Act.37 夜歩く

中盤以降の高丸演出のおもしろみは、高丸なりに考え抜いてディテール
を掘り起こすことで、脚本の意図を超えたリアリティを探り当てる部分
にあったと思う。

それは一種、「がんばってるなぁ」というような、額に汗して苦心惨憺
取り組んでいる姿勢に対する好評価でもあって、多少マヌケな凡ミスが
あっても
好意的に視ることができるようになった。さらに、小林靖子の
高丸演出観がガッチリ固まってからは、高丸調前提の脚本との相互作用
で、纏綿たる抒情の描出に強いという独自の持ち味を確立した。

じっさい、ツーショットの会話で情感を表現する場面では、舞原演出の
冷たく張り詰めた硬質な緊張よりも、高丸演出の爽やかな優しさに魅力
を感じる場面も多々あったように思う。

これを高丸雅隆の本来の才能の開花ととるか、ただのフロックととるか
という設問は、もはやナンセンスでしかないだろう。舞原にしたところ
が、この番組を離れたあとの彼が、これ以上の傑作を連発する保証など
いっさいない
。多くの人間と多くの要素が絡み合う映像制作の分野は、
それら多様な要素の綜合としてのダイナミズムでしか語れない。

たとえばウルトラマンティガであれほど凄みのある傑作を連発した川崎
郷太
のその後を思えば、一人の映像作家がコンスタントに良質の作品を
提供し続けるためには、才能などさほど大した力をもたないことを思い
知らされるだろう。

一握りの天才でもない限り、フリーランスの世界で生き抜く者同士の間
では、天賦の才能など我も彼も十把一絡げのレベルである。我も人なら
彼も人という前提で、一個人にはコントロール不能な複雑な要素の絡み
合いのさなかにおいて、そのときどきになにをどうしたのかという営為
だけが映像作家のその後を決定するのだと思う。

映像文芸とは、選れて一回性の強い文芸ジャンルなのである。

たとえ高丸雅隆が今後どのような駄作を連発しようと、この番組で成し
遂げた何事かの価値は変わらない。こうした良質な高丸調のテンション
は次回の最終ローテまで持続していて、最後まで視聴者の期待を裏切ら
ずに、よい花道を歩んだように思う。

さて、概観はそのくらいにして早速今回のエピソードのレビューに入る
が、今回の話には一本のエピソードらしい話の骨格がなく、ドタバタと
ギャグを除けば「うさぎが失踪し、夜の公園でハープを奏でるプリムン
が見附かる」という、一種背骨らしい背骨のないエピソードだった。

大筋に影響のある要素としては、ラストでプリムンが呟く「私が、世界
を滅ぼした
」という一言だけで、それ以外は前回のその後を受けた要素
が三々五々描かれるという、独立したエピソードとして視ればきわめて
まとまりに欠ける話である。

位置附け的には、Act.25のセレニティ覚醒というイベントを受け、その
事後報告と状況説明に終始したAct.26と類縁のエピソード構成となるだ
ろう。シリーズ構成上のブリッジとなるエピソードで、叙述要素として
は、レイちゃんと美奈子、衛とベリルの会話による状況説明がメインの
回となっている。

ラストの衝撃の告白をも含めて、このエピソードの主筋は前世の因縁に
まつわる状況説明のみで構成されているのである。

普通に考えれば退屈なエピソードになるはずで、プリンセスムーン登場
を受けていよいよ前世の悲劇の真相が語られ、銀水晶とメタリアの相関
が提示されるということで、説明要素もこれまでになく多くなっている
わけだから、全編ほとんど説明的なセリフで埋められている。

そうした性格は今回のエピソードのみに留まらず、次回のエピソードも
過去の回想を踏まえた状況説明に終始して、総集編と呼ぶにふさわしい
構成であった。

前回のレビューで陳べたとおり、鈴村参入以前の中盤の脚本は、明らか
演出者のタッチを想定して書かれている節があるが、今回ローテの二
話はだれを想定してアテ込んだともいえない内容である。

この後の舞原ローテも、どちらかといえば高丸演出に相応しい内容だっ
たし、結果的にAct.3540までのローテーションは、竹光と鈴村が入れ
替わっただけのかたちで一巡したが、脚本執筆段階ではもっと流動的な
話になっていたのかもしれない。じっさいAct.41から最終話までの打順
かなり従来ローテから変わっているので、中盤の好調の一因となった
アテ書きが終盤の変則的ローテ調整でうまく機能しなくなったのだろう
と思う。

ちょっと意地悪な言い方をすれば、全体構成やダイアログの相関に智恵
を搾る必要がなく、場当たり的な映像のおもしろみだけで押し通すこと
ができるという意味で、今回は高丸監督にとって気楽なローテだったと
いえるのではないだろうか(笑)。

そういう意味で、今回のエピソードで印象に残るのは、たとえばうさぎ
の失踪を受けてルナに呼ばれた亜美・まこの身代わり奮闘記だったり、
たとえばレイ・美奈の対話の絵面的なおもしろさだったりで、ここぞと
いうようなドラマ的なポイントはほとんどない。

まあ、それで一向にかまわないエピソードではあった。人によっては、
亜美ちゃんがうさぎを探し回るシーンで声高に名前を連呼して歩くのは
ベタにすぎて、「高丸センス健在なり」と感じるかもしれないが、まあ
そこまでうるさく論っていてもキリがない(笑)。

初期の頃なら、そんな些細な事柄一つとっても演出センスの欠如という
ふうに解されたのだろうが、今現在のように大筋間違った解釈もなく、
独自の強みも見せるようになってみれば、ある種こういうユルさや隙の
一つもないと、高丸演出回を観た気分にならない(木亥火暴!!)。

要するに、だれの演出であろうが観客の主観というファクターが大きな
意味をもつ分野では、どこをつついても瑕瑾のない完璧な映像作品など
あり得るわけもないのであって、映像作品というものは総体としてある
一定の満足が得られればそれでいい
のだと思う。また、観客がそういう
振れ幅を好意的に許容できるかできないかという部分では、つくり手の
姿勢やその見え方という要素も大きいのではないかと思う。

今回のような段取り話であっても、高丸雅隆がいっさい手を抜かず愛情
をもって演出している
ことは、観ているこちらにも伝わってくる。内容
的には初期の高丸演出回の雰囲気に近いが、変に衒った悪ふざけという
のではなく、番組のトーンに沿ったコミカルのラインをうまくつかんで
いる
という安心感がある…というか、そっち方面のラインは主にこの人
が試行錯誤して決めちゃったわけだが、その試行錯誤によって「なにを
やってはいけないのか」がわかっているという安心感があるわけだ。

じっさい、うさぎの替え玉に仕立てられた亜美・まこのすったもんだや
レイ・美奈のナコナコネタの演出は、初期の高丸演出とどこも変わって
いないのだが、今回のようにまったくお話に芯がないエピソードのネタ
として注力する分には、多少やり過ぎていても一向に不愉快ではない。

むしろ先ほど陳べたように、そういうギャグが印象に残らなかったら、
このエピソードはまったく記憶に残らなかっただろう。ずいぶん以前に
田崎が演出したAct.7 について同じようなことを陳べたが、話を進める
ための段取りのエピソードでは、小ネタの部分でチャームをつくらない
と、一本のエピソードとしての見応えがない。

仲間内では、身代わりネタはもっと引っ張ってもよかったのではという
声まであったくらいだから、ようやく高丸演出のベタなギャグセンスが
作品世界内でうまく機能するようになってきたわけだ。

このネタは、ただのギャグとして切り出してしまえばどうということも
ないものだが、亜美ちゃんなりまこちゃんなり、育子ママやシンゴなり
のキャラに即したリアクションがおもしろみとなっている。

要するにキャラ転がしの一種なのだが、替え玉バレサスペンスの際どい
瞬間の間の取り方とか、亜美・まこが鉢合わせした際の表情芝居とか、
ルナの周りに散乱するカンペとか、こういう馬鹿馬鹿しい細部にむやみ
にこだわる高丸イズムも、こういうエピソードでこの程度であれば好感
がもてる

亜美ちゃんがうさぎの部屋で育子ママと絡むというシチュエーションに
おいて魚眼のアップが多用されているのは、近々のエピソードであまり
魚眼を使っていないことも併せて、おそらく意識的にAct.3 のリベンジ
を試みていると視るべきだろうが、Act.3334のドラマで亜美ちゃんの
家庭的な欠落が埋められたあとならギャグとして笑うことができる。

レイ・美奈の対話の場面でも、いきなりミニチュアセットを舐めながら
ヘリの爆音をOLして二人が登場するという絵面のつくり方も、底意を
含めて
おもしろいし、カットが変わるとレイちゃんのナコナココスプレ
がだんだんエスカレートしていく辺りの飛ばしのセンスもおもしろい。

ここはもう、ヘリの爆音やカットが変わるといきなり夜になっている
うな部分も含めて、竹光センスの悪意的なパロディととっちゃおうじゃ
ないか(木亥火暴!!)。やるなぁ、高丸雅隆(木亥火暴!!)

舞原がAct.33のママチャリ倒しで竹光いじりをやってるのを見て、自分
もやってみたくなったんだろうか。Act.0 も踏まえてみると、高丸って
竹光いじりばっかやってるような印象だなぁ(木亥火暴!!)。

「…で、おまえは本当にこれをおもしろいと思ってるのかぁっ?!」と
胸ぐらを掴まれたらもちろんヘラヘラ笑って胡麻化すが(木亥火暴!!)、
笑いというものは、そのネタ自体のセンスもさりながら、受け手の側が
「ノってやろうか」と気楽な姿勢になっていないと発生しないものだ。
そしてこのドラマにおいては、締めるべきところをきっちり締めたうえ
でないと、気楽な気分には浸れない。

中盤以降の高丸演出はその辺のバランスがしっかりしているので、少し
野暮ったいナンセンスな笑いを安心して楽しむことができる。その辺は
たとえば、Act.1920のラブコメとシリアスの匙加減からも窺えるし、
さらにはそれ以後の二回のローテで、悪ふざけばかりが取り柄ではない
ところを証明したからこそ、オフビートなおふざけを好意的に楽しめる
土壌が培われたのだと思う。

まあ竹光いじりの真意を枉げてとったのはシャレの範疇だが、状況説明
の縦糸に絡ませる小ネタが、キャラ転がしやレイちゃんのナコナココス
プレなどセルフパロディ的なものなのは、他の監督の演出回も含め隅々
まで番組に目が届いていることが窺えて好ましい。

ヘリ爆音をミニチュアセットにかぶせて「なんか怪獣出てきそうな感じ
だよねぇ〜」的にいじって見せたのも、前半でハマチや安座間が沢井の
うさぎを真似ている流れを受けて、監督まで他の監督の真似をしてみせ
るというシャレ
になっていて悪くないと思う。

そういう意味では、Act.0 であれだけコッテコテの悪ノリ気味に竹光を
いじっておきながら、実は悪意「だけ」はなかったりするのかもしれん
なぁこの男、とちょっと思ったりもするのだが、だったらやっぱりバカ
だな(木亥火暴!!)。

それでは、高丸演出に関してはこのくらいで切り上げ、構造らしい構造
のないエピソードではあるが、少し全体構造について触れることにしよ
うか。

全話DVDの巻末座談会では、印象深いエピソードとしてAct.36以降の
一連のプリムン絡みの数話を挙げていた沢井だが、前回陳べたとおり、
オレはその一連をネガティブに視ている。そのネガティブな影響は早速
今回のエピソードにも顕れていて、本来なら物語のキーアイテムを探る
立場にあるはずの主人公のうさぎがほとんど不在のまま、エピソードの
進行が終始している。

主人公その人をキーアイテムに設定してしまったために、物語は対象と
なる何かをめぐって主人公が活躍する構造から、主人公をめぐって脇役
が活躍する構造
にシフトしてしまった。これは最初っから主人公が立ち
まくっているような番組なら、クライマックスの設定として効果的かも
しれないが、レギュラー廻しの手法で前半から脇役のほうが立っていて
うさ・まも絡みでうさぎの活躍が掣肘される流れが多かった
この番組で
は、ますます主人公の活躍が抑えられることになって、効果的ではない
と思う。

もちろん話の前面に出て動き回るばかりが美味しい役どころといえない
わけで、プリムンのキャラクターが強烈なだけに、今回のエピソードも
ラストでプリムンが美味しいところをさらったという見方も、できない
でもない。

オレが殊更に指摘するまでもなく、うさぎのプリムン化は亜美ちゃんの
ダーキュリー化に対応しているわけで、Act.28までのダーキュリー編に
おいて美味しい役どころを演じたハマチを羨んでいたであろう沢井が、
ついに自分にもダーキュリー的な演じ甲斐のある役どころが廻ってきた
ことを喜ぶのはわかる。

しかし、ラスボスとしてのプリムンは美味しい役どころであるが、主人
公としての月野うさぎは従来にも増して貧乏くじを引かされた
といえる
だろう。うさぎ=プリムンという構図には、亜美ちゃんとダーキュリー
の場合と同様の同自性の混乱があるからだ。破滅をもたらすラスボスが
主人公の月野うさぎの別人格と設定されてしまった以上、プリムンが前
面に出る限り、同一人物であるうさぎは後景に退かざるを得ない。

結局うさぎは、最後まで意志的に何事かを成し遂げ得なかったわけで、
悲劇の宿命に踊らされただけという印象が強い。かなり以前に指摘した
とおり、月野うさぎは他者のために動いてこそ魅力的なキャラクターで
あって、他者に気遣われる立場になってしまうと途端に生彩を欠く。

そういう意味では、プリムンの誕生を受けた直後のこのエピソードが、
プリムンをめぐる周囲の動きだけで構成されていて、ある意味うさぎと
いうキャラクターがまったく不在のままで成立しているのは、シリーズ
の今後の展開を象徴している

今後の展開においてうさぎは、自身の裡にあるプリムンを解放せぬよう
堪えに堪える役どころであって、このような受動的な立場にある人物を
動かしてエピソードを構成するのはきわめて難しい。そして「堪える」
という内向的なアクションのもたらすストレスを解消する劇的なカタル
シスとは、「堪えきれずに爆発する」というかたちでしかないわけで、
今後の作劇の基本型は「主人公の忍耐が破れ、破壊的なイベントが起こ
る」という後味の悪いものになってしまう。

その後味の悪さは観客にさらなるストレスを与え、そのストレスをまた
忍耐の破綻→力の暴発というかたちで回収していくくり返しによって、
力の暴発の最終的なプラトーである星の破滅が決定附けられてしまう。

ネットでこの最終盤の流れが「鬱展開」と揶揄的に語られているのは、
話の流れがシリアスであるとか基調が暗いというだけの理由ではない。

主人公の営為が破綻して破壊的なイベントが起こるというきわめて後味
の悪いルーティンが確立され、作劇上のストレス→カタルシスの力学的
構造がさらなるストレスを増殖させていくという、ストレスフルな作劇
に終始し、しかも主人公がその爽快感を欠く循環構造を、自らの意志的
行動によって打破できなかったことが、そのようなネガティブな印象を
与えるのである。

さらには、プリムンの強烈なキャラクターが物語の前面に出てくること
とその相対においてうさぎのキャラクターが弱められることによって、
主人公の非本来的な一部としてラスボスがあるのではなく、ラスボスの
非本来的な一部として主人公のうさぎがあるような転倒した印象
が生起
してくる。

こうした印象の転倒が意図的な仕掛けとして活きていたダーキュリーの
場合と比べて、プリムンの設定にはどうにもならない破綻がある。

その意味では、物語冒頭においてうさぎが失踪し、ラストにおいてプリ
ムンが出現する今回のエピソードの構造は、月野うさぎの主人公として
の能動的役割が消失し、ラスボスであるプリムンの一部として吸収され
対象化されていく流れを象徴したものといえるだろう。

さてそれでは、気が進まないながら、そろそろ今回語られた前世の悲劇
の真相について視ていくことにしようか。

今回の状況説明によって明かされた過去の悲劇のストーリーは、ラスト
の衝撃の真相を除けば、ほぼ原作のとおりである。エンディミオン王子
に対するベリルの歪んだ愛とクインメタリアの力が出会ったことで破滅
に至る悲劇の幕が開き、禁じられた愛の糾弾を旗印にベリルが月の宮殿
に攻め入ったことでセレニティの力が暴走、月と地球をもろともに破滅
させたというストーリーが語られる。

そして、例によって前世の悲劇のストーリーを語るこの物語の語り口は
至極わかりにくいものである。これはそのストーリー自体が込み入って
いてわかりにくいからでもあって、ここで少しそれを整理してみようと
思う。

まず、大前提として「月人と地球人の恋は不吉」という禁忌があった。
だからセレニティとエンディミオンの恋は「禁じられた恋」であった。
これが「迷信」にすぎないことは、以前詳細に陳べたとおりである。

なぜなら、セレニティによる星の滅亡という真相が語られたうえでも、
その禁忌には何ら論理的根拠も宗教的根拠もないからである。逆にいえ
ば、そんな迷信さえなかったら星が滅ぶことはなかったのだから、この
禁忌を破滅と結び附けるのは自己言及的な循環論理である

エンディミオンに横恋慕していたベリルは、月人と地球人の恋によって
禁忌が破られたゆえの天変地異を偽装して民衆を煽動し、叛乱を起こし
たということになっている。つまり禁忌の侵犯による天罰など嘘っぱち
だったのである。

かつて月と地球が滅亡したのは、月人と地球人が恋の禁忌を犯したから
ではない。銀水晶の力をもつプリンセス・セレニティが恋をしたから、
その恋が迷信によって禁じられていたから、星が滅んだのである。

そして、ベリルがエンディミオンを愛し彼に象徴される美や権力を望ん
だのであれば、星の滅亡はベリル=メタリア陣営の目論見によって実現
したのではなく、あくまでだれが望んだことでもない不測の事態にすぎ
なかった。禁じられた恋が招く天罰としての破滅ではなく、恋の禁止に
基づく悲恋の運命が、誤算としての破滅をもたらしたのである。

えてして迷信とはこういうものではあるが、このストーリーでは原因と
結果が逆転して循環論法的に宿命を形成しているのである。

つまり、このストーリーを前提にして「前世の宿命」を語るのならば、
ベリルによる衛の略取のみならず、それ以前のルナたちの反対や美奈子
の妨害もまた前世の宿命の完遂に至るプロセスの一つだったということ
になる。だれの行動が正しかったということもない、だれもかれも皆、
宿命の蜘蛛の糸に踊らされていたにすぎないのである。これまでの物語
の流れそのものが、前世の宿命をなぞったものにすぎなかったというこ
とになる。

こうした構造が露わになってしまえば、破滅を回避するためにやらねば
ならないことは、本来一つしかない。プリンセス・セレニティとプリン
ス・エンディミオンとしての前世を背負ううさぎと衛の現世における恋
を成就させること
、これしかない。

ならば、衛を略取したベリルの妄執こそが世界を破滅に至らしめる愚挙
であり、その間の事情を明解にしてしまえば、実は物語の結末における
破滅は回避可能だったのである。ごく普通に、悪の首魁であるベリルを
倒し、四天王の安全を確保したうえで衛を奪還すればセレニティによる
力の暴走は回避可能であった。

しかし、なぜか今回の開示においてその間の事情は曖昧なまま放置され
衛の手でプリンセスを抹殺せよとベリルが迫ることで、悲劇の回避に至
る道筋が閉ざされる。さらに、本来銀水晶の力は制御不能のものではな
いはずなのに、メタリアの力の増大が銀水晶のせいだとすることで、
水晶が存在する限り物語が完結しない
ということにされてしまった。

本来的には、銀水晶の力とメタリアの力に相関があるのであれば、極性
が逆でなければならないはずだ。力というのは相克・相成するもので、
相成する一方で極大に向かう力というのはあり得ない。それは一種超越
的に直観されるバランス感覚であり、この物語においては、力は無前提
の力でしかないのだから、相成によって増大する一方の力というのは、
永久機関に類似の詐術でしかないのである。

力の極性を無効化する手続によって二項対立の構図を回避したのであれ
ば、メタリアと銀水晶の力に相成による極大化の相関をもたせるのは、
ご都合主義というものだ。普通一般には、二項対立の構図を採用するか
らこそ、力同士が相克・対消滅するという前提で、極大へ向かう相関を
設定できるのである。

なぜなら、二項対立として設定されている二つの力が相関によって極大
へ向かうとしても、極性が逆であることで対消滅によって差し引き計算
のバランスが保たれるという直観が働くからである。メタリアと銀水晶
のように、極性が設定されていないのに相関して極大へ向かう力は無限
増殖であって、物語における超越力の設定としては人間の本然的な直観
に背くのである。

ここにはなぜか、回避不能な悲劇へ導こうとする意図がある。本来的に
は十分回避の方法があるにもかかわらず、このような不自然窮まる力学
構造を設定してまで、作劇的に脱出不可能な陥穽へ物語を導こうとする
意志がある。

このような不自然な力学的構造の導入は、結果として星の破滅と再生に
よって超越力を蕩尽するという、これまた不自然窮まる落としどころに
決着せざるを得なかった。メタリア自体は衛の挺身によって滅びている
のだが、そこで突然メタリアと銀水晶の相関は途切れ、対消滅ではなく
一方的な蕩尽というマッスの問題に帰着する。二つの力は、個別のプロ
セスで解消され、やっぱり相関のない無前提の力でしかなかったことに
なってしまう。

ここは非常に歯切れの悪い成り行きである。超越力一般に対する受け手
一般が共有する本然的な直観を無視して、便利に使っただけという印象
に堕している。しかもそれは、物語を円満に着地させるためではなく、
不自然な状況を招来させるために不自然な手法が採用されているのだ。

物語上の困難は解決を前提としたフィクションでしかないはずなのに、
困難を設定する過程で解決への道筋をすべて潰しているのである。問題
と解決の構図上に、克服を前提とした課題を設定するのではなく、解決
を拒絶するための困難
を設定している。パズルには解法があるからこそ
頭を悩ます価値があるのであって、最初から解決の方図がない設問など
だれも望みはしない
のである。

いろいろと考えてはみたのだが、なぜここで物語が挙げて悲劇の方向へ
流れていったのか、その理由がわからない。いや、もっと正確にいえば
悲劇を回避しようという意志をつくり手が放棄した理由がわからない。

前回語ったようなプリムンの設定に内在する滅びの不可避性、これは、
一種作劇上の課題であったはずだ。前回も留保を附けたように、滅びの
結末を回避するという一点において、打てる手はあったはずだ。それを
今回のエピソードにおける状況説明で早々と潰している。

その存在に内在する不可避性を補強するようなかたちで物語上の困難を
設定している。初見当時の感覚でいえば、オレはさらに不安を覚えた。
なぜなら結末を強力に拘束するプリムンというキャラクターを設定して
おきながら、物語を悲劇に誘導するのはあまりにも易道だからである。

公式サイト担当者が語る「どんな展開であれ、一方では『明るく楽しい
セーラームーン』をなるべく守ってもいきますので、よろしくお願いし
ます!
」という口約束の「一方では」「なるべく」という留保の言葉が
なんと黒々と大きく見えたことよ(笑)。

少なくとも、当レビューにおける「鬱展開」の意味とは、今後何話にも
わたって批判的な言辞を長々と書き連ねなければならないという予感

指すものである。

それから、今回は衛とクンツァイトの対決がちょっとした山場になって
いたが、結局当レビューで提示したようなクンツァイトの真意について
の疑問はスルーされたようで、衛の過去の「裏切り」については、詳細
はわからないままである。

クンツァイトが衛を敵視する理由、「裏切り」と表現される事柄が詳細
に提示されない限り、今ひとつクンツァイトの側の動機に感情移入でき
ない憾みは残る。エンディミオンがセレニティを愛するのは禁忌の侵犯
ではあっても、四天王たちに対する裏切りにはならない。ことに、今回
明らかにされたような事情で滅びが招来されたのであれば、四天王側に
エンディミオン個人を恨む動機はない。

これは、クンツァイトの恨みが筋違いだといっているのではなく、彼が
敬愛する主君を恨むに至った、回心の心理の機序が理解できないという
ことだ。それが「私は、それに関わった者すべてを消す」「当然私自身
」という目的に結実する機序も想像できない。

それは一方ではクンツァイトが何を賭けて復讐を目論んでいるのかが、
この期に及んでもわからないからでもある。あの滅びに関わった者すべ
てが憎いというほどの、何が喪われたから憎しみが生まれたのか。これ
は受け手の想像に任せる部分ではなく、送り手がハッキリ描くべき事柄
である。

そうでなければ、この物語におけるクンツァイトは、受け手から共感を
受ける人物ではなく不可解さで興味を惹く人物でなければならないが、
これまでのシリーズの流れを視るに、そのような人物として設定されて
いたとしても、すでにそうした役割を演じるべき時期をすぎている。

今回の描かれ方を視るに、すでにクンツァイトにまつわる事情はすべて
説明が済んでいるかのような扱いになっている。おそらく、事実関係の
レベルではこれ以上の説明が為されることはあるまい。

しかし、事実においてクンツァイトの動機は未だ不可解なものでしかな
いし、受け手に開示された情報の範囲内では、彼の心理を類推すること
は不可能である。この時点で、クンツァイトは観客にとってあまり魅力
的な人物ではなくなってしまった
。ダークキングダム城内の衛に力押し
で撃ち掛かっては、ベリルの魔力で押し留められる情けない人物に成り
下がってしまった。

これまで数々のドラマを惹き出してきたトリックスターの凋落は、観客
にとって残念な成り行きではあるが、彼に替わってドラマを与えられた
のが、ベリルへの忠誠を裏切られた挙げ句、人間界に独り取り残された
ネフライトである。

裏切りと憎しみ、復讐という要素は、そのままネフライトにスライドし
て受け継がれていく。さらに、あろうことかネフライトは水野亜美への
歪んだ想いをもクンツァイトからぶん獲ってしまう
のである。

物語はあらゆる意味で悲劇的な流れを辿り始めた。シリーズ前半の奇跡
のドラマは、仕組まれた悲劇のなかに解消されようとしている。こんな
流れのなかで新たに始まったネフライトのドラマは、円満具足な着地点
を見出すことができるのか。

まあ、それはおいおい視ていくことにしよう。

さて、最後に小ネタを少々。前回までの小林カメラマンに替わって今回
から上林秀樹が入っているが、東映制作の一般ドラマを数多く手がけた
ベテランということだ。小林カメラマンがAct.33から四話で交替、上林
カメラマンが今回からAct.42までの六話を担当ということで、かなり目
紛しくカメラマンが替わっている。

この辺は白倉が一般ドラマで培った人脈ということなのだろうが、その
ツテがなかったら、この番組のようなイレギュラーな枠のクオリティを
維持するのはたいへんな苦労だっただろう。ハードワークには慣れっこ
の東映特撮とはいえ、いのくま・松村のクレジットを頻繁に見るにつけ
最早東映特撮の人材だけで廻していくのは難しいだろうと感じる。

その上林カメラマンの手腕だが、アバンばかり例に引くと手抜きと思わ
れるかもしれないが、じっさいファーストシーンというものにはカメラ
マンの特色が出るもの
なのかもしれないと思う。このアバンの絵面は、
すべて手前を寄り目でナメて、割合近い間合いで奥行きをつくるという
構図になっている。

なぜ近い間合いになっているかといえば、それはもの凄く極端な寄り目
で手前の画を押さえているからで、人物がちょっと動くとすぐにカメラ
の真ん前に来て極端なアップになってしまう。

ここだけではなく、全般に手前を極端な寄り目で押さえる傾向があるよ
うで、セラルナの後頭部ナメなんか画面のほぼ半分がお提げというほど
もの凄い寄り方をしている。じっさいにはそれほど他のカメラマンと絵
面が違うわけではないが、ことあるごとにとにかく寄る、近い間合いで
煽る、なにかをナメる撮り方の印象が強い。カメラが常に役者の真ん前
に来ていて、撮影姿勢が極端な前進守備という印象だ。

そういう意味では、先ほど触れた亜美ちゃんの魚眼ショットも、このよ
うな手前ナメ主体の撮り方の延長にあるからこそ違和感がないという見
方もできる。

東映特撮と一般ドラマのカメラマンの違いといえば、やはりフィルムと
ビデオの違いといえるだろうが、ここまでトラックアップ主体で寄り目
の撮り方をするのは、やはり古株のテレビドラマの人だからだろうか。

まあ、この問題に深入りするとえらい苦労をするということはわかって
いるので、この辺にしとくけどね(笑)。

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Act.38 月ぞ悪魔

Act.35の鈴村復帰以降のローテ調整が、脚本執筆段階では流動的だった
のではないかという憶測は、今回のエピソードを視るとますます信憑性
が高くなってくるように思える。

なぜなら、今回のエピソードは心象世界におけるうさぎとプリムンとの
語らいを枠物語とした総集編だったが、総集編ということならわざわざ
高丸なんかにやらせなくても、鈴村展弘という立派な総集編監督がいる
じゃないか(木亥火暴!!)。

…一応断っとくけど、これ、他意のないギャグだから(木亥火暴!!)。

まあ、つまんないネタはさておき、プリムン登場後の新たなステージへ
向かうための状況説明のエピソードに続くのが、うさ・まも関係の変遷
を振り返る総集編というのは、流れとして少し盛り上がりに欠ける嫌い
もないわけではない。

前回が前世の悲劇の真相を明かすエピソードで、今回はそれを受けてこ
れまでを振り返り整理するエピソードということで、ハッタリに満ちた
プリムン爆誕以来、二週にわたって事件らしい事件が起こらなかった
いうことになる。

まあ、じっくり腰を落ち着けてこれまでの落ち穂を拾う解説エピソード
もたまには必要だが、この総集編をこのタイミングでもってくるのは、
ちょっとどうなのだろう。

プリムン誕生→前世の悲劇の真相開示→現世の恋の再確認という流れで
置かれると、こういう総集編は嘘も隠しもないただの総集編にしかなら
ないのではないか。もちろん、そういう狙いなのかもしれないが、二人
のこれまでの経緯をただの既成事実として語ってしまうのでは、物語の
積み重ねがもったいない。

新しいステージへ向かうためにこれまでを総括するというのは、一見、
当たり前の手続のように思えるが、後半の軸となるうさぎと衛の関係を
この時点で総括してしまうと、新たな展開においてこれまでの積み重ね
がものをいうというタイプの話がつくれない

新展開の前段階で総括された事柄は、向後の展開を受けてさらなる変遷
を蒙るものだ。しかし、今回総括された事柄の結論は、いかなる変遷を
蒙ろうとも堅持されねばならない究極の結論でなくてはならなかった。
すなわち、「絶対、星なんか滅びない」という結論である。

世界の命運を賭けた宿命の恋を完遂する決意は、この一言に集約されて
いたはずだ。前世にいかなる悲劇があったとしても、今生の二人は前世
の悲恋の主人公たちとは別人である。過去の悲恋が星の滅亡という悲劇
に決着したとしても、今生の恋は過去のくり返しでは決してない、違う
生を生きているのである。

だからこそ、「信じるか。オレは信じない」「おまえといっしょに証明
する
」「絶対、星なんか滅びない」という力強い誓言によって、今生の
二人はすべてを踏み越えて相抱擁するのである。この誓言は宿命の呪縛
を出でて完遂されねばならない物語の呪縛
である。物語内要素でしかな
い宿命の呪縛よりも、物語を語る行為それ自体にまつわる呪縛のほうが
強力なのは、理の当然なのである。

ならば、その誓言に帰着する恋の来歴は、悲劇に向かおうとする物語に
おいて、悲劇的結末を回避する力として作用するのが、本来的な作劇の
セオリーである。なぜなら、「絶対、星なんか滅びない」という言葉の
もつ強力な確からしさが、結末における滅亡の回避を劇的なレベルで保
証するからである。

この誓言が破られるのだとすれば、それは語り手の裏切りであり、物語
は完膚なきまでの悲劇として決着しなければならない。この言葉が発さ
れた以上、滅びの結末を避け得ぬ絶対の悲劇か、それを敢然と回避する
ハッピーエンド以外の結末はあり得ない。そうでなければ、この誓言を
帰着点とする一連のドラマの積み重ねはその場限りの嘘になってしまう
からである。

あの得恋の高揚と揺るぎない約束の言葉が、非情な宿命の力によって嘘
にされてしまうのであれば、確かなものなどこの世にはないのであり、
どんな幸福も快楽も所詮一時の気慰みでしかない。人は困難に打ち勝つ
ことなど叶わず、人智の与り知らぬ大きな力に弄ばれるだけのちっぽけ
で哀れな存在にほかならない。

悲劇とは、将にこうした極性をもつ悲愴なドラマである。人の世の哀切
を極端に誇張して語ることで、宿命という巨大な力に対する人間の卑小
さ無力さを強い共感をもって実感させ、哀しみの涙で胸奥に蟠る憂いを
洗い浄める物語形式である。

悲劇的結末を志向するということは、このような情感を狙うということ
である。人が己の無力さに涙し、意志的な営為があえなく破綻する瞬間
の自棄的な快味に身を委ねるカタルシスを狙うということだ。それは、
この物語がこれまで描いてきた美しい嘘を、本当の嘘にしてしまうこと
でしかない。

衛の誓言とプリムンが内包する破滅の宿命を天秤に掛けたうえで、なお
悲劇的結末を志向するのであれば、これまでの物語で描かれてきたポジ
ティブな主題はすべて否定されてしまう。結末が物語の意味を拘束する
のであれば、これまでの物語で描かれてきた一連の積み重ねは、否定の
対象を特定するための積み重ね
でしかなかったということになる。

またしても井上敏樹を引き合いに出すが、井上敏樹の作劇においては、
結末が物語全体の意味性を拘束することはない。彼の作劇では積み重ね
によって生起する物語の意味性が意図的に無効化され、物語で描かれた
すべてのイベントは、常にその場限りの感興でしかない。「オレはもう
迷わない」と決然と言い放った主人公は、その舌の根も乾かないうちに
もうウダクダと迷っている。これは井上敏樹個人のドラマ観、人間観が
そのようなものなのだから仕方がない。

人間にとって意味がある時制は現在でしかない。このような認識は井上
も小林も共通しているが、その顕れが違っているのである。小林靖子の
場合は現実レベルで現在に特権的な意味を認めているのだが、井上敏樹
の場合は作劇レベルで今この瞬間にしか意味を認めていないのだ。

どちらが正しいということでもない、それは作劇観の違いにすぎない。
ただ、井上流作劇法では過去にいかなることが起こっていようと、さら
には結末がどのようなかたちに終わったとしても、語りの時制における
現在は、過去にも未来にも拘束されない無制限の自由をもっている。

そうした無前提の自由のなかで今現在の在り方を決定するのは、意味性
ではなく井上敏樹という物語の神の「俺イズム」という感じ方である。

そしてその俺イズムは井上敏樹という個人の自分史と密接に結び附いて
おり、余人と論理的に共有可能な理由附けは与えられていない。諸処で
為された井上の発言から感じ取れるのは、このような一種「流行作家」
的なポジションを進んで担おうとする先鋭な意識である。

かつて森田芳光が「流行監督宣言」を行い、日本映画のフロントライン
に立つことによって、彼個人の作劇上の自分史を日本映画史の流れへと
重ね合わせ、停滞した日本映画界を強引に前へ進めようと目論んだよう
に、ある種「流行作家」のポジションを担う井上敏樹は、特撮ヒーロー
番組というジャンルにおいて、井上個人の自分史を戦略的な「外し」の
センスとして展開しているように思える。

常套的な作劇術を「ダサい」「古い」「昔は凝ってたけどもう飽きた」
と論理的な批判もなく斬って棄てる乱暴な言動は、自分個人の感じ方が
特撮ジャンルにおける最先端の作劇センスなんだという肥大した自意識
の発露のように思える。

それはそれで役割論の範疇の事柄だし、先父伊上勝の影響力が未だ残る
時期に東映特撮に乗り込んで実績を積み重ねた彼にとって、そのような
役割を担う必然がある。荒川稔久や小林靖子ら後輩の面倒見の良さは、
彼個人の性格もあるだろうが、こうした役割意識と無縁ではあるまい。

メリもハリもなく急展開ばかりがのべったり転がり続けるような、現在
の目で視れば退屈でさえある伊上流作劇術の骨格は、ある意味ではその
息子にも受け継がれているのだろう。今という時制において新しい表現
に拘る井上敏樹にとって、意味性も積み重ねもセオリーも、なんら拘束
要素ではあり得ない。

しかし、小林流作劇術はこのようなものではない。彼女はなにもないと
ころから痙攣的になにかを捻り出すような井上敏樹的なハッタリを得手
とするタイプではない。過去に語られたなにかを前提とし、それが作劇
上の拘束要素として作用するからこそ、物語というたしかな輪郭をもつ
意味構造を構築し得るタイプの作家である。

今回のエピソード執筆の時点では、プリムン登場以来当レビューで詳説
してきたようなネガティブ要素を、無意識裡に感得していたのかもしれ
ない。それこそが「文芸的な勘」というやつだ。

プリムン登場以前の物語は、明らかに前世の宿命を回避する結末を強力
に志向していたはずだ。現世の二人を囲繞する数々の障害を蹴散らして
二人が相抱擁するに至る決め手を衛の誓言に設定した以上、それは物語
のハッピーエンドを先取りした成り行き
である。

この先いかなる艱難辛苦が二人を悩まそうとも、二人の愛が物語のメタ
的な次元において肯定されている以上は、ハッピーエンドの結末が必ず
成就されなければならない。嬉しい実感、努力が酬われる希望、どんな
困難をも乗り越え得る人間の可能性、そうした実感を決して裏切らない
誠実さ
こそが小林脚本の「男気」である。

しかし、そのような結末を目指すべき物語の直中に、結末を強力に拘束
する破滅の使徒が唐突に降臨してしまった。この困難は、小林流作劇術
では決して乗り越えることができない。なぜなら、プリンセスムーンと
いうキャラクターは、星の破滅をもたらさない限りまったく存在意義の
ない物語要素
だからである。

それがほかならぬ主人公のうさぎの今後を決定附ける物語全体の核心的
キャラクターである以上、黒木ミオやセラルナのように脇に廻して適当
に胡麻化すというわけにもいかない。物語終盤の展開がプリムンを軸に
したものである以上、その物語要素を十全に活かすなら、星は必ず滅び
なければならない。

ここにおいて、劇的力学の必然として悲劇的結末が決定附けられ、さら
には従来の物語を裏切らないためのハッピーエンドもまた実現されねば
ならないというダブルバインドが立ち塞がってくる。

ここまでいえば、この番組がなぜあのような不可解な結末を迎えたのか
だれにだってわかるだろう。大前提としてこの物語はハッピーエンドで
終わらねばならないのだが、それと同時に悲劇的結末もまた実現されね
ばならなくなってしまったのである。この二つの結末がもろともに実現
されねばならないということは、プリムンの誕生時点ですでに語り手に
感得されていたようだ。

なぜなら、心象世界内においてうさぎとプリムンが語らうというかたち
で現世の恋の経緯を振り返るストーリーがこのタイミングで語られるこ
とは、衛の誓言を不確かに揺らがせるばかりでなく、うさぎとプリムン
の二者の内的葛藤によって破滅を回避するという選択肢をも潰してしま
からで、ここにも悲劇的結末へ向けて播かれた種があるのだ。

普通一般にこういうかたちのエピソードを設けるのは、たとえばプリム
ンによる破滅の脅威がクライマックスに達したタイミングで、うさぎと
プリムンという同一人物内の二者の葛藤によってプリムンの怒りを宥め
破滅を回避するため
である。本来なら最終回のAパートにでも置かれる
べき物語要素なのだ。

プリムンの抱える恨みは、「生まれ変わっても、この星でいっしょには
いられない
」というものであり、当レビュー流に言い換えるなら、設定
された困難を解消できない苛立ちである。しかし、今回語られたような
うさぎと衛の恋の変遷は、そのような困難を二人で乗り越えてきた歴史
である。その恋の帰着点として衛が発する誓言は、恨みの権化としての
忿怒相であるプリムンの心をも宥め、その行動を拘束するだけの説得力
をもっているはずだ。

現世におけるエンディミオンである衛が、現世におけるセレニティであ
るうさぎとの恋を貫くために力強く発した誓言、それは忿怒相としての
プリムンを宥め、慈愛のセレニティを呼び戻す力があったはずだ。その
言葉に至るまでの艱難辛苦の道のりを振り返ることで、その言葉に物語
の積み重ねに基づく大きな力が宿ったはずなのだ。

だが、今回のエピソードにおいて、うさぎとプリムンの内的対話という
仕掛けも、物語の積み重ねによって力をもつ衛の言葉も、単なる回想と
いう以上の扱いを受けない
。悲劇を回避する切り札が、単なる総集編の
ための口実という無造作な扱いで使い捨てられ、本来もっているはずの
力を削ぎ落とされている。

それを検証するために、この辺りで今回のエピソードの枠組みを詳しく
振り返ってみよう。

まず、前回の引きを受けたアバンから、駆け寄ろうとする四戦士を制し
プリムンは何処へともなく消え失せ、ビルの屋上に姿を顕わす。ここで
先ほど引いた「やはり生まれ変わっても…」という独白を漏らすカット
は、強い風に靡く髪という絵面と生音を切ったセリフの附け方の対照に
よって夢幻的に美しく表現されている。

目映い光芒を放って再びプリムンが消失すると同時に、何処ともしれぬ
白い空間に移動し、そこへうさぎが歩み寄ってくる。この場限りの表現
として視れば、こういう仕掛けは同一人物内に同居する別人格の描き方
としておもしろいが、こうした意匠がある種の矛盾を内包していること
も事実である。

つまりこの描き方では、何処ともしれぬ心の次元の空間があって、そこ
で現実に表出するうさぎとプリムンの人格が交替しているような見え方
になるからだ。そうだとすればうさぎとプリムンは相互に入れ替わる際
互いと対話がもてることになってしまう。さらに、プリムン出現時に
も心象世界レベルではうさぎの意識が途切れていないことになる。

しかし向後のエピソードを視るに、最終回まではうさぎとプリムンの間
でコミュニケーションがもたれた節はない。それができるのであれば、
うさぎには常にプリムンを説得する機会があったわけだが、そのような
かたちで二者の内的葛藤があったような描写はいっさいなかった。

それを許してしまえば、今後描かれるようなプリムンによる問答無用の
破壊行為や一途に破滅を志向する作劇に無理が生じてくるからである。
今後のエピソードでうさぎが堪え忍ぶのは、自分自身の感情の高ぶりで
あって、プリムンという別人格の暴走ではないのだが、実は、この図式
には微妙な胡麻化しがあって、本来的な課題であるはずのうさぎとプリ
ムンという二者の直接的な葛藤は曖昧に回避されている
のである。

さらに、うさぎの感情の高ぶりが引き起こすのは銀水晶の力の高揚なの
だが、この力の高揚がかつては癒しの効果をもっていたのに、プリムン
登場以後は破壊の力と位置附けられ、うさぎの感情の高ぶりと星の滅亡
が関係附けられているが、これもまた一種の胡麻化しである。

近々のレビューで強調しているように、銀水晶の力自体には極性がない
という意味附けになっているのだから、本来うさぎの感情の高揚は星の
滅びと直接の関係をもっていない
はずなのだ。その滅びをもたらすのは
うさぎの人格を圧倒して顕現するプリムンという別人格の感情もしくは
意志なのだが、作劇上無視できないはずのそのような事情の弁別もまた
曖昧に混同されている。

こうした曖昧さや意図的なミスリーディングは、星の滅びという悲劇的
結末へ向けた強引な舵取りによって生じた歪みである。数十の挿話群が
総体として向かいつつあったのとは逆の方向へ急激にハンドルを切った
ことで、積み重ねられた意味性が荷崩れを起こしているのである。

また、この心象世界から現実の世界に戻る際の描写も少し問題含みで、
プリムンに時計を渡したあと、うさぎはこの世界からフェードアウトし
て、一人残ったプリムンが来るべき悲劇への不安を述懐して消えると同
時にビルの屋上にうさぎが出現する。

これではあの心象世界が、うさぎとプリムンとは離れて存在する次元で
なく、プリムンの心象世界であるような印象につながってしまう。その
ような印象は、前回詳しく触れたような「うさぎがプリムンの非本来的
な一部」という印象につながり、うさぎのキャラクターをさらに弱めて
しまう。

つまり、最後の最後で現世の人格を突き破ってプリムンが本来的な人格
として出現しても不自然ではない
という予兆が、このときすでに兆して
しまっているのだ。うさぎという現世の人格は、それを押し留め得るだ
けの強いキャラクターではないかもしれない、そういう予感が植え附け
られてしまったのだ。

さらには、ここで語られるうさぎの回想は、まったくプリムンに対して
影響力をもっていない。引いては、うさぎにとって意味のある「絶対、
星なんか滅びない
」という言葉もプリムンは信じない。それは、困難を
克服し得る人間の可能性を信じないということであり、現世の衛を信じ
ないということ
だ。

この何ものをも信じない人をどのように回心させることができるという
のだろうか。おそらくこの対話が、破滅の危機の直中でもたれたのなら
劇的力学からいって、うさぎの回想は、引いては衛の誓言はプリムンを
動かさずにはいないだろう。登場直後のこのタイミングで語られるから
こそ、滅びを回避する切り札としては無効化されてしまうのだ。

本来なら怒りに狂える人を呼び覚ますための切り札である言葉が、プリ
ムンが何ものをも信じない人であることを説明するための前提になって
しまったのである。

このようにして、ある結末へ向けて動いていた物語は、そこへ向かおう
とする推進力となっていた意味性の積み重ねを次々と無効化し、今この
瞬間から新たな積み重ねを始めることとなった。さらには、その新たな
積み重ねもまた最後の最後の瞬間に無効化され、描写の積み重ねによる
実感がいっさい削ぎ落とされ、意味的に去勢されたニヒリスティックな
ハッピーエンド
が実現する。

オレには、この番組においてまで、なぜこのような不経済な作劇が要求
されねばならないのか、それが理解できない。描写の積み重ねが総体と
して蓄積した意味性を、その都度その都度無為に蕩尽する浪費的な作劇
など、井上脚本作品だけでたくさんだ。そんなことがしたいのなら小林
靖子に書かせる必要はない。

これを演出法に喩えるなら、たとえば野長瀬三摩地や飯島敏宏に実相寺
の真似事をやらせてもつまらないガラクタしかできないだろう。ドラマ
性を追求する作風と、ドラマ性から遁走する作風では、作劇の方法論は
本質的に相容れないのだ。

誤解のないよう言い添えておくと、オレがここで論じているのは、特定
個人の容喙によって、これまでこの番組が築き上げてきたものが台無し
にされたという、事実の側面に関する批判ではない。

小林靖子の本来的な作風である合理的な意味感覚に基づく蓄積的な物語
が、ここへ来て白倉+井上ラインの作風である意味性の拒絶に基づいた
蕩尽的な方向性への揺り戻しを蒙っている、という印象を語っているの
である。下世話な喩えを用いれば、堅実にこつこつ貯めてきた虎の子が
突如として銀座の一夜の豪遊にむなしく蕩尽され、剰え今度は計画的に
借金までして翌日の豪遊に備えているような、一種陰惨な印象について
語っているのである(木亥火暴!!)。

それが本人の発意に基づくのか他人の容喙に基づくのか、そんなことは
どうだっていい。要するに、三十数話のエピソードの積み重ねによって
蓄積された意味性を一挙に蕩尽し、必要不可欠とは思えない悲劇的結末
への布石を準備し始めたこと、これがそのような印象を与えるのだ。

くり返しになるが、井上敏樹ならそれでもいい。先の喩えでいうなら、
井上敏樹は確信的に宵越しの銭をもたない作風を標榜しているのだから
借金はあっても貯金はない。だが、小林靖子はおそらく体質的に意味性
の蓄積に基づく作劇法以外のセオリーをもち得ない。

蕩尽的な祝祭性は、宵越しの銭をもたないような切っ離れの良さがあれ
ばこそ軽快な娯楽として成立するが、否応なく何ものかを蓄積せざるを
得ないような体質においては、経済の破綻がもたらす自棄的な快味しか
もたらさない。それは、たとえば「嘆きの天使」の類型に連なる破滅の
物語がもたらすビザールな感傷に近い。

要するに、小林靖子的な語りの体質においては、意味性の蕩尽がさらに
もたらす意味性が重くなりすぎてしまうのだ。これまで語ってきた物語
の積み重ねを振り捨てたなら、プリムンの存在が強いる悲劇的結末など
真に受けず無視してしまえばよかった
のである。

意味性の蓄積に基づく作劇とは、つまり出発点における多様な選択肢を
どんどん限定していく方法論である。語りの作法が本質的には意味性の
コードに基づくものである以上、物語の進行に伴って「こうであらねば
ならない」方向性が自ずから決定されていく。このような成り行きは、
人間が言葉という意味性を頼りに生きる存在である限り、一種万古不変
のプロセスである。そこには、ある意味何の新味もない。

意味性からの遁走は、こうしたプロセスにおいて敢えて多様な選択肢を
堅持しようとする試みである。非意図的にこれが成立している例として
は、たとえば大映ドラマがそれに当たるだろう。強引な作劇感覚による
選択肢の多様性が突出した結果、場面場面の痙攣的なインパクトのみが
ドラマ的内実となり、描写の積み重ねによる意味性が崩壊している。

ある意味井上脚本作品はこれと類似の構造をもっているが、大映ドラマ
が波瀾万丈の劇的起伏を目指すことでメロドラマ的な泥臭さを醸し出し
ているのに対して、井上脚本作品は定石外しの新鮮味をねらっている。

ごく当たり前のことだが、定石はだれにでも予想が附く筋道だから新鮮
味がないのである。そして、定石がなぜだれにでも予想が附くかといえ
意味性の成立する筋道が自ずと限定されるから演繹可能なのである。

逆にいうなら、積み重ねに基づく意味構造を目指すなら定石は外せない
のだし、定石を外すならば意味性の成立を諦めねばならない。かくして
だれしもが予想可能な退屈な筋道から遁走するために、この種の物語は
絶えず降り積もる意味性を蕩尽し、非日常的な祝祭空間を現出させる。

大映ドラマしかり、井上脚本作品しかり。さらにいうなら実相寺作品は
意味性からの遁走の極みである。実相寺作品には徹底して意味がない
描写が意味性を顕わそうとする局面では、必ず注意深く意味性の崩壊が
目論まれ、映像作品を成立させるコードからも遁走が仕組まれている。

意味性と無縁なのではなく、映像作品のコードのなかでどのような局面
で意味性が発生するのかを知悉したうえで、そこからの徹底した遁走が
図られているのである。

実相寺は映像の連結が意味を生起させるコードに無頓着なのではない、
あの時代の映画人らしくコードに対する意識と知識はあって、そのうえ
で反・意味とでも表現すべきスタンスを頑なに堅持しているのだ。

対するに、井上敏樹はむしろ意味性やコードに対して無頓着である。彼
の文学性は緻密な論理や明解な理論に裏附けられたものではなく、多分
に感覚的なもののように感じられる。文芸的な勘はあるが理論も思想も
ないのではないだろうか。なぜなら、「外す」という方法論は勘働きを
恃む多分に感覚的なものだからである。

そうした感覚的な井上流作劇術は、一般的な作劇作法のファッションは
別にして、特撮ヒーロー番組のジャンルにおけるファッションリーダー
的なポジションにあると思うのだが、それは前述のとおり彼が斯界にお
いてそのような役割を担う意識をもっているからである。

割に広く識られているとおり、非意図的な諸要素の綜合として生起する
社会的潮流を意味するトレンドと違って、ファッションというのは特定
のだれかが意図的に決めているものだ。井上流作劇センスが「新しい」
のは、彼がフロントラインにいるファッションリーダーだからであり、
その前提を外してしまえば、井上流作劇術には何の意義もない。

たとえば、彼の父である伊上勝と井上敏樹を平等に過去のものとして俯
瞰する視座
に立てば、両者の軌跡は驚くほどに似通っていると感じられ
るのではないだろうか。井上敏樹が特撮史上に名を遺した傑物の不肖の
ドラ息子であった時代は、おそらくシャンゼリオンの当時に終わった。

たとえば、今現在の視聴者が井上脚本作品に感じるおもしろみというの
は、伊上脚本作品がリアルタイムで通用していた時代に一般的な視聴者
が感じたおもしろみと、驚くほど近いのではないだろうか。ある種、父
の時代の作劇法は波瀾万丈の起伏を旨とする大映ドラマに近いとは思う
けれど。

ただまあ、率直にいってオレ個人は井上脚本作品にまったく興味を覚え
ないので、同じように興味を覚えない伊上脚本作品に類似の構造を見て
しまうだけなのかもしれない。一種、バイアスのかかった意見なので、
その辺はご斟酌いただきたい。

さて、このような井上イズムが白倉伸一郎の思想形成に大きな影響力を
もっていることは、複数のインタビューや対談から伺い知ることができ
るように思う。少なくとも、特撮ヒーロー番組に対する白倉の思想は、
井上敏樹の思想と同一文脈上にあり、持論の多くを共有している。

ある種、井上敏樹と二人三脚でキャリアを積んできた白倉のこれまでを
思えばそれも当然である。これまでの論旨では、文芸の勘、理論という
点について、意図的に白倉と井上を対照的なポジションに規定して語っ
てきたわけだが(笑)、そうした措定的な対照はあるにせよ、思想的文脈
とある程度の持論を共有していることによって、この二人の組み合わせ
がある特定の作風を成立させてきたことは疑いない。

そして、井上が白倉に対して影響力をもっている以上、井上の妹分的な
ポジションである小林靖子が、白倉プロデュース作品においてこの両者
からの有形無形の影響から逃れ得ないことも、ある種仕方があるまい。
ただ、本質的に小林靖子は井上+白倉的な作劇思想とは相容れない個性
であるとオレは考える。

この三人が組んで創り上げた仮面ライダー龍騎という作品は、オレ個人
の感覚として平成ライダーのなかでいちばん気持ちが悪い。井上+小林
という相容れない個性に基づく作風の不協和音と、小林脚本作品それ自
体に内在する、井上的な外しの方向性を目指しながらも小林的な論理的
作劇法から逃れられない中途半端なキメラ性が、なんとも居心地の悪い
印象を与えるのだ。

井上流の外しの美学は、井上脚本レベルの盛り上がりだから成立するの
であって、小林脚本のドラマ性は少し重すぎるように感じるのである。
さらにそれより多くの例では、箱書きができないという小林靖子の弱点
が、平成ライダー的なシリーズ構成術によってモロに際立ち、意味性に
基づく選択肢の決定という従来の小林的ストーリー構築法が破綻して、
芯も骨もないエピソードがダラダラ続いていたように思う。

小林靖子的なダイアログの熱さは、意味性の積み重ねを外しては成立し
ないのだし、仮にそのような熱いダイアログを湛えたドラマが成立した
としても、前作仮面ライダーアギトと同一線上の物語枠でその種の熱さ
が突出することは、劇的なカタルシスが保証されない「本当らしさ」の
行き場のない暴発でしかない。

だが、龍騎の場合はまだいい。そもそもの出発点から井上+白倉ライン
の物語枠において小林的な作劇法は破綻を運命附けられていたのだし、
結果的に井上がかなりの部分を補填することによって、平成ライダー的
な文脈上のシリーズとして一応の完結をみたからである。

いわば、小林靖子が自身の芸域を拡げるために井上の胸を籍りたような
かたちで決着したのだし、意味性から遁走する井上+白倉的な物語枠に
おいては、意味性の突出すら十分に吸収可能なインプロヴィゼーション
にすぎない。

話をセラムンとAct.38に戻すなら、この時点で物語が抜き差しならぬ転
回点を越えてしまったのは、龍騎の場合とは逆のパターンの事情のゆえ
ではないかと思う。Act.35までのこの番組は、きわめて小林的な話法に
よって貫かれていた。この物語枠のなかにきわめて井上+白倉的な思想
の所産であるプリムンが投入されたわけだが、小林的な話法の埒内では
この非自己的な異物を自己化できないのである。

この喩えでいくなら、強力な非自己の介入に対処するために、自己が非
自己に同化しようと試みた結果として意味性の蕩尽というカタストロフ
が起こったのである。これまで積み重ねられてきた物語が指向する方向
性のままでは、プリムンの存在は自己化できないからである。

そのため、プリムンの介入が想定されていなかった時点における物語は
この時点で一旦杜絶し、ここから新たにプリムンの存在を前提とした物
が始まり、その結果として実現される悲劇的結末を最終的に反転し無
効化することで、杜絶した物語の回復が目指されているのである。

このエピソードの時点ですでにそのようなトリッキーな結末が想定され
ていたのかどうかはわからない。ただ、今回総ざらえされたような経緯
を一旦無効化しなければ、プリムンを中心とする物語は進められないと
いう認識はあったのではないかと思う。

なんにせよ、単なる総集編にすぎないエピソードの読解で先走りすぎた
感もあるし、とりあえず今回のレビューはこの辺で手仕舞いとすること
にしようか。語り残した事柄が、人界に放置されたネフライトと元基の
出会いのみということでは、はなはだバランスを欠いた構成となるし、
それについてはある程度物語が進展した段階で、あらためて触れさせて
もらおうと思う。

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Act.39 十番町の初夏を愛す

まずサックリ謝っておきたいのだが、前回レビューでうさぎとプリムン
の内的葛藤について「向後のエピソードを視るに、最終回まではうさぎ
とプリムンの間でコミュニケーションがもたれた節はない。
」と書いて
しまったが、再度確認したところ、Act.42にも同様の描写があった。

しかも、このエピソードでうさぎに諭されて以来、最終回までプリムン
の暴走は抑えられているので、この部分についての指摘は撤回せざるを
得ないだろう。正直、すまんかった(笑)

Act.42の当該場面に関しては、竹光演出ということで詳説するのは気が
進まないんだが(木亥火暴!!)、シリーズ構成上重要なエピソードなので
そのときにまた詳しく視ていこうと思う。

さて、Act.35の鈴村復帰以降のローテ調整が、脚本執筆段階では流動的
だったのではないかという憶測は、今回のエピソードを視るとますます
信憑性が高くなってくるように思える。

なぜなら、今回のエピソードは…いや、ネタだってばよ(木亥火暴!!)

しかし、リアルタイムでこのエピソードを見終えたときは、軽〜く衝撃
を覚えたのは事実だなぁ。なんせ間に挟んだ鈴村・高丸ローテの四話が
あんなような体たらくだったわけだし、このグダグダ感を払拭できるの
は舞原だけ、さすがに小林靖子も舞原には会心のホンを渡しているはず
だろう
と、かなりアテにしていたのだが。

まあ、ネタはネタとして、今回のエピソードが初期の高丸演出の雰囲気
を濃厚に漂わせていることは間違いないだろう。今回再登場の池田成志
演ずる菅生社長が初登場したのもAct.1112の高丸ローテだし、大袈裟
な擬音の附け方も含めて、意識的に高丸演出をミミックしていたのかも
しれないな。

Act.37で高丸が佐藤演出のパロディを演じたこともあるし、このような
テイストのシナリオが舞原演出回に廻された事情はわからないものの、
要不要からいえば舞原が演出する必要のないエピソードではあっても、
ガチのシリアスエピソードが続いた舞原ローテだけに、こういうお遊び
エピソードの高丸ごっこは恰好の息抜きになったかもしれない。

その一方、今回のエピソードが舞原演出を前提にしていないと明言でき
ないのは、後半の妖魔との戦闘において、ルナ+うさぎという組み合わ
せになっていること、さらにそこからバラけて、ルナ対クンツァイト、
うさぎ対衛という組み合わせの戦闘になっていることがAct.27と対称を
為しているからだ。

ただ、この対称はあくまで表面的なものに留まり、今回のエピソードは
意味的にはAct.27と何の関連もない。Act. 51421の例に視るような
あるいはAct.3334の例に視るような、緊密な意味連鎖に基づく対称と
はまったく違う。

要するに、舞原が担当したAct.27と対称を為すようなシチュエーション
を、同じ舞原の担当回でくり返したというだけの楽屋オチにすぎない。
つまりこのエピソードの監督が舞原でなければ何の意味もない天丼ネタ
なのだから、脚本執筆段階では舞原担当回であることが認識されていた
と視るのが妥当だろう。

だとすれば、それがわかっていてなぜ、今回のエピソードはこのような
アカラサマな暇ネタだったのだろうか。この次のAct.40でもいえること
だが、このエピソードは他のエピソードに比べ演出の裁量でどうとでも
なるバラエティ描写の分量が多い。つまり、その部分は脚本の書き込み
が薄い
はずで、大筋に関連する部分もおざなりに繋いだ感は否めない。

月野母子と菅生社長のドタバタを除けば、アバンから引いた衛の襲撃と
銀水晶の発動のみが事件らしい事件で、育子ママ絡みの一連のドタバタ
はアバンの対決宣言から実際の襲撃までの中を繋ぐアンコにすぎない。

ずばり言って、シリーズ前半の稠密さがまったく視られないスカスカの
脚本
なのである。

舞原演出が必然でないどころか、小林脚本すら必然ではない。話の骨子
は、菅生&育子ママコンビの常軌を逸した悪ノリ炸裂のキャラ転がしが
メインで、この程度の内容ならピンチヒッターとしてアニメ屋上がりの
有象無象
を充てても出来上がりに大差はなかっただろう。

舞原にとってこのローテが恰好の息抜きになったのと同じように、小林
靖子にとっても息抜きのエピソードだったのだろうか。本当のところは
よくわからない。別の見方をすれば、この次の竹光ローテ以降の陰鬱な
展開を控え、この二本が最後のコメディエピソードとなるわけだから、
視聴者にとっての息抜きの意味で設けられたものなのかもしれない。

オレ個人としては、リアルタイムでこのエピソードを観たときは、舞原
が最終回前後のエピソードを相当数担当して、シリーズ最後の幕引きを
務めるものと確信していただけに、一種ラストスパートの過酷な作業を
前にした息抜き
だろうという認識で観ていた。脱力もののドタバタ編で
肩透かしを喰らったものの、割合好意的にこのエピソードを楽しんだ。

そもそも舞原賢三という演出家は、セラムン以前はむしろ今回のような
コミカルで脳天気な作風が印象的だった。東映特撮ヒーローに参入した
ガオレンジャーでも、あの諸田敏とそんなに違う作風でもなかったよう
に記憶している…いや、心の奥底のしっかり鍵が閉まるところに記憶を
封印した番組
なので、正確なところはわからないが(木亥火暴!!)。

主に深夜枠のホラーやヒーロー番組で活躍していた頃は、比較的ユルく
てもっさりしたコミカル演出を得手とする監督という認識しかなかった
が、正直言って際だってどうこういうほど特徴のある演出ではなかった
と思う。当たり前のことだが、番組のカラーに合わせてそこそこ水準作
を撮る、普通のフリーランサー
という印象だった。

要するに、シリアスなエピソードは番組のカラーに馴染んでいてあまり
目立たず、ユルいコメディ演出でようやく「だれ、このユルいヒト?」
と意識するというパターンだったなぁ。オレのアンテナに懸かるような
番組では円谷映像人脈との仕事が多かったので、どちらかといえば服部
光則と類似の作風の演出家
というふうに認識していた。

今回のエピソードのようにユルいドタバタ劇を嬉々として演出している
ようすを視ると、あらためて舞原賢三も高丸雅隆と別種の人間ではない
ことを想い出してしまう(木亥火暴!!)。

ただ、こういうエピソードであっても舞原の演出には明確な目的意識が
うかがえる。これはオレがそう感じるだけかもしれないが、舞原演出回
ということで意図的に設けられたと思しきセラルナ絡みの一連のシーン
の演出には、ことに力が入っているように見受けられるのだ。

今回のエピソードは、一本のストーリーとして見るとどうということも
ないものだが、セラルナの活躍エピソードとして見るとそれなりに華が
ある
。演じる小池里奈当人にとっても、記憶に残るエピソードとなった
のではないだろうか。

なにせ、初登場エピソードで本格的に対戦した相手であるクンツァイト
とのリターンマッチであり、主役のムーンとの本格的な共闘という意味
でもAct.27以来、おまけにドサクサ紛れとはいえ、独力で妖魔を倒して
さえいる
のだから、セラルナ風情としては分に過ぎる活躍である(笑)。

思い起こせばセラルナは、ダーキュリー編が佳境を迎えるAct.27で登場
した、もうタイミングからして中途半端なお邪魔虫キャラだった(笑)。
登場編に対する意見の詳細は当該エピソードのレビューをご覧いただく
として、オレ個人の見解としてはこれまでのルナのキャラとセラルナの
それとの間に乖離を感じたのは事実である。

セラルナというキャラに対する印象も、どちらかというと否定的なもの
であったが、そこはそれ、中の人が小池里奈なので積極的に愛したいと
いう動機もあったればこその違和感
だったわけだ(木亥火暴!!)。

じっさい、初登場からワンクール近い積み重ねがあった今となっては、
それなりに萌えのコツをつかんだというのか(木亥火暴!!)、ぶっちゃけ
かなり慣れてきた部分はあった。初登場時にはいろいろ言ったウィッグ
のカラーも、一種お人形さん的な可愛さを感じるようになった。

その積み重ねのうえであらためてこのエピソードを見る場合、Act.27
同様のシチュエーションで強調されているセラルナの可愛さが際だって
感じられる。菅生社長に強引に奪われたファーストキスに膨れるシーン
をはじめ、ぬいぐるみと人間体を交互に出してキャラの一体感を強調し
つつ、精一杯セラルナの可愛さを引き出しているように見える。

セラルナの撮り方やアングルにも、ちょっとU15アイドルの写真集を
思わせるようなエッチなところがあり、話の本筋にはほぼ無関係なのに
セラルナが前面で目立っている印象がある。キャラを立たせようと計算
するあざとさがなければ、あの年頃の少女に膝を抱えてしゃがみ込むよ
うなポーズをつけるわけがないだろう(木亥火暴!!)。

つか、絶対「おにいちゃんといっしょ」見たろう、舞原(木亥火暴!!)。
研究熱心なのもいいが、ほどほどにな(木亥火暴!!)。

クンツァイトとのリターンマッチも、Act.27の同様のシチュエーション
に感じたような引っ懸かりは感じなかった。敵の目を眩ませる猫騙しの
際の動作の附け方も「おませなコケティッシュぶり」というのではなく
相手を小馬鹿にしてからかう意図や、テンパって舞い上がっている印象
がより正面に出ている辺り、ギリギリこの番組のルナの柄に合っている
と思う。

まあ普通に考えても、シャドーボクシングにしろ鶴翼の型にしろ歌舞伎
の見得切りにしろ、ぬいぐるみルナがやっても不自然じゃないポーズに
徹しているわけだ。前回違和感を感じたのは、やっぱりいくらなんでも
ルナは「うっふ〜ん」と投げキッスしたりお尻振ったりしないだろうと
いうギャップに引っ懸かったのだから、ぬいぐるみルナのキャラの範疇
で動作を附けるのは当然だろう。

そこから天丼ネタの不意打ちがブロックされて金のハリセンに繋がり、
重さによろけて妖魔の脳天を偶然直撃、「今だわ!(なにがどう今なん
だ)
」に繋がる流れもきわめてルナっぽいアバウトさだ(木亥火暴!!)。

しかも小池里奈本人の柄から考えても、お仕着せの可愛さよりこういう
ふてぶてしく活発な感じの演技をさせたほうが本来の柄に合っている。

顔立ちがおとなしめだったり、声を張った感じのアニメ的なテンション
のセリフ廻しが得手ではなかったりするのだから、ベタな萌えキャラ的
方向性を模索するよりも、多少リアル寄りのやんちゃな方向性でキャラ
立てするほうが向いていると思う。

本職の俳優ではない小池里奈の芝居を云々するのは無粋な気もするが、
進悟役の武子直輝のような「うまい子役」的な演技とは違って、年相応
の少女の喋り方として自然に聞こえる、作っているのに変に作ったふう
には見えないという意味で、勘はいいほうだと思う。

たとえば「わたしのファーストキスが…」とボヤく場面でも、この場面
をぬいぐるみに演じさせてもおもしろくないから唐突に人間体に変わる
わけだが、小池里奈が「ファーストキスが…」とボヤくと、相手がカマ
くさい中年男だけに
(笑)ちょっと生々しい印象になる。そういう演出面
の都合を受けてああいう芝居になっているわけだが、キャラの同一性を
確保しつつ笑い事で納めるバランスの芝居としては適切だったと思う。

セラルナというあざとい設定のとんがったキャラと、活発な普通の少女
風の小池里奈の柄、こういう相反するイメージを橋渡ししているのが、
この芝居の肌合いということだろう。

個人的には今回いちばんツボだったのは、スローモーションで背後から
クンツァイトの後頭部を強襲するルナが、歯をむき出していやらしくニ
カッと笑ってる絵面があまりにも悪そうで萌えた
(木亥火暴!!)。

このような、基本的にはよゐこの可愛さがありながらやんちゃな子ども
の毒とでもいうような部分も併せ持つギャップが素材としての小池里奈
の魅力なんだな。

まあ何にせよ、オレはセラルナを悪く言うことはあっても、小池里奈を
悪く言うことだけは断じてないんだけどな(木亥火暴!!)。

またブロワを使って遠距離狙撃してくる妖魔を探知する場面のCGは、
今回のために新規発注したものか、それともセラルナ登場時にストック
しておいた素材の一つなのかはわからないが、あとにも先にも今回限り
の使用
となったわけで、変身バンクと技バンクに加えて特殊能力バンク
とでもいうべきビジュアルの三連コンボが、セーラー戦士らしさを強調
している。

つまり、まこちゃんが森の囁きに耳をそばだてたり、亜美ちゃんが水に
感応して変幻自在な敵を探ったりするような、攻撃技以外のパッシブな
特殊能力
の描写である。まこちゃんのときに詳しく論じたが、こういう
描写があるかないかで、ヒーローとしての印象がかなり違ってくるもの
である。こういう部分一つとっても可能な限りセラルナをフィーチャー
しようとする意欲が伝わってくる。

これは自身が初登場エピソードを演出したまこちゃんについて、Act.21
で前面にキャラ描写を展開した場合と同様、舞原の義理堅い側面が顕れ
たものだろう。

思えばセラルナも不憫なキャラで、この番組のなかではどう考えても重
要度の薄いキャラであり、ストーリーに自然に絡められるほど必然性の
あるキャラでもない。何一つドラマを担っていない、存在意義さえ微妙
なキャラである彼女が、重要な局面で大きな役割を果たすわけにもいく
まい。

言ってしまえば、大人の事情で涌いて出たテコ入れキャラではあるが、
せめて一話くらいはメインで活躍するエピソードがないと、一生懸命に
演じている小池里奈が可哀想だ。その意味で今回は、セラルナのチャー
ミングな部分が正面に出ていて、徹頭徹尾本筋とは無関係な要素で組み
立てられた暇ネタとしては割合楽しめた。

ロケーションが好天に恵まれたこともあって、鮮やかな初夏の陽射しや
新緑の清々しさが絵的にもきれいで、爽やかな季節感を漂わせる舞台で
健康的な少女が元気に躍動する様は、やはりいい。舞原賢三、小池里奈
に対する義理合いは立派に果たしたといっていいだろう。もちろんこれ
DVD一枚分の研究費に対しても言っているわけだが(木亥火暴!!)。

ただ、こうした本筋と無関係な部分はそれなりに楽しめるのだが、終盤
に据えられた本筋の部分には、相変わらず疑問符が附く。

ここ数話のレビューで詳説しているとおり、クライマックスのイベント
プリムンの暴走ではなく銀水晶の暴走である部分が、やはりなんとも
整合性を欠いている。力の暴走の無慈悲さを際立たせるために、一足先
に帰途に就いた実の肉親のシンゴを橋の欄干からぶら下げているが、意
のままにならぬ自身の力に怯えるのか、意のままにならぬ別人格の意志
に怯えるのか、ここが不分明では話の焦点が曖昧になってしまう。

とりあえず今回は、プリムンの破壊行為というかたちにはしづらかった
のか前者を採択してエピソードの結構を保っているが、「肉親すら見境
なく痍附けてしまうかもしれない」という懼れを描く場面で、その原因
を自身の裡なる力の暴走として描いてしまったため、大筋の流れとは整
合しない描写となってしまった。

今回の描写を前提にするなら、うさぎ自身が感情を暴発させることで銀
水晶の暴走を招き、われとわが手で愛する人々とその世界を滅ぼすとい
う結末を用意しなければならないはずだが、今後の実際の流れを視るに
世界の破滅は銀水晶の力の暴走ではなく、うさぎの人格が衰微した結果
出現したプリムンの意志によってもたらされている。

今回のエピソードで強調された「銀水晶の力の暴走」というイメージは
実は大筋の流れとは矛盾しているのである。今後この矛盾は解消されな
いままに、後半の流れを淀ませていく。どこかが喰い違っているという
隔靴掻痒の気持ち悪さを観客の潜在意識裡に喚起する。

また、今回の衛の襲撃の企図も、微妙なズレを含んだものである。愛し
合う二人がなぜ刃を交えて真剣に闘わねばならないのか、その理由附け
として衛は「オレはもしものときは本気でおまえと闘う。オレたちには
それくらいの覚悟が必要なんだ。星を滅ぼさないために
」と語る。

現時点では、それがAct.48の悲劇の伏線としての描写であることはわか
るし、橋から這い上がるシンゴとカットバックしてそのセリフを言わせ
ているのは、二人の恋に賭けられたものの重みを強調する描写ではある
のだが、Act.48からこのシーンを振り返る場合、この時点で衛がすでに
あの誓言の実現を諦めているように見えるのが考え物である。

星を滅ぼさないため」の「それくらいの覚悟」というのは、つまり、
対外的な責任の話である。このセリフを吐くことで、すでに衛は消極的
に責任を全うする決意を固めているように見えてしまう。こんな無謀な
恋を始めてしまったことで世界を滅ぼさないよう、自身が滅びると決意
したように見えてしまう。

しかし、宿世の恋と世界の滅びの回避は、もろともに実現されねば敗北
なのだ
。最初の最初から、勝利のゴールはきわめて困難な境地に設定さ
れているのである。世界の滅びを回避するために愛し合う二人が真剣に
殺し合うのであれば、それもまた敗北なのだ。

この時点で星の滅びを天秤にかけて、形成不利なら互いに闘うというの
であれば、やっぱりそんな危ない博打は最初から打たなければよかった
ということになりはすまいか。「星なんか滅びない」という誓言の強さ
は、どちらかを実現するためにはどちらかを犠牲にしなければならない
という所期条件にまつわるアンビバレンツを打破し、是が非でもどちら
も犠牲にしないという無謀なまでの決意の言葉
だからこそ強いのだ。

どちらかを選ばざるを得ないのなら、すでにこの誓言の強さは無効化さ
れてしまっているのだ。衛の謎の行動の動機が己を殺して衆生を活かす
類の決意に基づくのであれば、じゃあ最初からやめとけよでオシマイの
身も蓋もない話になってしまう。

ここまで徹底して前半のドラマを殺す必要が果たしてあるのだろうか。
このようなドラマの殺害が、後半の展開にどんな感動をもたらしたとい
うのだろうか。

例によっての繰り言で〆るのも気が退けるが、「徹底検証」と謳うから
には最後までこの気の滅入る作業を続けねばならない。今のペースでは
最終回に辿り着くのがいつになるやらわからないが、遂に最後の読み手
がいなくなったとしても、個人のケジメとしてやり抜く所存である。

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Act.40 小さな場所で空騒ぎ

そういった次第で、中身のないエピソードが続く。

前回も中身のないストーリーだったが、今回はさらに輪を掛けて中身の
ないエピソード
である。中身の抜け方は前回と同様で、前回から引いた
アバンの部分が発端であり、エピローグがそれを受けた結末である。

それ以外は、総て中身を水増しするためのアンコにすぎないと断言して
もかまうまい。必要なドラマは、アバンとエピローグの数分だけだ。

より好意的にこれを視るなら、美奈子が引退を決意したことを耳にした
レイちゃんが、マーズ・レイ子となって美奈子と張り合う辺りまでは、
実のある物語要素と視ることができるだろう。しかし、この道具立てで
行くのなら、マーズ・レイ子と美奈子の張り合いを軸としてストーリー
を構築するのが筋なのに、なぜか途中から全員入り交じりの底抜け脱線
ゲーム
に話がシフトして、ここに多くの尺が割かれている。

そもそもマーズ・レイ子というキャラは、戦士の覚醒にからめて美奈子
がデッチ上げた架空のアイドルなのだから、美奈子自身の問題に関する
ドラマでマーズ・レイ子を扱うこと自体は「てにをは」が合っている。

だが、ライバルの出現に負けじ魂を刺激された美奈子にレイ子が「そこ
まで言うなら、勝負して決めてもいいわよ
」と受けるのであれば、その
後のストーリーは一種の芸能バックステージ物になるのが当然だろう。

美奈子の負けじ魂は、自身のアイドルとしての存在価値に関するもので
あるはずで、素人のレイちゃんなどに負けるはずがないという自負心の
ようなものが芯になっていたはずだ。だとすれば、その決着は芸能人と
しての勝負
で附けられねばならないはずだが、実際には何を賭けたもの
でもない、何ら意味のない総当たりゲームの勝敗にすり替わっている。

美奈子とレイ子は、単に抽象的な勝ち負けを競っているのではないはず
で、美奈子が一度は棄てようとしたポジションをレイ子が襲おうとして
いることで、逆に美奈子が切り棄てられたような見え方となり、痍附け
られたプライドを回復するために勝敗を争うのではなかったか。

要するに、自身の意志で引退するにもせよ、ポッと出のレイ子などには
負けない実力を証明したうえでないと、プライドを保ったまま引退でき
なくなってしまう。そのための勝負であるはずなのだ。

自身の存在価値とは無縁の勝敗を争ったところで、どうせ引退するなら
何の意味もない。単にその場の悔し紛れという見え方になってしまう。
そういう意味では、Bパートはまるまる「てにをは」の狂った筋立てに
なっていると思う。

翻って、美奈子がレイ子に張り合う動機も、自分以外の人間がチヤホヤ
されているのにヤキモチを焼いたから、という印象になってしまう。

これは、アリかナシかでいえばアリだが、はっきり言って、安い

一見して前回のエピソードよりも話が繋がっているように見えながら、
このような安さがあるから、今回のエピソードのほうがより空疎な印象
を与えるのである。

そもそも美奈子が引退を決意したのは、戦士としての使命と愛野美奈子
としての生き様のいずれか一方を選ばざるを得ないという境地に達した
からだが、そのような重みが中盤の物語からはいっさい感じられない

重い話を軽やかに流したという印象でもない。智恵のない作劇によって
重いテーマが安く貶められたという悔いが残るばかりである。まずは、
その辺りの心境を明かすセリフを拾って詳細に検討してみよう。

あたし、決めた。もう、歌はやめる。

あたしに残った時間、どんどん少なくなってる。もう、よけいなことに
使ってる余裕ないよ。

ちょっと待ってくれ。君にはセーラーヴィーナスじゃない、愛野美奈子
としての時間をもってほしいんだ。

どうして。前世の使命を果たすために生まれてきたんだから、そのため
に生きなきゃ。セーラーヴィーナスじゃないあたしなんか、いないんだ
よ。

わかったような、わからないような、というのが正直なところである。
これが美奈子にとって、一種の非本来的な状態なのはわかる。美奈子が
アイドルの道を選んだのは半端な気持ちではなかったはずだし、戦士の
使命とアイドルの道は、本来美奈子にとってイーブンの価値をもつ生き
様であったはずだ。

「戦士とアイドルの両立」という言葉を遣うと途端に子どもっぽい印象
になってしまうが、前世のセーラーヴィーナスと等価の存在である現世
の愛野美奈子を象徴するのがアイドルとしての貌であり、アイドルの道
も戦士同様、いわば命懸けの覚悟で歩んでいたはずではなかったか。

今回のアバンで提起された美奈子の課題は、自分にとっても大切なもの
であり自分を取り巻く大勢の人々にとっても大きな力をもつ歌の仕事の
重要性を見失っている非本来的な現状の打開
である。それは残り少ない
命を何のために使うのか、最優先事項を何に求めるべきか、そのような
葛藤がベースとなっている設問である。

ある意味、戦況の劇化に伴って美奈子の過去世と現世のバランスが崩れ
てしまい、現在から遡って過去を変えることができない以上、過去世の
因縁を全うすることをもって現世の生き様のバックボーンと代えようと
考えたといえるだろう。

しかし、それは一種の易道である。すでに意味附けられた過去世の自分
が現世の自分よりもたしからしく見えるのは仕方がない。現世から過去
世を顧みるとき、自身が今ここに在ることの揺るぎない理由附けがそこ
にあるかに見えるのは仕方がない。それが、今現在の自分が選び取った
アイドルとしての在り方よりも、シリアスで意味深いものに見えるのは
仕方がないことである。

しかし、それはやはり易道なのだ。過去世のセーラーヴィーナスは所詮
現世の美奈子とは赤の他人
なのだし、過去世のヴィーナスはヴィーナス
自身の生き様でもって自身の生を意味附けたのである。すでに選び取っ
た現世の美奈子の生き様よりも、過去世のヴィーナスの使命が重いなど
ということはないはずなのだ。

未だ意味附けられていない不確かな自分の生き様を棄てて、揺るぎなく
意味附けられた過去世の使命に殉じるのは、悲愴な覚悟に見えて、その
実は一種の逃避だろう。「セーラーヴィーナスじゃないあたしなんか、
いない
」という言い種は、自身の存在理由を自身の力で勝ち取ることを
諦めた人間の言葉
である。

だれかに必要とされること、自身が意義ある何ものかであること、その
ような保証が無前提で天下りに与えられるはずはない。自分という存在
はだれにも必要とされていないかもしれないし、その存在にはまったく
意義などないのかもしれない。

だれかから必要とされるには、必要な人間になるしかないのだし、自身
の存在意義は、与えられるものではなく自身で創り出すものなのだ。

美奈子の歌手としての活動は、そんな個人の営為だったのではなかった
のか。自身の価値を自らの力で創り出し、だれかから必要とされる人間
になるための営為だったのではなかったのか。

それをいっさい放擲して過去世の使命に殉じることは、すでに創られた
価値に自らを重ね合わせることであり、他者の営為によって築かれた意
義を掠める行為に他ならない。過去世のヴィーナスにとってそれがいか
に重く意義ある使命であったとしても、それに盲従することが現世の美
奈子の存在を意味附けるのではない。

そのような過去世を抱える人間として、いかに現世の生をよく生きるか
が、現世の美奈子の存在意義を決定附けるのである。

彼女は単に、宿痾の進行と戦いの激化という現状の直中にあって、前世
のセーラーヴィーナスとしての使命を負う現世のアイドル愛野美奈子と
いうデリケートで峻烈な生き様に疲れたのだ。そして、現世の自分が自
由意志で選んだ先の見えない道を諦め、前世のだれかが予め決めた既定
の意義に身を委ねようと考えたのである。

さらに「あたしに残った時間、どんどん少なくなってる。もう、よけい
なことに使ってる余裕ないよ
」という言い分がよくわからない。これは
レトリックであって、わからないというより不審を覚えているだけなの
だが、残り時間が少なくなっているのなら、後半でレイちゃんが言って
いるように「残り少ない可能性でも手術する」のが適切な選択である。

病を抱え力の衰えた美奈子が戦列に加わっていたとしても、それは必要
不可欠な戦力とはいえないわけだし、実も蓋もない言い方をするなら、
戦闘中にいつ昏倒するかわからない戦闘要員など邪魔でしかない。それ
より、一旦戦列を離れてでも病の克服に取り組むほうがよほど戦力的に
メリットがあるといえるだろう。

つまり美奈子が手術を拒むのは、客観的に視て適切な選択とはいえない
のであって、それには戦略的な意味とは別の情緒的な動機があるのだと
視たほうが自然だということである。

万に一つの可能性しかない手術を受け容れることで、闘病によって喪う
限られた時間を惜しむのは、数字のうえの可能性を超えて生き抜こうと
する戦いを信じていないということだ。生への希望を信じて裏切られる
絶望のほうが、このまま座して死を待つ絶望よりも辛い
ということだ。
そして美奈子は自身の決意が「より辛くない選択」「自由意志の放棄」
という性格をもつ怯懦なものであるという事実から目を背けている。

アバンのやりとりで提示された美奈子の決意には、このように意識され
ざる内面の怯懦、自己欺瞞という課題が内在している。この発端を受け
た物語において、友の力で美奈子の在り様が変わるのであれば、こうし
た課題を克服する筋道であらねばならない。

マーズ・レイ子への対抗心が梃子になってストーリーが進むのならば、
美奈子が「負けたくない」と思うその対象の価値に気附く物語であるの
が自然なのではないのか。現世の自分が選んだものの、棄てようとして
棄て得ない切実さに気附く物語であるべきではなかったか。棄て得ない
という事実から遡った実感によって、自己欺瞞に気附く物語であるべき
だった
のではないか。

せっかくマーズ・レイ子や芸能界の育て親たる菅生社長を再登場させた
のだから、そのような自己回復の物語を描くことは十分可能だったはず
なのだ。それなのに、マーズ・レイ子に対する対抗心は単に特定人物の
言動に対する反撥という安直な意味に貶められ、子どもの口喧嘩レベル
の張り合いに堕してしまった。

そして、このような苦言は過去にも呈したことがある。Act.18のアバン
で描かれた、この二人の最初の激突の場面について、オレは同様の意見
を陳べた。今回描かれたこの二人の衝突も、その場面とまったく同様の
欠点をもっている。つまり作劇上有効な活用が期待される対立を、なぜ
か無意味な感情的反撥として無駄に浪費しているという共通点がある。

どういうわけか、小林靖子のなかでは火野レイと愛野美奈子は「互いに
想い合いながらも顔を合わせれば喧嘩ばかり」というルーティンな関係
としてイメージされているようなのだ。キャラクター造形上の想像力と
して、それがいけないというわけではないが、この二人の場合は否定的
な結果しか生まなかった。

火野レイと愛野美奈子は、ある意味で似た者同士であって、その似通い
方が情緒的な反撥を生む類のものであることは、感覚的に理解できる。
だが、このような感覚的な人物把握のゆえに、本来作劇上重要な意味性
を生起するための対立であるはずが、いつの間にか感情的な反撥にすり
変わってしまう
局面が多々生じている。

こういう関係性は、たとえばレイちゃんとまこちゃんがそうであるなら
さほど問題はなかっただろう。それは、この二人なら作劇上さほど重要
でない日常描写の場面で、そのような感情的反目を描くことができるか
らである。しかし、レイちゃんと美奈子は、対立することが作劇上重要
な場面でしか対話をもたない
のである。

たとえば今回、レイちゃんがマーズ・レイ子として美奈子の前に立ちは
だかったのは、美奈子を案じたアルテミスがレイちゃんに持ちかけて、
菅生社長と図って美奈子の引退を思い留まらせるための狂言であった。
ここに感情的な要素は微塵もないはずだ。レイちゃんサイドの思惑とし
ては、美奈子の負けず嫌いを利用して芸能活動に対する意欲を取り戻さ
せるのが目的だったはずだ。

だから、そもそもレイちゃんの側には美奈子と感情的に張り合う動機は
ない。さらに美奈子が勝負に乗ったのも、レイちゃん個人に対する反感
が動機ではなく、菅生社長がど素人のマーズ・レイ子を自分よりも上の
器と視ているのが気に入らないだけだ。

現状の底抜け脱線ゲームの「てにをは」が間違っているのは、あまりに
明白だろう。このゲームには、美奈子の意欲を取り戻す効果もなければ
レイちゃんより美奈子の器量が上回っていることを証す効果もない。

さらには、ゲーム中のレイちゃんと美奈子は、明らかに本気でゲームの
勝ち負けを競っている
。美奈子の場合は前後の脈絡を見失って「単なる
負けず嫌い」が暴走したのだと視ることもできるが、仕掛ける側のレイ
ちゃんまで本気で勝負しているのでは、そもそも何のための勝負なのか
を覚えている人間が一人もいない
ということになる。

そしてもっと間違っているのは、こうした流れの行き着く先が、美奈子
と仲間たちとの距離が縮まるという落とし所になっていることである。

今回のストーリーでは、アバンで提起された美奈子の課題とはまったく
関係ない結果が得られているのである。美奈子がアイドルを引退しよう
と決意したのは、別段仲間たちと距離があったからではない。その決意
は仲間の大切さを実感することでは翻らないのである。

百歩譲ってこの課題を仲間たちとの関係性で打開するのであれば、仲間
たちが前世のセーラーヴィーナスではなく現世の美奈子を大切に想って
いること
を美奈子が実感するような筋立てでなくてはならない。

しかしこのエピソードで美奈子が実感したのは、美奈子以外の四戦士は
現世の四人の少女として大切な関係性を築いているという事実であり、
それは美奈子の抱える課題とは無関係な実感である。四戦士と美奈子の
間には、「限られた命」という無視できない立場の違いがあるからだ。

たしかに美奈子の決意には現状からの逃避という側面があるが、それは
美奈子が弱い人間だからではなく、数カ月を経ずして己の命が尽きてし
まうという焦りのゆえである。このような固有の条件を外してしまった
ら、そもそも美奈子の課題は成立しない。

生死の狭間にあって、現在と過去のいずれかを選び取るかという厳しい
二者択一を強いられていない以上、四戦士の現世における生き様がどう
あれ、それが美奈子の心情を動かすものではない。

さらに百歩を譲って、アバンで提起された課題を今回のストーリーでは
回収しないつもりであったとしても、その課題と引退の決意とが密接に
結び附けられており、今回の結末でその決意が覆されるという落とし所
を用意している以上、課題自体が未解決なのにその課題と関連附けられ
る行動だけが変わった
という気持ちの悪い矛盾が生じる。

つまり、今回のエピソードでは課題とその解決だけが提示されていて、
課題から解決を導く物語の芯の部分が、丸ごと間違っているのである。

もっと悪い言い方をするなら、作家が本来あるべき物語から逃げている
というのが偽らざる感想である。前回指摘したとおり、今回のゲームの
場面は、演出に下駄を預けることができるバラエティ描写であり、脚本
の練り込みがさほど必要ではない。

本来なら、たとえばドラマの役柄をめぐるオーディションとか競作CD
の売上競争などのように、美奈子とマーズ・レイ子のガチの芸能対決で
勝負を決する話を練り上げ、美奈子とレイちゃんの息詰まる心情芝居を
描くべきであったのが、その対決の真芯に当たる部分をどうとでもなる
バラエティ描写
でお茶を濁している。

ラストで美奈子とレイちゃんが交わす真情溢れる会話は、本来こうした
練り込みを経たうえでなら、さらなる感動を呼んだことだろう。現世の
愛野美奈子として生きよと切なる願いを込め、あえて憎まれ役を買って
出たレイちゃんが、畳みかけるように「わずかな可能性があるならそれ
に賭けるべき
」と語ったのであれば、視聴者は比類なき感動を覚えたこ
とだろう。

だが、そのためのドラマは結局描かれなかった。レイちゃんの忠告は、
ドラマによって補強されていないスタンドアローンの言葉にすぎない。
印象論ではあるが、オレにはこれがただの間違いだとは思えない。今回
のエピソードがこのような実のないものになったのは、はっきり言って
書き手の精神的な体力が保たなかったからではないかと思う。

シリーズも四〇回を算えるまでになった今ならば、フィーリングだけで
話が書ける。ノリで一本凌ぐことができる。本来ならもの凄くしんどい
彫琢を経て、ラストの我知らぬ泪に行き着くドラマを練り上げるべきで
あったのに、すでに小林靖子にはそこまでの体力がなかった。しんどい
練り込みの作業ができず、骨と皮に出来合いのアンコを詰めてシナリオ
を書き上げてしまった。演出家に「あとはよろしく」と下駄を預けて、
本来あるべきドラマを流してしまったのだ。

ここで踏ん張りきれなかった小林靖子を責めるのは酷だろう。これまで
陳べてきたとおり、今やシリーズ前半の息詰まる人間ドラマを生み出し
てきたテンションは、すでに途切れている。前半の流れが目指していた
方向性を、無理矢理ねじ枉げる異物が投入されてしまっている。さらに
もっと悪いことに、この時点で小林靖子は、すべてのキャラを「なんと
なく書ける」ようになってしまっている。

以前、特撮誌のインタビューで、小林靖子はいちばん書きやすいキャラ
として木野まことの名を挙げ、書きにくいキャラとして水野亜美の名を
挙げている。これが当レビューのキャラ描写に対する評価と真逆である
ことは、ここまで附き合ってくれた読者にはあらためて言うまでもない
だろう。要するに小林靖子という書き手は、気楽にノリで書いたものが
傑作になるタイプの脚本家ではない
のである。

たとえば浦沢義雄と井上敏樹はある意味でタイプの似たような脚本家だ
と思うのだが、基本的に両者とも構造ではなくパラフレーズで勝負する
タイプの書き手である。つまり、おもしろいセリフやおもしろい場面を
閃きで書く才能がある。このタイプの閃き型の書き手にとっては、ノリ
や気分が作品のクオリティを左右する重要な要素となる。

しかし、小林靖子の才能は見応えのあるドラマを作る才能であり、一つ
一つのセリフや場面のおもしろみでは浦沢や井上に遠く及ばない。ノリ
や気分で書いた場合は、ただ凡庸な書き手に留まるのである。

最近では、横手美智子が小林靖子に類した作劇スタイルを見せることが
あるが、ある種、横手の場合は三人一組のユニットであることもあって
、そうした作劇術を意識化しているように見える。だが、小林靖子の
作劇は横手ほど明晰に意識化されていないように見える。乱暴に言って
しまうなら、それが小林脚本の文学性なのではないかと思う。

※ウィキの記述にもあるが、横手三人組説については、2007年現在ではフィクション視する見方が有力である。

唐突に「ブンガク」などというクサいタームを持ち出したが、この現代
にあってなお成立する「文学性」とは、物語の反プロダクト性なのでは
ないかとオレは考えている。要するにこれこれのアウトプットを作ろう
と意図してそのとおりのものが出来上がるのは、すでに文学ではない。

文学とは非意図的な生成物である。無論、セオリーや手法という意識化
されたツールを介して生み出される意味構造なのではあるが、そのなか
に意識化されざる強烈な何ものかが投影されている場合、人はその実感
に文学を感じるのだと思う。

オレの感触では、小林靖子の作劇手法は十分にシステマチックなもので
はない。彼女の作劇の現場にはある種の混沌があるように感じられる。
システムやセオリーではなく、ある種の実感に基づいて試行錯誤をくり
返した結果のアウトプットではないかと思う。テレビシリーズの脚本家
という職種としては、作業実態に一種の前近代性があるのではないかと
思う。それはコンテンツのクリエイターと呼ぶより、文学の作家と呼ん
だほうがしっくりくる。

文学というのは、一種言語化以前の何ものかを扱う分野であり、言語化
されたツールが手懸かりとはなるが、最終的には混沌の直中にどハマり
して足掻くことでしか意義ある作品が生み出せない。マンガに出てくる
作家大先生が屑籠いっぱいに反古紙の山を築くのは、まんざらゆえない
ことではない。文学とは、所期の結果を得るためのプロセスではなく、
言語以前の何ものかと格闘して予期せざる何ものかを生み出す作業だか
らこそ、無駄が多くシステマチックな作業ではあり得ないのだ。

小林靖子の最良の作物からオレが文学の臭いを嗅ぎ取るのは、要するに
それが所期の結果として得られたプロダクトではなく、何某かの混沌の
なかから掴み取られた非意図的な生成物としての側面をもっているから
だろうと思う。

前半の傑作エピソードに対するレビューでオレは「もの凄くよじれて整
合している」というような言い回しを頻発したが、よじれた要素が互い
に整合するという事態とは、全体性を伴って現前する劇的現実の在り方
なのである。リニアルな筋道なら意図的に生成可能だが、複数の要素が
よじれて整合する全体性は、直観的かつ非意図的に掴み取られるもので
ある。

たとえばオレがこのレビューで目論んでいるのは、他者の生成物を合理
的な意味性に基づいて読み解く行為だが、その対象自体はこのレビュー
の読解の過程を逆に辿ることで生み出されたものではない
。傑作と評価
するに足るようなエピソードは、混沌のなかから掴み取られたある種の
全体性、個別の要素にバラして組み直すことで復元することができない
パリティの破れを具えているのである。

今回のエピソードの話題に戻るが、このエピソードがなにゆえ失敗して
いるのかといえば、そのようなしんどい格闘を経た形跡が視られない、
というより、今の小林靖子にはそれだけの粘りがないからだと思う。

今回のエピソードは、所期の筋道から外れてよじれてはいるが、よじれ
たままバラバラに分裂している
のだ。前半の佳作だったら、所期の筋道
がよじれていきながらも不可解な迂路を辿って見事に整合するという、
巧んで得られることのない全体性があった。それがいかによじれていて
も一本の挿話が一つの総体として整合しているのであれば、それは最早
否定できない劇的現実として現前する。整合するという前提では、その
よじれ自体が有無を言わさぬ劇的リアリティを生起するのである。

今回のエピソードは、そのような作物となる前に杜絶した未生の試みの
ように見える。ただよじれているだけなら、失敗した物語にすぎないか
らだ。そこからさらに戻ってくるためには、混沌の直中に身を置いて非
効率的な格闘を演じる必要がある。人には先験的に現実をまねぶ能力が
あるとオレは考えるが、そのような先験的な能力によって言語化以前の
混沌のなかから物語を生還させる力
こそが、作家の資質であると思う。

まことに残念ながら、今回の物語は意味以前のよじれの波からの生還が
適わなかった一種の蛭子のようなものだと思う。ただ間違っているだけ
ではなく、もっと違った何ものかになる可能性を秘めたものの出来損な
い、物語生成以前を思わせる無惨さを感じるのだ。

そして、これまでの四〇話をすべて独りで書いてきた小林靖子は、なん
となくキャラクターを書けてしまうようになった。今回のエピソードは
納得行くまで物語を練り込む作業を回避して、なんとなくキャラクター
を動かして書いてしまった話なのである。そのように「書けてしまう」
ことが作家にとって危険な陥穽であると認識されていないのなら、最早
この先の希望はない。

このエピソードは、一本のドラマとして視るならば、真面目に読解する
だけの意味はない
。そこそこの見応えがあるのは、舞原演出がそこそこ
健闘しているからだ。このエピソードそれ自体がもつ意味よりも、それ
が力作となり得ず破綻した機序
のほうが、オレにはよほど重大な事態で
あると思える。

後半の一方の核となるべき美奈子の物語がこのような無惨な破綻を喫し
たことは、暗い見通しをさらに暗くする暗雲だ。最早小林靖子には前半
でオレたちを唸らせたような物語を紡ぐことはできないのだろうか。

そのような脚本の不調の下駄を預けられた舞原演出は、思い切ったコメ
ディ演出で健闘してはいるのだが、それこそ小林靖子の不得手なその場
その場の痙攣的なおもしろみを添えるだけが目的であってみれば、舞原
の健闘もなんだかもの悲しく映ってしまう。

たとえば美奈子が菅生社長と待ち合わせるレストランはAct.35でうさぎ
と食事した同じ場所なのだが、胸に支える言葉を呑んだ会話という類似
もあるが、そうした拘りがそれほど効いていない。そういう意味では、
優れた脚本あっての舞原演出であって、こういうエピソードなら高丸が
撮っても、おそらく竹光が撮っても同じようなデキになるだろう。

公式サイトには「実写版は、このエピソードのために企画された!」と
いう仰々しい言葉があるが、おそらくそれは嘘ではないだろう。普通に
考えれば、非本来的な状態に陥った美奈子が仲間たちの力で自己回復を
果たすエピソードが、力作ならざるはずがないからである。

この番組が普通のテンションのシリーズであったなら、小林靖子個人が
突出して突き詰めた作品でなかったなら、そのレベルの埒内ではあれ、
このエピソードが後半の山場になっていたかもしれない。

しかし、事実として今現在の小林靖子には、このようなエピソードしか
書けない
のである。それは、前半の作品群が異様なレベルを達成したの
と同じ根をもつ事情である。普通なら盛り上がるべき局面で、小林靖子
ただの作業要領の悪い脚本家の一人になってしまった。

ある意味で、それは仕方のない成り行きであり、前半の奇跡の作品群を
満喫したオレたちに廻ってきたツケである。

テレビシリーズとは、本来意図的に生成されるコンテンツとしてのプロ
ダクトである。その土俵のうえで、それとは相反する文学の営為を表現
できるのは、番組に名を冠するような一握りのビッグネームだけだ。

オレたちの胸を打った前半の佳作エピソード群は、だれが企んだもので
もない非意図的な生成物
なのだ。それを生み出した人が書けなくなって
いる、それはただダメだと斬って棄てればいいというものでもないし、
ここが間違っていると指摘して直るものでもない。

あとから顧みて「こうすればもっと良いものができたはずだ」と言うの
であれば、これまでオレたちを惹き附けてきた傑作群は、「できたはず
などなかった」レベルの作物であって、「どうすれば」それを生み出す
ことができるのか、だれにも語ることなどできないからである。

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Act.41 ヒーローの正義

世の中はわからんものだ。

人一倍飽きっぽいはずのこのオレが、世間様のほうではとっくに飽きて
忘れ去ってしまったような番組のレビューを未だに執念深く続けている
などとは、このレビューを始めた頃には想像だにできなかった。

この番組のスタンダードを確立した田崎は、今や狭い東映の垣根を出て
渋谷に繰り出し、平成三部作で完結したガメラをまったく新たなかたち
で再生させようと目論んでいる。

さらに感慨深いのは、今回のエピソードの主役の黄川田将也が、あろう
ことかあの月九に出演を果たしたと思ったら、白倉プロデュースの仮面
ライダー THE FIRST
では他ならぬ本郷猛役を演じるということだ。

たぶんセラムン終了後の一連の成り行きはタチの悪い冗談なのだろう。

一方の渋江譲二は、高寺プロデュース「だった」仮面ライダー響鬼で、
主役の響鬼に次ぐNo.2のライダーを演じており、さらにこの番組は不可
解な紆余曲折
を経て結局白倉にバトンが渡されるかたちに落ち着いた。

こんな滑稽なスラップスティックの舞台裏は、たぶん多くの人々の関心
が続いている間は決して明かされることはないだろう。東映という一私
企業内部の人事問題であり、こうした問題の真相が、裏をとれるような
コンクリートなかたちで外部に公開されることは当分あり得ない。

これについては思うところもあるのだが、あまりにも当レビューの趣旨
から外れる問題ではあり、且つはボリュームも長大になってしまうので
別の機会に譲りたいと思う。つか、それをやってるといつまで経っても
最終回に辿り着かねぇんだよな(木亥火暴!!)。

さて、本題に入る…っつっても、竹光ローテなんだが(木亥火暴!!)。

とはいえ、竹光さよならローテの一本であるこのエピソードには、オレ
は格別悪印象をもってはいない。もちろんお馴染みの竹光調は健在で、
風雲急を告げる場面ではどこからともなくヘリ爆音が響くし、カットが
変わるといきなり夜になっているし、クライマックスの戦闘はよくまあ
小綺麗な遊園地のごくごく近間でこんな小汚い場所を見附けたもんだと
その執念には最早敬服する(木亥火暴!!)。

それでもそんなに悪い印象を覚えないのは、あと一話我慢すれば竹光の
名前を見なくて済むようになるからではもちろんなくて(木亥火暴!!)、
竹光調のトレードマーク的な部分以外では、そんなに間違った演出では
なかったというところが大きいだろう。

その竹光調がそもそも番組のカラーにマッチしていないということは、
すでに最初の竹光ローテのレビューで指摘したことではあるが、不可解
なライダーとのバーターやつなぎの鈴村を酷使してまでこの番組と距離
をとろうとしている以上、それをこれ以上言い募ってみても仕方がない
だろう。当の本人にもこの番組と相容れないという自覚があるのだから
そのうえで撮らざるを得ないのは現実的な都合というやつである。

だとすれば、言っても仕方のない部分をも含めて論じたところで、公平
な論評とはなり得ないということになる。このエピソードは、あくまで
シリーズ四九本のうちの一本として時系列に沿って視られるものなのだ
から、そのような前提で検証することがつくり手に対する誠意といえる
だろう。

つまり、このエピソードはまぎれもなく佐藤健光のタッチで撮られては
いるのであり、オレが竹光調の問題点として指摘しているような事柄は
何一つ改善されていない。だが、それを「仕方のないこと」として一旦
捨象して視るなら、佐藤演出の埒内では健闘している部類のエピソード
だと思う。

たとえば今回のストーリーの主要な舞台となるのは児童館だが、元気な
悪ガキが右往左往する場所であるだけに、いかにも絵面が雑然としてい
て汚いのはたしかである。おもちゃが散乱した不安定な構図の館内風景
はもとより、狭いスペースに物干し竿の建て込んだ中庭、そこから覗く
向かいの建物の前に雑然と放置された……ママチャリ(木亥火暴!!)。

カメラが外へ出てからも、振り返る元基の視線の先に「十番町児童館」
の看板よりも悪目立ちしてでかでかと映る「そろばん 長者丸珠算塾
の赤錆にまみれた電柱広告とか(木亥火暴!!)、背後の民家の軒下にぶら
下がる物干し竿とか、なんだかわからないが朱の錆止めを塗った鉄骨組
の構造物とか、とにかく、カメラを振るとそこに汚いものが映っている
竹光イズムは健在…というより、パワーアップしている(木亥火暴!!)。

まあ、このエピソードのレビューだけいきなり覗く読者がいるとも思え
ないから、それが撮影の問題ではなく演出の問題であるという前提を今
さら詳説したりはしないが、初老の域に達した職業人が頑固に堅持して
いるもの、それはやはり変わるものではなかったということだ。

この感覚が番組の世界観に不似合いであるということは最早オレの立論
の大前提なのだから、去りゆく人の背に向けて今さらそれを攻撃したり
はしない。こういう嗜好の人なのだという前提で語るまでだ。

さらに、ヘリ爆音のセンスにしたところが、公式サイトの記述どおり、
若い衆にからかわれたお爺ちゃんが片意地になっちゃっただけなのだと
すれば、なんか大真面目に批判するのも気が退けてくる(木亥火暴!!)。

これを「老害」の一言で斬って棄てるのはたやすいが、今回のように、
ズレてるなりに真面目に撮っているのであれば、そのズレを受け容れた
うえで作品を検証するのでなければ見えてこないものもある。

少なくとも、今回のストーリーはこれまでの竹光回に比べそれほど雑に
語られているわけではない。大筋を進めるためのエピソードなのだから
お話の軸が元基とまこちゃんの関係一本に絞れていない憾みは残るが、
そのような過渡的プロセスとしてのエピソードを無難に語る演出だった
と思う。

またこれは脚本の指定か演出の裁量なのかは不明だが、クライマックス
でプリムンが攻撃を一瞬躊躇う仕草の謎解きを次回のアバンに持ち越す
センス
は悪くないと思った。

先ほど「カットが変わるといきなり夜に」と指摘したが、これも本当は
画面ヅラの印象がそう見えるだけで、迷子の捜索から妖魔出現にかけて
の場面は、一応フィルターをかけて日が暮れかけていることを表現して
はいる。単にそのフィルター越しに見える映像に映っているじっさいの
影の位置がとても夕方のものに見えないので、夕暮れの表現として失敗
しているだけの話だ。

また、お話のシチュエーション設定として児童館のボランティアという
かたちをとっているのだから、主人公たちが児童館で働いている時間帯
の埒内で話を纏めたほうが、一本のストーリーとしてスッキリすること
はたしかで、夜にまでズレ込むとどうしてもボランティアを放り出して
話が進んだような印象
につながってしまう。

ギリギリ日中の話で収まっていれば、ボランティアの「間の」出来事と
いう時間枠が成立するが、これが夜になってしまうと、すでに中学生の
ボランティアの時間帯をはみ出しているので、たとえば総出で探しに出
たはずの迷子をきちんと送り届けていない
などというどうでもいいこと
が気になってしまう。

それがあるシチュエーションの「間の」ストーリーであったなら、エピ
ソード終了時に視点が当初のシチュエーションに戻らなくても、それは
その後に続くべき成り行きが省略されているだけなのだから、特段描く
べき事柄がなければ省略したってかまわない。おそらく迷子の少年は、
あのあとうさぎたちが無事に児童館へ送り届けたのだろうし、画面上で
それが描かれていなくても、そうだろうと補完できる。

はっきり言って迷子の少年など、うさぎたちとまこちゃんたちの動向を
スプリットさせるための口実にすぎないのだから、本来はどうでもいい
要素ではあるのだ。精気を吸い取られてバタバタ倒れる人々の描写も、
今回登場した最強妖魔に付随する要素なのだから、今回のお話のなかで
回収すべき要素でもない。わざわざ視点を児童館に戻して話を終わらせ
なければならない理由は一つもない。

だがこのエピソードで日が暮れてしまうと、児童館のシチュエーション
とクライマックスの戦闘がハッキリ隔絶した印象を受けてしまう
。それ
は後半の一連がボランティアの時間帯を逸脱しているためで、時間帯を
逸脱するということは、時間帯によって規定されるシチュエーションが
すでに終わってしまっているということである。つまり、ラストシーン
から児童館に戻る往還の運動性が打ち消されてしまっている
ため、児童
館のシチュエーションを、一方的に放り出したような印象につながるの
である。

クライマックスの時制が夜であることは、今回の物語の筋道に直接関係
していないのだから、これはおそらく脚本の指定ではなく演出の裁量と
考えるほうが自然だろう。ある意味「カットが変わるといきなり夜に」
という指摘は外れてはいないのである。

脚本上想定されていたのは、児童館のすったもんだの「間の」出来事と
いう時間枠だったと考えたほうがスッキリする。クライマックスの戦闘
は、夜景をバックにしたほうがガソリン爆破が映えるから夜になったの
である。

理詰めに考えればそういうことになるが、これは別の言い方をすれば、
竹光演出の力点はクライマックスのプリムン出現、そしてプリムンの力
に懼れ戦くうさぎの姿にあったということだ。「これが、星を滅ぼす力
なんだ
」というラストの言葉から逆算すれば、正気に戻ったうさぎの前
にはプリムンの超越力による破壊の惨状が残されていなければならない
はずだ。しかし、今の段階ではプリムンの極性は善でも悪でもないのだ
から、その超越力の暴走は他者の生命財産を奪うような方向で描かれる
わけにはいかない

そういう意味では、燃えてもどうということもない廃材置き場で派手な
ガソリン爆破の余燼が燻ぶっているというシチュエーションはちょうど
その条件に適っている。そこからさらに逆算して、ガソリン爆破や炎の
映える夜に持っていったのであれば、演出の計算として間違っていると
はいえない。真面目に撮っているというのは、そういうプラスのポイン
トがあるということだ。

たとえば児童館でうさぎたちが着る着ぐるみも、ピンクのうさぎや青い
ペンギン、緑のカメだったりする辺り、各人のモチーフカラーとネタが
ちゃんと押さえられている
。もっとも「新種のカメ」云々というセリフ
があって、それが元基を釣るネタとして話にからんでいる以上、珍しく
脚本で着ぐるみまで指定していたのかもしれないが(笑)。

とりあえず、竹光にも竹光なりに番組に対する惜別の情くらいはある
いうことなのだろう。

では竹光演出に関してはこのくらいにして、本筋のほうを視ていくと、
元基とまこちゃんの関係を軸に、レイちゃんの美奈子への想い、ネフ吉
の亜美ちゃんへの想い、プリムンとうさぎの関係性、それぞれの要素を
少しずつ進めている無難なエピソードではあった。

しかし、柱となっている元基とまこちゃんの関係については、Act.31
テーマの立て方に問題があるため、「一人でいいんだ」を出発点とする
気持ちの変遷に今ひとつ気持ち好く乗れないという憾みはある。

じっさいあの「一人でいいんだ」発言以降、まこちゃんのポジションが
なんとなく座りの悪いものとなってしまったことは否めない。今回の話
でも、美奈子の曲を聞きながら宿命に想いを致すレイちゃんの言葉に、
ガチガチの前世肯定派として言葉を返すまこちゃん、という構図には、
どうにも違和感を感じてしまう。

今さら「レイちゃんとまこちゃんのポジションが逆転しているのでは」
と指摘するのは、あまりにも今さらすぎるが、レイちゃんの現状がこう
なった経緯についてもまこちゃんの現状がこうなった経緯についても、
同じような不可解な割り切れなさを残しているために、この両者が対峙
して重要なテーマをぶつけ合うシチュエーションには、かなりの違和感
が伴う。

簡単におさらいすると、レイちゃんが今このような人物像になっている
のは、美奈子との対決の描写を悉く失敗しているからであり、さらには
レイちゃんを演じる北川が泣きすぎたからである。

一方、まこちゃんが今このような人物像になっているのは、その人物像
を確立するのが遅きに失したから
であり、パブリックに共有されている
木野まこと像に設定されている欠落を、小林靖子の脚本で安座間美優が
演じている人物にアダプトする道筋の附け方をしくじったからである。

要するに、現時点でのこの二人の人物像はかなり重大な失敗の積み重ね
として今このようにある
のである。

無論、実写版美少女戦士セーラームーンという番組は、独立した一本の
テレビシリーズなのだから、先行するアニメ版やミュージカル版に過剰
に拘束される必要はない。テレビシリーズ独自の物語が推移した結果、
一般に共有されているキャラクターイメージと乖離するのも、或る程度
已むを得ないことだろう。

だがこの二人の人物像の変遷を視る場合に重要なのは、シリーズ全体を
通観した場合、失点をリカバリーするためにさらに失点を重ねるという
悪循環の結果として、パブリックイメージとの乖離がもたらされた
とい
うことである。要するに、状況に流されてしまっているのだ。

その間の事情については、これまでに何度も強調したとおりであるが、
今回のエピソードに直接関係をもつまこちゃんの「一人でいいんだ」に
関しては、Act.31で視てきたように、ドラマの流れ方から視れば肯定的
に捉えられる実感的結論であるのが自然なのに、新たな問題設定として
描かれてしまったため、「前世から決まっていることなんだからしょう
がない」という、明らかに否定されることを前提とした消極的な姿勢
意味附けられてしまった。

Act.31の時点では、まだその実感的結論が肯定的に意味附けられる目も
あったのだが、今回その問題をあらためて語るに際して、結局他者との
距離感をうまくとれないという、思春期一般の不全であって個別の呪い
でも何でもない障碍に対する言い訳として安直に意味附けてしまった。

これはつまらない。

レイちゃんにかけられた呪い、亜美ちゃんにかけられた呪い、美奈子の
生を蝕む呪い、そうした個別性の高い呪縛と比較した場合、やはりまこ
ちゃんの不全の設定は明らかに安っぽい。単に、稚なくして両親と離別
した可哀想な子のひがみ根性、という安いレベルに堕している。

さらに、それを出発点として、憎からず想う相手と真正面から対峙する
のを恐れる言い訳にしてしまうのでは、木野まことの人物像全体が安く
なってしまう。「あたしたちがここにいるのも、全部前世から決まって
たせいだし
」という言葉を今この時点で口にされると、これまでの物語
が「宿命を超えた現世の結び附き」をドラマティックに語ってきた経緯
までを粗雑な一言で一蹴されたようなショックを覚える。

木野まことというのは、それほど暗愚な人物なのか。これはさらに後の
Act.45の自爆攻撃などにも響いていて、それが美奈子の気附きの契機に
利用されているため、ダシにされている感は否めない。Act.46に至って
は、生気を抜かれて倒れる元基を目にしたことで、ようやく「戦士の力
に目覚めたのは、一人じゃなかったから
」というふうに方向転換して、
結局「私が間違ってました」式の安直な気附きがもたらされる。

結果的にいうなら、木野まことの物語は最初から最後まで揺らぎ続けた
挙げ句、着地点を見失って失敗していると思う。この番組の木野まこと
に魅力を感じるとしたら、それは演じている安座間美優が可愛いからで
あって、それ以上でも以下でもないだろう。

こうした仕掛けがつまらないというのは、最終的な解が「私が間違って
ました」である以上、間違っていることがアカラサマな問題設定では、
おもしろい筋道を作れないからである。

じっさい、今回のストーリーではAct.31のときほど元基とまこちゃんの
やりとりにおもしろみがない。「うさぎとかめ」の童謡もその後に生き
るような小道具ではないし、あえて「お父さん」を持ち出しているのに
それが元基を指向する描写として効いていない。

「うさぎとかめ」の童謡なんか、世の中の大多数のお父さんが子どもに
歌って聞かせるだろうから、それを元基が歌ったからといって、何ほど
もまこちゃんの元基への好意を深めるものではない。セオリーからいえ
ば、もっと個別性の高い曲を歌わせることで、父親と元基に対するまこ
ちゃんの感情を重ね合わせる
ところだが、「うさぎとかめ」ではあまり
にありきたりすぎて、父親を想い出すところから元基に向かうベクトル
が成立しない。

この場面は、元基とまこちゃんがいっしょにいることで少しだけ仲良く
なるという以上の内容を語るものではない。ドラマ的な仕掛けで距離が
縮まるという描き方ではなく、仄かな好意を抱いている男女をしばらく
いっしょに置いて何となく語らわせて仲良くさせているだけ
である。

本当なら、Act.20のうさぎと衛のデートのように、二人の距離が縮まり
ながらも、妖魔の出現と正体バレ、宿命の開示という段階を経て、折角
二人の間に漂った好いムードが雲散霧消する、という劇的効果を狙った
ものだろうが、その狙いがうまくヒットしていない。

要するに、「今みたいな敵と闘わなくちゃならなくて」という理由が、
元基の想いに応えられない理由として明確ではないし、視聴者から視れ
ばそれが本当の理由ではないことがあまりにも明らかだからである。

この場面でただ一つ興味深いのは、元基の「正義の味方みたい……って
いうか、そうなのか?
」という問いに、まこちゃんが「そんなんじゃ、
ないけど
」と答えるダイアログだ。

今現在のまこちゃんのスタンスでは、セーラー戦士団は正義の味方では
ない。宿命に殉じ、プリンセスを護る四戦士は、正義というパラダイム
で闘う者では決してない
のである。セーラー戦士としての在り様が正義
「だから」まこちゃんは闘っているのではなく、前世の宿命を受け容れ
たから闘っている
、それがまこちゃんの認識なのである。

このまこちゃんのスタンスは、本質的には正義とは無縁の私闘を闘った
ヴァニーナイツたち
に近い。自分たちの出自を意味附ける宿命と無縁の
だれが死のうが苦しもうが、主人であるアレストホルンを護ることのみ
がヴァニーナイツの使命であって、その埒内で闘うことしかできない。
それは名実共に正義の戦いではなく、一個の私闘であるにすぎない。

ある種ヴァニーナイツという作品の醸し出すハードなイメージは、この
ような基本認識に基づいている。仮面天使ロゼッタでは直球ド真ん中の
ヒーローの復権を謳った畑澤和也がヴァニーナイツで描いたのは、英雄
=ヒーローのモチベーションは、実は私闘でしかあり得ないという剥き
出しの真実であった。

詳細の明言は避けるが、このような比定は実はごく自然なものであり、
むしろヴァニーナイツのほうが裏セーラームーンとでも呼ぶべき性格の
作品である以上、一度はこうした近縁性が語られるのも避け得ないこと
だろう。

とまれ、この番組においては、ヴァニーナイツ的な私闘としての性格は
超克されるべき過渡的な意味附けにすぎない。まこちゃんの認識がどう
あれ、実態としてセーラー戦士たちの戦いは、「愛と正義のセーラー服
美少女戦士」を旗印に戴く正義の戦いなのである。そうでないとすれば
この番組よりヴァニーナイツのほうがよっぽど優れた「リアルな」作品
ということになるだろうが、オレの考えはそうではない。

まこちゃんの認識は超克さるべき迷妄として設定されているのであり、
正義の味方「ではない」というまこちゃんの言葉がたまたまそのような
近似の印象を惹起しただけで、まあこれは余談の類である。

両親との別れが発端だとしても、「いつも最後は一人」というひがみの
ゆえに「一人でいいんだ」という結論にしがみつき、それを正当化する
ために「前世から決められていたこと」という決定論を盲信するという
のは、自己言及的な持ち合いの論理である。障碍を受容するためにその
障碍を設定した何かを持ち出して疑問を順送りしただけのことである。

それが最終的に「私が間違っていました」式の気附きによって覆るので
あるなら、宿命論・決定論を否定するための出来レースのダシにされた
だけの話である。

こういう筋道上の問題点がなければ、うさぎ・なる組とまこ・元基組に
スプリットした流れで正体バレという対称が設けられ、両者ともに宿命
のゆえに現世のたいせつな相手を痍附ける対称が成立するという、番組
全盛期を思わせる構成の妙が奏功したと思うのだが、もはや大筋の流れ
に内在する歪み
が、そのようなエピソード単位の美しさの成立を阻んで
いるのだろう。

それに、こうした対称が有意に成立するには、今回のエピソードはまこ
ちゃんと元基にウェイトがかかりすぎている。さらには、まこちゃんと
元基をくっつけようと画策するうさぎという、久しぶりに他人のために
奮闘するうさぎ像が描かれていながら、結局ラストではプリムンが登場
してうさぎ自身の問題に話の中心が戻っていく。これが、やはり大筋を
決する重要な要素だけに、まこちゃんと元基のエピソードの余韻を打ち
消して場を浚ってしまう。

エピソード単体として視た場合に、やはり初期のような美しく完結する
ドラマ性を追求できる状況ではなくなっているのである。

そして、このクライマックスで痍附いたなるちゃんが、次回のうさぎと
の対話によって、銀水晶の力が脅かすたいせつな人々の象徴として重要
性を増してくるという具合で、一本一本のドラマ性よりも続き物として
の流れ
が重視されている。

その流れ自体がプリムンという爆弾を抱え、これまでのシリーズの歪み
が一挙に凝縮してくるという甚だ気の滅入るものであるだけに、ラスト
一クールを振り返るのは辛い作業である。

滅びに向かうこのような憂鬱な流れのなかで、一縷の望みとなっている
のは、地上に放逐されたネフライトのその後を描く一連である。

Act.36で棄て駒として自刃させられたネフライトは、続くAct.37で人間
として再生を果たし、Act.38で元基と出会い、寄る辺ない身をクラウン
のバイトとして過ごすようになった。Act.40では無様なその姿をかつて
の主人の前に晒し、四天王としての誇りを口にする。

ベリルへの復讐を切望し、「四天王としての誇りを棄てろというのか
と衛に詰め寄るネフライトは、すでに前世の地球国四天王としての意識
を取り戻しているようだ。だとすれば、ネフライトはダークキングダム
の四天王として裏切られたことばかりではなく、地球国四天王の一人で
ある自分がベリルに蠱惑され挙げ句に虫けらのように使い棄てにされた

ということに二重の屈辱を感じているのだ。

つまりこの傲岸不遜で暴力的でキレやすい単純な若者は、操られていた
からではなく、元からそういうイヤな奴だったのである(木亥火暴!!)。
なんつか、禄な家来がいなかったんだなエンディミオン(木亥火暴!!)。

とまれ、地球国四天王として、そしてダークキングダム四天王として、
前世の因縁、さらに今生の因縁のゆえにベリルを憎むネフライトを諫め
る衛の言葉は、人として再生したネフライトが前世からの繋がりを断ち
切り新しい生を始めることを予感させる。

四天王たちについて、ダークキングダム四天王としての存在自体が前世
に呪われていると以前指摘したが、ベリルの裏切りというかたちで放逐
されたネフライトには、その呪縛を脱却し新たな今生の生を始める契機
が与えられたのである。

その予感を裏附けるかのように、今回のエピソードでネフライトは水野
亜美と出会い、未生のままに終わったあの恋を、もう一度始める機会を
与えられる
のである。

無論、ダーキュリーであった過去の記憶を持たない亜美ちゃんは、ネフ
ライトとのあえかな通い合いを覚えていない。ネフライトもまた、あの
ときのままの彼ではない。しかし、自身の惨めさに苛立ち癇癪を起こす
ネフライトを、またしても亜美ちゃんは優しく気遣ってしまう。

その姿に地下深い暗闇のなかで得た忘れられない記憶の姿を重ねたネフ
ライトは、さらなる惨めさを覚え苛立つ。自身がなにゆえダーキュリー
を忘れ難く想うのか、それはネフライトにとっては、人に明かせぬ恥辱
を伴う甘やかな痛み
である。夢幻のごとく消え去った女怪の喰い破った
心の孔は未だ塞がってはいないのである。

あの女とこの女は同じ女ではない、それはネフライトとて識っている。
しかし、おそらくネフライトがあの女に視たつれない優しさの正体こそ
邪法でさえも消し去ることのできなかったこの女の存在なのである。

しかし、今現在の亜美ちゃんがネフライトに優しく接するのは、彼女が
優しい少女であるからでしかない。屈辱に打ちひしがれるネフライトに
とっては、亜美ちゃんへの想いを自覚することさえ辛い記憶の蒸し返し
にすぎない。彼が前世の呪縛から解き放たれるには、まだまだ人として
の時間が必要
なのである。

そしてそれを見守るオレたち視聴者にとって、毎回少しずつ挿入される
ネフライトのシークェンスは、奇妙な疼きとして胸に刺さる棘である。

それはネフライトと水野亜美の未生の物語が、このシリーズが達成した
最良の何かを、今なお胚胎する可能性
だからである。これまでの物語が
語った美しい夢を根こそぎ否定しにかかっているたまらなく憂鬱な現状
のなか、あの美しい挿話群の記憶を裏切らず喚起するただ一つの要素だ
からである。

ある意味で、今この時点でオレたちが最も共感し得る人物こそ、裏切り
の屈辱と今はない幻の姿への憧憬に苛立つネフライトなのだ。

果たして、ネフライトに新たな物語への道は拓けるのか。

その結末を、オレたちはすでに識っている。

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Act.42 此岸のヒーロー

今回のエピソードは番組恒例我慢大会編である。

素朴な疑問だが、どうしてこの番組の特訓編は、必ず方向性の間違った
芋を喰ったりレタスを喰ったりする我慢大会になるのか?
(木亥火暴!!)

ある意味、崖のうえからでっかい岩を転がしたり、クレーン車で鉄球を
ぶっつけたり、先輩総掛かりのリンチを加えるのと、どちらが間違って
いるのか悩むくらいである(木亥火暴!!)。

あ、そうか、これはギャグなのか? ギャグなんだな?

じゃあ、武士の情けでサラッと無視しよう(木亥火暴!!)。

どちらかというと今回のお話は、大筋の流れを語るストーリーとしては
わかりやすくできている。前回の展開を受けて、今後数週間メタリアの
力の増大に呼応して暴れ回る最強妖魔の出現と、うさぎの秘密を識った
なるちゃんが妖魔の影響で生気を抜かれて人事不省に陥る流れ、そして
これまで比較的自由にダークキングダム内部を徘徊していた衛の行動を
掣肘する呪いの石という拘束要素の導入。相互に関連をもったこれらの
要素が、割合手際良く提示されている。

結論から先にいうなら、このエピソードは総体的に視ておもしろくない
部類の作品だと思うが、この時点までの流れをうまく整理して、雑多な
要素を仕切り直しているとは思う。

ここから違う方向に物語が進んだのだとしたら、もう少しマシな終わり
方ができたのではないかとも思う。

前回クライマックスで出現したプリムンは、周囲を顧みない容赦のない
攻撃で最強妖魔を追い詰めたが、その非情な戦闘によってうさぎのたい
せつな親友であるなるちゃんが痍附いた。尚も妖魔にとどめを刺そうと
剣を揮うプリムンは、何ものかに驚かされて一瞬攻撃を躊躇い、そして
妖魔を取り逃がす。

プリムンが消失したあとに残されたうさぎは、プリムンが揮った銀水晶
の強大な力を目の当たりにし、あらためて己に課されている過酷な使命
の重さを思い知る。

今回のアバンで、最後にプリムンを掣肘したのはプリムン内部のうさぎ
の声であったことが判明するわけだが、前回触れたように、これを今回
のアバンに持ち越すセンスは悪くないと思う。

なぜなら、今回のクライマックスでは意識的に前回のクライマックスと
相同のシチュエーションが設けられ、プリムンの癒しの相が健在である
ことと併せて、あらためてうさぎとプリムンの対話がもたれているから
である。

こうしたクライマックスの構造と響き合うかたちで、アバンにプリムン
内部のうさぎの声を配するのは自然だし、さらに前回の時点ではそれが
ちょっとした謎として機能するというのは、智慧のある取り廻しだ。

そういう意味では、全盛期の傑作と比べるとどうしても見劣りするが、
今回の竹光ローテの二話は、出来としてはさほど悪くない。おそらく、
佐藤健光が担当したエピソードのなかでは、いちばん良い出来だろう。

演出に関しては前回陳べたような内容を大きく出るような点はないし、
大筋に関しても前回陳べたような不満は相変わらず残るのではあるが、
それを語る語り口の部分では、今回の脚本はここ数話のなかでも出来の
良い部類だろう。

OP明けのクラウンのシーンで、まこちゃんが「前世に逆らうなんて、
無理なんだから
」と前回の論旨を引いた言葉を口に出し、それに対して
レイちゃんが「逆らわなきゃ、星が滅びるのよ」と切り返すのは、前回
の対話を引き継いでいる。

宿命をめぐるレイちゃんとまこちゃんの意見の衝突は、今後美奈子をも
巻き込んでセーラー戦士団内部の亀裂に発展していくわけだが、少なく
とも今回の時点では、セーラー戦士たちの大同目的に内在する矛盾点を
剔抉する機能
を果たしている。

その矛盾点に関しては、うさぎと衛の今生の恋に対するスタンスの矛盾
としてこれまで何度も指摘してきたが、転生人たちの今生での在り様を
宿命のゆえに帰すのならば、来るべき破滅さえもが不可避の結末という
ことになり、彼女たちの営為は滑稽な無限ループでしかない。

今さらではあるのだが、今回のレイちゃんとまこちゃんの衝突は、これ
まで矛盾を内包しつつなんとなく曖昧なままでスルーしてきた事柄を、
わかりやすい言葉で剔抉している。

なにより今回のエピソードは、ねじくれ曲がった大筋の仕掛けを受けて
いるにも関わらず、それを配置する筋道が論理的にわかりやすい。そこ
で今回は、少し芸のない論述ではあるが、この辺の道筋を粗筋に沿って
視ていくとしよう。

メタリアの力は銀水晶の力の増大に呼応しており、最強妖魔はメタリア
の力の増大を受けて発生したものである。その最強妖魔と闘うプリムン
もまた銀水晶の力を象徴するものであり、そのプリムンの見境ない暴走
がうさぎのたいせつな人を痍附ける。

痍附き病床に伏す友は、うさぎの水くささを詰り「うさぎなら大丈夫、
信用してる
」とうさぎを応援し、それによってうさぎは力を抑える決意
を新たにする。そこから力を抑える訓練として恒例の我慢大会に突入す
るわけだが、そのドタバタとオーバーラップするかたちでダークキング
ダム城内の衛は「オレがメタリアをなんとかするまで」力を抑えてくれ
と願う。

ここで衛がダークキングダムに留まっているのは「メタリアをなんとか
する
」目論見があるからであることが明らかになり、それを掣肘するか
のようにベリルに使嗾されたジェダイトが衛に呪いの石を埋め込む。

他方、最強妖魔の力はさらに強まり病床のなるちゃんが生気を抜かれて
人事不省に陥り、そこから病院の裏手で最強妖魔と三戦士の立ち回りの
流れとなる。妖魔に呼応して銀水晶の力が高まりを見せ、うさぎは必死
でそれを抑え込む。

銀水晶を抑えるうさぎが妖魔の攻撃に晒されたとき、エンディミオンが
その場に颯爽と現れてうさぎの危機を救うが、他ならぬその衛が呪いの
石によって苦しむ様を見ることで、うさぎの努力も空しく銀水晶の力が
発動し、プリムンが出現する。

妖魔とプリムンの戦闘が激しさを増すことでメタリアの力はさらに増大
し、人々は路上に倒れ伏し路傍の花は枯れ果てる。だが、妖魔の攻撃で
亜美ちゃんが痍附いたとき、プリムンの剣はハープに姿を変え、癒しの
楽を奏でることで亜美ちゃんの痍は癒え、路傍の花は生気を取り戻す。
ここはプリムンの持ち道具が剣と竪琴の両面を具えるというギミックが
効果的に働いている
と思う。

そして、プリムンの必殺の一撃が今将に妖魔を直撃しようとした瞬間、
またしてもプリムン内部のうさぎがその一挙手を制止する。

そこから心象世界内でのうさぎとプリムンの対話へと視点は移り、この
対話の結果、プリムンは不吉な予言を残して消え去り、セーラームーン
として戦いの場に戻ったうさぎは、亜美ちゃん、ルナと力を合わせて、
ひとまずは妖魔を撃退する。

大筋の問題としてこれまで指摘してきた事柄をいったん捨象して考える
なら
、この間の超越力と超越力の綱引きの描写はなかなかに興味深い。

そして、その超越力の始末が現実には決着が附かず、心象世界内部での
うさぎとプリムンの対話の結果、プリムンが身を引くかたちでひとまず
終息するという流れもおもしろい。

うさぎを悩ます超越力は結局どのように位置附けられたのか。ラストの
三戦士の対話に耳を傾ければ、「最強妖魔は銀水晶でしか倒せない」、
「銀水晶は必要な力であり、だから存在している」、「必要なときまで
銀水晶の力は使わない」ということになる。

今回のエピソードを視る限り、プリムン登場時点ではねじくれ曲がって
解決の糸口さえ見えなかった混迷に、一応の円満な道筋が用意されたか
に見える。

以前指摘した超越力の設定にまつわる矛盾や不自然さを、なんとか物語
として円満に着地させ得る活路が見出されたような印象を覚える。

要するに、銀水晶の力は暴走の危険を秘めた最終兵器と位置附けられて
いるわけだが、同時に敵の力の源泉でもあり、持ち主には制御の努力が
強いられるということだ。これは指輪物語の「一つの指輪」に近い性格
である。

今回のエピソードは、銀水晶にまつわるねじくれ曲がった筋道を一から
浚って、なんとかこのようなまとまったかたちに整理したものである。

今回ラストの時点でプリムンの問題をいったん終息させていたならば、
ここ数話の流れのなかで宙に浮いてしまっていたシリーズ全体の着地点
を軌道修正して明確化できていたのではないかと思う。

冷静に考えるなら、プリムンがらみの一連のストーリーは明らかに本筋
を外れた逸脱要素なのである。プリムンというキャラクター自体が梃子
入れの産物
であって、セーラームーンのパワーアップバージョンの一つ
のバリエーション
にしかすぎない。主人公がパワーアップしてラスボス
を倒す、そのようなルーティンの一つという基本に立ち返って処理する
ことも十分に可能なのである。

なによりも、正直にいってもうプリムンがらみの憂鬱で無理のある展開
をこれ以上引っ張るのはくどすぎる。おそらくここら辺が潮時だろうと
いうのがバランスのとれた判断ではないかと思う。

少なくとも、今回ラストの時点ではそのような軌道修正が可能であった
はずであるし、どうもラストの三戦士の会話はそれを意識して書かれて
いる節がある。おそらく大多数の視聴者も、この〆の言葉を聞いてその
ような展開を期待したはずだ。

また戦闘中に痍附いた亜美ちゃんを癒すためにハープを奏でるプリムン
の姿は、以前オレが指摘したような銀水晶の極性に関する疑義を回収し
得る描写であったはずだ。銀水晶には癒しの極性と破壊の極性が両義的
に内在するのであれば、これまでのように銀水晶の力の増大を一方的に
懼れる必要はないはずである。

事実、銀水晶の力の増大に呼応したメタリアの力が路傍の花を枯らして
いるのを、銀水晶の癒しの力が回復させる描写があるのだから、銀水晶
とメタリアの力が対消滅するという落としどころを用意することも十分
に可能である。

そのうえで、ルナの言うとおり銀水晶の力は「必要な力」「だから存在
している」と着地させることも可能なはずなのである。超越力のご都合
主義的で相互持ち合いのウロボロス的な意味附けを回収することも十分
できたはずなのだ。

しかし、その期待は次回のエピソードで早々に裏切られてしまう。

今回のレビューではあまり先走らないことにするが、次回のエピソード
はまたしても「銀水晶の力を抑える話」であり、プリムンという祟り神
を鎮撫する話になっているのである。

今回このようにわかりやすく収まった話を、なにゆえにまた蒸し返すの
か、それが視聴者を混乱させる。今回のエピソードで、うさぎは銀水晶
の力を抑えることに成功したはずなのに、そのすぐ直後のエピソードで
銀水晶の力を抑えることは、人間という感情を持つ存在にはほぼ不可能
である
ということにされてしまった。

これでは、何のために今回のエピソードがあるのかわからない。

プリムンがらみのストーリーに執着したのがだれなのか、それはこの際
どうでもいい。肝心なことは、あのような結末を回避する契機はここに
ちゃんとあった
ということだ。あのような結末が不可避であったのでは
なく、あのような結末を目指す意志があったということである。

一方、今回提示された方向性が早々に撤回されてしまったのは、銀水晶
という力とプリムンという人格を曖昧に混同してきたことのツケである
という見方もできる。

今回のエピソード中でも、銀水晶の力を抑えることとプリムンの出現を
抑えることに明確な弁別が為されていないので、衛の苦しみを視ること
でプリムンが出現する機序が少し不明瞭なものとなっている。

プリムンはなぜどのようにして出現するのか。実はこれは、最終回以外
はハッキリしたかたちでは開示されていない。一種の亡霊とはいえプリ
ムンは一個の人格なのだから、うさぎの存在を圧して現前しようとする
意志があるから出現する
のだという見方もできる。

Act.36の初登場は、まさにそういう局面であった。衛=エンディミオン
の去就に際してうさぎの感情が高まると、Act.25でプリンセスとしての
人格が顕現したように、現時点では、その忿怒相であるプリムンが出現
するのではないか。

そういうふうに考えるとスッキリするのだが、そうなると今度は、前回
や次回のように、衛が絡まないシチュエーションでプリムンが出現する
のはなぜなのか、また逆にAct.39のようなシチュエーションでなぜ出現
しなかったのかがわからなくなる。

いや、オレは、これらを矛盾なく説明し得るような解釈を提示しようと
しているのではない。そんなのは妄想補完の域を出るものではないし、
そんなことには興味がない。それはそもそも矛盾であり混同なのである
ということを陳べているのである。

つくり手のなかでは、銀水晶とプリムンは曖昧に混同されている。これ
はもはや疑う余地のないことで、プリムンがらみのエピソードの論理的
な気持ち悪さは、そのような混乱に起因している。

今回のエピソードでは、まがりなりにもうさぎは銀水晶の力を制御する
ことに成功しているのだが、次回のエピソードは意志の介在しない睡眠
中はどうしようもないという話になって、さらにはやっぱりうさぎは力
をコントロールできていなかった、そもそもそんなことは不可能なんだ
というオチになる。

このなし崩し的な前言撤回はどういうことなのか、理解に苦しむ。

なぜこういうややこしいことになってしまっているのかといえば、それ
はそもそもつくり手が銀水晶とプリムンの位置附けを自身のなかで曖昧
なまま放置して挿話を組み立てているからであり、そのために今回の話
の決着も「銀水晶の力を抑える」という課題の解決をプリムンを絡めて
語ってしまった
からではないかと思う。

あらかじめ銀水晶とプリンセスおよびプリムンの位置関係を綿密に設定
して、それを作劇上の拘束要素として意識化できていれば、このような
泥沼の論理矛盾は出来しなかったのではないかと思う。

今回の物語ではプリムンを鎮めることができないという判断それ自体は
正しい。

なぜなら、意志的に力を制御するという方向性によって貫かれた今回の
ストーリーでは、ラストのうさぎとプリムンの対話が噛み合わないから
なのだ。超越力による破壊は良くない、抑えなければならない、という
うさぎの論理は、自らの意志によって超越力を制御することには有意で
であっても、自らの裡なる別人格であるプリムンの共感を呼ぶ論理では
ない
のである。

うさぎの周りにはなるちゃんをはじめとしてたくさんのたいせつな人々
がいる。うさぎたちの戦いの巻き添えを喰って痍附いたなるちゃんは、
うさぎを信じて星の滅びを懼れない。その無前提の信頼には、人として
応えないわけにはいかないのである。

うさぎにはたいせつな人々がたくさんいるからこそ、力を抑える必要が
ある、星の滅びを回避する必然性がある。それこそが今回のエピソード
の出発点なのだ。だがプリムンにはエンディミオンただ一人しかいない
のである。この二人の間で、どんな合意が成立するというのか。

うさぎとプリムンの対話のなかでは、うさぎの口にする衛に触れた言葉
に続けて「エンディミオンはどこ?」というプリムンの問い掛けがくり
返されていることには注意が必要である。

以前、衛の覚醒に際して指摘したように、うさぎと衛の間では、地場衛
とプリンス・エンディミオンを弁別する必要はない。だから、うさぎに
とっては衛=エンディミオンだが、プリムンから視ればエンディミオン
はエンディミオンでしかない。地場衛=エンディミオンとして成立して
いる人格のなかの、プリンス・エンディミオンとしての部分以外はプリ
ムンにとって未知の人
なのである。

うさぎが必死にかき口説く「衛だって力を止めろって」という言葉は、
プリムンに対しては力をもたない。それは以前、Act.38の回想編でも、
うさぎの語る衛との恋の来歴や「絶対、星なんか滅びない」という誓言
がプリムンの心にいっさい響かなかったことと呼応している。

衛の場合には地場衛=プリンス・エンディミオンとして統合されている
人格が、うさぎの場合には月野うさぎとプリンセスムーンにスプリット
している以上、プリムンはベリル同様過去という時制に呪縛されている
一種の亡霊
でしかない。

うさぎがこれまで経験してきた物語が、プリムンに対してはまったく力
をもたないということになっているのだから、そういうことにしかなら
ないのであり、うさぎにとってたいせつな人々の存在は何らプリムンの
行動原理に影響を及ぼさない。

エンディミオンはどこ。エンディミオンのいない星は要らない。

いつかおまえも、エンディミオンのために。

この不吉な予言は、プリムンの心象は反映していても、うさぎの心象は
反映していない。どこまでいっても二人が別人として設定されていて、
月野うさぎとしてくり返されたプリンセスの生が過去の時制に固定され
たプリムンの意識に感応することがないなら、うさぎの事情とプリムン
の事情は金輪際リンクしない

それはそれとして、今回の落としどころから考えれば一向構わないはず
なのだが、これまで銀水晶の力の暴走をプリムンの出現として表現して
きたツケが廻って、銀水晶の力を抑えるという筋道はプリムンとの対決
なくしては収まらず、さらにはプリムンが鎮まらない以上、銀水晶の力
も抑えられないという矛盾せる循環論理が成立してしまう。

現時点でプリムンを鎮める論理はだれにももち得ないのだし、そのゆえ
やっぱり銀水晶の力は抑えられないというちゃぶ台返しが起きてしまう
のかもしれない。

そしてまたこれとは別の見方として、銀水晶の力に振り回されるうさぎ
の姿は、そのまま過去のプリンセスの姿と重なるのかもしれないという
事情がある。

プリムンが過去のプリンセスの忿怒相であり現在の月野うさぎの生霊で
あるなら、プリムンの在り方と月野うさぎの生き様を対比させるには、
過去のプリンセスが生きた非情なさだめを、月野うさぎもまたとことん
まで生きねばならない、そのような言い方もできるのだ。

月人と地球人の恋は不吉。それが何の根拠もない迷信であることはすで
に指摘した。しかし、強大な力をもつ銀水晶の巫女であるプリンセスが
激しい恋心を抱くことは、まぎれもなく不吉である。

プリンセスの設定に内在するこの非情な構図を掘り下げるなら、彼女は
月王国の繁栄のための犠牲者であり、銀水晶の花嫁として生け贄に差し
出された処女である。世界の繁栄が一人の少女を人柱にすることで成立
しているなら、その世界はいつか踏みにじられた少女の心によって復讐
される
かもしれないのである。

もちろんこんなのは作品世界の設定でもなんでもない、その設定に内在
するネガティブな可能性の一つにすぎない。古えのプリンセスの悲劇を
このように読み解くことも可能だというバリアントの一つにすぎない。

しかし、世界と個人の対立というこの構図が、文芸のテーマとして危険
なくらい魅力的であるのも事実である。プリンセスを束縛する本質的な
呪縛とは周囲の無理解や妨害ではなく、個人の生と秤にかけられた世界
の命運なのであるという読み替え、文芸に携わる者として、これにモチ
ベーションを掻き立てられる気持ちはわかる。

これまでうさぎと衛の恋は、周囲の人々や世俗の事情によって散々妨害
を蒙ってきた。しかし本来的にうさぎが蒙るべきパッションとは、世界
の命運と秤にかけられた場合に、個人の生を貫けるかというラジカルな
問い掛けであるとするならば、早々にプリムンと銀水晶の呪縛から解き
放つわけにはいかない文芸上の動機がそこに発生する。

銀水晶の力が一種のスティグマであり、プリムンの存在が世界によって
踏みにじられた個人の怨念であるなら、プリンセスと同じパッションを
引き受けない限り、この課題をうさぎが解決することはできない。その
資格がない。このテーマは、同じさだめを引き受けた当事者でない限り
安易に解決してはいけないのである。

そのように思い定めてしまったのか。

その意気やよしとしたいところだが、それはやはり妄執なのだとオレは
思う。「思い附いちゃった」以上のことではないと思う。

なぜなら、結末から遡っていえば、この非情な構図を打破する智慧を、
ついにこの物語はもち得なかったからである。そして、その構図を打破
する智慧がもしあり得るとすれば、それは虚構でしかない。世界と個人
の対立という構図のもつ現実性とは不釣り合いな机上の空論でしかない
のである。

その現実性に対して虚構で立ち向かう腹を固められないのなら、現実の
峻厳さの前に屈するしかない。「だから」この物語があのような結末を
迎えたのだとすれば、それはこの試みが敗れたということだ、腹を括れ
なかったということだ。その腹が括れないのであれば、安易にこの魔魅
に惹かれるべきではなかったのである。

うさぎと衛が闘っている敗れてはならない勝負、それは物語を語る行為
にもオーバーラップしているのであり、この試みが敗れることは、物語
の総体として、現実に敗北する美しい虚構というネガティブなテーマを
語ることに外ならない。

これは、視聴者のみならず、これまでの物語をも裏切る行為である。

この種のテーマを語る誘惑に墜ちた者は、それを語るに足るだけの智慧
を生まねばならない
。それを語るだけの資格を勝ち取らねばならない。
その智慧を語るために腹を括らねばならない。

どれ一つが欠けてもそれは無価値な失敗なのである。試みた意欲が称揚
されるテーマでは決してない、勝利のみが評価され、それが勝利である
ことを自己責任で証明しなければならないテーマなのである。

とまれ、オレはやっぱり先走りすぎたようだ。話を今回のエピソードに
戻すなら…そうだなぁ、さよなら竹光、元気でね(木亥火暴!!)。

多分、もう会うことはないと思うけど(木亥火暴!!)。

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Act.43-1 セカイの中心で我意を叫ぶケダ(ry

そういうわけでふたたび「銀水晶の力を抑える話」である。

比較的わかりやすかった前回の話と比べ、そのちゃぶ台返しに相当する
今回のエピソードは奇妙な論理が横溢している。

前半の最初のクラウンの会話でこれまでの状況説明が為され、銀水晶の
力でも、生気を抜かれた人々を回復させることはできないということが
語られる。

銀水晶のなんでもパワーでサクッと回復しちゃったらお話にはならない
ので、この辺をどうこういっても仕方ない話ではあるのだが、メタリア
の力が枯らした花をプリムンの竪琴が再生できるなら、メタリアの力で
倒れた人々をプリムンの力で回復させることができると、普通なら考え
られるはずだ。

だが、クラウンの会話によれば、銀水晶の力をもってしても倒れた人々
を回復させることはできず、メタリアを倒す以外に方法はないだろう、
そのために最強妖魔を探すことが先決であるということになる。とどめ
にレイちゃんが「メタリアが消えれば、銀水晶の力を使っても問題なく
なる
」という不可解な一言を漏らす。

もうこの会話がすでにわからない。

いったい、何の話をしてんの?

これまでの世界観では、セーラー戦士たちの大同目的とは、世界征服を
目論むダークキングダムを潰滅することであり、よりグローバルな意味
では星の破滅という前世の宿命の再現を阻止することである。それは、
もっと直截にいうなら、クインベリルとクインメタリアを倒すことでは
なかったのか。

それなのに、この会話では「倒れた人々を元に戻す」という目的のため
に最終目標のはずのメタリアの消滅を図る、そのためにまず最強妖魔を
探すという計画が語られている。さらには、メタリアを消滅させること
で銀水晶の力を問題なく使えるようになるというねらいも語られていて
これでは何のために彼女たちが闘っているのかサッパリわからない。

これはつまり、「最強妖魔は銀水晶でしか倒せない」、「銀水晶は必要
な力であり、だから存在している」、「必要なときまで銀水晶の力は使
わない」という前回ラストの結論が根こそぎ否定されたということだ。

前回の結論に沿うなら、最強妖魔を倒すには銀水晶を使う必要がある。
それなのに今回は、前提として最強妖魔どころか一足飛びにメタリアを
消滅させなければ銀水晶は使えないということになってしまっている。

だったら、そのメタリアをどうやって消滅させるつもりなのか。銀水晶
以外の方法で最強妖魔、いや、メタリアそのものまで消滅させることが
できるなら、銀水晶は何のために存在する力なのか。さらに、メタリア
を倒したあとで、何に銀水晶を使うつもりなのか。「必要なとき」とは
いつのことなのか。

ご覧のとおり、文句の附けようがない、完璧な堂々巡りの論理である。

もっと悪いことは、この会話はギャグのつもりで書かれたものではない
ということだ。この場面には笑える要素が一つもない。それは演出者が
ギャグを理解していないからではなく、この場面が笑い事として書かれ
ていないからである。つまり、この矛盾せる循環論理がつくり手に認識
されていない、もしくはその矛盾を剔抉して解消するつもりがない、と
いうことである。

少なくとも、「ダークキングダムを潰滅させる」というより高次な目的
が、「昏倒した人々を回復させる」というより低次な目的の過渡的手段
に内包されてしまっていて、決め手となる力をもたない脇役的キャラク
ターがそれを実現しなければならないということになっている。ちなみ
に、この場合に「高次」「低次」といっているのは階層の別を示す言葉
であって、「大事の前には小事を云々」という価値的高低を指すもので
ないのは、あらためて補足するまでもないだろう。

これはやはり、完全に作劇の階層構造が間違っている。

これを別の作品で喩えるなら、カビビンガの人喰いカビを撃退するには
滝和也ショッカー大首領を倒さねばならないといっているようなもの
である。メ・ギノガ・デの毒に倒れた五代雄介を蘇生させるために一条
刑事がン・ダグバ・ゼバを倒さねばならないといっているのと階層的に
は同じである。

過渡的な困難を克服するために最終目的を達成してしまったなら、その
瞬間に物語が終わってしまう
ではないか。それを脇役たちが成し遂げて
しまったら、主役のやることがなくなってしまうではないか。普通なら
そんな階層構造の混乱した馬鹿げた作劇は避けるのが当たり前だ。

この矛盾がどのような結果を生んだかは、Act.46を視ればわかる。

真の力に目覚めたヴィーナスの攻撃でメタリアの精が抜けた最強妖魔は
五人揃ったセーラー戦士たちの通常の攻撃で消滅し、倒れた人々はプリ
ムンの楽の音で回復したのである。セーラームーンが加わったとはいえ
たしかに今回の前提となっている「倒れた人々を回復させるためにメタ
リアの消滅を図り、まず最強妖魔を追う。然る後に銀水晶の力を使う」
という筋道のとおりになっている。

だが、最強妖魔はメタリアの精が抜けたから倒せたのだし、倒れた人々
を回復させるために便利にプリムンの力が用いられている。最強妖魔を
倒すという目的は達したものの、メタリアは消滅させられなかったので
あり、メタリアが健在であるにもかかわらずプリムンの楽の音で被害者
は回復している。また、プリムンの力が平和裡に活用されていて、今回
の話の前提となる、プリムン≒銀水晶の発動を抑えねばならないという
問題がどこかへ行ってしまっている。

もう、何が何だかサッパリわからない。

メタリアの力が最強妖魔の形態をとっている間だけ銀水晶の力は妖魔の
力に対抗できなかったということなのか。では、最強妖魔からメタリア
を追い出したヴィーナスの力は銀水晶より強力なのか。メタリアの精が
抜けたあとの最強妖魔はいったい何なのか。自然発生妖魔自体メタリア
の力の増大による非意図的生成物ではないのか。

その自然発生妖魔の一種である最強妖魔がメタリアのヨリマシとなり、
さらにそのメタリアの力が銀水晶の力と等しいという理由で最強妖魔の
口からうさぎの声が洩れるという描写がある。その最強妖魔の存在が、
銀水晶の力による人々の回復を妨げているということなら、廻り廻って
銀水晶の力が銀水晶の力を抑えているということになる。

さらに、銀水晶と相同の存在であるメタリアが抜けたあとの最強妖魔は
セーラー戦士たちの攻撃に敗れて消滅し、最強妖魔が消滅することで、
銀水晶の癒しの力が人々を回復させるとなると……みんな、大丈夫か、
ちゃんとついて来てるか?(木亥火暴!!)

要するに、これがアリなら何でもアリだということだ。

他のどんな筋道よりも、この筋道は混乱に盈ちていて超越力が恣意的に
意味附けられている。ある意味、最終兵器の銀水晶が発動してめでたし
めでたしというご都合主義的解法よりも、もっとタチの悪いご都合主義
である。なぜなら、現状における銀水晶の扱い方は、「わからないよう
に混乱させることでズルしている」からである。

ヴィーナスの力がメタリアを追い出したことについては、プリムンの力
なら難なく最強妖魔を消滅させられたが、あまりにも強大な力であるが
ゆえに制止された、真の力に目覚めたヴィーナスの力は「ええ具合に」
強くも弱くもなかった(木亥火暴!!)、またはものの弾み(木亥火暴!!)、
もしくは転んだ瞬間の打ち所が悪かっただけ(木亥火暴!!)、と解釈でき
ないこともない……よな?(木亥火暴!!)

だが、そうすると、そんなに強大な破壊力を具えるプリムンなら、その
破壊の力に比例して癒しの力も強大なはずで、最強妖魔を消滅させられ
るくらいの力があるなら、最強妖魔の存在に癒しの力を妨げられたのが
不自然である。

要するに、どう解釈しても矛盾が残るのである。

じゃあ、思い切って百歩も万歩も譲ってみようか。そんな細かいことを
いったって、何だかハッキリわからない力と何だかハッキリわからない
存在についての差し引き計算なんか合わなくて当然だ、肝心なことは、
物語の描写として不自然であるかどうかなんだ。

まあ、そういう大前提で考えてみようか。そうすると、そもそも何だか
ハッキリわからないが不自然な感じを受けて気持ち悪いから細かいこと
を考えているのだ
という事実にハタと逢着するのである(木亥火暴!!)。

以前少し触れたが、人間には物事のとらえ方の大本となるマトリックス
のようなものがある。大きいか小さいか、強いか弱いか、どちらが先か
後か。大小強弱の釣り合いの感覚、因果の序列の感覚。何だかハッキリ
わからないものを扱う場合でも、このような先験的な感覚に逆らうよう
な扱い方は、ハッキリ不自然な印象として残る。

もちろん、じっさいにはそのような自然なとらえ方に逆らう現象という
のは存在する。量子力学や先端物理学の思考モデルが、門外漢には理解
しにくいのは、そのような人間の自然な思考の型に逆らうような極小と
極大のレベルの奇矯な事物のふるまいの記述であるからだ。

だが、物語というものはそうではない。先端物理学の知見を用いる場合
でも、それを語るナラティブは自然な思考の型に沿って展開される必要
がある。先端物理学の知見を専門家以外には理解できないようなかたち
で語るのでは、それはすでに物語と呼べないだろう。

文芸とは、プランク定数やハッブル定数の支配する世界ではなく、日常
的な条理の支配する巷を描くものである。自然なもののとらえ方という
万人にゆるやかに共有されている最低限の条理を無視したら、そもそも
語り物が成立しないのだ。

物語において、超越力のような何ら明確な規定がなされていないものを
扱う場合には、受け手が共有できるかたちで自然な筋道を附けてやらね
ばならない。そうでなかったら、何だかわからない力なんだから何でも
アリだということになる。

これだって、何でもアリでどこが悪い、所詮ファンタジーなんだから、
条理も筋道もアルカイダ、と開き直ることもできよう(笑)。

しかし、魔術や超能力などの超越力、すなわち架空の力学を前提とする
ファンタジーという文芸ジャンルが、実はガチガチの考証派のジャンル
であるというのは、ファンタジーの歴史を辿れば自明のことであって、
「ファンタジーなら何でもアリなんですよ」「何でもアリだから何でも
できるんですよ」と、つくり手自らが誤解している作品ほどつまらない
ファンタジーはない。

そんな初歩的な誤解をするつくり手は、ファンタジーだの幻想文学だの
という前に、そもそも物語の語り手としての研鑽を積んでいないとしか
言い様がない。超越力がアリとされる世界観においては、普通の日常を
描く場合なら自然に感得可能な筋道上の必然性を、つくり手の側で規定
してやる必要があるのだ。

たとえば主人公が魔法を使える場合、その魔法の性質や限界が何ら規定
されていないとしたら、彼もしくは彼女をピンチに陥れるにはどうすれ
ばいいのか。クリフハンガーの言葉どおり、崖からぶら下げるか。魔法
で助かりました。吊り天井の罠に落とすか。魔法で助かりました。恋人
が殺されました。魔法で生き返りました。

これでは物語が成立しない。なぜなら、何ができて何ができないという
ことが明確に規定されていない超越力がアリなら、物語がどう転んでも
不自然に感じる
からである。何でもできるなら物語上の困難はいっさい
設定できないし、何かができない場合はなぜそれができないのかという
理由附けがないため不自然に感じるからである。

主人公を崖から落として読者をハラハラさせておきながら、その解決が
呪文一発空を飛んで危地を脱するなどというストーリーだったら、普通
の読者はバカにするなと怒り出すだろう。また、魔法を使わずに他人に
助けられたとしても、なんで魔法で切り抜けなかったんだと、これまた
怒り出すだろう。要するに何をどうしたところで物語は成立しない。

何でもアリというのはそういうことだ。人間の物語はできることとでき
ないことが明確に規定されているからこそ成立するのだ。生身の人間は
空を飛ぶことができないのが「当たり前」だからクリフハンガーが成立
するのである。日常的な感覚として共有されている「当たり前」を前提
としないジャンルでは、何をもってその作品世界の「当たり前」と規定
するかが作劇上重要
なのは当然なのである。

少なくとも、ファンタジーを文芸として語る場合には、この前提を共有
していないと、ジャンルの体系を一から浚って説明するという、不毛な
労力を強いられる。

ファンタジーの巧拙は、その世界内で通用する拘束要素の体系の美しい
整合によっても量られるのである。この前提を共有しないなら、それを
ファンタジーという文芸ジャンルとして論じることができなくなる。

それが証拠に、超越力の位置附けを曖昧な混沌に放置したことで、この
物語は筋のとおったストーリー展開が不可能となっている。たとえば、
最前指摘した「銀水晶が人々を蘇生させられない」という物語上の困難
の提示は普通なら当たり前のエピソード構築法であるが、設定面の混乱
を受けて、合わせ鏡のような自己言及の重層のゆえに不自然な感を受け
てしまう。

物語を構成するそれぞれの要素が個別のものであること、甲と乙が対立
的な概念であること、甲と乙が相同であること、等質であること、同一
であること、この辺の事情を安易に錯綜させると、何を語っても不自然
なものになってしまう。

やはり、この概念的混乱には白倉が重要な役割を果たしていると視るの
が妥当だろう。白倉の作劇思想には混沌と多義性を混同しているという
致命的な欠陥がある
。さらに、白倉のイメージする混沌は太乙的な全体
性とは懸け離れたものであり、意味成立を阻むという恣意的操作の屹立
したノンセンス
であるというもっと大きな欠陥がある。もっといえば、
文芸的な素養のない白倉が唯一もち得ている井上的方法論は、本質的に
白倉的思想の理想的な実現のツールとしての適性がない

それは井上敏樹の責任ではなく、同床異夢に気附かない白倉の文芸的な
鈍感さにすべての責任がある。白倉が「テレビ番組」「特撮ヒーロー番
組」を文芸の文脈で語る限り、その素養の欠落は指摘されずにはおかな
いだろう。白倉は白倉的課題への文芸的アプローチの死屍累々の歴史を
いっさい識らないとしか思えない。

単純で美しい物語の一義性を否定するために意味成立を阻むための恣意
的操作を加えるというアプローチは、早々に放棄された原始的な方法論
なのである。なぜ放棄されたのか。それは、そんなベタなことをしたら
物語が破綻するから
であり、人々が本質的に求めているのはまず第一に
意味構造としての物語であって思想の実践ではないからである。

何かのために物語を破綻させるのは、本質を見失った愚か者の発想だ。
破綻させずに何かを成し遂げねばならないからそれは難しいのだし、試
みる価値があるのである。そうでなかったら今ごろストーリーテリング
の主流はダダやシュールレアリスムになっているはずだが、むしろ逆に
それらは意味構造としての文芸のエレメントの一つとなっている。

とまれ、意味成立を阻む操作としての矛盾せる設定は順調に物語を破壊
している。オレが今回のエピソードを観て感じたこと、それは、もはや
大筋の流れを条理に沿ったかたちに軌道修正することは不可能であると
いう残念な結論だ。

これ以降、劇中の人物が何のために今このような行動を起こしているの
かをまともに考えることは空しくなる。それは必ず矛盾しているのだし
それは必ず滑稽なノンセンスである。もちろん、人間のふるまいは矛盾
に盈ちているのだし、一義的なものでは決してない。だが、現実世界に
おける人間の営為はノンセンスな混沌ではなく多義的なのである。

人間のふるまいを視る場合に重要な尺度は、多義的な視点なのであって
混乱や意味否定ではない。ある条理そのものが矛盾し混乱しているので
はなく、同時に真である複数の条理が一人の人間に混在しているという
だけのことである。条理そのものが矛盾・混乱している場合は、一般的
にオーセンティックな意味での狂人と呼ばれるのであり、物語は狂人の
痙攣的なご乱行をおもしろおかしく描く暇つぶしでは断じてない。

同様に、社会的現実もまた混沌の直中にあるのではなく、複数の条理が
同時に真であるという多義的な状況のなかにあるのであり、これを混沌
と表現することは、複雑で錯綜した概念構造は皆ひとしなみに出鱈目で
ノンセンスであるという雑駁な基本認識を露呈する。

白倉のいう混沌がそのような多義的状況を指すのであれば、その場合、
重点がかかるのは「同時に真である」条理の混在という部分であるはず
なのだから、言説自体の埒内では無矛盾で成立する複数の条理を規定し
なければ、世界の記述として説得力がない

一義的な条理に後附けで矛盾を生じさせるという操作なら、だれだって
簡単に可能だからであり、それは「思い附き」の域を出ないからだ。

もしかして白倉の脳裏には中里介山大菩薩峠国枝史郎の諸作のよう
な、一方的にスプロールする物語構造のような原イメージがあるのかも
しれないが、そうだとすれば、やはりそれはその種の物語の本質的構造
を見誤っている。

それらの物語群は意味否定の混沌に回帰しているのではなく、意味性の
自律運動に基づいて、カスケード的な複雑系を現出しているのであり、
自律運動の方向性が開放端になっているだけで白倉の思想とはまったく
極性が違う。

味噌と糞はやっぱり違うものなのである。

今回以降のストーリーがなぜ破綻しているのかといえば、設定面に内在
する意味否定の操作によって、どんなドラマの成立も不可能になったか
らである。うさぎ≒プリムン≒銀水晶≒メタリアという曖昧に遍在する
「わたし」一者しか存在しない世界内で、闘争の物語はおろか普通一般
にいうドラマすら成立し得なくなった。要するに、この作品世界は曖昧
に揺らぐ主人公の心象世界にすぎないからである。

それは白倉が最も忌み嫌う「わたし」という一元的原理ではないのか。

わたしのなかの日常、わたしのなかの慈愛、わたしのなかの怨念、わた
しのなかの邪悪。この世界には、だれだともわからない、世界によって
規定されることのない、貌のない「わたし」の諸相しか存在しない。束
の間惹かれ合い、葛藤し合う、「わたし」という曖昧な一者。

世界はわたしを愛し、わたしに愛され、わたしを踏みにじり、わたしに
よって滅ぼされ、そして。

わたしによって再生される。

最前の矛盾せる論理が、あの最終回を先取りしていることはいうまでも
ないことだろう。銀水晶の力を使うことなく敵は倒れ、メタリアを倒し
た「あとで」、銀水晶は世界を滅ぼし再生するために使われる。つまり
Act.46は最終回の雛形であって、メタリアもろとも最強妖魔を倒してい
れば、話はそこで終わったのだ。しかし、メタリアのヨリマシが地場衛
に替わったから星の破滅というオマケが附いてきたのである。

「わたしを愛し、わたしが愛する者」である地場衛は、メタリアという
「わたしのなかの邪悪」と一体化し、それを殺すことで、うさぎという
「わたしのなかの日常」は消失して、プリムンという「わたしのなかの
怨念」が、その殺害を自身に強いた世界に復讐を果たす。

しかし、月のプリンセスの衣裳を纏ったうさぎという「わたしのなかの
慈愛」が世界の非道を赦すことで、「わたし」と世界は和解を果たし、
世界は再生し、銀水晶は消滅する。そして銀水晶という非日常への媒介
物を喪うことで、「わたしのなかの日常」は回復されるのである。

これはつまり「セカイ系」と呼ばれるジャンルそのものの構造ではない
のか? 数々の可能性の芽を摘み、徹底して施された意味否定の操作が
実現したのは、つまるところ若者世代の大好物の「セカイ系」の甘やか
な心象世界だったのか。

笑っちゃうね(木亥火暴!!)。

骨太な人間ドラマの意味性を否定するために、白倉が大真面目に加えた
操作によって実現したのが「セカイ系」だという事実、これは嗤われて
然るべきだ。なぜならそれは、白倉の心性に潜む情緒的な思想の動機が
「セカイ系」と根を同じうしているという事実の表出だからである。

思想には必ず情緒的な動機がある。だからそれ自体は恥ずべきことでも
何でもないが、それが「セカイ系」なのはちょっと恥ずかしい(笑)。

白倉の思想を特徴附ける奇妙な傍観者性、もしくは非当事者性、意志的
選択の不在という性格の正体は、これなのかもしれないな。世界とは、
「わたし」によって視られ、操作を蒙るものである。世界をかたちづく
るもの、それは秩序であり、秩序とは「わたし」を見据え、操作しよう
と「わたし」を侵犯する力である。しかし、「わたし」は「わたし」の
外部からの視線も操作も拒絶する。ゆえに「わたし」は、反秩序として
の混沌が世界を領することを好む。

しかし、その混沌を正当化する論理とはその実「わたし」の視線と操作
による秩序立てに他ならない。忌避される秩序とはその実「わたしでは
ないだれか」の秩序でしかない。ここでいう混沌とはその実「わたしで
はないだれか」からの視線も操作も拒絶する恣意性の屹立でしかない。
秩序という言葉に置換されているのは「わたし」を見つめ拘束しようと
力を及ぼしてくる第三者的な既製原理の謂いなのである。

白倉の思想が宣揚する混沌とは何か。それは「わたし」が世界を見つめ
論評するのであって、世界が「わたし」を見つめ論評するのではないと
いう拒絶の意志である。この白倉的な「わたし」という一元的原理は、
容易に「セカイ系」へと接近するのである。

この感覚は、いってしまえば非常に若い。自分たちが意志的に承認した
わけでも実感的に理解したわけでもない既製の一般原理を一方的に強制
される若者の不安や反撥に近い感覚である。この感覚は、昨日今日発生
した現代的風潮ではなく、自分ではないだれかがつくった既存の世界を
一方的に受け渡される若者という世代層一般に万古不変に存在する感情

である。

だから、「混沌をあるがままに」云々という白倉のメッセージをうんと
簡単にいってしまえば、「おとなのいうことなんか信用するな」という
ことである。尤もらしい理論武装は、そのメッセージの尾崎豊的な若さ
を剥き出しにしないための虚勢でありカモフラージュにすぎない。

若者は、自分たちにとって快い世界の招来を切望してはいるが、他人の
つくった手垢の附いた世界なんか引き受けたくないものであり、それで
当たり前の存在なのだ。若者がいつか「おとな」と呼ばれる存在になる
のは、いやいやながらもお下がりの世界を引き受け、引き受けたからに
は自己責任に基づいて世界と関係していくからである。

だが、白倉ヒーローは世界なんか引き受けない。世界は未だ「おとな」
のものであり、所詮は他人事である。彼らは「わたし」というそれだけ
は自分のものである実感を頼りに世界を手探りし、「わたし」の問題を
中心とした闘争を闘い、「おとな」のものである世界はその結果として
勝手に変質していくのである。このような世界認識はまさに「セカイ」
と呼ばれる概念と通底している。

それは、「おとな」の世界への参画を未だ拒絶されながら「おとな」の
世界原理を強制される若者の感情にマッチした作劇である。若者はいつ
だって「おとな」たちがつくった未だ発言権を認められない世界を圧し
附けられる存在なのだし、是非はともあれ感情の問題としてそれがいや
でないはずがない。

白倉自身が平成ライダーを愛好する若い世代から支持を受け、ヒーロー
視される理由の一半はこの辺にあるのではないかという気がする。白倉
のヒーローは「おとな」たちのつくった世界に無関心であり「おとな」
たちの正義に無関心であるのに、彼らの活躍によって「おとな」たちの
世界は大きな変質を余儀なくされるのだ。

そしてそのような作品をつくるために、白倉は「おとな」たちに対して
ときに嘘を吐き、ときに恫喝し、ときに恭順したフリをしてみせる計算
尽くの「したたかな子ども」を演じている。

若者はいつでも「おとなを翻弄する子ども」を英雄視するものなのだ。

……まあ、これは「印象批評」だから論証はしないがね(木亥火暴!!)。
オレは別段、白倉から×もらっても恥ずかしくないから(木亥火暴!!)。

さて、久しぶりに大好きな白倉をお腹一杯語ってカラダがあったまった
ところで、本格的にエピソードを視ていこうか(木亥火暴!!)。

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Act.43-2 オレには埒もない、それでもオ(ry

冒頭の会話だけでこんなに語ってしまうオレが愛おしい(木亥火暴!!)。
それを白倉にこじつけるオレのセンスはもっと愛おしい(木亥火暴!!)。

というわけで、薄気味の悪い自虐ネタはこのくらいにして、本編を視て
いくことにする。登場人物たちの行動原理が整合のとれていないものに
なってしまったことはすでに指摘した。なかでもきわめつけの不整合で
ある銀水晶≒プリムンにまつわる問題をまたしても蒸し返すエピソード
であるだけに、衛とうさぎの束の間の逢瀬を描いた主筋もまた不可解な
夾雑物に水を差されている。

前回のエピソードで明かされた衛の動機とは、「オレがメタリアをなん
とかする
」というものであった。「なんとか」と表現されている以上、
この時点では衛にも何らかのアイディアや成算があったわけではないと
思われる。

じっさい衛がメタリアと同化できたのは、そのセリフの直後に埋め込ま
れた呪いの石によって生命力が空っぽになってしまったからであって、
その結果として、偶然「なんとか」なっただけという見方もできる。

この辺の、深く先々まで考えているわけではないが、まあ「なんとか」
なるだろ的な大雑把なポジティブシンキングは、エンディミオンとして
覚醒したあとの貴種流離的な地場衛像には合致している。

ここ数話の流れにおいて、劇的な動きを見せている登場人物たちを視る
と、主役である女性陣の描き方には不可解な点も多々あるが、男性陣の
描き方は総体的にかなりいいし、どうにも扱いあぐねているような印象
のクンツァイトを除けば、劇的な変貌を見せたキャラでも、その変貌に
は一本筋がとおっているように感じられる。

とくに覚醒後の地場衛は最も描写の振れ幅がないキャラであるだけに、
視聴者が信を置けるステディなヒーロー像として好感がもてる。まさに
衛なら「なんとか」してくれるのではないかという期待をもたせるので
ある。まあ、その「なんとか」というのが吾妻ひでおのマンガの「次の
朝、お母さんはなんとかなっていました
」式であったのはご愛敬という
ものだが(木亥火暴!!)。

じっさい、このエピソードの物語作法それ自体を視るのなら、それほど
悪い出来というわけではない。問題は、そのような一般的な作劇を許容
しない設定面の構造的矛盾である。

わかりやすくいうなら、ここに至るまでの前半からの三クールは、脚本
と演出と芝居の三者がガッチリ巴で勝負を決するセメントマッチだった
のだが、シリーズを締め括るために語られたこの一クールの主役とは、
どうやらプロデューサーである白倉であるということになるだろうか。

エピソード個別の脚本や演出よりも「だれかが決めたこと」という概念
的な要素群が屹立し、シリーズのムードを強固に支配しているのがこの
クールの特徴である。たとえば前回と今回を比較する場合、エピソード
構築法の自然な要請として前回のエピソードが辿り着いた結末が、今回
冒頭から「なかったこと」にされているのは、自然な話の流れで構想が
転がっていくのではなく、従来の流れを批評的に読み解く視点に立って
第三者的な思想の観点から物語要素を決定している者の介入のゆえ
では
ないのだろうか。

だがまあ、これはいっさい論証抜きの「意見」である。オレという特定
の読み手がこの一クールのシリーズ構成術にハッキリ白倉伸一郎という
特定個人の個性
を感得したという感触を語っているのである。つまり、
当たっているか外れているかという観点でしか評価しようのない話では
あり、その前提で聞いてほしい話である。

本放送時にこのエピソードを観たときの個人的な印象は、正直、あまり
良いものではなかったのだが、それは別段、エピソード単体の責任では
なく、エピソード単体のドラマ性がもたらす感興を純粋に楽しむことが
もはや許されていないから
である。

今回のエピソードの要諦を簡潔にまとめるなら、決死の覚悟を秘めて敵
陣深く入り込んだ衛が、残されたうさぎを気遣い無理を押してうさぎの
許に舞い戻り、束の間の逢瀬でうさぎを慰めるとともにある種の約束を
取り交わし、その代償として自らの一命が賭けられたベリルとの約束を
破る羽目になる、というところだろう。

これだけを視るなら満更悪くないストーリーである。

日没までの僅かな時間を恋しい人と過ごすという儚さ、うさぎとの約束
とベリルとの約束が対比させられ、「もう少しだけ」うさぎといっしょ
にいてやりたい、いっしょにいたいという、刹那に燃え立つささやかな
想いのために命を抛つ衛の姿がもたらす悲愴味や哀感、ベリルとの約束
を識らぬうさぎが、一途に衛を信じて約束どおり微笑みを湛える寂寥感
溢れる結末は、一本の語り物としてよく出来ている。

また、こうした寂寞の抒情味を描出する鈴村演出も悪くない。おそらく
復帰後の鈴村演出回では、このローテの二本がベストだろう。

演出による積極的な作劇を行わない鈴村演出は、脚本自体が明確にお話
を語りきっているようなエピソードに向いている
。七つ道具を一式抱え
てお得意からお得意へ飛び回る御用職人を思わせる鈴村は、物語に深く
関与して新たな意味性を創出するタイプのクリエイターではない。

要するに、演出に鈴村を投入するということは、シリーズ統括の視点で
視れば「外注に廻す」という意識が必要だということだ。内製から外製
にシフトする場合には的確な指示書とダメ出しの作業が必要なように、
だれが視てもわかるように明確に語りきったホンが必要だ。

無論、言葉どおりの「外注」という意味なら、鈴村に限らず白倉以外の
スタッフは全員外部業者なので、契約形態の話ではなく特定のスパンに
おけるプロジェクトのコアメンバーとしての意識の在り方
の話である。
その辺、東映特撮という業務の拡がりの範疇では、鈴村はつねに遊撃手
的に位置附けられているようで、どこの現場でも中の人間ではなく外の
人間として自他共に位置附けている節がある。

その意味では、今回はうさぎと衛の儚い逢瀬、次回は忠臣ゾイサイトの
自己犠牲、という結末に向けて明解にお話が組み立てられていて、鈴村
演出にも迷いがない。

だが、そのドラマ的感興の成立を阻むのは、ドラマ単体として視るなら
添え物にすぎないはずの「衛がうさぎに逢いに行くに至る理由」を描く
部分である。衛とうさぎの逢瀬に主眼を置くなら、そのための理由附け
は添え物にすぎないし、結末に至る道筋を敷く過渡的要素にすぎない。
じっさい、エピソード構築上の書き手の意識としてはそのようなドラマ
を想定してホンを書いているのではないかと思う。

つまり、ドラマの構成上、睡眠中にプリムンが発現するとか、うさぎの
強い感情が銀水晶に影響を与えるなどというような事情は、衛をうさぎ
に逢わせるための口実
なのだし、銀水晶絡みのゴタゴタにひとまずケリ
を附け、今後他の叙述要素を進めるために引き合いに出されたというに
すぎない。

しかし、前回でそれなりの決着をみたはずのプリムン≒銀水晶の問題を
ふたたび蒸し返したために、必要以上にその要素が突出して感じられ、
衛とうさぎの逢瀬のウェイトが相対的に軽くなってしまっている。また
その二人の会話で語られる内容も、本来なら実はどうでもいいことで、
二人の間を堰く尤もらしい事情であるなら何でもいい、という言い方も
できるのだが、ここも語られている内容のウェイトが高すぎて、それを
語る場面のドラマ的感興のウェイトが軽くなってしまっている。

これはエピソード構築法の問題というより、素材のもつ意味性の問題と
なる。本来ならお話をかたちづくるための材料にすぎないはずの設定が
必要以上に意味性を主張しているために、ドラマの感興をスポイルして
しまうのである。

この場面のセリフを再録して、少し細かく視ていこう。

うさぎ、よく聞け。今日メタリアの力を強めていたのはプリンセスじゃ
ない。おまえだ。おまえの怒りや憎しみの感情が幻の銀水晶に伝わった
んだ。

おまえは、ベリルや前世を引きずった人間たちのようになるな。どんな
ときも笑ってればいいんだ、バカみたいにな。得意だろ?

バカみたいはよけいだよ。でも、衛はまだ帰ってこれないんだよね?

安心しろ。オレの気持ちがおまえから離れることはないから。心はいつ
までもおまえといっしょだ。

この一連の会話に、漠然とした違和感を感じた諸兄姉は少なくないので
はないだろうか。何かが胸に引っ懸かる。オレは、その違和感がそれに
続く感動的な衛とうさぎの束の間の戯れと別れの場面にまで持続して、
素直にドラマに入り込めなかった。

純粋にこのダイアログだけを視るなら、前半でベリルが独語ちた「プリ
ンセスが心をとるなら、妾は命を
」というセリフと対応して「心はいつ
までもおまえといっしょだ
」というセリフが語られ「命は」という言葉
が呑み込まれる。衛の決死の覚悟や命を削る呪いの緊迫感が、うさぎに
それと悟らせないダブルミーニングで表現されている巧みなものだ。

にもかかわらず、オレたちは相変わらず何かに引っ懸かっていて、その
悲愴味に浸ることが許されない。そんなヒロイックな衛の行動に繋がる
道筋に、ついつい想いが及んでしまう。そこには拭い去れない違和感が
蟠っている。

微笑むつつ姿を消す衛と切り返してハッと息を呑むうさぎ、やがてその
表情が微笑みに包まれて…という沢井の絶妙な表情芝居も、それを盛り
立てるドラマ的な緊張が途切れているので十全に活きていない。

何がこうも引っ懸かるのか。それは、衛がうさぎの許へ舞い戻る口実が
「プリンセスを鎮める」というものであり、じっさい前半で提起されて
いた課題が睡眠中のプリムンの出現であるにもかかわらず、本当の課題
が実はうさぎのなかの悪念と銀水晶の照応であった
という筋道上の混乱
があるからである。

だとすれば睡眠中のプリムンの出現はどう扱われるべきなのか、ハープ
の音とメタリアの力が呼応するような描写は間違いなのか、そもそも、
最初からうさぎの感情に呼応して銀水晶の力が高まりをみせるからそれ
を抑えねばならないという話で、プリムンがメタリアの力を強めている
なんて話はこれまで出ていなかった、だいいちその話は前回終わってる
んじゃなかったのか等々、ただ一言のセリフでこれだけの疑問が湧いて
出てしまうのである。

ことに、大きく括れば、前回の話においても銀水晶の力を抑えるという
ことは、強い感情を抑えるという意味では今回と事情が同じであって、
嫉妬や憎悪というネガティブな感情だからどうとかいう話ではなかった
はずである。ネガティブな感情が作用したからメタリアの力が増したと
いうのであれば、ポジティブな感情が作用したらメタリアの力は衰える
のか
。いや、銀水晶の力とメタリアの力はうさぎの「強い」感情に照応
しながら「一方的に」増大するのであって、その感情の極性はこれまで
いっさい問題とされてこなかったはずだ。

つまり、嫉妬や憎悪がどうのという話は実質的には無意味な修飾要素で
あり、じっさいには、今回の課題の構造は、前回とまったく同一なので
ある。そして、ちょっと表向きの言い回しを変えただけでまったく同じ
設問をくり返し、「結局無理」という身も蓋もない結論で再度軌道修正
しているのである。

そして、「結局無理」からの落としどころが「笑っていればいい」なの
はどうなのよ、それで済むんだったらこの二話の話はなんだったの、と
いうのが最大の引っ懸かりで、それを用いた仕掛けであることがラスト
のうさぎの微笑みに素直にイレ込むことを阻害しているのである。

ドラマの観点でいえば、この場面でこのセリフが口にされたのはうさぎ
を打ちのめすショッキングな新事実を衛の口からうさぎにぶつけるため
である。その意味において、「プリムンのせいだと思ってたら実は自分
に原因があった」というのは、本来、意外性をねらうためのハッタリで
あって、大した意味はないはずなのだ。

にもかかわらず、それは視聴者にとって「新たな矛盾」として感じられ
てしまうのだ。この間の事情においては、「意外性がある」ということ
は「矛盾がある」ということとほぼイコール
だからである。つまり、無
矛盾で意外性をねらえるほど柔軟な設定ではなくなっているのである。

個別のエピソードの劇的情感のために、無闇に設定要素に触れるとさら
なる矛盾が生じるのである。これでは地雷原を歩かされているのと同じ
で、危なっかしくてドラマなんか語ってはいられない

普通なら、大筋の設定要素はもう少しゆるやかなものであるべきで、お
話をつくる場面で設定要素があまりにも神経質に意味性を主張するよう
では、それを決めた人間以外にはプロットが立てられなくなる。

戦隊などでも、設定面の重要な展開に触れる節目のエピソードはメイン
ライターに振られるのが常道だが、この番組においては、その辺の作業
系統が階層的に非常に浅い。シリーズ構成とメインライターが同一人物
であり、他の書き手が一人も介在していない。製作ライン的には、小林
靖子の直上の階層が白倉伸一郎であり、文芸面の人材はこの二人だけで
ある。

他の書き手が介在しない以上、通常各ライターに短いプロットを渡し、
基本設定やシリーズ構想に沿ってダメを出すシリーズ構成の肩書は有名
無実であって、要するに、システマチックな箱書きができない小林靖子
が「結果として書き上げたホン」を最大限に尊重するための仕組み
、と
いうにすぎないだろう。

プロデューサーが文芸面で大きな役割を果たす東映特撮でも、その関与
の度合いは、番組によって、個人個人によってまちまちというのが実態
であるようだが、少なくともこの番組では、最初に白倉がプロット出し
をして、それに基づいて書かれたホンを最大限に活かし、それを受けて
次のプロットを出す、以下そのくり返し、というような作業形態だった
のではないかと思う。

以前オレが白倉について「自分の個性を滅却した存在感」と評価したの
は、そのような作業形態を想定したからである。この想定では、白倉は
小林靖子の黒子に徹して物語を書く動因を与え、結果を起点として次の
たたき台を用意するという、理想的な援助者として機能していた。

だから、この一クールの在り方は、その作業形態が突如として一変した
のではなく、この作業形態上における重点が小林靖子の生成物から白倉
伸一郎の志向に遷移しただけなのではないかと思う。

白倉が起案したと思しき新設定は複雑かつ曖昧であって、意図的に設け
られた矛盾を孕むものであり、当人以外は意味性を十全に把握できない
し、柔軟な変更も加えられないような種類のものである。

たとえるなら、シリーズ統括者と十分に認識を共有したシリーズ構成を
兼ねるメインライターにしか扱えない類の設定である。ならばこの番組
における小林靖子はまさにそのような立場であるはずだが、残念なこと
シリーズ統括者と「十分に認識を共有」してはいなかったのではない
だろうか。

おそらく白倉と同格者である井上なら、白倉のネタ出しを批評的に捉え
直すこともできたであろうし、納得の行かない部分についてはとことん
まで詰めることが可能だっただろう。だが、小林靖子にはその種の批評
的視点はない
し、有り体にいえば興味もないだろう。基本的には物語る
対象に関して事前に前提を詰める作業が不得手ではないかと思う。

小林靖子の紡ぎ出す物語は、結果としてそのようなものに「なってしま
う」のであって、そのような結果を想定して事前にコンセンサスをとり
それを目指すような性格のものではない。いわば、シリーズ構成といい
メインライターといっても、作家性の高い一作業者の域を出るものでは
なかったのかもしれない。

そして、このラスト一クールに関しては、シリーズの大筋を舵取りして
自らのイメージする地点へ誘導し、そのようなかたちで物語を終わらせ
ようとする明確な白倉の意志が感じられる。それは、前半の三クールに
おけるシリーズ構成術が、起点のプロットからの逸脱を、物語の生理に
基づいて、新たな文脈として意味附けて活かす性格であったのに対し、
ラスト一クールにおけるそれは、起点からの逸脱を物語の生理とは別の
原理に基づいて補正する性格のもの
だからである。

物語の生理が第一原理として働くのであれば、前回のエピソードの直後
に今回のエピソードが続くことはあり得ない。なぜなら、前回の結論が
志向する結末を回避するために、今回のエピソードが語り直されている
からである。そして、前回の結論が志向する結末を忌避する動機とは、
物語の生理という文脈上から発生しようがないものだからである。

前回の結論が志向する結末、それを便宜上仮に戦隊的結末と呼ぶなら、
それは数々の困難を乗り超えて仲間たちが協力し合い、究極の力でラス
ボスを倒すという方向性である。物語という原理は、別段にこのような
終わり方を忌避するものではない。

その結末を忌避する動機とは、その種の終わり方を批評的に視る原理
母体としている。それは一般的に視てかなり奇異な思想の産物でなけれ
ばならない。なぜなら、この種のジャンルにおいて、そのような結末は
一種大前提であって批評の対象ではないからである。普通一般における
この種のジャンルにおいては、このような結末をどのように意味附ける
かが問われるのであって、このような結末を採択しているか否かという
事実自体が問われることはない。

オレの識る限り、この種のジャンルにおいて、それを自己の問題として
認識しているクリエイターはただ一人であって、そのただ一人の人間が
まさしくこの番組に関与している
以上、オレにとってそれが白倉の意志
に基づくものであることはあまりにも自明である。

ただ一人という断定に語弊があるなら、たとえば以前のレビューで少し
触れた畑澤和也の名を挙げてもいい。彼がヴァニーナイツで描いた結末
は、この番組の先駆と視ていいだろう。以前触れたように、この作品と
実写版セーラームーンは微妙にねじれた類縁性をもっている。

その間の事実関係は残念ながら事情があってつまびらかにするわけには
いかないが、オレの認識としてはヴァニーナイツは裏セーラームーンで
あり、それもアニメ版の無印と呼ばれている第一シリーズを起源として
いるように見える。そして、アニメ版と直接の関係性をもたないことが
公式に明言されている実写版は、奇妙なことに、この腹違いの姉妹とも
いえるヴァニーナイツと多くの類似点をもっているのである。

あまり世評も芳しくない作品ではあるが、実写版セーラームーンの世界
に興味がある諸兄姉なら、一度は観ておくことをお奨めする。現在でも
大手チェーンなら全話VHSをレンタルしているはずなので、その気に
なれば試聴は可能である。

※2007年現在では、視聴はほぼ不可能に近い。CSでのリピートが待たれるところである。

…つか、観ろ。話はそれからだ(木亥火暴!!)。

事実関係の問題として、白倉がヴァニーナイツという番組の存在を識っ
ていたと仮定するなら、話は一挙に簡単なものとなるのだ。白倉の認識
として実写版セーラームーンがヴァニーナイツを母型としているという
ことなら、数々の疑問は一気に氷解するのである。

ヴァニーナイツという作品にそれほど魅力があったかのかどうか、それ
はオレにはわからない。だがもし、白倉がこの作品の存在を識っていた
のであれば、白倉にとって非常に魅力的に映ったであろうことは想像に
難くない。

しかし、それは現時点では到底採択できない結論である。「あの作品が
こうであるから、それを参考にしたこの作品もこうなったのだ」という
のでは、何を説明したことにもならないということが一つ(笑)。白倉が
識っていたか否かなど、白倉にしかわからないことであり、白倉にしか
わからないことで、白倉が真正直に真実を語るわけがない(木亥火暴!!)
ということが一つ。さらには、今さらそれを問うたところで、その真偽
を論証する術がないということが一つである。

この二つの作品間の関係を論じるには、客観的な類似点を比較検証する
方向性しかないが、それは何の論証にもならない。さらにそれが実効性
のある切り口となるためには、実写版セーラームーンが始まる「前に」
ヴァニーナイツとこの新番組の、セーラームーンという物語原型を起源
にもつ実写作品という「事実関係上の近縁性」が周知されていなければ
ならないが、そんなことは今さら望むべくもないことである。

ゆえに、現時点ではこれはオレ個人の「予断」であるにすぎない。この
曖昧きわまる記述の真意は、特定少数の人間にしかわからない。だが、
それが印象論として説得力があるかどうかくらいは、ヴァニーナイツを
じっさいに観てもらえばわかる。

※仮面ライダー電王の公式ブログに、白倉Pがセラムン以前からヴァニーナイツに注目していたととれる記事あり。

とまれ、脱線はこのくらいにして本題に戻ることにしよう。

今回のエピソードに関してこれまで陳べてきたことを纏めるなら、それ
はシリーズ構想と個々のエピソードのドラマ性の乖離ということになる
だろう。エピソード個別に視るなら、小林脚本にも鈴村演出にも瑕瑾は
ないが、白倉的なシリーズ構想はそうした個別のドラマ性とはあまりに
相容れないもの
となってしまっている。

このような条件においてなお佳作たり得るエピソードとは、プリムン≒
銀水晶とは直接の関係をもたず、これまでのシリーズにおいて、大筋の
意味附けが大きく失敗していない要素を扱ったものに限られるだろう。

だとすれば、今回のエピソードでメインの衛たちの逢瀬の話と併行して
描かれている要素である四戦士の確執というテーマも、あまり期待でき
ない。そのなかで唯一、四天王たちそれぞれの末路を描くパートだけが
向後に期待を繋いでいる。先ほども衛の人物像にからめて触れたことだ
が、やはり小林靖子の筆致は男性キャラを描く場面では相変わらず冴え
ていて揺るぎがない。

たとえば、冒頭近くのジェダイトとゾイサイトの会話は、シリーズ後半
になって俄然男ぶりの上がったゾイサイトの苦衷と焦慮を描写すること
はもちろん、前回のエピソードで前世の主君を裏切り、呪いの石を埋め
込んだジェダイトの心境を語るものとしても緊迫感がある。

Act.37ではベリルの裏切りに痍附き、Act.38では前世と現世の板挟みに
悩みエンディミオンとベリルとの間で揺れ、Act.40ではベリルの猫撫で
声に口唇を噛んで表情を歪めていたジェダイトだが、ベリルの空々しい
託せるのはおまえだけだ」という言葉に腹を括ったのか、前回のエピ
ソードでは、ベリルかエンディミオンかという二者択一に最悪のかたち
で答を出してしまった。

かつての主君の命に関わる謀略に荷担するという後戻りできないかたち
で、ジェダイトは己の迷いに決着を附ける。この選択には十分意外性が
あった。ゾイサイトの言葉によれば、前世において「四天王で最も若く
マスターを兄のように慕っていた
」はずのジェダイトがベリルに附く。
意外な落としどころである。

ジェダイトを阻止しようとゾイサイトが奏でるピアノの音に蘇る前世の
記憶。腕相撲でネフライトに易々と敗れたジェダイトに替わりエンディ
ミオンが続いて挑み、一気にネフライトを破った瞬間のその笑顔。息を
呑んでそれを見詰めるジェダイトの憧れに盈ちた無邪気な眼差し。だが
ジェダイトはその兄とも慕うエンディミオンの胸に、己が手で命を奪う
呪いの石を埋め込んでしまう。

現時点でのジェダイトは、一度は自分を裏切った海千山千のベリルに、
性懲りもなく丸め込まれた愚かな少年にしか見えない。本来なら四天王
で最も若いジェダイトにこんな罪業は似合わない。ベリルの底意を十分
に識りながら、明確な殺意をもって前世の主君であり最も近しい人間に
敵対したのである。

ジェダイト必滅の運命は、すでに決してしまったのである。このくらい
悪辣な行為に荷担してなお何の業罰も蒙らずに物語が終わるのは、世界
広しといえども唯一武侠映画を算えるのみである(木亥火暴!!)。

マスターへの忠義一途に尽くし、四天王たちの魂の救済に奔走するゾイ
サイトは激しい怒りを込めてジェダイトの妄動を糾弾する。ジェダイト
であれクンツァイトであれ、四天王たる者がマスター・エンディミオン
を害すること、これは両者にとって最悪の悲劇である。

ゾイサイトが願うのは、マスター・エンディミオンの安寧と宿命の回避
ばかりではない。四天王がマスターと共にあった幸福な時代、あの至福
の時間の回復
こそがゾイサイトの悲願である。

だが、男たちはすでに後戻りできない別々の途を辿り始めてしまった。

かつて「主のために死する剣」をもって任じたクンツァイトは、その主
への復讐に燃え、ベリルへの憎悪を胸に刻むネフライトは、人界に墜ち
たことでこの争いから脱落してしまった。残るジェダイトは不可解にも
ベリルの裏切りと内心の夜叉を承知のうえで彼女の側に附いた。

ゾイサイトは今や絶望の淵に立たされている。彼を除いてだれ一人主君
の楯となる者はない。クンツァイトは復讐に逸り、ネフライトは四天王
としての力を喪い、ジェダイトに至っては積極的に主君を陥れている。

待て、ジェダイト。自分のしたことがわかっているのか。マスターはお
まえの主だぞ。

今は違う。オレの主はベリル様だ。そう決めた

今までどおりベリルに惑わされ使嗾されているのではない。ジェダイト
はベリルの心底がどうあれ「そう決めた」のである。なぜそうなるのか
視聴者にはわからない。なぜ最もイノセントなはずの年若いジェダイト
が、われから望んで卑しい悪の走狗と成り下がるのか。

このジェダイトの回心の機微を描き、追い詰められたゾイサイトの最期
を描くのが次回のエピソードのキモである。そして、ジェダイトの突然
の回心の機微が理解できない時点でも、それが不自然には思えないのは
なぜなのか。

それは、シリーズ構想上、四天王の末路なんてある意味でどうでもいい
から
である。ここには悲劇を志向する操作が及んでいないからである。
さらに、クンツァイトの復讐の動機を除いては、四天王の描き方はこれ
まで大きな破綻を見せたことがないからである。

四天王たちの描き方は、従来どおり物語の自然な生理に基づいている。
次回のエピソードからは、ゾイサイトを始めとして次々と四天王たちが
己の生き様に結論を下し、己の死に様を決定附ける。

ゾイサイトのシビレる死に様はもとより、クンツァイトも己の迷妄から
立ち戻って死に花を咲かせ、ベリルに殉じたジェダイトも少年から男へ
の脱皮を鮮烈に印象附けた。ある意味で生も死も意識することなく呆気
なく消滅したネフライトでさえ、その呆気なさが言葉にできない余韻を
遺した。

宿命に踊らされる男たちのドラマ、こればかりは物語の結末に至るまで
奇跡的に保たれたのである。

両義性も混沌も糞喰らえだ。いつの時代もオレたちが欲しているのは、
鮮烈な物語に打ちのめされる圧倒的な体験なのである。どこかのどなた
さまの、見せかけばかりの警世思想ではない。

豊穣な可能性をもつ物語を圧迫してみじめに窒息させるような、そんな
独り善がりの思想にはだれも共鳴しない。しないからこそ、この物語は
美しく幕を引くことに失敗したのである。

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Act.44-1 抗争の刺客

さて困った。

前回ラストの小競り合いを引き継いで、アバンからすでにイヤな対立
激化している(笑)。なぜ「イヤな対立」であるかというと、それは政治
的な臭いがする
からである。

その根底には、レイちゃんの美奈子への思い遣りがあるのであり、前回
の戦闘場面でも「もう戦いには出てこないで。いったでしょ」「だから
いったのよ
」と病魔に冒された美奈子を再三気遣っている。その戦闘を
終えた時点でいきなりレイちゃん対美奈子の対立の構図となって、レイ
ちゃんが美奈子のリーダーとしての資質を疑うというかたちになる。

これが何とも「クーデター」的なイメージで後味が悪い。もちろんレイ
ちゃんの底意としては、リーダーとして不適格の烙印を押すことで、他
のメンバーに気附かれずに美奈子を戦線から離脱させようという善意が
あるわけだが、クラウンでの「総会」で大勢が逆転してレイちゃんが逆
に放逐される、という成り行きが、どうにも「対抗勢力を鎮圧」めいた
政治臭を醸し出す。

前回ラストの時点で、美奈子が戦士の力に目覚めていないという疑惑が
唐突に暴露され、結論からいえばたしかに美奈子は戦士の力に目覚めて
いなかったのだから、レイちゃんのほうが「仲間だったら嘘は吐かない
」と美奈子の痛いところをグイグイ突いていたはずだ。だがクラウン
の総会では、いつの間にか論点が前世の使命を巡る認識にすり替わって
いて、レイちゃんを弾劾する話になっている。

悪いことに、これが妙に政闘の論理としてリアルなのである(笑)。

わたしがリーダーなのは、前世から決まっているの」という美奈子の
自己弁護をレイちゃんが「前世のために闘ってるんじゃないわ」と一蹴
する、その言葉尻をとらえて美奈子がレイちゃんの前世の使命に対する
認識を論点にすり替えたのだとしたら、まさしくこれはセクト内の勢力
争いのレトリックそのものだ。

弱みを突かれてリーダーとしての資質を疑われた者が、主導権が自分に
所在する正統性を主張する。対抗勢力がその正統性に疑義を挟んだこと
イデオロギー的な歴史認識を厳しく問い、逆に不適格者としてセクト
から排除する。これは政治闘争そのものだ。あの国やその国でじっさい
にちょっと前まで、あるいは今現在も闘われている政治闘争の論理その
ものである。

だからここは描写として良くないんだ、という結論にはならないだろう
が、なんというか、クラウンに参集したメンバーが妙に遠く感じられる
描写ではある。

美奈子が大勢を味方に附けて造反者のレイちゃんを排除したように見え
るのが、何とはなくうそ寒く感じられるのだ。前世肯定派のまこちゃん
は美奈子寄りだし、ルナはレイちゃんのラジカルな前世否定に賛同する
わけにはいかない立場である。残る亜美ちゃんは対立的な場面において
どちらの言い分も理解しようとする、悪くいうなら旗幟不鮮明な性格の
ゆえに、ハッキリどちらかに附くということができない。

これは前回ラストの対決場面と今回クラウンのそれとの構図の違いにも
表れていて、前回は四戦士から離れて立った美奈子に対して、他の三人
を背後にとったレイちゃんが、不敵な表情を浮かべ挑発的に糾弾すると
いう構図になっている。しかし、今回のクラウンでは、新来者の美奈子
とレイちゃんだけの会話でレイちゃんの排除が決定され、その間、他の
三人は着席したままで、レイちゃんが戸口へ向かってからようやく立ち
上がって美奈子と横並びの位置関係になる。

ここは鈴村の手柄といってもいいだろうが、セーラー戦士たちの内訌に
おける各自それぞれの立ち位置や前回と今回のシチュエーションの違い
を、ビジュアルとしてわかりやすく映像化している。

レイちゃんの排除それ自体には「やりすぎ」の声も上がったが、大勢の
認識としては美奈子寄りであり、レイちゃんがなにゆえ前世を忌避する
のか理解に苦しんでいる。それはもちろん美奈子が前世に囚われていて
現世を生きようとしないことに対する苛立ちがレイちゃんの前世忌避の
動機となっていて、それは他のメンバーに明かせることではないからで
ある。ある意味、美奈子はレイちゃんがそれを明かさないことに乗じて
言い募っている
のだ。

そういう意味で、アバンにおいて美奈子を糾弾するレイちゃんの「その
間に、やることがあるでしょう
」「仲間だったら、嘘は吐かないわ」と
いうダブルミーニングはダイアログとして冴えてはいるのだが、最初の
最初からセクト内抗争的な性格になって、例のまこちゃんの自爆攻撃に
繋がる流れが控えているわけだから、あまり良い印象ではない。

ぶっちゃけ、セーラー戦士団が極左テロ集団か組織暴力団みたいに見え
てしまう
んだな(木亥火暴!!)。

それに、今日になって初めてクラウンに来た美奈子が「ここにいる必要
がないわね
」と言い放つのは、ちょっと図々しいだろう(木亥火暴!!)。
しかもその直前、レイちゃんとまこちゃんが前世を巡って議論している
最中に、レイちゃんに追求されまこちゃんが口ごもったのを後押しする
かたちで登場するのが、なおさら悪役度を高めている(木亥火暴!!)。

レイちゃんの舌鋒は若干鋭すぎるし、ラジカルに前世を全否定しすぎて
いるが、元基のことで追求されて口ごもるということは、明らかにまこ
ちゃんのいう「前世を受け容れているんだよ」というセリフは、その場
しのぎの詭弁
である。その辺の脈絡をよく識りもしないはずの美奈子が
いきなりまこちゃんの詭弁を「そのとおりよ」と後押しするのは、自分
に都合が良ければだれとでも合従連衡かよ
、というツッコミを逃れられ
ないだろう(木亥火暴!!)。

要するに、論旨の内容はどうでもよく、自分にとっての利害という基準
で他者を量る人間だという印象が、初っぱなから強烈に印象附けられて
しまうのだ。文脈はどうでもいい、「前世を受け容れているんだよ」と
いうフレーズが、大筋自分の考えに合致するものだから賛同したという
見え方になる。その場において自分の側に附きそうな人間を無定見に後
押ししたわけで、この遣り口がはなはだ悪役くさい(木亥火暴!!)。

そこから、新参者のくせに大勢を味方に附けて造反者を尋問するような
ノリになるわけだし、戦士の力に目覚めていないというのが事実であり
それを理由に糾弾してきた者を排除するということなら、レイちゃんを
排除することには名分がない。リーダーのポジションを守るという個人
的な動機
で対抗勢力に反撃したような見え方になる。

もう、悪役街道まっしぐらだな(木亥火暴!!)。

そして、レイちゃんの孤立と美奈子とまこちゃんの接近という事態は、
Act.41から続くレイちゃんとまこちゃんの対立の延長上にある状況では
ある。レイちゃんの視点でいえば、まこちゃんの言葉に苛立つのは本当
は美奈子の姿勢に想いが及ぶからである。その意味では、レイ対まこの
対立構図のなかに美奈子が割って入った場合に、このような事態が出来
するのは当然の帰結ではある。

ただし、レイちゃんが指摘したように美奈子が今を受けとめていないと
して、まこちゃんの「一人でいいんだ」も詭弁であるとして、その前段
の「わたしが前世を受けとめていないなら」もまた事実なのである。

以前陳べたように、まこちゃんとレイちゃんの対立には違和感を覚える
し、今回の美奈子の役回りが政治闘争におけるまるっきりの悪役である
というのも芸がないと思うが、ここで提起されている問題そのものは、
それなりに筋がとおっていると思う。

きちんと過去に決着を附けない限り現在はない。そのような機微を語る
ために、前世を全肯定することも全否定することも同様に誤りであると
する視点はバランスがとれている。問題は、そのような構図を現出する
ための手順が野暮ったい
ということだが、その一方で、これまで美奈子
とレイちゃんの対立が巧みに描かれたことは一度もないのだから、その
ような意味では一貫しているという言い方もできる。

いつもどおりの上っ面のぶつかり合いと作為的な理由附けがくり返され
ただけ、今さら何を事新しく騒ぎ立てる必要があるのか、と。

物語が語り終えられた時点では、すでに語られたものがすべてである。
「たら」も「れば」もあり得ない。要するに、この二人は顔を合わせれ
ば感情的にぶつかり合う喧嘩友だち「だった」ということである。

今さら、「本当は」も「本来なら」も「べき」もへちまもないのだ。

ただ、ときどきファン同士のコミュニケーションにおいて上記のような
筋道を挙げて「今さらどうしようもないんだから、文句をいうな」的な
趣旨の意見を目にすることがあるが、これは本末転倒である。「今さら
どうしようもない」結果を出してしまったことは、本来批判されて然る
べきなのだが、批判しても済んでしまったことそれ自体が変わるわけで
はないと諦める者が、その自由意志においてあえていわないというだけ
の話である。

「今さらどうしようもない」「済んでしまったこと」に対して何も発言
しなければ、それを肯定したことになる。その結果「今さらどうしよう
もない」「済んでしまったこと」が拡大再生産される
のである。それに
対して何かをいったところで何も変わるわけではないと思うなら、そも
そも作品に対して何かを願うこと、願いを込めて何かをいうこと自体が
無意味である。

今、この場において、将に「済んでしまったこと」に対して意見をいう
のは、決して無駄なことではない。今、この場において立ち会った作品
に対して何かをいうということは、今、この場ではない将来のどこかに
おいて立ち会うかもしれない、この作品と同じくらい自分を惹き附ける
かもしれない作品に対し、それがどんなに僅かでも自分に許される限り
の参画を果たす行為である。

少なくともオレはそのように信じるからこそ、もう済んでしまった番組
に対してコメンタリーしているのである。そのように考えているから、
今さら「たら」も「れば」もあり得ない、このようなものとしてすでに
描かれてしまった二人の少女のこれまでを惜しむのである。

やはりこの番組で最も惜しまれる描写上の失敗は、レイちゃんと美奈子
の対立構造を、後半の作劇上の軸として確立することができなかったと
いうことであり、これは幾度悔やんでも悔やみ足りない。

非常に感覚的な言い方をするなら、この二人の少女が惹かれ合いながら
も対立する芝居場の空気感、語り口の生理、そうした名状しがたい独特
のドラマの場が、ついに成立することなく終わったのである。

たとえば、タイムレンジャーの竜也と直人やドモンとアヤセという対立
関係を思い浮かべてもらえばわかりやすいだろうが、彼らの場合、対立
軸となる要素も対立の芝居場の空気感も、それぞれの関係に沿って明確
に確立されていた。個々の人物固有の信念や性格、動機に基づく言動が
無理なく描かれ、そのうえでそれらの総合として在る人物同士の対立が
自然に確立されているのである。

竜也なら竜也、直人なら直人として物語世界を生きる人物の、彼が彼で
あるがゆえに、それと相容れない個性と激しくぶつかる行動原理が無理
なく設定され、さらには二人の人物が相対峙する場面のドラマ的な場が
独特の空気感を伴って成立していた。

今さらおさらいするまでもなく、レイちゃんと美奈子の場合、まず彼女
たちの行動原理が曖昧であり、それゆえに対立軸も明確ではない。現状
で判断するなら、思春期の少女にありがちな、「虫が好かない」という
無前提の反感とより解釈しようがない。

この辺の事情は、最低限、「未熟な成人」として括ることが可能な戦隊
ヒーローと、「未熟な少年」として括られるセーラー戦士たちとの年齢
的な差異も考慮に入れる必要があるかもしれないのだが、要不要の問題
をいうなら、物語の足を引っ張るような無駄なアクチュアリティは不要
である。

作劇の観点からいうなら、戦隊ヒーローとセーラー戦士の人物像構築に
関しては、年齢的な事情の違いなどない。ローティーンの少女の人格が
未だ固まりきっていない、未熟なものであるというアクチュアリティを
過剰に考慮するなら、このような形式の物語を語る場合には、人物像の
同一性を確保することができなくなってしまう。

オレがこれまでレイちゃんをはじめとするキャラクターの描写に対して
度々指摘してきたのも、このような同一性に関する問題である。まして
レイちゃんや美奈子に関しては、ある種非凡な事情を抱えるヒロイック
なキャラクターなのであるから、人物像の同一性、さらには行動原理の
一貫性が重要なファクターとなる。

その人物像の同一性や行動原理の一貫性が、結果的に何一つ見出せず、
これまでの言動が一種の激しやすい気性一本に拠っていたと意味附けら
れてしまったのが、レイちゃんの描写における最大の問題点であろう。

体質、気性、性格傾向、このようなアプリオリな属性は出発点にすぎな
いのであって、両親からの二重の遺棄や迫害から得た憎悪によって人格
と行動原理がかたちづくられ、それが他の戦士たちとの出逢いや父親と
の和解によってどう変わるのかという、流れを貫く同一性・一貫性こそ
が作劇的に重要なのである。

彼女たちの人物像が劇的に変貌するのだとすれば、それは作劇の流れと
行動原理のぶつかり合いにおけるダイナミズムとして無理なく表れねば
ならない。大人ぶってみたところで所詮は中坊なんだから、という意識
をわずかでも抱いたなら、彼女たちの描写は失敗する。

この作劇的要請に関しては、年齢的なアクチュアリティなど、いっさい
言い訳にならない。中坊を主役に据えたヒーローものだから行動原理が
コロコロ変わるのだというなら、それは必要とされるリアリティの位相
を意図的にずらす同人誌的特撮パロディの発想である。

他方、レイちゃんと比較すれば多少同一人格としての行動原理が明確な
美奈子ではあるが、美奈子がレイちゃんに反感を抱く機序は、必ずしも
明確ではない。

それは、「これこれこうだから反撥を覚える」というような理由が明確
ではないという意味でいっているのではない。特定のキャラの人物像が
直観的に明瞭に語りきられている場合、そのようなキャラ同士の対立に
必然性があるのなら、受け手はその間の機序をあえて言語化するまでも
なく、そのようなものとして包括的に感得し得心するのである。

だが、おそらく現状のレイちゃんと美奈子の関係は、この二人の人物像
と関係性に類縁の現実の人間関係を体験した人間にしか自然に得心でき
ないだろう。つまり、レイちゃんと美奈子「のような」現実の人間は、
劇的必然性などなくても対立することはあるのだし、そのような実例を
現実に見たことのある人間にとっては、それだって十分に本当らしいと
いうだけの話である。それはドラマを検証する視点とは関係ない個別性
の高い実感なので、この際、脇へ除けておこう(笑)。

いや、話の腰をボッキリ折ってまでこういう先手回しをわざわざするの
は、こういう話をすると必ずといっていいほど「いや、オレの学生時代
にこれこれという知人がいたんだけど…」という昔話を始める輩がいる
からなんだが(木亥火暴!!)。

少なくともこの作品のこの二人の関係においては、「何だかわかんない
けど顔を見ると腹が立つ」ではお話にならないということだ。以前にも
触れたように、この二人はセーラー戦士団では最も強いキャラクターを
もつ組み合わせである。親に遺棄され憎悪を抱えて生きてきた少女と、
死病に蝕まれ命を削りながら闘う少女。こうした強いキャラクター同士
の対立する理由が、「何となく虫が好かない」という「だけ」であって
いいわけがない。

やはり、互いに相容れない者同士の峻烈な生き様が、どうしようもなく
惹かれ合い、ぶつかり合うのでなければドラマが成り立たない。しかし
今現在このように描かれているレイちゃんと美奈子の人物像には、明確
な対立軸が想定できない。

こういうふうにいうと、「いや、レイちゃんは美奈子の身体を気遣って
いるし、美奈子はレイちゃんの実力を買っている。その一方で、前世と
現世を巡って対立もしているじゃないか」と思われる方もあるだろう。

だが、そういう条件附けをいったん取り払ったらどうだろう。この二人
の人物に惹かれ合いぶつかり合うような接点が見出せるだろうか。現在
二人が対立しているのは、美奈子の病状を識っているのがレイちゃんだ
けであり、そこからたまたま前世肯定なり否定なりの立場が出来したと
いうだけのこと
である。

しかし、「どうしようもなく」惹かれ合い、ぶつかり合う関係性という
のは、彼女たちを彼女たちと規定する人物像が不可避的に対立軸を抱え
ているということだ。レイちゃんがレイちゃんとして在る限り、美奈子
が美奈子として在る限り、この二人が相反する感情によって不可避的に
分かち難く結び附くのでなければ、為にする作劇でしかない。

ところが、レイちゃんと美奈子には本来対立軸などないのである。レイ
ちゃんのスタート当初の人物像から考えれば、美奈子とは言葉を超えた
信頼関係を築くことはできても、対立関係にはなりにくい。そこを本筋
に捉えるならば、表面上の遣り合いくらいはあって然るべきだろうが、
本質的な対立関係とはなり得ない。

立場を異にする者同士の無言の理解というような関係性に発展すること
はあっても、事ここに至ってまでも政治闘争を争い合うような対立関係
を想定するのは不自然である。それなのにこの二人は出逢いの当初から
不自然にいがみ合っており、いがみ合う理由が薄弱であるために子ども
の口げんかのような無様な醜態を晒している。

つまり、「ライバル関係」という前提ありきで接点を設けたため、各自
の人物像と齟齬を来しているのである。今現在この二人が対立している
のは、対立するような現実的理由を設けたからであって、互いに相容れ
ない存在同士だからではない。そのため、とにかく対立させようという
作為が露骨で、不自然な感は否めない。

具体的にいえば、レイちゃんがそれほど前世の宿命を忌避するに至った
機序が不明である。Act.36のラストの「こんなことも前世から背負って
きたことなの?
」という美奈子への問いかけの「こんなこと」が現実の
映像表現として不十分となってしまったこともあるし、所詮それは前世
の宿命に拘る美奈子に対するカウンターとしての意志
でしかない。

また、美奈子が手術を拒む心理が前世の使命によって正当化されないと
いう部分についても以前触れたとおりなので、美奈子の病態を気遣うが
ゆえという理由でも今ひとつ得心がいかない。美奈子の病と前世の宿命
の間には、結局因果関係がなかったからである。

つまり、第三者の視点から視て、美奈子が死病を押して闘い続けるのは
前世の使命と直接関係がない。それなのに、もしレイちゃんが美奈子の
身体を気遣うあまり、彼女を突き動かす前世の使命を否定するに至った
のだとしたら、その対立は表面的な事情に基づくものであり、この二人
の本質的な部分がぶつかり合っているわけではないということが直観的
にわかってしまうのである。

もちろん、劇中で設けられた現実的理由が本質を突いたものでなければ
ならない理由はない。だが、本質から外れた事情で設けられた対立は、
過渡的ないがみ合いに過ぎないのであり、本質的な対立とはなり得ない
のである。本質的な対立が成立しない以上、その対立を経由した本質的
な和解や相互理解もまたあり得ない。

しかも、レイちゃんが前世を否定する理由がそれだとすれば、前世それ
自体に対するレイちゃん独自の立ち位置が見えてこない
。対立ありきの
話であって、そこから導き出された立ち位置にすぎないのだ。

他人がこれこれこうしている理由が前世だから前世を忌み嫌うというの
では、他人に対する反感という現実的事情を抜きにした前世それ自体に
対する独自のアイディアが何一つないということになる。

その意味で、レイちゃんが前世を全否定すればするほど彼女の人物像が
安っぽい浮薄なものに見えてしまう。後半の軸となるべきレイちゃんと
美奈子のドラマを構築することに失敗しているだけでなく、レイちゃん
の人物像を、そのドラマによってさらに軽佻に揺らがせてしまっている
のである。

これはやはり、うさぎ≒プリムン≒銀水晶をめぐる概念的混乱に次ぐ、
後半の大きな失敗に算えられるだろう。

さらに、この二人の対立に便宜的に巻き込まれてしまったまこちゃんの
描き方も感心しない。「一人でいいんだ」という結論が嘘も隠しもなく
前世を根拠にした現状肯定だったということについてはもういうまい。

しかし、いかなる理由があれ人間が「一人でいい」なんてことがないの
は普通の常識をもつ視聴者ならわかるわけで、まこちゃんの現状が批判
を前提とした間違ったものであることは、視聴者にはバレバレである。
いってしまえばこれは思春期の愚昧であり、雑な言い方をすれば「愚か
だから過ちに気附かなかった」式の課題設定なのである。

ここから出発して、Act.46の自爆攻撃からの気附きに至るわけだから、
登場人物の愚かさでドラマをつくっていることになる。これがどうにも
薄っぺらい。

オレが従来の小林靖子的人物描写に感心するのは、「愚かだから気附き
ませんでした」式の課題設定をしない部分で、批判を前提とした過ちを
描く場合でも、そうすることに無理がないと思わせる説得力をもたせる
部分であった。愚かだからそうするのではなく、ほかに方法がないから
そうせざるを得ない、そう考えぬわけにいかないというような理由附け
をきちんと行うからこそ、そのような理由附けを超える予想も附かない
智慧によって過ちが正された瞬間のポジティブなカタルシスが得られる
のである。

しかし、「愚かだから間違っていました」式では、視聴者ははじめから
落としどころがわかっている。そのわかりきった落としどころに、いつ
登場人物が辿り着くのかを苛々しながら物語を見守ることになる。これ
ではポジティブなカタルシスは得られない。ある意味「ざまあみろ」式
のネガティブなカタルシスと原理は同じで、不愉快な状態が解消される
ことでネガティブな快感が生じるのである。

これはあまりにも智慧のない作劇である。ある意味、作劇のテクニック
としては常套手段であるこの種のカタルシスをなにゆえオレがかくまで
否定するのかといえば、それが貧しい物語的感興であり、文芸とは極性
を異にするバラエティショー的発想の作劇だからである。

物語のカタルシスというものが、病的な状態からの回復を主要な原理と
していることはいうまでもない。たとえば夜も眠れないほど虫歯が痛む
というとき、一服の鎮痛剤が魔法のようにその劇しい痛みを消し去った
としたら、これほどの快感はないだろう。物語というものは、基本的に
それと同じ原理によって受け手に快感をもたらすものである。

普通の英和辞書を引けば簡単にわかることだが、カタルシスというのは
排便や下剤を意味する言葉である。ウンコが出てすっきりした感じその
ものを指す言葉
である(木亥火暴!!)。もっと抽象的にいえば穢れたもの
を排出することであり穢れによってもたらされた病的な状態が緩解する
ことである。物語というものは、観客の心理に病的な状態を現出させた
うえで、それを緩解させることで快感を生じさせる意味構造なのだ。

その意味では、物語というそれそのものが快感原理に基づいているもの
なのだし、快感原理というものが欲動のダイナミズムを言い換えたもの
にすぎない以上、それ自体を是非で括るのは愚昧な謬見である。人間の
精神活動は、必ず何某かの快感原理に基づいているのであり、「おもし
ろい」という快感を忌避するなら物語など成立しない。

物語における誠意とは、不可避的に具えざるを得ない「おもしろさ」を
どのように意味附けるかということであり、意味性一般が無謬ではあり
得ない以上、物語る主体として何を選択するのかということを自己責任
において明確に表明することである。

つまり、良質な物語における良質なカタルシスは、物語る主体が責任を
もって支持し得る結論を揺るぎなく提示するものでなくてはならない。
その意味で、「まあこの話では、とりあえずまこちゃんはこういう結論
に辿り着いたわけさ」的な曖昧な留保は、オレの感覚では語りの怯懦と
いうにすぎない。物語に内在する快感原理を重要視するなら、意味性を
忌避するのではなく、結論において提示される意味性に責任をもつべき
であり、結論の提示が目的ではなくても最低限責任のもてる結論を模索
すべきなのである。

また作劇技法の問題としては、病的状態からの回復という機序にも巧拙
というものがあって、ただ観客を不快にしてその不快を取り除けば良い
というものではないと考える。不快な輩が酬いを受ける「ざまあみろ」
や愚かな人間が過ちに気附く「わたしがバカでした」式のカタルシスを
煎じ詰めれば、それは不快をもたらす存在に対する応報の原理である。

観客にとって不愉快な人間がわかりやすく懲らしめられたり、観客から
視て明らかに愚かな人間がその愚かさに気附くという筋道は、要するに
その人物がその言動の不快さに相応しい酬いを受けたことによる快味を
もたらす作劇手法である。

だがこの方式では、不快でなくなったという以上の快味が得られること
はない。その貧しい快味を得るためにまず強烈に不快にさせられたわけ
で、快味が得られたといってもその原因が取り除かれただけであるから
差し引き勘定ではどうしたって損をしていることになる。

なぜなら、応報の感覚というものは個々人によって振れ幅が異なるもの
であり、必ずやりすぎるかやり足りないかどちらかでしかないからだ。

理不尽に殴られたから殴り返す。スカッとする人もいるだろうが、人に
殴られる理不尽さに対する憤りを、同じように人を殴ることで解消でき
るのかという問題は残るのである。その視点においては、殴られたこと
の応報が殴り返すであるのは、「やりすぎて」いるのである。

その一方では、理不尽な暴力に晒されることで自分が不公正に扱われた
という憤りを覚える人間もいる。自分を取り巻く世界がそのような不公
正に晒されていることに深く憤る人間もいる。そういう人間にとって、
一発殴られたから一発殴り返すのでは「やり足りない」のである。拳の
もたらす一発の殴打の痛みや屈辱が問題なのではないからである。三倍
殴り返すとか、極端な場合には殺してしまわないと気が済まないという
物騒な人もいる。

応報の力学においては「ちょうどいい」ということなどないのである。
カタルシスの機序を応報の力学に置く限り、病的な状態がちょうどよく
回復されることなどあり得ない。やりすぎてもやり足りなくても、それ
は不快な穢れとして観客の胸裏に留まり続けるのだ。

それはしょうがないんだとするならば、物語の具える意味性には責任を
もたないが、応報の感覚にだけは責任をもつということになる。「オレ
なら三倍殴らないと気が済まない」「三倍殴ればスカッとする」という
ことには責任をもつが、その状況を現出するに至った意味的な内容には
責任をもたないということである。

意味的な価値判断を捨象して快感のポテンシャルのみを提示する。これ
はつまり、白倉が忌避するコマーシャリズム的な文脈における快感原理
の図式「そのもの」ではないのか?

オレはとうていこのような雑駁な認識に基づく物語を評価することなど
できない。カタルシスには「浄化」という意味もあるのであって、物語
によって観客の心理にもちこまれた穢れを巧みに浄めなければ、良質の
カタルシスは得られないのである。その場面において、観客の裡に普遍
的に内在する問題性に対し、語り手が自己責任で意味性を提示する必要
があるのである。

良質なカタルシスとは、穢れが排出されることで、穢れがもちこまれる
以前の状態よりも、観客の心理が浄化されなければならない。過渡的な
プロセスとしての病的な状態の現出が、病的状態の不快を超えて贖われ
なければならないのだ。それは、物語という意味構造が、観客に内在す
る普遍的な問題性に主体的な姿勢で言及することでしか達成されない。

話を、今この場における事例に戻そう。「わたしが間違ってました」式
のカタルシスがなにゆえに良くないのか。これを応報原理とは別の観点
から視てみよう。

たとえば、視聴者のなかにも現実世界の人間関係に疲れていて、「オレ
なんか、わたしなんか、一人でいいんだ」と考えている人間がいるとし
よう。そんな視聴者に対して、まこちゃんの「一人でいいんだ」という
過渡的な結論が共感を呼ぶかといえば、そうではないだろう。

なぜなら、まこちゃんがそう考えるに至った経緯に説得力がないからで
あり、かつは物語のなかで明確に「間違っていることにいずれ気附かさ
れる迷妄」として意味附けられているからである。明確に、もしくは漠
然と「一人でいいんだ」と考えている視聴者には、自分のそんな考えが
他人から視て「説得力のない」ものだとは思えないし、いずれ「わたし
が間違っていました」と気附かせてもらいたいなどと思っているわけで
もないのだから、共感を覚えないのは当然である。

そのような視聴者は、まず第一に自分の考えが無理もないものであると
他者に慰めてほしいのであり、間違っていることに気附かせてほしいの
ではなく、そんなことを考えなくても済むような幸福な状態になりたい
のである。

「わたしが間違っていました」式で扱われているカタルシスの機序とは
実は「間違っている」考えそのものとはまったく関係ないのだ。わかり
きった落としどころに落ち着くまでの苛立ちを収めることで貧しい快感
が生じるのであって、考えそのものは間違ってさえいればどうでもいい
のである。つまり、登場人物への感情移入を基本原理にしているのでは
なく、あるもどかしい状況に対する傍観者の苛立ちを基本原理に据えて
いるのだ。

オレの考える良質なカタルシスとは、同じような悩みを抱える観客が、
ストレートに感情移入できる「無理もない」と思える段取りを組んで、
その登場人物が「そんなことを考えなくても済むような」落としどころ
を用意することである。

良質なカタルシスとは、観客のなかにある普遍的な一部と呼応して病的
な状態に陥れ、その病的な状態から回復させることにより、観客の自身
を取り巻く現実世界に対する見方を変容させてしまうもの
である。一編
の小説や一本の映画に触れることで世界が変わって見えた経験は、だれ
しも覚えがあるだろう。それが物語のもつ最大の効用である。

それは一種、語りの作法の観点からいえば、物語の外の現実に対峙する
ことであり普遍的な問題性に対して信念を表明する行為である。「一人
でいい」なんて考えるのは馬鹿馬鹿しい、間違っているという前提で、
その問題をそっちのけでストーリーを構築するのでは、だれも登場人物
に感情移入などはしない。

こうしたまこちゃんの悩み、過てる過渡的な結論は、だれしも思春期に
覚えのある迷妄である。そんなのが間違っていることは、大人ならだれ
だってわかっているのである。それを粗雑に扱って「間違っている」と
いう前提で雑駁なカタルシスを仕組むことは、大勢の視聴者が抱いてい
る思春期の記憶をニヒルに弄ぶ行為である。

そしてまた、こうした機微を初めて目にする子どもたちに対しては実感
を伴わない言葉として「一人でいいなんて間違っている」という教条的
な結論を圧し附けることになる。試みに想像してみるがいい。「一人で
いいなんて間違ってるんだよ」と賢しらげに嘯く子どもは、十中八九、
そのような迷妄に陥る心理に対して理解がない。人に去られる淋しさに
耐えかねてそのような「間違った」考えに縋り付く他者の痛みはわから
ない。わかる者とわからない者、この二項対立は埋まらない

物語とは、そんな淋しさをいっさい味わったことのない人間にも、同じ
ような痛みを感じさせ、それを救済してみせることで、二項対立を解消
する効用をもっている。物語とは優れた作品であることそれ自体が力を
もつ意味構造なのである。「わたし」が「あなた」ではなく、いわんや
「彼」や「彼女」でもないという主観の断絶を贖うという優れた効用を
もつ意味構造なのである。

もしも物語が現実世界に対して悪しき影響をもたらしているとすれば、
それは優れた作品が軽んじられているからである。オレが白倉的な作劇
思想を忌避するのは、ごくごく一般的などこにも新味のない物語でさえ
もち合わせているこのような効用に対していっさい理解がないからだ。
さらには、物語の扱うものにしか興味を示さず、優れた物語とは何かと
いうアイディアがないからだ。

彼の抱える問題性が、オーセンティックなスタイルの文芸によって十分
に追求可能であることに気附かず、新たな改革という名の脱構築が必須
であると強弁する困った「若さ」を忌避するのである。

文芸に脱構築の大鉈を揮いたいのなら、最低限オーセンティックな文芸
の文脈を共有していただかないことには、無神経な破壊行為にしかなり
得ないだろう。

だからこそ文芸の人としては、スケジュール管理も予算管理もできない
うえに作業メソッドもマーケティング理論も社会人としての常識もない
でっかいメガネのプロデューサーにも及ばないのである(木亥火暴!!)。

いやまあ、これは完璧に脇道に逸れた(木亥火暴!!)。

そもそもこの辺のまこちゃん絡みの問題については、白倉の責任はほぼ
皆無といっていい
だろうから、こういう脇道は誤解を招くじゃないか、
いやだなぁ(木亥火暴!!)。

とまれ、残念ながらオレとしてはレイ・美奈・まこの三者を使った前世
を巡る後半の展開については、ドラマ的にはまったく評価していない。
現状としてはやれるだけの手当をしたということはわかるのだが、小林
靖子的作劇としてはダメな部類だろうと思う。

描かねばならない要素を、いろんなものを犠牲にしてようよう纏めたと
いう程度のもので、それが感動を呼ぶまでには至らない。最大の悪影響
としては、美奈子の死に明確な意味がなくなったということが挙げられ
るだろう。

まこちゃんの気附きが「わたしが間違ってました」式であるなら美奈子
の気附きも同じである。間違っている者同士の合わせ鏡によって過ちに
気附くという安直な落としどころを用意したため、シリーズ全話を通じ
た美奈子の姿勢が「間違ってました」というふうに見えるため、折角の
見せ場である美奈子の病死が薄っぺらなものになってしまった

もともとこれまでの美奈子の描写は視聴者にとって微妙なものだったの
で、切実な感情として「生きてくれ、美奈子」と祈るほど緊迫した情感
が生まれない。無論視聴者とて美奈子に好意を抱いてはいただろうから
好きなキャラクターが死んでしまうという哀しさは覚えるが、劇中での
生き様を通じた「惜しさ」「辛さ」が立ち上がってこない

別段小松彩夏が好きでもない視聴者なら「ああ、結局死んだのね」程度
の感想しか覚えないだろう(笑)。

これほど鮮烈に生き急いだ人物が、生きようと望んだ刹那に命絶えると
いう悲劇があっていいのか、というほど切迫した感情がないのである。
隣の可愛いみよちゃんは元気そうに見えたのにある日突然死んじゃった
という種類の哀しさというか、そりゃあ年頃の少女が病気で急死したら
哀しいよな
という種類の哀しさしか覚えないのだ。

これはつまり、美奈子が死病を押して闘い続ける姿勢に、視聴者が納得
できるような意味附けができなかったからである。客観的に視てそれが
間違った姿勢であったとしても、「無理もない」と視聴者が思わずイレ
込んでしまうような鮮烈な動機を設定できなかったからである。

それが憎悪でもいいし、使命感でもいい、自身の存在意義を勝ち取る戦
いであってもかまわない。だが、結果的に出来した意味は、死病の運命
に焦りを覚えた、現世を生きようとしない一種の怯懦であったというの
なら、視聴者にはそれほど共感できないだろう。

たしかにそんな感情は視聴者にだって理解できる。しかし、それは一種
後ろめたさを伴うバツの悪い同意でしかなく、積極的に「それが間違っ
ているとしても、美奈子の想いはたいせつにしてやりたい」とイレ込む
ような性質の共感ではない。

だれしも現実に美奈子の立場に立たされたなら見苦しく取り乱すだろう
が、劇中人物として物語の世界を生きるのなら、せめて雄々しく残され
た時間を生き抜きたい。それが当たり前の感情だ。それは下世話な本音
ではなく、切実な願いの感情が優先されるべき問題なのである。そんな
血を吐くような共感を呼ぶべく物語を語るべきだったのだ。

一種、生き急ぎ死に急ぐ美奈子の鮮烈な生き様は、現世対前世のお説教
に安易に利用すべきではなかった
のだ。死病に斃れることが予め定めら
れている少女の非情な生き様を、正しいとか正しくないとか論評すべき
ではなかったのである。「わたしが間違ってました」と思い知らされて
呆気なく死ぬ少女の死の、なんと間抜けで無意味なことよ。

美奈子の死が哀しいとしたら、それは無意味な死を死なされたからだ。
ここで唐突に、うつくしく女ぶりを演じてみせる最大の見せ場を奪われ
た陽菜を想い出してもいいだろう。美奈子にとってのそれは死であり、
死がひとしなみに無意味である現実に対して、精一杯美奈子の死を意味
附けてみせること
こそが、語り手に求められた誠意ではなかったか。

これはたとえば、ブラックコンドル結城凱皇帝黒岩省吾の無意味な死
とはまったく意味が違う。彼らが「無意味な犬死に」をすることは作劇
的に重要な意味をもっている。何かを得て平和裡に安閑と余生をすごす
ことはアンチヒーローに相応しい末路ではない、途半ばの若さのままに
無念の死を死ぬべきである
という井上敏樹の強烈な美学がそこにある。

そのような男の美学が、観客の心理に普遍的に内在する照れくさい憧れ
と響き合うからこそ、その死が徹底的に無意味であることが、最大限の
意味性をもつのである。

しかし、愛野美奈子という本来アンチヒーロー的な強烈な生き様を期待
さるべき少女は、普通の少女として普通に病死してしまった。これは、
あらゆる意味での「無駄死に」である。だれも歓迎していない美奈子の
死という結末が不可避のものであるのなら、熱いドラマによって華やか
に死化粧を彩ることこそ、せめても手向けの香華だったのだ。

タイムファイヤー滝沢直人の強烈な生き様とその末期を描ききった小林
靖子なら、その辺の機微はわかっていて然るべきだったのである。だれ
がなんといおうと、個人の信念の問題としてそのように描くべきだった
のである。

少女たちはすでに後戻りできない別々の迂路を辿り始めてしまった。

その途は男たちのものほど輝かしい場所に続いているわけではない。

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Act.44-2 白鳥の歌

少女たちの諍いを視たあとは、男たちのドラマを視ていこう。

OP明けはダークキングダム城内の衛の部屋である。苦しみ悶える衛を
肩に負いながらゾイサイトが問う。

マスター、なぜかたちだけでもベリルに従わなかったんです。このまま
では、命が……

それは視聴者も感じる疑問である。ベリルとの約束を破ったことで衛が
得られたのは、ほんの僅かな間うさぎといられる時間が増えたことだけ
である。その僅かな時間に、命を棒に振るほどの価値があるのかという
のは、当然問われてよい疑問だろう。

そしてこの疑問は、それを不自然に感じるという意味のものではなく、
衛の真意を具体的なセリフによって聞いてみたい、という欲求を前提と
した修辞的な疑問である。

普通、この場合のように命がかかっているのなら、問題になるのは何が
したいかではなく、何をするべきかという観点である。どうしてもオレ
たちはあのときの衛にベリルとの約束を破る「必要があったかどうか」
を問題にしてしまいがちである。

その観点で視れば、そんな「必要などない」のは明らかであって、それ
Act.48から遡って命を絞り出すことでクインメタリアを吸収するため
の作戦と視るのは違うだろう。前回ラストの衛の破約が計算尽くのもの
であったとしたら、うさぎはそのダシに使われたことになる。それでは
前回ラストの情動の組立が成立しない。

この情動を出発点にする以上、衛の破約は現実的な打算に基づくもので
はなく、熱い感情に基づくものであり、その感情の発露を是とする明確
な信念に基づくもの
であるべきだ。

ゆえに、オレたち視聴者は漠然と衛の破約を是認しながらも、衛がいか
なる信念の下にそのように行動したのかを、本人の口から聞きたがって
いるのである。

結果的にゾイサイトの翻意を促す衛の信念の表明は、このような欲求に
応えるものである。だが、一旦はゾイサイトが「マスター以外の何もの
か」を犠牲に主の助命を乞うためプリンセスを襲撃するという「過ち」
を犯さなければ、マスター大事という通常のゾイサイトの立ち位置から
の回心と自己犠牲が効いてこない。

それゆえこの冒頭のシーンでは、未だ衛の真意は明かされない。直後の
場面はジェダイトとゾイサイトの立ち位置の対照、そしてクインベリル
の心情を余すところなく剔抉して見事な筆致で描いているので、ここに
再録して詳しく視てみよう。

物思いに耽るベリルにオーバーラップして前回ラストの回想が描かれ、
ベリルが独語ちる。

どうやっても、エンディミオンの心は手に入らぬ。あの頃のように……
やはり命を…

このセリフには、たとえば前回のうさぎの「クインベリルってさ、衛の
こと好きなんだよね。だったら、何であんなことするんだろう。ひどい
」というセリフが響き合っているし、「プリンセスが心をとるなら、
妾は命を……
」というセリフも木霊しているだろう。そして遠くAct.37
の「あの頃おまえは、すべての象徴だった。権力、富、幸せ、美しさ。
欲望を満たすすべてがそこにあった
」というセリフもまた。

そしてこのセリフには、プリンスとプリンセスが口づける様を目にして
狂おしく面を逸らす若き日のベリルの姿が被っている。クインベリルが
衛を語る際、常に「手に入れる」「自分のものになる」という言い回し
を用いることには注意が必要である。「愛されたい」とは一度も口にし
ていないのだ。

このことから、ベリルのエンディミオンに対する執着は、この二人の間
の二者関係に基づく感情ではなく、ベリル個人の内的な欠落を埋めると
いう動機に基づく、自己完結的な欲望ではないか
ということが予想され
るだろう。

クインベリルの頭髪が赤いのは、原作やアニメ版からの決め事であって
デザイン上のアクセントという以上のどんな意味があるのかはハッキリ
描かれていない。だが、この作品において彼女の若き日を描いた場面で
は、明確に「赤毛」として意味附けられているように思えてしまう。

欧米的な文脈では、赤毛とは「不器量な少女」のインデックスである。
過去世のベリルを演じているのはどうも有紗らしいので、「不器量」と
いうのは語弊があるだろうが、顔がぼかされているのは役者を隠すため
ではなく、おそらく、過去世のベリルは褒められた容姿ではないという
ほのめかしではないかと思う。

クインベリルにとってエンディミオンは手に入れるべき欲望の対象なの
である。「権力、富、幸せ、美しさ」という、ベリルが手に入れたいと
切望するものの象徴なのである。裏を返せば、それらは過去のベリルが
自分の手中にないと考えていたもの
だ。

彼女が欲望の対象として挙げたものは、すべて彼女がわが手にないこと
を嘆いていたものである。だとすれば、少なくともベリル本人の認識上
では、ベリルは権力も富も幸せももっていない不器量な少女だったので
ある。その欲望からしてすでに自身の欠落を埋めるために肥大した空疎
な妄執であり、徹頭徹尾ネガティブなものなのである。

ベリルが前世に囚われた者の極北に位置附けられるのは、今現在の衛を
わが手に収めたとしても「権力、富、幸せ、美しさ」など手に入らない

からである。今の衛は、前世のプリンスエンディミオンであると同時に
一介の青年地場衛でしかない。衛がそう切り返したように、それは単に
ベリルの妄想であるにすぎない。衛の心を手にしたところで、彼が地球
国のプリンスだった頃と同じような意味はない。

あの頃とは違う」といいながら、欲望の対象であるエンディミオンも
また「あの頃とは違う」ことに気附かない。衛の心を手に入れることは
それが叶わなかった過去の欠落を埋めるための代償行為にすぎないので
あり、だからまず衛を所有することが第一義となるのである。

それが愛ではないことは、あらためていうまでもない。

ダークキングダムにクインベリルとして蘇った何ものかは、だれを愛し
ているわけでもないし、愛されたいと望んでいるわけでもない。過去の
妄執にひたすら衝き動かされている哀れな欲望の亡霊である。

この場面のベリルの独語は、型どおりの悪玉の苛立ちとしてではなく、
哀れなる者の愁嘆として描かれているのであり、ラスボスのはずの彼女
からして前世に悩まされているからには、彼女を倒しただけではもはや
物語を円満に終えることができないだろう。

このような愁嘆に暮れるベリルの背後に、ジェダイトは己の存在を主張
することなく、優しく静かに傅くのである。

ジェダイト、別に用はないぞ。

ベリルさまをお慰めしたく。ただ、わたくしにはお側にいることぐらい
しかできません。お目触りなら消えます。

かまわぬ。

前回触れたジェダイトの回心とはどのようなものだったのか。その一端
は、この短い会話に端的に表れている。ベリルによって惑わされていた
時期の四天王たちは、ベリルの寵愛を競っていたのである。甘い囁きで
惑わす蠱惑的な美女から愛されたいと、功名を競っていたのである。

しかし、この場面のジェダイトは違う。愛されたいから側にいるのでは
なく、愛しているから側にいるのである。かつて自分を裏切った女を、
どうして赦せるのか。赦せないのは、見返りを求めるからであり、愛を
求めるからである。だが本当は、だれかを愛するということは愛される
こととは無関係
なのである。信頼や裏切りは、本来愛とは無関係なので
ある。

おそらくジェダイトはそれに気附いてしまったのだ。だれかを愛すると
いうことは、自分の気持ち一つ、それ以外の何ものとも無関係であると
いう事実に。

愛を要求するからこそ、愛されないことに憤るのである。信頼に応えて
ほしいからこそ、裏切りに瞋るのである。それは、相手を愛し信頼する
ことで相手を束縛する行為である。自分の気持ち一つに向き合うなら、
軽蔑も裏切りも、愛を曇らすものではない。

これに気附いてしまったのならすでにもうジェダイトを少年と呼ぶこと
はできない。彼はもう、立派な一人の男なのである。

無償の愛に殉ずる覚悟を固めた男は、もはや一人前である。ジェダイト
のこの姿勢は、欲望という得体の知れない欠落を満たすために他者の心
を所有しようと欲するベリルの姿勢とは対極にあるものである。

どんな見返りも求めない愛は惜しみなく与える愛であり、相手から貪る
妄執とはまったく極性が違う。驕慢なベリルが「少年」の青臭い忠義を
甘んじて受けようと思ったのは、愛を感得したからであろう。それは、
ベリルには馴染みのない感情である。

用はない」と叱責するベリルに対し、「お慰めしたく」とジェダイト
は応える。用を足す、役に立つというかたちではなく、ベリルの苦衷を
察しそれを「慰めたい」と望むこと、それは思い遣りであり愛である。

ベリルが現実的に望むことに荷担するのは功名と寵愛の遣り取りだが、
その心を思い遣り辛さを取り除いてやりたいと望むのは、何を引き替え
に与えてくれるわけでもないベリルに対して直接向き合うことであり、
それはこの二人の二者関係の問題である。

孤独と欠落を癒すためのベリルの手段は決定的に間違ったものであり、
本来その欠落を埋めるのは、何かを貪欲に手に入れようとすることでは
なく、心と心以外の何ものも介在しない、このような優しい二者関係で
あるはずなのだ。

そして、この二者の間に割って入るかたちで、決然とゾイサイトが入室
し、敵の前に跪くジェダイトに険しい視線をチラリとくれてから、自身
もまたベリルの前に膝を屈する。ゾイサイトもまた、ジェダイト同様に
だれかに対する無償の想い、心と心の二者関係のゆえに、ベリルの前に
跪くのである。

クインベリル。どうかマスターを助けていただきたい。わたしの命など
替わりになるはずもないが。もし聞き届けてもらえるならば。

死んでもよいと申すか。

それで済むなら、喜んで。

妾にはそのような忠誠心、一度も見せたことのないおまえがな。

プリンセスの命。それと引き替えなら、考えてもよい。

登場時からひねこびた変人として現れたゾイサイトは、洗脳されている
間もベリルに衷心からの誠意を見せることはなかった。比較的早い時期
に覚醒したあとは、当然ベリルに敵対こそすれ忠誠心などは望むべくも
ない話である。

このセリフで明確に対比されているように、ジェダイトのベリルに対す
る感情とゾイサイトの衛に対する感情は、見返りを求めない真心という
意味で同じもの
である。

そして、マスターの命と引き替えにわが命をとの申し出は、忠義の文脈
として揺るぎがない。己の一命を犠牲にしてもだれかの命を助けたいと
願うことは、嘘偽りのない真心の表出である。だが、ベリルはその嘆願
このように言い換える。「エンディミオンの最愛の人を殺せ」と。

これによって、ゾイサイトの申し出た「主の命かわが命か」という二者
択一は、豁然と軸がずれてくる。すなわち、マスターエンディミオンの
命か心か、そのどちらかを選べと迫られたのである。要するに駆け引き
の対価を値切られたのである。自分を犠牲にすることでエンディミオン
を活かそうというゾイサイトの売り掛けは、心か命か、そのどちらかと
値切られたのだ。

無論、主の最愛の人の命を奪うのだから、それが善意から発したもので
あれ、それは重大な裏切りには違いない。ゾイサイトがおめおめと生き
長らえることなどできない。いずれにせよ彼の命は亡いのである。

わが命に替えても、と申し出た際に彼の面輪に浮かんだ微笑みは、この
非情な駆け引きによって苦悩に歪む。しかし、だれの命とも引き替えに
できない最もたいせつなものこそ、エンディミオンの命である。死んで
花実が咲くものかとはだれでも考えることで、生きていればこそこの先
の目もある。

心か命かと迫られれば、咄嗟に命をとらざるを得ないのが人情である。
ゾイサイトもまた、この苦渋に盈ちた選択においては、だれでもが選ぶ
とおりの選択肢を選んだ。彼を責めることはだれにもできない。

肩を落としてほの暗い通路を辿り、「プリンセスの命……か」と独語ち
たゾイサイトの背後からクンツァイトが現れ、「イチかバチか」と危険
な賭に出てダークキングダムを脱出する決意を語る。ジェダイトに続き
クンツァイトもまた、己の生き様にケジメを附けんと決定的な挙に出る
のである。

復讐のためにか。

わたしには、それしかない。

四天王全員の恨みを体現するかのようなクンツァイトの復讐を留め得ず
空しく去りゆく背を見守るゾイサイトは、さらに追い詰められていく。

マスターを守れるのは、やはりわたし一人か……

四天王各自の去就が図らずしてゾイサイトを追い詰める、巧みな作劇で
ある。敵に傅くジェダイト、マスターを敵視するクンツァイト、そして
行方知れずのネフライト。呪いの石が刻一刻とマスターの命を削るこの
局面において、己を除く四天王全員がマスターの許を去ったのである。

ついにゾイサイトは覚悟を決め、ピアノの旋律によって、実に三十四話
ぶりに通算二体目の妖魔を生み出す。Act.35において美奈子と結託し、
うさぎの記憶を奪わんとしたときとは状況が違う。記憶が覚醒して後は
決してプリンセスの生命を直接狙うことがなかったゾイサイトが、つい
にプリンセス殺害の挙に出たのである。

プリンセスへの刺客として放たれた妖魔が、町中を散策するうさぎの前
に現れたところで、ゾイサイトと衛の会話にスイッチする。妖魔の傍ら
に出現して「悪いが命をもらう」と言い放ったゾイサイトは、この会話
が一繋がりの場面であることを考えると、一種の分身かスタンドアロー
ンの虚像
であったようだ。

ここでゾイサイトが現状に出向くことなく衛の部屋を訪れるのは、作劇
の都合という以上に劇的なリアリティをもっている。プリンセスを殺害
することにゾイサイトの望みがあるのではなく、マスターを想うがゆえ
に裏切りと識りつつそれを行うのだ。

その結果を見届けることよりも、マスターと共にありたいと望むのは、
ゾイサイトの真意であるとともに苦悩の選択からの逃避である。プリン
セス殺害という罪障の苦しみと迷いを断ち切り、ただ一人のたいせつな
人を見つめようとするのは、劇的リアリティとして自然である。

そして、事ここに至ってようやく寡黙な主は重い口を開き、オレたちが
聞きたいと切望していた事柄に対して自らの意志を表明するのである。
そしてそれは、十分に力強いものではあっても十分に適切なタイミング
ではなかった
のである。

クンツァイトが出ていった。

ここに来た影響かもな。ときどき感じる。

ベリルの呪縛を逃れるつもりです。

オレへの復讐のためか。

そういうものをすべて、クンツァイトは背負ったのかもしれません。

わたしは、マスターとともに。

これは悪くない収め方だろう。かねてよりクンツァイトの復讐の動機を
疑問視してきた当レビューではあるが、「そういうものを背負った」と
いう表現は、それが多かれ少なかれ四天王に共通する想いであることを
ほのめかしている。

無論、事実関係のレベルで考えればやはり不自然なのだが、そのような
視点を一旦閑却すれば、四天王全員に多かれ少なかれエンディミオンが
プリンセスを選び自分たちを見捨てたことを恨む気持ちがあるというの
は、リアリティのレベルは整合していないけれども、一種のリアリティ
を具えていることはたしかである。

後附けの言い換えとしては、これが精一杯だろう。クンツァイトは全員
のネガティブな感情を一身に代弁し、ゾイサイトは変わらぬ忠節を体現
する。一種の役割論にシフトしたわけである。事実関係のレベルでは、
どう取り繕いようもないのだから、これが選び得る限りの次善である。

その会話が続く間も、マスターを想うゾイサイトの必死さが乗り移った
妖魔は、一途にプリンセス抹殺に執念を燃やしてうさぎに迫る。それを
まったく識らぬ衛は、ゾイサイトの態度に不審を嗅ぎ取ったか、冒頭に
おけるゾイサイトの「なぜ」という問いかけに応えるかたちで話題を転
ずる。

オレがベリルとの取引を蹴ったこと、納得いかないみたいだな。

いえ。ただマスターには、何より命をたいせつにしていただきたいと。

このゾイサイトのセリフには、自分がマスターの心ではなく命を選んで
しまったことの辛さを噛み締める感情がこもっている。たいせつな人に
は命をたいせつにしてほしい。生き長らえてほしい。そのような、衷心
からの願いがこめられている。

だが、そんなゾイサイトの決断を識らない衛はその言葉に反駁する。

たいせつなものに、順番なんてない。何かのために犠牲にできるような
ものなら最初から大したものじゃないんだ。そりゃオレだって死にたく
ないけどな。でも、そのために棄てられるようなものも、もってない。

オレがここへ来たのも、そういうことだ。

ゾイサイトの脳裏に、四天王を質にとられて無抵抗のままベリルに下る
衛の姿がフラッシュバックする。命はもちろんたいせつだ。だが、それ
よりたいせつなものがあるのだし、彼がもっているのは、命に替えても
棄てられないたいせつなものばかりである。

それは四天王たちであり、うさぎである。

たいせつなものに順番なんてない。つまり、うさぎがたいせつであると
同じように、四天王もまた衛にとって掛け替えのないものなのである。
そう思えばこそ、最愛のうさぎを残してまで、今このようにしてこの場
に在る
のである。

うさぎか四天王か。命か心か。それは選ぶべきではないのだということ
である。そのために棄てられるものなど、「もってない」。その想いを
無にすることが、本当に主君を想うことなのか。主君があえて拒絶した
選択を臣下が勝手に横取りし無理強いすることが、本当にゾイサイトの
望む忠義のかたちなのか。

おまえだって、そういうものがあるだろう。

わたしは…

それは棄てるべきじゃない

そう言い放って瞑目する衛。だが、衛はその言葉で決定的にゾイサイト
を追い詰めてしまったことを識らない。エンディミオン一人の命を選択
したばかりに、その想いもたいせつな人も、すべて犠牲にしようとした
ゾイサイトの行為は、主君の想いと遠く懸け離れていたのである。それ
無名の裏切りにすぎない。

心か命かと問われ命を選んでしまった男に対して、たいせつに想うもの
は棄てるべきではない、何かの犠牲にすべきではないと当の本人が言明
する。あれかこれかという究極の選択において、どちらかをどちらかの
犠牲にすべきではない
という信念が、ここに表明されたのである。

遡って、前回ラストの破約は命に比べて心が大事だから約束を破ったと
いうことではなく、命のために心を犠牲にすべきではないから破ったの
だということだ。「いま少しだけいっしょにいてやりたい」という些細
な想いがたいせつだからこそ、命か心かという二項を閑却したのだ。

さらには、うさぎか四天王かという場面において、どちらを犠牲にする
ことも許せないからこそ、四天王を想うがゆえにベリルに下り、うさぎ
を想うがゆえにベリルの約束を反古にしたのである。

うさぎか四天王か。命か心か。衛はそのどちらを選択するのか。すべき
なのか。これは設問の立て方が転倒していたのだ。

だとすればゾイサイトもまた、命のために心を犠牲にすべきではなかっ
たのである。そんな取引を呑むべきではなかったということである。そ
のような基準に基づいて二項を立てるベリルに同意してはいけなかった
のである。なぜなら、マスターの心を犠牲にすることはゾイサイト自身
の心をも殺すこと
だからである。

うさぎと四天王、命と心のどちらをも、主体的な信念の許に断固として
選ばなかった衛の命が結果的に危機に晒されるのであるなら、その主の
信念にこそ殉じ、楯となるのが真の忠節だったのだ。

かくして衛は、Act.32の覚醒の瞬間と同様に、断固として道を示した。
ゾイサイトにとってその道は、あまりにも明瞭なへと続いていたので
はあるが。

冒頭で挙げた「信念の表明」がほんの少しだけ遅すぎたばかりに、ゾイ
サイトは後戻りできない過ちに手を染めてしまったのだ。ゾイサイトの
最期を語る今回のエピソードは、このような周到な計算に基づいてゾイ
サイトを追い詰める。

うさぎのピンチに駆け附けた他の戦士たちとともに、ゾイサイトの差し
向けた妖魔と闘う最中、うさぎの前に最強妖魔が現れる。挑発的に差し
招く最強妖魔を深追いしたうさぎは、手もなくふたたびピンチに陥る。

そのピンチを救ったのは、ゾイサイトであった。うさぎの背後から振り
降ろされた剣を無言で支えたゾイサイトは、しかし呆気なく妖魔の棘に
貫かれて倒れ伏す。最後の気力を振り絞って放ったゾイサイトの斬撃を
躱すと、最強妖魔はあっさりと引き下がった。まるでゾイサイトを亡き
者とすることがその目的であったかのように

草原に屹立する丈高い樹の根に仗り、ゾイサイトはその命を奪おうとし
たうさぎに看取られながら最期のアリアを嫋々と謳い上げる。この場面
のロケーションは、生のいきれが漂う盛夏の草原から冷たいくらい清々
しい蒼穹に吸い込まれるように一筋そそり立った立木が、悲劇の忠臣の
孤高の生き様・死に様を象徴して見事の一言に尽きる。

プリンセス、許してほしい。あなたの命をねらったことを。マスターへ
の、裏切りだ。

忘れては、いけなかったのだ。わたしの、何ものにも代え難い、想い。
いかなるときも、マスターと、ともに。

クンツァイト、ネフライト、ジェダイト。もう一度、マスターの許へ。

虚空に両手を差し伸べゾイサイトの奏でる「別れの曲」は、ジェダイト
の、ネフライトの、クンツァイトの、エンディミオンの耳に、かつての
素晴らしい日々の記憶を喚起しながら、届く。

ベリルに傅くジェダイトの、無心にクラウンの床を磨くネフライトの、
不可思議な儀式に臨むクンツァイトの胸に、まぼろしのピアノの旋律が
官能的に響き渡る。「別れの曲」の俗っぽさが、卑俗な選曲であるその
ゆえの力強さをもって、この場にあるすべての人に語りかける。

このシーンは、こんなに遠くまで来てしまった男たちの分かれ道を簡潔
に素描して余すところがない。遺された男たちは、もはや疑念を容れる
余地のないたしかな絆に結ばれたイノセントな遠い過去の日々へと帰る
べくもない、別々の途を歩いてしまっているのだ。

叶わぬ夢と識りながら、己のたいせつな想いを楽の音に乗せて放つゾイ
サイトの末期は言い様のない寂寥感を湛えている。

以前ヴィーナスに不意打ちを喰らったときと同じく、緑色の石へと姿を
変えたのち、呆気なくひび割れ光の欠片となってうさぎの掌から命の炎
を零れ落とすゾイサイト。一旦石に姿を変えることで視聴者の脳裏に儚
い再生の望みをつなぎ、それがあっさりとひび割れて消えるというこの
描写は、視聴者にゾイサイトの死を鮮烈に印象附ける表現としてシビレ
るくらい効いている。

そして、ゾイサイトの末期を看取るのがうさぎであり、ゾイサイトの変
じた石を両の掌に受ける描写は、白い手袋に包まれた優しい女性の赦し
の手に抱かれて死ぬという、神話的な官能性を図らずも具えている。

これは最高の死に花だ。

最前語った少女たちの抗争の論旨を想い出してほしい。まこちゃんも、
ゾイサイトも、ともに「犯した過ちに気附く」という、同じ構造をもつ
ドラマを抱えている。だが、まこちゃんの「一人でいいんだ」「それは
前世から決まっていたこと
」と比べて、ゾイサイトに突き附けられた、
「命か心か」という二者択一の逃げ場のない緊密さはどうだろう。一つ
一つ逃げ道を塞いでいくような冷酷かつ周到に計算された語り口の巧み
さは、「わたしが間違ってました」式の雑駁さとは比較にならない。

「命か心か」の場面において、不本意ながら命を選ばざるを得なかった
ゾイサイトの選択を手放しで責められる者があるだろうか。さらにその
絶対究極の二者択一をも軽々と飛越するとともに最終的にゾイサイトを
追い詰める衛の言葉のもつ迫真性、タイミングの妙はどうだろう。

究極の二者択一の場面においてそのどちらも選ばないというのは、小林
靖子的な作劇においては一つ節である。しかし、一頃流行った「究極の
選択」的命題に対して、そのどちらでもない第三の解答を提示する能力
を具えることが、人間という生き物の「とりえ」なのである。

これを白倉はその著書において「justice 」という言葉で括る。社会的
な公正さの観点で抜け道のない絶対の二者択一を選択することこそが、
現代正義論の文脈における「justice 」であり、それに答を見出せた者
こそヒーローであるとする。しかし、この現代正義を語る一連における
白倉の論理は、かなり胡散臭く混濁している

白倉自身がスーパーヒーローの資格として最初に挙げた二者択一の超越
というテーマはなぜかその後いっさい言及されない。その後の論理展開
では「ヒーローとは二者択一を断固として選択し得る者」という最初の
例とはまったく逆の前提に立脚している。

しかし、本来的にはスーパーヒーローとは絶対の二者択一を超越する者
であるという部分にこそ重点が置かれるべきであって、古来、ヒーロー
物語を語る場面における困難は、この絶対の二者択一の設定と、それを
いかにして超越するかという智慧にあるのだ、という認識が欠け落ちて
いるのである。

人間の歴史はたしかに「あれかこれか」の絶対の二者択一を非情に選択
することによって動いてきた。だがその一方で、歴史にはそうではない
側面もたしかに存在するのである。非情な二者択一の設問に対し、第三
の途を提示すること。数少ない事例ではあれ、人間の歴史は常に第三の
途を模索する姿勢によって少しずつマシなものになってきている

ヒーロー物語が現実に対してもつリアリティとは、この絶対の二者択一
の迫真性と、それを飛越する智慧の説得力のバランスのうえに成り立つ
ものなのである。グッと気合いを入れれば「限界突破」、というお手軽
な解決が忌避されるのは、ヒーロー物語を望む者が、現実の非情さに抗
し得る力が人間にあることを信じたいと潜在的に願っているからであり
それを信じさせてくれる力をヒーロー物語に期待しているからである。

すなわち、物語におけるヒーローとは、絶対の二者択一を単に飛越する
に留まらず、その可能性を受け手に信じさせる力をもつ者なのである。

それがたとえスーパーヒーローの超能力による解決であれ、彼が彼固有
の限界のなかで智慧を働かせダブルバインドを克服するプロセスには、
ただの非力な人間にすぎない者にさえ、固有の限界のなかで現実の非情
さを飛越し得る可能性を示唆している。

それを信じることは、プラグマティックな意味で正しい。そして、白倉
の決定的な錯誤とは、ヒーロー物語が具体的な意味での正義に立脚して
いるとする認識である。ヒーロー物語は、正義それ自体ではなく、自身
の正義に対する「姿勢」を提示する文芸
なのである。

ヒーロー物語における正義の観念が当たり触りのない紋切り型なのは、
正義それ自体は具体的観念として提示すべき事柄ではないからである。
感覚的に受け入れ得る凡庸な正義しか扱われないのは、正義が「なんと
なく」印象で決まるものだからではない。物語において正義を扱う場面
で、送り手の個人的信条や思想として積極的に意味附けずに扱えるから
にすぎない。

正義それ自体を具体的に規定し主張する物語など、寡聞にして「桃太郎
海の神兵
」やそれに類するもの以外、オレは目にしたことがない。

言ってる意味、わかるよな?(木亥火暴!!)

白倉の論述は利己的遺伝子論という「おもしろいフィクション」と選ぶ
ところのない虚論である。その論理が不自然に混濁しているのは、普通
一般のヒーロー物語が当たり前に具えている構造を、存在しないもの、
欠落を批判さるべきものとして語ろうとしたゆえである。

その意味において、小林靖子の一つ節であり、今回のエピソードの重要
な転回点を成す衛の信念の表明は、不幸にして白倉的作劇思想と関連性
をもってしまった。

オレたちは、事ここに至っても未だ成立し得る精緻なドラマに喝采を贈
りながらも、いずれその感動が裏切られる悲劇を目の当たりにしなけれ
ばならないのである。

最後に、ゾイサイトをこのような魅力的な役柄に変えたいちばんの功労
者である遠藤嘉人の労を労って本稿を終えるとしよう。小林靖子の常套
的な手法である役者の芝居に合わせて役柄に肉附けしていくやり方が、
最もプラスの方向に働いたのがゾイサイトの事例だろう。

一介の演技素人であった遠藤嘉人が、当初この役柄を演じるに当たって
与えられたイメージはネガティブなものでしかなかった
。遠藤自身の特
技を織り込んだ「芸術家」という設定以外は、いわく「不健康」「引き
こもり」「根暗」と、散々なものであった。

これはおそらく、パイロット監督の田崎や小林にも具体的なゾイサイト
像がなかったからであろう。思えばゾイサイトは、アニメ版でこそ中盤
の幹部役としてキャラが立ってはいたが、原作では戦士の目覚めに絡め
て瞬殺される雑魚キャラ
にすぎず、霊的存在として四天王が再登場した
際も、クンツァイト以外はその他大勢の扱いであった。

また、CV難波圭一の怪演によってキャラが立っていたアニメ版でも、
クンツァイトにイレ上げるオネェ言葉のオカマとして、女のいやらしい
部分を誇張した滑稽なキャラ
に描かれていた。このゾイサイト像が地球
国四天王を魔に魅入られた神聖騎士団的なロマンティックなイメージで
視ている原作者の容れるところではないのは明白である。

同じく原作における描写の稀薄なジェダイトやネフライトについては、
一般的な「美少年」「美青年」というわかりやすい位置附けが可能だが
ゾイサイトに関してはこのようなわかりやすいキーワードがない。

つまりゾイサイトという存在は、アニメ版を通じて「なんとなくキモい
キャラ」という漠然としたパブリックイメージを抱かれながら、アニメ
版どおりに描くことはできない面倒なキャラクターであった。

登場当時「何を考えているかわからないブキミなキャラ」として描かれ
たのは、要するにいくつかのキーワードから導き出された「なんとなく
キモい」という表面的なイメージだけを頼りに、表面的触感だけが描か
れたキャラクター
だからである。

そのような意匠のみのキャラとして一旦死んだゾイサイトは、中の人の
いわく「このままじゃいかん」という一念発起によって徹底的に肉附け
される。脚本を書く者も演出する者も、だれ一人として表面的な意匠と
いう以上のイメージをもっていなかったキャラを、演者が自身のなかで
勝手に肉附けし始めたわけである。

おそらくこれを、演技経験の豊富ないわゆる怪優の類が演じたのなら、
このような発展は遂げなかっただろう。ベテランの演技者は、表層のみ
で演じることも可能
だからであり、映像作品においてはそのような表層
しかないキャラクターが必要とされる場面もあるからである。

しかし、幸いなことに小林靖子のドラマにおいては、ノーアイディアの
部分を演技者が埋める余地がある。演技者が生き始めたキャラクターを
活かす柔軟性がある。この、いわゆる小林脚本における当て書きについ
て話し出すと長くなるので、ゾイサイトの場合には効果的に働いた手法
が、なにゆえレイちゃんやまこちゃんの描写においては奏功しなかった
かは、別稿に譲る。

結果として、表層以外は空っぽだった虚ろなキャラクターは、物語世界
を熱く生き始めることになる。遠藤自身が公式サイトで陳べているよう
に、前半でゾイサイトが一旦退場したことが、仕切り直しの契機として
うまく働いたこともあるだろう。しかしやはり、それをきっかけにして
遠藤が空っぽの役柄の内面を自身の想像力で埋めたことが、孤高の楽人
を熱い情熱の人に変えたのである。

そうしたやり方が常にうまくいくとは限らない。先ほど陳べたように、
役者を動かす者が確固たる思惑の下に表層しか求めていない場合には、
演技者による下手な肉附けはマイナスにしか働かない。その場合に求め
られているのは、体術としての演技であり佇まいという味でありキャラ
を表層だけで保たせられる磨き抜かれた勘働きなのだから。

しかし、この物語におけるゾイサイトは、出発点において単に空っぽで
あったというにすぎない。このキャラクターがどのように動き出すか、
だれ一人として明確なアイディアをもっていなかった。それを遠藤自身
が創ってもいいのだという閃きを得たこと
が、ゾイサイトというキャラ
にとって幸いだったのである。

小林靖子が「ゾイちゃんは遠藤君が作りあげたようなものだ」と語った
のは、別段世辞の類ではないだろう。筋書き上の役割はともかくとして
キャラクターの内面については、まったく制作者側はノーアイディアで
あったはずだ。役者自身が役柄を生き始めたことが書き手に閃きを与え
おおまかな筋書きに血肉を与えドラマを語る素地を与えたのである。

ヴィーナスによってもたらされた一度目の死を契機に、作り物にすぎな
いゾイサイトという人物の生を遠藤嘉人が真に受けることがなかったの
なら、少なくともこのような最良のかたちでゾイサイトのドラマが完結
することはなかっただろう。

遠藤嘉人よ、安んじてゾイサイトとして生きたかりそめの生を忘れ自身
の生をほしいままに生きるがいい。

生き証人であるオレたちが、しかとこの伝説を後世に語り継ぐから

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