゃんとうさぎは、別に前世の宿命ゆえに友情を育んだわけではなく、
あくまで現世での関係性において新たに友情を結んだのだともいえる。

ただし、うさ・なるの関係性との対比において、亜美・うさの関係性に
一方的に重きを置いて描いてしまうと、現世対前世という構図が浮かび
上がってしまう危険性があるということだ。

別の見方をしても、うさ・なるの関係性は学園生活という日常の次元に
属し、亜美・うさの関係性は戦士としての戦いという祝祭の次元に属す
るという対比もある。パラメータをどのようにとっても、この二つの関
係性には対比が生じてしまう。そしてその対比は、どちらに軍配を上げ
るにせよ、一方を重視することで不健全な偏りが生じてしまう。

さりとて、Act.5 でうさぎが願ったように、なるちゃんとの関係性と亜
美ちゃんとの関係性が、そう簡単に一本化されるかといえば、それはう
さぎにとって一方的に虫が好すぎるだろう。なるちゃんと亜美ちゃんが
友だちになることは、単にうさぎにとって都合が好いというだけの話
あって、当人たちの意志を無視した期待だ。

あり得るとすれば、うさぎを媒介とした、なるちゃんと亜美ちゃんの直
接的関係性構築の線しかない。同じことをいっているようだが、「みん
なが友だちだったら嬉しい」という、うさぎ視点の問題ではなく、うさ
ぎという媒介者がいる以上、否応もなくなるちゃんと亜美ちゃんの間に
はすでに関係性が生じており、それを建設的な方向で構築すべく双方向
の努力が必要
だという意味だ。

それを、たとえば今回のように敵対の間合いにするか、和合の間合いに
持っていくかは、当人同士の問題であって、すでにうさぎの問題などで
はないし、亜美ちゃん個別の問題でもない。うさぎの友人としてではな
い大阪なると真っ直ぐ向き合う水野亜美という構図が成立するまでは、
健全な形でこの関係性が決着することはないだろう。

なので、オレの予測では、将来的になるちゃんの存在を大きく扱ったエ
ピソードが一本なければ、うさぎと亜美ちゃんを巡る物語は、真の決着
をみたとはいえないと思う。

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Act.15 生霊たちの諍い

前回の鈴村ローテ辺りからの傾向として、要素を刈り込んで単純化する
ようになっていた流れのなかで、今回のエピソードは、久しぶりに複数
の要素が稠密に絡む複雑な構成だったね。

大筋では、大ネタの亜美・なる再戦の序盤戦と、うさ・まもが冒険を共
にする過程でさらに惹かれ合う筋立て、それにクイン・メタリア復活の
胎動、美奈子の側の動き、衛のお台所事情発覚と、センセーショナルな
小ネタがちりばめられている。

まあ、今回くらいのバランスならさほど気にはならない。前半が亜美・
なる対決序盤戦、後半がうさ・まも接近編とスプリットはしているが、
比較的エピソードの中心ははっきりしているし、緩やかな前後編という
ことで、今回のネタフリは次回回収されることがはっきりしている。

前回からの懸案である亜美・なる対決のほうから視ていくと、まあオレ
もあんまりマメに事前情報を拾うほうではないので、あんなコメントを
書いた直後
に、そのネタがフォローされるとは思いも寄らなかった。

対称と対照を基本に、粘着…もとい、丹念に時間をかけて描かれている
亜美ちゃんの物語だが、以前のコメントで予想したとおり、うさぎとの
友情に関しては、なるちゃんがキーパーソンとして常に亜美ちゃんと対
比して描かれている。

今回ものっけからなるちゃんは、「あの下駄箱の前」で屈託なく「うさ
ぎ、おはよっ」と挨拶しているが、これが「当たり前」なのがなるちゃ
んであって、それを「無理して」真似したのがAct.5 の亜美ちゃんだっ
たわけだ。その亜美ちゃんは、今は「無理して」いない。うさぎとなる
ちゃんが「自然に」会話している背後を、陰気にもっさりと横切って、
うさぎに挨拶されてから辛うじて挨拶を返している。

もちろん、この場面の亜美ちゃんが陰気なのは、前回、勢いで威勢のい
い啖呵を切った相手のなるちゃんを発見して萎縮しているからでもある
が、視聴者が学園内で眼鏡をかけている亜美ちゃんを意識して見るのが
久々だからでもあるだろう。仲間内の水星人の言によると、どうやら亜
美ちゃんはAct.5 以降も学園内では眼鏡を装用していたそうで、後で確
認したら、なるほど、ホントにそうだった。

金のかかる学園内のシーンが少なかったという事情もあるが、普段の亜
美ちゃんは眼鏡をかけていないので、てっきりAct.5 以降は学園内でも
眼鏡をかけないようになったのだと思い込んでいた。だから、眼鏡をか
けた亜美ちゃんがアップで画面を横切った瞬間、前回のなるちゃんとの
一件で、亜美ちゃんの姿勢が退行したのかと思ってしまった。

それほどまでに、この場面のなるちゃんは、怖い(木亥火暴!!)。

かわちえ、おまえ怖すぎ(木亥火暴!!)

それをまた鈴村が、たださえ怖いかわちえの眼クレをどアップで抜くも
んだから、怖さのあまり「これはもう刃物沙汰にまで行くね」「うん間
違いないよ」「七時五〇分頃には、なるちゃんが崖の上に立ってるね」
「たぶんBパートの冒頭には入浴シーンがあるんだよ」「うさぎの? 
亜美ちゃんの? それとも衛?」などと自分と会話を交わしてオチまで
附けてしまった(木亥火暴!!)。

今回の対決はAct.14の修羅場の雪辱戦という趣で、元々なるちゃんバー
サス亜美ちゃんではなるちゃんの圧勝ムード濃厚だが、Act.14でもわか
るとおり、亜美ちゃんのような柄の娘には「まさかの逆ギレ」という奥
の手の奇策がある(木亥火暴!!)。

なるちゃんのようなタイプの、自らの戦闘力に傲り圧倒的優位に胡座を
かいているような敵に対してはことさら効果的で、ひょっとして自分の
スカウターが壊れているのではないかという無根拠な躊躇を与え、怯ん
だ隙に話をまとめてしまう
という荒技だ(木亥火暴!!)。

ただし、今回の亜美ちゃんはすでに前回逆ギレアタックを放った後で、
グランドでも立ち技でもオールラウンドで戦闘力の高いなるちゃんに対
しては、圧倒的に無策である。あからさまに前回の意趣を含んだ当て附
けがましいなるちゃんの態度に接しては、びびりが入ってしまうのも無
理はない。

それをまた天下無類の無神経女であるうさぎが、火に油を注ぐように煽
るものだから、女同士の争いは今や一触即発、おめえ強ぇなオラなんで
かわかんねぇけどぞくぞくしてるぞやってみなけりゃわかんねぇみんな
の元気をオラにくれ状態である。

それほどまでに、この場面のなるちゃんは、怖い(木亥火暴!!)。

細かい話をすると、たとえば同じように振り向く目許のアップでも、次
回への引きの部分でレイちゃんが邪気を感じて振り向く場面では、黒味
を入れて目許だけトリミングしている。こういう撮り方だと、シャープ
なアニメ的効果が出て、怖いという印象には繋がらない。

目許だけ抜くという意味では、たとえばライダーのような横長の擬似ビ
スタなら、黒味を入れなくても同じようなシャープなクローズアップと
して見せられるが、スタンダードサイズのこの作品でも、たとえばクラ
ウン内のシーンでの亜美ちゃんの目許のアップはきれいにフレーミング
されている。なるちゃんの眼クレほどには生々しくは感じない。

なるちゃんの振り向く目許が生々しく怖いのは、動きのあるショットで
意図的に口許をフレームに掛けて、わざと画角を少し雑に切っているか
らだ。振り向く動作のすべてにおいて、中途半端に顔がフレームから切
れているので生々しい印象が生じるんだな。これはつまり、非常に近い
間合いで見た人間の視野に近いということだ。

人間の目は、いつもいつもきっちり美しく画角を切って対象物を視野に
入れ込めるような位置で構えているわけではないからね。このカットだ
け、人間の見た目に似せて撮られているから、生々しい印象が生じる
けだ。これは、手持ちを好むアクティブな上赤撮監のセンスなんではな
いかと思う。

この場面は、総じて今回のエピソード中でもかなり力を入れて撮影され
ているようで、単に季節が冬で天気が悪かっただけかもしれんが、照明
も若干アンダー気味になっていて、顔だけバウンスライトが当たってい
るような寒々しい絵面は、女同士の陰湿な腹芸に相応しいし、うさ・な
るの会話の途中で亜美ちゃんがフレームインしてくるまでのカッティン
グやカメラワークも丁寧だ。

火花の散るような亜美・なるの視線の遣り取りや、それに気附かずに亜
美ちゃんを誘ううさぎの傍らでなるちゃんがプイとそびらを返し、シャ
ロウフォーカスのなるちゃんの正面に切り返して、フレーム外のうさぎ
を引っ張っていく呼吸もいい。

この話題になると俄然活き活きしてくるヨゴレた中年男な自分がいやな
のだが(笑)、可愛い女の子同士がこれまた可愛い女の子を巡って嫉妬と
鞘当てでぶつかり合うという筋立てには、元から官能的なニュアンスが
ある。これはね、不思議なことに女性にとってもそうなんだと思う。

たとえば沢井美優演じるうさぎのような可愛い女の子に対して、浜千咲
演じる水野亜美ちゃんや河辺千恵子演じる大阪なるちゃんのような可愛
い女の子が「うさぎちゃんが好き、独占したい」と想う気持ちを想像す
る場合、男がちょっとうっとりしちゃうのはもちろん、女性の場合も少
し甘酸っぱい気持ちになっちゃうのだな。

これがマジモンの同性愛だと男女ともちょっとヒクんだが、亜美・うさ
問題に関してオレがいうようなデリケートな機微については、女性には
大いに心当たりがあるものらしい。元来女性というのは、基本的に可愛
いものが好きだが、だからこそ可愛い女の子を「可愛い」「好き」と思
う気持ちだって、そんなに男性と変わらないものだ。

ただし、それは大人になる過程でいろいろとアヤが附いて、社会的ジェ
ンダーとしての「女性」というものを認識し、自分が「周囲から女性と
視られる存在」であると意識するに連れて、ストレートに「好き」とい
う感情に結び附かなくなってくる。

まして、「可愛い女の子」と目されている存在が、実際にはどんな人間
であるのかを、男性よりも同性のほうが赤裸々に知り得る立場にあるの
で、大人になって可愛いか可愛くないかという尺度だけで人間を視なく
なるに連れて、こういう感情は自然な人間観に昇華されてしまう。それ
でも、可愛い少女を無防備かつ不分明に好きだと思える少女の感情への
共感は、大人の女性にも心地よく感じられるものなのだと思う。

一方で、異性である男性の視点では、愛情に基づく独占という官能的な
主題を巡るドラマのなかに同性が介在しない
こと、ドラマを構成する人
物がすべて自分たちの愛情の対象となる可愛い少女たちであることが、
一種、いうにいわれぬ甘やかな印象を与えている。これは、友情という
建前のもとに性的なニュアンスを排除したことで、なおいっそう純粋に
訴えかけてくるエモーションだ。

少女たちの一種の三角関係が、大多数の大人にもアピールするのは、こ
ういう機微があるからだろう。それが可愛い少女たちによって演じられ
ている限り、少女たちが少女の愛情を独占したいと諍う物語には、性別
を問わず官能的なニュアンスが生起するのだ。

だからある意味、この場面は生々しくても構わないんだな。

Act.14の亜美・なるの衝突もまた生々しかったが、あれが辛く感じられ
たのは、二人の独占欲の対象になっているうさぎが、画面内で不在だっ
たからだな。だから、表向きの映像としては、単に可愛い女の子同士の
生々しい言葉の応酬による敵意に満ちた諍いでしかなかった。ここに直
観的な意味での官能性は薄い。

下駄箱前の対決に官能的なニュアンスが付随するのは、単純にいえばそ
こにうさぎがいるからだ。諍いの原因となる対象が画面内に同居してい
ることで、それが可愛い女の子に向かうベクトル上の愛情に基づく対立
であることが視覚的にはっきりする。

そして、ここの三者の立ち位置として、たとえば以前なるちゃんを「本
妻」と表現したように、元々独占的な二者関係に対して第三者が割り込
んできたような形になっているのが、直観的にわかりやすい。

乱暴な言葉でいえば、なるちゃんはうさぎを「とられたくない」のだし
亜美ちゃんはなるちゃんによってすでに独占されているうさぎに、真っ
直ぐ自分を見つめてほしいと望んでいる。もっと乱暴にいえば、この関
係性は「横取りしたい」「とられたくない」という攻防なのだな。

さらに、防衛する側のなるちゃんが過剰に攻撃的で、攻撃する側の亜美
ちゃんが萎縮していて、その攻防の対象となるうさぎが無自覚であると
いう転倒した位置附けも効いている。これは少女を巡る少女たちの諍い
であるからこそ官能的なのであって、一人の男性を巡る大人の女性の三
角関係にそのまま当てはめると、ある意味覚えのある人には辛いステロ
タイプ
となってしまう(木亥火暴!!)。

ここは鈴村の少々ドライな読解が、少女たちの愛憎の物語であるという
隠微な性格から結果的に吉と出た芝居場だろう。舞原監督の理解も鈴村
監督の理解も恋愛関係のメタファーという大筋では変わらないと思うの
だが、その恋愛関係というメタファーを巡るデリカシーが、ちょっと鈴
村の場合は下世話に傾いているというところではないか(木亥火暴!!)。

後先になるが、ここで、Act.15のうさぎの態度を解釈する前提として、
Act.14で亜美・なる対決の遭遇戦があったことをうさぎは知らないはず
だ、ということは強調しておこう。

なるちゃんが水野宅に押し掛けて、結果的にあのような修羅場が持ち上
がったことは、当事者である亜美ちゃんとなるちゃんしか知らない事柄
だし、本当の事情を知らないなるちゃんはもちろん、亜美ちゃんだって
そんなことを詳しくうさぎに話すはずがない。

だから、大前提としてうさぎは、亜美ちゃんとなるちゃんがなぜ下駄箱
前の場面で対立しているのかはもとより、この二人がうさぎを巡って対
立している事実にすら気附いていないに違いない。なので、うさぎの態
度を過剰に鈍いものとして視るのも公平ではないだろう。まして最近の
うさぎは、同性間の友情よりも、異性に対するときめきに関心が行って
いるのだから、一概には責められない。

Act.14からのかわちえの芝居も、例によっての小林脚本の当て書きのた
めに素の河辺千恵子が突出して、最早セラミュを識る者も彼女を「歴代
で最もイマドキな女の子のマーキュリー」のイメージで視る者はいない
だろう。

セラミュの頃も、新キャストのための書き下ろしの持ち歌の歌詞に「冗
談じゃないよ」という一種柄の悪い棄てゼリフを織り込まれるほど攻撃
的なイメージはあったわけだが、たとえばクラウンの場面で、うさぎの
想い人を衛と見抜いて一人ほくそ笑む「遣り手婆ぁ」的なオバチャンな
柄というのは、幸か不幸か新境地だ(木亥火暴!!)。

ちなみに「遣り手婆ぁ」というのは「やり手の中年女」という意味では
なくて、遊郭で娼伎を差配する娼妓上がりの女性のことを指すので、冗
談のつもりでも、やり手の女性に対して「遣り手婆ぁ」と言ってはいけ
ない。「売春斡旋業者」と「すでに色の道では旬を過ぎた女性」という
二重に失礼な意味になる(木亥火暴!!)。

あだしごとはさておきつ。なるちゃんのキャスティングがセラミュOG
の河辺千恵子で、亜美ちゃんエピソードになるちゃんを絡めたのは、当
初は一種楽屋オチ的なファンサービスの面もあったのだろうが、ここま
で物語が進んでくると、一種異様な意味合いを持ってくる。

彼女のセラミュでの活躍を識る者なら、かわちえの亜美ちゃんが「どこ
が亜美ちゃんなんだ」的な全然別物の亜美ちゃん像だったことは、話の
大前提だろう。以前ぷらちゃんとチャットで話したときには、「森野文
子マーキュリーが洗脳されてグレたときの亜美ちゃん」という比喩も出
たくらいだ(木亥火暴!!)。

つまり、かわちえの亜美ちゃんは全然自分を殺さない亜美ちゃんだとい
うことだろう。森野文子的なオーセンティックな亜美ちゃん像では、た
とえば敵の洗脳によって優等生的な表ヅラとは正反対な本音が出たとし
ても、それは本来的な亜美ちゃんの陰画であり、人間の持つ多面性のな
かの一側面というとらえ方ができる。

対するに、かわちえの亜美ちゃんでは、むしろ柄の悪い部分も併せ持つ
生身の女の子のほうが本来で、平素は優等生の仮面を被って大人のコン
トロールをやり過ごしているようなしたたかさがある。要するに「裏も
表もないいい子なんていないのよ」と真っ赤な舌を出している…つか、
かわちえのベロってホントに真っ赤なんだよな(木亥火暴!!)。

一般的な亜美ちゃん像では、本人が「いい子の優等生」である自分を本
来的な自分と目して懸命に努力している痛々しさがあって、その本音の
部分を識りたいと望むのは一種のスケベ心だろうと思わせるものがある
が、かわちえの亜美ちゃんには、周囲が自分をそのように視ているから
附き合って演じてあげているのよ的なしたたかさが感じられてしまうん
だな。

この場合、一般的な亜美ちゃん像的なイメージに憧れる男の幻想自体の
甘さが、生身の現代少女によって軽く笑い飛ばされているような、ヲタ
にとってはちょっと世知辛い機微になる(木亥火暴!!)。

持ち歌の「ドライブ・ミー・マーキュリー」でニコニコしながら「冗談
じゃないよ」と啖呵を切られたときの、ちょっと居堪れないような居心
地の悪さは、亜美ちゃんを理想の美少女として見たがるヲタの気持ちに
対して、当の亜美ちゃん自身が開き直って、ハイライトを吹かしながら
大胡座を決め込んだような居堪れなさだと思うんだ(木亥火暴!!)。

こうした現代的な柄と攻撃性、他人のために役柄を演じるのではなく、
自分のためにリアルに生きる身も蓋もなさというのは、やはり河辺千恵
子という素の人間の醸し出す柄だと思う。森野文子路線の亜美ちゃん像
の陰画がポジティブに意味附けされて、そのまま本物の亜美ちゃんに成
り代わったような、一種独特のキャラクターとなり得ていた。

森野文子路線のオーセンティックな亜美ちゃんが、理想の美少女像を生
きざるを得ない生き方の型から弾き出された生身の部分を、一種のチラ
リズムとして垣間見せる色気を醸し出しているとしたら、河辺千恵子の
亜美ちゃんには、美少女幻想を「身振り」として身に着けることで、今
ここにある少女の現実をそのままに生きる健全さ
がある。

現実に生きる一人の少女としての肉体を手放さない強さとしたたかさ、
これが河辺千恵子が「たまたま」演じた水野亜美という役柄の大きな魅
力だったのだろう。

こういう柄の人間がその柄を活かして、別メディアで演じた亜美ちゃん
と対立する大阪なるという役柄を演じているということは、ある意味、
亜美ちゃんを巡る物語における河辺千恵子のなるちゃんは、生霊的な位
置附け
として機能しているということだろう。

そして、もちろん実写版におけるハマチの亜美ちゃんも、セラミュやア
ニメで培われたオーセンティックな亜美ちゃん像からは、大きく懸け離
れている。この辺については再三に亘って語ってきたので詳説は避ける
が、今回の文脈に沿っていうなら、森野文子的路線の特殊例の「悩む亜
美ちゃん」像のネガティブな側面を強調して造形されている人物像だと
いうことになるだろう。

つまり、オーセンティックな亜美ちゃん像というものを措定すると、か
わちえの亜美ちゃんとハマチの亜美ちゃんは、振れ幅の両極端と視るこ
とができる。そして、実写版でかわちえが演じているなるちゃんは、セ
ラミュで演じた亜美ちゃんの身も蓋もない生身の部分を、それ単体で切
り離したような役柄だと視ることができる。

予定調和の論旨ほどつまらないものはないが、要するに亜美・なる対決
の実相は、オーセンティックな亜美ちゃん像が両極に分極して相争う構
図だと視て差し支えないだろう。本来的には、水野亜美であってもおか
しくはなかった人物が、水野亜美その人と対立する…今回の場合でいえ
ば、一方的に亜美ちゃんを責める立場に置かれている。コミックスやア
ニメのなるちゃんの役柄からは最も遠い柄の役者といえる河辺千恵子を
起用した意味が、遡ってここで効いてくる。

そしてこの生霊の対立図式の興味深いところは、かわちえであれ森野文
子であれアニメであれ、従来の水野亜美的な問題性は徹頭徹尾自身の在
り方に関心が向かう問題性であったのに、ハマチの亜美ちゃんはうさぎ
という他者に関心が向かう問題性を抱えていることだ。

自身の在り方に関する問題性であるとすれば、セラミュとアニメの亜美
ちゃんの場合は、すでに確立された水野亜美という生き方のスタイルと
の折り合いの附け方が問題になる。少なくとも、この意味では亜美ちゃ
んは外面上の不全を抱えてはいないということだし、意識的にそこに目
を向けなければそもそも問題性自体が閑却されてしまうわけだ。

しかし、他者に関心が向かうハマチの亜美ちゃんについては、常に不全
の問題性が附き纏い、その問題性は亜美ちゃんの意識とは無関係に常に
眼前に立ちはだかっている。うさぎという他者は、求めても求めても最
終的には自分の思い通りに決してならない存在だから
だな。

そして、亜美・なる再戦の第一ラウンドは予想どおりなるちゃんの圧勝
に終わり、最初から亜美ちゃんは萎縮して対立から身を引いている。亜
美ちゃんは最後まで悩み続けているが、なるちゃんのほうは、苛立って
はいても、自身に向かう解消不能の悩みは抱えていない。対決の帰趨は
明らかだろう。

なるちゃんが衛との間を取り持ってポイントを稼ごうとしたのは、一つ
にはなるちゃんが焦っているからだろう。また一方では、うさぎとの間
では、恋愛問題のようなデリケートなプライバシーについて、圧し附け
がましいお節介を遠慮なく実践できる関係性を持っていることを確認し
てもいるわけだ。

なるちゃんの意識では、恋愛問題を相談されるというのは、親友として
のアドバンテージがぶっちぎりで高い
。「これで一歩リードだぜ、ふふ
ふふふん」とほくそ笑んだであろうというのは、なるちゃんの柄を考え
ると、あながち単純な見方でもないだろう(木亥火暴!!)。

ある意味、デリケートな機微もへったくれもなく、もの凄くわかりやす
い判断に基づいて行動するのがなるちゃんのスタイルだろう。人情の機
微団子に自信のない諸兄でも、自分の目で視たそのままの心情なのだと
思えばいい。

カラオケに誘う場面でも、うさぎが亜美ちゃんを誘うと、うさぎに気附
かれないようにこっそり「てめ、ぜってー来んなよ、来たらぶっちめっ
かんな!」とアカラサマに目で亜美ちゃんを脅している(木亥火暴!!)。

亜美ちゃんが気弱く目を伏せるのは、古い親友のなるちゃんに対して引
け目を感じているからというのももちろんあるが、直截には脅されて怖
かったからだろう(木亥火暴!!)。

だから、一種あそこは笑ってもいい場面だったと思う(木亥火暴!!)。

むーん…

鈴村演出ってやっぱり…どうなんだろう?(木亥火暴!!)

さて、何をいうにも次回に決着を持ち越された亜美・なる対決は茶にし
てサスペンドということで、後半のうさ・まも接近編を含めて、他の要
素をじっくり視てみることにしよう。

Act.13を受けた前半とAct.14を受けた後半がスプリットしていることは
すでに指摘したとおりが、このスプリットの仕方は、うさぎの暴走から
ムーン・タキのラブラブノリに突入したまんま、戦闘の現場にムーンが
戻って来なかったAct.9 に似ていなくもない。

うさ・まもの接近は日常の次元に属する「デート」に近いし、ムーン・
タキの遣り取りも、Act.9 以降はタキとの接近を表向き禁じられた手前
もあって他の三戦士を介在させるわけにはいかない。どうしてもこの二
人の接近を描くには、他の戦士とうさぎ=ムーンを別行動させる必要が
あるのだろうが、話がまったく割れちゃうのはあんまりいい傾向ではな
ような気がする。

今回も、美奈子を附け狙う妖魔の目を逸らすために、こそ泥を利用して
フェイクの情報を流すという、こちらはこちらで四戦士と別行動をとっ
ている美奈子サイドの事情を絡ませてうさ・まも接近の筋立てをつくっ
ているが、スプリットした視点のドラマを、前半の亜美・なる対決とも
裏面で動いている怪事件とも無関係な要素で組み立てるのは、少し煩瑣
に過ぎるのではないかという気がするな。

さらに、ダークキングダムの内訌についても、慇懃無礼な全方位の厭味
で人気爆発中のクンツァイト、とうとう今回は「マヌケ」呼ばわりまで
飛び出したが、美奈子の策略を見抜いているようでいながらそれに載っ
かってネフを煽っている辺り、相変わらず何を考えているのだかわから
ない。

いうまでもないことだが、すでにドラマの観点から視たらお子さま完全
置いてけ堀
の複雑怪奇な構成だろう。それを今さらいっても仕方のない
ことだが、大人の視聴者でももう少し各要素をリニアルに追えるような
筋立てにしてくれたほうがありがたいのではないだろうか。

それでも、大きな流れとしては、なるちゃんがお節介で仕組んだデート
がひょんなことから美奈子の宝石を巡る冒険に発展し、その裏でうさぎ
を除く三戦士が頻発する怪事件を追い、なるちゃんとの対立に悩む亜美
ちゃんをレイちゃんが気遣うという同時性は保たれている。

そもそも話がスプリットした地点を割り出すなら、所も同じクラウンで
うさ・なる&その1、その2のA群とうさぎを除く三戦士のB群が別れ
たところから、うさぎは日常の地点に留まり、他の三戦士は戦士として
結ばれた絆を再確認する、この辺りだろう。

亜美ちゃんの「ここに来るのが癖になっている」というセリフは、つま
り他に行き所がないということなんだが、花も実もある女子中学生が、
だれ知る者もない秘密の隠れ家に放課後の寄る辺ない身を寄せるという
のは、あまり健全な習慣ではない。

ぶっちゃけ、おまえら、他に友だちいねーのかよ(木亥火暴!!)。

まあ、いないんだろうな。義務教育受けてる厨房では、学園内の生活が
ほぼすべてだし、うさぎしか友だちのいない亜美ちゃんはもちろん、自
校でも周りから白い目で視られているであろうレイちゃんや、不祥な噂
で敬遠されている転校生のまこちゃんには、セーラー戦士以外の友だち
などいないのだろう。

なるちゃんやその1、その2と仲が良いだけではなく、クラス中の人気
者であろううさぎとは、まったく生活のスタイルが違う。対等にお互い
がお互いを必要としている三戦士たちとは違って、うさぎにはセーラー
戦士以外の日常の顔がある、これはどうしようもない現実だ。単に別の
人脈の友人がいるというだけではないんだね。

繰り返しになるが、亜美・レイ・まこの三戦士は、自身の真の出自がい
にしえの月の王国の戦士であるという、神話的な真相開示によってそれ
までの欠落が贖われた経緯があるが、うさぎだけはそうではない。

うさぎはうさぎで、三戦士との出会いがなくとも、過去世の真相開示が
なくても、十分以上に幸福な女子中学生だった。しかも、大オチの真相
としては、彼女は他の四人に君臨する王女である。この落差はどうして
も埋められない。

さらにうさぎには、過去世で宿縁の間柄であったエンディミオン=地場
衛と、現世で恋をやり直すという別の次元の顔がある。亜美ちゃんとな
るちゃんがうさぎを巡って対立している間に、当のうさぎはそれとは知
らずに宿世の恋に酔っている。

よく考えてみれば、これはもの凄いギャップではないだろうか。

秘密基地の穏やかな優しさのなかで、互いの孤独を癒し合う三戦士の場
面とカットバックして、クラウンの一室では別の日常の意識に切り替え
て愉しくはしゃぐうさぎが対比される。Act.14の幸福な宴に華を添えた
うさぎの笑顔が、まったく同じ公平さで別の友人にも向けられる。だれ
もうさぎを責めることはできないが、この対照が残酷であることはだれ
もが意識せざるを得ない。

亜美ちゃんが悩んでいるのは、自分にとってうさぎが唯一絶対の存在で
ありながら、うさぎにとっての自分は他のすべての友人と等価な存在に
すぎないという対称性の破れゆえだ。「恋愛関係のメタファー」とくど
くも繰り返すとおり、亜美ちゃんがうさぎに注ぐ愛情の在り方は、同性
に対するそれよりは、異性に対するものに近い。

オレがAct.5 で論じたような問題は二者関係の問題だったが、それが一
応の解決をみた後に残されたのは、同性の友人である限り、この相手と
は独占的な二者関係とはなり得ないという不可能性の問題だ。無論、亜
美ちゃんはセクシュアルな愛欲の対象としてうさぎを視ているわけでは
ない。しかし、「友人」に対する「愛情の型」が「恋人」に対するそれ
と未分化なのだ。

今の亜美ちゃんの悩みについて、Act.5 のときのように、等身大の少女
ゆえのうさぎの未熟さに責任を帰すことはできない。自分が相手だけを
視ているのと同じように、相手にも自分一人だけを視てほしいという、
人間ならだれでも抱く望みが満たされないことに悩んでいる。これは、
同性の友人であるうさぎには決して解決できない類の悩みだろう。

うさぎと真の意味で独占的な二者関係を構築できるのは、うさぎにとっ
て「女性であるわたしの前に初めて現れた男性であるあなた」であるタ
キシード仮面=地場衛しかいないからだ。亜美・なる対決の帰趨を含め
て、新たな亜美ちゃんの悩みがどういう解決をみるのか、これはAct.16
の論考に譲るしかあるまい。

では今度はその、うさぎとの二者関係を運命附けられている地場衛との
関係が今回どう進んだのかを、そろそろ視てみよう。

オレ的に今回の衛がツボだったのは、妖魔に取り憑かれた警官の態度が
気に入らなかったからという青臭い理由で冒険に乗り出す、若者らしい
血気の部分だ。記憶喪失という翳りと銀水晶探しという自身に課した使
命のゆえに、どうもこれまでの衛はストイックに過ぎ、早い話がオッサ
ンくさかった(
木亥火暴!!)。

傲慢な大人の態度に憤り、窃盗団を追い回す冒険に胸を踊らせるような
若さを見たのは、これが初めてのような気がする。それはおそらくうさ
ぎにとってもそうだろう。これまでの衛はブスッと黙り込んでいて愉し
そうな表情を浮かべることもなく、「やめておけ」「いい加減にしろ」
というぶっきらぼうな禁止の言葉を強圧するだけの、面白みに欠ける人
だったことは否めない。

それが今回、一旦はうさぎの軽挙を戒めておきながら、自身の血気に任
せて無謀な冒険に身を投じ、うさぎの暴走の後押しをしていて、冒険の
あとのほとぼりに浮かれて微笑みを浮かべるまでに至っている。

視聴者が衛の笑顔を見たのはこれが初めてだと思うんだが、このとき衛
が微笑んだのは、うさぎが何心なく漏らした「美奈子ちゃん、喜ぶだろ
うなぁ」という言葉で、うさぎの他者を思い遣る変わらない心根に接し
たからだろう。ここには、Act.13からの響きがある。

こういうアクティブな流れのなかで、肩に触れたあなたの指が寒い心を
どうしたとか、そういうドキドキが展開されるわけだが、胡散臭い吊り
橋理論を引くまでもなく、スリルを共有することでドキドキはさらに高
まるわけだね…あ、オレ、なんか今、一瞬もの凄くイヤな気持ちになっ
たんだけど、気のせいだよな?(木亥火暴!!)

大受けの「あ、と、鳥」「あ、草」のギャグの呼吸も、「そりゃあセー
ラームーンに変身してドガーン」みたいな、科学戦隊ダイナマン級のず
り上がりのテンポでSEと衛の驚愕のリアクションを入れるというカッ
ティングの上手さ、さらに引いた絵を多段階にディゾルブで入れて間を
とる呼吸の気持ちよさで、しょーもないナンセンスなギャグを強引に笑
わせる。

笑ったあとで気が附くのは、この場面のシチュエーションコメディとし
てのおもしろみだな。衛はうさぎ=ムーンの正体を知っているが、うさ
ぎは衛がそれを知っているとは知らない。また、うさぎは衛=タキの等
式にすら気附いていない。

そういう間柄でありながら、この場面ではうさぎと衛が共にうさぎの失
言を取り繕おうと、柄にもないギャグに紛らわせている…つか、衛のつ
もりではギャグではないんだが。これは、もの凄い変化球ではあるが、
期せずして一種の秘密の共有を形作っているんだな。

お互いの正体を知らないということにしておきたい、正体を知らせたく
ないという、レベルは違えど一致した動機に基づいて、秘密を知ってい
る人間までもが失言による真相開示を糊塗しようと焦る。秘密の共有と
一口にいっても、つまり秘密を秘密のままにしておくべく、立場や知っ
ている情報の違う人間同士が、一致協力して空とぼけているというおも
しろみが生起しているわけだ。

Act.14でも似たような話をしたが、二者関係というのはおおむね秘密の
共有によって良くも悪しくも親密度が進むものだ。共犯関係というのが
最も極端な例で、たとえばAct.14では亜美ちゃんの一方的なものではあ
るが、妖魔化によって倒れたうさぎを匿うという秘密を、昏倒している
うさぎと共有することによって、なおいっそううさぎに対する親密度が
高まった部分はあるだろう…なんか、またオレ一瞬気分悪くなったんだ
けど、どうしてなんだろう(木亥火暴!!)。

さらに、恋愛関係を進めるお膳立てとしては、そのものズバリ「禁止」
という奥の手がある。うさぎの側ではタキへの接近を仲間に禁じられて
いるというタブーがあるし、衛の側でも意味深な電話の前にすでに「あ
いつのことは、これ以上…」というセリフがあって、うさぎ=ムーンへ
の接近を自らに禁じた節がある。

うさぎの側では、タキと衛のウェイトが徐々に逆転して、地場衛という
素顔の青年に惹かれる気持ちが強くなっている。そして、素顔の月野う
さぎが素顔の地場衛に接近することについては、だれもこれを禁じては
いない。うさぎの側には少女らしい躊躇いがあるだけだ。

しかし、うさぎ=ムーンと知る衛=タキにとっては、何かしら彼女への
接近を自らに禁ずべき理由
があるらしい。それはたとえば元基への遠慮
もあったことが、クラウンでA群集団と遭遇した際のセリフで語られて
いたが、まあどう考えてもこれがメインの理由ではあり得ないだろう、
元基には気の毒だが彼も分際を弁えてるみたいだし(木亥火暴!!)。

この場面では、Act.14で衛がうさぎを背負って運んだことがうさぎに知
らされ、「えっ、おぶって?」とうさぎが驚いているが、Act.14の件の
場面、時節柄もあって「新年会で酔い潰れた新入生をおぶって自宅に送
る先輩」という絵面にしか見えない…つか、この光景を目撃した通行人
は一〇〇%そのように解釈しただろう(木亥火暴!!)。

いや、そういうことがいいたかったんじゃなくて…このおんぶの話もそ
うなんだが、Act.13で互いを見つめ合う間合いに入ってから、うさぎに
とっては、釣瓶打ち的にグッと来ちゃう出来事が連打されているという
ことだ。

たとえば自分が意識を喪ったときに、内心気になっている男性が自分を
おぶって運んでくれたと「後で知らされる」というのは、初心な少女に
とっては、うれしはずかしとしか表現できない、うなじのこそばゆい事
件だったろう。

まあ、おぶわれるにはおぶわれるだけの理由があるのであって、Act.14
みたいな大事件の最中に、仮にうさぎに意識があって衛との肉体的接触
にドキドキしたりしていたら「ふざけんなよ」だが、それも今回のよう
な接近編になってから、あらためて「後で知らされる」分には、中学生
ということもあって十分な節度だろう。

窃盗団から宝石を奪ったうさぎが転倒し、そこへ颯爽とバイクで駆け附
けた衛が「うさぎ、乗れ!」と叫ぶ場面でも、初めてまともに名前を呼
んでもらえた嬉しさが溢れている。つまり、今回の接近編では、うさぎ
にとって嬉しいハプニングが、わざとらしいくらいこれでもかとテンコ
盛りにされているわけだね。

妖魔退治も含めてすべての事件が終わったあと、うさぎをタンデムさせ
た衛のバイクで、衛がバックシートのうさぎに目を遣り、次いでうさぎ
が衛の横顔に視線を向ける、真っ向見つめ合うのではなく、互いが互い
を意識している、こういう機微も初々しくていい。

ただ、衛が自らにうさぎ=ムーンへの接近を禁じた割には、なるちゃん
の策謀にあっさり乗って、のこのこ呼び出されているのはちょっと納得
が行かないところ。

Act.13のコメントでじっくりこの二人の軌跡を視てきたあとでは、衛の
態度に変化がないのは、こいつがタキシード鉄仮面だからだということ
で納得するしかないんだが、謎の電話を受けてうさぎのハンカチを思い
入れたっぷりに握りしめたからには、禁止の方向性で動かざるを得ない
現実的な事情
が発生したはず。

なるちゃんの「重要な話がある」という嘘の「重要な」の部分に鑑みて
顔を合わせるつもりになったにしては、いくらタキシード鉄仮面でも話
の「重要さ」を真に受けている節がない。「何か用か?」程度の軽い態
度なのがどうも腑に落ちないわけだ。

そうこうするうちに窃盗団と遭遇して、そのどさくさで、うやむやのう
ちに視聴者は乗せられてしまったが、相変わらず何を考えているのかわ
からないことでは、クンツァイトといい勝負だぞ、地場衛。

そして、とりあえず後回しにして取っておいたのだが、今回いちばんの
ツッコミどころといえば、妖魔に襲われた衛の高所落ちが、あまりにも
派手すぎる
ところだろう。しかも、背中落ち(木亥火暴!!)。

あれだけ高いところから派手に落ちると、普通なら赤の他人でもまず衛
を介抱するために下に降りていくのが先決だろう。一応、変身して妖魔
を追う前に、下を見下ろして衛が動いているのを確認してはいるが、頭
を強打して昏倒しかけた人間だってあのくらい動くぞ。

実際問題、衛が同一平面にいるところでムーンに変身するわけにも行か
ないから衛をハカせたのだと思うが、あの絵面では「ハケました」とい
うだけではなく、衛の安否という別の問題が生じてしまう。いくら丈夫
な人間でも、背中から何メートルも落下したら、普通は寸刻を争う重態
のはずだ。

それをチラッと確認しただけで妖魔に奪われたお宝を優先してしまった
ために、どうにもうさぎの態度が冷たいもののように見えてしまう…と
いうのは言葉のアヤで、この場面でうさぎが衛を冷たく扱うはずがない
のはだれでもわかるので、だれがどう視ても「やりすぎ」にしか見えな
んだな(木亥火暴!!)。

妖魔を倒したあとに現場に戻り、例のハンカチで傷口を手当するのは十
分予想された落とし所だが、妖魔に斬られた腕だけにうさぎの気が行っ
ているところを視ると、やっぱりこれは、ロケハンも含めた絵作りの段
階で、ムダに派手になってしまったのだと思う(木亥火暴!!)。

まあ、ダメかダメでないかといったら、ダメだろうな(木亥火暴!!)。

予告でもこの場面が使われていたけど、みんな、さすがにあれでは下手
したら死んでしまうだろう、落ちたと見せ掛けて、どこかに掴まって助
かったのではないか…みたいな想像を巡らせていたわけだが、蓋を開け
てみたら、普通にそのまんま落ちて、普通にそのまんま大丈夫でした、
だもんな(木亥火暴!!)。

前述したとおり、これがうさぎの態度や心情をミスリードするわけでは
なく、裏も表もない単なる「やりすぎ」の失敗にしか見えないからいい
ようなものの、アクションは派手ならそれでいいというもんでもなかろ
うぜ、鈴村(木亥火暴!!)。

まあ、たしか、Act.1 ではうさぎももっと高いところから背中落ちして
いるわけで、この実写版の劇中の世界では、高所落ちにはそんなに危険
が伴わないのだと理解するしかあるまい(木亥火暴!!)。

しかし、昔のことを蒸し返すようで恐縮だが、よ〜く考えてみるとこの
ハンカチネタ、Act.7 では、素顔のうさぎと衛がミラーハウスにいる場
面で、すでにこのハンカチを衛に見られているわけだから、ムーンに変
身して同じものを出したら、不審に思われるという智恵はなかったのだ
ろうか(木亥火暴!!)。

…なかったんだろうな、「変身しろ、セーラームーン」とか言われても
全然不審に思わない奴だし(木亥火暴!!)。

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Act.16  【Side-A】少女たちの眼差し

…結局独り占めしたかったのかよ。

なんだ、がっかりだぞ亜美ちゃん、キミはそんなキタナイ心根の持ち主
だったのか、おじさんは哀しいぞ、こんな薄汚れた世の中でも、キミだ
けは、純真で心の優しい素晴らしい少女だと思っていたのに…ちすん。

…なんてな(木亥火暴!!)

悪辣な冗談はさておき、今回のエピソードでは、なるちゃんがこれまで
亜美ちゃんの何に苛立っていたのかがハッキリしたね。その心情がまた
かわちえ的というか何というか、「欲しいものを欲しいと正直に言わな
い煮え切らなさ」が鬱陶しかったわけだな。

独り勝手に諦めて被害者面を決め込む亜美ちゃんの消極性、弱者を気取
ることで暗に強者を糾弾する怠惰なずるさ、それが親友のうさぎに絡む
問題だからこそ不快に感じていたわけだ。もちろん、亜美ちゃんの在り
方が、客観的に視てそのようなものだったといっているのではない。あ
くまでなるちゃん視点ではそう映っていたということだ。

そして、ある意味なるちゃんの考えるとおり、なるちゃん対亜美ちゃん
の対立では、だれが視てもなるちゃんのほうが悪く見える。弱者である
亜美ちゃんと、強者であるなるちゃんがぶつかり合えば、どうしたって
亜美ちゃんのほうが被害者に見える。

Act.14のコメントで、オレもなるちゃんのことを「一方的にイヤな女に
見える」と評したが、なるちゃんが感情的になって初めから喧嘩腰でも
のを言っているのに、亜美ちゃんのほうは思い詰めたように「自分のこ
とはどう思ってくれてもいいから、そっとしておいて」と言っている。
これではどうしたってなるちゃんのほうが悪く見える。

しかし、本当にそうなんだろうか。オレたちは、あまりにも「可哀想な
優等生」である亜美ちゃんに寄り添ってこの一連を視すぎていたのでは
ないだろうか。一旦なるちゃんの立場に立って視れば、夜分に押し掛け
たのは行き過ぎにもせよ、一目会わせてくれというごく普通の頼みも聞
き届けてもらえず、理由も知らされずに門前払いを喰っているのだ。

努めて客観的にこの一連を視れば、普通の意味で無理筋なのは亜美ちゃ
んのほう
だ。それなのに、だれがどう視てもなるちゃんのほうが悪役に
見える。

教室の言い合いで、なるちゃんが思わずこぼした「こっちが悪いみたい
じゃない」というのは、まさに彼女の本音だろう。自分を殺さず正直に
生きているなるちゃんにとって、包まずポンポン本当の気持ちを言って
いるのに、本心の見えないきれい事で返されたそのうえに、結果的に自
分が加害者のような立場に立たされてしまうこと、これがたまらなく不
愉快だったのだろう。

なるちゃんが亜美ちゃんをそのように視て苛立ってしまうのは、単にな
るちゃんと亜美ちゃんのメンタリティがまったく違うからだ。そして、
亜美・なるの二者関係において、加害者・被害者的構図を現出してしま
うのは、彼女たち以外の第三者の視線であって、亜美ちゃんのせいでも
なるちゃんのせいでもない。

オレたちは、どうしたって亜美ちゃんの視点に立ってしまうから、亜美
ちゃんがなるちゃんのようには生きられない人間なのだと知っている。
亜美ちゃんはきれい事で返したのではなく、正直に気持ちを言うことで
自他が痍附くことに、まだ耐えられないほど弱いだけの話だ。

しかし、他方ではなるちゃんのような生き方だって、それなりに風当た
りの強い生き方ではあるし、彼女の心がどんな打撃にも痍附かない鋼鉄
で鎧われていると考えるのは間違いだ。

亜美ちゃんはなるちゃんのようには生きられない。なるちゃんにできる
ことが亜美ちゃんにはできない。だから、亜美ちゃん自身はもとより、
オレたちもまたそれと同じように、亜美ちゃんがなるちゃんに嫉妬する
のであって、その逆ではないと思っている。

しかし、なるちゃんが亜美ちゃんに突っ掛かるのは、亜美ちゃんの在り
方がなるちゃんの勘に障るからで、勘に障るということは、別の言い方
をすれば引け目を感じるということだ。

うさぎに「亜美ちゃんて、優しいんだよ」と言わせるような部分、自分
たちの輪に溶け込ませようとうさぎに気を遣わせるような部分、本音で
ぶつかっている自分にきれい事で返すような部分、だれもがなるちゃん
を加害者と視て亜美ちゃんを庇うような部分。それをなるちゃんは「ず
るい」と表現している。

一種、なるちゃんが意識しているかどうかはさておき、それは亜美ちゃ
ん当人に対して言っても仕方がない面もある。少女たちを視る他者の目
が、好むと好まざるとに関わらず、この二人の関係性をそのように規定
してしまうのだ。

君は強い子だから、活発な子だから、だれとでもなかよくなれる子なん
だから、友だちのいない「可哀想な優等生」にはもっと気を遣ってあげ
なさい、譲ってあげなさい。

それこそ、「冗談じゃないよ」だ。

そういう不特定多数の無神経で粗雑な目、少女たちの上辺だけを視て、
君はこうするべきだ、あの子はこういう子なんだから、と規定してしま
う無責任な眼差し、それこそが「ずるい」のだ。

うさぎのいちばんの親友でありたいという気持ちでは、なるちゃんも亜
美ちゃんも同じことだ。親友が他の女の子を視ているときの苛立たしさ
については、なるちゃんも亜美ちゃんも同じことなんだ。

なのに、亜美ちゃんが優しく控えめな子だから、自分が戦う強さを持っ
た子だから、亜美ちゃんと真っ向からぶつかって親友を取り合ってはい
けないのか。最初から亜美ちゃんに気を遣って、何をするにも譲ってあ
げなくてはいけないのか。

言いたいこともハッキリ言わないで、優しさと謙譲の美しい仮面の陰に
本心を隠して取り澄ましているような弱い女の子に、他人がその気持ち
を察して思い通りにさせてあげなくてはいけないのか。自分は強い女の
子なのだから、いつでも加害者で、いつでも気持ちを我慢しなければい
けないのか。

たしかに、それは「ずるい」ことなんだな。

なるちゃんの屈折していない部分というのは、こういう本音をあっさり
口に出して、筋違いであろうが何だろうが、「弱い被害者」の女の子そ
の人に喰ってかかってしまうところだ。我慢なんかしたくない、あなた
はずるいと言い放ってしまうところだな。

別の見方をしてみよう。亜美・なるの対立がうさぎを巡るものであるこ
とは当然だが、Act.14のコメントでオレは、将来的には亜美・なる二者
間の直接的関係性の構築が必要で、うさぎを媒介とすることで、すでに
否応なくこの二者関係は生起していると指摘した。

これは、今回のラストのなるちゃんのアティテュードを知ったうえでい
うのでは後知恵の誹りは免れないが、ある意味、なるちゃんの側ではす
でに亜美ちゃんとの直接的な二者関係の間合いで彼女に接しているとこ
ろがある。

そしてこの場合問題となるのは、亜美ちゃんのほうでは、エピソードの
ラストに至るまで、まだなるちゃんと直接向き合ってはいなかったとい
うことだろう。Act.14の対決は、なるちゃんの側から視れば、やっぱり
うさぎが不在でも成立する間合いの、ガチの「喧嘩」のつもりだったと
いうことだ。

つまり、なるちゃんはハナから亜美ちゃん当人と喧嘩も辞さないつもり
で押し掛けたってことだな。

一方、亜美ちゃんのほうはドアの背後にうさぎを隠している。なるちゃ
んと二人きりで相対していながら、うさぎのほうだけを向いている。背
後にうさぎを匿っているからこそ、今この場で闖入者であるなるちゃん
と勇気を振り絞って対決しているのにすぎない。

亜美ちゃんにとって、なるちゃんとの関係性はうさぎとの二者関係に附
随する問題であって、なるちゃんを気遣う気持ちに嘘はなくても、眼前
にいるなるちゃんその人を指向する関心は生起していない

なるちゃんが苛立つのは、亜美ちゃんが自分にまったく関心がなく、う
さぎしか見ていないくせに、それなのにいちばんの親友を自認する自分
を立てるかのように勝手に身を引いていること、そして、内心それを不
満に思っていることを直観的に見抜いているからだろう。

ずるいといえば、これもまたずるい。

それに苛立って亜美ちゃんに突っ掛かることで、うさぎが亜美ちゃんを
庇う立場に回る。亜美ちゃんを気遣って「悪気はないから」とまで言わ
れてしまう。たまらなく鬱陶しい悪循環だ。

だれも悪くないはずなのに、亜美ちゃんは亜美ちゃんで懸命に頑張って
いるはずなのに、出発点における立ち位置からは大きく前進したはずな
のに、なるちゃんの気持ちを慮って吐いた嘘のはずなのに、ここでなる
ちゃんが苛立つのも無理はないんだ。なるちゃんに「ずるい」と罵られ
ても、亜美ちゃんには一言も返せないんだね。

こんなに哀しい行き違いが、この子に関する物語では、なんでこんなに
立て続けに起こるのか。要するに、人と人とはほっといても自然にポジ
ティブな関係性を構築できるわけじゃないからだな。むしろ、人と人は
無自覚に相対した場合、必ず衝突する。良好な関係性を構築するために
は、それを回避しポジティブに昇華するための健全な智慧が必要なのだ
ということだ。

亜美ちゃんは、関係性の不全という意味では、まっさらな出発点で登場
した。彼女に纏わる物語は、一人の少女が辛い経験を乗り越えながら、
実感的な智慧と絆を一から獲得していく成長の物語だ。出発点が0であ
るという意味で、亜美ちゃんに課せられた課題はあまりにも過酷だ。

今回のエピソードで亜美ちゃんに突き附けられた課題は、前回のコメン
トで「うさぎだけが唯一絶対の存在」と表現したような、亜美ちゃんの
関心の在り方そのものについての疑義だ。

うさぎがいちばんであったって何の問題もない。人にはだれだっていち
ばん好きなだれかがいる。問題は、うさぎしか視ていない亜美ちゃんの
関心の狭さ、先鋭に収束した絆のか細さなのだ。

亜美ちゃんの目はうさぎしか視ていない。逆にいえば、他のすべての友
人たちは目に入っていない。そして、今回のエピソードで重要な役回り
を演じるのは、なるちゃんとレイちゃん、つまり、亜美ちゃんがうさぎ
だけを見つめることで、真っ向から向き合う努力を怠っている相手たち
である。

なるちゃんが亜美ちゃんに苛立っているのは、表面上うさぎを巡って対
立している間柄であるはずの自分とすら、真っ向から向き合おうとしな
いからだ。対決の間合い、喧嘩の間合いで接しているはずなのに、それ
でも自分を視ようとせずに、うさぎにしか関心を向けない亜美ちゃんの
姿勢に不快を感じている。それはつまり、だれかを視ないということは
そのだれかを絶対的に拒んでいるということだからだな。

たとえば、レイちゃんのクールな鎧がそれ以上他者を寄せ附けないため
の境界線だとすれば、亜美ちゃんの眼鏡は他者と直接見つめ合うことを
拒むための、これもまた境界線だ。レイちゃんの鎧には迫害と戦う意志
的な強さがあるが、亜美ちゃんの眼鏡には他者をやり過ごす消極的な弱
さと、それとは裏腹な頑固な拒絶の意志表示がある。

弱者は頑固に拒絶するものなんだな。弱者が意志的に完遂できる意志表
示は、拒絶の身振りでしかないからだ。強者が弱者に対して苛立つとす
れば、この愚直なまでの拒絶の身振りだ。

亜美ちゃんが眼鏡を外すようになったのは、放課後だけのことであり、
学園内では依然として装用していたことを、ここで思い出してみよう。

さらには、Act.5 のアバンで「三人でいることの心地よさ」に触れたこ
とを思い出してみよう。Act.14では、新年会の場面でジェンガに興じる
亜美ちゃんとレイちゃんの姿を、そして亜美ちゃんの私室の写真でこの
二人が腕を組んで写っていたことを思い出してほしい。Act.15の後半で
「ここに来るのが癖になってる」と言った言葉を思い出そう。

亜美ちゃんには、セーラー戦士以外の友人はいないのだし、そのうえで
うさぎだけを見つめている。なるちゃんはうさぎを巡って対立すること
で絶対的に亜美ちゃんから拒絶され苛立っているのだ。

亜美ちゃんは、あまりにも自分が辛い思いをしているために、自分がう
さぎだけを見つめることで痍附くだれかがいること
に、まったく思いが
及んでいない。自分を追い詰めているなるちゃんが、自分のせいで辛い
思いをしているとはまったく想像できない。

自分の周囲にいるすべての人々は、自分とだれかの二者関係に附随する
概念的な何かではない。そのすべての人々との間に等価で二者関係は生
起するのだし、自分を好きでいてくれるすべての人々と直接視線を交わ
して向き合うべきなのだ。

今回のエピソードは、亜美ちゃんとなるちゃんがうさぎを取り合う話で
はない。そうすべきであるのにそうしない亜美ちゃんに対してなるちゃ
んが苛立つ話なのだ。そうすることが良いことであるかないかは関係な
く、そうしないことによる不誠実さを糾明する話だ。

さて、なるちゃんの立場に立って一渡り視てきたあとは、われらの愛す
べきヒロインである亜美ちゃんの側に立って、今回のエピソードを視て
みよう。

亜美ちゃんは、また同じことで悩んでいる。

今回のエピソードで亜美ちゃんを追い詰めていたのは、実はなるちゃん
などではない、やっぱりうさぎだったのだ。亜美ちゃんは、またしても
十年一日の如く「うさぎの望むようになれない自分」に悩んでいた。

今回のクライマックスで、亜美・レイの遣り取りを聞かされたとき、オ
レはちょっと戸惑ってしまった。表面的には、二人ともちっともおかし
なことは言っていない。むしろ、一人の親友をめぐる鞘当てという意味
では、ごくごく普通のことを言っているだけだと思う。

わたし、優しくなんかない。大阪さんを助けたいのは、自分のせいかも
しれなくて、「怖い」からだよ。

わたし、大阪さんにすごい嫉妬してた。うさぎちゃんはわたしだけの友
だちじゃないし、大阪さんたちとだっていっしょにいたいのは当然だっ
て、頭ではわかっているんだけど、うさぎちゃんと愉しそうに話してい
るのを視るだけで、大阪さんのこと嫌いになりそうで…

あのとき大阪さんを助けられなかったのは、自分のなかにそういう気持
ちがあったから…もしかしたら「いなくなれば」って思ったかも…わた
し、自分がこんないやな人間だって知らなかった。それなのに、うさぎ
ちゃんは、わたしのこと、優しいって思ってくれて…

うさぎちゃんも騙してるんだよ。

最低。

…どこもおかしくない。

ただ、なんとなくウェイトの掛かり方がおかしい。言っていることは間
違っていないのに、どことなくロジックがおかしい。おかしいと思い始
めると、それに対するレイちゃんの受け答えもおかしく思えてくる。

何よ、「そんなこと」ぐらい。「何でもない」じゃん。裏表のない人間
なんて、いないわよ。だれだって、「いろんな自分」がいるわ。わたし
だって…

いいじゃない、嫉妬くらい。亜美ちゃんは満点をねらいすぎよ。でも、
大阪さんを助けられなかったのは、「そのせい」じゃない。「亜美ちゃ
んなら、絶対にない」。わたしが保証する。

だから、自分を嫌いにだけはなっちゃだめ。いいわね。

うさぎの理想なんか裏切っちゃえばいいのよ。

…おかしくないといえばおかしくないが、やっぱりどことなくおかしい
ような気がする。この一連の会話の落とし所が、どうしてうさぎが騙さ
れたり、裏切られたりする話にならなければならないのか。亜美ちゃん
とレイちゃんは、亜美ちゃんとなるちゃんの問題について語っていたの
ではなかったのか。

「亜美ちゃんなら、絶対にない」というのからして、日本語としておか
しい。「大阪さんを助けられなかったのは、そのせいじゃない」という
言い回しも、よくよく考えると係り受けの関係が微妙におかしい。「亜
美ちゃんのせいじゃない」と普通に言えばいいのに、「そのせいじゃな
い」という、妙に指示代名詞が浮き上がった言い回しになっている。

逆にいえば、なるちゃんを助けられなかったことについて、亜美ちゃん
に責任があるかないかという話をしているのではなくて、「そのせい」
に対応する「何か」のために助けられなかった、という亜美ちゃんの思
い込みが間違っているという話をしているのだ。

そして、「何でもないじゃない」というセリフが、表面的には嫉妬のこ
とを指しているはずなのに、妙に屹立した印象を覚える。小さな嫉妬の
毒など何ほどの意味もない、「何でもない」というのは、大人ならだれ
にでもわかる。しかし、この「何でもない」は、そんな当たり前のこと
を言っているのではないように感じられる。

そもそも嫉妬くらいのことで、「いろんな自分がいる」とまで言う必要
があるのだろうか。こういう言い回しは、たとえば森野文子路線の亜美
ちゃんの陰画に当たるネガティブな部分、こうした余剰の側面を水野亜
美という統一的な人格に絡めて解釈することが適当でない場合に、そこ
を切り捨てて考えるための認識上の方便だ。

いわば、本来的な自分という人格像を意志的に措定する場合に、そこか
らはみ出す要素を便宜的に捨象するための方便が、「いろんな自分」と
いう考え方だろう。では、友だちを独占したいという、ごく普通の欲望
さえも非本来的なものと切り捨ててしまわねばならないほど、水野亜美
という人物の本来的な人格像は狭量なものなのだろうか。

そこで意識されてしまうのは、やはり、この場面のレイちゃんのセリフ
全体にまつわる、指示代名詞の屹立ぶりだ。指示代名詞が屹立している
ということは、普通なら直截名指されるべき何かを名指すことを避けて
いるということ
だ。ここのダイアログは、何かを不用意に言ってしまわ
ないように、きわめて遠回しに書かれているような気がしてくる。

そして、ここに違和感を感じてしまうと、それまで気にならなかったこ
とがどんどん気になり始めてしまう。今回のエピソードがどんな話だっ
たのか、オレには本当にわかっていたのか、だんだん不安になってきて
しまう。

つまり、この亜美・レイの遣り取りは単なる一般論ではなくて、もの凄
く具体的に今回のエピソードの総括をしているのだとしたら、いったい
どうなるだろうか。

そのような視点に立った場合、何というのか、今回のエピソードは爽や
かな印象から一転してもの凄く怖い話に見えてくる。ラストで穏やかな
和解を果たしたはずの亜美ちゃんとなるちゃんの姿が、ほろ苦く見えて
しまうくらい、生々しい話に見えてきてしまうのだ。

まず、アバンから視てみよう。うさぎの脳天気なおのろけが終わったあ
とに、前回のラストを受けて、頻発する失踪事件の陰にいた妖魔にまこ
ちゃんが引きずり込まれそうになる一連が続く。

妖魔を退けてまこちゃんを助け上げ、レイちゃんが「妖魔の気配も消え
たわ」、まこちゃんが「行方不明事件の真相がわかったな」。その後、
妖魔の消えた跡を喰い入るように見据えながら、無言で頷く亜美ちゃん
にカメラが寄る。

単にその場に三人いるから、三人持ち回りでセリフを割っているだけの
話だ。どこもおかしくないといえばおかしくない。亜美ちゃんだけが無
言で妖魔の消えた跡を見つめているのがおかしいような気がするのは、
オレの考えすぎなんだろう。

OP明けてクラウン内。妖魔襲来の一件を知らされ、そのときどこにい
たのかを問い詰められたうさぎは、咄嗟になるちゃんの名前を出して嘘
を吐いてしまう。なるちゃんの名前が出た途端に、ピクリと反応する亜
美ちゃんの目許のクローズアップがインサートされるのは、別に不思議
なことではない。

しかし、なるちゃんたちといたときに妖魔が出て応戦したといううさぎ
の嘘に、亜美ちゃんは妙な表情で「大阪さんたちは妖魔に襲われなかっ
たの?」と口を挟む。大丈夫だったといううさぎの嘘に、妙な間があっ
てから「そう…よかった」と亜美ちゃんが答える。「なるちゃんたちの
ことまで心配してくれてるんだね、なんか嬉しいな」とうさぎ。微笑す
る亜美ちゃん。

ここの芝居場の亜美ちゃんの表情は、最初から最後まで変だ。腹が読め
ない。うさぎの言葉を受けた微笑みが強張っている。

続いて、通学路で脳天気な独り言を呟くうさぎの背後から、亜美ちゃん
の姿が現れる。うさぎが一人でいることに気附いて、一瞬パッと表情が
明るくなる。駆け寄ろうとした途端に、横合いからなるちゃんが飛び出
してきて、うさぎの腕に絡み附く。うさぎとなるちゃんは「愉しそうに
話している」。

うさぎが亜美ちゃんに気附いて亜美ちゃんに駆け寄り、「なるちゃん、
亜美ちゃんすっごい優しいんだよ、なるちゃんたちのこと心配してくれ
て」となるちゃんに言う。もちろん、妖魔が出たといううさぎの嘘を知
らない以上、なるちゃんには何のことだかわからない。

このセリフの間中、亜美ちゃんは居堪れないように俯いていて、上目遣
いになるちゃんを視る。「なんで心配されなきゃいけないの?」という
当然至極な疑問をなるちゃんが吐き捨てると、亜美ちゃんは後ろめたそ
うに唇を噛んで目を伏せる。

クラウンで吐いた嘘のため、うさぎはその場をうやむやにしてなるちゃ
んに駆け寄り、そのまま亜美ちゃんを置き去りにしてしまう。考えなし
に「なるちゃんたちのこと心配してくれて」なんて言っちゃった手前、
なるちゃんと亜美ちゃんをいっしょにしてしまったら、嘘がバレちゃう
からだ。

…余談に渉るが、今回のエピソードにおけるうさぎのダメダメさ加減は
空前絶後だな。いってしまえば、今回のエピソードがこのようなものに
なったのは、九分九厘自分の恋のことでお団子頭がいっぱいになってい
るうさぎのぼんやりのせいだ。

例の彦右衛門くん登場の英会話実習のくだりでは、なるちゃんの「私が
悪いみたいじゃない」というセリフを受けて、うさぎは「亜美ちゃんは
そんなんじゃない、ホントに優しすぎるんだよ」と庇うが、このときな
ぜか亜美ちゃんは驚いたようなリアクションをとる。これも、少し芝居
の係り受けが合わないような違和感を感じる。

亜美ちゃんを「優しすぎる子」と視るうさぎの視点からすれば、この見
方はいつものステロタイプであって、さほど意外なことでもない。だと
すれば、亜美ちゃんは何にそんなに驚いたのか。

呆けたように街を歩く亜美ちゃんの前になるちゃんが現れ、なるちゃん
が妖魔に襲われる場面では、少なくともなるちゃんが妖魔に連れ去られ
るまでは全然不自然な芝居はない。なるちゃんの悲鳴を聞き附けて駆け
寄った亜美ちゃんは、必死になるちゃんを助けようと手を伸ばす。もう
少しというところで及ばず、なるちゃんは妖魔に連れ去られる。

おかしいのは、このあとだ。

亜美ちゃんは、なぜかやっぱり妖魔の消えた跡をずっと見つめている。
妖魔のつくり出した蟻地獄は瞬時に消えてしまったのだから、何もない
道の真ん中を穴が空くほど見つめていたことになる。うさぎとレイちゃ
んが駆け附けても、やっぱりそこを見つめている。

うさぎがなるちゃんの消えた場所に跪き、「なるちゃん…」と呟くと、
亜美ちゃんの視線はそのうさぎの背中に移り、思い詰めたような表情で
見つめ続ける。その横顔に心配そうなレイちゃんの視線が注がれる。

ルナの急報でエナジーファームに駆け附けた三戦士は、力を合わせて結
界を破ろうとするが、一度や二度の攻撃ではびくともせず、何度も跳ね
飛ばされる。

なぜか亜美ちゃんは、ムキになって単独で攻撃を繰り返し、うさぎとレ
イちゃんに諫められる。「大阪さん、助けなきゃ!」と身も世もなく叫
ぶ鬼気迫る亜美ちゃんの後ろ姿に向かって、うさぎは「亜美ちゃんて、
すごいね」と彼女の優しさを褒め称える。「えっ」驚く亜美ちゃん。

「あんな喧嘩したあとに、こんな一生懸命でさ」。しかし、カメラのほ
うを向いている亜美ちゃんの表情は、遂には居堪れないくらい辛そうに
歪んでしまう。「ちょっと待ってて」とうさぎがハケたあと、とうとう
気持ちを胸に包みきれなくなって、堰を切ったように亜美ちゃんの独白
が始まり、最前引いたレイちゃんとの遣り取りになる。

こうして長々とエピソードの要約をしたのは、亜美ちゃんとレイちゃん
の会話が、これらの物語の流れと具体的に対応していると考えられるか
らだ。

たとえば、アバンのあのとき、亜美ちゃんは妖魔の消えた跡を視るとも
なく見ながら、「こんなふうにして、大阪さんもいなくなっちゃえばい
いのに…」と、ふと思ったとしよう。

そんなのは本当の気持ちでも何でもない。だれしも心が弱っているとき
には、自分を攻撃するもの一切がどこかに行ってしまえばいいと、幼児
的に考えることがある。それでも、死んでしまえと本気で願うわけでは
ない。ただ、死んでくれれば都合がいい…と、ふと心に浮かんだりする
だけのことで、それは「死ね」と願うこととはまったく別のことだ。

レイちゃんの言うとおり、それは、「何でもない」ことだ。

クラウンでうさぎが妖魔と戦ったと嘘を吐いたとき、亜美ちゃんがなる
ちゃんの安否を訊ねたことには、多分深い意味などない。個人的には、
なるちゃんとの角逐で頭がいっぱいだったから、何心なく聞いてしまっ
たんだと思いたい。ところがうさぎはそれに過剰に反応して、亜美ちゃ
んが優しさからなるちゃんのことを心配しているのだと解釈した。

しかし、亜美ちゃんは、少なくともなるちゃんのことが心配だったから
安否を訊ねたのではない。ただ、単になるちゃんがどうなったのか気に
なっただけのことだ…と思いたい。

うさぎはそれを亜美ちゃんの優しさだと受け取ったが、それは亜美ちゃ
んにとっては、優しさから発した思い遣りなどではないことだけは確実
で、そのためにかえって、自分が「大阪さんが、ひどいめに遭えばいい
のに」と悪意的に考えてそんなことを聞いたのではないか、と疑ってし
まったのだとしたら。

そして、そんなことを考えている折柄、通学路でうさぎを見附け、駆け
寄ろうとしたその鼻先をなるちゃんがかっさらい、「愉しそうに話して
いる」のを見せ附けられて「大阪さんのことを嫌いになりそう」になっ
てしまった、そのタイミングでうさぎが「亜美ちゃんてすっごく優しい
んだよ」と言い放つ。

後ろめたくないはずがない。この亜美ちゃんの心情に「なんで心配され
なきゃならないの」というなるちゃんの憎まれ口がどう響いたか。これ
は一種のダブルトークだ。なるちゃんがどういうつもりでそう言ったの
かは関係ない、亜美ちゃんは実際になるちゃんのことなんか、まったく
心配していなかった
のだ。

うさぎを連れ去ってしまったなるちゃんの後ろ姿を見つめながら、亜美
ちゃんはどう思っていたのか。

英会話実習の場面で、うさぎは最初に何と言ったのか。なるちゃんに誘
われたうさぎは亜美ちゃんに「三人でやろう」と持ち掛けた。亜美ちゃ
んは「二人で組むんだから、私は余った人と組む」「大阪さんが先だか
ら」と言い訳してこの申し出を断っている。

これもひょっとしたら、なるちゃんに気を遣ったとか譲ったとか、そう
いうことではなくて、単になるちゃんといっしょに組むのがいやだった
から、という取り方もできる。

この時点では、なるちゃん個人が好きだとか嫌いだとかいう感情はあま
り関係ない。「大阪さんがいなくなればいい」と思ったのは、単に亜美
ちゃんにとってなるちゃんが邪魔だったからだし、組みたくないのはそ
ういう自分の気持ちと向き合うのがいやだからだ。

それなのに、うさぎはまたしてもそれを「亜美ちゃんはそんなんじゃな
い、ホントに優しすぎるんだよ」と勝手に善意に解釈してしまう。この
言葉は、さらに亜美ちゃんを追い詰める。うさぎが自分のことを優しい
人間だと思ってくれるのは、たまらなく嬉しい。しかし、それはうさぎ
の誤解だ。亜美ちゃんはうさぎが言うようなことなんか、全然思ってい
なかった。

しかし亜美ちゃんは、うさぎに褒められたことが嬉しくて、その誤解を
訂正しようとはしない。その束の間の嬉しさに甘んじたことが、さらに
亜美ちゃんの呵責を重くする。

街を彷徨ってなるちゃんと遭遇するまでの亜美ちゃんの心情が、ざっと
このようなものだったとしたら、なるちゃんと二人きりで相対すること
が怖かったとしても仕方がない。

そのタイミングでなるちゃんは妖魔に襲われ、亜美ちゃんは必死に助け
ようとする。ここで助けられれば何の問題もなかったんだが、不幸にし
て、あと一歩のところで亜美ちゃんはなるちゃんを助けられなかった。

妖魔の消えた跡を見つめる亜美ちゃんの姿は、アバンの幕切れの意地悪
い繰り返しだ。なるちゃんが消えたあと、亜美ちゃんはなるちゃんが襲
われたときに、自分がどう思ったのかを思い出そうとしている。

しかし、こんな咄嗟の場面で何を考えていたかなど、思い出せるもので
はない。だから、思い出そうとしてはいけないのだ。その記憶は、今こ
の場でつくられた記憶
であって、思い出されたものではないからだ。

あの場面でなるちゃんを助けられたのは自分だけだったのに、なるちゃ
んは助からなかった。事実として、なるちゃんは妖魔に連れ去られてし
まった。あとは、その事実をどう解釈するかしか残されていない。

そして、「助からなかったという事実」と「助けなかったという事実」
には、結果としての見え方に何の区別もない

さらには、この場面がアバンの繰り返しである以上、亜美ちゃんはなる
ちゃんが襲われたそのときに、あのときと同じように「大阪さんがいな
くなっちゃえばいいのに」と思ったのだと、思い込んでしまったのだと
したら。

亜美ちゃんの目の前で、あのとき「こんなふうに、いなくなっちゃえば
いいのに」と思ったまさにそのとおりの形で、なるちゃんはいなくなっ
てしまった。

これは、怖い

亜美ちゃんが必死で結界を毀そうとしたのは、その言葉どおり、本当に
怖かったからなのだ。自分の手で妖魔からなるちゃんを奪い返さない限
り、なるちゃんを妖魔に襲わせたのは自分だということになってしまう
のだから。亜美ちゃんは他人を助けようと「一生懸命」だったのではな
く、自分自身が怖くて「半狂乱」だったのだ。

そこへ、駄目を押すようにうさぎが「亜美ちゃんてすごいね」と善意の
誤解を重ねてしまう。最早亜美ちゃんには耐えられない。自分のせいで
なるちゃんが襲われたのに、うさぎはそれとは知らずに、皮肉にも自分
を褒め称えている。なるちゃんが連れ去られてしまったあとでは、自分
にはその誤解を正す勇気さえもない。

亜美ちゃんの独白は、なるちゃんに対する反撥から、なるちゃんの危機
に際して、自分が全力を尽くさなかったのではないか、という上辺の言
葉どおりのことを言っているのではない。

なるちゃんが妖魔に襲われたのは、自分がそう望んだからだと言ってい
るのだ。なるちゃんが「いなくなってしまった」のは、「いなくなれ」
と願う自分の醜い心に責任があると言っているのだ。

レイちゃんがハイヒールの踵を鳴らして一喝するのは当たり前だ。

冷静に考えてみろ。いなくなればいいと考えたら、だれかがいなくなっ
てくれるのか。よしいなくなったとしても、それはそれだけのことにす
ぎなくて、いなくなれと思う気持ちとはいっさい関係ない。

それは、一から十まで亜美ちゃんの妄想だ。自分の大好きな人を独り占
めしているばかりか、自分の醜い心の動きを見抜いて糾弾する相手に対
して、ちょっとでも「消えてなくなれ」と思わない人間などいない。し
かし、それはただそれだけのことにすぎない。

レイちゃんの言うとおり、それは、「何でもない」ことだ。

ならば本当に亜美ちゃんは、ただの一度もなるちゃんに対して優しい気
持ちを抱いたことがないのか。そんなはずはないんだな。ただ亜美ちゃ
んは、自分の醜い心の動きに初めて接して、そこしか見えなくなってい
ただけの話なのだ。

あのときクラウンでなるちゃんの安否を訊ねたのは、本当になるちゃん
のことが心配だったからなんだ。Act.14で、育子ママやなるちゃんによ
けいな心配をかけまいと嘘を吐いたのも、亜美ちゃんの優しさがそうさ
せたんだ。そう考えさえすれば、それは本当のことになる。

優しい亜美ちゃんと、優しくない亜美ちゃんは、等価で実在する。だれ
だって、「いろんな自分がいる」。問題は亜美ちゃん自身がどちらの自
分を本当の自分ととらえるか、だ。

レイちゃんが言っているのは、そういうことだと思う。

「私が保証する」というのは、優しい亜美ちゃんの実在を、第三者のレ
イちゃんが全人格をかけて支持するという意味だ。刺々しく突っ掛かっ
てくるなるちゃんが相手でも、だれかの危機に際しては無我夢中で手を
伸ばす、そういう亜美ちゃんの実在を、レイちゃんが無担保で保証する
ということだ。少なくとも、レイちゃんだけはそういう亜美ちゃんが本
当の亜美ちゃんだと、積極的に信じるということだ。

だから、自分を嫌いにだけはなっちゃだめ。いいわね。

現に、今回のエピソードを通じて唯一不自然でなかった亜美ちゃんの芝
居は、身を挺してなるちゃんを救おうと手を伸ばしたあの場面だけだ。
あの場面の亜美ちゃんは、ただひたすらになるちゃんを救おうと無心に
身体が動いたのだと、オレは信じたい。

亜美ちゃん自身に信じられないなら、このオレが信じてやるよ。

つまり、亜美ちゃん視点でこのエピソードを解釈すると、一人の少女を
襲った通り物の物語だということだ。追い詰められた亜美ちゃんに、ふ
と魔が差したというだけの話で、亜美ちゃんの独白は一から十までただ
の魔境だ。京極風に謂うならば、それは一匹の妖怪だ。

…つまり今回の物語は、憑き物落としの拝み屋の、憑き物落としが成功
したという話だったんだな(木亥火暴!!)。

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Act.16  【Side-B】眼差しの交わるとき

しかし一方では、実際問題として、今いったような解釈はやろうと思え
ばできるという程度の可能性でしかない。

まったくそうでない解釈だって、同じように可能だ。そして、少女たち
に幻想を抱きたい年頃の甘っちょろい中年男にすぎないオレにとって、
そうでない解釈のほうが有り難いのは当然だ。

アバンの幕切れで亜美ちゃんが無言だったのは、単に映像の流れのうえ
での自然な呼吸だっただけなのかもしれない。あのときの亜美ちゃんは
なるちゃんとの確執も忘れて「早くこの妖魔を倒さないと、たいへんな
ことになってしまうわ」と考えていたのかもしれない。ある種、戦士と
しての亜美ちゃんのまっとうさを押さえておくための布石だったのかも
しれない。

クラウンの場面でも、うさぎの嘘に接して思わずなるちゃんの安否を気
遣ってしまった自分の、優等生的な思考の型に自己嫌悪を覚えただけな
のかもしれない。

通学路の場面では、うさぎが声高に亜美ちゃんの優しさを売り込んだ言
葉で、さらになるちゃんが苛立つことを予期して萎縮していただけなの
かもしれない。また、ほんの少しだけ、うさぎの売り込みでなるちゃん
が態度を和らげてくれるかもしれないと期待して、その期待が裏切られ
たことが辛かっただけなのかもしれない。

引いては、自分のそういう上辺を取り繕ってしまう優等生根性が、本音
で生きるなるちゃんに、糾弾されているように感じてしまったのかもし
れない。

英会話実習の場面では、同じような機微ではあっても、単にうさぎを譲
ることで衝突を避けようとした自分の消極性を、うさぎが「優しさ」と
善意に解釈したことに驚いただけなのかもしれない。受け取るべきでな
い過分な報酬に、心苦しさを感じただけなのかもしれない。

街でなるちゃんと鉢合わせしそうになったときは、単に英会話実習の場
面からの流れで、なるちゃんにキツい言葉をぶつけられるのが怖かった
だけなのかもしれない。

なるちゃんが妖魔に襲われたときは、それこそ本当に、自分が全力を尽
くしたのかという、危急に際して人がだれでも抱くような自責を覚え、
ひとえになるちゃんの行方を心配していただけなのかもしれない。

結界を毀そうと必死に攻撃を繰り返したのは、額面どおり、あのとき全
力を尽くさなかったという後悔に突き動かされていたからなのかもしれ
ない。うさぎの言葉に居堪れなくなったのは、個人的な反撥から差し伸
べるべき腕が強張った自分の弱さを愧じたからなのかもしれない。

そして、亜美ちゃんの独白は、実際に亜美ちゃんのとった言動よりも、
後悔のゆえに過剰に露悪的な色彩を帯びていただけなのかもしれない。
あまりに辛いことが立て続けに起こったために、一時的に自責の念が押
し寄せてしまい、自分の善意を信じられなくなっていただけなのかもし
れない。どんどん記憶が醜く歪んでいっただけなのかもしれない。

レイちゃんの言葉は、そうした一時的な混乱の主要な原因となっていた
亜美ちゃんの心の奥底にある嫉妬の疼きを、だれにでもあるネガティブ
な側面として、あるがままに許容してあげただけなのかもしれない。

こういうふうに解釈してもまったく問題なく筋道は通るのであり、好み
からいっても、断然こっちの解釈のほうが心地よい。

さらに、先ほどは意図的にネグレクトして語ったが、蟻地獄の場面から
エナジーファームへ移動するまでの亜美ちゃんの挙動を視るに、通常の
戦士としての顔に戻っており、エナジーを吸い取られる人々を目の当た
りにして「ひどい…」と心を傷めるだけの余裕を取り戻している。

「怖い物語」の解釈で行くなら、ここで亜美ちゃんが冷静さを取り戻し
ているのは、情感のつながりに不自然さが生じる。この解釈に立つので
あれば、なるちゃんが連れ去られてから結界破りの一連まで、亜美ちゃ
んの緊張が続いていなければおかしいのだ。

つまり、このエピソードに際して通り物に憑かれ、魔境に陥ったのは劇
中の亜美ちゃんではなく、それを見守る視聴者のこのオレのほうだった
のかもしれない。レイちゃんは、ハイヒールの踵を踏み鳴らして、亜美
ちゃんに取り憑いた憑き物を落としたのではなく、オレに憑き物を憑か
せただけなのかもしれない。

他ならぬレイちゃんの熱演によって、火星人のオレには憑き物が憑いて
しまった。プレゼンテーション次第で、どちらとでも真相を解釈できる
というチェスタトン的な命題が成立する以上、優しい亜美ちゃんと優し
くない亜美ちゃんが等価で実在するように、オレのなかでは二つの物語
解釈が等価で実在
してしまった。

女児向けの三〇分番組として許容されるギリギリの線を最早踏み越えて
しまった生々しく怖い物語と、一人の女の子の頑張りがなかなか受け容
れられないという困難を友人の助力で乗り越える爽やかな物語。魔境に
陥ったオレのプレゼンテーションなど真に受けずに、どちらでもお好み
の解釈をとることが可能だ。

この物語を紡ぎ出した小林靖子の思惑はどうだったのだろう。それを受
けた鈴村の解釈はどうだったのだろう。少なくともオレには、実現され
た作品は、どちらかの解釈を積極的に支持するほどの明晰さに欠けるよ
うな気がする。蟻地獄からエナジーファームへ移動するまでの亜美ちゃ
んの描写も、積極的に解釈を決定する要素と視るには弱い。

穏健な解釈のほうに身を寄せると、亜美ちゃんを巡る個々の芝居場の指
向する意味性が弱くなる。単にたまたまそういう芝居になってしまった
というだけの芝居となってしまって、強力に噛み合う意味連鎖を持たな
くなる。一方、怖いほうの解釈に立つならば、戦いに赴く戦士としての
顔が矛盾となる。オレの感覚では、統一的解釈に対する矛盾要素として
この両者は五分の重みだ。

つまるところ、このエピソードが指向する地平には、「生々しく怖い物
語」もまた可能性として想定されていたように、オレには思える。そし
て、実現された作品には、そう解釈し得る内実が留保されたままのよう
に感じる。

たしかに、積極的にそうは語っていない。「怖い物語」を支持する具体
的なセリフはいっさいない。しかし、このような統一的な筋道に沿って
解釈し得る可能性が、偶然生じたというのも出来すぎではないかという
気がする。

つまり、このエピソードがこのようなものとして映像化されるどこかの
過程で、だれかが揺らいだか、日和ったのではないのかと思う。

具体的な意味性を指向する手懸かりが、当初の青図から意図的に削除さ
れたのだという気がする。要するに、リアルさの程度の問題だ。そこま
で生々しくなくても今回の物語は成立するのであって、あとはつくり手
が自身のリアリティに対する誠意を奈辺に置くかという問題だ。

そして、実現された作品では、まったく別の選択肢を辿るのではなく、
ニュアンスの重みを削ぎ落とすのみに留まり、当初目論まれた物語もま
た、二重写しで痕跡を留めているようにオレは思う。

オレ個人の感覚としては、そこまで亜美ちゃんを追い詰めてしまってい
たら、このエピソードにおいて、亜美ちゃんの情感の小回りが利かなく
なってしまったのでは、と思う。そこまでのどん底を垣間見ていたとし
たら、瞬時に微笑んだり回心したり、物語の要請に沿ってヴィヴィッド
に感情が動くには、課せられた課題が重すぎたのではないかと思う。

当初目論まれた内実が可能性の埒内に留まり、実現された映像の指示す
る意味性が微妙に揺らいでいるのは、このような作劇上の都合もあった
のかもしれないね。

いずれにせよ、どちらの解釈に立とうがオレは亜美ちゃんの不器用な真
摯さを受け容れるし、つくり手がどちらを意図したのであれ、深度の違
いがあるだけでまったく同じ意味性が成立しているとは思う。ただ、潜
在的な可能性としてではあれ、突出したリアルさで成立している怖い物
語に接しても、レイちゃんと同じように亜美ちゃんを受け容れてあげら
れるような、強い視聴者でありたいとは望むけれどね。

まあ、調理実習の場面で微笑み合う亜美・なるツーショットの爽やかさ
をストレートに味わうために、ここは穏健なほうの解釈で論を進めてい
くことにしようか。

それでは、あらためてもう一度繰り返そう。

亜美ちゃんは、また同じことで悩んでいる。亜美ちゃんは、またしても
十年一日の如く「うさぎの望むようになれない自分」に悩んでいた。な
らば、Act.14の血の滲み出るようなあのドラマは何だったのだろう。

心に刺さった小さな棘がきれいに抜け落ちた今も、未だその小さな痍口
からは鮮やかな血の滴りが滲み続けているのだろうか。忘れたつもりに
なってはいても、そこにはいつも痛みが取り残されているのだろうか。

人間の成長には、元々「これでいい」「ここで上がり」というゴールな
どないのだろうけれど、それにしても、今初めて自ら人と関わり始めた
ばかりのこの娘の、辛く昏く深い夜はなぜ明けない。なぜいつもこの娘
は泣いてばかりいるのか。

Act.15の「あの下駄箱の前」で、うさぎとなるちゃんの背後を蹌踉と横
切ったあのとき一瞬オレがそう疑ったように、本当に亜美ちゃんは荊の
森を分け入るような苦闘の末に掴んだ人としての成長を手放し、他者を
全面的に拒絶する位置にまで退行してしまったのだろうか。

Act.14で見せたあの強さは、所詮うさぎ一人の愛情を得るためのものに
すぎなかったのか。あのときこの娘が到達したのは、大好きなあの人が
自分一人だけを見つめてくれればそれで満足する、そういう地点でしか
なかったのか。

それは違う。

違わなければ嘘だろう。

この少女たちのリアルな情念のドラマにおいて、「満点をねらいすぎて
いる」のは亜美ちゃんではない。それをいうには、小林靖子という個人
名を出すまでもない。

他者を全面的に拒絶することで、人との関わり方をまったく学んでこな
かった、ある種畸型的な少女を創り出し、そんな偏跛な少女に対して人
として十全以上であれと強いる物語構造そのもの
が、亜美ちゃんに対し
て厳格に満点を求めているのだ。

仮に亜美ちゃんがなるちゃんと和解を果たせなかったとして、そんなこ
とは現実にいくらもある。たとえば亜美ちゃんがうさぎ一人をひたすら
に希求したのだとしたら、普通一般の現実においては、そのために何か
を犠牲にしなければならない。

人の生き様は、おおむねトレードオフの連続だ。あれもこれも獲得する
ことはできないから、あれかこれかの二者択一を迫られる。そして、現
実に生きている一人の人間の選択を、赤の他人が間違っているとか正し
いとか、軽々に規定できるものではない。

今の亜美ちゃんにはうさぎ一人しか見えていないのだとして、それでこ
の少女のこれまでの冷たい孤独が何ほどか癒されるのだとすれば、うさ
ぎの好意を求めることで、それまでよりも何ほどか強くなれるのだとす
れば、それを「間違っている」とだれが言えるのか。

それを言うのは、一つのドラマがもう一つのドラマを生み、徐々に大き
なうねりと化していく、冷酷なドラマの要請そのものだ。

今回のエピソードは、Act.14Act.5 の棘を溶かしたうさぎとの二者関
係では解消できない…というより、むしろこれまでのドラマが一応の解
決をみたこと、それ自体のゆえに生起する新たな物語を語っている。そ
のために、これまでのドラマで亜美ちゃんが到達した立ち位置では飛越
できないハードルが意図的に現出されている。

うさぎとの二者関係が、「声が届く」という実感に基づいた温かい到達
点に達したあとでは、うさぎの「誤解」は最早亜美ちゃんにとって冷た
いものではない。うさぎが亜美ちゃんの言動をすべて善意に解釈したの
は、うさぎの天性の善良さもあるだろうが、亜美ちゃんとの二者関係が
愛情を基調にしたポジティブな関係性となったからだろう。

今回の落とし所が「うさぎの理想なんて裏切っちゃえばいいのよ」とい
うものであったように、このうさぎの善意の誤解そのものを解くことに
は、亜美ちゃんの立場ではあまり大きな意味はない。

そのくらい、思いたいのであれば思わせておいたっていいんだよ。この
先うさぎが「裏切られる」としたら、そんなうさぎの思惑に縛られない
自己像を獲得した亜美ちゃんの自然な言動によってだろう。わざわざそ
の誤解を解くために何らかのアクションを起こす必要はない。

今回の亜美ちゃんが、同じように「うさぎの望むようになれない自分」
に悩んでいたのだとしても、Act.5 のあのときとは事情が違う。それで
うさぎが離れてしまうのではないかと悩んでいるのではなく、うさぎが
亜美ちゃんへの愛情に基づいてそう思いたがっている自分になれないこ
とで、うさぎに対して罪悪感を覚えているのだ。

そのために知らず知らずのうちに、うさぎの思い込みから一歩もはみ出
せないように自分の外面を縛ってしまっている。それでいて、心のうち
では、リアルに生きる一人の少女が、ごく当たり前のリアルさで生々し
く息づいている。所詮、他人の思惑どおりの自分など、意図的に演じる
フィクションでしかない。そこを亜美ちゃんは割り切れないでいる。

裏も表もなくうさぎの思うとおりの自分でないことだけをもって、リア
ルな自分の価値を全否定してしまっている。醜い気持ちが動くリアルな
自分が許せない。それは、当たり前の意味ではまったく話が逆だ。

人は、今ここにある自分が感じ生きているリアルな現実をこそ受け容れ
るべきであって、だれかの思惑がそれとズレているのであれば、間違っ
ているのはその他者の思惑のほう
であるべきだ。

こうした筋道を「ごく自然に」生きているのは、「ドライブミー・マー
キュリー」を歌った河辺千恵子が演じている大阪なるだ。水野亜美役と
は極性が逆であるけれど、強者である自分を無前提に加害者と決め附け
弱者である亜美ちゃんを可哀想な被害者と視る、無責任な第三者の視点
に対して「冗談じゃないよ」と啖呵を切るのがなるちゃんだ。

対するに、レイちゃんはAct.5 の一件からして亜美ちゃんの気持ちを気
遣っている。Act.4 で亜美ちゃんに言われた「仲間が怖い?」という一
言が、表面上見えている以上にレイちゃんの心に響いているのか。

以前オレはAct.5 についてのコメントで、レイちゃんのことを「うさぎ
たちとは仲間という間合いなので、亜美ちゃんとは違って友人関係につ
いては悩んではいない」と評した。多分、あのときは本当に悩んでいな
かったのだろう…というか、悩むことを自らに禁じていたのだろう。

あれから、いろんなことがあった。レイちゃんのクールな鎧をまず武装
解除させたのは、Act.8 で奮闘したホットなまこちゃんだ。二人の交流
については、以前すでに詳説したので繰り返しは避けるけれど、具体的
なセリフでレイちゃんの変化が語られたことはないものの、「仲間」と
「友だち」は別という地点から出発して、その両者をことさらに弁別す
る必要もないほどに、レイちゃんは仲間たちを友として自然に受け容れ
るようになった。

そして、レイちゃんは人間の型が亜美ちゃんと少し似ている。この二人
の立ち位置を、以前「他人との間合いの取り方で悩む亜美ちゃん」「最
初から戦いの間合いで孤立するレイちゃん」と表現した。

レイちゃんと亜美ちゃんには、普通なら自然に親和的な方向で成立させ
ることができる間合いを、他者との間に構築することができないという
共通した関係性の不全がある。ただ、レイちゃんは強くて亜美ちゃんは
弱いというだけの話で、またしても強い女の子の話になるわけだ。

レイちゃんの場合は、意図せざる自身の属性ゆえに周囲が迫害するから
孤立しているのだし、亜美ちゃんの場合は、意図せざる自身の属性に纏
わる欲得を抜きに他人が接してくれなかったために、他者を全面的に拒
絶しているから孤立しているのだ。そういうふうに表現すると、この二
人は、表面上そう見える以上によく似た孤独を分かち合っているといえ
るだろう。

レイちゃんの言葉が亜美ちゃんに対して力を持つのは、うさぎでも亜美
ちゃんでもないレイちゃんが、うさぎの理想どおりでも何でもない、醜
い心も動くリアルな一人の少女としての亜美ちゃんを「それでいい」と
受容してくれたからだろう。これまでのエピソードのすべてを通じて、
うさぎ以外に全人格を賭けて亜美ちゃんに相対してくれたのは、この場
面のレイちゃんが初めてだったのではないか。

レイちゃんは、意識的に他者と距離をとる生き方をする人間だ。それは
彼女の冷たさや堅苦しさではなく、人と人との間には、自ずから線引き
が為されるべきだという信念に基づくスタイルだろう。

人は己の思うとおりに生きるべきであって、最終的にその人の生き様を
決定するのはその人自身であり、その生き様の責任はその人自身にしか
とることができない。だから無責任な「よけいなお節介」はしたくない
のだろう。

他者の選択に対して影響力を行使すること、だれかの個人的な事柄につ
いての決定に容喙すること、レイちゃんにとって、それは他者が軽々に
為してはならない禁忌である。

レイちゃんは、最初の最初から亜美ちゃんを気遣っていたのだし、亜美
ちゃんがより良く生きられるように変化していくことを、だれよりも強
く望んでいたはずだ。だが、その自分の望みを果たすために、亜美ちゃ
んに対して何かを強制することは、レイちゃんの規範では許されないこ
とだった。

そうしたレイちゃんの生き方の型が、亜美ちゃんを巡る物語ではそここ
こに散見される。レイちゃんは、常に亜美ちゃんの心の動きに気を配っ
てきたが、だからといって何かを積極的に働きかけるということもしな
かった。うさぎを見つめる亜美ちゃんの横顔を、ただ心配そうに見守る
だけだった。それはレイちゃんの消極性ではなく、厳格な規範の求める
自律の要請だ。

オレにはレイちゃんという人間は、理にしたがって生きるという建前抜
きには成立しない人格だと思える。そうでなければ、回心の飛越に感動
が生まれない。そして、オレには、今回の亜美ちゃんのドラマそのもの
が、レイちゃんの飛越のドラマを生起させたように見える。

亜美ちゃんの独白を受けて、レイちゃんが珍しく激昂して亜美ちゃんを
一喝するのは、レイちゃんの側からいえば、またしても守るべき一線を
劇的に飛越した瞬間
であったとオレは思う。

レイちゃんが自身の言葉を「保証する」と断言する以上、それは「無責
任」な言葉ではあり得ない。赤の他人である亜美ちゃんのために、その
言葉のもたらすすべての事柄に対して、自分が全責任を持つと明言して
いるのである。

亜美ちゃんがより良く変われるために、レイちゃんもまたこの一瞬に変
わったのだ。他者の自己責任を尊重するという立ち位置から、他者と全
人格を賭けて関わり合うために、その責任を全面的に引き受けるという
立ち位置にまで一気に飛越したのだ。

思いあまって口に上せかけた「私だって」という一言は、この辺の機微
を語っているのではないだろうか。「裏表」というのは、つまり理と情
の葛藤だ。表面上クールな態度をとっているレイちゃんが、だれよりも
情熱的な内実を秘めているのは、今あらためて指摘するまでもない。

レイちゃんが、その内面にたぎる熱い情の部分を剥き出しにするのであ
れば、それに伴って厳格な理の部分も劇的なパラダイムシフトを敢行す
る必要がある。レイちゃんの「保証」という言葉には、それだけの重み
があるのだ。

これまで、うさぎを見つめる亜美ちゃんの辛そうな表情に接して、人一
倍その辛さを分かち合っていたのがレイちゃんだろう。そうした気持ち
を抑えて、ただ黙って辛さを共に味わい気遣ってあげていた。しかし、
亜美ちゃんには、すぐ側にいるレイちゃんのそんな優しい眼差しにも気
附く余裕はなかった。

うさぎの理想を裏切る自分がまったくの無価値であると断じることは、
そんなレイちゃんの気持ちもまた無価値であると断じることだ。あるが
ままの亜美ちゃんを受け容れているレイちゃんの愛情が、亜美ちゃんに
とってはまったくの無価値であるということだ。

ひるがえって、うさぎを巡って対立するなるちゃんの真っ直ぐな敵意も
また、亜美ちゃんにとっては、邪魔だという以上の何ほどの意味も持た
ないということだ。なるちゃんは、うさぎの弁護の言葉ではなく、亜美
ちゃん自身の本心から迸る気持ちを聞きたがっている。喧嘩をしかけて
いるのに、一方的ないじめにしかなっていないことに苛立っている。

亜美ちゃんはなるちゃんに激しい嫉妬を覚えていたのだが、それはなる
ちゃんだって同じことだ。この二人は、うさぎを巡ってまったく同じよ
うな辛さを味わっているのに、なるちゃんはうさぎを困らせてでも嫉妬
や苛立ちに突き動かされる自分の我を通そうとするのに対し、亜美ちゃ
んはうさぎの視る自分だけを本当の自分と視て、そうなれない自分を無
価値なものとしか視ない。客観的に視れば、それはなるちゃんの生き方
をも全否定している
のだといっていい。

亜美ちゃんにとって価値があるのは、うさぎが一人勝手に思い込んでい
る「優しすぎる亜美ちゃん」という理想像だけだ。亜美ちゃんは、うさ
ぎに応えてほしいと望むあまりに、他のだれに対しても応えていない。

ただ、それは単に亜美ちゃんに周囲が見えていないだけのことなんだ。
レイちゃんがうさぎと同じように自分を愛してくれていること、極性は
逆でも、なるちゃんもまた亜美ちゃんを一人の人間として真っ当に扱っ
てくれていること、それが見えていなかった。

レイちゃんは、自身の飛越をもってして、そうした亜美ちゃんの迷妄に
痛烈な平手打ちを喰わせたのだ。

孤独な自分に初めて温かい手を差し伸べてくれたうさぎ一人だけが、亜
美ちゃんを見つめているわけではない。うさぎのアティテュードがきっ
かけであったとしても、一度動き始めた少女たちの物語のなかで、少女
たちの眼差しは徐々に交錯し始めているのだ。

そのように考えていけば、今回の鈴村ローテの二エピソードで、執拗に
少女たちの眼差しのクローズアップが多用されている意図にも気附くは
ずだ。少女たちのぶつかり合い、すれ違い、見つめ合う眼差し。互いが
互いを視ることと視ないこと。こうした眼差しのドラマとして今回の二
エピソードは構築されている。

うさぎだけではなく、レイちゃんも、なるちゃんも、そしてまこちゃん
だって、亜美ちゃんを取り巻くすべての人たちは、一人の人間としての
亜美ちゃんを真っ直ぐに見つめてくれている。

なるちゃんが一方的に突っ掛かってくるのであれば、それに対してガチ
で喧嘩をしてやるべきだ。レイちゃんがありのままの亜美ちゃんを大切
に思ってくれているのであれば、レイちゃんがありのままの亜美ちゃん
を大切に思うその気持ちをも大切にすべきなんだ。

レイちゃんの劇的なアティテュードによって、亜美ちゃんはうさぎ以外
の人々の自分に対する眼差しの大切さをも理解した。そんな大切な眼差
しに支えられる自分だからこそ、うさぎの視線上に結像する理想という
虚像よりも、今ここに生きている醜い心も動くリアルな自分にこそ価値
がある。そんなありのままの自分でうさぎを好きでいればいい。

うさぎの理想なんて、裏切っちゃえばいいのよ。

そして、妖魔との対決のあと、四戦士が喜びを分かち合う場面には、こ
れまでの亜美ちゃんエピソードとは違っている点がある。亜美ちゃんに
課せられた課題が解決されたあとでも、うさぎと亜美ちゃんの間に肉体
的接触がなかった
ことだ。

これまでの亜美ちゃんエピソードでは、人との関係性の実感が欠落した
少女に対する非性的なニュアンスに基づく肉体的接触を繰り返し描くこ
とで、人と人が触れ合う実感の大切さを強調してきた。

今回の物語の末尾ではそれがない。最早それは必要ではない。今回うさ
ぎに気遣われているのは、風邪を押して駆け附けたまこちゃんだし、四
戦士がだれをことさらに強調することもなく等価で笑い合う、きわめて
普通のエピローグとなっている。

うさぎがすべての友人たちを等価で見つめているように、亜美ちゃんも
自分を取り巻くすべての人々を等価で見つめられればいい。うさぎと亜
美ちゃんの間の問題は、独占が不可能だったということではない。見つ
める視線の対称性が破れていること、それ自体が問題だったのだ。

レイちゃんの飛越が亜美ちゃんに対して力を持つのは、亜美ちゃんに対
して真摯な眼差しを注いでくれるのは、うさぎ一人ではないことを身を
もって示してくれたからだ。

自らが自らに課した規範を飛越してまで、確立された自分という型を毀
してまで、自分に温かい手を差し伸べてくれたレイちゃんの存在が、う
さぎと等価で大切なものに感じられたからだ。

調理室の場面で、亜美ちゃんは初めてなるちゃんを真っ直ぐに視た。そ
のうえで、自分の気持ちを正直に吐露した。なるちゃんにパートナーを
申し込み「喧嘩はしたくないけど、うさぎちゃんと組むのも譲りたくな
い。そんなに優しくないの、わたし」と語る亜美ちゃんの言葉は、もの
凄く端的に真正直だ。

喧嘩を仕掛けてくるなるちゃんに対して「喧嘩はしたくない」と応じる
のは、なるちゃんに直接向かう関心がなかったことを認め、なるちゃん
となかよくしたいからパートナーを申し込んでいるわけではないことを
最初から明らかにしている。そして、うさぎとなるちゃんがパートナー
を組んでなかよくしているのを見るのがいやだから、うさぎと組ませな
いために申し込んでいることも明言している。

だからなるちゃんは「まあ、それなら私も同じかな」と応じてくれたの
だろう。なるちゃんは、亜美ちゃんのこの言葉が、自分の課した課題に
対する誠実な回答であることを理解しているのだ。

本来、なるちゃんが亜美ちゃんに仕掛けた喧嘩は、なるちゃんの側に動
機のあるアクションであって、亜美ちゃんの側にはそれに応じる義務な
どないことだ。人には他者に対して正しくあるべき義務などない。だか
らこそ、他者に対して正しくあろうとする姿勢そのものが評価されるべ
きなんだ。

なるちゃんは、「なるちゃんが亜美ちゃんを誤解して責めている」と視
てうさぎが庇ってくれることに甘えて明確な意志表示をしなかった亜美
ちゃんの「ずるさ」がいやだったのだから、ここまで身も蓋もない意志
表示をされたら鉾を収めざるを得ない。

何よりも肝心なのは、なるちゃんは亜美ちゃんの気持ちを知りながらう
さぎを独占していても、それで理も非もなく愉しくなれるほど幼稚な人
間ではない、独占自体が目的の独占ではなかったということだ。

自分がうさぎを独り占めすることで、亜美ちゃんが嫉妬を覚えているこ
となど、なるちゃんには百も承知だったろう。そんなリアルな感情を曖
昧に取り繕う不誠実な姿勢が不快だっただけなのだ。

つまり、自分が「ずるい」と感じる人間が、自分のいちばんの親友であ
るうさぎを、そのずるさのゆえに独占している現状がいやだっただけと
いうことになるのだろう。なるちゃんが表面上うさぎを独占していたの
は、面当て的な意志表示だったということだ。

本当はなるちゃんだって、亜美ちゃんが辛い思いをしていることや、悪
意的に振る舞う自分の言動のとげとげしさが辛かったはずだ。Act.5 の
パジャマパーティにおけるなるちゃんの態度を視れば、自分たちの独占
的二者関係から他者を排除することに、それほど執着する人間ではない
ことは明らかだ。むしろ亜美ちゃんを自分たちの輪に馴染ませようと、
積極的に気遣っているくらいだ。

また、よしんばそれがいちばんの親友という自負に支えられた余裕だっ
たとしても、衛との間を積極的に取り持ったことでも、同性の友人であ
るうさぎの独占それ自体に執着する幼児的な人間ではないことが視てと
れるだろう。独占欲の強い少女というのは、一般的には親友と異性との
交際も許せないものだからね。

一方、なるちゃんは宝飾デザイナーの娘という「母親が商売人の家庭」
に育った人間であり、Act.1 で描かれたカツサンドを巡る母親との遣り
取りを視ると、どうも母子家庭で母親と支え合って生きてきたような匂
いがある。

そしてそれは、有名医の母親を持ち、父親不在の家庭のなかで、さらに
母親の不在による孤独をも堪えて生きてきた亜美ちゃんと共通する来し
方である。

この二人が、わかり合えないはずはない。

亜美ちゃんの誠実なアティテュードにあって、瞬時に「じゃ、やります
か」とわだかまりを解消できるなるちゃんの率直さは、サッパリした気
性であるという以上に、自分の課した課題に対する相手の誠意を理解で
きるだけのリテラシーと公正さがあるということだ。

つまり、ここの芝居場はがっちり噛み合っている。亜美ちゃんは、なる
ちゃんに対してなかよく接することが求められていたのではない、表面
上優しく振る舞うことで無関心を糊塗する不実を糾弾されていた
のだ。
睨み据えるなるちゃんの眼差しから、迷惑そうに視線を逸らす不誠実さ
が責められていたのだ。

だから、亜美ちゃんがなるちゃんの眼差しを受け止め、飾らない言葉を
ぶつけた瞬間にすべての葛藤は終わっているのだ。そこから何かが起こ
るとしたら、それはこれまでの関係の修復ではない。古い映画のセリフ
ではないが、それは新たな友情の始まりだ。

亜美ちゃんとなるちゃんは、今初めて、等価な一人の人間同士として互
いに見つめ合っている。なるちゃんが亜美ちゃんに向けた笑顔は、何か
に対する応えや赦しではなく、初めて向き合った見知らぬ人に対して屈
託なく差し出された親しみの手だ。

この娘には、こうした美点がある。

レイちゃんの愛情の大切さ、なるちゃんの烈しくぶつかってくる誠意の
公正さ、こうしたものに目を向けられた亜美ちゃんは、最早うさぎの視
線だけに縛られる存在ではない。他のだれが相手であれ、自分に向けら
れた温かい眼差しに対して、誠実に見つめ返すことができるようになる
だろう。

それには、もう少し時間がかかるのかもしれないが。

亜美ちゃんが手作りのクッキーを贈る相手が「ママ」であることは、そ
の意味で興味深い。一見当たり前に見えるが、友人という他者との交わ
りを通じて肉親に戻っていく愛情の連環
は、もはや出発点のままにはあ
り得ない。

その不在が亜美ちゃんの孤独の端緒をつくったであろう母親に、友人た
ちとの辛く優しい交流の結晶として、新たな友人と共に作った手作りの
クッキーを贈ること、それは孤独な娘を思い遣りながらも側にいてやれ
ない母親に対して、今の亜美ちゃんができる精一杯の近況報告だ。

これは一種、これまで描かれてきたうさぎに対する独占欲が、他者の視
る自己像への一体化や、肉体的な接触の強調も含めて、母親に対して自
分一人だけを視てほしいと願う孤独な少女の無意識の欲求の転移だった
という「意味附け」になっているのかもしれないが…いやいや、そんな
ことでは、オジサンは騙されませんよ(木亥火暴!!)。

そして、物語は円満に幕を閉じるのだが、差し引き勘定として残るのは
守るべき一線を飛越したレイちゃんの激情だ。

こうして、終わった物語は新たな物語を紡ぎ出していく。

終わりは、新たな始まりなのだ。

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Act.17 がっかりだわっ!

日頃は八百万の神の御霊を前に「かけまくもかしこみて(中略)祓った
ま、浄ったま」と拝んでいるレイちゃんだが、お母さんはクリスチャン
だったのか、何やら無闇に複雑な宗教事情だのう。父親は政治家だとい
うから、おそらく政党は…いやいや(木亥火暴!!)。

前回の予告で墓前に額ずくレイちゃんの姿を見ても、それが母親の墓参
だと気附かなかったのだから、オレも勘働きの鈍いことだ。まあ、神社
の巫女さんの母親が、まさか教会に葬られているとはちょっと想像が附
かなかっただけなんだが。

浅学にして、教会建築や典礼の様式に詳しくないので、パッと見た感じ
ではわからなかったのだが、OPのクレジットで「神父」という表記が
あるから、カソリックの教会ということになる。まあ、実際には「ウェ
ディングパーク高崎
のセント・リュミエール・チャーチ」という「結婚
式場」らしいのだが(木亥火暴!!)。

…つか、結婚式場前の舗道に墓石積んで撮影したのかよ、なんつー縁起
でもない奴等だ…つか、断れよウェディングパーク高崎(木亥火暴!!)。
いくら作り物とはいえ、墓石積んだとこに参列者を並ばせて門出のライ
スシャワーを降らせる
つもりかよ(木亥火暴!!)。

閑話休題。実写版でも火川神社の神主がレイちゃんの「お祖父さん」だ
とすれば、父親の父親なのか母親の父親なのか、これがずっと疑問だっ
たのだが、この辺はネットでざっと調べてもわからなかった。

今回母親が教会の墓地に葬られていることが判明して、教会の墓地に墓
を建てられるのは信者だけだそうだから、母方の血筋ではない可能性が
強くなったが、母親個人が受洗しただけかもしれないので、依然として
予断は許さない。

まあ、レイちゃんの母親というとオレと同世代だろうから、キリスト教
系の新宗教でもないオーセンティックなカソリシズムに、個人で入信す
るような時代ではなかったとは思うけどな。

また、母方だ父方だという以前に、Act.8 の当該場面のセリフを確認す
ると、「神社に預けた」とは言っているが「お祖父さんの神社」とは一
言も言っていない。しかも、これまで火川神社が舞台になったエピソー
ドでも、お祖父さんらしい人物が画面に現れたことは一度もない。

実写版のレイちゃんが父親の棄児であるという印象は、ひとえに画面上
に温かい保護者の姿がないことに起因しているので、ここは気になると
ころではある。

どちらの血統であれ、火川神社の神主がお祖父さんであれば、レイちゃ
ん自身は母親の臨終を看取っているようなので、母親の死後、男手で娘
を育てることを断念した父親が、里方に預けただけということになる。
そうだとすれば、レイちゃんの言う「私の持ってる力が嫌いなの」「だ
から神社に預けたの」というセリフは、レイちゃんの思い込みである可
能性もある。

しかし、現在の火川神社の描写では、実際には神主がいるにせよ、レイ
ちゃんが独りで神社のきりもりをしているように見えるので、他家の釜
の飯を喰わされているような印象になる。父親が自分に代わる存在とし
て自分の父親に娘を託したという印象はない。

しかも母親がクリスチャンとくれば、なんか相当複雑なご家庭事情でも
あったのかと思えてしまうな。こうなりゃ、火川父には西田健でも持っ
てこないと納まりが附かないぞ(木亥火暴!!)。

さて、どうにもこうにもコメントしづらいエピソードだったので、小ネ
タの枕を延々引っ張ったわけだが、そろそろ本題に入るとしようか。

これは先入観なのかもしれないが、どうも今回の佐藤演出、撮影監督が
変わっていないのにいつものセーラームーンの絵になっていない印象。
細かいことを論じるには材料が少なすぎるが、ライダーならこれで通る
かもしれないとして、たとえばロケ地の選び方や画角の切り方がいつも
の十番町ではないように見える。

それは、たとえばクライマックスのロケ撮影が、バスケットリングや球
技コートのマーキングを隠そうともしない「あからさまに体育館」だっ
たことに象徴される「見立て」の粗雑さだけを指しているのではない。

たとえば、冒頭でうさぎが街頭を彷徨う場面、ドン引きの薄汚くゴミゴ
ミした町並みのロングからうさぎに寄るのは、技法そのものを単体で視
れば「人混みのなかの孤独」というオーソドックスな描写ではあるのだ
が、絵面の印象でいえば、いつもの十番町の「セットの端が見切れた」
ような不快感を覚えた。

逆にいえば、いつもは現実の街角の汚い部分やリアルな細部が映らない
ように気を遣ってロケ地を選択し、画角に不自由な制約を課していたん
だなと、あらためて気附かされた。そんな細かな気遣いによって成立し
ている作品世界なのに、お馴染みのダイエーのマークや駐輪場にゴミゴ
ミと詰め込まれたママチャリの汚さ、そんな町場のリアリティをこの番
組に持ち込んでくれと、だれが頼んだのか。

そういえば、前回のエピローグでうさぎが衛と婚約者(仮)を目撃する
場面の、ゴタゴタと看板や電柱が立て込んだ裏町の汚さが気にはなって
いたのだが、今回のエピソードのロケーション撮影のセンスを視るに、
これも佐藤班の撮影だったのでは、という気がしてきた。

このエピローグ以外の場面のロケーション撮影のセンスと、ちょっと断
絶があるような気がするし、鈴村個人の拘りに満ちた映像感覚にもそぐ
わないような気がする。お坊ちゃまの住んでいる高級マンションの玄関
先が、汚い裏町だというのは、ちょっと鈴村のセンスともこの番組のテ
イストとも合わない下世話なリアリティではないだろうか。

そこからの連続上の芝居が今回のアバンでも続いているので、満更根拠
のない憶測でもないと思う。いつの頃からかこの番組では、昔の一話完
結連続ものの洋テレのように、エピローグで次回への引きを設けるのが
通例となっているが、監督ローテをまたぐ場合は、いつもおおむね、芝
居が分割されていることはなく引きは引きだけで完結しているようだ。

今回のように引きの連続上の芝居が次回に持ち越されている場合は、も
しかして、次回の監督が撮影した素材を、引きとしてつないでいるのか
もしれないね。アバンの編集も含めて、こうした組単位の引き継ぎの部
分で、だれがどのように作業しているのか、もっとバックステージの情
報があるといいんだけどね。

話を戻すと、戦士たちがレイちゃんのピンチに駆け附ける場面でも、都
電をナメるのは、個々の監督の嗜好に基づく情景描写の手癖というには
ちょっと行き過ぎだろうと思う。具体的に「都電荒川線三ノ輪橋行」と
地名が出ちゃうのでは、あまりにもこの番組でいう十番町、すなわち原
作・アニメでいう麻布十番とは縁もゆかりもなさすぎではないか。

どうも佐藤監督、この番組の作品世界が「TOKYOの(麻布)十番」
という非現実的な架空の街のなかで完結している、という機微がわかっ
ていないのではないだろうか。そこが少し、同じ外部監督のたかまると
似ている部分じゃないかと思うので、ちょっと不安を覚えた次第。

同じ外部監督でも、舞原監督なら問わず語らずしてしっかりわかってい
る部分だが、彼のほうが特殊な例なんだろうな。

そのつもりになって観ると、衛と婚約者(仮)がタンデムするバイクが
うさぎの眼前を横切る場面を三回も繰り返すくどさは、ちょっとたかま
るを思い出させる(木亥火暴!!)。

それに、多分バンクだから摘んでもいいやと思ったのかもしれないが、
これまでピンでメイクアップすることが少なかったレイちゃんなのだか
ら、久しぶりの主役エピソードではじっくり変身バンクが観たかった。
そういう特ヲタの心情の機微を理解していないところも、ちょっとたか
まるチック…いやいや、縁起でもない邪推はよそう。

この世の中に、たかまるはたった一人でいい(木亥火暴!!)。

つか、その一人すら要らない(木亥火暴!!)

俳優への芝居の附け方については、未だ美奈子の側の事情の詳細も、衛
の婚約者(仮)ネタも具体的に語られていないので、組み立ての当否は
わからない。今では、小松も含めて個々の女優が役柄をしっかり掴んで
いるだろうから、役者たちの勘働きでそうそう間違った方向に転ぶとは
思えないが、やっぱりこれは、Act.18の顛末を見届けてから論じるべき
事柄だろう。

現時点で、非常に感覚的に話をするとしたら、たとえばこれまで、安座
間をも軽く凌いでしまう超絶的な棒読みぶりのみが突出していた印象の
小松だが、自らの安否を気遣って妖魔を取り逃がしたレイちゃんを一喝
する場面の芝居は、セリフも表情もこれまでの美奈子とは思えないくら
いいいよな。こういうふうに甲走ったセリフを聞くと、顔だけじゃなく
声まで安達祐実に似ているような気がする。

…いや、安達祐実に似てるからいいってわけではないが(木亥火暴!!)。

全体に今回のエピソードでは、これまでのように、何となくセリフから
想像される表情を漠然とつくっているような芝居ではなく、表情のつく
り方に意志的な芯が通ってきたように感じる。予告のセリフから推察す
るに、今回の佐藤ローテのエピソードでは、美奈子の側の事情の一端が
割合明確に開示されるようなので、感情移入しやすくなったということ
もあるのかもしれない。

行き倒れの迷い犬を看病しながら、「いろいろ考えられるから…いろい
ろ…」と呟いた表情は、予告から推察される美奈子の側の事情を想像さ
せて、曖昧ではなく意図的な芝居になっていたと思う。総じて、美奈子
の芝居については今回かなりレベルが底上げされたような印象なので、
それだけでも佐藤演出の手柄ととっていいかもしれない。

美奈子から叱責されて呆然とするレイちゃんの気弱げな表情も、整合性
がどうこうという以前に、日頃の勝ち気な表情との落差からくる色気が
あって、火星人的にはグッと来る(木亥火暴!!)。

芝居の整合ということでいえば、前回のエピソードのクライマックスで
従来の一線を越えて亜美ちゃんに関わってしまったこと、そして、その
飛越が今回は美奈子に戦士としての未熟さと一喝されたことで、思わず
ひるんでしまったという流れには、一応の筋道が通る。

気になるのは、その感情の間合いから立ち直って美奈子を睨み据えたあ
と、次回のアバンでどういうセリフの芝居場になるかだ。そこの遣り取
りの内容次第で、ここでレイちゃんがたじろいだことが活きるか死ぬか
が決まってくる
だろう。

前回以前のレイちゃんの言動の型では、ここで美奈子に反論する論旨の
見当が附かない。それこそ美奈子と同じことを言いそうなのが出発点に
おけるレイちゃんだったはずで、それがこれまでの物語を経てどう変遷
してきたのか、次回へ持ち越された美奈・レイ対決のキモはそこにある
だろう。

少なくともレイちゃんは前回いきなり変わったわけではなく、内的な変
遷のタメを経て、外的な言動の飛越があったはずだが、これまでそれが
表で描かれることはなかった。前回の亜美ちゃんとの経緯を経て、レイ
ちゃんがどう変わったのかは、次回に判断を譲るしかないだろう。

ただ、これはレイちゃんの知らないことだが、この場で美奈子がメイク
アップしてしまったのは、レイちゃんの危機を見過ごすことができなく
て、アルテミスの制止を振り切って変身しているという事情がある。

戦士なら自分を放置して妖魔を追うべきだという美奈子の論理は、レイ
ちゃんを見捨てることになっても彼女の眼前で変身するな、今の体調で
戦うことは無理だというアルテミスの論理とそっくり重なる。他者の安
否を気遣うことなく敵の殲滅を優先せよというのであれば、他者の危機
よりも自らの使命と保身を優先せよという指示にも遵うべきだった。

ならば、この場でレイちゃんを一喝した美奈子の論理は、戦士ならかく
あるべしという冷酷な建前とは違う動機に基づいて言われていると視る
こともできる。

つまり、ここで美奈子が予定外に自身の正体を明かしてでも、レイちゃ
んの危機を救うために変身したのは、そして自分を見捨てて妖魔を追え
と迫ったのは、一種の自己犠牲だということだ。

そこで気になるのは、アルテミスが終始美奈子の体調を気遣っているこ
と、なぜか今回になって強調される「美奈子病気説」、そして予告で呟
く「あと半年」のセリフだろう。だとしたら、冒頭で美奈子が現れる場
面が水を飲むところだったのは、薬を服んでいたのだということだ。

母の墓参というレイちゃんの事情は明らかになっているが、美奈子がな
ぜ好んで教会に来るのか、こういう流れで視ると大いに示唆的だ。

この推測が当たっているのなら、一頭の犬を看病する二人の少女は、そ
れぞれその犬を「棄てられた犬」「病気の犬」として自分と重ねて視て
いたことになるだろう。

それぞれ一頭の犬の別々の側面を視ていたとはいえ、ここで二人の少女
の心は自然に寄り添っている。一方は一方をセーラー戦士と知っており
他方はそうではないが、美奈子が冷静に素顔のレイちゃんを観察してい
たというニュアンスは薄い。

この場面で寄り添った二人の少女は、クライマックスと次回予告では厳
しく対立している。共に登場エピソードをたかまるに台無しにされた間
柄なんだから、もうちょっとなかよくすればいいのに(木亥火暴!!)。

ただ、Act.11Act.12ではハッキリしなかった美奈子の物語が、このよ
うなシリアスなものであったことがわかってみれば、うさぎを除いて最
初に美奈子と対決するのがレイちゃんであることには納得がいく。この
美奈子と同列のテンションで烈しく相対することができるのは、四人の
なかでレイちゃんを措いて他にはないからな。

戦士としての戦いに死命を賭すというニュアンスが漂うのは、四人のな
かでレイちゃんしかいない。Act.10の戦闘でうさぎを庇って妖魔の攻撃
を喰らう場面では、レイちゃんにはこういう運命の型が用意されている
のではないかという予感を強くして、少し不安になったくらいだ。

美奈子の側の一命に纏わる事情が開示されるエピソードで、それを視聴
者が知ったうえで同列で対決できるのは、一種レイちゃんだけだろう。
この二人の少女の物語が、次回どういう決着をみるのか、今から愉しみ
にさせてもらおう。

それでは、大筋の話はこれくらいに切り上げて、小ネタを少々。

つか、うさ・まもラブラブなんて小ネタだ、小ネタ。ある種、うさ・ま
も話がクローズアップされると話がスプリットするお約束は今回も健在
で、夜の街を彷徨ううさぎの姿を、わざわざ体育館の戦闘の時制を合わ
せてまでカットバックさせたのは、佐藤監督のセンスなのだろうか。

いきなり日が暮れたのは、うさぎの側だけではなく、よく視ると体育館
の外も真っ暗になっている。衛&婚約者(仮)との遭遇のあと、うさぎ
が街を彷徨うのは是非とも夜景でないといけないと考えたのか。

体育館の外が暗いのは、ここでうさぎの姿をカットバックさせることで
同時性を強調し、スプリットの印象を弱めようという計算かもしれず、
うさぎを夜の街に彷徨わせるために、遡って体育館のほうも夜にする必
要があったのかもしれない。

しかし、現実として割れてるものはどうしようもない(木亥火暴!!)。

むしろ、いきなり日が暮れたという印象がよけいに強くなっただけで、
あんまり得策ではなかったような気がする。まあ、次回に引いた脚本の
流れがよくわからないから、軽々に断ずるべきではないと思うが。

それから、今回のエピソードで衛&婚約者(仮)の件で悩むうさぎを気
遣うのがまこちゃんであるのはAct.9 で残された宿題だったので、疑義
を呈した人間としては大いに満足だ。それこそ、現実的な事情で犯した
一種のミスを後々のエピソードでフォローする小林靖子の律儀さが、今
回も発揮されたわけだ。

今回のエピソードでは、まこちゃんのセリフで「とにかく泥棒ってのが
だめなんだ」「哀しい思いをするから」と具体的に語っているが、タキ
シード仮面の「泥棒」という側面に一貫して注意を向けてきたまこちゃ
んの言葉の真意が、これでハッキリした。

こういう筋道であれば、同じ「うさぎの気持ちを大事にする」という機
微であっても、犯罪者を愛することで痍附くことを危惧したというふう
に解釈でき、これまでのまこちゃん像とギリギリ整合が附く。

OA前後のチャットでも話題に上ったのだが、どうも小林靖子は、本来
得意とするはずのドモン型キャラであるまこちゃんを動かすのに、なん
となく苦戦している節
がある。

それは、ドモンが孤独な少女にアダプトされる過程で、木野まこと像と
してすり合わせるのに予想外の困難が生じたからなのかもしれない。そ
れが証拠に、登場回のAct.6Act.8のレイちゃんエピソードを除けば、
まこちゃん主役エピソードは一本もない。

それは、本来ドモンタイプのキャラ類型にも安座間美優本人の柄にも、
孤独を託つというニュアンスが極端に薄いからだろう。よし孤独であっ
たとしても、それが主要な悩みとなるような人物として描くには、少し
無理がある。

暴力事件の噂、両親の事故死、惚れっぽさ、自らの女性性への違和、一
応表面上提示されているまこちゃん側の孤独の事情は、どれ一つをとっ
てみても、今現在確立されているまこちゃんの柄とすり合わせて描くの
が難しい。

Act.6 のコメントで触れたことだが、そうした孤独の理由附けが曖昧で
あったために、孤独の埋め合わせ方も四戦士中いちばん智慧のない決着
であった。

今回ローテの二話では、主にまこちゃんがうさぎの面倒を看るようで、
Act.9 のツケは十二分に払われる予感だが、まだまだ小林靖子に課せら
れたまこちゃんを巡る宿題は山積しているといえるだろう。

…というわけで、一渉りの要素を視てきたので、それではそろそろ最後
の御馳走にとっておいた、美奈子の変身バンクの件に触れるとしましょ
うかね(木亥火暴!!)。

まあ、一言で言って、佛田くん、やりすぎ(木亥火暴!!)。

現状では美奈子がプリンセスということになっているので、美奈子のバ
ンクだけ特別に凝っているのも仕方ないという気もするが、他の三戦士
とビデオ素材の質感が不統一なのはちょっとなぁ。F効果の掛け方が緩
くてあまりにもビデオっぽい質感になっているのは、かなり気になると
ころ。だな(木亥火暴!!)。そうだね(木亥火暴!!)。

G-Rockets の中の人たちがウロウロするのは「ヴィーナス誕生」の天使
という見立てなのだろうが、AOLのお節介な黄色いヒトを思い出して
ちょっと笑ってしまいますた(木亥火暴!!)。

まあそういう部分を除けば、BGMも美奈子っぽくて可愛いし、本人の
レオタード姿がこれだけハッキリ長めに映ってるバンクはこれだけなの
で、ちょっと得した気分になる(木亥火暴!!)。

質感やコンテの方向性が他の四戦士とかなり違うので、たとえば今後、
美奈子と他の戦士の変身が分割画面で登場することがあるとして、どう
いうふうにイメージを統一するのかという疑問もないではない。

ああそれから、今回のクライマックスで美奈子が「待ちなさい!」と叫
んだことを受けて、「だめ、逃げて!」とパンピーを気遣うレイちゃん
が見られたことで、たかまる演出のAct.34で汚点として残された「ヘ
タレなレイちゃん」像の口直しができたよ(木亥火暴!!)。

|

Act.18 もっとがっかりだわっ!

どうもオレは、佐藤演出とは肌合いが合わないらしい。

明るい場面でハイキー気味に白く飛ばした映像が印象的な佐藤監督の絵
づくりだが、そのメリハリのためか暗い場面では若干ローキー気味で、
陰翳部の黒味を強調するような絵が目立つ。それが、どうにもこの作品
の世界観に合っていないように感じるし、十代の少女の美しい瞬間を切
り取るやり方としてベストであるとはとうてい思えない。

美奈子はファッションリーダー的なアイドルという設定なので、他の少
女たちとは違って、普段から少し派手なメイクをしている。そして、前
回のたかまるローテのときもそうだったんだが、撮りようによっては、
ローティーンの少女が派手なメイクをしている絵面が、どうにも汚く見
える
瞬間がある。

こういう機微については、佐藤監督のローキー気味の絵づくりがマイナ
スに働いたきらいがあったんではないかという気がする。ことにクロー
ズアップでは、陰翳を強調するような絵作りは、ファンデーションの粒
子感などメイクそれ自体の質感を際立たせ、稚ない顔立ちに人工的に色
を乗せていることの不自然さが印象附けられてしまう。

こういう照明の当て方は、大人の女性ならそれなりの雰囲気になるのだ
ろうが、少女の場合は「ねずみっ子ドラマ」のような畸型的な印象を与
えると思う…つか、「ねずみっ子」だれも知らんのか? ほら、宮澤寿
梨がメジャーデビューした生ダラの企画ユニットだよ(木亥火暴!!)。

また前回は、ロケーション撮影のセンスを除けば、芝居の呼吸について
そんなに不満を感じることはなかったんだが、今回については、脚本の
智慧のなさも手伝って、どこも演出上のチャームを感じるような部分は
なかった。

なによりも、前回期待したレイちゃんと美奈子のぶつかり合いが、単純
な幼児レベルの厭味の応酬
で、しかも肩を怒らせムダに大声を張り上げ
て罵り合うような芝居になっているのが耐え難かった。総じて、前回の
エピソードで「ここだけは拾い所」と思っていた部分が、脚本・演出含
めてほぼ全滅という印象を覚えた。

前回見直した美奈子の芝居も、今回は力点の置き所を見出せないかのよ
うないつもの曖昧さに逆戻り。東北人ならではの滑舌の悪さは相変わら
ずなので、単に腹から声が出るようになったことだけが、それなりに進
歩として残った程度。

公平な言い方をすれば、今回のローテは、小林靖子にとっても佐藤健光
監督にとっても不運な巡り合わせだったと思う。

外様の佐藤監督にしてみれば、初めてこの番組とがっぷり四つに組む今
回のローテで、「ライダーより難しいってことはあるめぇ」と踏んだベ
テランフリーランサーの度肝を抜くくらい、与えられた脚本が突き抜け
た出来であったら、自ずから居住まいを正していたのではないか。

しかし、どうにもこのローテの二話は、脚本が弱い。

ことに今回のエピソードでは、いつもなら調子の悪いときでも感じられ
るような、小林靖子ならではの智慧がいっさい感じられなかった。セリ
フはほぼ言葉どおりの内容を語っているにすぎず、全体の構成も、緊密
な意味連鎖によって1+1を3にも4にも膨らませるいつもの小林節の
片鱗も見られなかった。

たとえば、舞原賢三が外様監督でありながら田崎去りし後のセラムンを
背負って立つ守護神として在るのは、彼が初めて手にした脚本がAct.5
だったからなのかもしれない。あの脚本を前にして、襟を正さない演出
家は素人だ。だから、Act.3 の脚本を渡されて、のめのめとあの程度の
作物を残した高丸雅隆は(以下略)。

そして、セラムンにおける舞原賢三は、オレたちが円谷映像の諸作品や
スーパー戦隊の演出を通じて知っている舞原賢三とはまるで別人だ。そ
のエピソードを舞原賢三が演出しているというだけで、一定レベル以上
の感動が約束されている。

そして、舞原賢三は、元からこういう監督だったのではなく、こういう
監督になった
のだ。非礼を承知でいえば、フリーランサーとしての処世
のなかで、対価に見合うアウトプットレベルとしてキープしていた一線
が、軽く底上げされてしまったのだ。舞原賢三の持つ潜在力のすべてが
この番組では余すところなく発揮されている。

すでに職業人としての手業のスタイルを確立していた舞原賢三というフ
リーランサーをして、まったく違う人間にしてしまうほどに、智慧ある
物語の持つ人を打つ力は強い。

その意味で、今回ローテの脚本は、アギトの番外編や龍騎で何度も組ん
だ相手とはいえ、ライダーのような意図的に大味に仕立てられた単純な
ドラマを小林靖子の持ち味と解している相手に対して、別人のように精
緻なドラマを紡ぎ出す「本気モードの小林靖子」を印象附けるには隙が
ありすぎたと思う。

番組の映像的な基調を理解しないガサツなオサーン的センスはさておく
として、芝居の演出に関しては豊富な経験を持つ職業監督を本気にさせ
られなかったという意味では、小林脚本にも大きな責任がある。今回の
ローテの二話では、ライダーの一エピソードと選ぶところのない大味な
語り口
に堕している。

説明のための説明をルナやアルテミスにベラベラ喋らせる芸のなさにも
ゲンナリだが、先ほども触れたレイ・美奈対決の子どもの喧嘩が、二者
間の立ち位置の違いを効果的に剔抉する芝居場として描けていたら、後
半の子どもっぽい張り合いにも相応の意味が出てきていたはず。ここが
ただの口先の厭味にしかなっていないから、徹頭徹尾この二人の対立は
子どもっぽい反感に基づくじゃれ合いと規定されてしまった。

はっきりいって、レイちゃんと美奈子は、亜美ちゃんとなるちゃんより
も作品世界のなかで背負っているものが重いはずなのに、亜美・なるの
対立よりもレイ・美奈の対立のほうがチンケな小娘の口喧嘩にすぎない
というのは、どう考えても納得の行くものではない。

プリンセスなのに、随分子どもっぽい張り合い方をするのね」「負け
ず嫌いなの
」という遣り合いに至っては、あいたたたた、である。

そのまんまじゃん(木亥火暴!!)

裏も表もなく、ホントに子どもっぽい遣り取りに堕している。どれだけ
注意深くこの二人の会話に耳を済ませても、幼稚な反撥に基づく口喧嘩
以上の意味性が立ち上がってこない。

理詰めの鎧の下に熱い情熱を隠し持つ炎の戦士であるレイちゃんが、プ
リンセスの理不尽な叱責に返した一言が「おもり」という言葉に込めた
嘲笑だというのが、あまりにも底が浅い。美奈子がレイちゃんに張り合
うのが、その嘲笑に腹を立てたからだというのが負けずに浅い。

お互いの立ち位置が絶対的に相容れないから対立しているのではなく、
単にふとしたきっかけで、小娘同士の気持ちの反りが合わなくなったか
ら対立しているだけだ。美奈子がヴィーナスに変身したのも、マーズが
妖魔を追わなかったのも、ともに互いを助けるためであることが唯一の
救いではあるが、それを踏まえたとしても、ここの芝居場の段取りは決
定的に間違っている。

ヴィーナスとマーズの姿に窶し使命を巡って相争う以上、ここで対立し
ているのは、中2の小娘同士ではなく、プリンセスの影武者と戦士団中
の実力者でなくてはならないはず
ではないのか。四戦士のなかで最も強
力なリーダーシップをとれるレイちゃんと、五人のなかで最も戦いの全
貌を知り得る立場で命を削って戦う美奈子の、ある意味頂上対決となる
ダイアログがこれかよ、という失望が拭い去れない。

「プリンセス」「マーズ」と呼び合うヴィーナスVSマーズの対立が、
週をまたいだだけで、いつの間にか火野レイと愛野美奈子という二人の
等身大の少女の対立にすり替わっている
。ここには、決定的なつくり手
の「勘違い」がある。

「あと半年…か」というセリフが暗示するシリアスな宿命を背負う美奈
子と、周囲の迫害と戦いつつも理を通すことに賭けてきたレイちゃん、
この二人がヴィーナスとマーズの役割上において対立するからには、お
互いの個人的事情を知らないことで成立する、相容れない劇的な立ち位
置の違いがあるはずだ。この二人がぶつかり合うことで生起する、劇的
なドラマがあり得たはずだ。

それが、子どもの口喧嘩なのかよ。

こういう「おまえの母ちゃん出ベソ」レベルの罵り合いは、それこそラ
イダーでお腹一杯だ。

クライマックスの共闘で二人の間に何某かの理解が成立したのだとして
も、対立自体に何らの意味性もないのであれば、「なかよくなって、よ
かったね」という、みみっちい対価しか得られない。

自分を見捨ててでも妖魔を倒すべきという苛烈なヴィーナスの主張と、
見捨てられずにその場に留まったマーズの対立を描くのでも、美奈子の
抱える事情とレイちゃんが経験した仲間との交流との間に、まったく有
機的な意味連鎖を設けずに、「他人となかよくなると辛い思いをさせて
しまうから」という意味附けによって口先だけの主張としてしまったこ
とで、全体のドラマが薄っぺらなものとなったきらいは否めない。

ヴィーナスがどんな苛烈な言辞を弄しても、その意味附けのゆえに、単
なる「憎まれ口」としてしか響いてこない。しかし、ヴィーナス=美奈
子が抱えると推定される事情を考えると、ヴィーナスの主張が苛烈であ
ることには、彼女の立ち位置ならではの譲れない真実があるはずだ。

それが全部「泣いた赤鬼」レベルの「憎まれ口」だとしてしまうのであ
れば、小林靖子の作物としてこんなにもったいないことはない。どうし
て他の四戦士役者…なかんずく浜千咲辺りと比べて、女優・小松彩夏は
こうも運が悪いのか。

前回のエピソードの端々で発揮された、小松の芝居の「真実らしさ」を
視る限り、彼女にもヴィーナス=美奈子としての人生を劇的に生き得る
チャンスは等分にあったはずなのに。

娯楽番組としての完成度を抜きにいえば、Act.1516が小林靖子の目指
すリアリティの極北を一瞬垣間見せる域に達していたからには、そこで
力尽きたのだという見方もできる…にしても、惜しい。

今回の二エピソードに潜在するテーマは、一人の少女の友情に纏わる成
長物語よりも、ある意味では重いものであったはずだ。それは、作家の
興味の在処としてこれよりもあれに入れ込めたから、というには、客観
的なシリーズ構成上の軽重が決しすぎている。

ここまでのエピソード群を独力で構築してきた小林靖子の力量には敬服
するが、それでもこのローテの二話が空前絶後の低調ぶりだったという
印象は拭えない。番組の世界観を理解していない佐藤監督に対しても、
不親切な邂逅となったのではなかったか。

果たされた宿題かと思わせたまこちゃんの態度も「まったく意外すぎだ
よ、嫌ってると思ってたのに」という智慧のないセリフによって台無し
になっている…つか、気附けよ(木亥火暴!!)。

たしかにまこちゃんは、これまでの扱われ方の不遇さもあって、うさぎ
と衛が直接相対している場面に遭遇する機会がほとんどなかった。しか
し、その少ない機会の一つである登場編直後のAct.7 で見せた勘の鋭い
ところからすれば、日頃うさぎが口にする衛に関する噂話の口調から、
薄々うさぎの気持ちに…そうだな、本人がそれと意識する以前から感附
いていても不思議はない。

たとえばまこちゃんにとって馴染みの薄い相手である衛を好きだという
のが「意外だ」というのは不自然でなくても、そのあとに「嫌ってると
思ってたのに」と続けている以上、「嫌ってる」と判断するからには、
衛についての話をうさぎ自身の口から頻繁に聞いているはずだと考えら
れるだろう。

とすれば、ここ数話の流れのなかで、タキとの絡みについては「禁止」
の件があるから黙っていただろうし、Act.13の衛との「デート」につい
ても差し障りがあるから内緒にしていたとしても、うさぎの性格からし
て衛の話が普段の会話の端々に出ただろうと考えるのが自然だし、その
口調は最初の頃のものとは大分違ったニュアンスになっていたはずだ。

あるいは、ギリギリここ数話の接近を受けて衛の話をしないようになっ
ていたとしても、今まで散々悪口を言っていた衛の話をまったくしなく
なったのは不自然だ。いずれにせよ、衛に関してうさぎの言動に不審な
点が出てくるわけだ。

こういうふうに具体的に想定すると、「またおまえの妄想か」というこ
とになるが、大雑把にいって、脇の甘いうさぎの性格なら、男を好きに
なったらアカラサマに態度に表れるだろうと考えるのが自然だし、まこ
ちゃんならそれに気附くだろうと考えるのもまた自然だ。

いや、最低限、気附かなくたっていいんだけれど、その「まこちゃんは
気附かなった」とする選択が自然なものと受け入れ得るか、そうでなけ
ればならない他の要素との関連性はあるのか、最終的には、まこちゃん
を描写するうえでプラスなのかマイナスなのか、という話だ。

それが、オレの感覚ではすべて「NO」だということなんだな。この選
択は、それ単体としては消極的な意味に留まるとはいえ、あらゆる意味
で間違った選択だったと思う。大局的な見地では、まこちゃんの人物像
を揺らがせる大きな要素としてマイナスに機能するのだから。

しかも、タキへの接近を「禁止」した理由附けとして、せっかく「哀し
い思いをするから」という「まこちゃんらしさ」を用意したのに、軽率
に衛への接近を焚き附けるという流れによって、その智慧もまた台無し
になっている。

たとえば「とにかく泥棒ってのがだめなんだ」というセリフが効いてく
るのは、まこちゃんに、泥棒相手の恋愛がどんな結末を招くか、どのよ
うな結果に終わるかをまざまざと実感し得る想像力や類似の経験がある
ことが前提となるのであって、だれでも言いそうな単なる一般論にすぎ
ないのなら、薄っぺらなお節介にしかならない。

まこちゃんはお節介ではあっても、これほど度々強調して他人への禁止
の容喙を繰り返すからには、薄っぺらな意味でだけはなかったはずだ。
だとすれば、彼女がいるとわかっている相手に対して、「どの程度の間
柄かわからない」時点でぶつかってみろと焚き附けるのは、この種の想
像力や経験が欠落した、それこそ薄っぺらなお節介としか思えない。

その場では焚き附けることなく黙っていて、あとで衛と陽菜の身辺を調
査して、その結果如何で考えるというのならまだ話はわかるのだが、最
初に背中を押しておいて、いざ調査してみたら全然無理筋だったんで言
いあぐねてしまう、という筋道なのが、どうにも薄っぺらに見える。

もの凄くリアルなことをいえば、たとえば衛と陽菜の間にすでに子ども
が生まれていたとしたら、いったいどうするつもりだったんだ。そこま
では行かなくとも、この二人が今現在生活を共にしているとしたらどう
するんだ。泥棒でさえなければ、片恋をしても痍附かないなんてことは
あり得ないんだ。

番組の基調を無視した極端なたとえだと思われるかもしれないが、「オ
レは陽菜を裏切れない」というくらい、露骨に男女の愛欲の三角関係
してこの三者関係を規定してしまった以上、ステディな女性がいる男性
に同じ土俵で勝負を挑む場合、どんなに生臭い現実に打ちのめされても
文句は言えないものだ。

そして男と女の関係を規定する現実的な事情に対して、親掛かりの女子
中学生が、その関係を変更し得るような実効的なアクションをとること
など、まずもって不可能だ。

考えてもみろ、親の金で親の家の子として飯を喰わせてもらっている女
子中学生が、たとえば今現在同棲している男女を別れさせて、男を横取
りできると思うか。たとえばこの二人の間に子どもがいたとしたら、そ
の子どもを女に圧し附けて、別れた男と幸せな恋をすることが、本当に
できると思うのか。

こういう事情のゆえに恋が破れることが、たとえば相手が泥棒だから最
終的に官憲に捕らわれることで悲劇的な結末を迎えるという想像より、
どの程度マシだというのか。断るまでもないが、上記の例は、衛と陽菜
の年頃の男女の現実にはいくらもある、ありふれた想像にすぎない。

現今のリアリティでいえば、高校生にもなる男女の間で「婚約者みたい
なもの」と規定されている関係、それは、親公認で性的な交渉が視野に
入ってしまう
ということだ。この生臭い男女関係の最中に、こういうリ
アリティレベルの作品において、中学生の少女が「好きだ」という気持
ちだけをよすがに割り込むことがいかに難しいか、それは今さらくだく
だしく説明するまでもないだろう。

それこそ、高校生の男が義務教育の女子中学生を相手にガチの恋愛をす
ることの生臭さが前面に出てしまう。

泥棒への恋が招く悲劇的結末に想像が及ぶのであれば、それ以前にこう
いうごく当たり前の男女の機微に想像が及んで然るべきだ。なぜなら、
まこちゃんがこういう生臭い性的な問題に関して疎いとはとうてい思え
ないからだな。

たとえ、恋する気持ちが初心な少女のナイーヴな妄想を許容するとして
も、失恋に至るプロセスは現実そのものでなければならない。まこちゃ
んの男女の機微に聡い部分が、豊富な失恋経験に培われた洞察力の賜物
であるとするならば、本来そこに性的な問題への想像力の欠如など入り
込む余地などはない。

性的な問題も含めた身も蓋もない生臭い現実に打ちのめされた経験を抜
きに、この種の洞察力が獲得できるものではないからだ。それが表面化
しないのは、単に作品のカラーやリアリティのレベルとして、それをあ
からさまに語ることが憚られるという実際的な作劇の都合でしかない。

だから、泥棒相手の恋は「禁止」するけれど、彼女のいる相手への片恋
なら無条件に応援するというのは、人物描写として非常に矛盾した話
んだな。女児を相手の朝方の番組だから、正面切って言わないだけの話
で、泥棒相手の恋が辛い結末を迎えると想像できる少女が、彼女のいる
年上の男性への片恋を無責任に煽れるはずがないんだ。

他の部分でいかに鈍いところを見せようと、昼メロ演出で情念ドロドロ
の男女の愛欲の機微を描いてきた佐藤監督が、そこの矛盾に気附かない
わけがない。「所詮女児向け番組なんてこの程度の語り口」という認識
につながったとしても、あながち責めるわけにもいくまい。

蒸し返しになるけれど、こうしたまこちゃん描写の腰の決まらなさ加減
の原因は、Act.9 でまこちゃんを便利に使ってタキへの接近を禁止させ
てしまったこと、すべてはそこに尽きるんだな。

Act.9 の作劇において、レイちゃんと亜美ちゃんの交流を織り交ぜ、そ
のツケを負う形でまこちゃんがうさぎを叱る羽目になった。さらにその
ツケがまこちゃんの人物造形に回っているわけで、レイ・亜美の交流は
布石としてAct.16のドラマに活きているわけだが、まこちゃんにとって
は気の毒な成り行きだったとしか言い様がない。

なんとか挽回しようとしたのが前回の「哀しい思いをするから」という
セリフだったのに、衛への接近を焚き附けるというアクションが、その
方向性とはまったく逆なのが矛盾として表れてしまうわけだ。

たしかに、衛への接近を応援すること自体は、気持ちの問題を第一に考
えるまこちゃん本来の人物像と矛盾しないと思う。しかし、それは直前
の「哀しい思いをするから」という「泥棒は泥棒」への手当とは正面か
らコンフリクトしてしまう。

つまり、「哀しい思いをするから」という軌道修正自体が、本来的に目
指されるべきまこちゃん像とは相容れない、場当たり的な辻褄合わせに
すぎないという意味になってしまうんだな。

要するに、「その場でレイちゃんと同格でうさぎを叱れるのがまこちゃ
んしかいなかったから禁止させた」という、本来的な人物像を歪めかね
ない場当たり的な作劇処理のツケを、やっぱり本来的な人物像を歪めか
ねない場当たり的なセリフで処理してしまったということになる。

オレの意見としては、泥棒であることと彼女がいることは、まこちゃん
的な恋愛観においては、恋愛の障碍として等価だと思うんだ。相手が犯
罪者だから諦めるというのと、すでに恋人がいるから諦めるというのと
では、気持ちの大切さには何の変わりもない。

この両者の間に何かの違いがあるとしたら、相手に恋人がいてふられる
のは気持ちが痍附くだけだが、相手が犯罪者であった場合は、失恋しよ
うが得恋しようが現実的な不都合があって、辛い思いをするのがわかり
きっているということだ。

もちろん、現実的なことをいえば、社会倫理の観点も含めてこの両者の
違いは大きなものだ。だから、「哀しい思いをするから」という理由で
まこちゃんがタキへの接近を止めるだけなら話はわかる。

しかし、まこちゃんが「後悔しないように」というような意味合いで恋
人がいることがわかっている相手への片恋を応援するのは、現実的な問
題ではなく気持ちの問題を重く視ていることになる。そして、気持ちの
次元で軽重が意味附けられている以上、泥棒と彼女持ちの間には、恋愛
の障碍としては何の差異もないはずだ。

犯罪者だと現実的な不都合がシャレにならなすぎだとか、彼女といって
もどの程度の仲だかわかんねーから、ひょっとして横取りできるんじゃ
ねーか、という「程度問題」になるのであれば、まこちゃんの物事の判
断基準が曖昧に過ぎ、場当たり的な現実感覚に基づいて動くというだけ
で、物語の登場人物としての行動原理が確立していない。

また、考え方の筋道としても、それこそ生臭すぎる。横取りできるかで
きないか、犯罪者の恋人として後ろ指をさされるか否か、そんなことを
プライオリティとするのは、さすがに下世話にすぎるだろう。それでは
まるで、Act.8 のコメントで、レイちゃんのキャラ類型に関して「口う
るさい教育ママ」と表現したキャラこそが、実写版のまこちゃんなのだ
ということになってしまう。

引いては、まこちゃんの言う「後悔しないように」というのは、現実的
な女子中学生の日常のレベルを超えない範疇でしか、意味を持たない言
葉なのかということにもなる。「中学生らしい節度」が大枠として程度
の問題を規定するのなら、それもまた口うるさい教育ママの論理だ。

泥棒を愛する気持ちを諦めても、同じくらい「後悔」はするのだし、実
際に添い遂げられなくても構わないから、気持ちに嘘を吐くなと言うの
なら、相手が泥棒だからといって、それが何ほどの障碍だというのか。
犯罪者相手の恋愛に、彼女持ちに対する横恋慕以上の光明がないとする
のは、さすがにいろんな意味でまずいだろう。

もちろん、小林靖子がこのディレンマを解消できずに困っているのは、
わかりきった話だ。

しかし、Act.8 のコメントで言明したように、オレは小林靖子の目指す
地平を基点にして、そのレベルでしか意見を言わないんだ。この番組に
ついてのコメンタリーはそうするのだと決めたんだから仕方がない。そ
う決めておきながら、彼女が困ってるときだけ、井上や武上のレベルで
物を言ったんでは意味がないだろう(木亥火暴!!)。

たとえばオレは、Act.1516のレベルを達成したうえで、娯楽作品とし
ての結構をぶち毀して「失敗」する分には、積極的に評価したい。あれ
が結果的に鈴村さよならローテになるのだとしても、小林靖子も鈴村展
弘もギリギリの仕事をしたと思う。あのローテの二話は、もう、良いと
か悪いとか、そういう単純な二分法で評価すべきではない
だろう。

しかし、今回のローテにおけるまこちゃんの扱いは、ポジティブな方向
で智慧が機能していない
。そこがいちばんの問題点だと思う。

今回ローテでこういう方向性の手当が為されたということは、小林靖子
自身の認識としてもAct.9 のまこちゃんのアティテュードを「失敗」と
視ていると思うが、そのフォローとして、たとえばAct.9 の失敗を失敗
のままに放置して、本来的なまこちゃん像の描写に専念するか、人物像
を軌道修正してでも整合性に拘るかの選択肢があったと思う。

そこは、智慧の範疇の事柄だ。

しかし、今回ローテの二話の描き方では、そのどちらを選択するのでも
なく、二者択一の間で揺れてどちらの方向性の芽も潰してしまった。

一旦は軌道修正しかけていながら、その方向性とは矛盾する人物像とし
て描写を受けているので、過去の失敗があらためて再現され、強調され
たような違和感を感じる。

小林靖子の宿題は、さらに増えたんだと思うんだな。

こういうふうに、エピソード構成要素としての重要性のバランスを無視
してまで、まこちゃんの人物描写に拘るのは、過去の宿題のフォローと
そのぶち壊しが、ローテの二話で立て続けに起こったというのが、今回
の脚本の調子の悪さを示す端的な例だと思ったからだ。

いったい小林靖子は木野まことという人物をどういうふうに描きたいの
か、引いてはどのような人物として視ているのか、これが連続する二本
のストーリーのなかで劇しく矛盾していると思えたんだな。

今回のレイ・美奈対決が、子どもの喧嘩レベルに堕してしまっているの
は、ストーリー構成上の失敗か、ダイアログの失敗であって、一本のエ
ピソードを仕立てるうえでの作為上の失敗だ。それでこの二人の人物像
が根本から揺らぐまでのことではない。しかし、まこちゃんの人物像の
この揺らぎは、これまでのシリーズの連続上で視た場合、異様に突出し
て気持ちが悪い
んだな。

レイちゃんはこういうことをしない人間だとか、美奈子はこうだろうと
いうのは、けっこうオレは自信を持って断言できるんだが、まこちゃん
がどういう行動原理に則って動く人間で、どういうことを禁忌とする人
間なのか、未だにオレにはサッパリ掴めない。掴めたと思ったら、あっ
さり裏切られたり、受け流されたりのくり返しで、ちょっとウンザリし
ている部分もある。

ここに意識的でないとしたら、まさしく木野まことというキャラクター
は小林靖子の盲点なのだろうし、亜美ちゃんに続いてレイちゃんのキャ
ラクターまで飛躍的に発展し、美奈子の人物像もなんとか回収の目途が
立ってきた現状で、いちばんの問題点となるのは、まこちゃんの描き方
だろうと思う。

だから、なんでもいいから、いい加減、作者の旗幟を鮮明にしてほしい
んだな。まったく本筋から外れたまこちゃんの描き方について、ここま
で長々と語ってきたのは、オレがそこに苛立っているからだ。

今の時点では、美奈子ならともかく、まこちゃんの人物像を謎のままに
放置する作劇上の必要などないのだし、亜美ちゃんやレイちゃんと比較
して、まこちゃんはまだ、自身のドラマを紡ぎ出す出発点にすら立って
いないというのが、オレの感じ方だ。

まあ、そんなことはオレがくどくどというまでもなく、小林靖子本人が
いちばん感じているはずだし、期待を裏切らない律儀ぶりには定評のあ
る彼女が、この失地をどう挽回してくれるのか。

それが実現したとして、ここまでのことを言ったオレが土下座して謝り
たくなるような智慧をその暁に見せてくれたとしたら、これに優る喜び
はない。他者に対する批判が見当違いであったことを、驚きとともに思
い知らせてほしいと、オレは心待ちにしているんだ。

智慧ある物語の持つ人を打つ力は、それほど強いんだ。

そういうわけだから、今回のエピソードに関して、せっかくの五戦士揃
い踏みの名乗りがクレーン撮影なのはどうなんだとか、三戦士の同時攻
撃の狙いが外れたのはどういう意味なんだとか、陽菜のセリフのリズム
だけ妙にイマドキの女の子なのはどうなんだとか、「人を好きになるこ
とって、いいことなんだよね」とか、そんなことは全部どうでもいい。

そんな細々したことを逐一指摘して検証するには、今回の作物はお粗末
にすぎ、個々の要素はまったく噛み合っていない。このローテの二エピ
ソードを活かすには、ここで描かれた内容を要素のレベルにバラして、
今後のエピソードでケツを持っていく
しかない。

今後のエピソードでそれらの要素があらためて活きてくるようなら、そ
のときあらためてじっくり触れることにさせていただく。

——疲れているのだとしたら、ゆっくり休んでくれ。

そう伝えたいところだ。

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Act.19-1 王様の馬も家来も総がかり

前回のエピソードについては、佐藤演出の違和感と小林脚本の不調が重
なって「ちょっと辛口」な論旨に終始したが、脚本が本来の調子を取り
戻した今回のエピソードでは、奇跡的にたかまる演出がドラマの出来を
妨げない程度のレベルをキープしていた。

…つか、やっぱこれは組のアンサンブルだな。

たかまるの本質である「丸投げ体質」(断言)が極度に発揮された結果
として、「何もしない」監督でも現状のチームなら脚本が優れてさえい
れば一定のレベルを確保できることが証明された(木亥火暴!!)。

その辺については、東映公式サイトに興味深い情報が載っている。

今回から上赤カメラマンに代わって、これまで彼の許で撮影助手を務め
ていた川口滋久に撮影がバトンタッチされたようで、川口にとってはこ
れがカメラマンデビュー。デビューに当たっては、上赤から川口へ厳し
い「特訓」を授けたようだし、新人とはいえ、これまで助手として番組
に就いてきて作品世界は熟知している。

また、それだけではなく、今回の撮影では、上赤はもとより今は新番組
のデカレンの撮影に入っている松村まで川口の初現場を見守っていたそ
うだし、さらには「エリート若手照明マン」の斗沢秀が現場復帰して、
特撮カットの画角の切り方まで指示していたらしい。まあ、外様監督が
増える流れのなかで、ベタ附きのスタッフに特撮に強い奴がいるのは心
強いけどな。

ちなみに、これまでは、クレジットが「撮影」となっていたので「撮影
監督」という呼び方をしてきたが、日本で純粋な意味での撮影監督シス
テムが成立しているはずはないし、公式サイトでは「カメラマン」とい
う呼称となっているので、今後はそちらにしたがうことにする。

日本式のカメラマンということになると、照明マンはカメラマンの下位
者ではなく同格の別セクションとなるので、そこの人材との関係性が重
要になってくる。今回の場合、サイトの書きぶりだと、将来を嘱望され
ている照明マンの斗沢も、これがデビューとなる川口カメラマンと同等
の発言力を持っているように思える。

照明マンが絵の切り方をカメラマンに指示するというのは、外部の人間
から視た場合、ちょっと不自然に思えるが、撮影と照明は切っても切れ
ない間柄だし、何よりも、こういう人間関係の釣り合いで現場の体制が
決まってしまう辺りが日本的な現場事情なんだろうな。

また、一般的に日本のメジャー製作会社においては、照明マンというの
はけっこう強面のセクションでとおっている。生意気な俳優の頭上から
ライトを落としてびびらせる、それがメジャー五社の間でちょっとずつ
落とし方が違うという、有名なジョークもあるくらいだ。

今回のエピソードの場合、カメラマン自身が番組のカラーを熟知してい
るうえに、現場には歴代カメラマンが二人も睨みを効かせており、番組
のカラーを知るばかりでなくカメラマンにアングルを提案するくらい現
場を仕切れる強面の照明マンが就いていたということになる。

これってスタッフィングとしては、ものすごい布陣だよな。東映サイド
のたかまるへの不信感が露骨に表れている「鉄壁のたかまるシフト」に
見えるのは、決して考えすぎではないだろう(木亥火暴!!)。

多分、上赤・松村両人は、直接川口個人の仕事ぶりが心配で立ち会った
のではなく、デビューがたかまるローテである新人カメラマンへの労り
と、作品レベルの防衛が主動機だったんだと思うぞ(木亥火暴!!)。

まあ、一本立ちの弟子を見守る筋道として、師匠筋のカメラマンが現場
で弟子の仕事に口出しをするわけはないんだが、外様監督のたかまるに
与える威圧感は相当のものがあっただろう。

顧みすれば、たかまるはこの両人とローテ一回ずつ組んでいるわけで、
両人にはたかまるのたかまるによるたかまるチックなアレの部分は身に
染みてわかっている(木亥火暴!!)。

あくまで邪推になるが、この両ローテともに、カメラマンとの協業はス
ムーズではなかっただろうし、ぶつかる場面も多々あっただろう。片や
パイロット監督の田崎とともに番組のルックを確立した大ベテラン、片
や中盤の力作群を意欲的なテクニックで支えてきた功労者、その二人が
自分たちの組織の新戦力となる若手の門出の場面で、一癖も二癖もある
無能監督に対して「下手打ったらただおかねぇぞ」という四つの眼で睨
みを効かせているのである。

これは、怖い(木亥火暴!!)。

表面的に笑っていたとしても、目が怖い(木亥火暴!!)。

まあ、そんな細かいことに神経が行き届くたかまるではないはずだが、
たかまるがどうでも、現場の若手スタッフには、両カメラマンの顔色が
怖かったはずだ。

現場でいちばん怖いのは、具体的に下っ端を追い回すカメラマンだし、
ついこの間までこの現場を仕切っていた、現カメラマンの師匠筋と大ベ
テランが、雁首揃えて無言で作業を見守っているのである。なまじいに
口出ししてくれればまだしも、黙って睨んでいられたのでは、下っ端が
必要以上に気を遣うしかない
じゃないか(木亥火暴!!)。

たかまるが引いたのかスタッフが気を回して立ち回ったのか、それは現
場を知る人間にしかわからないことだが、今回のエピソードに例によっ
て例の如しのたかまるチックな部分が見られなかったのは、こうした現
場の事情と無関係なはずはない。

たかまるを黙ってディレクターチェアに座らせておいて、奴には何を言
う隙も与えずに淡々と現場が進行していったのではないだろうか。現場
で交わされた言葉が常に「監督、これでOKですか?」という事後確認
の一言だけだったとしても、オレは驚かないぞ。

ただ、たとえば陽菜と衛に顔を合わせる場面でうさぎがお提げ髪を整え
たり、大地くんに誘われたひかりちゃんが頬の涙を両掌で拭ったりする
芝居を附けたのは、たかまるなんじゃないかと視てあげるのが、公平だ
ろうとは思う。ベタではあるが、そういう小芝居の部分に拘りがある監
督なんだろうとは思うな。

まあ、たとえ実際はそうじゃなくても、そう視てあげるのが公平で後味
も悪くないよね、というレベルの話だが。そのくらいの自分の意見を通
せなかったら、監督として現場の上座に座っている意味がまったくない
しな。強力なアンサンブルが脚本を的確に映像化していく過程で、ほん
のちょっぴり、たかまるが自分の趣味を通したというのが、実際のとこ
ろだったんではないだろうか。

つまり、これは八〇年代くらいに流行した異業種監督の現場に近い。た
とえば椎名桜子が「家族輪舞曲」の現場にほとんどいなかったというの
は、嘘か本当か知らないが巷間に流布した定説ではある。むしろド素人
のくせに「オレは監督様だぞ」という態度で一々見当違いな指示を出す
異業種監督の作品のほうが、素人考えの拙さもさりながら、現場の反感
と非協力によって惨憺たる結果に終わるものだ。

北野武辺りは頭が良いから、ブレーンに良い組を用意してもらって、現
場では差し出がましいことは言わず、要所要所でスタッフを唸らせる映
像的アイディアを提案することで、異業種監督という立ち位置から押し
も押されもせぬ専業監督となり得たのだろう。

極端なことをいえば、監督という専業職域がなくても映像作品は成立す
る。今回の現場で斗沢が画角の切り方に口を出したように、映画撮影の
実際においては、演出にも目の利くカメラマンが、役者に芝居を附けて
しまう場面も往々にしてあるものだ。「演出もできるのが当たり前」と
断言するカメラマンすらいる。

映像作品にまつわる職能集団の単位である「組」においては、何かをで
きる人間がその何かをやるのであって、照明マンだから、カメラマンだ
から、監督だからという職域の縛りは絶対強固なものではない。この辺
の棲み分けは普通一般の分業よりももっとダイナミックなものだろう。

そうした「組」の現実において、専業監督の専門的職能を奈辺に求める
かというのは非常に揺らぎの多い問題だ。つまり、実際問題として、映
画制作に関する最も高度な専門的職能を持つカメラマンが、撮影される
役者に対して演出まで附けられるとしたら、理論的には専業の映画監督
は組に必要不可欠な職掌ではない
とさえいえるのだ。

なぜなら、徹頭徹尾テクニカルな問題であるフィルムメイキング=映像
撮影の実際において、高度な技術的知識や精緻な専門的スキルが「必ず
しも要求されない」職域は、専業監督だけだからだ。そして、人間の職
業的営みである以上、「必ずしも要求されない」事項に対する個々人の
アティテュードは、単に職業的倫理観やスタイルの問題でしかないとさ
えいえる。

さらには、現場で下々の追い回しにまで具体的に指示出しをするのは、
実際には監督ではない。監督や会社によってスタイルは違うだろうが、
それぞれの職域の長が自身の下位者に指示を出し、階層にしたがって順
送りの上意下達で隅々に指示が回っていくのが常道である。

監督が現場で行う業務は、事前に自分が想い描いたとおりに撮影が進ん
でいるかどうか、これでOKなのか、NGだとすればどうするのかにつ
いて判断を下し、それぞれの職域の責任者に指示や相談を行うことだ。
こうした実際においては、監督という同じ名前で呼ばれる職域であろう
とも、丸投げから全面介入まで広い振れ幅があって当然だ。

だから映画監督という職業は、世間一般でそう思われているほどには、
多くの作業を行う必要のあるポジションではない。個々の職域の長たち
と諮って具体的に現場を仕切るのが一般的だというだけの話で、極端な
ことをいえば、優秀なカメラマンや優秀なテクニカルスタッフさえいれ
ば、一本の映像作品は成立する。

概念レベルでいえば、監督という職域に絶対的に求められる作業とは、
一本の映像作品に対して統一的な意味性に基づく一義的な視点を提供す
ることだ。これがたとえば小説という文芸ジャンルであれば、監督に当
たるのが作業者自身であるという自明性があるが、映像作品製作は多く
の人間の協業である。

多くの人間がてんでバラバラに抱いている作品に関する観念を統一し、
監督の個人名に象徴される一義的な視点に一本化するのが、監督に求め
られる絶対的な作業だろう。だから、具体的に現場で何をするのか、何
を分担するのか、というのは、その実践にまつわる決め事や手続の問題
にすぎないという言い方も可能なのだ。

無論、「監督」という呼称が語るとおり、職掌成立の淵源を遡れば、少
なくとも日本映画についていえば、その実践の部分、追い回しの現場作
業の部分が主であったという言い方もできるだろう。

映画監督というのは要するに映画製作に関する「現場監督」だ…いや、
だった。今や、なべおさみのキントトコントを知る人間も少ないだろう
が、映画俳優が現場の帝王だった時代には、まさしく映画監督の現場に
おけるポジションは一介の現場監督にすぎなかった。そのフィルムには
紛れようもなく一人の人間の視点が顕れていようとも、その権限が限定
されていることによって、その職域的特性は萌芽の段階に留まった。

さらに遡って、歌舞伎の御存知物に題材を採った芝居の映画化が一般的
であり、映画監督と役者に共有されている暗黙の共同イメージに基づい
てフィルムがつくられ、さらに実際の上映の場面で、映画の細部にまつ
わる最終的な意味性を個々のスター活弁が決定していた無声映画の時代
においては、映画は映画監督一個人の作物であるとすらいえなかった。

しかし、映画を監督名で選ぶのが一般化した現在、映画監督というのは
名前の持つクォリティ面への信頼性や文芸的な側面に関する嗜好、つま
ブランド力で勝負をする商売だ。

その在り方として、たとえば現場全体を熟知して具体的に仕切るやり方
もあるだろうが、大筋は組のアンサンブルで鳴らしておいて、要所要所
で自分のソロをとるというやり方もアリだ。最終的に作品の責任を負う
のが監督の個人名だというだけなのだから、自分の組がほぼ自分の手業
のとおりに動く自信があれば、本人が現場に出向く必要すらない。

実際、コダイを興してからの実相寺は現場に出ないことも多いらしいけ
れど、コダイで撮ると実相寺の絵になる。これが端的な例だろう。服部
光則をはじめとして、問わず語らずして最小限のコミュニケーションで
実相寺として撮れるテクニカルスタッフが集結しているのが、実相寺的
なるものを体現するコダイの強みだ。コダイが消滅すれば、真正に実相
寺的なるものもこの世から消滅する。

誤解を懼れずに繰り返すが、映画監督とは映画撮影の現場に絶対不可欠
な専業職域ではない。専業職域として絶対不可欠であることを、個々の
監督が常に現場での実践をとおして内外に証明し続ける義務を課せられ
たスリリングな職掌
なのだ。原理的には、それを実現するためにどのよ
うな方法・手段を用いてもかまわない。

そして、それを証明できなかった「監督という肩書を持つ職業人」は、
いともたやすく実質的な権力を簒奪されてしまう。「監督様」の肩書そ
れ自体が力を持つと勘違いして大失敗する異業種監督の事情は、素人の
哀しさで、こういう原理的な構造に無自覚であるゆえだ。

映画監督が現場の王様であることには、それなりの理由がある。しかし
王様の替わりを務めることができる人間など、有能な現場にはいくらで
もいるものだ。

たしかに映画監督は現場の王様だが、首を切られた王様もいる。

三谷幸喜脚本のテレビドラマ、「王様のレストラン」の名セリフを籍り
れば、そういうことになる。王制と一口に言っても、実質的権力が稠密
に集権した絶対専制君主制から、その権力が名ばかりの極端な立憲君主
制までの、無限階調の振れ幅があり得る。

王が政を執らなくても王制は成立するのだ。ご乱心の狂王が押し込めの
憂き目に遭い、名ばかりの王として祭り上げられながら、実際の政務を
有能な内閣と官僚が執るような事態は、どんな現場にでも起こり得る。

セラムンに話を戻すと、たかまるの名を目にすることなど、たかまるが
実際に手を動かすことに比べれば、何ほども耐えやすい(木亥火暴!!)。
まだ契約が残っているのだとすれば、大筋の撮影はスタッフたちに任せ
て、自分の拘りどころでのみ意見を出すという形にしてくれれば、オレ
だって個人的な怨嗟などないのだから、高丸雅隆が監督であっても何の
問題もない。

さっきの例でいえば、うさぎが髪を整える芝居はベタに過ぎてちょっと
クサかったが、ひかりちゃんが両手の掌でつるっと涙を拭う芝居は、ブ
サイコに撮れているにも関わらずいい芝居だと思った。専門家としての
見識を披瀝させていただくと、幼女の色気ってのは、こういう形の仕草
に表れるもんだと思う。

何の専門家なのかを問うのは、この際無意味だがな(木亥火暴!!)。

一般的に子どもに泣きの芝居をさせると、片手殴りにぐしぐしと拭うも
のだが、こういうさりげない拭い方には、子どもなりの女の気持ちの部
分や、気持ちを替えようとする間合いがリアルに滲み出てくるわけだ。

こういうジャンルの番組でそういう芝居にあうと、予期せざる驚きを覚
える。それがまた、「こういうジャンルの番組」の枠を突き抜けた独特
のリアリティを突き附けるこの番組のカラーにマッチして、プラスに働
いていると思う。

ミニマルな形ではあるが、こういう小ネタの部分も一種のチャームでは
ある。恐らくはたかまるのネタ出しであるにも関わらずチャームを感じ
られたというのは、本人の技倆やセンスはさておくとしても、現場の在
り方として、いい方向に向かっているのだと信じたい。

ともあれ、ベテランのはずの佐藤ローテの二話があれだけ違和感バリバ
リだったわけだから、わかっていない人間が積極的に何かをすることよ
りも、とりあえずこれまでの経験で番組のカラーを体感している人間が
消極的に関わることのほうが、結果的に被害が少ないという、あまりお
もしろくない結論に達してしまったわけだな(木亥火暴!!)。

さて、脚本の描き方もあるのだろうが、このひかりちゃん役の子役は、
顔立ちが平板で無表情な割には大人っぽい表情芝居をしていて、いわゆ
る「天才子役」的な芝居の型なのだが、幼女のくせにマセていて耳年増
という、一歩間違うと小憎らしいキャラを演じていても厭味がない。

…いや、マセガキにアレルギーのある向きには十分小憎らしいのだろう
けれど、少なくともオレは可愛いと思ったし、子どもなりの色気がある
と思った。近年の特撮番組に出たマセガキキャラとしては、いい柄の子
役を引き当てたといえるだろう。正直、井上特撮で好んで出すようなイ
ヤな感じのマセガキ
には食傷していたんでな(木亥火暴!!)。

まあ、これはホントに脚本段階での人物像がいいからなんだろうな。た
とえば、うさぎが手編みのマフラーのことを口にしたとき、いきなり手
編みを渡すのは重い女だと思われるというようなことを、「テレビで観
た」と正直に言っている辺りとかね。

小憎らしいマセガキなら、そういう世間知をあたかも自分の見識や経験
値であるかのように賢しらげに言うが、テレビで観て「よくわからない
けど、そういうものなんだ」と思ったと正直に表すのは、マセ方の表現
として抑制が効いている。

また、大地くんの自宅へ向かう道すがら、うさぎがひかりちゃんを陽菜
に負けないくらい可愛いと褒めると、ひかりちゃんのほうでも「陽菜さ
んに負けないくらい」可愛いとうさぎを褒め返す。

具体的なセリフもないし、それを押さえるカットもないわけだが、この
場面を視る限り、ひかりちゃんのほうでは、うさぎの衛に対する想いに
薄々気附いているような節がある。流れで褒め返したにしては、陽菜を
引き合いに出すのは少し意味深すぎるからな。ここには、同じ女をライ
バルとする女同士の共感のような機微
が流れている。

こうした脚本の機微を受けて、子役の柄に伴う厭味のない芝居で、そう
したデリケートな部分が表現されていると思う。これが見るからに糞生
意気で勝ち気そうなマセガキだったら、陽菜に対する分不相応な張り合
いというニュアンスが強調されすぎて、大地くんの自宅前で涙ぐんでし
まった場面に「ざまぁみろ」的なイヤなカタルシスが生じる。それは井
上敏樹的な雑駁な情感処理だ。

そうではなくて、元々控えめだが一途な少女が、強い想いを力にして勝
ち目のない相手に挑んだが、一歩を先んじられてショックを受け、せっ
かく奮い立たせた勇気が総崩れになるという成り行きに、素直にひかり
ちゃんの側に共感できるような芝居となっている。

そして、「天才子役さん」に場を浚われないように、というのでもない
だろうが、今回は現場のアンサンブルが勝っている撮影だっただけに、
個々の役者がこれまで掴んできた役柄がうまく機能していた。よしんば
たかまるが平板な解釈に基づいて浅い指示を出したのだとしても、現状
の彼女たちには、それを何倍にも膨らませて実践できる蓄積がある。

亜美ちゃんのハマチについては最早多言を費やす必要はないだろうし、
レイちゃんの北川景子なども、雑誌のインタビューで自ら語っていたこ
とによると、監督の附けた芝居に逆らうほどに役柄に入り込んでいる
けだし、主役の重責に応えて危なげのない沢井の芝居は、実写版セラム
ンでも「座長」の称号を与えたいくらいだ(木亥火暴!!)。

佐藤ローテへのコメントで難を言ったまこちゃんでさえ、キャラクター
としての統一性を確保しているのは安座間美優という少女の柄、つまり
個人の肉体性のみであって、「まこ美優」というか「美優まこ」という
人物が番組のなかに生きている。まず現実として物語中に存在している
キャラクターを、つくり手がどう動かしてよいやら決しかねているから
こそ、視聴者が苛立ちを感じるわけだ。

今回、芝居場としてちょっと…と思ったのは、大地くんの家から出てき
た陽菜と衛が立ち去る姿を見送ったうさぎの表情が、ちょっとあっさり
しすぎている
と感じるところだが、そもそも佐藤ローテで描かれた気持
ちの経緯が不明瞭だったのだから、沢井にも掴みきれなかったのかもし
れない。前回ラストの「人を好きになるのはいいこと」という、一種の
諦念の境地をよすがにするしかなかったのだろう。

「諦念」と表現はしたが、これが衛をスッパリ諦めるという気持ちでな
いのはもちろんだ。衛が振り向いてくれなくても仕方がない、この思い
が報われなくても好きになった気持ちは悪くはない、という観念レベル
の諦めであったろうと思う。

衛そのものを思い切れているのであれば、今回の話は事後処理の問題で
しかないが、今回の話はそのまったく逆である。だとすれば、自分が座
るべき場所だと思ったバイクのリアシートに、婚約者の美少女が「当た
り前のように」座る場面を見守る疼きは表現されているのだから、その
去り行く後ろ姿を見る芝居は、もう少し思い入れがあってもよかっただ
ろうと思う。

しかし、脚本の描き方が適切であるために、今回のうさぎの芝居は全体
に魅力的なものとなっている。たとえばアバンのラストで、編み上がっ
たマフラーを見て嬉しそうに微笑みながらも、柔らかく哀しみにフェー
ドしていくデリケートな表情の遷移は素晴らしい。

だれかを一途に想いながら一目一目編んできたマフラーが完成して、相
手にそれを渡す想像の嬉しさが、そのだれかの傍らのだれかにも想像が
及ぶことで、哀しみの感情にフェードする、そうした心の動きが手に取
るようにわかる。そういうことを表現している描写だとわかるのではな
く、この娘の心がそのように動いたことがまざまざと感じられる。

その芝居のバランスのうえでは、バイクを見守るうさぎの表情がこのく
らいあっさりしていても厭味がないような気もするし、一方では物足り
ないような気もする。今さらオレのような門外漢が詠嘆することでもな
いが、芝居の組み立てというのは本当に難しいものだ。

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Act.19-2 ハンプティを元に戻せない

また、何をいうにも今回は、佐藤ローテとは打って代わった脚本の好調
ぶりが、ここ数話を通じて恋に目が眩んでいたうさぎの本来的な魅力が
どこにあったのかをオレたちに思い出させてくれる。

うさぎの側のドラマをつくるのに、クラスメートの大地くんに想いを寄
せるひかりちゃんという幼女を持ってきた辺りが、まず物語の智慧だ。

これまでの数話でうさぎが魅力的でなかったのは、本来うさぎの魅力は
一筋に他者を思いやれる純粋さと、その気持ちを実践できる行動力だっ
たはずなのに、衛との二者関係では、自分の問題だけで頭がいっぱいに
なってしまい、しかも悩むばかりで何の行動も起こさなかったからだ。

ここに、ひかりちゃんという他者を持ってきて、しかも同じ陽菜を直截
ライバル視させることによって、うさぎの芝居にうさぎならではの情感
の動きを出している。

ブティックで陽菜・衛に遭遇した場面でも、うさぎの衛に対する気持ち
やこれまでの経緯など知る由もない陽菜は、その辺でもらった飴ん棒を
ひかりちゃんだけではなくうさぎにも何心なく渡してしまうが、これは
つまり、うさぎをその辺の幼女と同列の「子ども」と見ているという認
識の表れだ。

飴ん棒を渡されたうさぎを見て噴き出す衛のリアクションに、怨じるよ
うにむくれる辺りの呼吸もいいが、「やっぱダメか…」と独り語ちて飴
ん棒を舐めようとしたタイミングで、ほんの幼女に過ぎないひかりちゃ
んが、大人のライバルからの子ども扱いに発奮して陽菜に対抗意識を燃
やし、うさぎがそれにたじろいで、思わず一度なめかけた飴ん棒をもう
一度包み直そうとする辺りの呼吸は絶妙だ。

これには、お提げ髪を整えて精一杯に取り澄まし「母の友だちから『預
かって』いるんです」と保護者を気取ったところへ、連れの幼女と同列
の子ども扱いを受けるというカウンターのタイミングも効いている。珍
しく、たかまるの小ネタがちゃんと物語上プラスに機能しているじゃな
いか、なんか気持ち悪いなぁ(木亥火暴!!)。

陽菜に飴ん棒を渡される前は、「他に好きな人いるし…」と弱気だった
ひかりちゃんだが、通りすがりの自分より小さな子どもに飴ん棒を渡し
て「『あんな女』、絶対負けない!」と髪を掻き上げる仕草に、陽菜と
対等の一人の女として立ち向かう決意が表れている。それまでは「陽菜
さん」と呼んで年長者として扱っていたのが、「あんな女」呼ばわりす
ることで、自分も対等の「女」であるという意識を鼓舞している。

それ以前にうさぎが、陽菜のナチュラルな子ども扱いと衛の態度にむく
れながらも、「どうせ子どもなんだ…」と自己卑下に甘んじかけた流れ
で視ると、高校生と中学生と小学生の女の子が演じる芝居場としては、
ただのラブコメのドタバタではないおもしろみが出ている(註:このレ
ビューを書いた時点では、陽菜を原作コミックスの衛と同様高校生だと
認識していた。以下同様)。

ひかりちゃんの場合は、同年代の男の子への片恋に、この二者関係には
まったく不釣り合いな年上の女性が(本人にその気はないとはいえ)絡
んでくるわけだから、ひかりちゃんの側の動機に基づいて、ガチで張り
合ったって差し支えない。

陽菜を相手に弱気になっていた出発点は同じでも、ひかりちゃんの場合
は大地くんとの二者関係では同年代の自分が本筋、でも大人で美人の家
庭教師のほうが女の魅力としては何倍も上手、という力関係に基づく引
け目
があった。対するにうさぎは、年上の男性と年上の女性の継続的な
二者関係に自分が割り込む立場であるという、筋道上の引け目がある。

だから、飴ん棒を渡す子ども扱いにむくれる気持ちは同じでも、ひかり
ちゃんは「年が違ったって同じ女だ」という次元で、眦を決して対抗心
を新たにするが、うさぎは自分が事実何もできない「子ども」であるこ
とにみじめさを感じる。自分が「子ども」であることを思い知らされた
分だけ、うさぎのほうがひかりちゃんより大人ではあるんだな。

こういう立ち位置の違いはあるんだが、小学生が向こう見ずにも高校生
の美少女に女として対抗しようとする度胸に中学生が一瞬怯み、弱気に
なった自分を愧じてしまうという、微妙というには五社英雄すぎる駆け
引き
がおもしろい。

中途半端に大人になってしまうことは、怯懦な弱さに終わることが多い
わけで、純粋に背伸びして大人と張り合えるひかりちゃんに比べて、う
さぎの立ち位置はあまりにも中途半端なんだな。

そして、ブティックの対決のあとに大地くんの許を訪れたうさ・ひかり
が陽菜・衛に鉢合わせするのは、同じようにバレンタインのチョコを大
地くんに渡すためであるとしているのは、段取りとして無理がない。

遡って、ひかりちゃんの対抗心を煽った飴ん棒は、チョコを買うために
立ち寄ったお菓子屋で渡されたものだろうし、だとすれば、陽菜・衛が
ここでいっしょにいたのは、衛と大地くんへ渡すプレゼントを買うため
だったということがわかる。

こういうふうに、普通に言えば何ということもない筋道なのだが、あと
でひかりちゃんにショックを覚えさせるために、大地くんへのプレゼン
トを買ったということを伏せ、そのために衛へのプレゼントとしてマフ
ラー(!)を選ばせてブティックの前で一場面設け、さらに飴ん棒で一
ネタつくっている辺りが段取りのアリバイとして効いてくる。

そして、同じ弱気な出発点からスタートしても、ひかりちゃんは強気に
転じ五千円のチョコを張り込んでコトに臨むわけだが、陽菜にチョコを
渡されて嬉しそうにする大地くんを見てショックを覚え、ふたたび弱気
に転じてしまう。

ここの芝居場も、それまで強気だったひかりちゃんが泣き出してオロオ
ロするうさぎが、「そっか、なんか哀しくなっちゃったんだ…『わかる
よ』」と労るのが巧い。「わかる」んだよ、うさぎには。Act.14で、盛
り上がった気持ちの頂点で、自分に言い訳をしながら手作りのクッキー
を渡そうとしたそのタイミングで、陽菜と衛のツーショットを目撃して
しまったうさぎには、ひかりちゃんの気持ちが痛いほどによくわかる。

このままだったら、ひかりちゃんとうさぎはまったく同じだ。

自分の気持ちに意識的かどうかの違いはあるが、同じようなタイミング
で同じような残酷な現実に打ちのめされた者同士だ。この場面の沢井の
芝居はこうした機微を受けて感動的ですらある。不意に押し寄せた辛い
記憶の姿に耐えて幼子を懸命に励ますうさぎは、オレたちが好きないつ
ものうさぎそのまま
だ。

しかし、大地くんは泣いているひかりちゃんを見て「ひかりちゃん、ど
うしたの」と駆け寄ってきた。ひかりちゃんが後ずさるのは、ショック
を受けて弱気になっているからだが、少なくとも大地くんは、泣いてい
るひかりちゃんを見過ごせないくらいの好意
は持っている。

そこでうさぎが、「好きなら、諦めちゃダメだよ」と言う。それは、う
さぎがまこちゃんに言われた言葉だ。この言葉によってひかりちゃんは
大地くんにチョコを渡すことができ、大地くんに「うちでいっしょに食
べよう」と誘われて、稚ない恋はめでたしになるわけだ。

直後のうさぎのセリフが「わたしは、ダメだな」と弱気なままなのは、
鬱陶しい流れではあるが、作劇上そうでなければおかしい。なぜなら、
ここから畳み掛けるように妖魔が出現し、うさぎが変身して戦うと同時
に、未だ近傍にいた衛がタキに変装して駆け附ける流れになるからだ。

妖魔退治のくだりが手短に納められているのは、作劇上、妖魔の出現は
このひかりちゃん絡みの一連にアタッカで直結して、ムーンとタキとし
てうさ・まもを語らわせるための段取りに過ぎないからだ。

ムーンのピンチにタキが駆け附けるのは、毎回のルーティンではあるの
だが、ひかりちゃんの一連の直後に続けられると、また別の相貌を帯び
てくる。つまり、泣いているひかりちゃんに「ひかりちゃん、どうした
の」と大地くんが駆け寄ったように、ムーンのピンチにタキが駆け附け
る、この二つはこの場の意味性では等価なんだということだ。

そして、うさぎがひかりちゃんに言った「好きなら、諦めちゃダメ」と
いう言葉を、今度はタキがムーン=うさぎに言う。うさぎがひかりちゃ
んに言った言葉も、タキがムーン=うさぎに言った言葉も、他人への思
い遣りから出た励ましの言葉だ。さらに、うさぎが「わたしは、ダメだ
な」と弱気になったように、タキも「けど、オレは…」と自制する。

ここもやはり、係り受けの異なる対称によって、美しい構図がつくられ
ているわけだ。いつもならウザく感じるルーティンに過ぎないムーン・
タキの遣り取りだが、この場面はもう、今回のクライマックスそのもの
だ。幕の内弁当で喩えれば、いつもなら沢庵の古漬けとかウグイス豆と
か切り昆布の佃煮くらいの位置附けなのが、今回に限っては、堂々のト
ンカツだ、穴子の天麩羅だ、神戸牛のステーキだ
(木亥火暴!!)。

映像面で視ても、この場面の若干ハイキーで軟調な絵作りは出色だ。ロ
ケ撮影にも関わらず、光線の拡散具合の柔らかさや回り込み、階調の細
やかさは絶妙で、いつもなら気になる渋江の色黒なニキビ面もきれいに
柔らかく飛んでいる。そして、ここがいちばん美しく撮られていること
は、ドラマの力点の掛かり方としてきわめて正しい

この場面などは、川口・斗沢初顔合わせのコラボレートが実現した名場
面だろうと思う。

全体に川口カメラマンは、上赤に比べてカメラの動かし方がゆっくり穏
やかで、今回のような軟派で軟調のエピソードに向いているような印象
を覚えたが、上赤が得意とするような劇しく絵が動くようなエピソード
も見てみたいと思わせられた。

そして、この場面のセリフは、衛の超人的な鈍さによって意図せざるダ
ブルミーニングとなっていて、衛にとっては、自分のうさぎに対する気
持ちを諦め、うさぎの幸せのために陰ながら見守る決意が込められてい
る言葉なのに、うさぎにとっては、それまでの想い人であるタキが、衛
への想いを諦めるなと励ましているように聞こえている
わけだ。

同時に、これまではドキドキしてうまく話せなかった相手であるタキに
衛への想いを打ち明けてしまうほどに、タキ・衛の間の天秤は決定的に
傾いているわけで、それをタキに告げることは、うさぎがタキではなく
衛を選んだことに伴う絶対に必要な手続だ。

その一方で、うさぎはタキに、衛に渡すはずだったチョコを渡し、衛へ
の想いに踏ん切りを附けようとするが、衛に渡したかったマフラーは渡
せない。ムーン=うさぎの想いは、チョコとマフラーというバレンタイ
ンの縁起物セットを二分割することで、ねじれた形で衛に伝わる。

タキが「渡す人がいるんじゃないのか?」と口にすれば、視聴者は「こ
いつ、うさぎの気持ちに気附いているのか?」と期待するのが当然なん
だが、ムーンが自身の片恋を吐露すると「そうか…こいつもやっぱりだ
れかを…
」って、おい(木亥火暴!!)。どあほう(木亥火暴!!)。

おまえのその鈍さは、すでに「鈍杉とは…」とガイドラインが立つレベ
に達しているぞ(木亥火暴!!)。

しかし、相手が衛であると知らないとはいえ、実際にはうさぎのチョコ
は衛の手に渡ったわけで、さらには、ここで真の想い人に対するプレゼ
ントが手編みのマフラーであることをタキに打ち明けている。

つまり、いかな超人的な鈍感野郎でも、うさぎが手編みのマフラーを衛
に贈ってしまえば、うさぎの衛に対する気持ちに気附かないわけにはい
かなくなってしまったのだから、今後のこの二人の物語がどんなイベン
トを待っているのかが、この場面で明らかにされたわけだ。

その一方で、すれ違いのダブルミーニングによって、衛がうさぎへの気
持ちを諦めて、現実的なしがらみのままに陽菜の気持ちを大切にすると
いう流れが、一時的に強化されてしまった。

実際にはここの芝居場は、もの凄くねじくれた複雑なすれ違いの筋道を
語っているにも関わらず、直前の一連を受けることで、うさぎが自分の
気持ちに正直になり、辛い恋を全うする決意を固めるという、ねじれて
整合している着地点
となっている。

これがどのくらいねじくれているかというと、たとえばチキチキマシン
猛レースで、ブラック魔王の妨害を受けた車が、崖だの池だの民家だの
をコロコロ転げ廻りながら、数回転して何事もなかったように元のコー
スに載っかって普通に走ってるくらいねじくれている(木亥火暴!!)。

こういう知的な作業が自然にできるのが小林靖子の凄みのはずだ。

だから、小林脚本に対してオレが「智慧がない」と批判するとき、こう
いうレベルの作物がメートル原器として念頭にあるのだということだけ
はおわかりいただきたい。

物語の要請が過酷なまでに登場人物に対して「満点」を求めるものであ
るように、智慧あるつくり手の智慧に満ちた作物には過酷なまでに「満
点」の智慧が求められる
ものなのだ。同じ小林靖子の作物でも「あいま
いみぃ! ストロベリー・エッグ」にこんな厳しい基準では臨まないだ
ろう(木亥火暴!!)。

物語に凝らされた智慧というのは、それ自体としてさらなる智慧を要求
し、智慧の欠落による不完全さを許容しない狭量さがある。小林靖子に
とっては辛い局面ではあるだろうが、最早無矛盾であることだけでは許
容されない地点にまで、番組のレベルは突き抜けてしまっている。まし
て、現実的な事情に基づく弱みをスルーすることは、少なくともこの作
品に相対する場面ではつくり手・受け手ともに不誠実だ。

小林靖子個人に対する反感から批判するのではもちろんないし、重箱的
なトリビアリズムで悦に入るほど下劣な人間でもないつもりだ。小林靖
子が自身のリアリティに対して不必要なまでに誠実であるように、一介
の視聴者であるオレも、小林靖子本人ではなく彼女の智慧に対して可能
な限り誠実でありたいだけだ。

うさぎと衛をめぐる物語がそういう意味では満点の智慧に彩られている
のに対し、Act.1718で残された課題のほうは、今後に判断を委ねるし
かない。レイ・美奈対決の本質に切り込んだ噛み合い、まこちゃんの人
物像の確立、真相開示による美奈子の人物像の回収。残された課題は、
まだまだ多い。

今後の引きでいえば、まこちゃんの問題もさりながら、レイちゃんが美
奈子との因縁を仲間に隠している筋道も明らかにされていないし、レイ
ちゃんに対してうさ・まもの問題が秘密になっているのも、まこちゃん
が絡んでいるだけに、またしても便宜的な臭いがする。

美奈子も含めた五人の立ち位置がバラバラになっているという状況をつ
くるのが目的の秘密であるのなら、心情的なアリバイは完璧に繕ってお
く必要があるだろう。これまでの経緯から推して、この番組においては
いつもの小林靖子的な誠実な後附けがいつでもうまく機能するとは限ら
ないのだから、ここにもそれなりの智慧を期待したいところだ。

たとえば、今回のルナのセリフはAct.18を踏まえると明らかに矛盾して
いるんだが、佐藤監督のほうでつながりの説明を切ってしまったという
解釈では、ちょっと辻褄が合わせられないだろう。

うさぎの部屋にでかでかとポスターが貼ってあるのだし、Act.14でまこ
ちゃんと新曲をデュエットしている以上、ルナが愛野美奈子を知らない
とは、ちょっと受け取れない。だとすれば「プリンセスとそんなに話し
たの?」「どこの『だれか』もわからないんだから」というルナの言い
回しは、明らかにAct.18の登場場面と正面から矛盾する。

だから今回のエピソードでは、Act.18のあの場面に無説明でルナが居合
わせたこと自体が不必要なのだから、Act.18の登場場面を「なかったこ
と」としてネグレクトしたと視ていいだろう。

一年五〇回の連続のなかでは、細かい矛盾要素を「なかったこと」とし
て忘れて仕切直すのも智慧のうち
だろう。何もかもを後附けで無矛盾に
意味附けるばかりが智慧ではない。これほど複雑肥大化した物語の大河
のなかで、絶対的な整合性を求めることは不可能なのだから。

そういう選択肢も含めて、小林靖子の今後の智慧に期待したい。

…というわけで、メインの大筋を視てきたあとは、いつものように各論
の小ネタに移るとしよう。

冒頭に引いた公式サイトの情報だが、トピックスとして亜美ちゃんの編
んでいる手袋が、今後のエピソードで重要な小道具となることが明かさ
れていた。

厳密には、他の四人がてんで勝手にバラバラな動きをしていることで、
亜美ちゃんがクラウンに独り取り残されていることが「新たな悲劇の幕
を開ける」と書いてあるから、手袋自体というより、亜美ちゃんが独り
で取り残されていること
がポイントなんだろうけどな。

ピンクの毛糸であることから、今編んでいるのがうさぎへのプレゼント
だろうという察しは附くんだが、クラウンに入ってきたときに持ってい
た包みからは赤い毛糸も覗いていたので、それだけとも思えない。

赤といえば、Act.17では「お母さんの大好きな色」というセリフがあっ
たが、家庭科の課題はもう提出して戻してもらったわけだから、赤をシ
ンボルカラーとするレイちゃんにも…とも考えられる。

そうなると、まこちゃんにだけあげないのも不公平だから、結局全員お
揃いの手袋を編んでいるのか。亜美ちゃんの想い描く「仲間」という括
りにはヴィーナスも込みなのかどうか微妙なところだが、ここ数話の話
の流れが、仲間たちの心がバラバラになっていることを縦糸に据えてい
ることを考えると、亜美ちゃんがキーパーソンとなって、仲間たちのま
とまりを回復する
という流れになるのかもしれないね。

その筋道に至るイベントを、公式サイトでは「新たな悲劇」とまで表現
しているわけなんだが…うーむ、再来週は大黒柱の舞原ローテで、まこ
ちゃんが亜美ちゃんを看病する話なんだろ? また亜美ちゃんばっかり
贔屓するのかよ、まこちゃんや美奈子の惨状が可哀想だとは思わないの
か、小林靖子(木亥火暴!!)。

…いや、実際、佐藤監督のタッチがアレで、鈴村は少女地獄に疲弊した
挙げ句にライダーピチョンに戻ったし、あとは「異業種監督」のたかま
るなんだから、ガチで何かを託せる守護神の舞原監督には亜美ちゃん話
を任せるということになると、他のメンバーはいつまで経ってもしょっ
ぱい描写のまんま
なんでは…と心配で(木亥火暴!!)。

まあ、今回のエピソードの出来がフロックではなく、たかまるシフトが
効果的に機能すれば、現場のディスカッションで佐藤監督のオサーンな
センスにも軌道修正の目が出てくるし、それなりに舞原ローテ以外でも
まともな話にはなると思うんだけど、信頼できるディレクションで描写
に一本筋が通るかどうかというのは、かなり意味が違うからなぁ。

いっそのこと、舞原のツテで円谷映像から広田幹夫辺りを引っ張ってこ
れないもんだろうか…あと、ヒマそうにバイトで喰い繋いでる某川崎郷
とか…とまで考えているんだが、もちろんオレが考えたってそうなっ
てくれるわけではない(木亥火暴!!)。

まあ、いちばんあり得る線は、今回の川口カメラマンのような新人の取
り立てだろうが、川口の仕事ぶりを視る限り、東映の若手人材の秘める
潜在力は侮れない。そうした世代交代の実験ファームという性格もこの
番組にあるようなので、フレッシュな才能が効果的に働くことを切に期
待したいところだ。

それから、今回はダークキングダムサイドにも決定的なセリフが出てき
たな。ここのベリルとクンツァイトの芝居が多分間違っていないという
のは、たかまるローテでも希望が持てるという手懸かりになっているん
だが、プリンセスに話が及んだ際にクンツァイトが「消えるでしょう…
ふたたび」と意味ありげに漏らすこと、これはおそらく腹芸だ。

ベリルが「忘れておらぬのか?」と問い「…何を?」と返す、ここの間
合いに無表情でありながら殺気が漲っているのが興味を掻き立てる。ク
ンツァイトが、クイン・メタリアに傅く者であるなどと急に言われても
受け取れるものではない。それが真相でないことは明白だと思う。

敵の敵は味方の論理で、最近とみになかよしこよしのジェダ・ネフコン
ビにしてみれば、「クイン・メタリアの力をわが物に…」くらいの邪推
に留まるのだろうけれど、クンツァイトが真に過去の記憶を取り戻して
いるのだとすれば、未だ人格的な力として立ち現れていないメタリアの
使徒を標榜するのは、ベリル直下の下僕としての命令を拒むための、
種の方便
ではないかと疑われる。

おそらく、クンツァイトはベリルの前世に因縁を持つ不倶戴天の何かな
のではないか。クンツァイトの傍若無人さや全方位の厭味の底には、憎
しみと軽蔑があるのではないかというのが、オレの感じ方だ。しかも、
それはクイン・ベリルその人を指向する感情であるかに見える

そういう見地に立って視れば、クンツァイトのジェダ・ネフに対する厭
味な態度は、四天王の第一人として、不甲斐なくベリルに鼻毛を読まれ
愛欲の手管で正気を奪われている仲間たちへの「やれやれ」という嘲弄
の意味があるのかもしれない。

とにかく、ダークキングダムサイドで今後の物語の行方を握るキーパー
ソンとなるのが、記憶を取り戻したんだか喪ったんだかサッパリわから
ない
、この謎の男であることには、だれしも異論がないだろう。

さて、もう疲れてきたから最後にするが、今回もう一つ気になったのは
まこちゃんが元基にマフラーをあげたこと。深読みのしすぎかもしれん
が、これだけで完結するイベントであるとしたら、ちょっと無意味に段
取りが重すぎる
ように感じる。

ネタといえばネタなんだが、わざわざ直前に「色が合わなくて要らない
から、だれかにあげたい」という言い訳を入れていて、その前には亀か
らのバレンタインプレゼントという無理無理なネタまで入れて、元基が
プレゼントを欲しがっている気持ちを入れている。

しかも、この流れは前回まこちゃんが、衛に探りを入れるために元基を
飯田橋の堀っ端に誘い出したことを受けているわけだから、しつこいと
いえば相当しつこい前フリだ。

で、そもそもそこまで前フリをして、オチが「元基勘違いして大喜び」
では、何のギャグにもなっていない(木亥火暴!!)。

これはもう、美奈子重病説級の無理無理なショック療法でまこちゃん描
写を回収する腹じゃないかと邪推してるんだが、理詰めで考えると、既
存のキャラクターイメージと小林戦隊のドモンの間で揺れる「木野まこ
と」の人物像を端的に集約するドラマもまた、恋愛ネタでしかつくれな
だろうというのは自然な推測ではある。まこちゃんとドモンの、残さ
れた共通項は、恋愛物語の主人公というところしかないからな。

もちろん、現時点では、飯田橋の堀っ端に呼び出したのは探偵のためだ
し、普通の女子中学生ならマフラーを編むのは一大事業だが、手芸好き
のまこちゃんにとっては片手間仕事で、普通一般のような「重い」意味
などない。Act.7 の態度からいっても、まこちゃんが元基をどうも思っ
てないのは明らかだ。

しかしそこへ、彼女がいなくてバレンタインデーを悶々と過ごしている
元基をあてがうというのは、悪意でもない限り、首まで埋めた犬の前に
肉汁滴る美味しい餌を置くようなもの、元基の亀色に染まった干し首で
犬蟲でもつくるつもりなのか、小林靖子(木亥火暴!!)。

これが他の面子だったらともかく、ことまこちゃんに関しては、これま
での小林靖子の手当が、ことごとく裏目に出ているだけに、今度こそ気
合い入れて頑張ってほしいと思うんだが…どうなることやら。

ところで、ホントに最後の最後の暴言なんだが、まこちゃんて…どこと
なくネフに似てねーか?(木亥火暴!!)

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Act.20-1 目覚めの鐘、未だ響かず

…やっぱ、踏み附けにされていたヴィーナスは本物だったか。ネットで
は、あれがヴィーナスに化けたジェダとネフとの猿芝居で、四戦士を分
断して個別撃破する目論見なのではないかという声もあったが、その読
みはAパートの分だけ早飲み込みだったようだな。

所詮、隙っ歯小僧のジェダ風情にできるのは、変なブルゾンと地味な茶
髪からの早変わりが関の山で、美少女戦士のヴィーナスへの「変身」な
んぞはとても無理なのだろう。

そこからの流れで、お待ちかねのレイ・美奈対決の第二ラウンドに突入
するわけだが、一言で言って、今回のOP明けのレイ・美奈の遣り取り
が、Act.18のラストにあるべきだったんだな。あるいは、Act.18冒頭の
対決の「あなたは追える人でなくちゃ」というセリフに直結して、今回
の遣り取りが持たれるのでもよかった。

そのままでつながるものではもちろんないが、そのような流れを前提に
段取りを組むのが理想的な形だった
だろうと、今回のエピソードを観て
あらためて思った次第だ。

ここの美奈子のセリフは、前回の小娘の口喧嘩のダイアログの不調が嘘
だったかのように、稠密な意味性を具えていて無駄がない。つかもう、
執筆者自らレビューを書きながらすでにダダ泣き状態だ(木亥火暴!!)。
例によって、逐語的にダイアログを再録し、いの一番にここから視てい
くことにしよう。

わたしのことを追う必要はないって言ったでしょ。

自分で想い出すのよ。自分自身の力で戦士として目覚めたとき、すべて
を理解することができるの。わたしはそれを待ってる。

わたしを追うなんて、無駄なことはやめて。戦士のリーダーになれるの
はあなたなのよ。戦士としてやるべきことぐらい、わかっているでしょ
う。

レイちゃんのほうは受け一方の芝居に徹しているので、セリフの再録は
省く。対決とはいったものの、今回のニュアンスは、佐藤ローテのとき
のようなヴィーナスVSマーズの構図ではなく、変身を解除したレイ・
美奈の姿で、戦士としての運命の最中にある少女たちの遣り取り、それ
美奈子からレイちゃんに手渡す真実の想いの形として描かれている。

その立ち位置の混淆は、美奈子のセリフの性格が、戦士だ少女だと区別
を附けるにはあまりにもデリケートなものになっているためであって、
Act.18のときのような作者の見誤りに基づく混乱ではない。

繰り返しになるが、この遣り取りがAct.18の落とし所であったなら、そ
れがベストのなかのベストだった。今回のタイミングでこのような遣り
取りが描かれたのは、あくまで次善のフォローにすぎない。

今の時点で顧みすれば、四戦士の心の乖離を描く大筋の流れとの兼ね合
いで、佐藤ローテのレイ・美奈対決の中身が大幅に水増しされ薄められ
わけだから、シリーズ構成上の都合でシリーズ構成上重要な描写がベ
ストのタイミングを逸したことになる。

ここはたしかに難しい判断ではあっただろうが、オレ個人の感覚では、
佐藤ローテでレイ・美奈対決の山場が決していても、そんなに大筋の段
取りが狂ったとは思えない。多少全体の流れが不徹底な筋道となっても
ここにこそ注力するのが筋だったのではないかと思う。

とまれ、死んだ子の歳をいつまで算えていてもキリがない。たとえベス
トのタイミングは逸していても、この美奈子のセリフの持つ劇的内実そ
れ自体の迫力は変わらない。

まず、ここまであからさまに描かれている以上、セリフのうえで具体的
な説明がないとはいえ、美奈子の命があと半年しか残されていないこと
は今や視聴者にも明らかだ。美奈子のドラマの大前提はその事情に基づ
くものとなる。その前提において、レイちゃんを見込んで後事を託する
気持ちになったというのが、美奈子視点に立ったレイちゃんとのドラマ
の真相だ。

そして、原作を知っている視聴者なら、ヴィーナス=美奈子がプリンセ
スの影武者として陽動を買って出たのは、彼女が先覚者であると同時に
前世では四戦士のリーダーだったという設定のゆえであることをも想い
出すだろう。

そして、表向きレイちゃんは美奈子の秘密を探るために独自行動をとっ
ていたことになっているが、ではなぜその行動を秘密にしていたのか
いうことも、今回のドラマによって見えてくるだろう。

レイちゃんが美奈子に対する探索行動を秘密にしていたのは、レイちゃ
んが美奈子=ヴィーナスの秘密を知るに至ったのは、一種の不測の事態
であって、美奈子にはまだ開示の意志がなかったからだ。

美奈子の側からそれを禁じるアクションがなかった以上、それを仲間に
話すかどうかは、レイちゃん一個に判断が委ねられている。こうした条
件下においては、レイちゃんの行動原理では、美奈子の意志に反する形
で仲間に事情を話すことはできない

そして、美奈子が「私のことを追う『必要』はないわ」「私を追うなん
て、『無駄なこと』はやめて
」と口にするとき、それがレイちゃんの心
情を言い当てた…要するに噛み合った会話であるのなら、レイちゃんの
行動は、美奈子が秘めるプリンセス=ヴィーナスにまつわる謎の真相そ
れ自体を探り当てるための探索ではなかった
ということになる。

よし最初の動機がそれであったにせよ、ヴィーナスの自ら危険を招くよ
うな行動を意識するに連れて、一人の仲間として美奈子個人を気遣う動
機に変わってきている。それは、美奈子=ヴィーナスの言辞があまりに
苛烈であり、自ら望んで危険を引き受けながら、一貫して己への気遣い
を頑なに拒むような不可解な態度であるからだ。

そして、美奈子が自分を追う「必要」はないとレイちゃんに言うのは、
自分がもうすぐ死んでしまうからだ。もうすぐ死んでしまう自分を気遣
うような「無駄なこと」をするのではなく、自分のことを本当に想って
くれるなら、自分の遺志をあなたが引き継いでほしい、というのがこの
場面の美奈子の言葉の真実だ。

さらには、戦士としての戦いの全貌を、すでに覚醒した自分の口から明
かすのでは意味がない、それはあなたの記憶のなかに封印されている、
あなたがあなた自身の力で想い出すのでなければ、それを知ることに意
味はない。自分の秘密を探ったところで、自分の辛さを気遣ってくれた
ところで、あなたには何一つ得るところはない。

それはまったく「必要」のない「無駄なこと」なんだから——

——わたしのことを追う必要はないって言ったでしょ。

——わたしを追うなんて無駄なことはやめて。

そのような流れのなかで解釈するなら、美奈子の言う「戦士としてやる
べきこと」の実相は明快だ。手向けの涙を一筋流すいとまもなく、友の
屍を踏み越えてでもあくまで前に進むこと
、これ以外ではあり得ない。

それは、今現在のレイちゃんにとっては喩え話でしかないが、それを口
にした美奈子にとっては、疑い得ないほんの少し先の未来であり、掛け
値のない具体的な現実である。

まだまだ戦士として未熟なあなたには、他人を心配して構っている余裕
なんてないんじゃないの?…という、甘さの欠片もない厳しい使命感、
そして差し伸べられた温かい手を、さまざまな意味においてきっぱり撥
ね附けざるを得ない冷たい孤独が、この場面の美奈子の短く簡潔なセリ
フの間に漲っている。こうした峻烈な内実を、必要最低限の数語のセリ
フでまざまざと言い顕わしているのだ。

Act.18のコメントで、オレが小林脚本に望んだのは、こういう耐え難い
までの緊張に盈ちた簡潔なダイアログだったんだよ。

最低限、この芝居場から遡って、小娘同士の他愛ない意地の張り合いや
子供じみた口喧嘩が、すべての秘密を呑み込んだ美奈子にとって、たっ
た一つだけ許された形の、たまらなく愛おしい貴重な時間に感じられる
ような芝居の組み立てになっていたら、佐藤ローテのAct.1718にも、
相応の存在理由があっただろう。

今回のエピソードで顕わされている「半年後には愛野美奈子という一人
の少女は最早この世にいない
」という事実の、剥き出しのリアリティの
強さには、大人の視聴者もたじろがざるを得ない。遡って、この物語に
おいて、この少女がこの世に生きた証しとなるすべての映像は、そのよ
うな内実を前提に描かれなければならない愛おしい生の瞬間だ。

しかし、片意地なようだが、このエピソードの落とし所を知ったうえで
観ても、Act.18のレイ・美奈対決の気の抜け方は、まったく印象が変わ
らない。努めて先入観を排するようにしても…いや、あの時点での先入
観をこの今から遡った後知恵の先入観に引き替えててでも、美しい物語
を観たいと望む視点においても、ただ結論を先送りするためだけの膨ら
ませ方
にしか見えないのがつくづく惜しまれる。

考えてもみろ。愛野美奈子が一人の少女として生きた証しとなるエピソ
ードをこれまで手がけてきたのは…高丸雅隆と佐藤健光だったんだぜ?

愛野美奈子は、不必要なまでに可哀想な少女だ。

あらゆる意味において。

一方、「戦士として強くならなければいけないとわかった」レイちゃん
は、おそらくもう美奈子を追うことはない。

もちろん、美奈子が死病に取り憑かれて余命幾許もないなどと、細かい
事情をレイちゃんが感附いたというわけではないだろう。レイちゃんの
前で美奈子がそういう素振りを見せたことはないし、いかに霊感のある
レイちゃんでも、そこまで気取ってしまうのでは万能の超能力になって
しまう。何でもわかってしまう人物を使ってしまったら、すれ違いの情
感のドラマなど成立し得ない。

しかし、美奈子の言葉に込められた気迫が、唯ならぬ事情に基づくもの
であることは、霊感なんぞなくてもわかることだ。先ほどは「遺志」と
表記したが、レイちゃんにとっては未だ「意志」の範疇の事柄であるだ
ろう。

ただ、もうそこは気にしてくれるなと当の本人が言うのであれば、そこ
を呑み込んでしまうのがレイちゃんだ。そこまでの唯ならぬものを秘め
た願いであれば、事情をいっさい聞かずとも、聞き届けずにいられるレ
イちゃんではない。

理や筋道を離れては成立し得ないレイちゃんのキャラクターが活きるの
は、こういう機微なんだと思う。

そのためにも、できる限り一人の力で戦っていかなきゃ」と言うレイ
ちゃんに対して、ルナが「協力したから戦ってこれたのよ」と言うと、
それ『だけ』じゃダメだったのよ。プリンセスだって一人で戦ってい
るわ
」と応じるのは、美奈子の立ち位置をレイちゃんが引き受ける決意
を示す言葉だ。

美奈子がそう望むとおり、もうレイちゃんは美奈子を追うことはない。
もうこれ以上、彼女の個人的な事情を気遣うことはない。探索行動はも
う終わりだ。

しかし、美奈子との接触で、レイちゃんは「戦士団のリーダー」として
成長すべきだという、己一個に課せられた特別な使命を認識した。美奈
子の今ある現状を心配するのではなく、美奈子が本当に望むことに応え
ようと決意したわけだ。

本人がそこまで頑なに自分に構うなと主張するのであれば、それ以上踏
み込んだお節介はできない。ぶつかり合いを通じて、互いに互いを認め
合ったレイちゃんなら、美奈子が自分に構うなと主張する以上、それに
はそれ相応の理由があるはずだと考える。

これは実にレイちゃんらしい考え方だ。

こうした手続によって、レイちゃんは「仲間に隠すべき理由があるため
の単独行動
」から、「独力の戦いを決意すること」にシフトして、事情
の然らしめるゆえではなく、確信的に仲間と距離を持つことになる。

Act.16において、亜美ちゃんとの関係がもたらした飛越は、美奈子との
邂逅によって奇妙な方向に揺り戻されることになる。亜美ちゃんとの関
係性で成立した間合いは、美奈子に対しては適切ではなかった。しかし
動機において、亜美ちゃんとの交流以前のようなクールなもののままで
あったなら、美奈子の気持ちの真実さは伝わらなかった。

もうレイちゃんは美奈子を追うことはないだろう。しかし、美奈子への
気持ちは残している。今回の遣り取りが、筋合いだけの問題ではなく、
気持ちの問題でもある
ことは、物語の端々に顕れている。

半年の後には、愛野美奈子という一人の少女は死すべき運命にある。だ
が、レイちゃんは最早それを知ろうとすることを、己に許すことはでき
ない。ただ、何も聞かず何も知ることのないまま、美奈子の託した想い
に応えようとするばかりのことだ。

物語の神様の気まぐれが、たとえ美奈子の運命に奇跡をもたらすことが
なかったとしても、レイちゃんには慟哭が許されない。峻烈な宿命を生
きる一人の少女から手渡された厳しい想いを、その宿命と対等に対峙し
得る来し方を強いられた少女が、粛然と果たすまでのことだ。

そして、レイちゃんが、戦士団のリーダーとして相応しい自分であるた
めに独力の戦いを決意したのは、もしかして小林靖子に、それによって
例の佐藤ローテにおけるレイちゃんの戦いに、仲間が駆け附けなかった
ことを回収するつもりがあったのだろうか…いや、んなこたあねぇだろ
うよ。少なくとも、一介の視聴者としては、んなこたあねぇだろうと受
け流しておくのが筋道ってもんだ(笑)。

さて、レイ・美奈の宿題がひとまず果たされたのを視てきたあとは、さ
らなる懸案となっていたまこちゃんのほうを視てみよう。今回の脚本で
は、これまで数度に亘って触れてきたまこちゃんの人物造形の問題を、
なんとかすり合わせようとする努力が視られる。

たとえば、まこちゃんが婚約者のことをうさぎに打ち明けようと考える
のは「婚約してる人を好きになっちゃいけないわけじゃないけど、やっ
ぱり知っておいたほうがよくない?」という動機に基づくものだ。

フォローとしては後知恵の事後処理には違いないのだけれど、陽菜が婚
約者だと知った段階でも、うさぎが気持ちを抑える必要を感じていない
が、最低限、その事情を知ったうえで想いを貫くべきだというまこちゃ
んの考え方を強調している。

デートを尾行することは、アニメ的な定石ではあるが、Act.8 で誘拐さ
れたレイちゃんの後を追った行動の型と一致している。そして、タキへ
の接近を禁じていたまこちゃんが、そのツケを払うために最初にタキ=
衛の秘密を知らされる
のは、当然すぎるくらい当然の成り行きである。

これによって、従来のまこちゃん像を揺らがせていた「泥棒は泥棒」と
「ぶつかってみろ」が正面からかち合うわけだが、その調整はいったい
どうなるのか? これはもう、次回以降の成り行きを見守るしかない。

東映の公式サイトによると、今回の引きの直接の連続上の芝居として、
まこちゃんが衛に怒りの鉄拳をお見舞いする成り行きになるようだが、
先走っていうなら、これもまたAct.6 のまこちゃん登場エピソードのな
ぞらえになるだろう。女心の純情を嘲笑った妖魔に怒りの鉄拳を叩き込
んだのと同じように、タキと衛を使い分けてうさぎの心を弄んだ地場衛
を「最低だ」と罵って殴り倒す。

今回のまこちゃんの描写は、意識的にか自然な直観によってかはさてお
くとして、従来の描写を一旦繰り返してなぞるような形で、一貫した人
物として映るように意味附けが補強されている。それはやはり、小林靖
子自身に混乱の自覚があるということだろう。

これまで混乱した視点のなかで木野まこととして描いてきた一人の人物
の行動の型を、新たな流れにおいてもう一度並べ置き、そこに一貫した
意味性が立ち上がるかどうかを、小林靖子自身が見つめている。同じ一
人の人物の振れ幅として、こうした過去の総体が無矛盾で成立し得るの
かどうかを検証しているように、オレには見える。

そのうえで何かが求められるのだとしたら、これら過去の描写総体を意
味的に統一し得る、新たな描写の型だろう。過去を整理して、統一的な
意味性に則って並べ直すだけでは足りないのだと思う。

そうした視座においては、たとえば次回、妖術に苦しむ亜美ちゃんを看
病するのがまこちゃんであり、クンツァイトに挑むのはなぜかという疑
問が注目されるだろう。当たり前に考えれば、舞原ローテにおいてだれ
かがだれかを看病し、クンツァイトの手から友人を取り戻そうと戦うの
であれば、それがAct.14の変奏であることはだれにだってわかる。

小林靖子が、その作劇作法において、対称と対照を基調としてドラマを
組み立てる作家であることも、これまで再三に亘って指摘してきた。だ
とすれば、クンツァイトの妖術に陥った亜美ちゃんを取り戻すのは、直
接にはうさぎ、そうでなければ、レイちゃんに求められるべき行為のは
ずだ。

そこで対称に綻びを設けて物語を転がすのも、小林靖子の定石ではある
のだが、それがなぜまこちゃんなのか。今現在の筋立てでは、亜美ちゃ
んの危急を救うべき筋合いから最も遠いのがまこちゃん
のはずだ。

うさぎには、Act.14において同じような危難から身を挺して自らを救っ
てもらったという懸かり合いがある。その流れにおいて、Act.16で亜美
ちゃんを追い詰めたのは他ならぬうさぎであり、このドラマで亜美ちゃ
んを救う役割は果たしたのはうさぎではなくレイちゃんだった。あれ以
降のうさぎは、自身の恋愛に悩むばかりで、亜美ちゃんの一身を賭けた
戦いに何も酬いてはいない。

そして、レイちゃんには、Act.16で全人格を賭けて亜美ちゃんに保証し
た友情の言葉の重みがある。たとえば今回のクラウンにおけるすれ違い
が、最も効いているのはレイちゃんだろう。レイちゃんは、同じ孤独を
抱える亜美ちゃんへの共感と等価で、戦士として同じ立ち位置に立つ美
奈子への共感も覚えている。そして、美奈子の託した想いに応えようと
することで、今は気持ちがいっぱいだ。

亜美ちゃんの危難に際して、この二人のどちらかに、Act.14の対称とし
て亜美ちゃんを救うための劇的なアティテュードが求められるという筋
道なら、素人のオレにだって考え附く。

ところが、まこちゃんには、直接には亜美ちゃんとの過去の懸かり合い
がいっさいない。まこちゃんが懸かり合いを持っているのは、主に被保
護者であるうさぎであり、同格の存在であるレイちゃんであって、亜美
ちゃんとは奇妙なくらい何のつながりも描かれてこなかった

一方、まこちゃんの人格面での特徴を最大限抽象するならば、対人関係
の間合いが最もうさぎに近い。うさぎよりも積極性に欠けるというだけ
で、接触しただれとでも、善意に基づいて屈託なく心を通い合わせられ
る陽性の資質を持っている。

だから、うさぎのアティテュードによって、亜美ちゃんの心の窓がほん
の少し開いたのであれば、うさぎと同じくらい、まこちゃんとの間に通
い合うものがあってもよかったはずだ。しかし、うさぎ以外では主にレ
イちゃんとの関係を強調されるに留まり、亜美・まこの直接の関係性が
描かれることはなかった。

これは、亜美・まこが直接組んで共闘したAct.9 においても、結局実現
されなかった成り行きだ。皮肉にも、このエピソードで描かれているの
は、亜美ちゃんと現場にいなかったレイちゃんとの友情であり、その描
写のゆえにまこちゃんが、彼女の人物像が揺らぐ大きなきっかけとなっ
「禁止」の言葉を言わされる羽目となった。

小林靖子は今、そのツケを払うために四苦八苦している。この辺の事情
については再三強調してきた。そして、今回のまこちゃん描写において
は、一応過去の描写を統一的な意味性に基づいて配列し直すことによっ
て、何とか整合を持たせることに成功している。

デリケートな機微ではあるが、後附けで過去の描写それ総体を統一的に
解釈できるよう意味附けるのではなく、型として用い新たに語り直すこ
とによって整合的な意味性を附与すること、これにはひとまず成功して
いるように思える。

そして、オレの考えではこのあとに要求されると思われる「新たな描写
の型」、それが亜美ちゃんとの関係性において語られるのであれば、そ
れはどんなものであるべきなのか、まこちゃん描写の成否のすべてはそ
こにかかっているような気がする。これまでの連続上で類推不能な事柄
であるからには、それは新たな智慧でなければならない。

亜美ちゃんがクラウンで独り編み続けた手袋はその布石なのか、直接手
袋に絡めてすれ違いを描かれたのがまこちゃんであることに、何某かの
意味はあるのか。ルナにそれを見守らせたのはアリバイなのか、この亜
美ちゃんの想いに「気附いてやれなかったこと」を悔やむのが、これま
で最も関係性の薄かったまこちゃんの役割となることが、果たしてどう
いう結末を迎えるのか。

ここ数週間に亘って見守ってきたまこちゃん描写の回収劇、その決算が
次回のエピソードによってもたらされるのであれば、Act.21は本当の意
味で最初のまこちゃんエピソードとなり得るだろう。木野まことという
人物がこのドラマをリアルに生き始めるのは、これからの話だ。

ああそれから、今回も律儀に元基の勘違いによる片想いというルーティ
ンが描かれていたが、こうしたネタがネタのままに終わるまいという予
感が、いよいよ強くなってきたな。

そのためには、現状の頼りない元基の想いにまこちゃんが応えると考え
るのも難しいので、元基の側にまこちゃんへの想いを証すアクションが
求められる
だろうが、現状のまこちゃんを巡る物語が予断を許さないだ
けに、まこちゃんと元基の未来は、曖昧に揺らいでいる状態だといえる
だろうね。

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